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福島城/青森県五所川原市

福島城は、下国安藤家の本拠地だった所です。
訪問日は2018年5月4日です。

福島城【1】
説明板を拡大表示

福島城は規模が大きいのですが、遺構が飛び飛びに残っています。
東西に走る県道12号南側が、城跡として認識されています。
その中で西側にあるのが、主郭とみられる内郭跡です。
県道からちょっと入り込んだ所に、説明板と櫓門があります。

福島城【2】

櫓門、いい雰囲気なので反対側からもラブラブ
その前の木橋もいい感じです。

福島城【3】

内郭の北側には、堀と土塁が残っています。
内郭はただの広場ですが、見てない反対側に虎口があるっぽいですあせる

福島城【4】

さて、次はちょっと離れた東側の外郭です。
距離があるので、車で移動します。
こちらには立派な駐車場があります。
GWなのに貸し切りでしたけどw

福島城【5】
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駐車場脇には、リアルでわかりやすい図があります。
かな~り範囲が広いですが、内郭が端っこにあります。
廃城時期が古いので、全体像が把握出来ない程広かったかもしれません。
古くから人が暮らしていた場所で、縄文時代の土器も見つかっています。

福島城【6】

駐車場から導かれるように奥へ進みました。
土塁上に遊歩道がある感じです。
途中、城キチなら!!!となりそうな凹みがあります。

福島城【7】

虎口だよな~と、撮った1枚です。
図に描かれている虎口だとは思いますが・・・
虎口、ですよね?

福島城【8】

土塁の先端ぽい所まで進んでUターン。
そのまま堀沿いに戻りました。

福島城【9】

堀はそのまま、県道まで続いています。

福島城【10】

県道側には、堀跡を示す標柱があります。
堀底は草が無く、まるで遊歩道♪

福島城【11】

ということで、今度は堀底を進みました。
かなり大きいですラブラブ

福島城【12】

奥まで進むと、ジメジメの湿地に出ます。
ここが図にある東の沢です。
足元がぬかるんでおり、天然の堀だったようです。

福島城【13】

ということで、歩けるのは土塁沿いにに限定されます。

福島城【14】

土塁に上がりました。
幅も高さもあるかなり大規模な土塁です。

福島城【15】
説明板を拡大表示

土塁の開口部に、何やら説明板が見えました。
近づいてみると、外郭門跡の説明板でした。

福島城【16】

近くには、二重堀っぽく真ん中が盛り上がった凹みが。
そのまま森の中に続いているようですが、草木で覆われていますクローバー

福島城【17】

すぐ近くには、井戸跡を示す標柱もあります。
東側を守る、とても大事な場所だったようです。


◆歴史◆

10世紀の遺物が出土しています。

築城年代は不明で、城域内には古代古墳もあったりします。
発掘調査の結果、この時期の擦文土器が出土したそうです。
擦文土器は蝦夷地で発展したもので、交易があった証拠です。
平安時代の十三湊は、安倍氏が押さえていました。
安藤氏の祖・高星丸が落ち延びて来た時は、安倍則任が居ました。
十三湊のどこにいたのかが?ですが、ここだったかもしれません。
安倍則任の子には後継ぎがおらず、奥州藤原氏から養子を迎えています。
安倍氏の家を継いだ藤原秀栄は、地名を取り十三姓を名乗ります。

1229年、安藤氏が十三氏を滅ぼしました。

安藤氏は1191年、源頼朝から蝦夷沙汰代官に任命されました。
当初は罪人を蝦夷地へ島流しにする役職だったようですが・・・
やがて、北条得宗家に代わり蝦夷との交易を管理する役となります。
現代風に言うと、北海道の名産品を独占するような地位です。
当時、蝦夷地との交易の中心地は十三湊で、十三氏が健在でした。
両氏の争いの中で、安藤氏が幕府の後ろ盾を得たのかもしれません。
十三氏を滅ぼした安藤氏は、十三湊を本拠とするようになります。
蝦夷地に一族を配し、その栄華は奥州藤原氏を凌いだと伝わります。

鎌倉時代末に、安藤氏の乱が起きました

1322年、蝦夷代官・安藤季長と従兄弟の安藤季久が争い始めました。
両者の争いは、蝦夷で起きた反乱に起因すると考えられています。
各地で起きた反乱は、安藤季久の活躍により鎮圧。
そのため1325年、北条高時は蝦夷代官を安藤季久に交代させました。
蝦夷代官の交代は、安藤家惣領の交代を意味します。
そのため安藤季長が猛反発し、幕府は工藤貞祐に鎮圧を命じました。
工藤貞祐は安藤季長を捕縛し、鎌倉へ連行したものの・・・
従兄弟の安東季兼らが挙兵したため、さらに討伐軍が派遣されました。
幕府軍と安藤季兼らの戦は一進一退を繰り返し、1328年に和議が成立。
安藤季久は名を下国宗季と改め、正式に安藤家の惣領となります。

南部家との争いに敗れ、廃城となりました。

下国安藤家ははじめ北朝方となり、津軽合戦奉行に任命されました。
曾我貞光とともに南朝方の南部家と戦い、根城を攻めたこともあります。
しかし、1341年に南部政長に誘われ、南朝方に転じました。
この頃から曾我貞光の消息がわからなくなり、安藤氏が大光寺を支配。
南朝方・北朝方を行き来し、勢力拡大を図りました。
1400年代になると、安藤盛季が南部義政と争いました。
1432年、南部義政が十三湊を攻め陥落。
この時は、将軍の仲裁により和議が結ばれ、十三湊は返還されました。
安藤盛季の娘が、南部義政に嫁いだのもこの時です。
しかし、その後も両家の争いは続き1442年に再び安藤家は敗北。
翌年には十三湊を去り、福島城は以後使われなくなりました。
安藤盛季は、一族の多い蝦夷地へと落ち延び津軽奪還を目論みます。
その後も子の安藤康季、孫の安藤義季が津軽奪還のため出陣するも連戦連敗。
1454年の敗戦時に安藤義季が自害し、下国安藤家は滅びました。
南部家は、以前捕らえていた潮潟師季に下国家を継がせました。
安東政季として傀儡にし、蝦夷地を支配下に置く狙いでしたが・・・


所在地:青森県五所川原市相内 GPSログダウンロードページ

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蓬田城/青森県蓬田村

蓬田城は津軽半島東岸にあった平城です。
訪問日は2018年5月4日です。

蓬田城【1】

青森から外ヶ浜へと通じる国道脇に、城址標柱と説明板があります。
城跡へは、ここから斜めに派生する脇道を進みます。

蓬田城【2】

間もなく、道の右側に赤い神社が見えてきます。
これが蓬田八幡宮です。
鳥居の前にある白い板が、蓬田城の略図です。

蓬田城【3】
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せっかくのご厚意なので、パクリます。
略図は範囲が広過ぎるので、城域周辺を拡大します。
これでもわかりづらいですが、A~Cが大館だと書かれています。
上の写真で実感無いと思いますが、大館のド真ん中です。
大館と小館があると書かれていますが、小館がどこかは?ですあせる

蓬田城【4】

ちなみに、略図は設置場所の立ち位置に合わせて描かれています。
略図を時計回りに40度回転させると、北が上になります。
現地では遺構がわかりづらかったので、見た所を書き込みました。
略図では道の奥にも大きな堀が描かれていますが、そこは?でした。

蓬田城【5】

あと、せっかくなので城址碑もラブラブ

蓬田城【6】

八幡宮から少し進んで左側にも、赤い鳥居があります。
ここから、杉林の中に入っていく道があります。

蓬田城【7】

まっすぐ進むと、下り坂になっている所があります。

蓬田城【8】

振り返ると、幅が15メートルくらいあります。
堀っぽく見えますが、堀にしては少し浅過ぎるような気もします。
改めて略図を見直しても、ここには何も描かれていません。

蓬田城【9】

そうこうする間に、弁天堂に到着です。
周りを見渡しても杉林しか見えず、ここも城跡感がありません。

蓬田城【10】

そのまま真っすぐ杉林を突っ切ると、開けた畑に出てきます。
これが、略図で弁天堂の真下に描かれている段差です。
周りを囲んでいる水田よりも、2、3メートル高くなっています。

蓬田城【11】

今度は、略図で八幡社の上に描かれているギザギザです。
弁天堂の真下のギザギザとは描かれ方が異なっています。
こちら側には堀が残っています。

蓬田城【12】

浅いものの、大好きな堀を見つけて大はしゃぎw
草ぼーぼーの堀底を辿ってみました。
その中で一番深かったのがココで、深さは2メートル程あります。

蓬田城【13】

堀底を辿るうちに足元がジメジメになり、進めなくなりました。
なので、どこまで続いているのか堀に沿って歩きました。
堀から少し離れていましたが、堀を横切る道ハッケン(++)v
祠のすぐ後ろを横切る少し窪んだ所が堀跡です。

蓬田城【14】

さすがにこの中歩けませんよね?
南東側では水が張っており、現役の水堀でした。
ただ、幅は無いので軽く飛び越えられてしまいそうですあせる


◆歴史◆

1238年に築かれました。

南の尻八館が築かれたとされる時期から8年経っています。
築いたのは、1229年に十三湊を手に入れた安藤氏と思われます。
蓬田城は津軽半島の東側を統治する拠点だったと考えらえています。
歴代の城主には、潮潟通貞も名を連ねています。
Wikipediaでは「1238年に潮潟道貞が築いた」と書かれていますが・・・
潮潟道(通)貞は、約200年後の室町時代の人物です。
現地の説明板は「1238年に築かれ、潮潟道貞の居城だった」です。
ニホンゴって難しいですねw
初期は小館のみで、後の時代に大館が築かれたとされます。

南北朝時代になると、安藤氏は南部氏と争うようになりました。
1432年、安藤盛季は南部義政に本拠の十三湊を攻め落とされています。
この時は幕府の仲介により和睦し、十三湊は安藤氏に返還されてました。
蓬田城が南部軍の手に落ちたのは、この年代の出来事です。
城主は潮潟通貞の子で南部義政の娘婿・潮潟重貞だったと考えられます。
潮潟氏の名が登場するのは1438年、その子・潮潟師季です。
この年に尻八館が攻め落とされ、潮潟師季が八戸へ移されています。
潮潟師季は後に南部家を脱出し、安東政季と名を改めます。
下北半島から蝦夷地へ渡った後、はとこに招かれ出羽へ移ります。
その後、津軽奪還のため南部家と争った檜山安東家の祖となります。

安藤氏退去後、奥瀬氏が城主となりました。

潮潟安藤氏の退去後、南部家臣・奥瀬氏が城主となりました。
奥瀬氏は、南部氏が陸奥へ下向した際の四天王・小笠原安芸の子孫です。
本拠は十和田市の奥瀬館で、戦国時代を通じ南部家中で重臣を出しています。
そのため、城主はその一族と思われます。
事績は???ですが、城主の名として奥瀬建助の名が伝わります。

文明年間(1469-87年)に、相馬則政が城主となりました。

平将門から8代の子孫とされる、相馬則政が城主となりました。
この相馬氏は二戸を本拠としており、南部氏の家臣です。
ググっていたら、やたら詳しいサイト様ハッケンしました。
詳しすぎてこんがらがりましたが、ザックリ書くと・・・
蓬田城【相馬家】
・1258年、相馬利久が筑前から二戸の常慎寺に移る
・相馬利久の家督は嫡男ではなく次男が継ぐ(理由は不快ナリ?)
・1307年、相馬利幸が相馬利雄と争いになり殺してしまう
・時期不明ながら、相馬則一が外ヶ浜蓬田に住む
・1355年、相馬則治が相馬利紀と争う(後に和睦)
・1456年、相馬則政が相馬利重と争う(後に和睦)
・1472年、相馬則政が外ヶ浜蓬田に移り蓬田姓を名乗る

前の城主・奥瀬氏は、外ヶ浜の代官として戦国時代まで続いています。
その居城が油川城ですが、かなり青森寄りです。
時期的には、南部氏が津軽を掌握しつつある時期です。
奥瀬氏の本家が、相馬則政を穏便に相馬利重と離したのでしょうか。
それとも津軽平定のため、外ヶ浜代官の助っ人として送り込んだのか。
地名をとって改名しており、戻る気ゼロだったようです。
色々ググってみましたが、結局理由は?のままでしたあせる

1585年、大浦為信に攻められ、廃城となりました。

大浦為信が津軽制圧に向け、外ヶ浜筋へ攻め込んで来ました。
この時、油川城をはじめ、外ヶ浜筋の城主達は対決姿勢を示しました。
大浦為信は油川城に狙いを定め、山上で大量の篝火を焚かせました。
すると油川城主・奥瀬善九郎は、戦わずに下北半島へ逃げてしまいました。
外ヶ浜代官が逃亡すると、蓬田越前の周辺で寝返る者が相次ぎました。
身の危険を察した蓬田越前は、南部家を頼り城を脱出。
大浦軍に制圧された後、蓬田城は廃城となりました。
油川城・蓬田城が無血開城すると、抵抗を続けていた他の城は降伏。
外ヶ浜筋は、戦わずして大浦為信の版図に加わりました。
蓬田越前がその後どうなったのか、ググっても???ですが・・・
弟の相馬小三郎は大浦家に仕え、代々津軽藩士として続きました。


所在地:青森県東津軽郡蓬田村大字蓬田字汐越

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尻八館/青森市

尻八館は、連なる山を2つ使った大きな山城です。
訪問日は2018年5月4日です。

尻八館【1】

登城口の山城公園です。
Google Mapでは公園に入る道が描かれていません。
何となく現地に来てみれば、普通に道は続いていますけどw
突き当りが駐車場になっており、ここから徒歩です。
目の前に池と斜面が立ちはだかり行き止まりに見えますが・・・
それも入口を隠す仕掛けなのかもしれません。

尻八館【2】
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駐車場にある案内図です。
図を見れば、岸に沿って進むことがわかります^^

尻八館【3】

岸からまっすぐ斜面を上がった所が陣場です。
広い平坦地が広がっており、四阿や標柱が沢山あります。
何も知らないと、ここが城跡だと勘違いしそうです。

尻八館【4】

尻八館はまだまだこの先にあり、山道が続きます。

尻八館【5】

土橋っぽい所を過ぎると、斜面に人工的な窪みが続きます。
この溝が何の目的で掘られたものなのか???ですが・・・
この溝に沿って山道を進みます。

尻八館【6】

傾斜がだんだんキツクなり、山城らしさが増してきます。
すると、曲がった先が見えない所があります。
これ、虎口ですよね(*´▽`*)

尻八館【7】

振り返るとこんな感じです。

尻八館【8】

ここから先は、小さな平坦面が段々に連なっています。

尻八館【9】

やがて大きな平坦面に至り、説明板と城址碑が迎えてくれます。
ここが尻八館だ(((o(*゚▽゚*)o)))となりそうですが・・・
城址碑の足元に、コッソリと「二の丸」と書かれています。
これが無いと、みんなここでUターンしますよね?
私なら笑顔で下山しそうです。

尻八館【10】

本丸はまだまだ先ということで、さらに奥へと進みます。
道の手前が何となく隠れて見えませんが・・・

尻八館【11】

真横から見ると、こんな風になっているからです。
二の丸の西側は、横堀で囲まれています。

尻八館【12】

尻八館は、イメージ的にはフタコブラクダです。
二の丸から一旦下り、鞍部の先に本丸があります。

尻八館【13】

本丸手前には二重堀切があります。
木が伐採されているので、その様子がとてもよく見えます。

尻八館【14】

堀切の先にあるなだらかな場所が現れます。
削平が甘く緩やかな勾配があるのでまだ先だと思っていましたが・・・

尻八館【15】

ここが本丸です。
二の丸のような城址碑や説明板はありません。

尻八館【16】

本丸の奥は尾根が削られ、細くされています。
これ、地形を利用した土橋ですよね?
城域はここまでですが、裏側にも警戒していたようです。

尻八館【17】

この土橋っぽい所に、ザックリと堀切が入れられています。
ココは土門と呼ばれている場所です。
裏の道がどこまで続いているのかが気になりました。
国土地理院の地図では、稜線を辿り津軽半島の反対側まで続いています。
そちら側にあるのが十三湊なので、非常時の道だったと思われます。


◆歴史◆

充実していた現地説明板の内容をベースに歴史を辿ってみました。
ただし、説明板に書かれている「湖潟」は「潮潟」と思われます。
ググってみましたが、「湖」はほぼ全滅でした( ;∀;)
そこだけは「潮」に置き換えています。

1230年、安藤氏により築かれたとされます。

築城者は書かれていませんが、アイヌのチャシをベースにしたとされます。
説明板にはひとこと、そう書かれているだけです。
時代背景としては、安藤氏が十三湊を乗っ取った時期です。
当時の十三湊を支配していたのが、十三氏です。
十三氏は安藤氏の恩人・白鳥則任の家を継いだ家柄です。
・・・文字だけだと混乱するので、ザックリまとめました。
安藤氏と十三氏
安藤氏と十三氏が争った理由は、蝦夷交易の権益でしょうか・・・?
1229年に安藤貞秀が十三秀直を破り、十三湊を手に入れました。
以後の安藤氏は、十三湊を本拠地とするようになります。
尻八館は、十三湊の東側を備える拠点だったように思われます。

1339年、曾我貞光に攻められました。

曾我貞光は大光寺城を拠点とした、北朝方の武将です。
当時、曾我氏は安藤氏とともに南朝方の南部氏と争っていました。
ただし安藤氏は一枚岩ではなく、上国家と下国家が争っていました。
上国家が北朝方で藤崎城、下国家が南朝方で十三湊を拠点にしたと思われます。
その後の歴史から逆算するとこんな感じ?という程度の推測ですがあせる
上国家と下国家の成り立ちからして、未だによくわかっていません。
ただし、蝦夷に影響力があったのが下国家だというのは確かです。

曾我氏が北朝方になったのは、陸奥国司・北畠氏への反発からでした。
詳しくは省きますが、領地を巡る手違いが遺恨の始まりと考えられています。
一方の安藤氏は、上国家と下国家の争いで南北両派に分かれていたようです。
曾我貞光が津軽半島へ侵攻したのは、上国家との同盟によると思われます。
その後、下国家が上国家を滅ぼしたようで、藤崎城を支配下に置きます。
ちょうど同じ時期を境に、大光寺城の曾我貞光の消息も途絶えます。
その後、下国安藤氏は北朝方に鞍替えし、南部家と争うようになります。

1435年、廃城となりました。

南部義政に攻められ落城したと、説明板には書かれています。
この時に南部家の血を引く政季が生け捕られ、八戸で育てられました。
(「政季」は潮潟師季が傀儡となり改名後の名前です)
これだけだとやっぱり???なので、関係をまとめてみました。
安藤家と南部家

下国家当主・安藤盛季は、娘を南部義政に嫁がせていました。
南部義政もまた、娘を潮潟重季に嫁がせていました。
なぜこんなに婚姻を重ねた両家が争ったのかと???ですが・・・
裏を返せば、和睦するたびに婚姻を繰り返したのかもしれません。
潮潟重季に娘を嫁がせたのは、味方にしようとしたのかもません。
しかし、結果的には潮潟重季を攻め滅ぼすことになりました。

十三湊は1432年に一度、南部軍に攻められ陥落しました。
この時は幕府の仲裁により和睦し、安藤盛季に返還されています。
その後も南部義政は十三湊を攻撃し、1442年に再び陥落。
安藤盛季は翌1443年に蝦夷地へ渡り、子の安藤康季が津軽奪還を試みます。
しかし、安藤康季は1445年に陣没し、孫の安藤義季に引き継がれます。
その安藤義季は1453年に南部軍に敗れて自害し、下国安藤家は滅びました。

南部家は、八戸で育てていた潮潟師季に下国安藤家を継がせました。
しかし津軽には戻さず、下北半島の安藤家の遺領・宇曽利を与えます。
これは、蝦夷地に依然として根を張る安藤一族を懐柔するためでした。
潮潟師季は安東太と号し、安東政季と改名したようです。
ただ、南部家の思惑通りにはならず、宇曽利を脱出し南部家に抵抗します。
その後、秋田湊の安藤惟季に招かれ、出羽・男鹿半島へ移ります。
檜山の葛西氏を滅ぼした安東政季は、以後、津軽奪還のため出兵し続けます。

実在が疑問視されるものの、津軽の藤崎城には安東義景がいました。
この人物は出自不明ですが、安東政季と似た境遇だったのかもしれません。
安東義景は南部家に従い、何度も安東政季の軍勢を退けています。


所在地:青森市後潟字後潟山 GPSログダウンロードページ

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高楯城/青森県五所川原市

高楯城は、不思議な形の堀が残っています。
訪問日は2018年5月4日です。

高楯城【1】

高楯城は住宅街の奥にあります。
道が斜めに分岐する所に、この標柱があります。
この奥に妙竜寺があり、その奥が城跡です。

高楯城【2】

城跡の入口に、高楯城の説明板があります。
脇にある再会の碑は・・・誰とでしょうか?w

高楯城【3】

城内へは、クネックネッと折れた道を上がって行きます。
この辺も往時の形が残っていそうな感じですラブラブ

高楯城【14】

上がる前に見える光景です。
左側が3郭の城塁です。
3郭に沿って細長い帯曲輪が続いています。

高楯城【4】

お城を意識したっぽい建物のある所が3郭です。
細長い曲輪で、奥には石碑が1つあります。
「ゆきとともにいきる~」で始まる青年団歌の碑ですけど♪
写真の左脇から下りられるようになっています。

高楯城【5】

歌の石碑脇から下りた所が、2郭と3郭を隔てる堀切です。
堀切はちょっとわかりづらい位に浅いですが・・・

高楯城【6】

奥から2郭を振り返り、奥に見える高い所が3郭です。
堀切は、手前の平地と奥の高い段差の間にあります。

高楯城【7】

鳥居から段々を上がった所が主郭です。

高楯城【8】

主郭にはいくつか石碑があり、その1つが城址碑です。

高楯城【9】

その背後をのぞき込むと、奥に向かって堀が伸びています。
堀切なら真横にザックリが一般的ですが・・・w

高楯城【10】

2郭と3郭の間の堀切から、主郭脇に沿って奥へ進みます。
そんな人が通るよりも、草の生長の方が早そうな感じです。

高楯城【11】

主郭の一番奥です。
下から見上げても、こんなもん?という高さしかありません。

高楯城【12】

主郭の奥には、それまでの曲輪の続きのように堀が続いています。
堀というとその両側を分断するために掘られるのが一般的です。
ただこの堀は、主郭奥の左右を隔てる感じで掘られています。
見方によっては主郭まで続く堀底道のようにも見えますが・・・

高楯城【13】

奥に行くほど深くなり、そして斜面を落ちて行きます。


◆歴史◆

入口の説明板の内容を太字でザックリ書きます。

1278年、安藤貞季により築かれました。

安藤貞季は藤崎城主で、安藤季長の別名とする説もあります。
安藤季長は鎌倉時代末期に蝦夷管領となった人物です。
安藤季久と骨肉の争いを繰り広げ、鎌倉幕府滅亡のきっかけを作りました。
説明板では「夷治の柵」として築かれたと書かれています。

1341年、藤原景房により堅固な城となりました。

藤原景房が安藤宗季より飯詰を与えられ、城を築いたと書かれています。
某大聖典や他のサイト様では、この年を1344年としています。
当時、北朝方の安藤氏・曾我氏と南朝方の南部氏が争っていました。
しかし、安藤氏が南朝方に寝返ったことで曾我氏が滅亡。
津軽で勢力図が大きく書き変わったのが1341年でした。
安藤宗季は、安藤季長と争った安藤季久と考えられています。
安藤氏内部でも南北両派に分かれて争っていました。
領地を与えているということは、安藤宗季方が勝ったという事ですね!
藤原景房が萬里小路藤房の子と書かれているサイト様が多いですが・・・
萬里小路藤房は従二位中納言まで昇り詰めた、後醍醐天皇の側近です。
ググっても津軽に来たとか、子に景房がいた事などは出てきません。
ただ、晩年にいきなり世を捨て、以後の消息がわかっていません。
そのため様々な説があり、その中に津軽に来たというものもあります。
安藤氏に1229年に滅ぼされた十三氏は、奥州藤原氏の一族でした。
その庶流が安藤氏に仕え、続いていたのかもしれません。
同じ藤原姓ですし、わからないなら!・・・という出来心でしょうか?

1578年、主君の浪岡北畠氏が滅亡

飯詰に領地を与えられた藤原氏は、代々朝日左衛門尉を名乗ります。
説明板では朝日左衛門尉藤原〇〇ですが、一般には朝日〇〇ですねw
朝日氏は、浪岡城の北畠氏に仕える身となります。
しかし1578年、その北畠氏が大浦為信により滅ぼされました。
その後も朝日氏は、津軽で勢力を拡大する大浦為信に抵抗し続けました。

1588年、大浦為信に攻め落とされ廃城に

抵抗し続けること10年目にして、大浦為信により攻め落とされました。
1588年ということは、田舎舘の千徳氏よりも後だったんですね!
田舎舘千徳氏も滅ぼされ、朝日氏への攻勢が強まったものと思われます。
城主・朝日行安は自ら城に火を放ち、摩利支天の如く斬り込んだそうです。
名を重んじる武将らしい最期ですね。


所在地:青森県五所川原市大字飯詰福泉 GPSログダウンロードページ

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種里城/青森県鰺ヶ沢町

種里城は、大浦氏発祥の地です。
訪問日は2018年5月4日です。

種里城【1】

種里城跡は観光地となっていて、とても目立ちます。
そりゃぁ、津軽のお殿様の出身地ですからね!

種里城【2】

まぁでも、居城としたのは初代のみ。
なので、館の名前も初代様のものです。

種里城【3】
拡大表示

上の説明板に載っている図です。
曲輪が沢山あったんですね・・・
目の前にある谷が、実は堀跡だったりします。

種里城【4】

入口からこんな山道を歩きます。
大げさに書いてますが、ほぼこれだけな感じですあせる

種里城【5】

あっという間に主郭に到着。
応仁の乱が明けた頃のお城ですからね。
まだ城攻戦は無かった時代、かも?

種里城【6】

館の前には銅像があります。
こんな浴衣があったら欲しいですラブラブ

種里城【7】

館のある平坦面だけではないのが種里城です。
主郭の周りにも色々あります。
時計回りに雑木林の中の道に入ると、早速ありました。
ダム状の細長い土橋のような土塁のような・・・

種里城【8】

上を歩いてみたら、途中でボコっと堀切がありました。
やっぱり、ここは歩いて欲しくなかったみたいですねw

種里城【9】

元の道に戻り、さらに奥へと進みます。
堀底道のように見えますが、ただの水の通り道のような・・・

種里城【10】

そんな道でも、ちゃんと裏まで続いています。
裏側は、主郭の城塁の途中にある腰曲輪な感じです。

種里城【11】

この目立たない所に、城主様のお墓があります。
すぐ近くには、お気に入りの家臣のお墓もあります。

種里城【12】

さっきの山道は、主郭の周りを巡って主郭の反対側に戻って来ます。
建物のある所が館跡だと思っていましたが・・・
裏に回ったら見てしまいました、地面に並ぶ柱の跡!
脇にある説明板によると、ここに主殿があったそうです。
少なくとも4回以上は建て替えられた跡があるそうです。


◆歴史◆

1491年、大浦光信により築かれました。

南部氏が安東氏に備え、津軽西部に配置したとされます。
大浦光信は南部一族である久慈氏の出身と考えられています。
当時は南部光信または種里光信と呼ばれていたようです。

南部氏と安東氏(安藤氏)は津軽を巡り、南北朝時代に激突。
1453年に安藤盛季が蝦夷へ逃れ大勢が決します。
ただ、南部氏が津軽郡代を置くまで40年以上かかっています。
その間、安東氏による津軽奪還の攻撃が続いたと思われます。

1502年、大浦光信は大浦城を築き、養子の大浦盛信を城主にしました。
当人はその後も種里城に留まり、1526年に没しました。
「死後も西の備えたらん」と遺言し、鎧のまま葬られています。
主郭の裏に墓地があったのは、安東氏側を睨んでいたんですね。

その後の大浦氏は大浦城を本拠とし、津軽で勢力を拡大。
1590年には南部家から独立し、大名・津軽氏が誕生します。
種里城は、廃城後も津軽氏の聖地として大事にされたそうです。


所在地:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字種里町字大柳 GPSログダウンロード

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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