2019/01/28
亀頭山城/宮崎県高千穂町
亀頭山城は肥後との国境にあった山城です。訪問日は2018年12月30日です。

城跡への道は、東側の麓に案内があります。
徒歩で15分、その下に「車(普通車以下)で5分」と書かれています。
ビミョーな言い回しですが、平たく言うと道が狭いです。
左に岩肌、右に斜面なんて所もあり、軽でも冷や冷やでした。
大き目の車の方は、ここから歩いた方が無難です。

この案内の所に、文字がビッシリ書かれた説明板もあります


下から見上げると、山上はこんな感じです。
お城はこの上にありました。

細っそいウネウネ道を登り、開けた場所に出た所です。
手前の緩い斜面は、数段の平たん面が連なっています。
この平坦面は曲輪です。

平坦面の東端を進むと、ヘアピンカーブに行き当たります。
ここに鳥居があり、道は右斜め上に上がります。
私、はじめは車で右斜め上に上がってしまいましたが・・・

この斜め右の道が、奥の観音像の所まで続いています。
Uターン出来ない幅だったので、バックでここまで戻って来ました

鳥居を見たら、その手前で車を降りましょうw

真ん中を東西に長く続いているのが主郭でしょうか?
ここが城の中心部ではありますが、イマイチ構造がわかりません。
細長い所が主郭として、その両脇から簡単に上がれてしまいます。

それでも、この観音像のある辺りが一番高いです。
城の最重要部がここだったのは間違いなさそうです。

観音像の後ろの一番高い所に、亀頭山城の城址碑があります。
ここのも個性的で、とてもカッコイイです


城址碑から元来た観音像方向を見た所です。
平らなのは細長い所だけで、両側は斜めの緩い斜面になっています。

斜めの緩い斜面ですが、曲輪なのだとか。
縄張図では、北側のこっちに土塁が描かれています。
ススキに埋もれているのか、それらしきものは見えません。

城址碑の後ろは、ガラッと雰囲気が変わります。
いきなり橋が現れます。
城跡で橋があったら、要チェック


すぐそばに「一乃濠橋」の石碑があります。

下から見るとこんな感じです。
橋があっても、城キチたる者、渡ってはイケマセン!
・・・個人的な意見です


堀底に下りたのは帰りで、行きはちゃんと橋を渡っていますw
橋の向こう側は、曲輪というより大きな土橋です。
橋を渡ってから10メートル程先で、またしても大きく凹みます。

2つ目の堀切です。
こうして見ると緩く見えますが、大きくてハミ出しているだけです。

2つ目の堀切の先も、大きな土橋っぽい地形が続きます。

再び堀切です。

堀切の底から向こう側を見上げるとこんな感じです。
こっち側の方が切岸が鋭い気が・・・w
この上に四阿があります。

城域はこの四阿の手前の堀切まで。

この先は先ほどよりも幅の広い土橋状の道が延々と続きます。
私は東の麓から登って来たので、そちらが登城路だと思っていました。
しかし、反対側に堀切があるのが心の片隅に引っ掛かっていました。
そう思って等高線バッチリの国土地理院の地図を見て納得。
この道の先には、奥鶴という集落があります。
地理院の地図では、城の北側からそっちに道が伸びています。
そして、地形はその集落から東に出っ張った所にこの城がありました。
地形は、肥後に備えるというよりも、高千穂側を見張る感じです。
◆歴史◆
三田井家の家臣・甲斐将監の城でした。
甲斐将監も出自は不明です。
高千穂には「甲斐・興梠・〇〇の〇」という言葉があります。
最後の所は自粛しますが、意味合いはそれだけ沢山居るんだそうです。
ココは肥後との国境の城ですが、肥後側の最寄の城も甲斐氏の城でした。
甲斐宗運は、子が逆らって伊東義祐に近づいたため誅殺しています。
三田井氏は伊東義祐に従っていました。
その家老は甲斐宗摂であり、一族で島津家を牽制したのかもしれません。
1594年、高橋元種に攻められ落城しました。
高橋元種は、九州征伐後に高千穂に攻め込み三田井氏を降しました。
豊臣秀吉に讒言し、三田井氏の処置を一任されての軍事行動でした。
延岡に近い甲斐宗摂が攻め滅ぼされたのは、翌年の1595年でした。
なので、高橋元種は三田井家臣を個別に潰していったようです。
周辺に18もの支城を持つ亀頭山城も、多勢に無勢で落城しました。
城主の甲斐将監は城を脱出し、奥鶴で自害しました。
所在地:宮崎県西臼杵郡高千穂町河内 GPSログダウンロードページ
宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示 |