2018/08/22
河後森城/愛媛県松野町
河後森城は伊予と土佐の国境にあった城でした。訪問日は2018年8月7日です。

河後森城は馬蹄形をしており、南側が開けています。
ここに無料の駐車場があります。
形としては、鎌倉時代に流行った殿谷戸形式の山城です。
城内へはここから入るので、門があってもおかしくない感じです。

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駐車場にあった案内図です。
せっかくなのでパクリますm(_ _)m
色分けされている通りで、曲輪の名前は並び順の数字が付けられています。

馬蹄形の真ん中の低い所は、風呂ヶ谷と呼ばれています。
その真ん中を進むと、周りを山で囲まれています。
まるでカルデラの真ん中から外輪山を見るような感じです。
思っていたよりも、囲んでいる山は高いです。

ここで道が三方に分かれますが、まずは西へ。
続日本100名城スタンプ欲しいですから

早速西第十曲輪に登りました。

西第十曲輪の虎口にある門です。
城門としては、ちょっと頼りない感じがしますが・・・
雰囲気はバッチリです


西第十曲輪を奥から見た所です。
曲輪内には馬屋が復元されており、ここにスタンプがあります。
続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 西第十曲輪にある復元馬屋 押せる時間 いつでも可 お休み 無し 入場料 無料 |

続いて、西第十曲輪から西曲輪群を経て本郭へ向かいます。
西第十曲輪が城内で一番低いという事で、その先にも防御機構があります。

西曲輪群はこんな感じで、尾根に沿って曲輪が連なっています。
城内の通路は脇にあり、曲輪と高低差があります。
曲輪の中を通らせず、常に横から攻撃できる構造になっています。

西第二曲輪と西第三曲輪の間に、ほんのちょっとの溝がありました。
幅は30cmもないくらいで、深さも大した事ないのですが・・・
現地では「堀切」と書かれていました。
その前には説明板があり、発掘調査後に埋め戻したそうです。
発掘された堀切は、幅と深さが約2mあり、人が収まるサイズでした。
この説明板が無いと、ただの排水溝にしか見えませんでした。

西曲輪群は曲輪の数が多く、中にはこんな所もあります。

そして、一番高い所が本郭です。
その手前には堀切があり、ここは土橋でつながっています。
堀切の足元には、少しだけ石垣があります。
崩れるのを防ぐためのものでしょうか。

本郭内には、建物の一部が復元されています。
屋根はありませんが、地面だけよりかなりリアリティが増します


本郭から先は東曲輪群と呼ばれ、第四曲輪まであります。
案内図では段差が低く見えますが、1つ1つの段差が10m近くあります。

東第二曲輪から見た本郭です。
かなりの高低差があります。

東第四曲輪と古城の間には、堀切があります。
堀切の中に門があり、その向こう側に麓に通じる道があります。
堀切に屋根付きの門があったら渡れちゃうのでは?と思いましたが・・・

上から見たらこんな感じです。
脚力に自信のある方がギリギリ行けそうな感じでしょうか。
曲輪の端には柵もあるでしょうし、心配は要らなそうです。

古城と呼ばれている曲輪です。
馬蹄形の一番奥にあります。
こちらの段差は1m程しかありません。

古城でも、建物や柵の跡などが標示されています。

続いて、新城へ向かいました。

新城の曲輪です。
道や曲輪は草が刈られていますが、周りはそうでもありません。
こちらはあまり人気が無いのか、建物跡や説明板などもありません。
新城とか旧城があるので、その移り変わりがわかると面白いと思いました。
◆歴史◆
河原淵殿・渡辺氏の城でした。
築城年代は不明ですが、河原渕殿と呼ばれた渡辺氏の居城でした。
西園寺氏の家臣では一番の大身で、1万6500石を領有していました。
戦国時代の城主は渡辺教忠で、土佐一条氏から入った養子でした。
一条氏が西園寺氏の領地に攻め込むと、渡辺教忠は兵を出しませんでした。
そのため1567年に主君・西園寺公広に攻められ降伏しています。
1580年から翌年の間、芝源三郎が渡辺教忠を追放しました。
近習の芝源三郎が長宗我部元親に寝返り、謀略により城を乗っ取りました。
渡辺教忠のその後は不明で、殺されたとも帰農したとも伝わります。
1585年、伊予一国が小早川隆景の領地となりました。
羽柴秀吉が大軍で四国に攻め込んだため、長宗我部元親は降伏しました。
讃岐、阿波、伊予を没収された長宗我部元親は、土佐一国を安堵されました。
伊予一国は小早川隆景に与えられ、河野旧臣や西園寺公広を配下としました。
この頃の河後森城の様子がさっぱりわからず。
Wikipediaでは芝源三郎が1583年に戸田勝隆に追放されたと書かれています。
年と人物とが一致しないのですが、どうなんでしょう?
芝源三郎についてはサッパリわからず・・・

1587年、戸田勝隆の城となりました。
九州征伐が終わると、四国でも大幅な領地替えがありました。
小早川隆景は筑前へ移され、大洲7万石が戸田勝隆の領地となりました。
戸田勝隆は羽柴秀吉の元で活躍した武将です。
検地を強行したため、農民による大規模な一揆が起きました。
この一揆の黒幕が旧領主ではないかと勘繰った戸田勝隆は・・・
西園寺公広を恩賞話で呼び出して謀殺しています。
1597年、慶長の役で朝鮮から帰国中に病死し、無嗣断絶しました。
藤堂高虎の城となりました。
戸田勝隆が没した後、隣の領主・藤堂高虎にその領地が与えられました。
宇和島に入った藤堂高虎は、その改修に着手。
その途中、関ヶ原の戦で東軍に味方し、加増が決定。
藤堂高虎自身は今治に移り、従兄弟・藤堂良勝が宇和島城代となります。
その宇和島城に河後森城の天守が移築され、月見櫓となっています。
1608年、富田信高が宇和島に加増移封
1613年、富田信高が改易される
1614年、桑折景頼が城主になりました。
桑折景頼は宇和島伊達家の筆頭家老で、7000石で河後森城主となりました。
しかしその翌年、一国一城令により廃城となりました。
所在地:愛媛県北宇和郡松野町松丸 GPSログダウンロードページ
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