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中村城/高知県四万十市

中村城は土佐国司・一条氏の居城でした。
訪問日は2018年8月6日です。

中村城【1】
①中ノ森跡

中村城は為松公園として整備されています。
四万十市中心部にあり、きれいな駐車場が何面もあります。
今回も貸し切りですあせる

中村城【2】
①中ノ森跡にある案内図 拡大表示

車を停めたのは、一番北にある中ノ森跡です。
この駐車場に、為松公園の案内図があります。
図は北が左になっており、駐車場のすぐ下に堀切が描かれています。
訪問前にもその認識でしたが、それらしいものは見当たりませんでした。

中村城【3】
②遊歩道

北の端っこから、歩いて城内を散策しました。
車道とは別に、こんな感じの遊歩道もあります。
こちらの方が色々見られそうに感じました。

中村城【4】
③為松城の城塁

南へ進むと、明らかな段差が現れます。
コンクリートの道が無ければもうちょっと感動したかもですが・・・

中村城【5】
③為松城の説明板

主郭とされる為松城(たんまつじょう)です。
「為松」は、一条氏をこの地に迎えた国人の名です。
元々は為松氏の居城で、一条氏下向後は家老になっています。

中村城【6】
③為松城の説明板 拡大表示

ここにも素晴らしい図があったので、拝借します。
当日もこの図を目撃したハズなのですが・・・
北側の破線部分を認識したのは今日ですw
駐車場脇の堀切は、この破線の内側に描かれています。
現在は存在しないものを一生懸命探していたようですあせる

中村城【7】
④堀切

為松城からさらに南へ進むと、不自然な交差点に出ます。
道は切通し状の土の切れ目を通っていますが、切通しの鋭さはなし。

中村城【8】
④堀切

さらに、同じ場所から下に向かう歩道があります。
この歩道、城キチなら堀底道に見えますよね?
そう、ここは二ノ丸北側の堀切だったんです。
山中で見るほどの感動はありませんが・・・

中村城【9】
④重機虎口

進んで来た道の真正面も、土が切れています。
ここはガッツリやっちゃった系の重機虎口です。

中村城【10】
⑤模擬天守

土塁の内側が二の丸です。
縄張図見た時から感じていた事ですが、曲輪の表現バラバラです。
この建物は郷土博物館で、犬山城天守を模しているそうです。
犬山城、模擬天守仲間では超人気ですw

中村城【11】
⑤土塁

二の丸を囲む土塁です。
他の箇所にもあるはありますが、目立ちません。
やはり、時代によって城主様の個性が出るのでしょうか。

中村城【12】
⑥堀切

中ノ森から続いた裏道は、二の丸でおしまいです。
表の道へ出たココは、かなり大きな堀切です。
中村城の現代の道は、堀底を利用しているようです。

中村城【13】
⑥城址碑

堀切脇に、何かの案内図と城址碑があります。
その背後に、立派な石垣がありますラブラブ

中村城【14】
⑦桜ノ段裏の切通し

あとは、何かが気になって訪ねた桜ノ段の裏です。
桜ノ段の前は、かなり大規模な堀切でした。
地形的には為松城から二の丸と桜ノ段に二股に分かれる感じです。
桜ノ段の背後には、立入禁止の道が1本あります。
この切通し、堀切だったのかどうかが?です。
縄張図では、こちら側が枠外になっていました。
桜ノ段も、曲輪だったという説明が特に見当たりません。
現在は桜の木が沢山植えられ、花見の名所になっているそうです。
何も無かったとは考えにくい場所ではありますが・・・

【位置・再】中村城


◆歴史◆

土佐の国人・為松氏の城だったと考えられています。

中村城は、元々は土佐の国人・為松氏の城でした。
と言うよりも、小さな城の集合体を「中村城」と総称しています。
・・・と、某大聖典には書かれています(今知ってビックリw)
一条氏を招いた後どこ行っちゃったんだろう?なんて思ってました。
主郭だと思っていた為松城は、一条氏を迎えた後も為松氏の城でした。

1468年、一条教房が土佐に下向しました。

一条家は在京の公家で、摂政・関白・太政大臣を輩出する家柄でした。
一条教房自身も1457年に左大臣、1453年に関白に就任していました。
1463年に京がきな臭くなり、関白を辞して奈良へ避難します。
その後、父・一条兼良も逃れて来たため、荘園のある土佐へ移りました。
戦からの避難の他、相次ぐ荘園の横領を防ぐためともされます。
一条教房は北の麓の中村御所に入り、詰城として整備したとされます。
それが桜ノ段だったと、某大聖典には書かれています。
・・・せっかく持ってるんだから、訪ねる前に読むべきでした_| ̄|~○

一条家

その後は土佐国司・一条氏の居城となります。
土佐七雄の中では抜きん出た存在として君臨します。
土佐一条家は、京の一条家とのつながりを維持しました。
一条兼良の長男が土佐に行ってしまったため、23男の弟が継いでいます。
兄との年齢差が40歳以上あった実弟だそうで、、、w
弟には後継ぎが出来なかったため、兄の孫を養子に迎えています。
年齢差が年齢差なので、兄の孫と同年代かもしれませんが・・・
それが土佐一条氏3代目の弟・一条房通で、関白にまで昇り詰めています。
一条房通は、甥の一条房基の代に土佐に来たことがあります。
その際、幼年で家督を継いだ一条房基の後見として当主代行もしています。

1574年、一条兼定が豊後へ追放されました。

1569年か1572年頃、一条兼定が筆頭家老・土居宗珊を殺しました。
土居宗珊は土佐一条氏初代・一条教房の子で、すぐ北の今城城主でした。
『土佐物語』では、素行を諫言され逆ギレしたと書かれているそうです。
後の一条兼定は信心深いキリシタンだったと、宣教師は記しています。
恐らく、何らかの謀略に巻き込まれたものと推測します。
残った3人の家老の合議により、一条兼定を隠居させることに決定。
身柄を正室の実家である豊後・大友家に送ることとなりました。
ここから土佐一条家の没落が始まります。

1575年、吉良親貞が城主となります。

一条兼定が隠居させられると、その嫡男・一条内政が家督を継ぎました。
まだ10歳前後だったため、本家の一条内基が烏帽子親となりました。
この一条内基、当時すでに正二位ですが、後に関白となる大物公卿です。
幼い土佐一条家当主の後見として、しばらく中村に留まっています。
一方、一条家中では主君を追放した家老達に逆風が吹き荒れます。
国侍の加久見左衛門が同志を募り、中村城を襲撃。
急襲を受けた家老の羽生道成と安並直敏は、襲撃兵に討ち取られました。
為松若狭守は鍋島城に籠ったものの、劣勢を覆すことが出来ず自害します。
この騒乱を機に、長宗我部元親は一条内政を大津城へ移します。
大津城は岡豊城のすぐ南にあり、目の届く所に囲い込まれた形となります。
中村城には、長宗我部元親の弟・吉良親貞が入りました。
吉良親貞は謀略にも長けた勇将で、一連の黒幕と考えられています。

同年、豊後に追放されていた一条兼定が、伊予で兵を募り逆襲しました。
進軍するにつれ、一条家旧臣らが集まり3500の兵力となりました。
一条兼定侵攻の知らせを受け、長宗我部元親が迎え撃ちます。
わずか3日で倍以上の7300の兵力を整え、四万十川東岸に着陣。
一領具足は武具を常に持ち歩く農民なので、こんな離れ業をやってのけます。
長宗我部軍は圧倒的兵力差で、1日で一条軍を撃破。
一条兼定を討ち漏らしますが、一条家に従う勢力を一掃しました。

それでも長宗我部元親は、一条内政を傀儡として担ぎます。
しかし5年後の1580年、波川玄蕃の謀反を利用し一条内政を追放。
一条内政は、追放された先の伊予で直後に急死します。
一条内政と長宗我部元親の娘の子がその後継ぎとして担がれますが・・・
世間的には一条政親と呼ばれていますが、実名は不明なままです。
こうして、土佐一条家が続きますが、かつての国司の面影は無くなります。

1589年、吉良親実が自害します。

吉良親貞は1576年に没し、子の吉良親実が家督を継ぎました。
吉良親実も父に劣らず智勇に優れ、一門として家中に重きを為しました。
しかし、1587年の九州征伐を境に転落が始まります。
日向方面軍に配属された長宗我部軍は、戸次川の戦で島津軍に大敗。
この敗戦で、長宗我部家は後継ぎの長宗我部信親を失いました。
父・長宗我部元親の失望はかなり大きなもので、以後、覇気を失います。
後継者筆頭を失い、次は誰なのかを巡って家中で派閥争いが始まります。
豊臣秀吉は次男の香川親和を指名し、吉良親実も推しました。
しかし、長宗我部元親は他家を継いだ者だとして拒否。
三男の津野親忠に至っては、久武親直の讒言で居場所を失いました。
長宗我部元親は、まだ幼い四男・千熊丸(長宗我部盛親)を後継者に指名。
吉良親実は長幼の序を説き、何度も伯父を説得しようとしました。
しかし、推していた香川親和は間もなく病になり、1587年に死去。
吉良親実は比江山親興とほぼ同じ時期に切腹を命じられます。

1601年、山内康豊が城主となりました。

関ヶ原の戦で長宗我部盛親が西軍に加担したため、改易処分となりました。
代わって、土佐一国が山内一豊に与えられますが・・・
長宗我部旧臣が蜂起し、山内一豊の土佐入国を阻みます。
長宗我部旧臣は浦戸城に籠城し、抵抗は年明けまで続きました。
浦戸城内の対立から一領具足側が城を追い出され殲滅。
ようやく浦戸城の接収が完了しました。
中村城には、山内一豊の弟・山内康豊が城主として入りました。
1605年に山内一豊が没すると、山内康豊の子・忠義が土佐藩主となります。
しかし、まだ中坊の年代だったため、山内康豊が2年後見役を務めました。
1615年に江戸幕府から一国一城令が出され、中村城は廃城となります。

山内康豊の中村藩2万石は、幕府からは正式な藩とは認められませんでした。
江戸時代中期にも、中村周辺3万石の中村藩が出来ました。
こちらは幕府公認でしたが、藩庁がどこだったのかが???です。
中村城跡にあった可能性もありますが・・・

第二期の中村藩は、3代目の山内豊明が将軍・徳川綱吉の寵愛を受けました。
そのため異例の出世を遂げ若年寄まで昇進しましたが・・・
その年に病のため、目も見えず耳も聞こえないため辞職を願い出ました。
しかし、これが「不敵だ」と徳川綱吉の逆鱗に触れ、改易処分を食らいます。
犬公方様、家臣にはちょっと厳し過ぎw


所在地:高知県四万十市丸の内(為松公園) GPSログダウンロードページ

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宿毛城/高知県宿毛市

宿毛城は、川沿いにあった石垣のある城でした。
訪問日は2018年8月6日です。

宿毛城【1】

道の反対側から見た宿毛城です。
河川敷の駐車場を利用し城攻め開始!

宿毛城【2】
説明板を表示

城跡は石鎚神社となっており、入口に鳥居と説明板があります。
表から見える石垣は、お城のものではなさそうです。
ちなみに、奥に見える城址碑には「松田城」と彫られています。

宿毛城【3】
①登城路 説明板を表示

石段の上からは、時計回りに道があります。
神社の参道っぽいですが、お城の頃からあった道でしょうか。
周囲は切り立っているので、他に道は無さそうです。

宿毛城【4】
②南側の石垣

参道沿いに石垣が見られます。
雰囲気的にお城のもののようです。

宿毛城【5】
③石鎚神社

参道を上り切ると、平らな場所に出ます。
奥には神社が見えますが、ちょっと荒れてますクローバー

宿毛城【6】
④社殿背後の石垣

社殿左脇を奥へ進むと、こちらにも石垣があります。

宿毛城【7】
⑤社殿背後の石垣

ここの石垣が一番の見所で、長さ24メートル、高さは5メートルあります。

宿毛城【8】
⑥社殿背後の石垣

せっかくなので、先端まで攻めてみました。
普段人が歩く場所ではないので、草木に埋もれています。
辛うじて角が見えますが、算木積みの原型でしょうか?
少しだけですが、互い違いに積まれているように見えます。

宿毛城【9】
⑦社殿背後の北東側

北西側は、噂通りの見事な石垣でした。
そう言われると大抵の人は北西だけ見ますが、私は天邪鬼。
誰も紹介していないだけで、こっちにも石垣あるか?と攻めました。
北東側は特に石垣は見当たらず。
無かったのか、埋もれたのかは?です。

宿毛城【10】
⑧石段脇の石垣

ひと通り見たので、本日の城巡り終了!
車に戻ろうと、社殿正面の石段を下りました。
左脇が気になり斜面へ分け入ると、ここにも石垣がありました。
近世のものではありませんが、積み方がちょっと荒いような気が・・・
お城のものかもしれませんし、そうでないかもしれません。
城キチは、石が積まれているととりあえずカメラを構える習性があります。

【位置・再】宿毛城


◆歴史◆

松田兵庫の城でした。

松田兵庫については、城主としてその名が伝わるのみです。
いつの時代の人物かすら???ですあせる
依岡伯耆守より前なので、一条氏が土佐に下向する前だと思われます。
あとは勝手に想像するしかないのですが・・・
「松田氏」というと、相模国の武家を思い出します。
鎌倉時代に土佐に領地を得て下向した???のかもしれません。

1575年、長宗我部軍に攻められた時の城主は依岡伯耆守でした。

依岡伯耆守は土佐国司・一条氏に従っていたとされます。
土佐一条氏は、応仁の乱の戦乱を避けるため1468年に下向しました。
一条氏の幡多郡の領地は、在地土豪による押領に悩まされていました。
また、土佐守護・細川政元が1507年に暗殺され、守護側勢力も衰えました。
もしかしたら、一条氏により宿毛も攻められたかも???しれません。

宿毛城主として伝わるのは依岡伯耆守ですが・・・
一条家臣として有名なのは、依岡左京進です。
依岡右京進という人物もいますが、同一人物説もあります。
宿毛市南部の伊与野城主と伝わります。
1573年、一条兼定が無実の筆頭家老を殺し、家臣団から隠居させられます。
さらに、年が明けると一条兼定は豊後へ追放されました。
これには一条家臣団内部で対立が激化し、武力衝突に発展。
長宗我部元親は、その鎮圧の名目で一条氏の本拠・中村を制圧しました。
この時、一条家臣は先を争うように長宗我部軍に内応したとされます。
依岡伯耆守についてはググってもほぼ何も出てきませんが・・・
わかっている事は、長宗我部軍には降らずに抵抗し、討死しています。
一方、依岡左京進は長宗我部軍に降り、抵抗する一条家臣を攻めました。
依岡左京進のWikipediaでは、降らなかった一族を攻めたと書かれています。
一条氏勢力の掃討後、長宗我部元親から500町の領地を与えられます。

長宗我部右衛門太夫が城主となります。

長宗我部右衛門太夫って誰だろう?と思ったら、長宗我部国康の子でした。
長宗我部国康は長宗我部国親の弟なので、長宗我部元親とは従兄弟です。
「一族」なんて書かれると、もっと遠い親戚みたく感じますよね?
ただ、宿毛城主ではありますが、あちこちの城主でもあったようです。
長宗我部右衛門太夫は後に戸波城主となり、戸波親武と名乗ります。
戸波城の方がずっと高知寄りなので、そっちが先だと思いますが・・・
宿毛城を与えられた時にも、まだ右衛門太夫と呼ばれていたのかも???
戸波親武は、阿波に進出した従兄弟から十河城も任されています。
羽柴秀吉による四国征伐後も、戸波城主だったようです。

戸波親武は1589年に没し、戸波親清が家督を継ぎました。
長宗我部右衛門太夫の子として、宿毛甚左衛門の名が伝わります。
詳細不詳の人物ですが、戸波親清の兄弟の可能性大です。
宿毛甚左衛門は1615年の大坂の陣の後、藤堂高虎に仕えています。
戸波親清も藤堂高虎に仕えていて、剣術指南となっています。
やっぱり兄弟じゃないか???と思います。

1601年、山内可氏が城主となりました。

長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍についたため、改易されました。
土佐一国が山内一豊に与えられ、山内可氏が宿毛城主となりました。
山内可氏は、山内一豊の姉の子です。
宿毛山内家は土佐藩家老を務め、代々宿毛を治めました。
城は1615年の一国一城令で廃城となりますが、麓に土居が築かれます。
明治時代になると伊賀姓に改め、東京へ移ったそうです。


所在地:高知県宿毛市中央2丁目

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波川玄蕃城/高知県いの町

波川玄蕃城は、山頂に築かれた小さな山城でした。
訪問日は2018年8月6日です。

波川玄蕃城【1】

城は小さいですが、麓には案内があります。
かなりザックリですがw

波川玄蕃城【2】

案内に従い、こんな道を登ります。

波川玄蕃城【3】

道は狭いですが、山頂まで舗装道が続いています。
ここは帯曲輪状の二郭です。

波川玄蕃城【4】

二郭に車を停めて、ぐるっと回りこむ感じで上がります。
土の壁の切れ間から、説明板と城址碑とアンテナが見えます。
ここが主郭です。

波川玄蕃城【5】

主郭はグルっと土塁で囲まれています。
アンテナが造られていますが、保存状態は良いそうです。

波川玄蕃城【6】

小さな主郭ですが、虎口は2つありました。
こちらが北側の虎口。

波川玄蕃城【7】

フェンスに隠れているのが南側の虎口です。
上がって来た所は、土塁を壊しちゃったみたいです。


◆歴史◆

波川清宗の城でした。

波川氏は蘇我氏の子孫で、鎌倉時代に土佐に下向したと伝わります。
長宗我部国親とともに本山茂辰と対抗。
1559年頃にその娘を正室に迎え、側近として活躍したそうです。
1574年の一条兼定追放に功があり、山路城を与えられます。
(山路城は一条氏の本拠・中村城からすぐ南の川の対岸にありました)
ここまでは順調だったのですが・・・

同年、伊予の大野直之が長宗我部元親と内通。
それがバレていまい、河野通直が大野直之を討伐しました。
長宗我部元親は波川清宗を救出に向かわせますが・・・
河野方には、毛利軍本隊が援軍として駆け付けていました。
波川清宗は勝手に和議を結んで土佐へ撤退。
長宗我部元親は波川清宗から山路城を取り上げ、蟄居を命じました。

・・・大ザッパにはこうですが、大野直之サン何度も裏切りますw
なので、波川清宗が失脚した時期がサイト様によりまちまちですあせる

早い所では1574年、一番遅い所で1579年です。
波川清宗は大野直之を見殺しにした、とあちこちで書かれていますが・・・
かなりのしたたか者で、何度も河野家を裏切りながら生き延びます。
アイツならきっと大丈夫!
何か裏で通じるものがあっての撤退だったのか?なんて思えたりもします。

1580年、廃城となりました。

蟄居中の波川清宗が不満を募らせ、謀反を企みました。
しかし、賛同する者が現れないままバレてしまいます。
波川清宗は剃髪した上で阿波国海部郡まで逃げ延びます。
しかし、頼った先の香宗我部親泰に許されず自害させられました。
長宗我部元親は、波川清宗だけでなく一族も討伐しました。
波川清宗の嫡男・波川清秀を大将に鎌田城に籠城。
長宗我部軍3千人に攻められ、一族のほとんどが討死しました。

波川玄蕃城には波川清宗の正室・養甫尼が居ました。
養甫尼は長宗我部元親の妹だったため、城は攻められませんでした。
発掘調査でも、焼けた跡は見つかっていないそうです。
波川一族滅亡後、養甫尼は出家して土佐郡成山村に隠棲しました。

尚、波川清宗の謀反で巻き添えを食った方が約2名いらっしゃいます。
1人は一条内政で、伊予に追放された直後に急死しています。
織田信長に一条内政の家臣扱いされたのが不満だったなんて説があります。

もう1人は、波川清宗の娘婿・北ノ川親安です。
元・西園寺十五将の1人で、長宗我部軍に降伏して家臣となっていました。
舅が謀叛を起こした際、長宗我部元親に起請文を出しました。
しかし、長宗我部元親は一蹴し、1583年に攻め滅ぼされています。


所在地:高知県吾川郡いの町波川

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朝倉城/高知市

朝倉城は土佐の傑物・本山茂宗により築かれました。
訪問日は2018年8月6日です。

朝倉城【1】

登城ルートはいくつか候補を立てましたが、東側から攻めました。
集落の細い道を進み、公民館に辿り着けばokです。

朝倉城【2】
拡大表示

上の写真に写っている朝倉城の図です。
この図の所で右折します。

朝倉城【3】①

図の所からズンズン進み、未舗装に変わる所が東の登城口です。
車は路肩に何とか停められます。
なんとなく、山の中に捨てられた廃車に見えてしまいますあせる

朝倉城【4】①

登城路の雰囲気は、山の中の畑に向かう感じです。
この石垣は古そうですが、お城のものではなさそうです。
そう言いながら撮ってしまうのが、城キチの悲しいサガです。

朝倉城【5】②

入口に案内はあったものの、遊歩道でもなくただの山道です。
1本道ではあったものの、城跡らしさが感じられず心細くなってきます。

朝倉城【6】③
拡大表示

しかし、そんな不安を察してか、竹林に入る所にこの図があります。
ココがこの図の何なのかが?ですが・・・
山城にあるものがひと通り描かれています。
どこの山城でも使えそうな逸品ですラブラブ

朝倉城【7】③

ここから山城の雰囲気たっぷりな道に変わります。
切通しっぽく見えますが、縄張図を見ると虎口のようです。

朝倉城【8】④

前方に城塁の切れ間が見えました。
日の差す所から上がれそう!と突撃です。

朝倉城【9】④

その下まで行くと、虎口見えました^^

朝倉城【10】⑤

虎口の中はとても広い曲輪でした。
ここが主郭の詰ノ段です。

朝倉城【11】⑥

時計回りに外周を歩いていると、ある一端に土橋がありました。
向こう側は竹が密生しており行けませんでしたが・・・
GPSで割り出した位置を縄張図で見ると、二ノ段に通じているようです。

朝倉城【12】⑦

土橋の少し先に、城址碑があります。
ありきたりだと思っても、じゃぁ何処にあった?と思い出せず。
そうは見えても、やっぱり唯一無二の個性派です。
特に足元ラブラブ

朝倉城【13】⑧
拡大表示

城址碑のまたちょっと先に、白い板が2枚並んであります。
その1枚がきれいに色分けされた平面図です。
陽の差し加減で影が入り、綺麗に写せずあせる

朝倉城【14】⑨

詰ノ段は1メートル程の土塁に囲まれています。

朝倉城【15】⑩

城址碑の脇からも、奥への道があります。
詰ノ段から下った低い所が、詰西ノ段との間にある堀切です。
当時の私が何を思っていたのかが?ですが・・・
ちょっと進んでUターンしています。
そのまま進めば良かったのですが。
数枚写真を撮ったので意図はあったと思います。

【位置・再】朝倉城

GPSログを見て〇| ̄|_
山頂の詰西ノ段に辿り着いていませんでした。
縄張図を見ても道が離れた所を通っているので、行けるか?ですが。
それでも、西の茶臼ヶ森まで見に行けば良かった・・・


◆歴史◆

本山茂宗により築かれました。

大永年間(1521-27)、本山茂宗により築かれました。
本山茂宗は『土佐物語』で「其器傑出」と評された武将です。
1507年、土佐守護・細川勝元が京で暗殺されました。
すると、細川勝元を後ろ盾としていた長宗我部兼序が孤立します。
長宗我部兼序は傲慢な態度だったため、周辺勢力に嫌われていました。
本山氏は吉良氏や山田氏と同盟を組み、長宗我部兼序を攻撃。
1508年にその本拠・岡豊城を陥落させます。
長宗我部氏が没落すると、本山茂宗は勢力を拡大しました。
朝倉城を築いて本拠とし、本山城を嫡男・本山茂辰に譲りました。
土佐は、本山氏と一条氏の2強対決の様相を呈するようになります。
一条氏に保護されていた長宗我部国親が1518年に岡豊城に復帰します。
本山茂宗はその娘を本山茂辰の嫁に迎え、和睦しました。

1562年、廃城になりました。

1555年、本山茂宗が世を去りました。
すると、長宗我部国親が次第に本山茂辰と対立するようになります。
1560年、浦戸湾での小競り合いから、本山氏の長浜城が攻め落とされます。
本山茂辰は浦戸城に入り、長宗我部軍を迎え撃ちます。
長宗我部軍は浦戸城も攻めますが、この最中に長宗我部国親が没しました。
しかし、長宗我部軍の優勢は揺るがず、本山茂辰は朝倉城へ撤退しました。
長宗我部元親は本山家臣を調略で切り崩し、朝倉城の支城を攻略。
1562年9月に朝倉城を攻めますが、本山茂辰は撃退しました。
しかしこの後、本山茂辰は自ら朝倉城に火を放ち本山城へ撤退。
朝倉城はこの時に廃城となりました。
山間の本拠で抵抗したものの翌年敗れ、本山茂辰は行方不明となります。


所在地:高知市朝倉 GPSログダウンロードページ

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浦戸城/高知市

浦戸城は、桂浜を眼下に望む長宗我部元親の居城でした。
訪問日は2018年8月6日です。

浦戸城【01-1】
①駐車場手前のヘアピンカーブ

高知の超有名観光地・桂浜のすぐ脇にある山城です。
城跡は現在、坂本龍馬記念館になっています。
城キチとしては、その両者の混雑に巻き込まれたくありません。
ということで、記念館手前のヘアピンカーブにある駐車場を利用しました。
ここならどちらからも離れていて、駐車場は余裕があります。

浦戸城【01-2】
①天守跡脇の駐車場

駐車場脇のこんもりした土盛りが、浦戸城の天守台です。
その上に上がる階段が目の前にあります。

浦戸城【01-4】
①天守跡

天守台上には、天祇神社の小さな社があります。
その奥にある白い板が、浦戸城の説明板です。

浦戸城【01-5】
①天守跡から見下ろした眺め

上から駐車場を見下ろすと、途中に腰曲輪が見えます。
遺構は殆ど無いと書かれた所で、嬉しい発見です^^

浦戸城【02】
②詰ノ段(主郭)

長宗我部元親と山内一豊も一時居城としたのですが・・・
その主郭部分は現在、こんな風になっています。
これでも高知県指定の史跡なのだそうです。
桂浜の近所でまとまった土地、というのが仇になったのでしょうか。

浦戸城【03-1】
③説明板

建物の裏にも、浦戸城の説明板があります。
脇には「詰ノ段」の標柱がありますが、何だかチョッと虚しいですあせる

浦戸城【図】
拡大表示

説明板に載っているのは古図です。
説明板の向きに合わせ、北を上にしてあります。
パッと見で違和感を感じますが・・・w
本城の右上に描かれているのが、先程見て来た天守跡です。
現在見られる遺構は、西側に集中しています。

浦戸城【03-3】
③遊歩道

記念館の裏から西へ通じる遊歩道です。
幅があり足元もしっかりしているので、真夏でも安心して歩けます。

浦戸城【04】
④三ノ段

しばらくは両側に断崖の迫った細い道が続きます。
やがてポツポツとまとまった平地が現れます。
これが三ノ段です。
詰ノ段と二ノ段の間ですが。
古図をよく見ると、「二」とか「三」があちこちにありますw
図を描いた人も、どこが何だった?のかと思います。
曲輪の数え方が???です。

浦戸城【05-1】
⑤堀切の説明板

遊歩道をさらに奥へ進むと、堀切の説明板が現れます。

浦戸城【05-2】
⑤遊歩道脇にある三重堀切

視線を先へやると、遊歩道脇に土の波が見えました。
遊歩道で半分壊されたものの、左半分だけ残っていました。

浦戸城【05-3】
⑤遊歩道から見た堀切

なので、遊歩道から堀切の断面が見えます。
史跡にするなら、少し考えて欲しかったのですが・・・

浦戸城【05-4】
⑤三重堀切

少しでもらしい絵面が欲しくて、いろんな角度から撮りました。
少しは山の中で撮ったように見えますでしょうか?

浦戸城【06】
⑥二ノ段

三重堀切からさらに先へ進んだ所が二ノ段です。
道端にもそのような案内の標柱がありました。
古図では二ノ段が3つありますが、その中の1つですw
整備され多少破壊されてはいますが、曲輪の面影は残っています。

【位置・再】浦戸城

「遺構は殆ど無い」だったので、三重堀切だけ見に来た感じです。
なので、その先の公園っぽい二ノ段まで見て満足して次へ行きました。
改めて古図を見ると、ここから先に手付かずの遺構がありそうですが・・・
訪ねる前の私に教える術がありませんあせる


◆歴史◆

本山茂宗により本格的に築城されました。

築城時期は不明ですが、古くから砦があったとされます。
本山茂宗は土佐七雄の一家で、その中でも最も大きな領地を持ちました。
本拠地は土佐北部の本山城ですが、土佐中部にまで進出しました。
その時期は大永年間(1521-27)で、1532年には朝倉城を築いています。
本山茂宗は『土佐物語』で「其器傑出」と評される武将でした。
土佐吉良氏を滅ぼし、一条氏や長宗我部氏と争い勢力を拡大。
本山氏の全盛期を築き上げています。

1560年6月、長宗我部軍に攻め落とされました。

1555年、傑物・本山茂宗が没しました。
両家は1544年に和睦し、長宗我部国親の娘が本山家に嫁いでいました。
長宗我部国親は、北の脅威を防ぐ間に南西部に勢力を拡大していました。
1560年、長宗我部家の兵糧を積んだ船が、本山軍の船に襲われました。
これを契機に長宗我部国親が、浦戸のすぐ西の長浜城を攻め落としました。
長宗我部軍はそのまま、すぐ東の浦戸城を攻めますが・・・
その最中に長宗我部国親が没しますが城攻めは続き、浦戸城も陥落しました。
本山茂辰は朝倉城へ撤退し、籠城しました。
籠城戦は1563年1月まで続きますが、本山軍は本山城へと撤退しました。
翌年にはその本山城も攻められ、本山茂辰は行方不明となります。
長宗我部元親はその後、降った香宗我部氏を弟・親泰に継がせます。
1569年には安芸国虎も滅ぼし、着実に勢力を拡大しました。

1591年、長宗我部元親が居城としました。

長宗我部元親は四国征伐後、大高坂城を築き本拠としました。
大高坂城は、高知城の前身となるお城です。
しかし、水はけが悪く洪水に悩まされ、築城3年で浦戸城へ移りました。

1601年、山内一豊が入城しました。

長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍に味方し、改易され領地を失いました。
代わって、土佐一国が山内一豊に与えられました。
しかし、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣に阻まれ、なかなか入国出来ず。
旧主・長宗我部盛親に土佐半国を譲るよう要求し、浦戸城に籠りました。
浦戸城の接収に向かった井伊直政家臣の宿所を、長宗我部旧臣が包囲。
激怒した徳川家康が、四国の大名に浦戸城攻めを命じました。
籠城戦は50日に及びましたが、城内の重臣と一領具足の間で意見が対立。
重臣方が偽情報を流して一領具足を城外へ出し、討ち取られました。
討ち取った首は273に及び、塩漬けにして徳川家康のもとへ送られました。
ようやく土佐に入国出来た山内一豊は、浦戸城に入りました。

1603年、廃城となりました。

浦戸城は土佐一国の中心としては手狭なため、高知城が築かれました。
各地で一領具足の一揆が続いており、築城の視察も影武者にさせる程でした。
高知城は大高坂城を改修整備したもので、本格的な総石垣の城となりました。
高知城が完成すると、浦戸城は役割を終えて廃城となりました。


所在地:高知市浦戸 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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