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村上城/新潟県村上市

村上城は続日本100名城に選ばれた総石垣のお城です。
新潟県のラストです!
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】村上城

村上城の登城口は、住宅街の突き当りにあります。
この周りに車を停められます。

【写2】村上城

そのすぐ脇が公園になっています。
よく見ると「城主居館跡」の標柱があります。

【写3】村上城

城内へ登る道の入口が一文字門跡です。
説明板では全面を桝形として石垣を高く積んだ門だったそうです。

【写4】村上城

一文字門の石碑の後ろに、村上城の城址碑がありますラブラブ

【写5】村上城

山城とはいえ、総石垣の近代城郭ならこんな感じだよな~
なんて思っていましたが・・・

【写6】村上城

上の方はこんな感じで、ウネウネグネグネの九十九折れでした。
そういえば、下の公園に「七曲道」なんて標柱ありました。
ここに立てればすんなり頭に入るんですけどねw

【写7】村上城

そんなウネウネ道を登り切った所に、石垣の壁が立ちはだかっています。
ここは稜線と七曲道、さらにその反対側への道が交わる十字路です。
それで門が4つあったため「四ツ門」と呼ばれていました。

【写8】村上城

登ってきた道の奥側から撮った所です。
朝陽を浴びて赤く色づいていましたラブラブ
私の城巡りは夜明けに1つ目の城跡到着で、陽が沈むまで続きますw

【写9】村上城
拡大表示

上の写真で奥に写っていた説明板です。
近世城郭として有名なのは、真ん中の真一文字の部分です。
ただ、登って来た七曲道とこの図から、元々の大手道は反対側っぽいです。

【写10】村上城

四ツ門跡から左側が三の丸です。
道は二又に分かれていますが、よく見ると1つの平坦面です。

【写11】村上城

三ノ丸の奥の方にあったのが、玉櫓跡です。
ここに櫓があったのか?という位に真っ平ですw

【写12】村上城

今度は四ツ門跡から右へ進みました。
だって、これ見えちゃったんですものラブラブ

【写13】村上城

ココは御鐘門跡で、石垣で出来た食い違い虎口です。

【写14】村上城

絶景です恋の矢恋の矢恋の矢

【写15】村上城

そこから奥に、特徴的な石垣が見えます。
手前が出櫓の石垣で、奥が本丸の石垣です。
道に沿って高石垣が聳えていますラブラブ

【写16】村上城

最近、ココをデザインしたスタンプが登場しました恋の矢恋の矢恋の矢

【写17】村上城

この石垣の真正面には、黒門跡の標柱が立っています。
急斜面を登って来ると、真正面に壁が聳えていたんですね!

【写19】村上城

道の右側には、こんな感じでずっと石垣があります。
最近は緑豊かな城跡ばかりですが、シンプルにこういうの好きですラブラブ

【写20】村上城

しばらく進むと、左側に下りる道があります。
標柱には「埋門跡」と書かれており、その両脇を石垣で固めています。
この上に櫓門がまたがっていたのでしょうか?

【写21】村上城

その真正面に、石垣の中に入って行く虎口があります。
石垣のそばには「冠木門跡」の標柱が立っています。
冠木門というと、鳥居みたいなアレでしょうか?
脳内では、もうちょっとガッチリしたヤツ妄想してましたあせる

【写22】村上城

ずっと壁みたいだったので、変化のあるココがとても印象的でした。
ただ、道が狭くて頑張って後ろに下がっても、見た目とは程遠く・・・
こんな時に、iPhone様のパノラマ機能使ってます合格
肉眼のイメージにかなり近づきましたが、もうちょっと真っ直ぐですw

【写23】村上城

門の内側が本丸です。
ずっと稜線上の細い道を進んで来たので、その広さにビックリです。

【写24】村上城

奥側の一段高い所が天守台です。
真夏の早朝という事で、この上でラジオ体操してる方々がいました。

【写25】村上城

門から出て、石垣の外を回り込みました。
ずっと続いていた本丸石垣の曲がり角です。
ここはあまり人が来ないせいか、とても自然が豊かですクローバー
さっきのに負けず劣らずいい石垣なのに。

【写26】村上城

さらに奥に進んで見た天守台の石垣です。
ここまで来ると、石垣の外側は斜めの斜面です。
余計な平坦面が、敵を利するだけですからねw

【写27】村上城

フライングしちゃいましたが、スタンプが設置されているのはココです。
 村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)(地図)
 開館時間:9時~16時半
 休館日:12月29日~1月4日

城跡からちょっと離れた市役所付近にあります。


◆歴史◆

1500年頃に本庄時長により築かれました。

本庄氏は鎌倉時代はじめに越後に来た秩父氏の子孫です。
小泉庄の地頭となり、地名から本庄姓を名乗るようになりました。
村上城の前身である本庄城を築いたのは、1500年代はじめとされます。
当時は守護と守護代が争い、揚北衆もその争いに加担しました。
庶流の鮎川氏も、同時期に大葉沢城を築いています。
揚北衆は守護方として活動しましたが・・・
守護代・長尾為景に個別に攻められ、降伏しています。

1540年、小川長資に乗っ取られました。

当時は守護・上杉定実の養子問題で越後が真っ二つに分裂していました。
本庄房長は当初は賛成でしたが、後に反対派となります。
そのため、養子縁組賛成派の中条藤資や伊達稙宗の援軍に攻められました。
小川長資は本庄房長の実弟ですが・・・
本庄房長が大宝寺救援のため出羽へ向かうと、小川長資が城を乗っ取りました。
弟の裏切りを知った本庄房長は、怒りで倒れてそのまま世を去りました。
その直後に本庄房長の正室が子を産み、小川長資がその後見となりました。

1568年、本庄繁長の乱

川中島や関東などで活躍した本庄繁長でしたが・・・
この年、上杉謙信の命令で長尾藤景・景治兄弟を謀殺しました。
長尾藤景は七手組の重臣ですが、1561年の川中島で上杉謙信の戦術を批判。
以来、ことあるごとに盾突くやっかいな存在でした。
そんな長尾兄弟を祝宴と称して謀殺し、自らも負傷しました。
しかし、この件に対する恩賞は全く無く、ついに本庄繁長もキレました。
本庄繁長は日頃から面倒を見ていた大宝寺義増を味方に加えましたが・・・
上杉謙信は本庄軍をけん制しつつ、先に大宝寺義増を制圧。
孤立した本庄繁長は翌年、蘆名盛氏の仲介により降伏しました。
嫡男・千代丸を人質に差し出す事で上杉家中に帰参を許されました。

1590年、本庄繁長が改易されました。

上杉謙信の代では不遇だった本庄繁長でしたが・・・
御館の乱で自分は上杉景勝に味方し、重臣の座に復活しました。
豊臣秀吉の奥州仕置きの後、東北地方で反豊臣の一揆が各地でありました。
その中で庄内地方で起きた藤島一揆を、本庄繁長が扇動した疑惑が浮上。
そのため、本庄繁長は改易され大和国へ流刑となりました。
その後、朝鮮出兵への参陣により許され、上杉家に帰参しています。

1598年、 村上頼勝が城主となりました。

村上頼勝は出自不詳で、村上義清の次男か孫と考えられています。
早くから織田信長に仕え、丹羽長秀の家臣となっていました。
丹羽長重が改易された後は豊臣家臣となり、堀家の与力となっています。
上杉景勝が会津へ移されると、堀家に従って越後に来ました。
村上頼勝が城主になると、近世城郭への改修を始めました。
この時に地名が村上に改められたと考えられています。

1619年、堀直寄が城主となりました。

村上頼勝の後を継いだ村上忠勝が、家中の争いを理由に改易されました。
代わって城主となったのが、長岡藩主・堀直寄です。
2万石加増されて村上城に移って来ました。
堀直寄は村上城の改修を続け、完成させました。

1640年に堀家が無嗣断絶した後、城主がコロコロ代わりました。
全国的に移封がやたら繰り返されたのがこの時期です。
大した理由もなく移封されるので、正直、追っかけ切れませんあせる
1720年に内藤弌信が城主となってからは、明治時代まで続きました。

1868年、北越戊辰戦争で焼失しました。

藩主・内藤信民は新政府に恭順を示しましたが・・・
藩内の意見は統一出来ず、奥羽越列藩同盟に参加し幕府方となりました。
しかし、長岡藩が新政府軍に敗れ危機に陥ると藩主が自殺。
村上藩は大混乱に陥りました。
跡継ぎが無かったため家老の鳥居三十郎が仕切りましたが・・・
8月11日に新政府軍により村上城が攻め落とされ、降伏しました。
先代の藩主・内藤信親は、新たに養子を迎えて藩を継がせました。
これが最後の村上藩主・内藤信美です。
1871年の版籍奉還で村上藩は廃藩となりました。


所在地:新潟県村上市一之町

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大葉沢城/新潟県村上市

大葉沢城は、西側が畝状竪堀で埋め尽くされています。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】大葉沢城

県道349号沿いに、城キチなら必ず立ち止まりそうな案内図がありますビックリマーク

【写2】大葉沢城
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その図がコチラです。
見た瞬間「行きてー!!!」となりますラブラブ
堀切で挟まれた部分の片方だけ、竪堀で埋め尽くされています。
すごい竪堀に興奮しつつも、ちょっと大げさじゃないか?なんて思いました。

【写3】大葉沢城

駐車場から城跡方向を見た所です。
まずはあぜ道を通ってお寺を目指します。
このお寺、位置的には城主様の居館跡でしょうか?

【写4】大葉沢城

お寺の脇から、城内へ通じる道があります。
かなり綺麗に整備されているので、真夏に訪ねても大丈夫です合格

【写5】大葉沢城

登り切ると、道が左右に分かれます。
どちらに行くか、もう決まりましたよね?

【写6】大葉沢城

まずは畝状竪堀を見るため右へ。
すると、すぐに大きな堀切様に遭遇します恋の矢

【写7】大葉沢城

朝っぱらからアドレナリン大放出ですw

【写8】大葉沢城

畝状竪堀は、堀切の底を進んだ先にあります。

【写9】大葉沢城

堀底を進んで反対側の斜面に出ると、早速ありましたラブラブ
思っていた以上にハッキリ残っていてびっくり。

【写10】大葉沢城

道にしたがって進みますが、ずっとこんな感じです。
上の図は大げさな誇張ではなく、本当だったのです合格

【写11】大葉沢城

竪堀だけでこんなにパターンがあるのかという程、色々あります。
でも、竪堀って斜面の横移動を防ぐためのものだったような気が・・・
遊歩道は思いっきり横移動していますw

【写12】大葉沢城

ずっと竪堀が続いた道が、この堀切で遮断されます。
堀切に沿って反対側に進みます。

【写14】大葉沢城

Uターンする感じで登り坂となり、その奥に雷神社が見えます。
神社の由緒書きには、源義綱が出羽へ遠征した際に建てたとありました。
佐渡に流される以前にも、越後には縁があったんですね!

【写15】大葉沢城

神社の裏にまとまった平地があります。
城内で一番高い平地なので、おそらくここが主郭と思われます。
・・・左に写っているモノが気になりますよね???

【写16】大葉沢城
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大葉沢城の想像図が描かれていました。
竪堀のある側からの鳥瞰図ですラブラブ
私もこんなの描けたらいいのですが・・・
毛虫かゲジゲジと間違われそうな自信ならあります(`・ω・´)

【写17】大葉沢城

続いて、最初の分岐の反対側も見て来ました。
ここがどこだったのか、すでに記憶がありませんが・・・
今はそういう事が無いように、ちゃんとGPS使ってますあせる

【写18】大葉沢城

ここもどこだったか?ですが、神社から反対側へ向かう途中にあります。

【写19】大葉沢城

反対側にある土塁です。
こちらも平坦面になっていて、周囲を土塁で囲まれています。
土塁に堀切に畝状竪堀と、見所満載な城跡でした恋の矢恋の矢恋の矢


◆歴史◆

鮎川氏のお城でした。

鮎川氏は、鎌倉時代初頭に越後にやって来た本庄氏の庶流です。
本庄氏の祖と色部氏の祖は兄弟だったので、色部氏とも同族です。

はじめは相川という所に居て、後に戦国時代に移って来たようです。
ググって出てくるのは、1507年の永正の乱の頃からです。
永正の乱は守護・上杉房能と守護代・長尾為景の争いです。
鮎川氏は本庄氏や色部氏とともに、守護方として行動しました。
この時に大葉沢城が長尾為景方に攻められ、降伏しています。

1530年代に反・長尾為景の機運が高まり、上条の乱が起きました。
この時に揚北衆は壁書(決め事)を作り、連携して動きました。
この中に鮎川清長の名が登場します。
鮎川清長は後に本庄房長と対立し、本庄房長追放にひと役買っています。
そのため、後にその子・本庄繁長とは不仲となります。

1571年、本庄繁長に攻められました。

1540年、上杉定実の養子問題で、本庄房長と中条藤資が対立。
この争いの中で、本庄房長は弟・小川長資に騙されて出羽へ向かいました。
その道中、騙された事を知った本庄房長は、怒りで倒れてそのまま没しました。
本庄房長の正室は本庄城内で傷だらけで倒れていましたが・・・
色部勝長に救われ、その7日後に生まれたのが本庄繁長でした。
本庄家はこの赤子を当主とし、小川長資が後見人となりました。
本庄繁長は1551年、父の13回忌で小川長資を殺して実権を回復。
以後、長尾景虎(=上杉謙信)に仕えて数々の戦功を立てました。
しかし、手柄を立てて与えられたのは、腹の足しにならない感状ばかり。
不満を抱いていた所を武田信玄に利用され、1568年に謀反を起こしました。
この乱は翌年には上杉謙信に鎮められ、領地の一部を没収されました。
しかし、没収された領地が鮎川清長に与えられた事で、再びプッツン。
本庄繁長は1571年に挙兵し、鮎川清長を攻めました。
鮎川清長はこの頃に没しており、戦死した可能性もあります。
家督は越中から来た二宮長恒の子が継ぎ、鮎川秀定と名乗りました。

1598年、廃城になったと思われます。

鮎川秀定についてはよくわからず・・・
御館の乱ではどちらにも味方せず、乱後に没落したためです。
1613年、本多重政の家臣となり、上杉家から加賀に送られています。
本多重政は本多正信の子ですが、各地を転々と流浪していました。
この時に他にも、上杉家臣や直江家臣が同じように加賀へ移されています。
という事で、鮎川秀定は上杉景勝に仕えて会津に移っていた事になります。
鮎川氏自体はその後も米沢藩士として名を連ねています。


所在地:新潟県村上市大葉沢

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平林城/新潟県村上市

平林城は揚北衆の大物・色部氏の居城でした。
訪問日は2016年8月6日です。

【写1】平林城

城跡の入口です。
住宅地のはずれにある山が城跡です。

【写2】平林城

入口脇には、すでに壮大な城塁が待ち構えていますラブラブ

【写3】平林城

入口からすでに動線が限定されています。
幅はありますが、堀底道を進まされるような感じです。
その脇にはずっと城塁が迫っています。
ここを突破するには、上からの攻撃を潜り抜けなければいけませんネ!

【写4】平林城

いよいよ城塁を上がります。
その入口に、かわいい熊さんのイラストが描かれています。
出る、らしいですw

【写5】平林城

この入口脇に城内の案内図があります。
全体図は詰城も含めた壮大な感じです。

【写6】平林城
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真夏なので、ここは麓の居館部分だけにしましたあせる

【写7】平林城

城内へと続く道です。
見るからにですが、車で入るために通された道です。
往時からあったものではなさそうです。

【写8】平林城

登りながら左側を見ると、複雑に入り組んだ地形が見えます。
こっちの方が本来の虎口のように見えます。

【写9】平林城

上がった所に、岩館曲輪跡の標柱がありました。
図では三の丸と書かれている所です。
かなり広い曲輪です。

【写10】平林城

道を奥へ進むと、先の道端にイイものが恋の矢

【写11】平林城
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居館部分に特化した案内図です。

【写12】平林城

その目の前に、大きな大きな土塁もあります合格

【写13】平林城

その裏側に堀があります。
ここにも「岩館」土塁と書かれた標柱があります。
これだけ見ると、こっち側が表で、元来た方が内側っぽいです。
そういう構造なのでしょうか?
土塁を乗り越えた先に堀がガーン、という仕掛けなのかもしれませんが。

【写14】平林城

先ほどの土塁から更に進んた所に「中曲輪跡」の標柱があります。
案内図で「二の丸」と描かれている所です。
案内図と標柱で表現が違うと、わからない人は混乱するかも・・・

【写15】平林城

道を更に進むと、またしても道を分断する堀と土塁が見えます合格

【写16】平林城
拡大表示

本丸の虎口の説明板です。
かな~りピンポイントです。
でも、それがイイんです合格

【写17】平林城

この堀の脇には「殿堀跡」の標柱があります。
かなり埋まってしまっていそうな感じですが、雰囲気は伝わります。

【写18】平林城

本丸の外周は、こんな感じの堀と土塁で囲まれています。
山の斜面と曲輪を区画する堀は珍しいかもしれません。


◆歴史◆

平林氏の城でした。

平林氏は代々「平林内蔵介」を名乗りました。
史料では1190年頃には既に平林城を居城としていたようです。
それ以外の事がわからず・・・

南北朝時代に色部氏の城となりました。

平林氏は南朝方として、新田氏に従っていました。
色部氏は新守護・上杉憲顕に従い、平林城を攻略。
以後、色部氏が平林城を居城とするようになりました。

1508年、長尾為景に攻められ落城しました。

守護・上杉房能と守護代・長尾為景の争いでは、色部氏は守護方でした。
この戦いは長尾為景が勝ち、上杉房能は関東へ逃れる途中で討たれました。
色部昌長はその後も抵抗を続け、平林城に籠城しました。
上杉房能の兄で関東管領・上杉顕定に救援を求めましたが・・・
援軍が来る前に城は陥落し、長尾為景に降伏しました。
上杉顕定は1509年に越後に侵攻し、長尾為景を越中へ追いやりました。
しかし1510年、長尾為景が上杉顕定を討ち取り、越後支配を確立しました。

1598年、廃城となりました。

色部氏は長尾為景、晴景、景虎(=上杉謙信)に仕えました。
色部勝長は上条の乱で上条方につき、長尾為景を隠居に追い込みました。
上杉謙信には重く用いられ、関東侵攻の際に佐野城の城将を務めました。
(佐野城主の佐野氏は、毎年のように上杉謙信を裏切っていました)
色部長実は御館の乱で上杉景勝に味方し、新発田の乱ではその鎮圧に活躍。
降伏した新発田家臣が頼って来るなど、人望があったようです。
その後、上杉景勝が会津に移ると従い、平林城は廃城となりました。


所在地:新潟県村上市平林

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江上館/新潟県胎内市

江上館は綺麗に整備され、資料館まであります。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】江上館

駐車場の目の前に見える堀と土塁です。
歩いて渡れそうだ!なんて言っちゃイケマセン。
ちゃんと水が張られていて、雰囲気バッチリですラブラブ
土塁上には中条氏当主の名前が書かれた幟が立てられていました。

【写2】江上館

堀をたどって北に進み、堀が東に折れた所です。
水が無くても、堀と土塁はやっぱりイイですラブラブ

【写3】江上館

さらに堀に沿って進むと、木の門があります。
その前には板の壁が立てられています。

【写4】江上館

門の中を覗き込むと、土塁に囲まれた空間があります。
高さがあるので、外が見えません。

【写5】江上館

さっきの門から反対側を見た所です。
門の前で堀が折れていて、両側を土塁で挟んでいます。
桝形虎口の原形みたいな感じがしますニコニコ

【写6】江上館

上の土塁のさらに向こう側が北郭です。
真夏のせいか、ちょっと草深いですクローバー
こちらもちゃんと土塁で囲まれています。

【写7】江上館

北郭から見たさっきの虎口です。
北郭が奪われても、主郭との間に堀と土塁があります。
山城だと土塁は重要度の高い方の郭にしか無いことが多いですが・・・
ここ、平城というか居館ですからねw
発掘調査の結果に基づいた復元だと思います。

【写8】江上館

城キチ心をくすぐる光景なので、望遠で圧縮して撮りました。
さっきの板壁が、ちゃんと門の中を隠していますネ!
北郭が敵に奪われても、簡単には主郭に進めないようになっています。

【写9】江上館

主郭に入り、反対側からさっきの門を見たところです。
内部は柱の跡を示す表示があります。
私には往時の姿が想像できませんが・・・あせる

【写10】江上館

さっきの門は北側にありましたが、南側にも門があります。
櫓門のようで、上に何か乗っかっています。
上を木の柵で囲むとそれっぽくなりそうです。
ある程度のものがあると、勝手に色々想像しちゃいますラブラブ

【写11】江上館

この門から外側を見たところです。
堀に橋が架かっているような、架かっていないような・・・
立入禁止になっているので、工事中なのかもしれません。
今はどうなっているのでしょうか?

【写12】江上館

南側から出入り出来ないので、元来た北側から出て戻って来ました。
一番上の写真と同じ位置から右を見たところです。

【写13】江上館

駐車場は奥山歴史館にあり、ここに説明板が2枚あります。

【図】江上館
拡大表示

もちろんパクリます合格
今回歩いたルートは、左下から時計回りに進んで真ん中の堀へ。
そこから主郭に入って南端まで行き、元のルートで戻って来ました。


◆歴史◆

中条氏の15世紀の居館と考えられています。

中条氏は和田宗実を祖とする揚北衆に属する氏族です。
和田宗実は、鎌倉幕府侍所別当を務めた和田義盛の弟です。
当初、奥山荘は和田義茂(和田義盛の弟で和田宗実の兄)に与えられました。
和田義茂は後に、弟に奥山荘の地頭職を譲っています。

鎌倉時代の1213年、和田一族は北条得宗家により粛清されました。
この時に和田義盛を筆頭に、殆どの和田一族が滅ぼされましたが・・・
和田時茂はただ1人、幕府に味方して生き残りました。
1247年には本家である三浦氏も粛清されました(宝治合戦)。
この時にも和田一族は大打撃を受けましたが、和田時茂は生き残っています。
(和田氏は三浦氏の庶流なので、殆どの和田一族は三浦氏に味方しました)
こうして生き残った和田時茂の子孫が、越後の阿賀野川北岸で栄えました。


15世紀頃から、中条氏は鳥坂城を本拠とするようになります。

戦国時代になると、中条氏は鳥坂城を本拠とするようになります。
鳥坂城は「とっさか」と読み、鎌倉時代に城氏が籠城した山城です。
江上館から約3.5km東にありました。
中条茂資が南北朝時代に城氏以来、鳥坂城を使ったそうです。
しかし、これは一時的だったようで・・・
鳥坂城を改修して居城とするようになったのは、その曾孫・中条房資です。
中条房資は1423年の起きた応永の乱で、守護方として活動しました。
他の揚北衆は守護方から守護代方へ寝返ってますが・・・
上杉頼藤の居城・山浦城を守ったりしていました。

1426年、中条房資は江上館を引き払い、河間城に籠もるようになります。
河間城がどこら辺にあったお城なのか???ですが・・・あせる
近隣勢力が敵になると、平城の江上館では心許なかったのかもしれません。
その後、中条房資は本拠を鳥坂城に移しました。
1453年の文書には、「子々孫々捨てるべからず」と書いています。
この頃には江上館は完全に使われなくなったのかもしれません。


所在地:新潟県胎内市本郷町

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大天城/新潟県新発田市

大天城は公園として整備されています。
訪問日は2015年8月6日です。

【写1】大天城

北東にある駐車場の入口です。
オブジェクトは戦国時代っぽいですw
グラウンドや野球場などがあり、結構賑わっていました。

【写2】大天城

そういう所には用は無いので、さっさと山っぽい方へ向かいました。
その途中、公園の案内図がありました合格

【写3】大天城

結構ボロボロですけどあせる
ここからまっすぐ進み、右の方に進めばいいんですね!

【写4】大天城

大天城の今の虎口です。
そう言い聞かせて無理やりテンション上げますw

【写5】大天城

防御力はあまり無さそうな登城路ですあせる

【写6】大天城

登り切ると、平坦な道が続きます。
最近どこかで書いたような流れです・・・w

【写7】大天城

途中橋があり、その下から見た所です。
堀切でしょうか?
テンションが・・・、テンションが、、、あせる

【写8】大天城

その先にある広場主郭です。
奥にやや近代的な物見櫓が見えます。

【写9】大天城

その近くに説明板と城址碑があります。
こうやって書いてると普通の城跡っぽいですねウインク


◆歴史◆

青鬼堅人の城だったと伝わります。

青鬼堅人は平安時代にここに居たとされる伝説上の人物です。
三条辺りで好き放題して討伐された黒鳥兵衛の部将だったとされます。
ただ、黒鳥兵衛は重税を取り民を苦しめていたとされますが・・・
青鬼堅人は仁政を敷き、民に慕われていたそうです。
・・・まぁ、伝説ですからw

その当時のリアルはどうだったのかと、どうしてもツッコミたくなります。
黒鳥兵衛伝説で登場する実在の有名人が、佐渡に流されていた源義綱です。
源義綱は兄弟と折り合いが悪く・・・長くなるのでやめときますあせる
佐渡に流されたのが1109年頃で、討伐され自害したのが1132年です。
やっぱり気になります?w
・・・なので、黒鳥兵衛が討伐されたのは、その間という事になります。
伝説の中で討伐した人物がその期間そこにいた、というだけですけどあせる

ただし、この年代の阿賀野川以北は、越後平氏の城氏の支配地域でした。
城氏は源平の戦いでは、信濃の木曽義仲を攻めたりもしています。
そんな所に落ち武者が来て、好き放題出来る訳ないんですけどねw

城氏は鎌倉時代に入り、源頼朝没後に倒幕をめざし挙兵しています。
幕府軍が越後に攻めてきた時に戦ったのが、胎内市の鳥坂城です。
ザックリですが、大天城から北北東に約10km弱の所です。
この時に城氏を討伐したのが、碓氷峠で謹慎中だった佐々木盛綱です。
そして、その子孫が加地氏や新発田氏などの揚北衆となります。

伝説は、滅びた安部貞任の部将だった黒鳥兵衛が討伐されました。
史実は、滅びた平家一門の城氏が佐々木盛綱に討伐されました。
大筋ではとても似通ったお話だと思いませんか?


所在地:新潟県新発田市住田(大天城公園)

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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