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亀頭山城/宮崎県高千穂町

亀頭山城は肥後との国境にあった山城です。
訪問日は2018年12月30日です。

【1】亀頭山城

城跡への道は、東側の麓に案内があります。
徒歩で15分、その下に「車(普通車以下)で5分」と書かれています。
ビミョーな言い回しですが、平たく言うと道が狭いです。
左に岩肌、右に斜面なんて所もあり、軽でも冷や冷やでした。
大き目の車の方は、ここから歩いた方が無難です。

【2】亀頭山城

この案内の所に、文字がビッシリ書かれた説明板もあります合格

【3】亀頭山城

下から見上げると、山上はこんな感じです。
お城はこの上にありました。

【4】亀頭山城

細っそいウネウネ道を登り、開けた場所に出た所です。
手前の緩い斜面は、数段の平たん面が連なっています。
この平坦面は曲輪です。

【5】亀頭山城

平坦面の東端を進むと、ヘアピンカーブに行き当たります。
ここに鳥居があり、道は右斜め上に上がります。
私、はじめは車で右斜め上に上がってしまいましたが・・・

【6】亀頭山城

この斜め右の道が、奥の観音像の所まで続いています。
Uターン出来ない幅だったので、バックでここまで戻って来ましたあせる
鳥居を見たら、その手前で車を降りましょうw

【7】亀頭山城

真ん中を東西に長く続いているのが主郭でしょうか?
ここが城の中心部ではありますが、イマイチ構造がわかりません。
細長い所が主郭として、その両脇から簡単に上がれてしまいます。

【8】亀頭山城

それでも、この観音像のある辺りが一番高いです。
城の最重要部がここだったのは間違いなさそうです。

【9】亀頭山城

観音像の後ろの一番高い所に、亀頭山城の城址碑があります。
ここのも個性的で、とてもカッコイイですラブラブ

【10】亀頭山城

城址碑から元来た観音像方向を見た所です。
平らなのは細長い所だけで、両側は斜めの緩い斜面になっています。

【11】亀頭山城

斜めの緩い斜面ですが、曲輪なのだとか。
縄張図では、北側のこっちに土塁が描かれています。
ススキに埋もれているのか、それらしきものは見えません。

【12】亀頭山城

城址碑の後ろは、ガラッと雰囲気が変わります。
いきなり橋が現れます。
城跡で橋があったら、要チェックラブラブ

【13】亀頭山城

すぐそばに「一乃濠橋」の石碑があります。

【14】亀頭山城

下から見るとこんな感じです。
橋があっても、城キチたる者、渡ってはイケマセン!
・・・個人的な意見ですあせる

【15】亀頭山城

堀底に下りたのは帰りで、行きはちゃんと橋を渡っていますw
橋の向こう側は、曲輪というより大きな土橋です。
橋を渡ってから10メートル程先で、またしても大きく凹みます。

【16】亀頭山城

2つ目の堀切です。
こうして見ると緩く見えますが、大きくてハミ出しているだけです。

【17】亀頭山城

2つ目の堀切の先も、大きな土橋っぽい地形が続きます。

【18】亀頭山城

再び堀切です。

【19】亀頭山城

堀切の底から向こう側を見上げるとこんな感じです。
こっち側の方が切岸が鋭い気が・・・w
この上に四阿があります。

【20】亀頭山城

城域はこの四阿の手前の堀切まで。

【21】亀頭山城

この先は先ほどよりも幅の広い土橋状の道が延々と続きます。
私は東の麓から登って来たので、そちらが登城路だと思っていました。
しかし、反対側に堀切があるのが心の片隅に引っ掛かっていました。
そう思って等高線バッチリの国土地理院の地図を見て納得。
この道の先には、奥鶴という集落があります。
地理院の地図では、城の北側からそっちに道が伸びています。
そして、地形はその集落から東に出っ張った所にこの城がありました。
地形は、肥後に備えるというよりも、高千穂側を見張る感じです。


◆歴史◆

三田井家の家臣・甲斐将監の城でした。

甲斐将監も出自は不明です。
高千穂には「甲斐・興梠・〇〇の〇」という言葉があります。
最後の所は自粛しますが、意味合いはそれだけ沢山居るんだそうです。

ココは肥後との国境の城ですが、肥後側の最寄の城も甲斐氏の城でした。
甲斐宗運は、子が逆らって伊東義祐に近づいたため誅殺しています。
三田井氏は伊東義祐に従っていました。
その家老は甲斐宗摂であり、一族で島津家を牽制したのかもしれません。

1594年、高橋元種に攻められ落城しました。

高橋元種は、九州征伐後に高千穂に攻め込み三田井氏を降しました。
豊臣秀吉に讒言し、三田井氏の処置を一任されての軍事行動でした。
延岡に近い甲斐宗摂が攻め滅ぼされたのは、翌年の1595年でした。
なので、高橋元種は三田井家臣を個別に潰していったようです。
周辺に18もの支城を持つ亀頭山城も、多勢に無勢で落城しました。
城主の甲斐将監は城を脱出し、奥鶴で自害しました。


所在地:宮崎県西臼杵郡高千穂町河内 GPSログダウンロードページ

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中崎城/宮崎県日之影町

中崎城は三田井家の重臣・甲斐宗摂の居城でした。
訪問日は2018年12月30日です。

【1】中崎城

県道209号から城跡へ上がる道がココです。
現在この県道は、ココから西が「当面の間」通行止めとなっています。
東側にも通行止めと書かれていましたが、ココまでは通れました。
これから訪ねる方は、東側から行かれることをお勧めします。

【2】中崎城

道端には、小さく「中崎城址600m先」の案内があります。
しかし、目立たない茶色な上に、葉っぱに囲まれています。
冬以外は見えない、ステルス案内っぽいですあせる

【3】中崎城

林道を登って行くと、城跡の前に説明板があります。
登る側からは木陰で見えづらく、振り返るとこんな感じに見えます。

【4】中崎城

ここから城内に向かって道があります。
幅も広く、傾斜も緩やかで、4WDなら車でも通れそうです。
私見ですが、この道は後世に通されたものと思います。
通りやすい道がいきなり主郭につながっていますからw

【5】中崎城

道を登ったピークがココです。
ここで道が分岐して、左が城跡です。
城の入口なのに、まったくそんな感じには見えません。

【6】中崎城

入口から入った平坦面が主郭です。
狭く見えますが、手前1/3が杉林だからです。



『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』の縄張図を見ながら散策。
東側の腰曲輪は、木が茂っていて見晴らしは×ですクローバー
小さな曲輪が段になっているような気がします。

【7】中崎城

主郭奥はススキ伸び放題ですが、この先にも平坦面が続いています。
城跡を整備しようと木を伐り、そのまま放置?といった感じです。

【8】中崎城

この草原の真ん中に、甲斐宗攝居城の標柱があります。

【9】中崎城

反時計回りに主郭外周を回ると、北側にも腰曲輪があります。
こちらは木陰なので、下草が無くとてもよく見えます。
手前右が1段目で、その下にもう1段あります。

【10】中崎城

上の段の腰曲輪です。
そこそこの広さがあり、綺麗に削平されています。

【12】中崎城

北側の腰曲輪から主郭へ。
さらに半時計回りに進むと土塁があります。

【13】中崎城

さらに進み、南側には下りていく道があります。
ここが本来の虎口のようです。

【14】中崎城

ここから細い道を下ると途中で折れ、下の広い道へ。
しかし、道は途中で切れていて、下りることは出来ません。

【15】中崎城

下の広い道から見ると、先ほどの道の下側は削れて無くなっています。
そのため、ここから城内へ行くことは出来ません。
たぶんですが、広い道を通した時に削ってしまったんだと思います。


◆歴史◆

甲斐宗摂の城でした。

甲斐宗摂は高千穂の領主・三田井氏の家老でした。
元亀~天正(1570~90年代)に中崎城を築いたとされます。
元々は大人城主で、古来から続く人身御供の風習を止めさせています。
これが元で、三田井氏と仲違いしたなんて説もありますが・・・
地元の人には感謝され、今でも毎年大人歌舞伎が奉納されています。

甲斐宗摂は甲斐宗雪とも表記されますが、出自不明の人物です。
肥後の甲斐宗運の次男だ、なんて言う人もいるそうです。

1591年、甲斐宗摂が高橋元種に内通しました。

主家の三田井家は、1577年の伊東崩れの後は島津家に従いました。
翌年の耳川の戦では、島津軍の先鋒として活躍したそうです。
1587年、島津家は豊臣秀吉に攻められ降伏しました。
三田井家も降伏したのですが、領地については音沙汰無しでした。
そこで領地を接する延岡藩の高橋元種が、三田井親武と協議。
高橋元種が大坂城へ赴いて、豊臣秀吉に確認することになりました。
高橋元種は豊臣秀吉に、三田井親武に謀反の疑いがあると讒言。
その結果、三田井家の処置が高橋元種に一任されました。
高橋元種は三田井親武を攻めますが、容易には降せませんでした。
そこで、家老の甲斐宗摂を調略し、仲山城の寝こみを襲わせました。
当主の寝首を搔かれた三田井家は軍門に降り、戦は終わりました。

1595年、高橋元種に攻められました。

高千穂領を手に入れた高橋元種の謀略は、これで終わりませんでした。
高千穂には依然三田井氏が居り、甲斐宗摂も健在です。
なぜ寝返ったのかは???ですが・・・
1595年、今度は甲斐宗摂が謀反の疑いをかけられ攻められました。
中崎城を攻め落とされた甲斐宗摂は、鶴の平という所で自害しました。

甲斐宗摂亡き後、三田井鎮信も高橋元種の謀略に晒されます。
讒言を信じた三田井鎮信は、弟2人を相次いで処刑しました。
その後は酒色に耽るようになり、1598年に若くして世を去りました。

逆巻きで考えると、甲斐宗摂は高橋元種にとって邪魔だったようです。
開墾や治水、迷信打破などにより、甲斐宗摂は領民に慕われていました。
高橋元種が領民に受け入れられず、甲斐宗摂待望論が出ていたのかも。
もしかしたら、主家を継いだ三田井鎮信と仲直りしていたかもしれません。


所在地:宮崎県西臼杵郡日之影町岩井川 GPSログダウンロードページ

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黒木城/宮崎県美郷町

黒木城は黒木の街を見下ろす位置にあった山城です。
訪問日は2018年12月30日です。

【1】黒木城

黒木城跡へは、県道20号から脇道に入ります。
川の蛇行に沿ってカーブする所に、山中に入る道があります。
城跡へはここから登ります。
車は数十メートル先にある路肩が広い所に停められます。

【2】黒木城

先ほどの所から山中に入ると、こんな感じになります。
緩やかに右にカーブして、谷間を登るように見えます。

【3】黒木城

これがあるので、辛うじて「あ、ここ歩けるんだ」とわかります。

【4】黒木城

まぁでも、谷間を登っている時に見える光景です。
本当にココ道なの?と、頭の中には???が飛び交います。

【5】黒木城

谷間を登るにつれて、その疑念は段々強まります。
そしてココで「このままココ進めるのか?」というレベルに。
正面は笹がビッシリと茂り、藪慣れした私でも「ちょっと・・・」クローバー

【6】黒木城

真正面が笹の壁に遮られた所で、右を見上げるとこんな感じです。
斜面は下草が薄く、山上に向かう傾斜も見えます。
どうせ道が無いならこっちの方がと、ここから直登しました。
下の地図で、途中から南西に進んでいるのがココです。

【7】黒木城

斜面を直登すると、尾根にある平坦面に出ました。
どうやらココが黒木城の西側の曲輪のようです。
曲輪だ!と確信出来る位に真っ平です。

【8】黒木城

東側を見ると、まだまだ尾根が続いています。
先ほどの笹藪に比べれば、こちらの方が歩きやすい!

【9】黒木城

と思ったら、割とすぐに巨石群が尾根を塞いでいます。
あまり岩が無い山ですが、ここだけ集中的に岩があります。
尾根の幅いっぱいに積み重なっており、回り込むのが大変でした。

【10】黒木城

その岩の上にも平らな所があり、そこが主郭です。
写真撮っても、まぁいつもの光景ですけどw

【11】黒木城

ここから右側(南)が、某報告書の縄張図では腰曲輪です。
ただ、あまり明確な段差は無く、緩やかに下る尾根となっています。

【15】黒木城

ただ、段差になっている所もあります。
面というより出っ張りに近い感じですが。
某報告書では、こちら側に主郭の虎口があると書かれています。
そういう目で見たのですが、よくわかりませんでした。

【12】黒木城

主郭の北側に、幅の広い堀切がありますラブラブ
上から見ると「おぉ、凹んでるラブラブ」という感じで、鋭さはありません。

【13】黒木城

黒木城の城域は主郭・西・南の曲輪のみ。
さぁ、次へ行こうと山を下ります。
縄張図では、堀切の左側に破線が描かれています。
これは道を表しているのですが、堀切の左(西側)はこんな風景ですクローバー

【14】黒木城

その足元はこう。
道、ありますね・・・
素直にここから下ったものの、ほんの10メートル程で猛烈な藪に。
あとは重力に従って、笹の海を泳ぎましたクローバー
途中で直登に切り替えた所にたどり着き、そこからは歩いて下りました。


◆歴史◆

不明です

地名が福岡県の黒木と同じで「木」が濁ります。
黒木姓は宮崎の山中と鹿児島に多いそうです。
なので、個人的には黒木氏が居たのか?と想像しています。

地理的には、門川のすぐ西にあります。
その領主といえば、土持氏か門川伊東氏です。
北は高千穂へ通じる道へ、南は田代へ通じる道があります。
城が道を見下ろす場所にあり、見張り台的な役割だったと思われます。

すぐ南に黒木神社がありますが、元々は天満神社だったそうです。
創建年代は不明です。
明治時代に村内の愛宕神社と合祀され、黒木神社になりました。
地名からついた名前でした。
・・・という事で、手掛かりは得られませんでしたあせる


所在地:宮崎県東臼杵郡美郷町北郷黒木 GPSログダウンロードページ

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千田城/宮崎県西都市

千田城は穂北城のすぐ東にあったお城です。
訪問日は2018年12月30日です。

【1】千田城

千田城は穂北城の東の台地端にありました。
県道から1本入った道沿いのハズでしたが・・・
入口がなかなかわかりませんでしたあせる
それもそのはず。
事前に拝見したサイト様では、打ちっ放しゴルフ場の裏でした。
しかし、そのような施設は見当たらず、メガソーラー発電所が。
広大な平坦地である事が共通する!と思い、ここから攻めました。

【2】千田城

城跡へはメガソーラーの右側から回り込みます。
左側から回り込むと事前に予想しましたが、畑で行き止まりでした。
では!と右側から回り込むと、フェンスの外側をどんどん進めました。

【3】千田城

だいぶ奥まで入り込むと、藪の方に送電線の目印が。
城跡に送電用の鉄塔があるので、これが大きな手掛かりとなりました。

【4】千田城

キョロキョロ見回し、右側に入って行けそうな気配でした。
後から気づいたのですが、ここは東側の堀跡でしたラブラブ

【5】千田城

入口の藪を掻き分けると、内部は下草の無い雑木林でした。
じゃぁ歩きやすかったでしょ?と思われるかもしれませんが・・・
人の手が入っていない雑木林は、倒木が沢山あって歩きづらかったです。
こうやって紹介される所は、大抵は絵になる「特に」綺麗な場所ですw

【6】千田城

東側の大きな曲輪は、東端に堀、西寄りに南北の土塁があります。
曲輪の中を走る土塁は、どちらにも堀を伴いません。
この造り、有嶺城でも見ました。
あちらは、曲輪の並びに対して縦に曲輪を割っていました。
こちらは、曲輪の並びに対して横に曲輪を割っています。
見ようによっては、馬出しのような役割にも見えます。

【7】千田城

現地ではただ真っすぐな土塁だったので、ちょっと混乱しました。
どちらにも曲がらず、虎口らしきものも無かったからです。
高さは1メートル位の所が多く、一番高い所で2メートル程でした。

【7.5】千田城

どこがどこなのかよくわからないまま、奥へ奥へと進みました。
一番奥まで進んだのがココです。
全般的に倒木ゴロゴロの雑木林でしたが、西側は笹が密生しています。
足元が高くなって見えますが、一番奥の曲輪の手前の土塁のようです。

【8】千田城

その手前は、南に向かって一直線に笹が刈られている所があります。
左右が見えませんが、堀跡だったかもしれません。

【9】千田城

この先に、送電用の鉄塔があります。
鉄塔の周りも広い平坦地で、見える範囲では土の凸凹はありません。
これ以上歩き回っても埒が明かないと思い、ここから引き返しました。

【10】千田城

南側の端は土塁が無く、急斜面が迫っています。
この端っこを辿って東に進むと、メガソーラーに出ました。
その出口の所は、このように城跡側が高くなっています。
背後が低いので、どうやら東端の土塁のようです。

【11】千田城

この土塁の外側が、一直線に窪んでいました。
来た時は向こう側に進みましたが、堀跡ですラブラブ
この堀跡を辿って進み、くっ付き棒の野原を越えて車に戻りました。

【13】千田城

車で次の城跡へ向かう時に、南側の道を通りました。
この道は、台地の端を斜めに下る道です。
「この上がさっきの城跡だなぁ」なんて思っていると・・・
ざっくりと逆三角形に凹んでいる所がありました。
もしかして!と思って車を停め、ここから斜面を登ってみました。
上は逆三角形の凹みが奥へと続いていました。
どうやら堀の端っこのようです。
日も暮れ掛けて、次の城跡の事が気になりすぐに引き返しました。
今となっては、もっと攻めてみれば良かったかも?と思います。


◆歴史◆

サッパリわかりませんあせるあせるあせる

地図を眺めていると、穂北城同様、一ツ瀬川沿いにあります。
東の海沿いには高鍋城があり、川の南に都於郡城があります。
ちょっと南には、川の同じ側に歴史不明の有嶺城がありました。
どちらも規模が大きいのに、城主すらわからず。
南北朝時代の新納氏、その後の高鍋土持氏は、南の伊東氏と争いました。
一ツ瀬川沿いに城を並べ、伊東氏からの侵攻に備えたのかもしれません。


所在地:宮崎県西都市南方 GPSログダウンロードページ

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小川城/宮崎県西米良村

小川城は、米良氏が江戸時代に居城としたお城です。
訪問日は2018年12月31日です。

【1】小川城

小川城へは「小川城址公園」を目指します。
ずっと走ってきた県道からは、こんな風に見えます。

【2】小川城

川の向こう岸に見える、立派な石垣と塀に囲まれたお屋敷。
如何にもな雰囲気が漂いますが、実はここ、城主様のお屋敷です。
「城址公園」ですが、城跡はちょっと場所が違いますあせる
でも近いので、目印にはなっています。

【3】小川城

上の建物は後世のものですが、石垣は正真正銘本物です。
あからさまにそうでない所もありますが・・・
雰囲気づくりには役立っていますラブラブ

【4】小川城

お屋敷跡に入る門です。
曲りなりにも大名扱いの交代寄合。
もうちょっと厳重な造りで良かったかも?

【5】小川城

お屋敷は、都之城っぽい感じのカッコイイお家ですラブラブ

【6】小川城

城址公園の東側100メートル程の所に、山中に入る道があります。
左が小川城址公園、右が小川学校跡です。
小川小学校のあった所が、小川城の城跡です。
この道歩いてみれば良かったと、後になってから思うのですが・・・
面倒臭がりな私は、クルマで移動しました。

【7】小川城

案内は無いので、位置だけ頭に入れてそれっぽい方向に曲がります。
山の方に上がる道をまっすぐ進むと、その突き当りが小学校跡です。
遺構は見当たりませんが、広大な平坦地がそれっぽさを感じさせます。

【8】小川城



道を上がった所がココです。

先ほどの校舎は、ここから右に向いた所にあります。



【9】小川城



ここにある石碑が城址碑ですラブラブ

裏側に簡単な説明文が彫られているので、ぜひご覧下さい^^





◆歴史◆



江戸時代に米良氏が本拠としました。



米良氏は菊池氏の子孫で、1500年代初頭に米良に移り住みました。

はじめの居城は銀鏡城で、戦国時代は村所城を本拠としました。

戦国の荒波を乗り越えた米良氏は、江戸時代になり小川城に移りました。

その時期はサイト様によりバラバラですが・・・

色々総合して想像すると、小川城自体はそれ以前からあったようです。



米良氏は徳川家康により、米良の地を安堵されました。

この時の当主が米良重隆です。

米良重隆には三人の男子がおり、はじめに長男が家督を継ぎました。

その後三男→三男の子と継ぎ、その次が次男の子・米良則重です。

以後は次男の家系が代々家督を継いでいます。

米良則重の代から小川城が本拠となりました。

そのため米良則重、またはその父の代の築城と思われます。





所在地:宮崎県児湯郡西米良村小川 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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