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藤崎城/青森県藤崎町

藤崎城は、安東氏発祥の地です。
訪問日は2018年5月5日です。

藤崎城【1】

藤崎城はかなり消滅していますが、土塁が1本だけ残っています。
国道7号線沿いに土塁の断面があり、その上に標柱が立っています。

藤崎城【2】

土塁が残っているのは、藤崎八幡宮に接している部分です。
車を停めたのも、この神社でした。
朝早かったので停められましたが。

藤崎城【3】

社殿は、国道から伸びる土塁上にあります。

藤崎城【4】

社殿の左奥に土塁が続いています。

藤崎城【5】

土塁は200メートル程残っているそうで、土塁上を歩けます。
こんなですがクローバー

藤崎城【6】

土塁脇には堀跡も残っています。
どこがどうだか?ですが、堀→土塁→城内が一般的です。
なので、神社側が城内だったと思われます。


◆歴史◆

平安時代に築かれ安藤氏発祥の地となりました。

築城者は安倍貞義またはその子・安倍堯恒とされます。
1092年、安倍堯恒が築いた、と断言される方が多いです。
安倍貞義は安倍貞任の子で、厨川柵陥落前に乳母に連れられ脱出。
津軽にいた安倍貞任の末弟・則任を頼り落ち延びました。
安倍則任は白鳥則任とも名乗り、十三湊を中心に栄えていました。
(よく登場する十三湊は、津軽半島北西部の北海道に近い所です)
安倍貞義は当時3歳で、高星丸と名乗っていました。
この高星丸が、後の安藤氏の祖となります。
藤崎の安倍さんだから安藤さん?

安藤氏は藤崎城を拠点とし、次第に勢力を拡大。
1229年には、十三湊の白鳥則任の子孫・十三氏を滅ぼしました。
蝦夷との交易の大拠点・十三湊を手に入れ、安藤氏は更に栄えます。
鎌倉時代末に、安藤氏は蝦夷代官職を巡り内乱を起こしました。
戦ったのは藤崎城主の安藤季久と十三福島城主の安藤季長です。
この従兄弟どうしの争いに鎌倉幕府が介入しましたが・・・
武力介入までした挙句に解決出来ず、幕府の威信は失墜しました。
これが、鎌倉幕府滅亡の遠因になったとされています。

南北朝時代に下国安藤家の城となりました。

詳細不詳ですが、藤崎城は北朝方の上国安藤家の城だったようです。
城主は安藤高季で、南朝方となった十三湊の下国安藤家と対立。
南朝方の下国安藤家が勝利し、藤崎城と大光寺城を手に入れたとされます。
大光寺城主は北朝方の曾我貞光でしたが、1341年以降の消息が不明です。
あちこち調べてきて、何となく話がつながって来ました合格
安藤高季は後に安藤師季に改名し、北朝方→南朝方に寝返っています。
ここでは南朝方の同族に敗れた側なのですが・・・逆でしょうか?
安藤家内部でも南北朝の争いがあり、南朝方が勝ったという事であせる

1443年、南部家の城になったと思われます。

安藤盛季が南部守行との戦に敗れ、蝦夷へ逃れました。
その後、津軽奪還を目指したものの、1447年までに没しています。
子の安藤康季も津軽奪還中の1445年、陣中で没しています。
孫の安藤義季は一度は南部守行と和睦したものの、1453年に敗れ自害。
下国安藤家の嫡流が途絶えました。
南部氏は、安藤一族・潮潟師季に下国安藤家を継がせ安東政季と改名。
安東政季は下北半島に領地を与えられ「安東太」と称しました。
安藤→安東の表記の変化はこの時っぽいですね!
南部氏は、傀儡を立てることで安藤一族を手懐けようとしました。
しかし、翌1454年に安東政季は南部氏と手切れとなります。

この頃から、藤崎城は南部家に従う安東義景が城主だったと伝わります。
安東義景は、浪岡御所の北畠氏に招かれ藤崎城主になったようです。
事跡がサッパリ出てこないですが、倒幕のため来た親王を迎えています。
土御門天皇の第三皇子・義仁親王ですが、飢饉のため出兵出来ず。
そのまま東日流(つがる)に土着し、晩年は仏門に入ったそうです。
そして、失意の内に1497年に没したそうです。
もし安東義景に跡継ぎが無かったとしたら・・・
南部氏が津軽郡代を派遣した1498年とピッタリつながります(*'▽')v

一方、安東政季は湊安東家に招かれ、男鹿半島の梁川城に入ります。
そこから湊安東家と合同で檜山郡を葛西氏から奪い、新たな拠点とします。
安東政季は津軽奪還のため、毎年のように出兵しました。
この時、安東義景の守る藤崎城も攻めますが、降すことは出来ませんでした。
その内に相次ぐ出兵の負担から、湊安東家との間に亀裂が入ります。
ここから約100年、檜山と湊の両安東家の争いの歴史が始まります。

1585年、廃城となりました。

戦国時代、藤崎城は大浦為信により再興されました。
それまでは空き城だったそうです。
藤崎城には、大浦六郎・五郎兄弟が居ました。
大浦為信は大浦為則の婿養子で、六郎と五郎は大浦為則の実子でした。
実の子が居たのに婿養子が家督を継いだのも変ですが・・・
大浦為信が婿に入ったのは、大浦為則が没した頃でした。

この頃は南部宗家でも、実子が生まれ養子が邪魔になった時期でした。
養子の南部信直は、津軽郡代・石川高信の子でした。
大浦為則は、千徳氏・大光寺氏とともに石川高信の補佐役でした。
石川高信に対し、大浦為則が反抗的だったのかもしれませんね。
そんな大浦氏を乗っ取ろうと送り込まれた養子・大浦為信ですが・・・
その4年後の1571年、石川高信を攻めて自害に追い込みました。
大浦為信は津軽を手中に収め、南部方の勢力を駆逐します。

1585年は、津軽で色々あった年でした。
4月には盟友・千徳政氏が南部信直に攻められました。
この時、なぜか大浦為信は援軍を出さず・・・
それでも、千徳政氏は南部軍3千を撃退しています。
その翌月、千徳政氏は一族の田舎館城を攻め落とします。
おそらく、南部軍に内通したためと思われます。
この年、大浦六郎・五郎兄弟は、川遊びの際に溺れ世を去りました。
タイミングが絶妙過ぎますw
大浦為信の家督相続には、いくつも???が付きます。
何らかの遺恨があり、南部家から調略の手が伸びてもおかしくありません。
六郎・五郎兄弟にその気が無かったとしても、変な噂は立ったかも。
自らの地位を脅かし兼ねない兄弟を暗殺した?という説もあります。


所在地:青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎梨ノ木

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大浦城/青森県弘前市

大浦城は、南部一族・大浦氏が津軽の拠点とした城でした。
訪問日は2018年5月4日です。

大浦城【1】

大浦城跡は現在、住宅地の中の中学校になっています。
地図右下に赤点で示したその入口に、説明板と城址碑があります。
この前の市街地のどこかに大手門跡があるようですが・・・
路地を1本1本歩き回りましたが見つかりませんでしたあせる
悔しくてストビュー見まくってたら、見つけました。
大手門跡の場所は、五代交差点のすぐ北側でした。
見つけましたが、これはこれで悔しいです>_<

大浦城【2】
拡大表示

説明板に載っている図です。
現在地がわかりませんが、たぶん中学校が本丸かも

大浦城【3】

説明板の脇にある城址碑です。
どっしりした感じがイイですねラブラブ

大浦城【4】

平城ということで、現在は跡形もなく中学校です。
とりあえずココに来た!で帰る方もおられるようです。

大浦城【5】

中学校の南脇には、先ほどとは別の城址碑があります。
中学校の南側から、時計回りに攻めてみましょう。

大浦城【6】

すると、何となくそれっぽい雰囲気になってきます。
道が堀跡で、リンゴ畑が曲輪でしょうか。

大浦城【7】

さらに西へ進むと、これゼッタイ堀跡!な所に出ます。
発掘調査後に埋め戻された感じに見えます。

大浦城【8】

堀跡を示すかのような地面の凹みは、校舎の真裏まで続きます。

大浦城【9】
地図

大浦城の建物がいくつか、移築され現存しています。
まずは法源寺に移築された門から。
墓地の入口にあるこの門が、どこかの門だったらしいです。
言われないとわからないレベルですあせる

大浦城【10】
地図

もう1つは、台所が長勝寺の庫裏として利用されています。
長勝寺は津軽家の菩提寺です。
説明板によると、城内に建てられたのが1502年だそうです。
500年以上前からある建物には見えないくらいきれいですが・・・
一部改造はあるそうですが、建築当時の形を保っているそうですラブラブ


◆歴史◆

1502年、大浦光信により築かれました。

大浦光信は1491年に津軽に配置され、種里城を拠点としました。
これは南部家当主・南部信時が、安東氏に備えるためでした。
それから11年後に大浦城を築き、大浦盛信に守らせました。
以後は大浦城が大浦家5代の本拠地となります。

南部信時は、四男の南部光康を津軽郡代として配置しています。
津軽は、元々は安藤氏が支配する地域でした。
1452年に安藤氏は南部氏に敗れ、蝦夷地へ撤退しています。
その後、津軽奪還のためたびたび南部氏と争っています。
その南部氏が、津軽に一族を配置したのが40年も経ってからです。
両氏のこの年代の攻防がサッパリわかりません。
南部氏の動きから、1452年から誰か別の人物が居たと思われます。
おそらく南部氏側の人物と思われますが・・・
想像するより他ありませんあせる

1594年、大浦家の本拠地が堀越城へ移りました。

5代目の大浦為信は、1567年に婿養子となり大浦家を継ぎました。
すると、1571年には津軽郡代・石川高信を破り、津軽一円を奪取。
1576年には大光寺城、1578年には浪岡御所を降し勢力を拡大します。
浪岡御所を攻め落としたことで、安東氏との関係が悪化しますが・・・
1589年に秋田愛季と和睦。
南への道が開けたことで、豊臣秀吉に誼を通じることが出来ました。
これが奏功し、小田原征伐には南部信直より先に参陣することに成功。
津軽一帯を支配する独立大名として、正式に認められました。
南部信直は大浦為信は謀反人であるとし、一時は討伐対象となりますが・・・
大浦為信は困窮する近衛家に莫大な財を投じ、近衛家の猶子となります。
これにより豊臣秀吉とは義兄弟という事になり、討伐は中止。
この頃から津軽姓を名乗るようになります。
1594年、堀越城を築き本拠を移しました。

弘前城築城により廃城となりました。

1609年に津軽家の御家騒動が決着すると、弘前城築城が再開。
この時、大浦城や大光寺城などから、主だった建物が移築されました。
そのため、弘前城築城にともない、大浦城は廃城になったと考えられます。
ただし、いざという時のために土塁は残されたそうです。


所在地:青森県弘前市大字五代早稲田(津軽中学校)

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湯口茶臼館/青森県弘前市

湯口茶臼館は、独立丘陵を利用した城でした。
訪問日は2018年5月4日です。

湯口茶臼館【1】

諸兄が北から攻めているので、私は南から攻めました。
道端に登城路の入口があり、ここに車1台なら停められます。
登城路には轍があり、車の進入を防ぐためのロープが張られています。

湯口茶臼館【2】

南側には、ココの最大の特徴である四重の堀切が連なります。
1つ1つは大した規模ではありませんが、連続すると壮観ですラブラブ

湯口茶臼館【3】

コンパクトなので、上から一望出来ます^^

湯口茶臼館【4】

一番上の堀切の脇から、西側に帯曲輪があります。

湯口茶臼館【6】

もうちょっと上がると、頂上の神社が見えてきます。

湯口茶臼館【5】

ココからも帯曲輪が始まっています。

湯口茶臼館【7】

一番高い所に神社があります。
城内で唯一と言っていいまとまった平坦地です。
・・・そんなに広くはありませんがあせる

湯口茶臼館【8】

北側には腰曲輪が並んでいます。
こちら側がお城の正面ですねw

湯口茶臼館【9】

反対側から続いている帯曲輪です。
帯曲輪には往時、何かあったのか気になります。
建物を建てると通れなくなりそうです。

湯口茶臼館【10】

北側の覚応寺側の登城口です。
石の冠木門がありますラブラブ


◆歴史◆

1385年、溝口左膳亮により築かれたと伝わります。

溝口左膳亮は長慶上皇を警護する武士でした。
長慶上皇が隠棲した紙漉沢御所を守るために築かれたとされます。
上皇が陸奥に?というのが素朴な疑問でしたので、少しググりました。

長慶上皇は南朝の天皇で、天皇と認定されたのが大正時代でした。
それぐらい動向がよくわからず、崩御の地候補が全国各地にあります。
どんな人物だったかザックリ書くと・・・

・後醍醐天皇の孫
・南朝3代目の天皇
・主に住吉宮・吉野・金剛寺で活動
・北朝に対しては強硬派だった
・和平派の弟・後亀山天皇に譲位し上皇に
・1386年4月の院宣を最後に消息不明となる

といった感じです。
同時代の人物としては、楠木正儀が著名です。
長慶天皇には遠ざけられ、在位中は北朝に属していました。
この辺は面白いのですが、ココとは関係無いので割愛しますm(_ _)m

1385年は譲位後で、長慶上皇となっていました。
南北合一は1392年ですが、後亀山天皇は和平派でした。
しかし、強硬派だった上皇は、その後も北朝方に狙われたようです。
そのため、所在は吉野、紀伊、和泉など定まっていません。
諸説の中には、海路を辿って陸奥に下向したとするものもあります。
もしかしたら隠棲先として準備され、ココに居ると噂を流したかもしれず。
陸奥北部は南部氏や安藤氏など、南朝方だった有力大名が優勢でした。
長慶上皇は、1394年8月に崩御したとされます。

長慶上皇の崩御後、溝口氏は当地に残り修験者となりました。
それが、北側にある覚応寺の始まりとされるそうです。

尚、長慶天皇陵と伝わる場所が、全国各地に百数十か所あったそうです。
京都市右京区の長慶天皇嵯峨東陵と結論が出たのは1944年の事でした。
長慶天皇って、本当に謎多き天皇だったんですね。


所在地:青森県弘前市大字湯口字一ノ安田

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田舎館城/青森県田舎館村

田舎館城は、役場の東側にあったお城です。
訪問日は2018年5月5日です。

田舎館城【1】

田舎館村の役場です。
やっちまった感がぷんぷん溢れています。
でも、私、こういうの大好きですラブラブ
天守風の建物は、田んぼアートを上から見るための展望台です。
展望台は有料ですが、今年は田んぼアートが中止となっています。

田舎館城【2】

役場の東側の住宅街に、田舎館城の土塁の一部が残っています。
現地では「ヤマコ」と呼ばれ、道に面した所に標柱が立っています。

田舎館城【3】

土塁に上がれるようになっていて、一番奥に石碑があります。
ここから、田んぼ越しに役場が見えます。
役場って、現代版のお城ですね!
ある意味、デザイン的には超正解ですラブラブ

田舎館城【4】

奥から振り返ると、土塁は細長く残っていることがわかります。
奥に見える木は、ここで討死した人達を慰霊するため植えられた木です。

田舎館城【5】

役場の駐車場に戻る途中、振り返って見ました。
行く前だと「どこだろう?」ですが、帰りはよくわかります。
山城なんかもそうですよね^^


◆歴史◆

1337年、田舎楯合戦の舞台となりました。

争ったのは曾我貞光(=曾我光高)と工藤貞行です。
曾我貞光は当初は南朝方でしたが、後に北朝方に鞍替えしています。
ザックリここまでの流れを書きますが・・・

1334年、北条家残党が大光寺楯の曾我道性を頼り落ち延びました。
陸奥国司・北畠顕家は、南部師行や工藤貞行らに大光寺楯討伐を命じます。
岩楯の曾我氏分家・曾我光高も、国司側として本家を攻めました。
曾我道性は大光寺楯から石川楯へと転戦し抵抗しますが滅ぼされました。
この戦の功として、沼楯が鹿角の安保弥五郎に与えられました。
沼楯は、曾我光高が先祖代々の領地として安堵を求めていた土地でした。
しかし北畠顕家は「綸旨や国宣が無いものは認められない」と却下。
曾我光高は「面目を失った」と激しく抗議を続けました。
1335年、曾我光高に沼楯が返還されますが、大きな遺恨を残しました。
1336年、安藤家季が足利方の津軽合戦奉行人となり、南部氏を攻撃します。
この時、曾我光高は曾我貞光と改名し、安藤氏と行動を共にしました。

田舎楯合戦に至るまでの経緯はこんな感じです。
田舎楯城が沼楯にあったように書かれている方もいますが・・・
沼楯は大光寺城の東にあったと推定されており、位置が全然違います。
安保弥五郎に与えられた土地が、翌年曾我光高に返還されています。
そのため、安保弥五郎には北畠顕家から代替地が与えられたと思われます。
田舎楯合戦では、田舎郡地頭代の工藤貞行が田舎楯を守っていました。
工藤貞行は、娘が嫁いだ南部氏に味方する勢力でした。
その田舎楯を、南部氏と敵対する曾我貞光が攻めたものです。
この戦の結末が?ですが・・・

曾我貞光は、1341年を境に消息を絶ちます。
この年、北朝方だった安藤師季が南朝方に寝返りました。
そのため曾我貞光は津軽で孤立し、滅ぼされたと考えられています。

1475年、千徳貞武が城主となりました。

千徳氏は南部一門・一戸氏の庶流で、千徳城(宮古市)を本拠としました。
津軽に来たのは、おそらく南部家の津軽支配のためと思われます。
津軽は安藤氏が支配していましたが、南部氏が次第に圧倒します。
安藤氏が蝦夷地へ逃れましたが、津軽奪還の戦を繰り返していました。
千徳氏は浅瀬石城を津軽の拠点としました。
千徳貞武は千徳政久の次男で、田舎館を分知され分家を立てました。
以後、5代にわたって田舎館千徳氏が居城とします。

1585年、廃城となりました。

1585年、南部信直が浅瀬石城の千徳政氏を攻めました。
この時、大浦為信は援軍を出しませんでしたが、南部軍を撃退しています。
その翌月、千徳政氏が田舎館城を攻撃しています。
大浦為信は今度は援軍を出し、田舎館城は落城。
千徳政武は自害し、田舎館千徳氏は滅びました。
津軽では1571年に大浦為信が石川高信を滅ぼし、南部家から独立。
その後、何度か南部軍と戦っています。
田舎館千徳氏は南部家直臣だったとされますが、ちょっと疑問です。
もしそうであれば、アッサリ攻め滅ぼされてしまうからです。
タイミング的は、本家の浅瀬石城が攻められた翌月です。
もしかしたら、浅瀬石城攻めの際に南部家から調略があったのかも。
大浦為信は動かなかったので、勝算はあったのかもしれません。


所在地:青森県南津軽郡田舎館村大字田舎館字中辻

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猿賀館/青森県平川市

猿賀館は大きな公園になっています。
訪問日は2018年5月5日です。

猿賀館【1】

猿賀館の跡は公園になっており、立派な駐車場もあります。
駐車場からは、かなり大きな池が見えます。
この池の真ん中には、赤い神社があります。
もしや、あれが?・・・な訳ありませんw

猿賀館【2】改
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駐車場の端にある案内図です。
猿賀館があったのは、図の右端にある猿賀神社の辺りです。

猿賀館【3】

大きな池の畔を歩いていると、道端に細長い土盛りがラブラブ

猿賀館【4】

その内側にあるのが猿賀神社です。
社殿、そこそこ大きいですね^^

猿賀館【5】

社殿正面から見て左側に、猿賀館の標柱があります。
周りに同じような太さの杉の木がチラホラあり、ちょっと探しました。
木を隠すなら何とやら、ですw

猿賀館【6】

標柱の周りには、いい感じで土塁が残されています。
開口部もあり、虎口の形もバッチリです合格


◆歴史◆

乳井玄蕃により築かれたと伝わります。

乳井玄蕃は戦国時代の人物で、乳井福王寺の別当でした。
猿賀神社の猿賀深沙大権現も兼ねており、強大な勢力を誇っていました。
毘沙門大名とも呼ばれ、津軽支配を目論む南部家と対立。
境を接する大光寺城の滝本重行と争いが続いていました。

滝本重行の家臣・後藤宅庸の居館となりました。

1565年6月、乳井玄蕃は滝本重行により暗殺されました。
猿賀で農民どうしの争いを仲裁した帰りだったそうです。
この襲撃で乳井玄蕃を討ったのが、大光寺一の強者・後藤宅庸です。
猿賀館は、後藤宅庸の居館になったようです。
ただ、後藤宅庸でググると別の事績も出てきます。
それは、千徳政氏家臣として、滝本重行との戦で活躍した事です。
乳井玄蕃暗殺から10年後の事なので、鞍替えしたかもですが・・・?

千徳政氏家臣・木村越後の居館となりました。

1575年、大浦為信により大光寺城が攻め落とされました。
滝本重行は、南部へ去ったとされています。
この大光寺城攻めには、乳井建清とともに千徳政氏も協力しました。
猿賀館は、その千徳氏の家臣・木村越後の居館になったとされます。

1594年、津軽為信(=大浦為信)は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼしました。
千徳氏と大浦氏は同盟関係でしたが、1590年以降は主従関係となります。
大浦氏改め津軽氏にとって、千徳氏は家臣となりましたが強大過ぎました。
そのため、勢力削減のため領地と家臣の人数を減らすよう要求。
千徳政康が反発したため、津軽為信が千徳家中を分断。
内応した木村越後により浅瀬石城は陥落し、千徳政康が自害しています。

その後の木村越後がどうなったのか、ググっても出てきませんが・・・
弘前城の南側に、木村住宅という上級藩士の屋敷があるそうです。
もしかしたら、江戸時代にそちらへ移ったかもしれませんね。


所在地:青森県平川市猿賀字石林

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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