2018/06/26
村上城/新潟県村上市
村上城は続日本100名城に選ばれた総石垣のお城です。新潟県のラストです!
訪問日は2015年8月6日です。

村上城の登城口は、住宅街の突き当りにあります。
この周りに車を停められます。

そのすぐ脇が公園になっています。
よく見ると「城主居館跡」の標柱があります。

城内へ登る道の入口が一文字門跡です。
説明板では全面を桝形として石垣を高く積んだ門だったそうです。

一文字門の石碑の後ろに、村上城の城址碑があります


山城とはいえ、総石垣の近代城郭ならこんな感じだよな~
なんて思っていましたが・・・

上の方はこんな感じで、ウネウネグネグネの九十九折れでした。
そういえば、下の公園に「七曲道」なんて標柱ありました。
ここに立てればすんなり頭に入るんですけどねw

そんなウネウネ道を登り切った所に、石垣の壁が立ちはだかっています。
ここは稜線と七曲道、さらにその反対側への道が交わる十字路です。
それで門が4つあったため「四ツ門」と呼ばれていました。

登ってきた道の奥側から撮った所です。
朝陽を浴びて赤く色づいていました

私の城巡りは夜明けに1つ目の城跡到着で、陽が沈むまで続きますw

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上の写真で奥に写っていた説明板です。
近世城郭として有名なのは、真ん中の真一文字の部分です。
ただ、登って来た七曲道とこの図から、元々の大手道は反対側っぽいです。

四ツ門跡から左側が三の丸です。
道は二又に分かれていますが、よく見ると1つの平坦面です。

三ノ丸の奥の方にあったのが、玉櫓跡です。
ここに櫓があったのか?という位に真っ平ですw

今度は四ツ門跡から右へ進みました。
だって、これ見えちゃったんですもの


ココは御鐘門跡で、石垣で出来た食い違い虎口です。

絶景です




そこから奥に、特徴的な石垣が見えます。
手前が出櫓の石垣で、奥が本丸の石垣です。
道に沿って高石垣が聳えています

![]() |
最近、ココをデザインしたスタンプが登場しました




この石垣の真正面には、黒門跡の標柱が立っています。
急斜面を登って来ると、真正面に壁が聳えていたんですね!

道の右側には、こんな感じでずっと石垣があります。
最近は緑豊かな城跡ばかりですが、シンプルにこういうの好きです


しばらく進むと、左側に下りる道があります。
標柱には「埋門跡」と書かれており、その両脇を石垣で固めています。
この上に櫓門がまたがっていたのでしょうか?

その真正面に、石垣の中に入って行く虎口があります。
石垣のそばには「冠木門跡」の標柱が立っています。
冠木門というと、鳥居みたいなアレでしょうか?
脳内では、もうちょっとガッチリしたヤツ妄想してました


ずっと壁みたいだったので、変化のあるココがとても印象的でした。
ただ、道が狭くて頑張って後ろに下がっても、見た目とは程遠く・・・
こんな時に、iPhone様のパノラマ機能使ってます

肉眼のイメージにかなり近づきましたが、もうちょっと真っ直ぐですw

門の内側が本丸です。
ずっと稜線上の細い道を進んで来たので、その広さにビックリです。

奥側の一段高い所が天守台です。
真夏の早朝という事で、この上でラジオ体操してる方々がいました。

門から出て、石垣の外を回り込みました。
ずっと続いていた本丸石垣の曲がり角です。
ここはあまり人が来ないせいか、とても自然が豊かです

さっきのに負けず劣らずいい石垣なのに。

さらに奥に進んで見た天守台の石垣です。
ここまで来ると、石垣の外側は斜めの斜面です。
余計な平坦面が、敵を利するだけですからねw

フライングしちゃいましたが、スタンプが設置されているのはココです。
![]() | 村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)(地図) 開館時間:9時~16時半 休館日:12月29日~1月4日 |
城跡からちょっと離れた市役所付近にあります。
◆歴史◆
1500年頃に本庄時長により築かれました。
本庄氏は鎌倉時代はじめに越後に来た秩父氏の子孫です。
小泉庄の地頭となり、地名から本庄姓を名乗るようになりました。
村上城の前身である本庄城を築いたのは、1500年代はじめとされます。
当時は守護と守護代が争い、揚北衆もその争いに加担しました。
庶流の鮎川氏も、同時期に大葉沢城を築いています。
揚北衆は守護方として活動しましたが・・・
守護代・長尾為景に個別に攻められ、降伏しています。
1540年、小川長資に乗っ取られました。
当時は守護・上杉定実の養子問題で越後が真っ二つに分裂していました。
本庄房長は当初は賛成でしたが、後に反対派となります。
そのため、養子縁組賛成派の中条藤資や伊達稙宗の援軍に攻められました。
小川長資は本庄房長の実弟ですが・・・
本庄房長が大宝寺救援のため出羽へ向かうと、小川長資が城を乗っ取りました。
弟の裏切りを知った本庄房長は、怒りで倒れてそのまま世を去りました。
その直後に本庄房長の正室が子を産み、小川長資がその後見となりました。
1568年、本庄繁長の乱
川中島や関東などで活躍した本庄繁長でしたが・・・
この年、上杉謙信の命令で長尾藤景・景治兄弟を謀殺しました。
長尾藤景は七手組の重臣ですが、1561年の川中島で上杉謙信の戦術を批判。
以来、ことあるごとに盾突くやっかいな存在でした。
そんな長尾兄弟を祝宴と称して謀殺し、自らも負傷しました。
しかし、この件に対する恩賞は全く無く、ついに本庄繁長もキレました。
本庄繁長は日頃から面倒を見ていた大宝寺義増を味方に加えましたが・・・
上杉謙信は本庄軍をけん制しつつ、先に大宝寺義増を制圧。
孤立した本庄繁長は翌年、蘆名盛氏の仲介により降伏しました。
嫡男・千代丸を人質に差し出す事で上杉家中に帰参を許されました。
1590年、本庄繁長が改易されました。
上杉謙信の代では不遇だった本庄繁長でしたが・・・
御館の乱で自分は上杉景勝に味方し、重臣の座に復活しました。
豊臣秀吉の奥州仕置きの後、東北地方で反豊臣の一揆が各地でありました。
その中で庄内地方で起きた藤島一揆を、本庄繁長が扇動した疑惑が浮上。
そのため、本庄繁長は改易され大和国へ流刑となりました。
その後、朝鮮出兵への参陣により許され、上杉家に帰参しています。
1598年、 村上頼勝が城主となりました。
村上頼勝は出自不詳で、村上義清の次男か孫と考えられています。
早くから織田信長に仕え、丹羽長秀の家臣となっていました。
丹羽長重が改易された後は豊臣家臣となり、堀家の与力となっています。
上杉景勝が会津へ移されると、堀家に従って越後に来ました。
村上頼勝が城主になると、近世城郭への改修を始めました。
この時に地名が村上に改められたと考えられています。
1619年、堀直寄が城主となりました。
村上頼勝の後を継いだ村上忠勝が、家中の争いを理由に改易されました。
代わって城主となったのが、長岡藩主・堀直寄です。
2万石加増されて村上城に移って来ました。
堀直寄は村上城の改修を続け、完成させました。
1640年に堀家が無嗣断絶した後、城主がコロコロ代わりました。
全国的に移封がやたら繰り返されたのがこの時期です。
大した理由もなく移封されるので、正直、追っかけ切れません

1720年に内藤弌信が城主となってからは、明治時代まで続きました。
1868年、北越戊辰戦争で焼失しました。
藩主・内藤信民は新政府に恭順を示しましたが・・・
藩内の意見は統一出来ず、奥羽越列藩同盟に参加し幕府方となりました。
しかし、長岡藩が新政府軍に敗れ危機に陥ると藩主が自殺。
村上藩は大混乱に陥りました。
跡継ぎが無かったため家老の鳥居三十郎が仕切りましたが・・・
8月11日に新政府軍により村上城が攻め落とされ、降伏しました。
先代の藩主・内藤信親は、新たに養子を迎えて藩を継がせました。
これが最後の村上藩主・内藤信美です。
1871年の版籍奉還で村上藩は廃藩となりました。
所在地:新潟県村上市一之町
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