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桑折西山城/福島県桑折町

桑折西山城は、伊達氏が本拠地とした城でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】桑折西山城

よく紹介される入口は、南側の麓にある大手口です。
しかし、一歩でも半歩でも楽をしたい私・・・
じゃなく、雲行きが怪しくなって来たので、手っ取り早く城跡へ。
ということで、西側の西館から攻めました。
ここまで舗装道があり、いきなり城内に入れます。

【2】桑折西山城

土の壁から入ると、内側にも土の壁がw
どうやらここは外側の横堀跡のようです。

【3】桑折西山城

道を進み、虎口跡っぽい所から城内へ。

【4】桑折西山城

ここは西館の西側の下にある、隠居館と呼ばれた曲輪です。
防御力は無さそうな感じの、平らな曲輪です。

【5】桑折西山城

でも、斜面を削って平らにした所に特徴があります。

【6】桑折西山城

この段差、石積みなんですラブラブ

【7】桑折西山城

この石積みに沿って進むと、上がれそうな所があります。
城塁の途中に踊り場を付けた階段のような感じに見えます。
ここに簡易的な階段が付けられていたので上がりました。

【8】桑折西山城

上から見下ろした所です。
石の仕切りの内側から、クネッ、クネッと上がってくる感じです。
これ、虎口ですねラブラブ

【9】桑折西山城

上がった所には、広い平らな曲輪があります。
ここが西館です。
遠くに写っていますが、外周を低い石積みで囲まれています。

【10】桑折西山城

その中で一辺だけ、とても分厚い土塁で仕切られています。
土塁の向こう側は・・・

【11】桑折西山城

大きな堀がありましたラブラブ
端っこは浅いのですが、真ん中は深さ5メートル程あります。

【12】桑折西山城

堀の向こう側にも大きな曲輪があります。
こちらが中館です。
・・・空でゴロゴロと音がし始めたので、ここからは駆け足ですあせる

【13】桑折西山城

中館の先は、曲輪が段々になって低くなっていきます。
手前が中館、奥が唐沢という曲輪です。

【14】桑折西山城

中館をまっすぐ進むと、道に下ります。
この道は、中館と唐沢の間の堀跡です。

【15】桑折西山城

唐沢の南側を経て、上り坂の堀があります。
この左側が唐沢、右側が二の丸です。
二の丸の方が高くなっています。

【16】桑折西山城

道を上がり切って右に入った所が二の丸です。
こちらは西館や中館ほどは技巧的な感じがしません。
平らに馴らした平面を、段差をつけて並べた感じです。

【17】桑折西山城

先ほど上がって来た堀底道沿いには、低い土塁が見られます。

【18】桑折西山城

二の丸を一気に突っ切ると、一段高い曲輪の手前に堀があります。

【19】桑折西山城

この堀の向こう側が本丸です。
ここは真っ平らではなく、緩やかな傾斜になっています。

【20】桑折西山城

その一番高い所の木陰に城址碑があります。
空がご機嫌斜めになって来たので、名残り惜しみながら駆け戻りました。
歩いてみて感じたのは、とても巨大な城だという事でした。
ただならぬ城だと感じつつ・・・
この時はまだ、伊達氏の本拠だとは知りませんでした。
いつか機会があれば、半日ぐらい掛けてじっくり見直したいと思います。


◆歴史◆

1189年、常陸入道念西により築かれたと伝わります。

常陸入道念西は、伊達氏初代・伊達朝宗だと考えられている人物です。
諸説あるようですけど・・・
出自は下野国の中村氏という説がよく紹介されています。
常陸入道念西は、源頼朝の奥州藤原氏討伐に参加。
石那坂の戦で、奥州藤原氏配下の佐藤基治を破りました。
この戦功により、佐藤氏の領地であった伊達郡を与えられました。
この頃はまだ居館だったようで、当主は後に梁川城へ移りました。

1532年、伊達稙宗が居城としました。

伊達稙宗が梁川城から桑折西山城に居城を移しました。
この時に現在見られる規模の拡張したと考えられています。
伊達稙宗は羽州管領の最上氏、奥州管領の大崎氏に援軍を送りました。
その代償として自らの子を養子とさせ、陸奥全体に影響力を及ぼしました。
そして、1536年には前例の無い陸奥守護に任命されています。

1542年、天文の乱が始まりました。

伊達稙宗は周辺勢力を取り込み、勢力を拡大しましたが・・・
お気に入りの娘婿・相馬顕胤に一部領地の譲渡を約束しました。
これには嫡男・伊達晴宗をはじめ、猛反対が起きました。
更に三男の時宗丸(=伊達実元)を越後上杉家の養子にすると言い出しました。
越後の上杉定実には子が無く、養子が家督を継ぐのは確実ですが・・・
伊達家の猛者100騎を付けようというのは、流石にやり過ぎ!
という事で、伊達晴宗が遂に実力行使に出ました。
父である伊達稙宗を桑折西山城内に幽閉しました。
しかし、伊達稙宗派の小梁川宗朝が城内から救出し、戦いが始まりました。

1548年、廃城になりました。

伊達稙宗は当初優勢でした。
何せ、養子をあちこち送ってましたからねw
しかし、1547年になり蘆名盛氏が伊達晴宗方に寝返りました。
同じ伊達稙宗方の田村隆顕との間に発生した軍事衝突が原因でした。
味方が多過ぎても大変なんですねあせる
会津の雄・蘆名家が寝返ると、続く家が続出して形勢が逆転。
1548年に将軍・足利義藤(=義輝)の仲介により父子は和睦しました。
内容的には伊達稙宗の降伏で、家督を伊達晴宗に譲るという内容でした。

隠居した伊達稙宗は、伊具郡の丸森城へ。
勝利した伊達晴宗は、本拠を米沢城に移しました。
桑折西山城周辺は、伊達晴宗の弟・伊達実元に任されました。
しかし、伊達実元は桑折西山城ではなく、大森城の城主となっています。
桑折西山城は、和睦の条件としてこの時に破却されました。


所在地:福島県伊達郡桑折町万正寺

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大鳥城/福島市

大鳥城は信夫郡司・佐藤氏の城でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】大鳥城

城跡は現在、舘ノ山公園となっています。
ここは公園の西側にある矢庫との間の道です。
曲輪と曲輪の間であり、堀跡のようです。

【2】大鳥城

矢庫側の土塁上に、案内の標柱があります。
このすぐ脇から、矢庫の曲輪に入ることが出来ます。

【3】大鳥城

矢庫の曲輪内部の様子です。
名前の通りの用途だったようで、それ程広くはありません。
草木に覆われてわかりづらいのですが、土塁に囲まれています。
この奥に堀切があるそうなのですが・・・
藪の中だろうと諦め、見ていません。
ストビューで見たら、矢庫沿いの道を奥へ進むとよく見えます。
当時はまだ、ストビューは都会しか見られませんでしたからね・・・
やっちまいましたあせる

【4】大鳥城

矢庫と道を挟んで、大鳥城の主郭がありました。
内部は全面芝生張りで・・・どこかで見たのとソックリな光景ですw

【5】大鳥城

公園の片隅に、小さなお社と石碑が並んでありました。
これは大鳥神社で、佐藤基治と継信・忠信兄弟を祀っています。
お社が小さいのは、世を憚ったためでしょうか。

【6】大鳥城

主郭は外周を道路で囲まれています。
帯曲輪か横堀で囲まれていたのかもしれません。
そうでないかもしれませんが・・・わかりませんw
ここは公園の北側で、トイレのある駐車場です。

【7】大鳥城

ここに説明板があります。
駐車場の中ではなく、外の道沿いにありますw
通る車は少ないので、あんまり撥ねられる心配はありませんが・・・
設置場所はもうちょっと、ね♡


◆歴史◆

信夫佐藤氏の城でした。

築城時期は不明ですが、平安時代に信夫佐藤氏が居城としていました。
信夫佐藤氏は信夫郡司で、奥州藤原家に仕えていました。
しかしルーツは藤原秀郷で、左衛門尉の官職から佐藤姓となりました。
同族には、歌人・西行こと佐藤義清がいます。
ということで、元々は上方の武士だったようです。

1189年、鎌倉軍に攻められました。

平家を討伐した源頼朝は、腹違いの弟・源義経を討伐しました。
源義経は、若い頃に藤原秀衡を頼り、奥州に居ました。
その経緯は書き始めると長くなるので省きます。

源義経が兄・源頼朝を助けるため、鎌倉に行きました。
この時に付けられたのが、佐藤継信・忠信兄弟です。
2人とも義経四天王に数えられた剛の者です。
兄弟は信夫郡司で大鳥城主・佐藤基治の子でした。
佐藤継信は平家との屋島の戦で戦死。
佐藤忠信は源義経が追討令が出た際、吉野で陽動作戦を行い討たれました。

源頼朝は、藤原泰衡が源義経を匿っているとして、討伐しました。
鎌倉軍は3手に分かれ、本隊は中通りを進みました。
佐藤基治は石那坂の上に陣を構え、本隊を迎え撃ちました。
この時、鎌倉方として戦ったのが常陸入道念西です。
戦は鎌倉方が勝ち、大鳥城も落城。
佐藤基治は討ち取られたとも、戦後許されたとも伝わります。
だたし、領地は大幅に減らされ、伊達郡が没収されました。
その伊達郡は、伊達氏の祖・常陸入道念西の領地となりました。

大鳥城のその後はわかりませんが、佐藤基治の子が継いだと思われます。
南北朝時代には、12km南の大森で佐藤性妙が北朝方として活動しました。
佐藤性妙は佐藤基治の弟の子孫です。
大鳥城が宗家、大森に分家が居たという事かもしれません。
佐藤性妙は1352年以降、陸奥での記録が無くなります。
この頃に伊勢に移ったと考えられています。
城の構造からしても、この時期までには廃城になったと思われます。


所在地:福島市飯坂町舘ノ山(舘ノ山公園)

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大森城/福島市

大森城は伊達実元・成実父子の城で、中通り攻略の拠点でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】大森城

大森城跡は現在、大森城山公園となっています。
その入口がココです。
ココは城跡の東側で、真正面に横たわっているのが城山です。
大きな公園なのですが、そんな風には見えません。

【2】大森城

公園までは道が舗装され、東から南端へ回り込んで駐車場に至ります。
駐車場がこんなに広いのですが、普段は貸し切り状態です。
桜の名所なので、お花見の季節には満杯になるのかもしれません。
写真にコッソリ写っていますが、この駐車場には猫が沢山いましたオッドアイ猫

【図】大森城
拡大表示

駐車場には公園の案内図があります。
こうして見ると、理科の教科書に載ってそうな形をしています。
城キチ風に色眼鏡を掛けると、南北の連郭式だったように見えます。

【3】大森城

城山公園というだけあって、ガッツリ公園です。
曲輪内は平らに馴らされ、ほぼ全面芝生張りとなっています。
通路脇に見える木は桜で、今頃は満開で酒盛りで賑わってそうです。

【4】大森城

そんな公園の一角に、次元の違う場所が1か所だけあります。
主郭の手前(駐車場寄り)の堀と土塁が残されています。
かなり諦め掛けていた城キチ魂が、ここで息を吹き返しましたラブラブ

【5】大森城

堀跡に沿って歩くと、ちゃんと空堀跡と表示されています。
大森城跡でハッキリ見ることが出来る、数少ない遺構です。
真ん中の橋がチョット・・・ですがあせる

【6】大森城

主郭内部の様子です。
全面芝生で、桜の木がポツポツ生えています。
ドンチャン騒ぎをして、そのままゴロン出来そうです。

【7】大森城

堀跡の方を振り返ると、堀に沿って土塁が残っていました。
端っこなので、削り忘れられて生き残った感じがします。

【8】大森城

あとは先端目指して奥へ進むだけです。
その途中、立派な城址碑がありました。

【9】大森城

もう1つ立派な石碑があったので立ち寄ると・・・
これも城址碑でした。
すぐ脇に書かれている文字を写した説明板がありました。
これ、とっても親切ですラブラブ
石碑の文字が読めなかったので、これが無いと気付きませんでした。

【10】大森城

だだっ広い芝生の公園ですが、その北端にこれがあります。
雰囲気はいまいちですが、一応櫓を模した展望台です。
少し雲があったので、ちょっと風雲急を告げる風に撮ってみましたくもり

【11】大森城

帰りは公園の東端を歩きました。
ここは主郭脇の犬走です。
削られたのか、元のままなのかは?ですが、雰囲気がありますラブラブ

【12】大森城

こちら側には土塁が残っていました。
外側から犬走→土塁→堀→城塁です。
横堀の外側に犬走があるのは珍しいです。
もしかしたら二重堀だったのかもしれませんけど。


◆歴史◆

築城時期は不明確です。

通説では伊達氏が室町時代に築いたとされます。
ただし、城跡周辺には古墳もあり、信夫佐藤氏の記録もあります。

信夫佐藤氏の本拠は、12km北の大鳥城でした。
平安時代に勢力を拡大した陸奥の雄・藤原基衡の家臣となります。
藤原秀衡が源義経に付けた佐藤継信・忠信兄弟も信夫佐藤氏でした。
兄弟の長兄・佐藤基治は1189年、石那坂の戦で鎌倉軍と戦いました。
佐藤氏は戦に敗れたものの、多くの領地を没収されながら存続しました。
この時没収された伊達郡に入ったのが、伊達氏の祖・常陸入道念西でした。

『小手濫觴記』に「信夫の領主十郎盛衡は大森に住し」とあるそうです。
・・・と、某大聖典の492ページに書かれています。
「大森に住し」が大森城だったのかは???ですけどあせる
この「十郎盛衡」をググると、佐藤性妙のことのようです。
佐藤性妙は南北朝時代の人物で、信夫郡の武将でした。
北朝方に属し、石塔義房に従い南朝方と戦いました。
しかし、1352年に本拠を伊勢国一志郡に移したようです。
おそらく、その後に伊達氏の領地になったものと思われます。

戦国時代は伊達実元が城主でした。

伊達実元は伊達稙宗の三男で、越後上杉家へ養子に出される予定でした。
これに長兄・伊達晴宗をはじめ重臣一同が猛反対します。
この計画を阻止しようと1542年に始まったのが、天文の乱です。
伊達実元は天文の乱で、父・伊達稙宗方として兄と戦いました。
しかし、戦は将軍の仲裁により、伊達稙宗が隠居することで和睦。
以後、伊達実元は兄・伊達晴宗に従うようになりました。
伊達実元がいつから大森城主なのかが?ですが・・・

一般的に1542年、伊達晴宗により築かれたとするのが通説です。
伊達稙宗は乱の間、南にあった八丁目城を拠点としました。
通説通りなら、大森城が伊達晴宗方の最前線だった事になります。
乱終結後、伊達晴宗は居城を梁川城から米沢城へ移しました。
そして、信達地方の統治は弟・伊達実元に任せています。
敵対したとはいえ、兄からはとても信頼されていたようです。
伊達実元は1583年に隠居し、子の伊達成実が城主となりました。

1586年、片倉景綱が城主となりました。

伊達成実は二本松畠山氏討伐の功により、二本松3万8千石に移りました。
代わって城主となったのが、片倉景綱です。
片倉景綱は・・・有名なので省きますw
大森城は蘆名氏や相馬氏との戦で、伊達軍の拠点となりました。
伊達政宗の南陸奥制覇に、とても重要な役割を果たしました。

1593年、一度廃城となりました。

1590年に行われた奥州仕置きでは、大森城はまだ伊達家の城でした。
しかし、同年起きた葛西大崎一揆は、伊達政宗が扇動したと疑われます。
伊達政宗は上洛して申し開きをし、一揆討伐のため出兵しました。
しかし一揆鎮圧後、信夫郡は没収されて蒲生氏郷に与えられました。
そこへ、蒲生氏郷の与力となった木村吉清が入り、大森城主となります。
木村吉清はその後、大仏城を改修して地名を「福島」と改めました。
この時に大森城が廃城とされています。

1598年、上杉景勝家臣・栗田国時が城主となりました。

蒲生氏郷の没後、蒲生家はお家騒動により大減封を受けました。
この時に代わって会津に入ったのが上杉景勝です。
信夫郡にはその家臣・栗田国時が入り、大森城を拠点として再整備しました。
栗田国時は1600年、関ヶ原の戦直前に徳川家康に寝返りました。
しかし、関東を目指す途中で上杉兵に追いつかれ、殺されています。

1664年、再び廃城となりました。

代わって大森城主となったのが、芋川親正です。
元は武田家臣でしたが、武田家滅亡後に上杉家臣となりました。
この時に、織田家臣・森長可により居城を攻め落とされています。
上杉景勝が会津に移った際は、白河小峰城主となっていました。
・・・100名城の城主様だったんですねラブラブ
その後、栗田国時の脱走後、信夫郡に配置換えとなりました。
以後、大森城は代々芋川氏が城主を務めました。
しかし1664年、藩主急死のドタバタを責められ、領地が半減されました。
この時に信夫郡が天領となり、大森城は廃城となりました。


所在地:福島市大森字本丸(大森城山公園)

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八丁目城/福島市

八丁目城は、対畠山家の最前線にある伊達家の城でした。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】八丁目城

「八丁目」という名前がとても気になりながらの訪問でした。
一丁目城から七丁目城があるのか?といえば、ありません。
今の地名も八丁目ではなく、昔は「丁目」という名称自体がありません。
これは、二本松畠山家との勢力境から八丁の距離にあるという意味でした。
写真は城跡の入口にある幼稚園前から城跡を見たところです。
道の突き当りが広くなっていて、車を停めても大丈夫そうな感じです。

【2】八丁目城

上の写真でチラっと見えていましたが、緩い段々が連なっています。
城跡の案内は特にありませんが、何となくで散策しました。

【3】八丁目城

道というか歩いた跡もハッキリしませんが、とりあえず高い所を目指します。
奥に進むにつれて、段差もだんだん高くなってきました。

【4】八丁目城



すると、怪しげな石段発見(*'▽')

右側の石碑には「西光寺愛宕堂」と彫られています。

お寺のお堂にしては、真っすぐな石段ですw



【5】八丁目城



石段を上がる途中、振り返って見ました。

手前に帯曲輪があり、城下を見渡せます。



【6】八丁目城

石段の上にあるお堂です。

お堂、ですねw

後ろに城塁が見えるので、ここは腰曲輪です。



【7】八丁目城



奥にもう一段あります。
その奥が高くないので、主郭のようです。

【8】八丁目城



主郭への入口です。

たくさん歩いて出来た窪みにも見えますが、虎口のようです。



【9】八丁目城



主郭です。
ここに稙宗さんも居たんですね!





◆歴史◆
お隣の土合舘を先に書いたので、そのままコピペでも良かったのですが・・・

改めて「八丁目城」でググると、内容が若干異なっていました。

両者の違いをあれこれ想像しつつ、書いてみました。




二本松の畠山家との境目の城でした。



築城時期は不明ですが、1540年代は伊達家臣・堀越興行が城主でした。

土合舘の説明板では、八丁目城の城主は清野氏→堀越氏でした。

しかし、八丁目城でググると堀越氏→清野氏→堀越氏の順が多かったです。



八丁目城側で多かった内容は以下の通りです。

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1542年に始まった天文の乱では、堀越興行は伊達稙宗方でした。

伊達晴宗方だった二本松城の畠山家を攻め、伊達稙宗方に転じさせています。

1543年8月から1年半は、伊達稙宗がこの城に居ました。

1548年に天文の乱が終結後、清野備前守・遠江守父子が城主となりました。

清野備前守は南東約1.5kmの所に新たに城を築き、そこで隠居しました。

以後、八丁目城を西舘、土合舘を東舘とも呼ぶようになりました。

その後、清野遠江守は伊達家に背き自害。

八丁目城に堀越氏が復帰し、堀越宗範が城主となりました。

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ここから私の推測ですが・・・

堀越興行は二本松畠山氏を味方に付けた事で、伊達稙宗が善戦。

そのため、勝った伊達晴宗に疎まれよそへ移され、清野父子が城主に。

しかし、今度は伊達晴宗と対立した伊達輝宗に粛清され、堀越氏が復帰。

・・・といった感じでしょうか。

サイト様ごとに微妙に異なっており、大雑把にまとめるとこんな感じです。



1570年、城主・堀越宗範が畠山義国に寝返りました。



城主の堀越宗範が、二本松の畠山義国に寝返りました。

そのため、伊達領最南端の八丁目城周辺が畠山領となりました。

なぜ寝返ったのかも謎ですが・・・

時期的には伊達輝宗が当主としての実権を確立しつつある時期でした。

1564年に家督を継いだものの、隠居の伊達晴宗が君臨していました。

さらに、天文の乱で活躍した中野宗時らには、守護不入の特権もありました。

中野宗時ら重臣が幅を利かせ、伊達輝宗は名目だけの当主でした。

そんな状況を打破しようと動き出したのが、1570年でした。

伊達輝宗は中野宗時に謀反の疑いを掛けて討伐しました。

反対した家臣は容赦なく処罰し、伊達家中をまとめました。

この時、堀越宗範も処罰を受けたのかもしれません。



1574年、伊達実元の城となりました。



大森城主の伊達実元が攻め落とし、その属城となりました。

伊達実元は伊達晴宗の弟で、伊達輝宗の叔父に当たります。

伊達実元はそのまま二本松へ攻め込もうとしましたが・・・

畠山義国が伊達輝宗に泣きつき、和睦しました。

伊達実元は1583年に隠居すると、八丁目城を居城としました。

そして、1587年に八丁目城で没しています。



1590年頃に廃城となりました。



伊達実元の子・成実は、二本松畠山氏滅亡後、二本松城に移りました。

父の隠居城だった八丁目城周辺は、そのまま領地として保ち続けました。

しかし、父の没後は城としては使われていなかったようです。

1590年、豊臣秀吉が奥州仕置きと呼ばれる領地の入れ替えを行いました。

この時にその名代として陸奥に来た浅野長政が立ち寄っています。

翌年、伊達政宗が葛西大崎一揆を扇動したとして、領地を没収されました。

1587年の伊達実元死去から1591年までの間に廃城になったと思われます。





所在地:福島市松川町字伊藤


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土合舘/福島市

土合舘は八丁目城の支城で、現在は公園となっています。
訪問日は2016年8月3日です。

【1】土合舘

城巡りでは駐車場に困る事が多いのですが、ここは立派なのがあります。
立派すぎて、下手をすると貸し切りになりそうですw

【2】土合舘
拡大表示

駐車場だけでなく、案内図も立派なのがあります。
縄張り図ではありませんが、配置がとてもわかりやすく描かれています。
わかりやすくというより、色々勝手に妄想を膨らませる方ですけどあせる

【3】土合舘

まぁでも、下の方は「ここ城跡?」という位に普通の公園です。

【4】土合舘

普通の公園と違う所は、歴史が刻まれた岩が落ちている事です。
小さな文字でビッシリ書かれています。
あとで要所要所をパクらせて頂きますラブラブ

【5】土合舘

案内図右上のグルグルにある観音像です。
叶う、らしいです(*´▽`*)
背後の壁のような土盛りは、おそらく土塁と思われます。

【6】土合舘

城としての主要部は、もっと奥にあったようです。
案内図左上の神社へ向かうと、こんな感じで段差があります。
切岸を利用した滑り台、城跡あるあるです。

【7】土合舘

その上の段も、一番奥が段差になっています。
こんな感じで、曲輪が段々になって続きます。

【8】土合舘

さらに奥へ進むと、ひと際高い段差があります。
元々は道が無かったのか、段差を斜めに登った踏み跡があります。

【9】土合舘

一番高い所にある曲輪の入口です。
右側に土塁が残っており、どうやら元々虎口だった所のようです。

【10】土合舘

主郭と思しき曲輪にあるのが、駒形三社神社です。
薄暗い木陰に神社があると、どうしてもそれっぽく見えてしまいますラブラブ


◆歴史◆
土合舘は八丁目城と密接に関わっていました。
そのため、ここではほぼ八丁目城の歴史を書いています。


天文の乱の際に築かれました。

1542年に始まった天文の乱で、伊達稙宗が八丁目城に一時在城しました。
この時に八丁目城の城主の父・清野備前守により土合舘が築かれました。
そのため「隠居城」とも呼ばれたそうです。
城の造りは堅固で、八丁目城を西館、土合舘を東館とも呼びました。
この2つの城が連携することで、より強固になったそうです。
天文の乱は将軍が仲裁し、伊達稙宗が隠居することで終結。
その後、伊達稙宗と争った伊達晴宗に攻められ、清野遠江守は自害しました。
八丁目城は堀越宗範が城主となりました。

1570年、堀越宗範が畠山家に寝返りました。

伊達稙宗・晴宗父子の争いでは、堀越宗範は伊達晴宗方でした。
伊達稙宗方だった清野遠江守に代わって八丁目城主となっていました。
しかし、伊達家と敵対していた二本松の畠山義国に寝返りました。
何故だろう?と色々ググってみましたが、直接的なものは何も出ず。
推測ですが・・・
伊達家では、伊達晴宗が子の伊達輝宗と対立していました。
おそらく、伊達輝宗から何らかの圧迫があったと思われます。
時期的には伊達輝宗が中野宗時をはじめ、多くの家臣を処罰していました。
家中を掌握した伊達輝宗は、周辺勢力との融和に努めて勢力を拡大します。

1574年、伊達実元に攻め落とされました。

伊達実元は伊達稙宗の三男で、伊達晴宗の弟です。
越後の上杉定実の養子になりそびれた時宗丸が伊達実元です。
父と兄の争いでは父に味方し、乱後は兄に降伏してその右腕となりました。
堀越宗範を破ると、八丁目城と土合舘は伊達実元の城となります。
伊達実元は大森城主でしたが、1583年に隠居後は八丁目城を居城としました。
1587年、伊達実元は八丁目城で没しました。

1591年、廃城になったものと思われます。

伊達実元の子で二本松城主・伊達成実が、角田城へ移されました。
これは、伊達政宗が葛西大崎一揆を扇動したのがバレたのが原因でした。
二本松一帯は蒲生氏郷の領地となり、この時に廃城になったようです。


所在地:福島市松川町字土合舘(土合舘公園)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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