2020/10/25
久礼田城/高知県南国市
久礼田城は、ゴルフ場の合間にあります。訪問日は2018年8月6日です。

①ゴルフ場の駐車場
城跡のあるゴルフ場です。
場所が分かりやすくてとても助かります^^

②登城口
駐車場の脇に、城跡への入口があります。
ここに、超詳しい説明板があります


②登城口の説明板の図 拡大表示
上の説明板に載っている図です。
等高線があるだけでもリアルですが、曲輪や堀などに着色されています。
とってもわかりやすいです


③分岐
説明板の所から斜めに登ると、すぐに横堀に出ます。
どちらへも行けるように見えるので、矢印の案内があります。

③分岐(矢印側)
矢印側は上り坂で、いかにも主要部へと行けそうに見えます。

③分岐(矢印の反対側)
反対側の堀は深く、土塁も高く聳えています。

④横堀(矢印の反対側へ)
順路側は普通に見ることが出来るので反対側へ。
とりあえず行ける所まで行き、ダメなら戻って来ればいいやという事です。
道を外れて見学するのが私の中では普通ですが、「人の道」ではないですw
ニホンゴムズカシイデス(^<^)

⑤横堀(矢印の反対側の先)
順路の反対側には、深い横堀がしばらく続いています。

⑥上へのショートカット
奥の方が草深くなってもう進めない・・・
そう思っていると、斜面を歩いた跡がありました。
非公式の道ですが、ここを登って近道しました。

⑦帯曲輪
横堀の上には、斜面に沿って細い平坦面が続いています。
図では、詰ノ段を囲むように描かれている帯曲輪です。

⑧帯曲輪
順路では無いので草はありますが、背が低いので十分歩けます。

⑨帯曲輪から横堀に
図を見ていると、詰ノ段から二ノ段、横堀を通って帯曲輪のようです。
本来のルートは、1周半回って南西に出るようです。
北東側の傾斜が緩いせいか、回り込む道を掘って横堀状になっています。
詰ノ段入口を守る二ノ段を造るため、あえて掘ったのかもしれません。

⑩詰ノ段へ上がる道
写真右側の堀底から、上がる階段に出ました。
順路側へ少し下がってその様子を撮っています。
右上の高い所が二ノ段のようです。

⑪詰ノ段
階段を上がると広い平坦地に出ました。
ここが主郭の詰ノ段です。
いつもながら、それまでの様子からは想像がつかない位に平らです。

⑪詰ノ段にある城址碑
詰ノ段には、御影石の城址碑があります。
素材的にはツルピカですが、文字は彫られ黒く塗られています。
これなら、光の具合によらずバッチリ撮れます^^

⑪詰ノ段の土塁
主郭だけあって、人の背の高さほどの土塁に囲まれています



せっかく図があるので、写真の位置と比べ易いよう方位を合わせました。
方位記号あっても、頭の中でひっくり返すの大変ですからね

◆歴史◆
長宗我部一族・久礼田氏の城でした。
久利田氏は、長宗我部氏3代目・長宗我部忠俊の弟・忠幸を祖とします。
鎌倉時代の人物なので、まだ山城は築いてなかったと思われます。
長宗我部氏は北の本山氏と争っていました。
代々長宗我部家の重臣を務め、久礼田氏はその勢力境を守っていました。
戦国時代には久礼田御所と呼ばれました。
戦国時代の城主は久礼田定祐です。
連歌・和歌の名手として知られ、長宗我部元親の信頼も篤い人物でした。
長宗我部元親は土佐国司・一条兼定を傀儡としていましたが・・・
1574年に豊後へ追放し、その子・一条内政に土佐国司を継がせました。
その一条内政も1581年に謀反の嫌疑をかけ伊予へ追放。
自らの娘と一条内政の間に生まれた幼子・一条政親に継がせます。
一条「政親」と書いていますが、実名は現在も不明です。
父の一条内政と外祖父の長宗我部元親から一字ずつとった後世の呼び名です。
一条氏は本拠・中村を奪われており、勢力基盤を失っている状態でした。
長宗我部元親は、一条氏にはゆかりの無い久礼田城に一条政親を預けました。
国司の御曹司が暮らしているという事で、城は久礼田御所と呼ばれました。
1600年、廃城になったと考えられています。
関ヶ原の戦の後、長宗我部盛親が改易されました。
そのため、長宗我部氏配下の久礼田城も廃されたと考えられます。
一条政親のその後の消息は不明となります。
所在地:高知県南国市才谷 GPSログダウンロードページ
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