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久礼田城/高知県南国市

久礼田城は、ゴルフ場の合間にあります。
訪問日は2018年8月6日です。

久礼田城【1】
①ゴルフ場の駐車場

城跡のあるゴルフ場です。
場所が分かりやすくてとても助かります^^

久礼田城【2】
②登城口

駐車場の脇に、城跡への入口があります。
ここに、超詳しい説明板があります合格

久礼田城【3】
②登城口の説明板の図 拡大表示

上の説明板に載っている図です。
等高線があるだけでもリアルですが、曲輪や堀などに着色されています。
とってもわかりやすいです合格

久礼田城【4】
③分岐

説明板の所から斜めに登ると、すぐに横堀に出ます。
どちらへも行けるように見えるので、矢印の案内があります。

久礼田城【6】
③分岐(矢印側)

矢印側は上り坂で、いかにも主要部へと行けそうに見えます。

久礼田城【5】
③分岐(矢印の反対側)

反対側の堀は深く、土塁も高く聳えています。

久礼田城【7】
④横堀(矢印の反対側へ)

順路側は普通に見ることが出来るので反対側へ。
とりあえず行ける所まで行き、ダメなら戻って来ればいいやという事です。
道を外れて見学するのが私の中では普通ですが、「人の道」ではないですw
ニホンゴムズカシイデス(^<^)

久礼田城【8】
⑤横堀(矢印の反対側の先)

順路の反対側には、深い横堀がしばらく続いています。

久礼田城【9】
⑥上へのショートカット

奥の方が草深くなってもう進めない・・・
そう思っていると、斜面を歩いた跡がありました。
非公式の道ですが、ここを登って近道しました。

久礼田城【10】
⑦帯曲輪

横堀の上には、斜面に沿って細い平坦面が続いています。
図では、詰ノ段を囲むように描かれている帯曲輪です。

久礼田城【11】
⑧帯曲輪

順路では無いので草はありますが、背が低いので十分歩けます。

久礼田城【12】
⑨帯曲輪から横堀に

図を見ていると、詰ノ段から二ノ段、横堀を通って帯曲輪のようです。
本来のルートは、1周半回って南西に出るようです。
北東側の傾斜が緩いせいか、回り込む道を掘って横堀状になっています。
詰ノ段入口を守る二ノ段を造るため、あえて掘ったのかもしれません。

久礼田城【13】
⑩詰ノ段へ上がる道

写真右側の堀底から、上がる階段に出ました。
順路側へ少し下がってその様子を撮っています。
右上の高い所が二ノ段のようです。

久礼田城【15】
⑪詰ノ段

階段を上がると広い平坦地に出ました。
ここが主郭の詰ノ段です。
いつもながら、それまでの様子からは想像がつかない位に平らです。

久礼田城【16】
⑪詰ノ段にある城址碑

詰ノ段には、御影石の城址碑があります。
素材的にはツルピカですが、文字は彫られ黒く塗られています。
これなら、光の具合によらずバッチリ撮れます^^

久礼田城【17】
⑪詰ノ段の土塁

主郭だけあって、人の背の高さほどの土塁に囲まれていますラブラブ

【位置・再】久礼田城
久礼田城【図(北を上に)】

せっかく図があるので、写真の位置と比べ易いよう方位を合わせました。
方位記号あっても、頭の中でひっくり返すの大変ですからねあせる


◆歴史◆

長宗我部一族・久礼田氏の城でした。

久利田氏は、長宗我部氏3代目・長宗我部忠俊の弟・忠幸を祖とします。
鎌倉時代の人物なので、まだ山城は築いてなかったと思われます。
長宗我部氏は北の本山氏と争っていました。
代々長宗我部家の重臣を務め、久礼田氏はその勢力境を守っていました。

戦国時代には久礼田御所と呼ばれました。

戦国時代の城主は久礼田定祐です。
連歌・和歌の名手として知られ、長宗我部元親の信頼も篤い人物でした。
長宗我部元親は土佐国司・一条兼定を傀儡としていましたが・・・
1574年に豊後へ追放し、その子・一条内政に土佐国司を継がせました。
その一条内政も1581年に謀反の嫌疑をかけ伊予へ追放。
自らの娘と一条内政の間に生まれた幼子・一条政親に継がせます。
一条「政親」と書いていますが、実名は現在も不明です。
父の一条内政と外祖父の長宗我部元親から一字ずつとった後世の呼び名です。
一条氏は本拠・中村を奪われており、勢力基盤を失っている状態でした。
長宗我部元親は、一条氏にはゆかりの無い久礼田城に一条政親を預けました。
国司の御曹司が暮らしているという事で、城は久礼田御所と呼ばれました。

1600年、廃城になったと考えられています。

関ヶ原の戦の後、長宗我部盛親が改易されました。
そのため、長宗我部氏配下の久礼田城も廃されたと考えられます。
一条政親のその後の消息は不明となります。


所在地:高知県南国市才谷 GPSログダウンロードページ

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安芸城/高知県安芸市

安芸城は「土佐七雄」安芸家の本拠地でした。
訪問日は2018年8月6日です。

安芸城【1】

安芸城は平山城で、麓は住宅街となっています。
駐車場は東側の美術館や民俗資料館前にあります。
朝7時だったので、停められるかどうかはちょっと不安でしたがあせる

安芸城【2】
②内側から見た追手門

まず向かったのは、最大の見所である南側の追手門跡です。
土塁と石垣で囲まれた光景、落ち着きますラブラブ

安芸城【3】
③土塁と石垣

土塁と石垣は、かなり良い状態で残っています。
桝形虎口を真横から見られるのは珍しいかもしれません。
手前に土塁なり石垣なりがあって見えないのが殆どなので。

安芸城【4】
④安芸土居内部

同じ場所から見た城内です。
手前の建物が民俗資料館で、奥の山が城山です。
建物は一応、お城を意識したデザインになっています。

安芸城【5】
⑤追手門

桝形虎口の石垣です。
クネッと曲がっていて、いい目隠しになっています。

安芸城【6】
⑥追手門

この上に櫓門があったんでしょうね♪

安芸城【7】
⑦追手門

外側から見た追手門跡です。
水堀とセットで残っているので、とても雰囲気があります。

安芸城【8】
⑧水堀

大手門前の水堀です。
お城の規模的に元々この幅だったように思います。

安芸城【9】
⑨水堀

左側の水堀は、角を曲がった所までで途切れます。
住宅街になっているので仕方がないのですが・・・
それでも、追手門前から見ればそんな風には見えません。

安芸城【10】
⑩水堀

追手門前右側の水堀は、蓮でビッシリ埋まっています。
攻める側としては、水面が見えない方が心理的に攻めづらそうです。
船で渡ろうなんて思いませんからね!

安芸城【11】
⑪民族資料館前の説明板 拡大表示

追手門から城内に入り直して、城山へ向かいました。
民俗資料館前脇を通りますが、建物の前に説明板があります。
その図を拝借(*'▽')ノ
川沿いの独立丘陵を利用していたのがよくわかる図です。

安芸城【12】
⑫入口

奥へ進むと城山の入口があります。
あんまり入口感が無く、手前に木があると見落としそうです。

安芸城【図】
拡大表示

入口の説明板に載っている図です。
ちゃんと縄張りのわかるスグレモノです合格
曲輪の名前や土塁・石垣なども書き込まれ、とても参考になります。

安芸城【13】
⑬石垣

入口脇にも石垣があります。

安芸城【14】
⑭三ノ段

入口から登ってすぐの所に三ノ段があります。
尾根を削ったっぽい出っ張りです。
よその地方では腰曲輪とか三郭とか三の丸と呼ぶ所です。
登城路脇から先端まで見えています。

安芸城【15】
⑭三ノ段からの眺め

まだ登り始めたばかりですが、既に民家を見下ろす高さです。

安芸城【16】
⑭三ノ段から二ノ段へ

城山は、こんな感じの道が整備されています。

安芸城【17】
⑮二ノ段

さらに上には二ノ段があります。
三ノ段、二ノ段は登城路脇にあります。
ここに兵を置いたのか、倉庫の類があったのか。

安芸城【18】
⑯詰の虎口

さらに進むと「虎口」の案内があります。
三ノ段、二ノ段は登城路から丸見えでした。
やはり曲輪としての性格が全然違いそうです。

安芸城【19】
⑯詰の虎口から

よその地方での「詰」は、主郭の奥の隠れた曲輪のイメージですが・・・。
四国では、主郭とか本丸とか一の郭に該当する場所です。
三ノ段や二ノ段では見られなかった土塁が、入ってすぐ現れます。

安芸城【20】
⑯詰の南側

かなり広く、しっかりと平らに均されています。

安芸城【24】
⑰詰の北側

詰は細長い曲輪で、北側は先細りな感じになっています。

安芸城【23】
⑱詰と北ノ段の間にある段差

その先には段差があり、石積みで補強されています。

安芸城【21】
⑲北ノ段

段差の奥にあるのが北ノ段です。
よそ者の私には、こっちが「詰」のイメージですw
入口にあった図では、この先の尾根に堀切が描かれていますが・・・
真夏に訪ねるにはチョット難易度が高めな感じでしたクローバー

【位置・再】安芸城


◆歴史◆

1308年、安芸親氏により築かれたと伝わります。

安芸氏は、蘇我馬子の孫・蘇我赤兄が祖先とする一族です。
蘇我赤兄は、壬申の乱で大友皇子の右腕として活躍した人物です。
乱の鎮圧後に捕らえられ流罪となりますが、それがどこなのか?です。
確かに土佐は、古代から流刑者が送られて来る土地柄ではありました。

安芸氏は安芸川の水運の利を得て勢力を拡大。
室町時代には細川吉兆家に仕え、代々偏諱を受けています。
応仁の乱では細川勝元方として、畿内での戦に参戦しています。
安芸郡5000貫を支配し、土佐七雄の一家に数えられました。

1569年、香宗我部親泰が城主となります。

戦国時代の安芸氏は、西隣りの香宗我部氏と争いました。
1526年には、香宗我部氏の嫡男を討ち取るなど優勢でした。
香宗我部氏は長宗我部氏にも攻められており、次第に衰退。
1556年に長宗我部国親の三男を養子に迎え、その配下となりました。
長宗我部氏と境を接するようになり、安芸氏は直接争うようになります。
1564年に戦った時は引き分けました。
この時ですら、安芸国虎は義兄・一条兼定から兵3000を借りていました。
長宗我部元親はその後、本山氏を滅ぼして土佐中部を統一。
1569年、長宗我部元親は安芸国虎を岡豊城に招きますが・・・
安芸国虎に臣下の礼を取らせようとする挑発でした。
これを機に両者は開戦しますが、長宗我部元親は安芸家中を調略済み。
内応者が相次ぎ、長宗我部軍が安芸城を包囲しました。
24日の籠城の後、安芸国虎は城兵の助命を条件に自害しました。
安芸城には、香宗我部親泰が入りました。
その後、安芸城は阿波侵攻の拠点となります。

1600年、山内一豊の家臣・五藤氏が城主となります。

長宗我部盛親が関ヶ原の戦で西軍だったため、戦後改易されました。
戦後、本領安堵に奔走した兄を殺したのが原因ともされますが・・・
土佐一国は、山内一豊の領地となりました。
安芸城には、安芸郡の代官として五藤為重が入りました。
五藤為重は、山内一豊の頬に刺さった矢を抜いた五藤為浄の弟です。

1615年、廃城となり安芸土居となります。

五藤為重は領地が各地に分散し、安芸郡の支配権はありませんでした。
しかし、子孫は1670年頃に家老職、1700年に奉行職に任命されます。
その後も、幕末まで代々土佐藩の要職を務めています。
安芸土居は、2012年まで五藤氏の私有地だったそうです。


所在地:高知県安芸市土居

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権現城/高知県北川村

権現城は北川氏の属城で、現在は神社のある山城です。
訪問日は2018年8月6日です。

権現城【1】①
①西側の登城口

ちゃんとした道は東にありますが、こっち側からも登れるらしい。
ということで、西側のバイパス脇から登城しました。
車はバイパス脇のちょっと広くなった所に停めています。
赤い消防施設脇に階段があり「お、行ける!」と思ったのですが・・・

権現城【2】

階段は見たまんまの5、6段しかなく、あとは斜面の草木の薄い所を直登。
夏休みの城跡巡りでは、なぜか毎年こういう所が出てきますw

権現城【3】②
②西側の曲輪

それでも割とすぐに登り切り、下草の無い平坦面に出ます。
権現城の西側の曲輪ですね^^

権現城【4】③
③石灯籠

神社の境内ということで、それっぽいものがチラホラあります。

権現城【5】④
④段差

そのまま奥へ進むと、ハッキリとした段差が現れます。
どう見ても自然地形ではありません。
この段差が結構な長さで続いています。

権現城【6】⑤
⑤段差の東端

この段差の上に柵か塀を巡らせて曲輪を隔てたのでしょうか。
むくむくと勝手に色んな妄想が沸き上がってきます。

権現城【7】⑥
⑥主郭

段差の上はかなり広い平坦地で、神社の境内となっています。
安芸家の家臣のさらに家臣の城ですが、それでもかなりの規模です。

権現城【8】⑦
⑦石積み

平坦地北側も段差になっており、こちら側では石積みが見られます。

権現城【9】⑧
⑧土塁

北端には、低いながらまとまった土塁が見られます。

権現城【10】⑨
⑨参道

西側から斜面を直登しましたが、神社前には参道があります。
2足歩行の知的生命体なら、こちらを通るのが一般的ですよね・・・

権現城【11】⑩
⑩石垣

参道沿いにも石垣が見られます。
珍しい丸石の野面積みですが、城の遺構ではないかもしれません。

権現城【12】⑫
⑫東側の登城口

東側の登城口です。
住宅街の中に、山中へと向かう道があります。
入口にある「松尾山寶泉寺」の石碑が目印です。

権現城【13】⑪
⑪登城口

入口は車道ですが、すぐにこんな感じになります。
途中で止めちゃった感が漂いますが、どうなんでしょうw

【位置・再】権現城


◆歴史◆

1569年、長宗我部軍に攻め落とされました。

築城年代、城主ともに?です。
安芸家臣・北川氏の持ち城だったようです。
1569年、長宗我部元親により安芸国虎が攻め滅ぼされました。
安芸家臣の多くが軍門に降りましたが、北川道清は抵抗し続けました。
権現城には加茂城主・小笹民部が立て籠もりました。
北川道清は24日間抵抗した後、長宗我部軍に斬り込んで討死します。
権現城や小笹民部がどうなったのか記されたものは見つかりませんでした。
その後の歴史に登場しないことから、この時に廃城になったと思われます。


所在地:高知県安芸郡北川村野友乙 GPSログダウンロードページ

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烏ヶ森城/高知県北川村

烏ヶ森城は無名の城ですが、真夏でも大きな堀切が見られる山城です。
訪問日は2018年8月6日です。

烏ヶ森城【1】
①登城口前

とにかくすごい山奥ですが、目の前まで舗装された林道があります。
細い道だったので車停められるか心配でしたが大丈夫。
城跡へと続く山道の前に、かなり長い離合帯があります。
その端っこに停めて、ここから徒歩です。

烏ヶ森城【2】

未舗装の林道を進むと、②の所でさらに細い道が分岐しています。
城跡へはこっちの細い道へと進みます。

烏ヶ森城【3】
③遊歩道

とはいえ、普段の山城とは比べ物にならないくらいに綺麗な道です。
真夏でも安心して山城を攻められるのは嬉しいですラブラブ
実はこの道、かつては旧柏木村への1本道でした。
柏木村が山と川に挟まれていたためです。
幕末の志士・中岡慎太郎も、この道を通っていました。

烏ヶ森城【4】
④二重堀切

車を降りてから10分程で、地形に変化が現れます。
突然現れた橋と階段は、山城の堀切と切岸です。
堀切の手前にも、わずかながら石積みが見られます。

烏ヶ森城【5】
⑤1つめの堀切

堀切なので、人が歩かない所へw
やっぱりこの角度が最高ですラブラブ

烏ヶ森城【6】
⑥2つめの堀切

そして、堀切の向こう側の切岸です。
堀切があるので、往時はこんなに通りやすくはなかったでしょうが・・・
どんなだったんだろう?と妄想が膨らみ始めます。
でも、この階段は階段であるだけでなく、橋でもあります。

烏ヶ森城【7】
⑦切岸の上から見た二重堀切

手前からは見えませんでしたが、上から見ると二重堀切です。
これ、かなりエグイですラブラブ

烏ヶ森城【8】
⑧烏ヶ森展望台

二重堀切を渡った先に、舞台状の展望台があります。
ここが主郭のようです。
木々に囲まれてはいますが、麓の様子がとてもよく見えます。

烏ヶ森城【9】
⑨手前から見た虎口

主郭から奥へ進むと、段差を下りる所があります。
平たんな曲輪の端っこから、細い道が続きます。

烏ヶ森城【10】
⑩奥から見た虎口

反対側から見た所です。
山城ではよく見る構造ですね^^

烏ヶ森城【11】
⑪手前から見た堀切

さらに奥へ進むと、再び大きな堀切が現れます。
この写真だとそんなに深いように見えませんが・・・

烏ヶ森城【12】
⑫奥から見た堀切

立体感が無く写ったので浅く見えましたが、こんなに高いです。
堀切自体は浅いですが、切岸の足元が掘られています。

烏ヶ森城【13】
⑬展望台の案内

どこまでが城域なんだろうと奥へ進むと、展望台の案内が。
通り過ぎたので矢印が後ろ向きですが、私が来た方にはありませんでした。
奥から来るのが一般的なのでしょうか?あせる

烏ヶ森城【14】
⑭浅い堀切

細い尾根道を進むと、浅い堀切があります。
堀切なのかどうなのかが?なレベルですが・・・

烏ヶ森城【15】
⑮まだまだ続く遊歩道

さらに進みますが、城跡らしい構造物は無し。
どうやらさっきの堀切?が最後のようです。
道は北側の中岡慎太郎の故郷へと続きます。

【位置・再】烏ヶ森城

写真のだいたいの位置はこんな感じです。
1枚1枚書き込むとゴチャゴチャしますねあせる


◆歴史◆

安芸家臣・北川氏の城でした。

築城年代等は?ですが、安芸家臣・北川氏の城でした。
事績等サッパリ???ですが、多くの家臣を抱える大身だったようです。
ググって名前が出てきたのは、戦国時代の北川玄蕃頭だけです。
北川玄蕃頭の名は北川道清で、安芸国虎に仕えていました。
主家亡き後も、長宗我部軍に抵抗を続けました。

1569年、長宗我部元親に攻められ落城しました。

長宗我部元親が安芸国虎を攻め滅ぼしました。
多くの安芸家臣が内応したため安芸城が陥落。
安芸国虎は、城兵と家臣の助命を条件に自害しました。
安芸家臣の多くは長宗我部元親に従いましたが、北川道清は抵抗しました。
24日間に渡る激闘の末、単身敵陣に突撃して討死したそうです。


所在地:高知県安芸郡北川村柏木 GPSログダウンロードページ

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岡豊城/高知県南国市

岡豊城は長宗我部氏代々の城でした。
訪問日は2018年8月5日です。

【1】岡豊城

岡豊城の入口にある歴史民俗資料館です。
かなり大きな建物で、ここに続日本100名城スタンプがありますラブラブ

続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】岡豊城 高知県立歴史民俗資料館
 開館時間 9時~17時(入館は16時半まで)
 休館日 12月27日~1月1日
 入館料 大人460円、高校生以下無料

【3】岡豊城

その足元は石垣風の擁壁になっていて、ちょっと壮観です。
ただ、あまりにデカ過ぎて、城域をかなり破壊してない?って感じます。

【4】岡豊城
拡大表示

駐車場にあった案内図をパクリますニコニコ
左端にあるのが歴史民俗資料館です。
城内を歩いてみた感じでは、こっち側が城の大手口っぽいです。
元々は、その入口の厳重な構造があったと思われます。

【5】岡豊城

階段を上がった資料館の玄関前には、威勢のいい銅像があります。
周りがチョット寂しいのですが、イケメンさんですw
その足元に「長宗我部元親飛翔之像」とあります。

【6】岡豊城

飛翔之像から山に入って、割とすぐに平坦地に出ます。
ここが二ノ段です。
四国では曲輪を〇ノ段と呼び、主郭を詰ノ段または詰と呼ぶ所があります。
たぶん昔からそう呼んでいた方言のようなものだと思われます。
私、こういうの大好きですラブラブ

【7】岡豊城

二ノ段の入口には堀切があり、その中に井戸もあります。
堀切の中に井戸って、ちょっと新鮮です。
掘ったら出てきちゃった感じでしょうか?

【8】岡豊城

唐突な感じではありますが、二ノ段の上が詰です。
ここには現在、礎石建物跡の上に仮設の櫓があります。
台風来たらヤバイんじゃないかという造りですが・・・
こういうのも割とオッケーですラブラブ
ただ、コンセプトがいまいちよくわからず。
望楼型と層塔型の中間っぽい、ちょっと変な形ですw
こいつは平成31年2月28日までの期間限定で詰にある予定です。

【9】岡豊城

詰の1つ西側の下にある帯曲輪が三ノ段です。
端の土塁には、ビッシリ石垣が組まれています。

【10】岡豊城

そのすぐ内側にあるのが、建物の礎石だそうです。
そういえば、礎石のある所を中心に石垣が組まれています。
崩れちゃったのを補強したのでしょうか?

【11】岡豊城

礎石のある部分から更に奥へ進むと、石垣は土塁の足元だけになります。

【12】岡豊城

三ノ段を一周回って来て、今度は四ノ段に入ります。
その入口には、ガッチリした土塁で食い違い虎口になっています。

【13】岡豊城

反対側の四ノ段側から見た虎口です。
下への出口もあり、ここはかなり重要な場所っぽいです。

【14】岡豊城

四ノ段の内部です。
基本的に三ノ段の外側にある帯曲輪といった感じです。

【15】岡豊城

南側にはまた1つ腰曲輪の展望広場があり、城址碑があります。

【16】岡豊城

その背後には期間限定櫓もあり、ちょっとした絵になりますラブラブ

【17】岡豊城

展望広場の下の斜面には、畝状の竪堀があります。
一面笹で覆われているのですが、影の濃淡で何となくわかります。

【18】岡豊城

更に下ると堀切があり、その先が伝厩跡曲輪です。
説明板によるとこれ、二重堀切らしいです恋の矢

【19】岡豊城

伝厩跡曲輪です。
「~ノ段」とは呼ばないんですね。
段は、主郭を取り巻く帯曲輪を指すのでしょうか?
ここは出城だったと考えられている場所です。
ちょっと整備されて削られた?感はありますが、眺めがいいです♪


◆歴史◆

長宗我部氏の城でした。

最近ずっと字を間違えていた長我部氏が代々居城としていました。
築城時期は定かではないのですが・・・
秦氏が土佐の長岡郡宗部郷(宗我部郷)に入ったのが始まりだそうです。
その時期には、以下の通り諸説あって定かではありません。

・延久年間(1069~74年の間)に、泰能俊が土佐に移った
・保元の乱(1156年)で敗れた泰能俊が土佐に移った
・承久の乱(1221年)で泰能俊が功を挙げ、土佐の地頭となった

年代はバラバラですが、初めて土佐に入ったのはどの説も秦能俊です。
秦能俊が来た地名から、当初は宗我部姓を名乗ったそうです。
しかし、近くに別系統の同姓の武士がいたため、頭に長を付けたとか。
他方の宗我部氏は、頭に香を付けてお互いを区別しました。

1508年、岡豊城が落城しました

室町時代なると、長宗我部氏は細川氏の被官となりました。
細川氏が中央政権で出世したため、長宗我部氏も勢力を拡大。
しかし、応仁の乱で細川氏が分裂すると、一気に衰退し始めました。
それまで威張ってきた長宗我部氏はライバル達に攻め込まれ・・・
1508年、反長宗我部連合軍に攻められ、岡豊城が落城。
長宗我部兼序は自害し、長宗我部氏は一時没落しました。

1518年、長宗我部氏が復興しました。

岡豊城の落城後、遺児・千雄丸は一条氏の元で庇護されました。
一条氏は京から来た公家大名で、一条房家は正二位の超名門でした。
そのため、土佐で覇を競った土豪達も、別格の家として尊重していました。
その一条房家の調停により、千雄丸が岡豊城に復帰しました。
この時に千雄丸は元服し、長宗我部国親と名乗るようになりました。
長宗我部国親は山田氏を滅ぼし、香宗我部氏を三男に継がせました。
そして、親の仇である本山氏をあと一歩の所まで追い詰めましたが・・・
悲願達成を目前に、長宗我部国親は急死しました。

1582年、長宗我部元親が四国を制覇しました。

家督は嫡男の長宗我部元親が継ぎました。
色白で口数も少なく、姫若子と呼ばれ家中心配の種だったそうですが・・・
しかし、初陣の時に凄まじい槍働きを見せ、一気に武名を轟かせました。
父の死から3年で、宿敵・本山親茂を降しました。
1575年には衰退した一条家も併呑し、土佐統一を成し遂げました。
三好三人衆と戦っていた織田信長は、長宗我部元親と同盟を結びました。
しかし、1580年に三好氏が織田信長の軍門に降ると一変。
織田信長は、到底呑めない条件で長宗我部元親に臣従を迫りました。
長宗我部元親が要求を突っぱねたため同盟が終わり、敵対関係となります。
織田信長による四国討伐軍が出陣するその日に、本能寺の変が起こりました。
この機を逃さず長宗我部元親は十河存保を破り、四国を制覇しました。

長宗我部家が没落し始めます

織田信長亡き後、羽柴秀吉が織田家中の争いを制しました。
さらに中国地方の雄・毛利家とも和睦すると、矛先が四国に向きました。
1585年、羽柴軍の圧倒的な兵力の前に長宗我部元親は降伏。
土佐一国を残して、それまで得た讃岐・阿波・伊予は没収されました。
羽柴秀吉はさらに九州の島津義久を討伐すべく、大軍で攻め込みました。
この時、仙石久秀が指揮した戸次川の戦で島津軍に大敗。
長宗我部元親最愛の嫡男・信親も、この時に討死しました。
これ以降、長宗我部元親は別人のように覇気を失っていきます。
羽柴秀吉が後ろめたくなり大隅を与えようとしたものの固辞しています。

1591年、廃城となりました。

長宗我部元親は大高坂山に城を築き、本拠を移しました。
大高坂山城は高知城の前身となったお城です。
ただ、治水に難があったため、間もなく岡豊城に戻って来ました。
しかし、今度は浦戸城に大改修を加えて、こちらに移りました。
これにより、岡豊城は廃城となりました。

長宗我部元親は末子の長宗我部盛親を後継者に指名しました。
末っ子なので、家中にはかなり反対意見があったそうですが・・・
一族だろうと容赦なく葬り去ったそうで、家運が衰え始めました。
そんな中、1599年に伏見屋敷で病死しました。
その翌年、長宗我部盛親は関ヶ原の戦で西軍として参戦しました。
そのため領地を没収され、大名家としての長宗我部家は滅亡しました。


所在地:高知県南国市岡豊町八幡 GPSログダウンロードページ

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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