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新府城/山梨県韮崎市

新府城は、甲斐国内では最大級のお城でした。
訪問日は2017年12月23日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました(2018年6月5日)

大城郭なので、いつもの感覚で写真を選んだらエライ枚数になりました。
そのため、ちょっとケチな載せ方しますあせる

【写1】新府城
駐車場
【写2】新府城
東堀

知名度はかなり高め、ですよね?
七里岩ラインの県道17号沿いに、城キチ専用の駐車場が整備されています合格
かなりの台数が停められるのですが、土曜日のお昼前で私ともう1台だけでした。
貸し切りです( ・´ー・`)v

この駐車場から見て道の左側に、うっすらと凹んだ草原があります。
これが東堀の跡です。
新府城は平山城ですが、東と北は湿地帯を堀代わりにしていました。
パッと見て何となく堀跡っぽいな~と感じられました。

【写3】新府城

そして、駐車場から道の反対側には超気になる土の構造物があります。
これが東出構です。
その周りは城塁に沿って低くなっており、低湿地に突き出した状態になっています。
こんな感じの出っ張りが奥にもう1つあり、そちらは西出構と呼ばれています。
この2つの出っ張りについての説明板が、駐車場脇にあります。
・・・という事で、ここに載ってる図がコチラです。

【写4】新府城
東出構と西出構の間
【写5】新府城
西出構
【写6】新府城
北側の堀跡

東出構から西出構、乾門跡に至る城の北側は、広大な湿地帯が堀の役割を果たしていました。
そちらに沿って道もありましたが・・・私は湿地帯の跡を歩きました。
東出構から西出構の間は、城塁に沿ってちょっと凹んでいます。

東出構から150メートル程進んだ所にもう1つ、西出構があります。
こちらは東出構と違って、角が取れた自然な感じの形をしています。
東出構が復元、西出構が現存遺構という事でしょうか。

西出構の奥にも湿地帯の跡が続き、その先に乾門のある搦手の郭があります。
こちらは、遠目には東出構や西出構を大規模にした感じに見えます。
近づくと全然大きいんですけどねw

【写7】新府城
「北側の堀」の説明
【写8】新府城
搦手郭脇の水堀

搦手郭の前には、深くて立派な水堀があります。
その前に北側の遺構について詳しく書かれたモニュメントがあります。
せっかくなので、そこに載っている図をパクリます^^

【写9】新府城

水堀は幅が広く深そうで、ここを渡ろうなんて気が起きません。
新府城で見て来た中では最大の堀でした。

【写10】新府城
乾門入口の土橋
【写11】新府城
乾門の西側は断崖絶壁
【写12】新府城
乾門の枡形虎口(外側)

この水堀の一番奥が土橋になっていて、城内へと続いています。
ちらっと写っていますが、ここにも案内モニュメントがあります。
世間的には少数派ですが、北側から見た新府城の鳥観図が載っています。

土橋というと、一般的には堀を渡るように付けられた細道ですが・・・
ここの土橋の向こう側は、エライ断崖となっています。
つまり、城の西側は断崖絶壁により守られています。

この土橋を渡った所には、超カッコイイ土の門があります。
ここが乾門で、土塁で四角形に囲まれた枡形虎口になっています。

【写13】新府城

見事な土の造形に、しばらく留まって堪能しました恋の矢
ということで随分掛かりましたが、ここでようやく城内へ入りますあせる
土塁は枡形虎口の四方と、先ほどの堀沿いに続いています。

【写16】新府城
搦手郭から土橋を渡ります
【写17】新府城
土橋から見た堀
 
【写18】新府城
土橋を渡った所から見た搦手郭

土橋を渡って乾門の枡形虎口を入った所が搦手郭です。
搦手郭は外側の堀沿いに土塁が付けられた曲輪です。
内側にも堀があり、大規模な二重堀の真ん中が曲輪になったような感じです。
城内へは土橋を通って入ります。
外側からは土塁で見えませんが、内側からは丸見えです。
門を隠すようにあるので、馬出しの一形態だと思います。

【写19】新府城
搦手郭との間の堀
【写20】新府城
土塁
【写21】新府城
木橋の橋台

土橋は堀を渡るように通っています。
・・・当たり前ですけどあせる
つまり、搦手郭は外周の水堀と内側の空堀に挟まれた格好になっています。
これって、馬出しですよね?
なので、城内側には空堀に沿って土塁があります。
また、城内側から搦手郭の先端部にかけて、木橋の台の跡が残っています。
土橋だけでなく、木の橋も架けていたという事です。
出撃する時には土橋1本では滞りますからねw
でも、敵が攻めて来た時には簡単に外せそうです。

【写22】新府城
井戸跡の解説モニュメント
【写23】新府城
井戸跡
【写24】新府城
城内に上がる道

木橋の橋台からすぐの所に、コンクリート製のモニュメントがあります。
そこには井戸跡と書かれていました。
どこにあるんだろう?と思いましたが・・・
説明文でこの井戸は、直径32メートル、深さ4メートルと書かれていました。

ということで、このクレーターのような窪みが井戸跡です。
城の規模がデカイだけに、その井戸もまたスケールが大きいという事でしょうか。
この井戸の脇に、緩い坂道があります。

【写27】新府城
二の丸の入口
【写28】新府城
二の丸

ここを登ると、何となく周りを土塁で囲まれてるな~なんて感じになってきます。
いきなりですが、二の丸に出ます。
こちら側って、守りが薄いような気がします。

【写29】新府城
二の丸から本丸へ続く道
【写31】新府城
本丸は土塁で囲まれています

二の丸から道を土の壁が囲む如何にもな道を通ると、かなり広い場所に出ます。
ここが本丸です。
かな~り広いのですが、ちゃんと全周土塁で囲まれていますラブラブ

【写32】新府城
標柱
【写33】新府城
案内図説明板

本丸は大部分が平地ですが、神社の周りが色々賑やかです。
真裏には新府城本丸跡の標柱、その背後に大きな案内図と説明板があります。
イラストの案内図は立体的に、説明板の図は平面的で配置がわかりやすいです。
どちらがいいかは好みだと思いますが、ここには並んで両方あります合格

【写34】新府城

本丸北側の土塁に沿って、武田家に仕えた有名武将の名前が書かれた標柱が並んでいます。
一番右にある石碑には「長篠役陣歿将士之墓」と彫られています。
そう言えば長篠の戦で戦死した武将ばかりですが・・・
その真ん中は、武田勝頼ですw
ま、主君を守ろうとして散ったのですから、これでいいんですよね!

【写35】新府城
藤武神社
【写36】新府城
藤武神社の参道

本丸の東側には大きな神社があります。
武田家本拠地の本丸にあるので、武田神社では?と思いましたが・・・
藤武神社と書かれていました。
名の由来は藤井庄と武田庄を前後に見下ろしているからだそうです。
やっぱりというか、社殿の真正面は麓まで一直線の石段があります。

【写37】新府城
シトミの構え
【写38】新府城
馬出の案内


本丸見たし、あとは丸馬出を見よう!
ということで、二の丸から西側の道を通って下ります。
本丸の西側に二の丸方向へ通じる通路があります。
・・・通路というより、時々草むらを人が通った跡と言ったほうがしっくり来ます。
そこに白い案内が出ていて、そこには「蔀の構」と書かれています。
蔀(シトミ)とは草むらの事で、わざと草を茂らせて内部を見えにくくしたものです。

蔀の構の下には、先ほど二の丸から本丸に入った道があります。
この道を反対方向に進むと、二の丸の脇を抜けて城の西側を南へ下って行きます。
その途中に「馬出」の案内がありました。
この向きは、元来た方にある事を示しています。
そんな案内無かったのに・・・
見ない訳にはいかない!ということで、二の丸へUターンしました。

【写40】新府城

案内図を見ると、馬出は二の丸の南西に描かれています。
分厚い土塁で囲まれた曲輪ですが、どこにも案内が出ていません。
二の丸の土塁上から南側の草むらを見ていると、何となく土塁に囲まれた空間に見えました。
ということで、これが馬出ですクローバー

【写41】新府城
西三の丸の案内
【写42】新府城
西三の丸
【写43】新府城
道の外側に見える横堀

気になっていた馬出を見てスッキリしたので、元の道に戻りました。
案内図を見ていると、道の東側に三の丸がある筈でした。
道から見えるのは果てしない大草原でしたが・・・
道端に「西三の丸」と書かれた案内がありました。
これが無ければ、多分だれにもわかりませんあせる
一方、道の反対側に目をやると、大きな堀が見えて来ました。
道の随分したですが、道に沿って堀と土塁が並行していました。

【写44】新府城
横堀と土塁
【写45】新府城
枡形虎口

道の右側(西側)に見えていた横堀は、道を下る程に近づいてきました。
そして、下り切ると堀と道が合流しました。
この道、元々は無かったようですねあせる

横堀の土塁はそのまま続き、先の方で開いていました。
土塁はこの部分が一番高くなっています。
その開口部に行くと、土塁で囲まれた空間になっていました。
枡形虎口です。
土塁に囲まれた空間って、サイコーに萌えますね恋の矢

【写48】新府城
丸馬出の土塁
【写49】新府城
その下にある三日月堀

丸馬出なのでまぁるく撮りたかったのですが・・・
見下ろせる位置は枡形虎口の土塁の上。
でも「土塁に登らないで下さい」と書かれていたので登りませんでした。
そう書かれていないと、きっとみんな登りますからね・・・
登りたかったw
という訳で、真横から見た丸馬出は、写真では何だかよくわかりませんあせる
その10メートル位下に、丸馬出の形に沿った三日月堀があります。

【写51】新府城

という事で、この日唯一撮ったパノラマ写真です。
丸馬出の土塁は高さ10メートル近くあり、三日月堀も50メートル位あります。
なんて書いても、二次元では限界がありますね・・・
ここに誰か人が写ってれば大きさもわかるのですが、この日、城内で誰にも会いませんでしたw

【写53】新府城
東側の帯曲輪
【写54】新府城
東側の帯曲輪

さて、見る物見たし次行こかー!と思いましたが、下りる道がなかなかわかりませんでした。
枡形虎口の東側に誘導するかのようにバリケードはあったのですが・・・
ちょっと草深く、でも「誰か歩いた、よね?」という感じの通路がありました。
その先が横堀っぽかったので、もちろんショートカットしましたw
横堀は幅5メートルくらいで、高さ1メートル程の土塁が付いています。

【写56】新府城
藤武神社の鳥居
【写57】新府城
参道入口の案内板と城址碑

帯曲輪の途中にある真っ赤な鳥居は、藤武神社のものです。
この前後に一直線の石段があります。
神社の参道って、全国的に真っすぐ山を突っ切りますねw
この石段の真上が、さっきここを見下ろした本丸です。

本当は帯曲輪をずっと進みたかったのですが・・・
すぐ下の道沿いに、大きな案内板っぽいのが見えました。
「あぁ、あれ見ないと後悔する・・・」と、謎の引力に曳かれて石段を下りました。
そして、道端にあるのがデッカイ案内板と城址碑です。
あんまりそれっぽく見えませんが、駐車場からここを通るのが正式な登城路のようですあせる
いっぱい載せているので、ここの図も載せちゃいます。

【写58】新府城

そのまま道の反対側に渡ると、地面がしわくちゃになっています。
ここは、城の東側の水堀の役割を果たした首洗池の跡です。
どうみても虎口にしか見えなかったのですが、これも池の構造物として築かれたものです。

かな~り長い距離歩いたと思っていましたが、GPSログの距離は3.3kmでした。
歩き回った時間が1時間20分なので、普段からするとかなりゆっくり歩いた計算です。
武田勝頼が新しい本拠として築き、完成間際で廃城を余儀なくされた未完の大城。
意外にもかなりしっかり遺構が残っていて、見応えバッチリな城跡でした恋の矢恋の矢恋の矢


◆歴史◆

1581年、武田勝頼により築かれました。

1575年に長篠で織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼は、勢力の立て直しが迫られていました。
遠江や駿河では徳川家康の侵攻を受け、織田・上杉・北条など敵対勢力に囲まれていました。
そのため、東西に伸びる七里岩の上に堅固な城を築き始めました。
この年の末、武田勝頼は躑躅ヶ崎から完成間近の新府城へ移り住みました。

1582年3月、武田家が滅亡しました。

2月に木曽義昌が織田信長に寝返ったため、武田勝頼は討伐軍を出しました。
すると、伊那と飛騨から織田軍、三河から徳川軍、関東から北条軍が武田領へ侵攻しました。
武田勝頼は新府城へ引き上げ、守りを固めましたが・・・
各地で寝返ったり逃亡したりで、武田軍にはもはや抵抗する力がありませんでした。

武田勝頼は新府城に自ら火をかけ廃城とし、小山田信茂の岩殿城へ向かいました。
しかし、小山田軍は行く手を遮り、背後からは滝川一益の軍勢が迫っていました。
そのため、武田勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡しました。

天正壬午の乱で徳川家康が本陣として再利用しました。

武田家滅亡の3か月後、今度は織田信長が本能寺の変により世を去りました。
甲斐・信濃の武田家旧領では、来たばかりの織田家臣を排斥する動きが活発となりました。
上野国の滝川一益や川中島の森長可は命からがら逃げ、甲斐の河尻秀隆は横死しています。

領主不在となった甲斐・信濃をめぐり、周囲の大名が切り取り次第の争奪戦を始めました。
これが天正壬午の乱です。
北条軍は上野国から信濃へ入り、南下して若神子城に本陣を構えました。
徳川軍は伊那・南部から攻め上がり、新府城に本陣を構えました。
結局両者は和睦し、甲斐・信濃が徳川領、上野国が北条領となりました。

2017年4月6日、続日本100名城に選ばれました。

2018年春にスタンプラリーのスタンプが設置されました合格

続日本100名城スタンプ設置場所
 韮崎市民俗資料館
 開館時間 9時~16時半
 休館日 月曜日、木曜日の午前中
     (祝日の場合はその翌日)
     年末年始(12月29日~1月3日)
 入場料 無料


所在地:山梨県韮崎市中田町 GPSログダウンロードページ

山梨県の城跡/なぽのホームページを表示

能見城/山梨県韮崎市

能見城には壮大な遺構があるらしいということで、再訪問して来ました。
訪問日は2017年12月23日です。

かなり沢山の写真を載せて色々書いていますが、全部私見です。
少しくらいは当たっていて欲しいという願望も多々含まれていますけどw
話半分程度でご覧下さい。

【写1】能見城(2)

能見城は新府城のすぐ北にあり、出城だったと考えられています。
この2つの城は、南北に伸びる「七里岩」上にあります。
能見城周辺には、この七里岩に沿って新府城への進軍を妨げる防塁があったそうです。
その名残が、能見城のすぐ下にあるこの土塁なのだそうです。
下の地図で左下の方に印を付けた道端で、この土塁を見ることが出来ます。
七里岩ラインと呼ばれる道に対して、垂直に土塁が走っています。
この道を塞ぐ目的で築かれたようで、もしかしたらここに門があったかもしれません。

【写2】能見城(2)

とりあえず前回見なかった遺構を1つ見つけ、あとは斜面にあるという堀を見に行きます。
それがどの辺りにあったのかは?でしたが、宝探しに行く時はテンションが上がります。

【写3】能見城(2)

山には道が通されているので、車であれば主郭まで一気に登れます。
私は綺麗な道専用のバイクなので未舗装路は走れず、歩いて登りました。
右側のコンクリートの壁ですが、遺構に飢えた城キチの目には、城塁にしか見えませんw

【写4】能見城(2)

その城塁の切れ目に、ちょっと気になるものがありました。
断面があまり綺麗ではないのですが、地面がパックリ裂けているのです。
もしや竪堀の跡か?と思い、その脇から上がって見ました。

【写5】能見城(2)

かなり凸凹で草木も多く見えづらかったのですが、自然地形ではなさそうです。
奥で直角に曲がっており、竪堀で切った先で帯曲輪につながっていそうな感じです。

【写6】能見城(2)

かなり登ったので、そのまま上まで上がりました。
下の地図で西からショートカットしている軌跡がココです。
あっという間に、頂上近くまでワープしちゃいましたw

【写7】能見城(2)

それで、前回も気にはなっていたのですが・・・
頂上のすぐ手前には、コンクリートで補強された段差が2段あります。
誰もこれを紹介しないのですが、どう見ても帯曲輪のようにしか見えません。

【写8】能見城(2)

何となく首を傾げながら道を進むと、間もなく例の場所に辿り着きます。
皆様が「能見城」として紹介される場所です。
周りをいくら見回しても、土塁や堀などは見当たりません。
見えるのは草木ばかりなので、「何も無い」と言われるのも無理はありません。
私も前回ここだけ見て帰ってしまいました。

【写9】能見城(2)

正面の少し低い所にあるこの建物が、地図にも記されている長靖寺です。
人が暮らしている気配ゼロで、廃寺だと思います。
で、ここから何かを感じて動き始めました。
そういえば、この裏側を誰も紹介してくれません。

【写10】能見城(2)

そう思って裏へ回ってみると、巨大な堀っぽいものが見えました。

【写11】能見城(2)

堀なら底から見上げなければ!などと意味不明な衝動に突き動かされ、下りてみました。
窪んでいるので上から見ると堀に見えましたが、下で見るとどうやら帯曲輪のようです。
このアングル、見たことありませんよね?

【写12】能見城(2)

こうなると妖怪アンテナと同類と思われる何かがピンと来て、東側へと突き進みました。
実際に歩いてみると、頂上部分の平地はかなり広いです。
そしてその端に来て見ると、外側は一段低くなっているのが見えました。

【写13】能見城(2)

端には低いながら土塁も付けられており、下にあるのは横堀なのかと思いました。

【写14】能見城(2)

しかし、下りてみると平坦であり、どうやらここも帯曲輪のようです。
この写真の奥が帯曲輪の終端で、その先は急斜面となっています。

【写15】能見城(2)

帯曲輪の端にも土塁があったので、更にその外側を見てみると・・・
幅が狭くてエッジも切れきれなので、今度こそ横堀なのかと思いました。
もうちょっと草木の薄い所から綺麗に撮りたいと思い、ちょっと先へ進みました。

【写16】能見城(2)

草木の薄い所が見つかり下を覗き込むと、さっきよりも幅広で平らな感じに見えます。
2段目の帯曲輪のようです。

【写17】能見城(2)

下りてみると、上から見た時とは違って真っ平らでした。

【写18】能見城(2)

この外側にも土塁が付けられています。

【写19】能見城(2)

もしかしてと思って下を見ると、もう一段見えました。
こうやってどんどん下りて行くと戻るのが面倒だと思ったので、下りるのは止めにしました。

【写20】能見城(2)

そのまま2段目の帯曲輪を北へ進むと、途中から竹林になります。

【写21】能見城(2)

竹林に入ってすぐの所に、地形がかなりダイナミックな所がありました。
ザックリ凹んで左の方へ曲がるような地形・・・
もしかして、虎口?という地形です。
竹が密生していて形状がよくわかりませんでしたが、とりあえずそこを歩いてみました。

【写22】能見城(2)

コンクリート壁の断面が見えているので、もしかしたら崩れちゃったのかもしれませんが・・・
ここを通ることで1段下の帯曲輪に出られたので、城キチ的には虎口という事にしておきます。
・・・事の真偽は、偉い方の判断にお任せしますw

【写23】能見城(2)

ということで、3段目の帯曲輪ですラブラブ

【写24】能見城(2)

虎口とは反対側を見ると、何だか日の光が差し込んでいるのが見えました。
人間、薄暗い所よりも明るい所の方が好きなようで、自然と体はそちらへ進んで行きます。
動きだけ見ると、灯りに集まる昆虫と何ら変わりませんw

【写25】能見城(2)

そのまま竹林を出ると、始めに登って来た所に出ました。
上がって来た時は地面の裂け目に沿って来て、帯曲輪に沿って歩いて同じ場所に出ました。
下の地図の軌跡でも、同じ場所に出て来たことがわかります。
やっぱり、道端に見えるコンクリートの段差は帯曲輪の城塁のようです^^

【写26】能見城(2)

今度は道沿いに北へ進み、先端部に何か無いかを探ることにしました。
予想が当たっていれば、さっきの帯曲輪が台地北端まで伸びている筈だからです。
道がUの字に曲がっている先端部には、小さな石宮が2つ並んでいます。
中には文字の彫られた石が安置されていたので、ご挨拶しておきました。

【写27】能見城(2)

さて、カーブの先端から下を覗き込むと、やっぱりありました。
上から見ると横堀っぽく見えるアレがありますラブラブ
という事は、主郭の脇から始まった帯曲輪は、台地にそって300m以上もある事になります。
そんなのが最低でも3段あるので、実はかなりの大城郭だったことになります。

【写28】能見城(2)

下の帯曲輪が見たくなりキョロキョロしていると、カーブの脇に見えました音譜
ポッカリ口を開けた暗闇・・・
ダークサイドへの入口叫びではありませんw
ここから下りられました。

【写29】能見城(2)

斜面をまっすぐ下るような感じで、緩斜面が続いています。
コンクリート城塁もここまでずっと続いているようです。
行ける所まで下りてみよう!と進みましたが・・・
ずっと下の開けた場所まで行けちゃいそうに見えたので、途中でUターンしました。
下まで下り切ったら、バイクの所に戻るの大変そうだったのであせる
ということでもしかしたらですが、ここがかつての大手道だったかもしれません。

【写30】能見城(2)

とすると、ちょっと窪んだ感じで真正面にコンクリート城塁が立ち塞がるココは?
もしかしたら、超巨大枡形だったのでしょうか?
なんて感じで、脳内ではこんな妄想が膨らんでいました。

【想像図】能見城

ちょっとぐらいは当たってないか?と思って、某大聖典で確かめたかったのですが・・・
何と、ココ載ってませんwww
誰もやらない方法で紹介していますので、ココに書いた全部が想像ですあせる
でも、写真は本物ですキスマーク


所在地:山梨県韮崎市穴山町(長靖寺) GPSログダウンロードページ

山梨県の城跡/なぽのホームページを表示

獅子吼城/山梨県北杜市

獅子吼城への一番近い登城路は、ちょうど1年前から通れなくなりました。

・・・と、教えて頂きましたあせる

気温もいい感じに下がってお天気もサイコーだったので、代わりの登城路を見て来ました。

訪問日は昨日(2017年12月23日)です。



【写1】獅子吼城(新)

前回(2014年11月16日)に訪問した時の、旧登城口の説明板です。

これが獅子吼城への登城口の目印になっていました。



【写2】獅子吼城(新)



そして、こちらは昨日(2017年12月23日)見て来た同じ説明板です。

ちょっと装備品が増えています♪



【写3】獅子吼城(新)

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そいつをじっくり見てみると「通行できません」と、太字で書かれています。

しかし、その後ろの道は特にバリケードも無く、入ろうと思えば入れます。

その気は無くても、気付かずに入って行ってしまう人が居そうな気がプンプンしますが・・・

今このブログを読んで下さった方は、ここからは入らないで下さいネ!

ちゃんと書きましたからねw



【写4】獅子吼城(新)

ということで、まずは根小屋神社を目指します。
この辺りは道が細く、バイクといえども路駐が憚られるので駐車場に停めるためです。

【写5】獅子吼城(新)

神社から10メートル程先にある駐車場です。
バイクなので地面が心配でしたが、地面が固くスタンドを立てても大丈夫でした合格
雨上がりの時に訪ねる場合は、ペチャンコにつぶれた硬めの缶持参が良さげです。

【写6】獅子吼城(新)

前回訪問時は1匹も見かけませんでしたが、今回は沢山いらっしゃいました。
集落の中で人より沢山見掛けたおサル様です。
山梨の山城ではよく遭遇する野獣です。
テレビでは猿が人里に下りて来ると襲って来るなんて番組よくやってますが・・・
ここのおサル様達は大人しいようで、目が合っただけで逃げて行きます。
カメラ構えただけで逃げるので、木陰からの隠し撮りでようやく撮れました。

【写7】獅子吼城(新)

根小屋神社の境内で登城口を探していたら、城キチの大好きな白い板を見つけました。
これがあると確信していた訳ではなかったので、嬉しい外道です。
外道は「道を外れた者」ではなく、「狙っていたのとは別の獲物が獲れた」という方のです。
ニホンゴってムズカシイですw

【写8】獅子吼城(新)
拡大表示

せっかくなので、バッチリ載せちゃいます。
こちらのルートは下る時に通る予定でした。
逸る気持ちを抑えつつ、旧登城口で示された方へ向かいました。

【写9】獅子吼城(新)


【新登城路編】

下の地図で赤い線で示しているのが、こちらのルートです。
神社の前の道を南へ進み、Y字路の左(旧登城口へ向かう道)へ曲がります。
曲がってすぐの所から左側に公民館っぽいのがありますが、そこへは入りません。
道をさらに50メートル程進むと、コンクリート壁の切れ目があります。

【写10】獅子吼城(新)

ここから登ります音譜
案内のプレートが新しいので、旧登城路が通行禁止になった時に付けられたようです。

【写11】獅子吼城(新)

登城口に付けられた階段を登り、登城路を見上げた所です。
傾斜がキツイ上に大きな石が点在していて、いかにも険しそうな感じです。

【写12】獅子吼城(新)

上の写真でも写っていますが、こちらのルートにはこのようにリボンが付けられています。
このリボンは視界に入る範囲内にあり、主郭まで導いてくれます。
これが無くても迷いはしないでしょうが、かなり無駄な労力を使ってしまいそうです。

【写13】獅子吼城(新)

かな~り久々の山城登城だったので、10メートルおき位に息を切らしながら登りました。
あまりにキツかったので傾斜を撮ってみましたが。。。
普通ですか?そうですかw

【写14】獅子吼城(新)

登城路は道としては整備されておらず、かすかに見える踏み跡を辿る感じです。
一応は公に紹介されている登城路を歩いていますが、実感としてはほぼ直登ですw
ただ、先ほどのピンクのリボンがかなり効いており、歩きやすい所を登って行けます。
登って行くに従って、石ころの大きさがだんだん大きくなっていきます。

【写15】獅子吼城(新)

そして、頂上が見えるような高さまで登ると、所々に細長い平坦地が現れるようになります。
どうやらこれは、斜面に付けられた腰曲輪のようです。
腰曲輪と呼ぶにはかなり狭すぎるのですが・・・
他に呼び名が思い付きませんあせる

【写16】獅子吼城(新)

腰曲輪の周囲では、このような石積みが見られます。
前回はこちら側には来ていないので、またしても嬉しい外道ゲットですラブラブ

【写17】獅子吼城(新)

城域に入ったとはいえ、登城路らしい道筋は相変わらず不明瞭なままです。
あくまでも、案内に付けられたピンクのリボンを辿って岩場をちょっとずつ登りました。

【写18】獅子吼城(新)

大きな岩と岩の間をよじ登ると、主郭の一段下の腰曲輪に出ました。
ここから見ても、道見えませんけどw
登城口からここまでの所要時間は16分です。
結構辛かったような気がしたのですが、意外と時間はかかっていませんでしたあせる

【写19】獅子吼城(新)

主郭の説明板の所から、登って来た方を見た所です。
右奥の木にも、ピンクのリボン付いてますね合格
上から見ても登って来た登城路が見えませんでした。
下る時もピンクのリボンを追いかける感じになりそうです。


【もう1つの登城路へ】

こうしてこれから紹介はするのですが、こちらのルートはお勧め出来ません
主郭から虎口までなら下りて戻るのは大丈夫だと思いますが・・・
虎口から神社までの間は、道がほぼ全く見えないからです。
私が紹介したのを見て遭難されても困るので、自信が無い方は通らない方で下さい。

【写20】獅子吼城(新)

下の地図で青い線で示しているのが、こちらのルートです。
一石二鳥狙いなので、下りは神社へ通じる道を通りました。
神社で見た登城路は、城跡の直下で旧登城路と合流します。
そのため、主郭の端にあるこの石像脇の道を下りました。

【写21】獅子吼城(新)

とは言ってもこんな感じで、道はハッキリ見えません。
かつて一度登った事があるので、ここが通れることを知っていました。
反対側から初めて登った方には、こちらから下るのは容易ではなさそうです。

【写22】獅子吼城(新)

こちら側には先ほどの斜面とは比べ物にならない位、立派な腰曲輪が何段もあります。
しかも、その側面はこんな感じで、かなりしっかりした石積みで補強されています。
ここが獅子吼城の見どころの1つなので、これから登る方は大変かもしれません。

【写23】獅子吼城(新)

急な登城路を下り切ると、目の前に大きな土塁が現れます。
この土塁が、ヒトの動線を限定する大きな役割を果たしています。

【写24】獅子吼城(新)

その先にある虎口です。
前回は土塁に気を取られて気付いていませんでしたあせる
一度訪ねた城跡への再訪問はしないのですが、新たな気付きがあると嬉しいものですラブラブ

【写25】獅子吼城(新)

虎口を出てグルっと回り込むと、目の前に大きな竪堀が現れました。
これも前回見落としていました。
こんなデッカイのを見落とすなんて、どんだけ鈍感だったのでしょうwww

【写26】獅子吼城(新)

さらに、この竪堀の一番上に、道を補強する石積みまでありました。
この補強されている道が、旧登城路です。
ここからは神社へ向かうので、上にある土塁と下にある竪堀の間を北へ進みます。

【写27】獅子吼城(新)

なんて書いていますが、こんな感じで道はサッパリ見えません。
落ち葉で埋もれてしまったからなのかもしれませんが・・・
山城の跡に登るのは、葉っぱが落ちた後と相場は決まっていますよね?
私だけでしょうか・・・あせる

【写28】獅子吼城(新)

途中振り返って城跡方向を撮ったのがこれです。
やはりと言うか、下って来た道が見えません。
まぁでも、城キチ精神で「とりあえず高みを目指す!」で行けなくもありません。

【写29】獅子吼城(新)

何となくうっすらとした踏み跡っぽいのを辿ると、かなり特徴的な所に出ました。
神社にあった地図で、北側に尖がったルートのある細尾根のようです。
この左脇にはハッキリとした踏み跡が続いていたので、そのまま下へ進みました。

【写30】獅子吼城(新)

細尾根の先端近くまで下ると、すぐ下に民家が見えます。
道に迷って下って来たのなら、迷わずそのまま下りるのですが・・・
今回のミッションは、神社からの登城路を紹介することです。
誘惑に負けて真っすぐ下る訳にはイキマセン(`・ω・´)
とは言うものの、鋭角に曲がって神社方向へ進む道が見当たらず・・・

【写31】獅子吼城(新)

とりあえず、先ほどの細尾根を登り直しました。

【写32】獅子吼城(新)

細尾根の付け根辺りからも、下へ続くかすかな踏み跡があったような気がしたためでした。
ルートからは外れるかもしれませんが、ちょっとだけ斜面をまっすぐ下ってみました。
すると、途中にこんなのがありました。
落ち葉でほぼ隠れていましたが、人為的に凹まされた感じがします。

【写33】獅子吼城(新)

この凹みが真っすぐ神社の方向に伸びています。
どうやら、これが神社から上がって横方向に進む道のようです。
落ち葉が無ければ、こちらのルートもちゃんと見えるのかもしれません。

【写34】獅子吼城(新)

まっすぐな凹みを見つけて少しだけ勇気づけられましたが、またすぐに見失いました。
とはいえ、ここいらの斜面は傾斜が緩いので、どこからでも下りられそうな感じです。
iPhone様のGPSで確認すると、もう神社の真上まで戻って来ていました。
見えない道を探すのは諦めて、ここからまっすぐ斜面を下りました。

【写35】獅子吼城(新)

下った所には水路がありました。
水堀の跡ではなさそうですが・・・そうですか?
ジョーダンですw

【写36】獅子吼城(新)

下りた所はこんな感じで渡れるようになっていました。
左右を見渡しても、渡れる所はココ1ヶ所だけのようです。

【写37】獅子吼城(新)

渡った所から神社の上までウロウロしましたが、結局道を見つけられず。
やむなく、道端の空き地の所へまっすぐ下りました。
ここは神社から30メートル程南側の道端です。
・・・とまぁこんな感じで、神社ルートはほぼ道が見えませんでした。
ただ、どこからもまっすぐ下りられそうな感じでした。
こちらから登るのはお勧め出来ませんが、下る分には探検気分が味わえそうです。
でも、それは自己責任でお願いしますネ!


【歴史】 一度書いているので、そちらのを丸々コピペします。

築城年代は不明です。

獅子吼城は江草城とも呼ばれ、江草氏の城だったようです。
『甲斐国志』では、応永(1394~1428年の間)に江草信泰の居城だったと記しています。
江草信泰は甲斐守護・武田信満の三男で、備後の江草氏の養子になったようです。
そのため、江草氏の子孫は備後で栄えますが、江草信泰当人はずっとここに残ったようです。
なぜ遠く離れた備後に?なんて思いましたが、父の武田信満は甲斐と安芸両国の守護でした。
そして、なぜ甲斐に残ったのか?なんて思い色々ググってみると・・・
江草信泰は25歳で没したそうです。
病死なのか、戦死なのかは?ですが、行かなかったというより行けなかったかもしれません。

今井氏が城主となりました。

江草信泰の遺領は、甥の今井信経が「兵庫助」の名とともに継ぎました。
甥っ子(弟の子)ということで、今井氏も甲斐守護・武田氏の一族です。
今井氏はその子の代で表今井家と浦今井家に分かれ、獅子吼城は浦今井家の城となりました。
表今井家は兄・今井信乂の系統で、甲斐守護の武田家に付き従いました。
一方、浦今井家は弟・今井信慶の系統で、武田家とは事あるごとに反発しました。

1509年、小尾弥十郎が乗っ取りました。

いくらググっても、この前後の出来事は不明、としか出て来ません。
なので、勝手に推測しちゃいます。
だって、ブログですからw

浦今井家はこの年、諏訪頼満に攻められています。
この戦では、今井信是の弟・平三が諏訪軍により討ち取られています。
同じ頃、武田信虎は叔父・油川信恵を前年に滅ぼし、甲斐統一へ大きく前進していました。
しかし、大井氏や栗原氏など、まだ従わない有力国人も多く、不安定な時期でした。
もし、諏訪頼満が武田信虎に浦今井氏を挟み撃ちにしようと持ち掛けたらどうなるでしょうか?
小尾氏は津金衆に属する一族で、武田氏に従っていました。

もしかしたら小尾氏が獅子吼城を乗っ取り、野戦で諏訪軍が今井軍を叩いたのかもしれません。
今井信是は諏訪頼満と和睦し、その娘を今井信是の子・信隣の正室に迎えました。
直接戦っていた諏訪軍が勝ったため、城は今井信是に返されたものと思われます。

1532年、武田信虎に攻められました。

今井信是は、1520年に大井信達らとともに大規模な反乱を起こしました。
この時に武田信虎に大敗を喫し、降伏の条件として子の今井信元に家督を譲りました。

その今井信元も、1531年に飯富氏、大井氏、栗原氏らと共に反乱を起こしました。
この時は、姑の諏訪頼満からの援軍も来る本格的な挙兵でした。
しかし、2月に大井信業が討死し、4月には河原辺で連合軍が武田軍に大敗しました。
今井信元は獅子吼城に籠城して抵抗を続けましたが、翌年9月に開城し降伏しました。
この戦に勝った事が、武田信虎の甲斐統一達成とされています。
以後の今井信元の動向はよくわかりませんが、甥の今井信昌が武田家に仕えています。

1582年、後北条軍により改修されました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされ、甲斐・信濃にはその家臣がやって来ました。
しかし、その3か月後には本能寺の変があり、各地で織田家臣排斥の動きが激しくなりました。
そのため、織田家臣は命からがら逃げだし、中には河尻秀隆のように討たれる者もありました。
支配者が居ない空白地となった甲斐・信濃を、周辺の大名が奪い合う戦が始まりました。

甲斐では徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に布陣し、睨み合う状況が続きました。
その中で、北条氏直は若神子城の背後にあった獅子吼城を改修し、兵を置きました。
この時の獅子吼城の事が「江草小屋」と表現されており、既に城でなかった可能性があります。
徳川家康は服部半蔵と津金衆に獅子吼城の攻略を命じ、夜襲により陥落しました。
その後、徳川家康と北条氏直が和睦すると、獅子吼城は廃城となりました。


所在地:山梨県北杜市須玉町江草 GPSログダウンロードページ

山梨県の城跡/なぽのホームページを表示

小田野城/山梨市

山梨シリーズのラストは小田野城です。
訪問日は2015年4月26日です。

【写1】小田野城

登城口は、普門寺の裏にあります。
・・・最初に書いちゃうと、写真は沢山載せてますが、凄い遺構はありませんあせる

【写2】小田野城

本堂を正面から見て左へ進むと、こんな感じの所があります。
ここを上がります。

【写3】小田野城

すると、上に獣避けのフェンスが見えます。
ちょっとだけ草深いですが、掻き分けて進みます。

【写4】小田野城

所々にこんな感じで扉があります。
獣避けなので、人間なら簡単に開けて入ることが出来ます。
・・・開けたらちゃんと閉めましょうね!

【写6】小田野城

扉はいくつかありますが、その中の1つにこれがあります。
これが無い所から入ったら、とりあえず高い所目指して真っすぐ登って下さいw

【写7】小田野城

当たりの扉から入ると、なんとなく人が歩いたっぽいものが見えます。
ここから入って行く所なんてみんな同じなので、素直に踏み跡を辿って行きます。

【写9】小田野城

すると、こんな感じの尾根に出ます。
道無き道が見えますよね?
見えませんか?
・・・そうですかあせる

【写10】小田野城

その道無き道をトコトコ登っていくと、扉から11分で虎口っぽいのが現れます。

【写11】小田野城

そのすぐ先に、石塔が2つ並んであります。
ちょっと平らになっているので、ここも曲輪だったのでしょうか。

【写12】小田野城

見上げると、まだまだ道無き道が続いています。

【写13】小田野城

道無き道を真正面から見ても大した事なさそうに見えますが・・・
真横を見るとこんな感じです。
結構キツイですw

【写15】小田野城

扉から19分の所で、再び平らな場所にでます。
今度は虎口っぽいのはありません。

【写16】小田野城

上を見ると、さっき見たのと同じような光景が待っていました。

【写17】小田野城

更に登ると、今度は岩がゴツゴツしてきます。

【写18】小田野城

そのすぐ上が何となく頂上っぽい感じ。
俄然力が沸いて来てラストスパートヾ(*´∀`*)ノ

【写19】小田野城

上がった所を振り返ると、ここも何となくですが虎口があった???感じです。
扉からここまでで30分です。

【写20】小田野城

岩場に上がった所で見えちゃいましたが・・・
まだまだ続きがありますあせる

【写21】小田野城

そして、また頂上っぽい光景が現れます。
・・・もうぬか喜びはしないゾなんて思いながら、淡々と登ります。

【写22】小田野城

上がった所から振り返ると、岩が天然の城門みたいになっていますラブラブ

【写23】小田野城

でも、やっぱりまだ続きがありましたw

【写24】小田野城

ただ、それまでと違うのは、地面の窪みが深くなったことです。
どうやら城の主要部に近づいて来たようです^^

【写25】小田野城

再び見慣れた光景が見えてきました。
またまた続きが見えても驚かないゾと、決意を新たに登ります。

【写26】小田野城

今度は続きが見えません。
あれ?と拍子抜けしますが・・・

【写27】小田野城

扉から33分で、ついに登り切ったようですwww
ただ、ここまでに見たのが、虎口?っぽいのと、堀跡?っぽい窪みだけ。
さらに、山頂の削平地も大した広さはありません。
これで終わり?なんて思いましたが・・・

【写28】小田野城

北側に細い稜線が続いていますが、その地面が何だかボコボコです。

【写29】小田野城

こんな感じに。
堀切様が、いくつもいくつも続いています恋の矢

【写30】小田野城

細い稜線を辿り、扉から37分で再び開けた場所に出ました。
何となくですが、ここが主郭で、山頂が物見台でしょうか。
籠城するタイプの城ではなく、烽火台のような感じがしました。


◆歴史◆

安田義定が築いたとする説があります

安田義定は甲斐源氏の祖・源清光の子または弟とされる人物です。
甲斐では山梨郡安田郷(山梨市)を拠点としていました。
その後、平家討伐で功を挙げ、遠江国の守護となっています。
しかし、甲斐源氏が遠江・駿河・信濃・甲斐・武蔵と勢力を拡大すると・・・
源頼朝は危機感を抱きました。
というのも、甲斐源氏は家臣ではなく、対等な立場の同盟者だったからです。
利害が対立すれば、とても手強い強敵となるため、源頼朝は甲斐源氏の切り崩しを謀りました。
列記すると・・・

1184年、一条忠類が鎌倉で暗殺される
1185年、秋山光朝が討伐され自害
1188年、武田有義が鎌倉で衆人環視のもと源頼朝に面罵され求心力を失う
1190年、板垣兼信が隠岐島へ遠流
などなど。

安田義定は1193年に嫡男・義資が院の女房に艶書を送ったとして処刑されました。
この時に安田義定も領地を没収され、翌1194年、謀反の疑いがあるとして梟首されました。
安田義定が遠江守護補任が1180年なので、築城したとすればそれ以前という事になります。

1465年、跡部景家がココで自害しました。

跡部景家は甲斐守護代で、跡部明海の子です。
跡部明海・景家父子は、1418年に武田信元が甲斐守護となった際に甲斐にやって来ました。
1417年にあった上杉禅秀の乱で、甲斐守護・武田信満が禅秀に味方したため討伐されました。
すると、武田氏嫡流の一族がそろって甲斐を出て高野山に逃れ、皆出家してしまいました。
そのため、甲斐では守護不在となる事態が発生しました。

・・・う~ん、長くなりそw

そんな事態を迎え、鎌倉公方の足利持氏は、武田一族の逸見有直を甲斐守護にしようとします。
しかし、鎌倉公方と対立していた室町幕府は、武田氏の中から甲斐守護を出そうと奔走します。
はじめに任命したのが武田信満の弟・穴山満春で、1418年に甲斐守護に任命しました。
この時に信濃の小笠原政康に協力するよう命じ、補佐役としてつけられたのが跡部父子でした。
跡部父子は小笠原氏の一族です。

武田氏の守護は逸見氏など反武田勢力と争い続け・・・
守護が戦死しては、上方に逃れた一族を連れ戻して甲斐守護にするという事態が続きました。
そんな中、跡部父子と対立した武田信長が上総へ逃れ、真里谷氏の祖になったりしています。
その後、武田信重が足利持氏討伐直前に守護となり、幕府軍の一翼として参加。

1450年に武田信重が没すると、武田信守が守護を継ぎました。
この頃から跡部明海・景家父子による専横が始まり、武田信守は実権の無い傀儡でした。
武田信守は失意のまま守護就任から5年で世を去り、9歳の武田信昌が守護となります。

その武田信昌が成長すると、跡部父子と争うようになりました。
序盤は跡部父子が圧倒しましたが・・・
1464年に跡部明海が没すると、形成が逆転しました。
そして1465年、武田軍により追い詰められ、ココで跡部景家が自害しました。

烽火台として使われた、かもしれません。

城としての構造が古いので、おそらく跡部氏滅亡により廃城になったと思われます。
ただ、甲府市の湯村山城にあった図では、この辺りにも烽火台が描かれていました。
地理的にも信濃国佐久郡に通じる道があり、武田信玄は浄古寺城を築いています。
もしかしたら、烽火台として使われたかもしれませんね。


所在地:山梨市牧丘町西保下

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浄古寺城/山梨市

浄古寺城は別名・中牧城とも呼ばれ、ブドウ畑になっています。
訪問日は2014年11月15日です。



城跡へは南側から行きました。
県道206号からこんにゃく工場の所で斜めに入ります。
百聞は一見に如かずで、ストビュー貼りますw
既に地形が城跡っぽいですが、城跡はこの右斜めの道を進んだ先です。

【写1】浄古寺城

ただし、何かしらの案内がある訳でもなく「この辺?」と感じた所が本丸の脇でしたあせる
道を進んでいるとここら辺が一番高く、その先は下り坂となっています。
それでiPhoneで現在地を確認したのがココでした。
道と段差になっているのが本丸の城塁ですが、思っていた程の高低差はありませんでした。

【写2】浄古寺城

本丸の北側には、切通にしたような道があります。
これは堀切の跡のようです。
見た感じではあまり削られておらず、薬研堀を最低限の加工で道にした感じです。

【写3】浄古寺城

堀切の脇から上がって見た本丸内部の様子です。
一面ブドウ畑で、奥の方がこんもり高くなっています。
これが天守台の跡で、ここに石碑があるようです。
北側から見たので行けないと思いましたが、どうやら南側からは入れるようですあせる

【写4】浄古寺城

お天気が良ければ、富士山が目の前に見えます合格

【写5】浄古寺城

訪ねた当時はどこが何だか見当もついておらず、とりあえず進める所を進んでみました。
本丸の南側の道を東に進むと、丘の端っこに八幡神社があります。
ただ、遠目には神社に見えず、軽トラが沢山止まっているので農作業小屋に見えました。
ここに説明板が2枚あります。

【写6】浄古寺城
拡大図

そのうちの1枚に載っている図です。
おそらく主観で描かれたものでしょうか、地図と見比べるとかなり横幅が広く描かれています。
ただ、現地で見ても、方向音痴の私にはどこがどうなんだろう?と首をひねるばかりでしたあせる
ということで、この図を見ながら地図に線を入れてみました。
これを見ながらだったら、私も天守台の石碑を見落とすことはなかったでしょう。

【写7】浄古寺城

八幡神社から撮った本丸の城塁です。
とにかくどこがどうなのかサッパリだったので、あまり枚数が撮れていません。
城塁の下の腰曲輪っぽい所が、図では「馬出し」と描かれている場所です。
私がイメージしてきたものとは違っていたので、それで混乱したのかもしれません。


◆歴史◆

1548年、武田信玄が大村加賀守に築かせました。

この頃の武田信玄は、信濃国佐久地方を攻めていました。
前年の1547年には志賀城を攻め、関東管領・上杉憲政の援軍を破っています。
この年になり、更なる領地拡大を目指して、武田軍は上田原で村上義清と決戦に挑みました。
しかし、結果は武田軍の大惨敗で、重鎮・板垣信方と甘利虎泰を討ち取られています。
この状況を見て、信濃から小笠原長時が武田領に侵攻してきたりもしています。
小笠原軍は無事撃退しましたが、これから2年間、武田信玄は信濃侵攻を停止しています。

武田信玄は北からの備えとして、ココに城を築きました。
地図で見ても高い山々に囲まれており、どこから攻めて来るんだろう?という感じ。
敢えてこの山々を無視すれば、信濃の佐久と武蔵の奥多摩がここの北に当たります。

大村加賀守はここの領主だったそうで、その次は大村伊賀守が城主になったそうです。
1582年の天正壬午の乱の際に徳川軍に攻められますが、ここの城兵は抵抗したそうです。

1582年、徳川家康により改修されました。

甲斐を領地に加えた徳川家康は、内藤信成に浄古寺城の改修を命じています。
ここから近い徳川以外の他勢力は、後北条氏しかありません。
現状の縄張りは南から三の丸→二の丸→本丸なので、南に備えた造りになっています。
城の改修は1589年に完成しましたが、翌年、徳川家康は関東への移封を余儀なくされました。
改修が終わったばかりですが、この時に廃城になったのかもしれません。


所在地:山梨市牧丘町城古寺

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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