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橘城/香川県三豊市

橘城は学校の裏山にありました。
訪問日は2018年8月5日です。

橘城【1】
①登城口

学校の裏山ですw
学校の運動場が運動公園にもなっていて、広い駐車場があります。

橘城【2】
①登城口にある説明板の図 拡大表示

登城口には立派な説明板があります。
せっかくなので、皆様にもご覧頂けるよう載せます♪
平たく言うと、パクリます。

橘城【3】
②遊歩道

場所が場所なので、とてもきれいに整備されています。
往時がこんな風だったとはとても思えませんが・・・

橘城【4】
③南側の四阿

小学校側の中腹に、少し広い踊り場的な空間があります。
普通だったら腰曲輪だと思いますが、上の縄張図にはありません。
近世の改変でしょうか?

橘城【5】
③四阿付近にある説明板 拡大表示

四阿から先の道端にも説明板があります。
こちらは北を向いているので、北が上の縄張図が載っています。

橘城【6】
④主郭虎口

登り切ると、虎口から神社が見えます。
こちらは縄張図に描かれているので本物ですね^^

橘城【7】
④主郭内部

主郭は広々としていて、お祭りが出来そうな安定感があります。
周囲を土塁が囲んでいる様子も写っています。

橘城【8】
④主郭を囲む土塁

その土塁です。
高低にバラつきがあり、ちょっとだけ途切れている所もあります。
途切れている所は、藪深い山城だと虎口と勘違いしそうな感じです。

橘城【9】
⑤南西の腰曲輪

土塁に沿って外周を歩いていると、南西に伸びる腰曲輪が見えます。

橘城【10】
⑤南西の腰曲輪

大した傾斜ではないので下りると、付け根に浅い堀切が見られます。
これだけ整備された山城でも、一歩外には手付かずの遺構があります^^

橘城【11】
⑤南西の腰曲輪

先程は城塁をそのまま真っすぐ下りましたが・・・
少し先(北側)には、緩やかにそっちへ下りていく道がありました。
普段道の無い所ばかり巡っていると、動きがついあせる直線的になります

橘城【12】
⑥北西の腰曲輪

さらに主郭外周を時計回りに進むと、再び腰曲輪が見えてきます。
今度は、上からも足元に堀切があるのが見えます。

橘城【13】
⑥北西の腰曲輪

先程のものよりも深く鋭く美しいですラブラブ

橘城【14】
⑥北西の腰曲輪

こちらの腰曲輪は、先端部にもう1段あります。
その段差が、こうして見下ろす程あります。

橘城【15】
⑥北西の腰曲輪

下から見上げると、土の壁にしか見えません。
どうやってここまで下りたのか、記憶にありませんが・・・w

橘城【16】
⑥北西の腰曲輪

尾根伝いに登ってくる敵を警戒したのでしょうか。
そこそこの広さがあり、柵を設置すれば簡単に防げそうです^^

【位置・再】橘城

私が辿った足跡です。
赤い線はGPSロガーで記録したものです。
近頃はみちびきなんかも打ち上げられ、対応機種も出てきてます。
精度とお値段が比例するので、私は安物を沢山ぶら下げて歩いてます。
そしていくつもの軌跡を取り込んで、一番幅が狭いものを採用してます。


◆歴史◆

大平氏が築き、後に矢野氏が居城としました。

ここもマイナーなせいか、ググって出てくるのはこれだけです。
説明板では15世紀後半から16世紀前半に大平国秀の居城だったとあります。
「大平国秀」でググると、今までとは違うものが出てきました。

橘城の別名は「天王城」でした。

城主として名前が登場する大平国秀は、大平国祐の異母弟でした。
大平国祐は讃岐守護代・香川氏の重臣として戦国時代に活躍した人物です。
別人でなければ、活動時期が説明板より100年近く後ろにズレます。
先日紹介した麻城の大平国久(近藤出羽守)が次兄に当たります。
麻城で調べてもわからなかった本名、ココで出てきました(*´▽`*)
ついでに書くと、大平国祐と近藤出羽守は双子だったそうです。

天王城で紹介されている縄張図は、現地のものより広く描かれています。
南側の四阿の所も腰曲輪で、そのすぐ南に大きな堀切が描かれています。
・・・今はもう無くなっちゃってますがあせる

少しだけおさらいすると・・・
・大平国祐は香川之景の重臣として活躍した
・香川之景は1578年、長宗我部元親に降りその次男を養子に迎えた
・同時期、一度は降った大西覚養が背き、長宗我部軍に攻められた
・居城を追われた大西覚養が、大平国久を頼って麻城に逃れて来た
・麻城は落城し大平国久は討死、大西覚養は長宗我部家臣となる
な感じです。

1578年、長宗我部軍に攻められたようです

ググっても間接的な情報しか出てきませんが・・・
南西の伊舎那院が1578年、長宗我部軍により焼かれています。
慶長年間(1596-1615)に再建され、大平国秀の供養塔があります。
三豊市のサイトでは、大平国秀が伊舎那院で切腹したとあります。

さらに、城跡の目の前にある鉾神社は、大平国秀による創建でした。
それまで3つに分かれていた鉾神社をまとめて合祀したそうです。
驚くべきは、近藤出羽守が大平国秀や妻子、家臣の供養をしたそうです。
近藤出羽守は1578年、長宗我部軍に攻められて戦死しています。
ただ、長宗我部軍に一度降った大西覚養が近藤出羽守の所に来ています。
伊舎那院と鉾神社をググって出てきた情報から推測すると・・・

長兄・大平国祐は長宗我部軍に敗れた後は潜伏していた
次兄・近藤出羽守は長宗我部軍に降ったものの大西覚養に同調した
三男・大平国秀は長宗我部軍と戦い伊舎那院で自害した

直接こう書かれたサイト様が無いので、状況からの推測です。
ココだけ切り取って「なぽが言ってたw」なんて書かないで下さいネ。

矢野氏が居城としました

・・・と書かれていますが、それ以外何も出てきませんでしたあせる
ググってみると、三豊市には矢野姓の方が多くいらっしゃるようです。


所在地:香川県三豊市財田町財田上 GPSログダウンロードページ

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麻城/香川県三豊市

麻城は、真夏でも大丈夫な山城でした。
訪問日は2018年8月5日です。

麻城【1】

麻城への道は白セメントの林道ですが、ちゃんと案内が出ています。
この看板が出ている辺りから北側に入ります。

麻城【2】

県道から入った細い道にも、ちゃんと案内があります。
ここからもっと細い道へと入ります。

麻城【3】
①車を停めた場所

この道は軽で通るような白セメント道です。
停める場所ばかりが気になり出したので、ここから歩くことにしました。
GPSログの赤い線は、ここからスタートです。

麻城【4】
②分岐

白セメント道に積もる竹の葉の厚みが増していきます。
全くではないにしろ、殆ど車が通らない道なんですね。
こんなに進んでも、分岐にはちゃんと案内があります合格

麻城【5】
③案内図 拡大表示

城域の入口には、立派な図があります。
高低メインの案内図も珍しいですが・・・
それぞれの曲輪の関係性も見えて来そうな図です。

麻城【6】
④堀切

早速ですが、案内図のすぐ後ろに立派な方がいらっしゃいますラブラブ
山城ということで、来るまでは藪が心配でしたが杞憂でした^^

麻城【7】
⑤案内

すでに堀切はありましたが、案内はまだ続きます。
これで終わりぢゃないんだぜ!というのがわかります。

麻城【8】
⑥馬切

さらに進むと、道端に白い案内があります。
何があるのかと見ると「馬切(空堀)」と書かれています。
現地ではわかりませんでしたが、案内図には大きな堀切が描かれています。
この写真では、右に分岐しているように見えるのが堀のようです。

麻城【9】

もうドップリ城内に入っているのですが、案内はまだまだ続きます。
私も昔は「とりあえず本丸派」だったので、気持ちはわかります^^

麻城【10】
⑦ねらい岩

次に現れる案内が「ねらい岩」です。
図で見た時は、弓や鉄砲の練習をする的なのかと思いましたが・・・
案内にはカッコ書きで大門石と書かれています。
侵入して来た敵をここで足止めして・・・でしょうか。

麻城【11】
⑧第二郭

細い土橋状の地形から、一気に開けた場所に出ます。
案内には第二郭と書かれています。
ここに弓や鉄砲を並べれば、細道を来る敵は一網打尽ですね!

麻城【12】
⑨本丸

そして、第二郭奥の一段高い所が本丸です。
表現を合わせれば第一郭か主郭なのですがw
「本丸跡」「近藤出羽宮」「麻城」など、札や石碑が賑やかです。
裏には説明が書かれていますので、お見逃しなく!
これだけ思いが詰まった城跡だからこそ、手入れがされているんですね。
見た所完全に私有地ですし、現城主様には頭が下がります。

【位置・再】麻城


◆歴史◆

戦国時代は近藤出羽守が城主でした。

麻城でググって出て来るのは
・城主は近藤出羽守だった
・近藤出羽守は大平国祐の弟だった
・大西覚養が麻城に逃れて来たため1578年に長宗我部軍に攻められた
ぐらいです。
長宗我部元親が勢力拡大のためあちこち攻めたのはわかります。
でも、それだけじゃわかったような、わかんないような・・・
城キチ兼ちょい歴オタとしては腑に落ちず。
気になったので、当時の状況を小一時間調べてみました。

1577年は、四国が大混乱した年でした。

阿波の三好長治は織田信長と争い、畿内の拠点を完全に失いました。
その後、異父兄・細川真之とも対立して1576年に自害。
三好長治には子が無かったため、後継者を巡り大混乱に陥りました。
この機を逃すまいと、毛利軍が讃岐へ侵攻。
香川之景が讃岐国内での活動を再開したのは、この時期でした。
その直後に、長宗我部元親は大西覚養の白地城を攻めました。
白地城は讃岐・伊予・阿波・土佐の国境に近くにありました。
土佐を平定した長宗我部元親が、四国制服に動き出したのはこの時です。

兄・大平国祐は香川氏の重臣でした。

大平氏は藤原秀郷を祖とする近藤氏流で、土佐七雄の大平氏と同族です。
大平国祐の正室は、讃岐守護代・香川元景の娘・妙通です。
香川家は1577年、長宗我部軍に攻められました。
翌年、香川之景(大平国祐の義兄弟)は、長宗我部元親に降伏します。
大平国祐はその後も活躍しており、ともに従ったものと考えられます。

大西覚養は、四国の要衝を抑える国人でした。

大西氏も藤原秀郷を祖とする近藤氏流で、大平氏とは同族です。
大西覚養は三好長慶の娘を娶るなど、三好家とは良好な関係にありました。
1577年、長宗我部軍に白地城を攻められたため降伏しました。
そんな中、混乱の続いていた三好家は十河存保が家督を継ぎました。
十河存保は、反長宗我部の姿勢を打ち出します。
織田家の四国攻略担当・三好笑岩が、大西覚養を説いたため挙兵します。
しかし、再び長宗我部軍に攻められ落城したため、麻城へ逃れました。
大西覚養と近藤出羽守の関係がいまいち???ですが・・・
近藤出羽守が大西覚養の誘いに乗っていたのかもしれません。
長宗我部軍はそのまま麻城を攻め、近藤出羽守が討死しました。
再び降伏した大西覚養は、長宗我部家臣として阿波攻略を担当します。
重清城へ赴き降伏を説くものの拒絶され、城主だった娘婿を殺しました。
しかし、十河存保に攻められて討死しています。


所在地:香川県三豊市高瀬町上麻 GPSログダウンロードページ

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羽床城/香川県綾川町

羽床城は、真夏にはギリギリアウトな山城でした。
訪問日は2018年8月5日です。

羽床城【1】
①入口

羽床城は、讃岐平野と南側の山地の境目にありました。
お城は小さな山というか丘を、丸々1つ利用しています。
大した高さではないのですが、案内は「登山口」と書かれています。
雰囲気的にはそんな感じですクローバー

羽床城【2】
①説明板 拡大表示

そんな「登山口」にある説明板です。
内容はザックリですが、イラストもザックリです。
微笑ましいのですが、城キチにはお宝です合格

羽床城【3】
①道端の案内

登山口から集落の通路っぽい道に入り、すぐに案内があります。
この案内が無いと、100人中100人通り過ぎると思います。
往時もやっぱりこんな感じだったのでしょうか?

羽床城【4】
②城塁と案内

山道っぽい山道に入ると、すぐに道が分かれます。
ここに案内があり、本丸は矢印の先の高みにあります。
城キチなら、何も無くてもそっちへ吸い寄せられます。

羽床城【5】
③本丸入口

その吸い寄せられた先で、土塁が開口しています。
私の目には、後世に開けられたようにしか見えず・・・
しかし、今となってはココが唯一のまともな通路です。

羽床城【6】
④本丸内部

ついに到着した本丸です。
緑がとっても豊かですクローバー
草丈は腰の高さまであり、散策出来る場所が限られます。

羽床城【7】
⑤本丸虎口

そんな中、あとちょっと!のつもりで見つけた虎口跡です。
白い案内が出ていたので、何だろう?と吸い寄せられました。
そんな同類のおかげか、足元の草がそこだけ薄くなっています。

羽床城【9】
⑥二の丸の土塁

続いては、本丸前の分岐から城塁に沿って進みます。
すると、二の丸の痕跡にたどり着きます。
上の白い板には「←本丸」と書かれています。
どうやら竹藪の細道を辿ると、先ほどの虎口に行けるようです。
季節が季節なので、試す度胸はありませんでしたあせる

羽床城【10】
⑥説明板 拡大表示

二の丸の土塁の前に、羽床城の説明板があります。
こちらは教育委員会が設置した、かなりマジメなものです。
城キチ以外の人は、本丸行ってオシマイの人が大多数だと思いますが・・・
ニッチな嗜好の者にだけ与えられた特別賞、とでも捉えておきますw

羽床城【11】
⑥城址碑

ついでに、さらに奥には城址碑まであります。
昔はこっち側が正面の入口だったとしか思えない配置です。

【位置・再】羽床城

羽床城の撮影位置図です。
毎回呼び名が変わるのは、気分が変わるからですw
ポイントは本丸だけではないということ。
本丸を見たら、奥にも足を運んで下さい^^


◆歴史◆

羽床氏の城でした。

羽床氏は讃岐藤原氏の一族で、平安時代末に讃岐に下向しました。
初代は藤原資高で、治承年間(1177-81)に羽床の庄司となっています。
藤原資高は領地の地名から羽床姓を名乗り、讃岐藤原氏の嫡流となります。
讃岐藤原氏は多くの氏族にわかれ、讃岐藤家六十三家と呼ばれました。

承久の乱では宮方となりました。

鎌倉幕府3代将軍・源実朝が1219年に暗殺され、ゴタゴタが表面化します。
すると、かねてから不満を抱いていた後鳥羽上皇が討幕のため挙兵。
この時、讃岐藤原一族の中でも対応が割れました。
嫡流の羽床氏は宮方となったものの、新居氏は武家方となりました。
承久の乱は武家方の勝利に終わり、宮方の羽床氏は領地を没収されました。
武家方だった新居氏は讃岐藤家の惣領となり、香西氏に改姓します。
南北朝時代にも同様に分かれ、羽床氏の立場は一層厳しいものとなります。
羽床氏は以後、香西氏に従うこととなります。

1587年、廃城となりました。

戦国時代、讃岐藤家六十三家は細川吉兆家に従っていました。
細川家衰退後、羽床伊豆守は長宗我部元親に抵抗したものの軍門に降ります。
羽床伊豆守の没後は、次男の羽床資吉が家督を継ぎました。
羽柴秀吉による四国征伐により、讃岐藤家の棟梁・香西氏が滅びました。
羽床資吉は讃岐の国主となった仙石久秀の配下となりますが・・・
豊臣秀吉の九州征伐に参陣し、戸次川の戦で羽床資吉が討死。
羽床氏の嫡流が絶え、この時に廃城になったとされます。


所在地:香川県綾歌郡綾川町羽床下 GPSログダウンロードページ

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城山城/香川県坂出市

城山城も、瀬戸内海を見下ろす山上に築かれた古代城です。
訪問日は2018年8月5日です。

城山城【1】
途中にある説明板 拡大表示

城山城は、大部分がゴルフ場となっています。
途中でゴルフ場と山頂に道が分かれ、まずは山頂を目指しました。
ヘアピンカーブのように山頂への道へ入り、しばらく進むと白い板が。
城キチさんは、とにかくこういうのを見ると脚が止まります。

城山城【2】
拡大表示

ここの白い板は当たりで、城山城の案内図が載っていました。
この案内の短所は、現在地が示されていないことです。
構造はわかるものの、今ココからどう進めば良いのかが?です。
ここに描かれている「車道」は遺構の名前です。
事前に知っておきたかった・・・
普通の道路と勘違いすると???になりますあせる

城山城【3】

上の説明板の少しだけ手前に、登山口があります。
ここには車を停められませんし、暑いのでそのまま車で進みました。

城山城【4】
①石塁の案内

城キチ2回目のフリーズは、またしても当たりです。
道端に石塁の標示はありますが、それらしきものは見当たらず。

城山城【5】
①石塁への道

ただ、山中へと誘う細い小径があるばかりです。
真夏ではありますが、草が無いのでチャレンジです♪

城山城【6】
①石塁

このチャレンジは大成功!
50メートル程先に見事な石塁がありましたラブラブ

城山城【7】

そして山頂です。
何だか車が沢山いて騒がしかったですが、ココでは遺構は見られず。
ただ、説明板があったのでボーズではありません。

城山城【8】
②獣避けゲート

続いて、今度は水口・城門方向へ。
各所にかすかに出ている案内に従い進むと、ゲートが現れます。
ストッパーはありますがカギは無く、誰でも開けられます。
獣避けではありますが、ココは一応ゴルフ場の敷地内。
車は進んで欲しくないと解釈し、少し戻って広い路肩に駐車しました。

城山城【9】
③水口 説明板

ゲートから100メートル程進むと、道端に石積みが現れました。
古代城ではよく水門がありますが、ここは水口と呼ばれています。

城山城【10】
③水口の石積み

川を堰き止めるようなものではなく、排水口だったと考えられています。
説明板によると、ここには高さ3メートルの石塁があったそうです。
大半は壊されてしまいましたが、基部だけ残っているそうです。
もうちょっと奥まで見て来ればよかった・・・

城山城【11】
④城門の案内

水口のすぐ先は、ゴルフコースが横切っています。
正確には、ゴルフコースを道が横切っています。
その手前で道が分岐していて、私は右の高い方へ進みました。
それはそれで何かしら見られたかもしれませんが・・・
城門へは直進が正解です。
ゴルフとは無縁そうな私に声を掛けて下さった方、感謝してます♪
プレー中の方がいらっしゃったので、打ち終わるのを待ち前進。
芝生の中の道の先で、T字路になっています。
ここに案内があり、城門は左へ進んだ先だと教えてくれます。

城山城【12】

矢印の通り左を向くと、こんな感じになっています。
・・・どっち?www
城キチはとにかく高い方へと進みたがりますが、正解は左です。
ちょっと先でも道が2股に分かれますが、そっちも正解は左です。
案内って、こういう迷いやすい所にこそ欲しいです。

城山城【13】

ちょっと進んだ所に案内ありました。
とりあえず安堵し、素直に右へ進みます。

城山城【14】
⑤城門の説明板 拡大表示

道端に説明板が現れました!
城門は近い!と、気力の回復した私はズンズン進みました。
シカシ ススメドモ ススメドモ ジョウモンハ アラハレズ・・・
300メートル先まで進み、ゴルフコースが現れた所でUターンしました。
気づくのチョット遅過ぎますあせる

城山城【15】
⑤城門

あれ?おかしいなぁ?と説明板まで戻って来た私。
説明板の所で、さっきの道とこっちの道に分岐しています。
こっち側は、何も標示も無い下り坂の入口にしか見えませんでした。
しかし、これが城門です。
イメージと全然違う!と思いましたが・・・

城山城【16】
⑤城門

反対側はこうなっていますw

【位置・再】城山城

城山城マップです。
何となく山頂を目指すクセがありますが、山頂には説明板があるだけです。
すぐ下に石塁があることはありますが、それだけで帰っては勿体無い!
最大の見所である水口と城門へは、ゴルフクラブ入口を目指します。


◆歴史◆

屋嶋城と同じ時期に築かれたと考えられています。

屋嶋城は日本書記に登場しますが、城山城は登場しません。
しかし、その記述が
「築倭国高安城、讃吉国山田郡屋嶋城、対馬国金田城」
とあり、屋嶋城だけ郡名が書かれています。
そのため、讃吉国には山田郡以外にも城があったと考えられています。

他に城山城の存在を示唆する史料が『日本三代実録』です。
『日本三代実録』は平安時代に編纂された歴史書です。
この中の859年と865年の記述に、麓にある城山神社が登場します。
平安時代にすでに「城山」と呼ばれていたことが、この記述から判明。
それ以前から、山に城があったことがわかります。

屋嶋城が築かれた時期は、663年に白村江の戦に敗れた後です。
唐・新羅の反撃を恐れ、西国を中心に朝鮮式古代山城が築かれました。
671年に天智天皇が崩御し、皇位を巡って壬申の乱が起こりました。
この乱に勝利した大海人皇子が即位し、天武天皇となります。
天武天皇は新羅との国交を回復し、遣新羅使を年1回以上派遣しています。
次の持統天皇が、唐に倣って701年に大宝律令を制定。
国の名前が「倭」から「日本」となりました。
この頃から唐との国交も回復し、遣唐使の派遣が始まります。

この流れを見ると、城山城は造りかけだったのか?なんて思います。
完成していれば、日本書記に登場したかもしれませんね。


所在地:香川県坂出市西庄町 GPSログダウンロードページ

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屋嶋城/香川県高松市

屋嶋城は、瀬戸内海を見下ろす高台にあった古代城です。
訪問日は2018年8月5日です。

屋嶋城【1】
①駐車場隅にある案内

屋嶋城は公園として整備されています。
というか、公園の片隅にあります。
なので、駐車場脇にバッチリな案内があります。
左行って右行ってまっすぐという、ザックリですけどw

屋嶋城【2】
②屋島案内図

その右への曲がり角に、案内図があります。
古代城の「しま」は「嶋」ですが、地名は「島」です。
たぶんですが「嶋」は日本書紀の表記そのままなのだと思います。

屋嶋城【3】
拡大表示

案内図の中の、屋嶋城周辺を拡大するとこんな感じです。
現在地がドコなのか、迷子スキル高めな方には???かもしれません。
右隅に気になる地名がありますが、平家が滅んだのはココではありません。

屋嶋城【4】
③横堀?

崖っぷち遊歩道を進みながら、崖じゃない方を見ながら歩いていました。
すると!な光景が1か所あります。
山城ばかり見ていると、こういう所に魂が引っ張られます。
GPSログにも、その痕跡がバッチリ残っちゃってますあせる
古代城なので空堀は無いと思いますが・・・
もしかして、戦国時代にお城あった?
などと妄想を繰り広げながら辿りました。
地図見て思いましたが、たぶん、道の跡かもしれません。

屋嶋城【6】
④城門

ちょっとだけ寄り道しましたが、城門前に到着です。
上から見下ろすと、ほぼコンクリートです。
こういう復元のしかたに、賛否あるかもしれませんが・・・

屋嶋城【7】

実物大模型だと思うことにします。

屋嶋城【8】

門から外へ下りられるようになっています。

屋嶋城【9】

階段邪魔ですが、このアングル、最高ですラブラブ

屋嶋城【10】

このように、部分的にリアルがむき出しで見られる所もあります。
私はこっちのままの方が良かった・・・

【位置・再】矢嶋城

要らないかもしれませんが、一応付けときます。


◆歴史◆

『日本書紀』の667年条に登場します

「築倭国高安城、讃吉国山田郡屋嶋城、対馬国金田城」と記載されています。
日本各地で古代城が築かれたのは、663年の白村江での敗戦によります。
白村江の戦は、朝鮮半島での百済復興を賭けた戦いでした。
この戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、報復を恐れ国防を強化。
翌年には対馬や壱岐、筑前に防人が置かれ、水城が築かれました。
665年には、筑紫国に大野城基肄城が築かれています。
そして667年、上記の通りさらに3つの城が築かれました。
日本100名城・続日本100名城が一番多く築かれた時代だったんですね!
築城域がだんだん東に移り、対馬防衛を強化したように見受けられます。

意外な事実として、当時は天皇不在でした。
日本書紀では「天智6年」ですが、即位せず皇太子のままでした。
先代の斉明天皇は天智天皇の母親の女性天皇でした。
在位中の660年に白村江の戦が始まり、筑紫国の朝倉宮に滞在しました。
しかし、交戦中の翌年に斉明天皇が崩御。
そのため、大化の改心の中心人物・中大兄皇子が、そのまま継いでいます。
国を挙げての戦の指揮、敗戦、国防の整備と大化の改新が続きます。
忙し過ぎて、即位する時間が無かったようですね。
古代山城を次々築いた流れで、近江大津宮への遷都も行っています。
そして668年になり、ようやく即位して天智天皇となっています。

前述の通り、皇太子時代は中大兄皇子と呼ばれていました。
当時の人物は蘇我入鹿や中臣鎌足、大海人皇子などなど。
歴史の授業に登場した人物がひしめきあう激動の時代でした。
そして671年、天智天皇が崩御します。
戸籍や法令など、現代でも生きている制度はこの時代に出来たものです。

1998年1月、山上で石積みが発見されました。

日本書紀に登場するものの遺構が見つからず、それまでは幻の城でした。
しかし、城門正面の石積みが発見され、屋嶋城は実在の城となりました。
その後、発掘調査が進められ2002年には城門遺構が発見されました。
以後、城門遺構や見学路が整備され、2016年3月19日に公開されました。
古代城なのに、気軽に見られるようになったのはつい最近だったんですね!


所在地:香川県高松市屋島東町 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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