fc2ブログ

村所城/宮崎県西米良村

村所城は別名・米良城とも呼ばれた、米良氏の本拠でした。
訪問日は2018年12月31日です。

【1】村所城

役場の西に村所城、東に新城がありました。
村所城が居館、新城が詰城だったと考えられています。
まずは居館の方から。
役場の先で左に入ると、正面が土の壁となる所に行き着きます。
この上が村所城跡です。

【2】村所城

役場の方を振り返ると、入口が堀で隔てられた感じに見えます。
たぶん、ここから城域だったと思います。

【3】村所城

土の壁を斜めに上がると、数件の家が台地上にあります。

【6】村所城

畑が段々になっていて、その1つ1つが曲輪に見えます。

【4】村所城

道を進むと、特に高い所に行き着きます。
いかにも、ここが主郭のように見えます。

【5】村所城

一番高い所は、かなり大きな平坦地です。
その東端に、ちょこんと高い所があります。
西米良村の街並みを見渡せる位置に、物見台があります。


続いて新城です。

【1】村所城新城

新城へはここから登ります。
入口からちょっと不安ですが、車で登れます。

【2】村所城新城

登れるのですが、かなり登ります。
登っている内に「あれ?まだ?通り過ぎた?」と不安になります。
ちょっと現在地確認しようかと思った所で、新城公園の案内登場ラブラブ
道端をブルドーザーでガーっとやったような、強引な駐車場があります。

【3】村所城新城

ここから、何となく高みを目指して登ります。
道らしい道が無く、とりあえず平坦な所を進みました。
登って下りたのでわかりますが、中央上に虎口が見えてます。

【4】村所城新城

下の平坦な所を何気なしに奥へ進むと、階段があります。
迷える城キチは、蜘蛛の糸にすがるように階段を上がりました。

【5】村所城新城

すると、上にある何かの施設に行き当たりました。
この施設は、東側の2段目の細長い平坦地にあります。

【6】村所城新城

一番高い所から見た何かの施設です。
UFO基地ではなさそうですが、曲輪を1つ潰しています。

【7】村所城新城

この一番高い所が主郭です。
東端には土塁の一部が残っています。

【8】村所城新城

西端から主郭全体を見たところです。
先ほどの土塁が木々に隠れて見えませんあせる

【9】村所城新城

主郭西端からは、1つ下の曲輪が見えます。

【10】村所城新城

1つ下の曲輪から主郭を見上げた所です。
下から見ると左側がちょっと高く、右側が下の曲輪の段です。
こうして見ると、左側は元は土塁だったのかもしれません。

【11】村所城新城

この曲輪からも、下にもう一段の曲輪が見えます。

【12】村所城新城

2段目の曲輪の北側に、左へ曲がるような通路があります。
たぶん虎口の跡と思われます。
ここから下りました。

【13】村所城新城

3段目の曲輪からは、下に大きな堀切が見えますラブラブ

【14】村所城新城

下りてみると、最初に通った平坦面です。
来た時に、確かにボロボロのトイレありました。
実は、この裏が先ほどの堀切です。

【15】村所城新城

堀切の断面は岩がゴツゴツしています。
掘るの大変だったろうなぁ・・・
この先(主郭の西、写真右側)は、細尾根状の自然地形が続きます。


◆歴史◆

米良氏の本拠地でした。

米良氏は菊池氏の内紛で逃れた、嫡流の子孫の家系です。
1501年に戦火を逃れて来た初代・米良重次の居城は銀鏡城でした。
家督は嫡男の米良重種が継ぎ、次男の米良重治が米良村に来ました。
3代目は次男なので、村所城はこの時に築かれたと思われます。
米良氏は伊東氏・相良氏に協力することで、勢力を拡大しました。

1559年、米良氏の本拠となりました。

2代目の米良重種が1559年に没し、弟の米良重治が家督を継ぎました。
米良重治は米良城(=村所城)を居城とし、ここが本拠地となりました。

1574年、当主が暗殺されました。

1573年に米良重治が没し、米良重鑑が家督を継ぎました。
弟達とは不仲で、米良を三人兄弟で分けるよう要求されました。
実はこれ、家臣による謀反の企みだったそうですが・・・
狭い米良を分割せず、肥後に新たな領地を得ようと出陣しました。
その道すがら、悪い家臣に待ち伏せされ、矢で射殺されました。

島津軍が日向に侵攻し、多くの伊東家臣が寝返った時期です。
米良家では、須木地頭の米良重方が1572年に木崎原の戦で討死。
兄の跡を継いだ米良矩重が、理由も無く領地を没収されていました。
島津家に鞍替えするか、激論が絶えなかったものと思われます。

家督を継いだ弟・米良重良は、伊東義祐に味方しました。
伊東義祐が山中を辿って豊後を目指した時は、島津兵から守りました。
豊臣秀吉の九州征伐の際、米良重良に代わり弟・米良重秀が出陣。
領地を安堵され、米良家は存続しました。
米良重秀は高橋元種との領地争いでも活躍。
大坂城に赴いて豊臣秀吉に直談判し、米良領を守っています。

江戸時代に本拠を小川城に移しました。

関ヶ原の戦で東軍に味方し、交代寄合として存続しました。
四年に一回参勤交代をする大名扱いだそうですが・・・
米良領は人吉藩の相良家の領地扱いだったようです。
江戸時代に小川城に居城を移しましたが、その時期は不明確です。
米良重良の子・重隆の代の説と、その孫・則重の代の説があります。


所在地:宮崎県児湯郡西米良村村所 GPSログダウンロードページ

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

銀鏡城/宮崎県西都市

銀鏡城は、米良氏のはじめの居城とされます。
訪問日は2018年12月31日です。

【1】銀鏡城

銀鏡は「しろみ」と読みます。
由来は神社の御神体である鏡なのだそうです。
城跡への目印はこの山の駅銀鏡です。
ここから歩きです。

【2】銀鏡城

山の駅の壁には、近隣の案内図があります。
その右の案内図がこちらです。
大まかには銀鏡城と銀鏡神社がメインのようです。

【3】銀鏡城

城跡周辺を拡大します。
この案内図では、橋を渡ってすぐ左へ。
下りて来たら、別の所から道に出るよう描かれています。
これ、現場でとてもヒントになりました。

【4】銀鏡城

城は川沿いにありました。
川側はごらんの通り、断崖です。
まさに天然の堀です。

【5】銀鏡城

橋を渡ってすぐ、左に入る道があります。
しかしこの道、竹の柵で通せんぼされています。
獣避けという感じでもなく、人の手でも開きません。
まさか、立入禁止?という表示もなし。
ちょい困惑です。

【6】銀鏡城

城跡の方を見ながら更に進むと、山に入っていく道ありました。
それがココです。

【7】銀鏡城

バリケード等は一切無く進むことが出来ます。
山に上がる道は、このように石垣が組まれています。

【8】銀鏡城

ここに「腹目石」があります。
案内図の①なので、こちらで合っているようです^^
この石を撫でると安産のご利益があるそうで・・・
撫でました(/ω\)

【9】銀鏡城

石垣の間の石段を上がると、かなり広い所に出ました。
奥には石垣で固められた坂道が見えます。
その前に、広場の真ん中に何かの案内表示があります。

【10】銀鏡城

近づいて見ると、銀鏡城と書かれていました。
この広い場所がお城の中心部だった、という事のようです。

【11】銀鏡城

階段を1回上がって終わりでは味気無いので、もうちょっと攻めました。
藪を掻き分け汗臭く!泥臭く!が染み付いて来たのでしょうかあせる

【12】銀鏡城

幅の狭い細尾根状の石垣の真ん中に、祭壇っぽい所があります。
ここに例の案内表示。
近づいて見ると「米良初代、二代領主の墓所」と書かれていました。
「お邪魔してます!」と、手を合わせてご挨拶しました。

【13】銀鏡城

更に上がると、今度は曲輪の端っぽい石垣が現れました。
城だった時に積まれたものかどうかは?ですが・・・

【15】銀鏡城

上から見ると、少しずつ段になっています。
建物をここに建てるという感じの段ではない感じがします。

【16】銀鏡城

右手に広い平坦地の段を見つつ、道は更に上に続きます。

【17】銀鏡城

鳥居の手前まで上がると、かなり広い平坦地があります。
一番上は草が少ないですが、下の二段は草ボーボーです。

【18】銀鏡城

広い曲輪の脇を上がると、鳥居の間に案内表示が現れます。
これはモミの巨木の案内で、すぐ後ろの木がそれです。

【19】銀鏡城

階段を90度曲がって上がると、六所稲荷神社があります。
山自体はまだまだ先がありますが、道はここまで。
米良のお殿様は、ここで暮らしていたのでしょうか。


◆歴史◆

米良氏の初期の居城でした。

米良氏は菊池能運の嫡男・米良重次を祖とする一族です。
菊池能運は1501年、大叔父・宇土為光に敗れて肥後を出ました。
この時、隠すように妻子を米良の山中に送りました。
1503年、菊池能運は大敵・宇土為光を激戦の末に討ち取りました。
しかし、この時の戦傷により1504年、23歳の若さで世を去りました。
以後の菊池家は、一族が養子となり継ぎますが、弱体化しました。

菊池能運の幼子は、叔父の米良重房が中心となって盛り立てました。
銀鏡を拠点に周辺の集落を支配下に置き、次第に勢力を拡大しました。
子の代になると平野城、山陰城、紙屋城、穂北城を加えています。
某サイト様の系図では、三代目から米良城主と書かれています。
「米良城」は村所城の別名です。
城跡のお墓が初代と二代だったのは、そういう事なのかもしれません。
米良重次は1551年、55歳で没しています。


所在地:宮崎県西都市銀鏡 GPSログダウンロードページ

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

有嶺城/宮崎県西都市

有嶺城はほぼ原形を留めている山城です。
訪問日は2018年12月29日です。

【1】有嶺城

城跡は県道312号線の西側にあります。
県道から「春日の大いちょう」の案内がある細道に入ります。
すると、すぐに派手な切通があります。
切通に見えますが、断面が重機モノっぽくありません。
たぶんですが、堀切ですねラブラブ

【2】有嶺城

大堀切っぽい切通を過ぎると、100メートル程でヘアピンカーブ。
普通に山肌が迫る道は、どんどん下って行きます。
城跡の入口どこだ?と目を皿にして見ていると・・・
1か所だけ「もしかしたら上がれるかもしれない」感じの所がありました。
何も無ければ気のせいだと思ったかもしれませんが、目印がありました!
先人のどなたか様、ありがとうございますラブラブ
(中央やや上にピンクのリボンが1本写っています)

【3】有嶺城

ここは深さ2メートル程の竪堀で、上に向かって続いています。
すでにガッツリ藪クローバーですが、地面の凹みを辿って登りました。

【4】有嶺城

登り切った所は木陰で暗く、下草ナシ。
なので、堀がとてもよく写せました。

【5】有嶺城

『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』の縄張図を見ながら探査開始。
(↑ググると、タダでPDFをダウンロード出来ます)
まずは北側の曲輪に上がりました。
先ほど登って来た竪堀は、上からだととても深く見えますラブラブ

【6】有嶺城

一番北の曲輪です。
木が生い茂っていて下草はほぼ無し。
とても歩きやすかったです。
この曲輪はw

【8】有嶺城

時計回りに外周を歩いた突き当りがここです。
真下に先ほどの切通があります。
かなりの高さがあります。

【7】有嶺城

切通側に土塁はありませんが、曲輪中央に向かうと土塁があります。
この土塁、曲輪の真ん中を隔てるように南北に通っています。
端にはなく、真ん中を仕切る土塁はチョット珍しいです。
この土塁、切通の向こう側にも続いていました。
上記報告書では、そっちにも城郭遺構があると書かれています。

【9】有嶺城

登って来た堀を越え、2つ目の曲輪に入ります。
この堀沿いに虎口があります。

【10】有嶺城

2つ目の曲輪の虎口脇に、結構高い土塁があります。
1つ目の曲輪は堀沿いに土塁はありませんでした。
こちら側の曲輪の方が重要度が高いという事になります。

【11】有嶺城

2つ目の曲輪は、1つ目の曲輪と違って土塁で囲まれていました。

【12】有嶺城

土塁に沿って進んで行くと、高さを増した土塁が曲がっていました。
という事は、ここが曲輪の端ということです。

【13】有嶺城

土塁に沿って進むと、ポコっと凹んだ所がありました。
どうやらここが虎口のようです。
チョットというか、かなり通り辛い感じになっていますクローバー

【14】有嶺城

虎口を越えた所に堀切様がいらっしゃいましたラブラブ
草の薄い所を撮ってますクローバー

【15】有嶺城

次の曲輪も土塁がありました。
ただし、3つ目の曲輪で土塁があるのは東側だけです。
反対側は猛烈な笹薮です。
無理やり潜ってみたもののただの端っこでした。

【16】有嶺城

土塁に沿って進んで行くと、猛烈な藪に行く手を阻まれます。
この藪を避けながら進むと、左側(東側)に下る道がありました。
道だと思ったのですが、L字形に曲がって行き止まり・・・
どうやら虎口のようです。
上記報告書では、ここが大手口とみられると書かれています。

【17】有嶺城

虎口の次の曲輪も、東側には低い土塁が続きます。
この土塁がまた右へ曲がると、土塁がかなり高くなりました。

【18】有嶺城

土塁に登ってみると、かな~り深い堀切様がいらっしゃいましたラブラブ
あまりに深いので、下りるのは無理じゃないかと思いましたが・・・
人間、何でも意志の力で何とかなるもんですw

【19】有嶺城

5つ目の曲輪もかなり草深く、根性で外周に沿って進みました。
すると、ぽっこり凹んだ虎口がありました。
向こう側がちょっと入りづらい雰囲気がクローバークローバークローバー



ここも意志のチカラとやらで突入です。
もはや写真を載せる意味あるのか?というレベルですが・・・
肉眼では横堀があるのが何となくわかりました。

【20】有嶺城

上記報告書の縄張図は、この先が描かれていませんでした。
気になって超藪横堀の先に登ってみました。
すると、その先は断崖になっていて、城域はここで終わりでした。


◆歴史◆

建武年間(1334~38)に長友行安により築かれました。

有嶺城でわかっているのはこれだけですあせる

位置的には伊東氏の勢力圏ですが、伊東四十八城には入っていません。
という事は、その時期には使われていなかったっぽいです。
城主の長友兵庫頭行安についても何もわからずあせる

時期と地理を合わせて考えると、ここは新納院の南端に位置します。
室町時代に入ったばかりの新納院は、島津家の領地でした。
ここに島津忠宗の4男・時久が封じられ、新納姓を名乗りました。
新納院から南の一ッ葉川を越えた所が、伊東氏の都於郡城です。
そのすぐ東には、田島氏の佐土原城がありました。

1350年、畠山直顕が新納時久を破り、その領地を奪いました。
畠山直顕は室町時代初期に日向に下向した北朝方の武将です。
日下部氏や土持氏、同時期に下向した伊東氏を従え活動しました。
敵対勢力は南朝だったのですが・・・
勢力拡大の過程で島津家と利害が対立し、争うようになりました。
おそらくは新納家が、南からの侵攻に備えて築いたものと思われます。
大規模なのに歴史に登場しない事から、陣城だったのかもしれません。


所在地:宮崎県西都市岡富 GPSログダウンロードページ

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

瀬平ノ城/宮崎県日南市

伊東四十八城のラストは瀬平ノ城です。
訪問日は2019年1月12日です。

【1】瀬平ノ城

城跡にはサボテンハーブ園がありました。
地図には「サボテンハーブ園跡」と書かれています。
それ以前に城跡だった事は、知る人ゾ知るといった感じです。

【2】瀬平ノ城

サボテンハーブ園は2005年3月に閉園し売却されました。
しかし、買収した会社も自社での開発を断念したそうで・・・
モノは言いようですクローバー

【3】瀬平ノ城

『宮崎県中近世城館跡分布緊急調査報告書I』では山頂が城跡とされます。
サボテンハーブ園がどれだけ地形を変えたのかは?ですが・・・
往時のままの地形を活かしたなら、居館と詰城のセットっぽく感じます。

【4】瀬平ノ城

サボテンハーブ園跡は立入禁止となっていて、鉄条網で囲まれています。
ググって出てくるサイト様では、山羊さんが沢山写っていました。
それもかなり以前の様子で、私が訪ねた時には見当たりませんでした。

【5】瀬平ノ城

建物のちょっと先に駐車場の案内があり、入っていく道があります。
入口は封鎖されていなかったので、もしかして!と期待したのですが・・・
50メートル程先にゲートがあり、入れなくなっています。

2017年末は前の道が通行止めで行けず。
2018年末はパンクで3時間ロスして行けず。
ようやく辿り着きましたが、城跡には入れませんでした( ノД`)
という事で、ITO48は遠くから眺めて卒業ですあせる


◆歴史◆

元弘年間(1331~34)に、矢野義元により築かれました。

矢野下野守義元が勅命により日向に下向し、七浦の領主となりました。
七浦は、青島から鵜戸神宮に通じる海岸沿い一帯のことです。
この時期に「勅命」という事は、南朝方という事でしょうか?
戦国時代、矢野氏は伊東家の家臣として歴史に登場します。

戦国時代は上別府常陸守が城主でした。

上別府常陸守は、飫肥城攻略に携わっていたようです。
清武地頭としてもその名が登場する伊東家の重臣です。

1541年、伊東義祐は飫肥城攻めに先立ち瀬平ノ城を増強しました。
この城の守将に上別府常陸守を任命しています。
1543年、伊東義祐もこの城から島津軍との戦に出陣。
島津方の烏帽子嶺砦(南の鵜戸神宮近くの山城)を攻め落としました。

1562年、伊東義祐は肝付兼続と島津家を挟み撃ちにしました。
伊東軍は飫肥城を攻め、島津忠親(豊州家)が降伏して城を明け渡しました。
この時に、上別府常陸守が飫肥地頭に任命されました。
飫肥城は半年後、島津忠親の夜襲により再び島津家の城になっています。

1568年、伊東義祐は再び飫肥城を島津家から奪いました。
この時は伊東祐兵が城主となり、上別府常陸守がその補佐となりました。

1577年、飫肥城が島津軍に奪い返されました。
この頃の伊東家では、各地で家臣が島津家に寝返りました。
伊東義祐は島津軍とまともに戦える状況になく、豊後へ落ち延びました。
瀬平ノ城は、この頃までに使われなくなったと思われます。

1951年、城跡にサボテン公園が開園しました。

はじめは峠にサボテンを植えたのが始まりだったそうです。
次第にその規模は大きくなり、やがて公園として開園しました。
城跡はこの時の造成により破壊されたとされます。
・・・見てないので何とも言えませんが
サボテン公園は日南市の観光スポットとして多くの観光客が訪れたそうです。
しかし、国道220号線のトンネルが開通すると客足が激減。
運営会社の経営不振もあり、2005年に閉園となりました。
以後、サボテンハーブ園周辺は立入禁止となっています。


所在地:宮崎県日南市富土(日南サボテンハーブ園跡)

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

平野城/宮崎県西都市

平野城は伊東四十八城の1つで、平野集落の南にありました。
2018年12月31日の最後に訪ねた城跡です。

【1】平野城

ここも誰も紹介したことがない城跡です。
位置はお馴染み『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書I』で特定。
事前にストビューでウロウロして、車はここに停めました。
ここは石尾バス停で、階段の上には小さな真新しい祠があります。
その裏は、私でも入れない程に竹が密生していました。

【2】平野城

とりあえず外周を歩き回り、入り込める場所を探索。
南端から反時計回りに細い道を歩きました。
左側が城塁で、高さは5メートル程あります。
奥義を使えば難なく登れるとは思いましたが・・・
出来れば、虎口から往時のように城跡に入りたいと思いました。

【3】平野城

そんな私をあざ笑うかのように城塁は高くなり・・・
北に進むと、その高さはおおよそ10メートルになりました。
下から見上げると、端っこは完全に垂直な崖ですあせる

【4】平野城

道はどんどん東へ進み、このままだとどこへ行くのやら・・・
と思った時に、ヘアピンカーブがありました。
とりあえず、城跡方向に道が伸びています。

【5】平野城

北へ北へと進む内に、道は少しずつ上がって行きました。
そのうちに右側にも土の壁が現れて・・・
これ、堀跡ですよね?ラブラブ

【6】平野城

城と東側は堀で隔てられていると、某報告書に書かれていました。
どうやらこれがその堀跡のようです。
南九州らしい、とても鋭い角度の堀跡です。

【7】平野城

堀跡を進み、再び地図に載っている道に出た所です。
台地上に出ましたが、道の所だけは3メートル程凹んだままです。
どうやらこの道も堀跡のようです。
平坦な台地上で、道を通すためにわざわざ掘る必要ないですもんね?

【8】平野城

この辺りから城内を拝見したいと思いましたが・・・
こちら側はたぶん、奥へ進んでも何も見えなさそう。
歴戦を重ねた私にはわかります( ・´ー・`)
・・・誰にでもわかりますよねw

【9】平野城

開けた方は畑になっていました。
こっち側なら何か見つかるかもしれない!と意気込んだのですが・・・
ここで城キチの天敵・放し飼いの犬っころ登場です。
ワンワン吠える獣に恐れおののき、この1枚だけで退散です。

【10】平野城

再び道を進みます。
奥が低くなっているので、台地は東西に伸びているようです。
この道が細長い台地を分断しています。

【11】平野城

堀底っぽい道を進むと、大きな道に出ました。
台地上に出るなら、普通この左のような道にしますよね!

【12】平野城

大きな道は南北に通っています。
この大きな道も、周囲より低くなっています。

【13】平野城

歩き回った北東の端に、平野バス停があります。
ここから北が平野の集落です。
この道も堀跡だとすると、かなり大きなお城だったようですラブラブ


◆歴史◆

1533年、伊東祐安が落ち延びて来ました。

平野城でググって出てくるのは「伊東左兵衛佐」です。
「伊東左兵衛佐」でググると「加賀守」が間に入って出てきます。
この伊東加賀守の父親が伊東武蔵守。
1533年に起きた戦に登場する伊東武蔵守が伊東祐武です。
じゃぁとその子・伊東祐安をググったら、官職名が加賀守でした。
ずいぶんと遠回りさせられましたあせる

伊東祐武は1533年、伊東宗家の家督を継ごうとした人物です。
しかし、家督争いに敗れて自害しました。
子である伊東左兵衛佐は、山裏一揆を率いて参戦したものの敗北。
そして逃げ込んだのが平野城だったという事です。
この家督争いに勝利して家督を継いだのが伊東義祐です。
伊東祐安は許され、1572年の木崎原の戦で戦死しています。

天文年間の城主は米良民部少輔でした。

平野「領主」として『日向記』に登場するのみです。
どのような人物だったのかは?ですあせる

1578年、伊東旧臣軍に攻められました。

伊東義祐が豊後へ逃れ、大友宗麟が日向奪還の兵を挙げました。
これに先駆け、長倉祐政が伊東旧臣を集めて石ノ城を占拠しました。
伊東旧臣軍は都於郡奪還を目指し、周辺の島津方の城を攻めました。
この時に八代城、本城(本庄?)、綾城とともに平野城も焼かれています。
伊東旧臣軍はその後、作戦のミスで島津軍に大敗。
三納城に籠城しましたがおびき出され、島津軍に殲滅されました。
その後の平野城についてはわかりませんあせる


所在地:宮崎県西都市平郡

宮崎県の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR