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武田信春館/山梨県甲州市

甲州市にある慈徳院というお寺が、武田信春の館跡だと伝わります。
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】武田信春館



お寺入口は南側にあります。


【写2】武田信春館




ここに武田信春公館跡の石碑があります。

【写4】武田信春館



このお寺には、武田信春公のお墓もあります。
「も」じゃないですねあせる


【写5】武田信春館




見た感じ遺構は何も無さそうな所ですが、ついついウロウロしてしまいます。

そうしたら、北側にこれがありました。

石碑には「千矢の堀跡」と彫られています。

その脇には「千野館東側の堀で 優良な矢竹となる 竹が茂っていた」とも彫られています。

しかし、この堀跡はがっつりコンクリートで固められてしまっています。

それ以前に、周りのフェンスが高い上に視界を遮っています。





◆歴史◆


甲斐武田家12代当主・武田信春の館があったとされます。



武田信春は南北朝時代終わり頃の人物で、連方屋敷で紹介した武田信武の孫です。

武田信武は元々は安芸国の守護で、足利尊氏に従って中国地方で活躍しました。

甲斐は武田政義が守護でしたが、南朝方に寝返って北朝方の守護代と戦っていました。

1343年に武田政義が戦死すると、足利尊氏は武田信武を甲斐守護に任命。

実際にはその嫡男・武田信成が先に甲斐に来て、足利軍の一翼を担いました。

武田信春も父とともに甲斐へ移り、南朝方討伐軍を率いて転戦しました。


1394年にその父が没すると、武田家当主となり甲斐守護を継ぎました。

南朝方勢力を駆逐した後の事があまり書かれていないので、平穏だったのでしょうか。

しかし、武田信春は1413年、乱により館を攻め落とされ、萩原山へ逃れています。

そして、同年内にその地で没しています。

武田家と甲斐守護はその子・武田信満が継いでいます。


この1413年にあった「乱」というのが超気になりますが・・・


ググったら、割とアッサリ出て来ました。

それは館跡にある慈徳院の縁起です。

慈徳院は武田信春の菩提寺ですが、これは武田信春の遺言によりそうなったのだそうです。

その縁起によると、1413年2月に逸見氏が乱を起こし千野の館(ここ)が陥落。

武田信春は萩原山に逃れたものの、同年10月に同地で没した(戦死した?)そうです。

この「逸見氏」が誰なのか明記されていません。



可能性が高いのが、逸見有直です。

1417年に起きた上杉禅秀の乱後、逸見有直が甲斐守護になろうと武田家と争ったからです。

逸見姓は武田家の祖・武田信義の双子の兄が名乗りましたが、直系は続いてはいません。

私は甲斐源氏の惣領を狙う武田一族が、本家と張り合う時に名乗る姓だと勝手に思っています。


武田家が上杉禅秀に味方していたので、敗れた武田一族は揃って高野山へ逃れていました。

そのため、甲斐守護は不在となっており、逸見有直がその座を狙ったのは自然な事でした。

逸見有直は、当時甲斐を管轄下に収めていた鎌倉公方・足利持氏のお気に入りだったようです。

足利持氏と対立していた室町幕府は、武田信春の次男・穴山満春を次の甲斐守護にしました。

武田姓に復した穴山満春は武田信元と名を改め、逸見有直と争っています。




所在地:山梨県甲州市塩山千野(慈徳院)


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連方屋敷/山梨市

連方屋敷跡は、住宅街のド真ん中にあります。
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】連方屋敷

東山梨駅のすぐ東に、かなり広大な空き地があります。
・・・空き地ではなく、屋敷跡でしたあせる
駅側から見ると、いきなりこんな感じで現れます。
芝生で綺麗に覆われていますが、地表の感じから形はいじられていなさそうですラブラブ

【写2】連方屋敷

南側の堀と土塁です。
迫力を出すために、望遠側で圧縮効果を狙いました。
視界を遮られない長い土塁や堀は、こんな感じで撮るのが好きです^^
ジャンルは違いますが、汽車ポッポもこうやって撮ると迫力がでますカメラ
城跡でこんな撮り方出来る所って、かなり限られますけど・・・

【写3】連方屋敷

西側の堀と土塁です。
コンパクトデジカメでそのまま広角側で撮ると、こんな感じになります。
肉眼よりも広く見えるので、これはこれで距離感が出ます。
出来れば近い所にもうちょっと寄ると、より遠近感が強まりますけどあせる

【写4】連方屋敷

なんて、撮り方なんてどーでもいいですねw
実際の見た目、感じ方に近いイメージで撮れればいいんです♪
南側の土塁の東端に登って、土塁全体が見えるように撮りました。
住宅街のド真ん中ですが、かなり広く保存されています。
色んな方々の尽力により、城キチは心の栄養をもらっています。
ありがとうございます合格


◆歴史◆

南北朝時代の有力者の館だったようです。

『甲斐国志』では、戦国時代の古屋氏の屋敷だったと記しています。
ただし、直接的な史料があった訳ではなく、古屋氏の子孫が近くに住んでいたからだそうで。
古屋氏は武田家の御蔵衆を務めていたそうで、ここはその蔵があったのでは?という感じです。
つまり、史料も伝承も無かったので、状況的にそうかも?という推測だったのでした。
・・・私もよくやりますけどあせる

1994年と2004年に発掘調査が行われた結果、1300年代前半の遺物が発見されました。
年代的には室町時代はじめの南北朝時代に当たります。
出土したのは1994年は常滑甕の破片や内耳土器など。
2004年には高麗青磁梅瓶、大陸産の青磁碗などが出土しています。

これらの事から、かなりの大身の人物の館であったという説が出て来ました。
連方屋敷のすぐ東隣には、足利尊氏が開基した清白寺があります。
地図で見ると、建物とか周りの道の向きがそろっています。
・・・ということで、甲斐守護がここで暮らしていた可能性が指摘されています。

清白寺が開基されたと考えられているのが、1333年または1351年。
その頃の甲斐守護は、武田政義と武田信武です。
そして、足利尊氏との結びつきが強いのは、武田信武の方です。

鎌倉幕府滅亡後、武田政義は甲斐、武田信武は安芸の守護になっていました。
その後、観応の擾乱が始まると、武田政義が足利直義派、武田信武が足利尊氏派となります。
だからといってこの両者が直接戦った訳ではありませんが・・・
武田政義は後に南朝方に寝返り、守護代に討たれて1343年に戦死しました。

この後に甲斐守護も兼ねるようになったのが、武田信武です。
時期的にも清白寺が建立された時期とも重なり、連方屋敷の主の最有力候補です。
その後、武田信武の嫡男・信成が甲斐、次男・氏信が安芸の守護をそれぞれ継いでいます。


所在地:山梨市三ヶ所

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勝沼氏館/山梨県甲州市

勝沼氏館は武田信虎の弟が暮らしていた館です。
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】勝沼氏館

勝沼氏館跡の西側を南北に走る道です。
西側の堀跡をそのまま道にしたように見えます。

【写2】勝沼氏館

その道沿いに、勝沼氏館跡の入口があります。
やはり、こちら側は道を造る時にちょっと削られちゃった感じがします。

【図3】勝沼氏館
拡大図

入口から見えている案内図です。
絵だけパクリましたラブラブ
立ち位置からの角度で描かれているので、南北が逆になっています。
こうして見ると、北と東の堀・土塁が残り、西はやはり削られていることがわかります。
南側は堀も土塁も描かれていませんが・・・
河岸段丘の断崖なので、それはそれで旧状のままという事になります。

【写4】勝沼氏館

北門の手前から、北側の堀が見えます恋の矢
こうして見ると、見栄えが良くなるよう復元されたものですね。

【写5】勝沼氏館

北門です。
武将の館ではありますが、あまり厳重な感じがしません。
この館の主である勝沼信友は、武田信虎の同母弟です。
周囲を敵対する国人衆に囲まれており、兄の脇を固めるこの地に配置されました。
なので、この門は往時はもっと厳重な造りだったのでは?と感じます。
外側にここを囲む曲輪がさらにあったかもしれませんが・・・
現在見ることが出来るのは、単郭方形館のように一重の堀と土塁で囲まれた部分だけです。

【写6】勝沼氏館

とはいえ、さすがは守護が脇を固めるため配置した弟の館です。
主郭だけだとしても、結構な広さです。

【写7】勝沼氏館

主郭内部は、柱の跡が沢山示されています。
こういう展示方法はよく見るのですが・・・
私って想像力があまり豊かではないので、地上絵にしか見えず・・・
あ、奥に見える土塁、イイですねあせる

【写8】勝沼氏館

東門を内側から見た所です。
ここだけ土塁が途切れているので、埋門のような感じだったのでしょうか。
門の上に櫓が建てられていたのでは?なんて考えると、勝手に姿が想像されます。
・・・さっきまでの地上絵とは、きっと何かが違って見えるんでしょうねwww

【写9】勝沼氏館

東門脇の土塁と、その奥に見える北側の土塁です。
絶景恋の矢、絶景恋の矢

【写10】勝沼氏館

東門を外側から見た所です。
橋と門が真っすぐではなく、食い違い虎口のようになっています。
木橋の位置は、おそらく発掘で見つけた橋脚の位置に忠実なのだと思います。

【写11】勝沼氏館

東側の堀と土塁です。
ここが一番高低差のある所です。

【写12】勝沼氏館

そして、北側の堀沿いに入口から出ました。

【写13】勝沼氏館

こちらは、館跡の南西に架かる橋から見た風景です。
この写真の左側が館跡です。
川からの比高は20メートル程ありそうです。
地図で等高線を見ると、館の南と西は河岸段丘だった感じです。
きっと、北と東にはそれなりの備えがあった筈ですが・・・
今はその形跡を知ることは出来ません。


◆歴史◆

1510年頃、勝沼信友により築かれました。

勝沼信友は、甲斐武田家当主・武田信虎の同母弟です。
武田信虎はもともとは武田信直と名乗っていました。
いつ改名したのかがわからないので、武田信虎の表記で統一します。

武田家では、武田信虎の父の代から争いの連続でした。
父の武田信縄は弟の湯川信恵と長年家督を巡って争い続けていました。
伊豆から相模に進出して来た北条早雲も、湯川信恵側としてこの争いに介入しています。
しかし、1498年の大地震を機に和睦し、武田信縄が甲斐守護となっていました。
その後、2人の父・武田信昌、そして武田信縄が相次いで没すると・・・
湯川信恵は当然のように立ち上がり、有力国人の多くを味方に付けて敵対しました。
家督は武田信縄の嫡男・信虎が継ぎましたが、当時まだ10代前半の少年でした。
しかし、1508年、父が長年手を焼いた湯川信恵を、武田信虎はわずか1年で討ち取りました。

湯川信恵に味方していた小山田弥太郎は、その後も武田信虎に敵対し続けました。
しかし、同年10月に国中地方に攻め込んだ小山田弥太郎は、返り討ちに遭い討死します。
その後も、小山田弥太郎の後を継いだ小山田信有が抵抗を続けますが・・・
1510年になり和睦しました。
この時に武田信虎の妹が小山田信有に嫁ぎ、勝沼に武田信虎の弟・信友が配置されました。
ここは、小山田氏の支配していた都留郡から甲府盆地に出る出口に当たります。
かなり分かりやすく牽制したんですねw

1535年、表今井家が勝沼を継承したと考えられています。

当時の武田信虎は、関東の扇谷上杉朝興と接近していました。
上杉朝興は後北条包囲網を形成し、その中に武田信虎も含めていたのです。
これが元で国人衆の反発を招いたりしています。
北条氏綱はここに目を付け、今川氏輝とともに甲斐国内の反武田勢力を助けました。
この戦いの1つが山中湖畔であり、この戦で勝沼信友が戦死しています。

勝沼信友がどんな人物だったのか???ですが・・・
勝沼の領地は、武田一族の(表)今井信甫に引き継がれたと考えられています。
今井氏は(浦)今井家が反武田、(表)今井家が親武田です。
(表)今井家は本貫地を離れ、武田家当主のもとで暮らしていました。
おそらく、延々と続く戦乱で活躍した今井信甫の功に報いたものと思われます。
勝沼信友には嫡男・信元が居ましたが、当時まだ10歳になるかならないかで幼少でした。
小山田氏は武田家に従っていましたが、ココが甲斐防衛の大事な場所だったという事でしょう。

1560年、かつぬま五郎が謀反を起こしました。

勝沼を領有したのが(表)今井氏というのも、1つの説でしかありません。
本当の所はよくわかっていないのが実情です。
あまり歴史の表舞台に登場しない勝沼ですが・・・
1560年に大事件がありました。
それが「かつぬま五郎」による謀反です。

この年、越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東に攻め込みました。
武田信玄はこの時までに川中島で3回、上杉謙信と戦っています。
長尾景虎が関東に攻め込んだのは、義理の父・上杉憲政の嘆願によるものです。
上杉憲政は関東管領でしたが、後北条氏により領地を追われて越後に逃れていました。
最後に希望を託したのが、戦の天才・長尾景虎です。
上杉憲政は山内上杉家の家督と関東管領職を譲ることを条件に、長尾景虎に関東侵攻を依頼。
これを受けた長尾景虎は関東に侵攻し、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領となりました。
この関東侵攻の際、「かつぬま五郎」が長尾景虎に従う兆候が見られました。
その決定的証拠となる文書が武田信玄の手に渡り、山形昌景により処刑されました。

ただ、その「かつぬま五郎」が誰を指すのか、まだ特定されていないようです。
従来はその名の通り、勝沼氏を継いだ勝沼信元だと考えられてきました。
しかし、勝沼信友の戦死後、勝沼には今井氏がいた事が判明しました。
両者はともに、1560年を境にその動向がわからなくなっています。
勝沼信元の補佐役に今井氏が付けられたのかもしれませんが・・・
勝沼にあった館は、この事件を機に廃されたものと思われます。


所在地:山梨県甲州市勝沼町勝沼

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雨宮氏屋敷/山梨県笛吹市

雨宮氏の屋敷がどこにあったのかは、実はハッキリしていません。
その候補が笛吹市の慈眼寺か長昌寺じゃないか?と考えられています。
ということで、その片方の慈眼寺だけ行って来ましたあせる
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】雨宮氏屋敷

まずは入口にある鐘楼門です。
入口の門に鐘があるって、ちょっと珍しいような気がします。
塀もしっかりしているので、病の発作が出そうになります。

【写2】雨宮氏屋敷

ちょっと引いて見ると、門の手前に橋が架かっています。
これはもしや・・・

【写3】雨宮氏屋敷

堀跡でしょうか?
自然の流れで出来たようには見えません。
・・・という事にしておきます。

【写4】雨宮氏屋敷

鐘楼門の中にある本堂です。

【写5】雨宮氏屋敷

本命はその裏にある土塁です。
諸兄の皆さまが必ず紹介している、それっぽい遺構です。
私もこれこそ!なんて思いました。
ただ、この向こう側を見るのを忘れてしまいました。

【図】慈眼寺
拡大図

鐘楼門の前にある説明板の図です。
天明7年ということで、1787年のガッツリお寺になっている時期の絵図です。
お寺の絵図なのですが、囲まれてますよね?
手前の川と、左から上にかけての堀か崖か。
その正体が土塁の裏側にあったのですが・・・あせる


◆歴史◆

雨宮氏は1500年までに甲斐にやって来ました。

雨宮氏は北信濃の大族・村上氏の一族です。
家紋はバッチリ村上氏と同じ「丸に上の字」(〇の中に上)です。
時期や経緯はわかりませんが、雨宮家国が武田信縄に仕えたのだそうです。
その雨宮家国が1500年に没しているので、それまでに甲斐に来た事になります。
なぜなんだろう?と探りたくなりますが・・・

当時の村上氏は、高梨氏と激しく争っていました。
1495年には善光寺の取り合いで、村上軍が焼き払ってしまっています。
一番大きそうな動機はこの辺りなのかもしれませんが・・・?
甲斐に来た雨宮氏は、武田信縄→信虎→信玄と、代々の武田家当主に仕えます。

1565年、雨宮家次が追放されました。

雨宮家次は次の武田家当主となるはずだった、武田義信に仕えていました。
その武田義信が・・・です。
あまりに有名なお話なのでハショリマス。
だって、ただでさえ脱線しまくってますからあせる
そのとばっちりを食らった雨宮家次は甲斐を追放され、相模へ流れました。

1568年頃、雨宮家次が呼び戻されました。

新天地へ移った雨宮家次は、後北条氏に仕えて立て続けに戦で功を立てました。
3年間で何と感状を7枚も拝領したと言いますから、かなり使える武将だったんですね!
この噂を聞きつけた春日虎綱(高坂弾正)が武田信玄を説得し、甲斐へ呼び戻しました。
そして1575年、長篠の戦に春日源五郎隊の一員として参戦しましたが、戦死してしまいました。

1582年、武田家が滅亡しました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされました。
この時に織田軍の兵火により、慈眼寺と長昌寺はともに焼失したそうです。
その後、お寺はそれぞれ再建され、現在に続いています。
雨宮氏は徳川家康に仕え、旗本家として続いたそうです。
地図を眺めていると、近所に沢山「雨宮~」という会社が載っています。


所在地:山梨県笛吹市一宮町末木(慈眼寺または長昌寺)

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田安陣屋/山梨市

田安陣屋は御三卿の田安家が、甲斐国内の領地を統治するために築いた陣屋です。
訪問日は2014年11月15日です。

【写】田安陣屋

田安陣屋の跡には、水上稲荷神社があります。
この神社が乗っている石垣は、わずかに残された陣屋の遺構です。
北と西に堀跡があるらしいのですが・・・
わかりませんでしたあせる

【写】田安門

「田安」というと、日本武道館の入口にある「田安門」を思い出しました。
どんな関係があるのかと思ったら、名前の由来がまさにこの門でした。
田安陣屋は、御三卿の田安家が甲斐国内の領地を統治するために置いた陣屋です。
その田安家は、江戸城内の田安門の近くに屋敷を構えた事が、その名の由来です。
御三卿は他に清水家と一橋家がありますが、田安家と同じく一番近くの門が名の由来でした。
上杉家の山内と扇谷、佐々木家の六角と京極、、、武士は地名が命なんですね!


◆歴史◆

1746年、徳川宗武により築かれました。

徳川宗武は8代将軍・徳川吉宗の次男です。
1730年に江戸城田安門内に屋敷を与えられ、田安宗武とも呼ばれていました。
その家格は御三家に次ぐものとされ、将軍となりうる新たな家の登場でした。
田安家からは将軍となる者がありませんでしたが・・・
徳川慶喜の次に徳川宗家当主となった徳川家達は、田安家の出身でした。

・・・脱線、脱線あせる

田安家には武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6ヶ国10万石の領地を与えられました。
甲斐では山梨郡28ヶ村、八代郡35ヶ村の計63ヶ村、3万41石にのぼりました。
田安宗武はこの地に陣屋を築き、甲斐の田安領統治の拠点としました。

1792年、太枡騒動が起こりました

甲斐では、伝統的に金納による年貢納付が行われていました。
そのため、甲斐東部では特に養蚕や煙草栽培が盛んに行われてきた経緯がありました。
この年、田安領の代官・横田平五郎が罷免され、山口彦三郎が新しい代官に赴任しました。
新たに赴任した山口代官は、不正を防ぐ目的で新たな枡(太枡)を採用しようとしました。
すると、領民達は年貢増につながるとして反発し、江戸に出向き直訴しました。
この結果、甲州桝は引き続き使用されることとなりましたが、首謀者21名が処罰されました。

幕府は何度も中世以来の年貢徴収法を改めようとしましたが・・・
その都度領民の激しい抵抗に遭い、結果的に明治時代まで続きました。

1832年、山梨・八代・巨摩の3郡40ヶ村が加わりました。

武蔵国内の領地1万7千石の領地との交換で、山梨・八代・巨摩の領地が追加されました。

1870年、田安領が甲府県に統合されました。

1869年に甲斐は「甲府県」となり、甲府県知事が統治するようになりました。
しかし、田安領だけはそのまま残り、代官支配が継続されていました。
明治政府としては旧藩領の接収を進める意向があり、各地で一揆を誘発させていました。
田安領は翌1870年に自主返納の形をとり、甲府県に統合されることとなりました。
これにより、田安陣屋は廃止されたものと思われます。


所在地:山梨市一町田中(水上稲荷神社)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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