2020/09/26
福島城/青森県五所川原市
福島城は、下国安藤家の本拠地だった所です。訪問日は2018年5月4日です。

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福島城は規模が大きいのですが、遺構が飛び飛びに残っています。
東西に走る県道12号南側が、城跡として認識されています。
その中で西側にあるのが、主郭とみられる内郭跡です。
県道からちょっと入り込んだ所に、説明板と櫓門があります。

櫓門、いい雰囲気なので反対側からも

その前の木橋もいい感じです。

内郭の北側には、堀と土塁が残っています。
内郭はただの広場ですが、見てない反対側に虎口があるっぽいです


さて、次はちょっと離れた東側の外郭です。
距離があるので、車で移動します。
こちらには立派な駐車場があります。
GWなのに貸し切りでしたけどw

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駐車場脇には、リアルでわかりやすい図があります。
かな~り範囲が広いですが、内郭が端っこにあります。
廃城時期が古いので、全体像が把握出来ない程広かったかもしれません。
古くから人が暮らしていた場所で、縄文時代の土器も見つかっています。

駐車場から導かれるように奥へ進みました。
土塁上に遊歩道がある感じです。
途中、城キチなら!!!となりそうな凹みがあります。

虎口だよな~と、撮った1枚です。
図に描かれている虎口だとは思いますが・・・
虎口、ですよね?

土塁の先端ぽい所まで進んでUターン。
そのまま堀沿いに戻りました。

堀はそのまま、県道まで続いています。

県道側には、堀跡を示す標柱があります。
堀底は草が無く、まるで遊歩道♪

ということで、今度は堀底を進みました。
かなり大きいです


奥まで進むと、ジメジメの湿地に出ます。
ここが図にある東の沢です。
足元がぬかるんでおり、天然の堀だったようです。

ということで、歩けるのは土塁沿いにに限定されます。

土塁に上がりました。
幅も高さもあるかなり大規模な土塁です。

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土塁の開口部に、何やら説明板が見えました。
近づいてみると、外郭門跡の説明板でした。

近くには、二重堀っぽく真ん中が盛り上がった凹みが。
そのまま森の中に続いているようですが、草木で覆われています


すぐ近くには、井戸跡を示す標柱もあります。
東側を守る、とても大事な場所だったようです。
◆歴史◆
10世紀の遺物が出土しています。
築城年代は不明で、城域内には古代古墳もあったりします。
発掘調査の結果、この時期の擦文土器が出土したそうです。
擦文土器は蝦夷地で発展したもので、交易があった証拠です。
平安時代の十三湊は、安倍氏が押さえていました。
安藤氏の祖・高星丸が落ち延びて来た時は、安倍則任が居ました。
十三湊のどこにいたのかが?ですが、ここだったかもしれません。
安倍則任の子には後継ぎがおらず、奥州藤原氏から養子を迎えています。
安倍氏の家を継いだ藤原秀栄は、地名を取り十三姓を名乗ります。
1229年、安藤氏が十三氏を滅ぼしました。
安藤氏は1191年、源頼朝から蝦夷沙汰代官に任命されました。
当初は罪人を蝦夷地へ島流しにする役職だったようですが・・・
やがて、北条得宗家に代わり蝦夷との交易を管理する役となります。
現代風に言うと、北海道の名産品を独占するような地位です。
当時、蝦夷地との交易の中心地は十三湊で、十三氏が健在でした。
両氏の争いの中で、安藤氏が幕府の後ろ盾を得たのかもしれません。
十三氏を滅ぼした安藤氏は、十三湊を本拠とするようになります。
蝦夷地に一族を配し、その栄華は奥州藤原氏を凌いだと伝わります。
鎌倉時代末に、安藤氏の乱が起きました
1322年、蝦夷代官・安藤季長と従兄弟の安藤季久が争い始めました。
両者の争いは、蝦夷で起きた反乱に起因すると考えられています。
各地で起きた反乱は、安藤季久の活躍により鎮圧。
そのため1325年、北条高時は蝦夷代官を安藤季久に交代させました。
蝦夷代官の交代は、安藤家惣領の交代を意味します。
そのため安藤季長が猛反発し、幕府は工藤貞祐に鎮圧を命じました。
工藤貞祐は安藤季長を捕縛し、鎌倉へ連行したものの・・・
従兄弟の安東季兼らが挙兵したため、さらに討伐軍が派遣されました。
幕府軍と安藤季兼らの戦は一進一退を繰り返し、1328年に和議が成立。
安藤季久は名を下国宗季と改め、正式に安藤家の惣領となります。
南部家との争いに敗れ、廃城となりました。
下国安藤家ははじめ北朝方となり、津軽合戦奉行に任命されました。
曾我貞光とともに南朝方の南部家と戦い、根城を攻めたこともあります。
しかし、1341年に南部政長に誘われ、南朝方に転じました。
この頃から曾我貞光の消息がわからなくなり、安藤氏が大光寺を支配。
南朝方・北朝方を行き来し、勢力拡大を図りました。
1400年代になると、安藤盛季が南部義政と争いました。
1432年、南部義政が十三湊を攻め陥落。
この時は、将軍の仲裁により和議が結ばれ、十三湊は返還されました。
安藤盛季の娘が、南部義政に嫁いだのもこの時です。
しかし、その後も両家の争いは続き1442年に再び安藤家は敗北。
翌年には十三湊を去り、福島城は以後使われなくなりました。
安藤盛季は、一族の多い蝦夷地へと落ち延び津軽奪還を目論みます。
その後も子の安藤康季、孫の安藤義季が津軽奪還のため出陣するも連戦連敗。
1454年の敗戦時に安藤義季が自害し、下国安藤家は滅びました。
南部家は、以前捕らえていた潮潟師季に下国家を継がせました。
安東政季として傀儡にし、蝦夷地を支配下に置く狙いでしたが・・・
所在地:青森県五所川原市相内 GPSログダウンロードページ
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