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西方城/徳島県阿南市

西方城は企業の私有地にありますが、見学することが出来ます。
訪問日は2018年8月4日です。

西方城【1】

城跡は企業の私有地にあるだけでなく、駐車場まであります合格
そんなに有名なお城でもないのですが・・・
わざわざ見に行ったクセに吐くセリフでもありませんがあせる

西方城【2】
拡大表示

さらには、駐車場から城跡までの案内まであります。
目の前の橋はバリケードで通れませんが、回り込んで行けます。
城跡の前の道は駐車禁止なので、大人しくココに停めましょう。

西方城【3】

川沿いの道に、登城口があります。
案内だけでなく、杖まで用意されています。

西方城【4】

整備された道を10分程登ると、派手な足場が現れます。
山頂まであと少し!

西方城【5】

山頂には展望台があります。

西方城【6】

木の柵や木造の展望台が、雰囲気を壊していません。
展望台を造った時なのかどうかが?ですが、ちゃんと平らです。

西方城【7】
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展望台の足元には、詳しい説明板もあります合格

西方城【8】

展望台というだけあって、眺めは抜群です。
木々に囲まれた展望台ばかりだったので、ちょっと新鮮でしたw

西方城【9】

展望台着いた時から「城跡こんなに狭い?」と疑問は感じていました。
足場の裏から奥に行けそうな感じはしましたが行かず。
チョット時間が押していて、一宮城行く時間がヤバかったのであせる
展望台は腰曲輪で、主郭はこの奥にあります。

西方城【10】

時間に余裕が無く、渋々そのまま山を下りました。
それでも何か無いかと、目を皿にしながらウロウロ。
登城路脇の石垣がお城のだったらいいなぁ、という感じで撮りました。


◆歴史◆

戦国時代に東条紀伊守が守っていました。

現地の説明板に沿って調べましたが、混乱したのでちょっと調べました。
登場する東条氏の関係は下の通りです。
東条氏相関図

東条信綱は甲斐武田氏の出で、天文期(1532-55)に阿波に移りました。
これは、武田信顕との混同との見方もありますが、定かではありません。
東条氏の名は、1485年に乱を起こした国人衆の中にも見られます。
東条信綱は一条信長の末裔とされ、桑野城(阿南市)を拠点としました。
武田信顕は武田信玄の異母弟と考えられ、脇城(美馬市)を拠点としました。
両城はかな~り離れています。
三好長慶が近畿平定後、甲斐から同族を招いたためとされます。
三好氏は阿波小笠原氏の一族です。
桑野城に来た東条信綱は、桑野を中心に8ヶ村を領有。
弟の東条光豊(紀伊守)に西方城を守らせました。

東条紀伊守は、東の牛岐城主・新開実綱と何度か戦ったとされます。
元は同じ三好家臣ですが、長宗我部元親に降った時期が異なります。
東条氏は1575年、新開氏は1580年まで抵抗し続けました。
この頃の三好家は、織田信長に攻められ畿内の拠点を失った時期です。
同じ時期に長宗我部元親が讃岐や阿波へ侵攻し、勢力を拡大していました。
長宗我部元親は、東条関之兵衛に命じて三好方を攻めたのでした。
1582年、長宗我部元親は中富川の戦に勝ち、阿波一国を版図に加えました。

1585年、東条関之兵衛が切腹しました。

この年、羽柴秀吉が長宗我部元親討伐のため四国に侵攻しました。
東条関之兵衛は長宗我部方として、鳴門市にあった木津城を守っています。
この時に西方城主の東条紀伊守は、経緯は?ですが羽柴方に居ました。
四国の入口にあった木津城は、羽柴軍のターゲットとなります。
東条紀伊守は、木津城を守る甥・東条関之兵衛を説得。
東条関之兵衛は8日間の籠城戦の末に木津城を開城し、土佐へ戻っています。
しかし、長宗我部元親はこれを許さず、切腹させています。
長宗我部元親は羽柴軍に抵抗しますが、翌月末に降伏しています。

四国攻め最初の攻城戦で大手柄を立てているのですが・・・
羽柴方として甥を説得した東条紀伊守のその後が???です。
東条紀伊守は「18町歩に及び橘浦を開墾した」と書かれています。
それが「関ヶ原の戦で西軍に味方し没落」までの間に書かれています。
そのため、ここから先はほぼ推測です。

四国平定後、牛岐城に蜂須賀家家老・賀島政慶が1万石で入りました。
地理的に近いので、東条紀伊守はその配下に組み込まれたと思われます。
関ヶ原の戦では、蜂須賀家は複雑な動きをします。
当主の蜂須賀家政は、病を理由に大坂城に留まります。
毛利軍に領国・阿波を占拠され、西軍として大坂城を守りました。
一方、嫡男の蜂須賀至鎮は会津へ出陣して東軍として活動。
関ヶ原での勝利後、大坂城にいた蜂須賀軍も東軍に合流しています。
ただ、賀島政慶は一度蜂須賀家を離れたようで、1603年に復帰しています。
この一度離れて戻った辺りが、東条紀伊守の没落に関係ありそうです。
東条紀伊守自身は、四国征伐のおかげで長宗我部家から解放されています。
西軍寄りの主張を繰り返し、賀島政慶に疎まれたのかもしれません。

1608年、平島公方の領地となりました。

平島公方は足利将軍家の一族で、那賀川対岸の平島館を拠点としました。
14代将軍となった足利義栄は、平島公方家の出身です。
だから、足利義輝暗殺後に三好家が将軍にしたんですね!
四国征伐後も存続しましたが、領地は100石に減らされ足利姓も禁止。
以後は平島姓を名乗ります。
平島公方は吉祥寺を隠居所とし、1608年から西方山が領地となります。
経緯が?ですが、平島公方は徳島藩に対して待遇改善を訴えていました。
それに対する当てつけだったのかもしれませんが・・・
平島公方は1805年、遂に阿波を脱出して紀伊へ移ります。
この時まで、西方山は平島公方の領地でした。


所在地:徳島県阿南市長生町西方 GPSログダウンロードページ

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一宮城/徳島市

一宮城は阿波国最大の山城で、阿波小笠原氏の本拠でした。
訪問日は2018年8月4日です。

【1】一宮城

一宮城跡への登城口入口です。
一宮神社を目印に車を走らせましたが、あまり目立たず。
「・・・ビックリマーク」で一度通り過ぎてしまいましたあせる
ここから細い路地に入ります。

【2】一宮城

入口を曲がった所にある豪華な説明板です合格
真新しい感じがしますが、日付は9年前の平成21年です。

【3】一宮城

車は神社裏のここにしか停めることができません。
頑張ればギリギリ軽3台までは停められそうです。
有料なので、木にくくられた赤ポストに300円納めました。

【4】一宮城

その真正面が登城口です。
ここの案内図付きの説明板もかなり新しい感じです。
それだけ地元の期待を集めたということでしょうか。
神社の方が話しかけて来て、埼玉から来たと言うと
「埼玉と岐阜はよーけ来はりますわぁ」
とおっしゃっていました。
城キチの棲息域は、かなり偏りがあるようですw

【5】一宮城
拡大表示

せっかくのご好意なので、パクらせて頂きます♡

【6】一宮城

続日本100名城スタンプ設置場所
【7】一宮城 一宮神社裏の登城口
 押せる時間 いつでも可

この案内図の右側の柱に、続日本100名城スタンプがあります。
いたずらが心配ではありますが、いつでも押せるのはありがたい事です。

【8】一宮城

登城路はこんな感じで整備されています。
山城の階段は段差があってモモ上げキツイですが、ここはいい感じです音譜

【9】一宮城
登城口から2分

登り始めて最初に現れたモニュメントです。
何だろ何だろ?と見ると「経筒出土地」と書かれていました。
平坦地は見当たらないのですが、ここにお寺があったんだそうです。
その脇にあるのが「本丸まで500メートル」の標柱です。

【10】一宮城
登城口から5分

もうちょっと進むと、今度は「竪堀」の札が立っていました。
ようやく城跡らしい用語が現れ始めましたラブラブ

【11】一宮城
登城口から6分

そのすぐ先には倉庫跡の案内が。
ちょっと脇に入って行くと、細長い曲輪がありました。

【12】一宮城
登城口から7分

次に現れたのがこの石積み。
その先が明らかに人の手が入った段差になっています。
城域に入り、何があったのか想像するだけで楽しくなってきます音譜

【13】一宮城

段差のちょっと先には、曲輪と書かれた札の立つ脇道があります。

【14】一宮城

蜜に誘われる蛾のようにふらふらっと入って行くと、ありました^^
奥にもう1段曲輪があります。

【15】一宮城
登城口から11分

登城路に戻って進むと、目の前を土の壁で遮られています。
その上が平らになっているので、曲輪がありそうな感じがします。

【16】一宮城

土の壁の手前で道なりに右へ進むと、こんな光景が現れます。
山城なので、やっぱり堀切様がいらっしゃいます恋の矢

【17】一宮城

堀切の底から左に入る虎口があり、入口に「財蔵丸」の碑があります。
案内図では「才蔵丸」と書かれている曲輪です。

【18】一宮城

今まであったどの曲輪よりも広いです。
だんだんと城の中心部に向かっているのが実感できました。

【19】一宮城

堀切様を振り返って見た所です。
坂道を登ってそのまま才蔵丸に入らないよう、掘った感じに見えますラブラブ

【20】一宮城
登城口から16分

今度は「門跡」が現れました。
その内側に石段があります。
慌てて門をくぐるとつまづきそうですね。
私みたいな慌てん坊にはとても有効な防御機構ですあせる

【21】一宮城

門の奥には「←本丸跡」「明神丸跡→」の案内がありました。
本丸は後ということで、先に明神丸を見てきました。
門跡からすぐ右を向くと、こんな感じで土の壁があります。
この上が明神丸という曲輪です。
門を上から守っていたんですね!

【22】一宮城

城跡の主要部には、このように拡大した案内図があります。
とてもわかりやすくていいですね合格合格合格
明神丸の内部は特に感慨も無い風景なので、パスしますあせる

【23】一宮城

門跡から左の本丸側を見た所です。
見た目は普通に道にしか見えないのですが、帯曲輪と書かれていました。
その説明書きにも「周りを帯状に細長く囲む」と書いてあるのですがあせる
ここの帯曲輪は、明神丸と本丸をまっすぐつなぐ通路的な所です。
もしかしたら、本丸と明神丸を囲んでつながっているのかもしれません。

【24】一宮城
登城口から21分

奥に見えて来たのが、本丸の石垣です。
続日本100名城スタンプに描かれた所です。
城内でしっかりした石垣があったのはここだけです。
昔はもっとあちこちにあったのかもしれません。

【25】一宮城
拡大表示

本丸の虎口の前に、またしても案内図がありました。
お城の構造がシンプルにわかりやすく描かれています。
今になって「あぁ、そうだったんだ」という所もありますが・・・
それは後程あせる

【26】一宮城

本丸内部の様子です。
思っていた程広くはありませんでした。
奥には石積みの上に小さなお社が祀られています。

【27】一宮城

ここにも拡大した案内図がありました。
とてもわかりやすいです合格

【28】一宮城

本丸のすぐ脇にある腰曲輪が釜床です。

【29】一宮城

釜床から見上げる本丸の石垣です。
石の積み方が徳島城に似ています。
徳島城がこちらに似たのが正解でしょうか。
平らな石がきれいに積まれています。

【30】一宮城

側面は途切れずに石垣が残っていますラブラブ

【31】一宮城

せっかくなので、見られる所まで見ようと奥へ進みました。
本丸から先は訪ねる人が少ないせいか、道も急に細くなります。

【32】一宮城
登城口から30分

案内図にあった、本丸からすぐの所にある堀切です。
これを見なければ、山城に来た気がしません(`・ω・´)

【33】一宮城

そのすぐ先に「花畑」の案内があります。
そこにあるのは木々が思い思いに茂る雑木林ですが・・・
すぐ下にある段々の平坦地のことのようです。

【34】一宮城
登城口から33分

さらに進むと、道の先にアレが現れました!

【35】一宮城

次の曲輪は小倉丸です。
案内図がかなり荒れ果ててしまっていますが、ギリ何とかわかります。

【36】一宮城

小倉丸に入る、長さ30メートル程の坂虎口です。
これはこれで結構キツイです。

【37】一宮城

小倉丸は細長い曲輪で、一番奥には櫓台があります。

【38】一宮城

再び道に戻ると、今度は空堀と竪堀がセットで現れます。

【39】一宮城

空堀はこんな感じで、一瞬堀切っぽく見えます。
この堀は小倉丸をぐるっと囲んでいる横堀でした。

【40】一宮城
登城口から40分

道はまだまだ奥へと続きます。
椎丸と貯水池跡への道が分岐しています。

【41】一宮城

そのまま椎丸方向に進むと、こんな感じのラスボス感のある所に来ます。
ここを登ったらゴール!みたいな雰囲気が漂っています。

【42】一宮城

登りきると小さな平坦地があり、その先に小さな段差があります。
小さな段差を登ると、その先にはさっきの3倍位の段差があります。

【43】一宮城
登城口から42分

2つの段差を越えた所が、ちょっと広い平坦地になっていました。
標示は見当たらなかったのですが、多分ここが椎丸です。
それまでの曲輪と比べると、やや草深い感じがします。
さらにその先の水手丸にも行きたかったのですが・・・
椎丸の先端は深い草に覆われて、先に進める雰囲気ゼロでした。
なのでここで城跡探索を終えて下りてきました。

しかし、どうしても気になって案内図を見ていると・・・
水手丸への道が、椎丸の脇から描かれていました。
あぁ、そうだったんだというのはこれで、先端部からは行けないのが正解。
椎丸の途中にあった段差から、右脇に進む道があったはずなのでした。


◆歴史◆

1338年、小笠原長宗により築かれました。

小笠原長宗は阿波守護・小笠原長房の四男です。
古くからこの地を支配していた一宮氏を滅ぼし、新たに城を築きました。
小笠原長宗の子・成宗が一宮大宮司職を継ぎ、一宮姓を名乗りました。
南北朝時代には南朝方として活動し、細川氏とたびたび戦いました。
そして1362年、細川頼之に敗れてその家臣となっています。
以後、戦国時代に至るまで、一宮氏が代々居城としました。

1582年、長宗我部元親の城になりました。

1573年5月、三好家一番の重臣・篠原長房が三好長治に攻められ自害。
三好長治の乱れを諫めた結果疎まれ、ライバルに讒言された結果でした。
すると、三好家中は真っ二つに分裂し、争うようになりました。
三好氏により傀儡と化していた阿波守護・細川真之が勝瑞城から脱出。
以後、反・三好長治方の旗頭となりました。
一宮成祐は反・三好長治方として活動。
1577年3月、伊沢頼俊とともに三好長治を自害に追い込みました。

その後、三好家主流派は、三好長治の実弟・十河存保を当主としました。
4月には伊沢頼俊が三好方の矢野国村に急襲されて戦死しました。
一宮成祐は孤立したため、長宗我部元親を頼るようになります。
十河存保との戦いは一進一退を繰り返し、一時は勝瑞城を奪いました。

1580年、織田信長は長宗我部元親に、家臣になるよう迫りました。
しかし、長宗我部元親はこの要求を突っぱねたため、敵対関係となりました。
このころ、畿内の三好氏が織田信長の軍門に降っています。
織田信長は長宗我部元親と対抗するため、畿内の三好軍を四国に派遣。
十河存保を助けるようになりました。
しかし、1582年6月、本能寺の変により織田信長が世を去りました。
織田方が浮足立った機を逃さず、長宗我部元親が十河軍を撃破。
ついに長宗我部元親による四国制覇が成し遂げられました。

この年の11月、恩賞話があると呼び出された一宮成祐でしたが・・・
待ち受けていた長宗我部家臣により殺されてしまいました。
一宮成祐は、畿内の三好軍が来た時に、密かに三好方に誼を通じました。
これが長宗我部元親にバレてしまい、謀殺されたのでした。
長宗我部元親は谷忠澄と江村親俊に一宮城を守らせました。

1585年、羽柴秀吉の城になりました。

羽柴秀吉は長宗我部元親を討伐するため、大軍を四国に送り込みました。
圧倒的な兵力差があり、長宗我部元親は降伏。
それまで制圧してきた阿波・讃岐・伊予が没収されました。
阿波には羽柴秀吉の家臣・蜂須賀家政が入りました。
蜂須賀家政は当初、一宮城を居城としました。

1586年、蜂須賀家政は徳島城を築き、居城を移しました。
一宮城にはその家臣・益田持正が城代として入りました。
阿波九城の1つとして重要な支城と位置付けられましたが・・・
1615年、江戸幕府の出した一国一城令により廃城となりました。


所在地:徳島市一宮町 GPSログダウンロードページ

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勝瑞城/徳島県藍住町

勝瑞城(しょうずいじょう)は阿波国の守護所でした
訪問日は2018年8月4日です。
信長の野望に登場したので、名前だけは大昔から知っていました。
読み方は間違っていましたけどあせる
なので、訪ねるのが凄く楽しみでした。

【1】勝瑞城

城跡の南西にある広大な更地が、館の跡です。
現在進行形で調査しながら整備中です。

【2】勝瑞城

勝瑞発掘現場事務所のプレハブです。
続日本100名城スタンプがある場所です。
いずれ資料館になったりするのでしょうか?
土日はお休みなので、スタンプは武田石油さんでゲット。
城跡の事を尋ねたら、とても親切に教えて下さいました。

【3】勝瑞城

復元された堀の跡です。
川越館跡にも似たようなのありますね(^^)

【4】勝瑞城

周りでは、高さ3メートル程の長い土が盛られつつあります。
土塁の復元中と思われます。
重機が乗っかった土塁なんて、貴重な光景ですw

【5】勝瑞城

館跡から道を挟んだ北側が城跡です。
歩道脇のバリケードは、これから発掘予定があるのでしょうか。

【6】勝瑞城

入口に案内があります。
城跡には見性寺があります。
車は城跡見学用の駐車場に停めた方が良さそうです。

【7】勝瑞城

案内の足元に、小さな城址碑があります。

【8】勝瑞城

交差点の向こうから既に見えていましたが、水堀が残っています。
この水堀の内側が見性寺の境内となっています。
だから、ここだけが残ったんですね!

【9】勝瑞城

水堀の外側を1周回ってみました。
田んぼ沿いは足元がジメジメしています。
なので、これから行かれる方は、水を通さない靴にした方がいいです。
水にもびっくりしましたが、一歩歩くごとに凄い数のイナゴが・・・
お寺の隣だから、農薬とか撒かないのかもしれません。

【10】勝瑞城

入口側は土橋でつながっていますが、裏にも木の橋があります。
こういう光景を見ると、昔もこうだったのかなぁと想像しちゃいます。


◆歴史◆

築城時期は不明です。

以下の通り、色々な説があります。
・1221年、阿波守護となった小笠原長清が守護所として築いた
・1338年、小笠原氏を傘下に収めた細川頼春が築いた
・1340年、阿波守だった細川和氏が隠居城として築いた
・1362年、細川清氏を討伐した細川頼之が勝利を記念し築いた
・1363年、細川頼之に阿波を与えられた弟・細川詮春が築いた

元々の地名は井隈庄だったそうです。
1362年の細川清氏討伐を機に「勝瑞」に地名を改めたそうです。
この頃から、阿波守護の阿波細川氏が代々本拠地としました。

1552年、三好実休が城主となりました。

1549年、畿内で三好長慶が細川晴元を討ち下克上を果たしました。
阿波守護の細川持隆は1530年代、兄の三好氏討伐に反対していました。
それが原因で兄弟で対立する程、三好氏には好意的だったそうです。
しかし、和解した兄が三好長慶に討たれ・・・
理由は不明ですが、細川持隆の反三好行動が事前に漏れ討たれたようです。
三好実休は三好長慶の弟で、兄に代わり四国の三好領を仕切っていました。

1562年、三好長治が城主になりました。

三好長慶ら三好氏の台頭を快く思わない勢力が、三好氏を攻めました。
その中心は六角義賢、畠山高政らでした。
この戦いは久米田の戦と呼ばれ、三好実休が戦死しました。
重鎮を失った三好一族ですが・・・
その後の教興寺の戦で勝利し、畿内から敵対勢力を一掃。
三好長慶が天下人となりました。

1578年、十河存保が城主となりました。

三好長治は強権的な統治を行ったため、家臣が次々と離反しました。
暴政を諫めた重臣の篠原長房や香川氏、香西氏らも離れて行きました。
これに目をつけた長宗我部元親が、傀儡となっていた細川真之を調略。
一宮城の小笠原成助も味方して、三好長治と戦いを討ち取りました。
三好一族は三好長治の実弟・十河存保を阿波の主とし、勝瑞城に迎えました。

1582年、廃城となりました。

長宗我部元親は三好一族と戦っていた織田信長と同盟を結んでいました。
近江と四国から、畿内の三好一族を挟み撃ちにしていました。
四国の完全制覇を目前にした1580年に、織田信長が臣従を要求。
長宗我部元親が突っぱねたことで、一転して敵対関係となりました。
長宗我部軍に攻められていた十河存保は必死に抵抗しましたが・・・
本能寺の変で織田信長が斃れ、9月に讃岐国虎丸城へ撤退しました。
その後、勝瑞城が使われることがなくなり、そのまま廃城となりました。

十河存保はその後、織田軍に協力し讃岐国十河3万石を返されました。
しかし1587年、仙石久秀の無謀な作戦により九州征伐で戦死。
子が幼かったことから領地を没収されてしまいました。
子の千松丸は生駒親正のもとに預けられ、3千石が与えられました。
1589年に豊臣秀吉に14歳で面会しましたが、領地が3千石とバレ・・・
豊臣秀吉は生駒親正がケチだと機嫌を損ねました。
その直後に千松丸が急死したため、生駒親正に毒殺されたと噂が流れました。


続日本100名城スタンプ設置場所
【11】勝瑞城

【スタンプ】勝瑞城 勝瑞発掘事務所
 ・押せる時間 平日8時半~17時
 武田石油(昭和シェルのガソリンスタンド)https://www.google.com/maps/d/view?mid=1xYD2OeDZRyh-l0KAuxQGkJxPfGc&ll=34.1327061168421%2C134.51758732894677&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
 ※発掘事務所がお休みの場合はこちら
 ・押せる時間 土日祝日の7時~20時
 ・定休日   第2・第4日曜日
 シューズショップタケダ
 ※武田石油がお休みの場合はこちら
 ・押せる時間 9時~19時

所在地:徳島県板野郡藍住町勝瑞

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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