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下田城/静岡県下田市

静岡県のラストは下田城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】下田城

場所がちょっとわかりづらかったのですが、北側の登城口がココです。すぐ脇に大きな無料駐車場があります合格

【写2】下田城

登城口の入口脇には、こんな立派な城址碑が!まだ城跡に登ってないのに・・・これだけ撮って来た気になる城キチは居ないでしょうけど。

【写3】下田城

登城路はずっとこんな感じで、広くて舗装されています。非城キチの人が大勢来る公園だからでしょうか・・・登城路には色々仕掛けがあって、簡単には辿り着けないもんだと思います。そういう所を紹介する、という観点が欲しかったですね。飽くまでも城キチの勝手な我儘ですあせる

【写4】下田城
拡大表示

上の説明板に載っている模型の写真です。こういうのイイですね恋の矢私もこういうの作ってアップしたいなぁなんて願望はありますが・・・めんどくさがりという、致命的な欠点がw大体どこへ行っても隅から隅まで構造を確認する、なんてこともしません。文章や写真で説明出来ない場合にその部分だけなら、そのうちやるかもしれませんけど。細尾根を繋いだ造りは、房総半島でよく見られる形式のような気がします。

【写5】下田城

最初に辿り着く中腹の広場は、開国広場と名付けられていました。真っ平らに整地されていますが、ここに城主様の館があったそうです。

【写6】下田城

開国広場からさらに坂を登る途中から見た、下田市街の様子です。今でも天然の良港ですね!

【写7】下田城

もう一度ヘアピンカーブを曲がって真っすぐ登ると、そこが主郭のすぐ下です。公園化により、山城としてはあり得ないくらいアッサリ着いてしまいました。本来の道を完全無視して、ダァァッと重機でフラットな道造っちゃったんですね・・・

【写8】下田城

でも、ここは崩されずに残りました。天守台跡とはよくある例えで、主郭の高台を指しています。私ももちろん登りましたが・・・主郭は台状の高まりにある平場というだけで、絵になる写真が撮れませんでした。城址碑置くのは、主郭にして欲しかったあせる

【写9】下田城

さて、お城の主要部も見たことだし、次行くか!でUターン。最後のヘアピンカーブの先にあるのが、馬場ヶ崎展望台です。細い稜線を辿った先にある物見台なので、堀切の1つでも無いかと期待しましたが・・・ありませんでした(´・ω・`)

【写10】下田城

馬場ヶ崎展望台からの眺めです。下田城が天然の良港に囲まれた山城だというのがよくわかる風景です。伊豆随一の城跡も、今では展望がよい公園に変わり果てちゃったんだな・・・と思いました。

ところが、ここでもやっちまいましたあせる公園化されかなり破壊されてはいますが、実は大きな堀切や横堀が今もあります。私は天守台跡でUターンして馬場ヶ崎展望台に寄って下りてしまいました。しかし、天守台跡の左側の道をさらに進むと、2郭と3郭の周りに・・・

お前こそ半分も見ないで来た気になってんじゃねー!って言われちゃいそう。なかなか行く機会の無い伊豆半島の先端ですが、要リベンジです(T_T)


◆歴史◆

下田城でググると
「1588年に清水康英が大改修、1590年籠城した」
といった程度の事しか書かれていません。大改修したのですから、それ以前からお城はあったのでしょうけど。ということで頑張ってググり、それっぽい所を繋ぎ合わせてみましたあせる

朝比奈知明が北条早雲より下田の地を与えられました。

1498年、北条早雲が深根城の関戸氏を滅ぼして伊豆を平定しました。それまでの下田は、関戸氏の領地だったと思われます。下田は朝比奈知明の孫・兵庫助に与えると北条五代記に書かれています。朝比奈知明は永正年間(1504-20年)、祠を合祀し下田浅間神社としました。また、岩科神明社の1542年の棟札に、朝比奈綱堯の名が記されています。朝比奈氏が下田を治めており、この間に下田城が築かれたものと思います。

1550年頃、笠原康勝が城主となりました。

笠原越前守家の笠原康勝が城主となりました。朝比奈氏は「子々孫々妨げあるべからず」と下田を与えられていた筈ですが・・・朝比奈氏の動向もよくわかりませんが、笠原康勝が下田へ来た詳細も?です。ただ、白備え筆頭として伊豆衆を率いていたのは間違いないようです。笠原康勝の養子・笠原政尭は、1578年頃から戸倉城に居ました。おそらくこの頃までには笠原康勝は没していたものと思われます。

1588年、清水康英が城将となりました。

豊臣秀吉との関係が悪化すると、北条氏政は防衛の準備を始めました。五家老で白備えを率いる清水康英が、下田城の守備を命じられました。清水康英は伊豆奥郡代で、祖父が北条早雲とともに伊豆に入ったとされます。北条早雲と同じ備中出身と考えられ、代々北条氏当主の傳役を務めています。下田城はこの時に大改修を受けました。

1590年、豊臣軍に攻められました。

豊臣方は、長宗我部元親や脇坂安治らの水軍約1万で攻め寄せました。北城方は、清水康英、高橋丹波守、江戸摂津守らが600の兵で籠城しました。下田城での戦は50日に及び、最終的に降伏して開城しました。清水康英は河津町の林際寺のち三養院に蟄居し、翌年に没しました。

1591年、戸田忠次が城主となりました。

後北条氏滅亡後、徳川家臣・戸田忠次が城主となりました。戸田忠次は、徳川家康を奪って織田家へ連れて行った戸田康光の甥です。この事件により今川義元に攻められ、戸田康光が討ち取られています。戸田康光の弟・戸田光忠は松平広忠の元に逃れて家臣となりました。戸田忠次は1597年に没し、嫡男の戸田尊次が継ぎました。

1601年、廃城となりました。

関ケ原での活躍により、戸田尊次は先祖代々の地・田原へ復帰しました。以後、下田は徳川家の直轄地となり、下田町奉行が置かれました。この時に下田城は廃城となりました。


所在地:静岡県下田市下田公園3丁目

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白水城/静岡県南伊豆町

#白水城は伊豆半島南端の石廊崎にあった海賊城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】白水城

石廊崎灯台のある港の東岸が城跡です。さすがに観光地だけあって、周りの駐車場はみんな有料・・・バイクですらお金取られそうなので、ちょっと離れた所に停めて歩いて来ました。左側に写っている橋が登城口です。

【写2】白水城

橋を渡ると、いきなり岩肌に付けられた階段を登ります。手前の溝っぽいのは堀でしょうか?橋を落とせば、アッと言う間に通行不能ですね。

【写3】白水城

登城路は急斜面の端にちょっと付けられた感じ。足元がセメントじゃなければ、とっくに雨で流れて崩れそうです。後世に付けられた道のようにも見えますけど。

【写4】白水城

しかし、その途中に井戸の跡があります。この井戸がお城の名前の由来になったのだとか。今はもう枯れて、水は出ないそうですが。

【写5】白水城

さらに登ると、虎口が!

【写6】白水城

奥に進むとさらにもう1つ郭が現れます。ここが主郭です。

【写7】白水城

分厚い土塁で囲まれています。カッチョイイ土塁でヾ(*´∀`*)ノとなってしまいましたが・・・この先に堀切があると、ついさっき知りましたあせる


◆歴史◆

詳細は不明です。

『源基氏伝帖』によると、室町時代初め頃に土豪・御簾三河守が城主だったそうです。だたし、同書が後世に書かれたものだそうで、おそらく地元の伝承と思われます。三浦半島には見須氏や三須氏など、同音の氏族が居ます。北条早雲に追われ、扇谷上杉氏の支配地である三浦半島に逃れたのかもしれませんね。

立派な土塁と堀切があるので、遺構は戦国時代末のものと思われます。後北条軍の白備え筆頭・清水康英の領地なので、水軍拠点として整備した説が有力です。1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした事で、城としての役割を終えたと思われます。


所在地:静岡県賀茂郡南伊豆町長津呂

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【図】白水城

Googleさんでは等高線出なかったので、国土地理院の同じ場所も貼りました。こうやって見ると、北側から谷間を上がって東から回った方が楽に登れそうです。大堀切が主郭の東にあるので、そちらが本来の登城路だったのかもしれませんねあせる

深根城/静岡県下田市

深根城は北条早雲が伊豆平定で最後に攻めたお城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】深根城

ココは丸々一般の方の敷地になっています。ただ、家屋の周りは畑になっており、割と自由に出入りは出来ます。・・・家屋の敷地はダメですよ!wそこかしこに民家では不要と思われる土盛りがあり、これらが土塁の遺構と思われます。

【写2】深根城

そこかしこに土盛りは見受けられ、だいだいは道沿いにあります。

【写3】深根城

ただ、土塁は断片的なので、どことどこが繋がっていたのかはわからず。お城の構造まではわかりませんでした。

【写4】深根城

敷地の一角にある土蔵の壁には、平成22年に下田市教育委員会が設置した説明板があります。設置場所に困ったのでしょうが、ここの住人の方の協力があったのでしょう。私も訪問時に住人の方とバッタリ会い、あちこち案内して下さいました。





◆歴史◆

関戸氏のお城でした。



築城年代は不明です。ググってみると、関戸氏の御先祖様は鎌倉幕府の超重臣・安達氏でした。
安達氏の主流は、1285年にあった重臣どうしの政争である霜月騒動で没落しました。
関戸氏の祖・安達頼景は安達泰盛の異母兄でしたが、この騒動には関与していませんでした。
安達頼景は関戸二郎とも呼ばれたようで、子の長宗から伊豆で暮らすようになりました。



東京都多摩市に、城主不明の関戸城がありました。
このお城は多摩川南岸にあり、鎌倉街道を押さえる要衝でした。
関戸氏と何か関わりがあるかも・・・と思ったら、違うようでしたあせる
ここでの関戸氏は武蔵国足立郡石戸(せきど)が、名の由来のようです。



関戸氏は伊豆に落ち着くと、その守護・山内上杉氏に仕えました。
築城者の説としては、この頃の関戸宗尚の名が挙がります。
応永年間(1394~1427年の間)、上杉憲実に命じられて関戸宗尚が城を築いたのだとか。
関戸宗尚の跡を継いだのが、最後の城主・関戸吉信です。
1457年に足利政知が堀越に御所を開くと、山内上杉氏は伊豆一国を譲りました。
関戸吉信はこの時から、堀越公方・足利政知の家臣となりました。



1498年、伊勢宗瑞に攻められ落城しました。



伊勢新九郎は1497年までに出家して、宗瑞と名乗るようになりました。
1493年に伊豆侵攻を開始した伊勢新九郎は、1497年末にようやく狩野道一を降しました。
伊豆で最後まで伊勢宗瑞に抵抗したのが、深根城の関戸吉信です。



1498年の夏、明応の大地震で房総から四国にかけて大津波が襲いました。
伊豆でも10m程の津波が押し寄せたとされており、かなりの被害が出ました。
伊勢宗瑞が深根城を攻めたのは、この直後の事です。
駿河でも大きな被害が出ていましたが、これを戦の好機と見たんですね!



戦の中で茶々丸は自害し、城主・関戸吉信は茶々丸の首を持って城外へ脱出。

※ 茶々丸の最期については、他にも色々説があります。
そして、河津町の梨本という所で関戸吉信も自害し、伊豆平定が完了しました。



伊勢宗瑞は、善政により民のハートを鷲掴みにすることで支配地を拡大しましたが・・・
この時だけは違いました。
理由は今でも謎ですが、伊勢宗瑞は深根城内に居た老若男女を問わず皆殺しにしました。
そして、その首をすべて切り落とし、城外へ晒したと伝わります。



その後の関戸氏



関戸吉信の一族は、落城の際に皆殺しにされたように思われがちですが・・・
この時3歳だった幼子が、乳母に連れられて尾張国中島郡苅安賀へ落ち延びていました。
しかし、1437年に家督を継いだ関戸吉信の子が、61年後のこの時に3歳ってwww



伊勢宗瑞の皆殺しは、関戸一族の一部が見つからなかった為起きた事かもしれませんね。
茶々丸の死体も、この時はまだ見つかっていなかったものと思われます。

それで不安になり、抵抗する意志を削ぐ目的があったのかも。
最後まで抵抗した関戸氏とその領民達ですから、再び逆らう可能性大です。
本人にきいた訳ではないので、色んな状況から推測するほかありませんけどあせる



落ち延びた子は関戸吉忠と名乗り、尾張国岩倉城の織田信安に仕えました。
岩倉城の織田氏はこの頃、分家の清州織田家と争っていました。
1558年に織田信賢が織田信長に敗れた後、関戸氏は武士をやめたようです。
その後、子孫は『信濃屋』という豪商となり、今も続いているそうです。





所在地:静岡県下田市堀之内


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河津城/静岡県河津町

河津城は、超早咲きのカワヅザクラで有名な河津の街を見下ろす山城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】河津城

河津城は駅のすぐ脇にある山城です。駅前が随分とエキゾチックな風景に見えますが、ソテツだけで南国っぽく見えますね!伊豆が暖かいとはいっても、東京と殆ど変わりませんけどw・・・お城は真ん中の一番高い山にありましたあせる

【写2】河津城

登城口は、駅のすぐ東にあります。入口にはちゃんと案内も出ています。事前に地図見てたら北側から楽に登れると思っていましたが・・・そちらは民間の住宅地で、勝手に立ち入ることは出来ません。城主様の居館など、お城の主要部はそこら辺なんだろうなとは思いますが。

【写3】河津城

さて、案内からしばらくは舗装道ですが、1件の民家の前で途切れます。そこにクルマ1台位は停められたような、どうだったか・・・バイクだったので、あんまり気にしてませんでしたあせる

【写4】河津城

舗装道の終点からは、歩きでの登城となります。

【写5】河津城

登城路はよく整備され、草を掻き分けるような所はありません。

【写6】河津城

ラストスパートは階段ジゴクですwこうやって見ると、本来の登城路には見えません。後世に付けられた道のように見えます。

【写7】河津城

そんな階段の先に見える冠木門。これで踊り場だったら涙が出ましたが・・・

【写8】河津城
イラストを拡大表示

城跡に到着!

【写9】河津城

端に寄って全体が見えるように撮ってみました。そんなに広いお城ではないですね・・・ここは物見台のような気がします。でも、城跡として見られるのはココだけ。戦国時代のお城のように、堀や土塁、虎口などの凝ったものはありませんでした。

【写10】河津城

でも、この風景見ると、ここにお城があった理由がよくわかる気がします。


◆歴史◆

蔭山氏のお城でした。

蔭山氏は1438年に永享の乱を起こした足利持氏の末っ子・広氏を祖とします。乳母に連れられ伊豆に落ち延びた広氏(当時3歳)は、土豪の蔭山氏に育てられました。やがて蔭山氏は広氏を婿養子として、広氏が蔭山氏の当主となりました。河津城は、この蔭山広氏により築かれたと考えられています。

北条早雲に攻められ降伏しました。

北条早雲が伊豆へ侵攻した際、蔭山氏は抵抗しました。そのため河津城が攻められました。詳しい年は不明ですが、1493~98年の間ですね。この時に北条軍は、河津城を火攻めにしました。城方はこの火を消すため、大量の兵糧米を流したそうです。しかし、迫りくる炎を消すことは出来ず、落城しました。以後、蔭山氏は後北条氏の家臣となりました。

1590年、廃城となりました。

豊臣秀吉が後北条氏を攻め、蔭山氏広は戦わずに降伏しました。祖が広氏、降伏したのは子孫の氏広です。主家の後北条氏が滅ぼされると、蔭山氏広は修善寺へ移ったとされます。

蔭山氏広の妻の連れ子だった義理の娘・万は、ここで徳川家康の側室となりました。万の生んだ子が初代紀伊藩主・徳川頼宣と初代水戸藩主・徳川頼房です。

河津といえば、河津氏

工藤氏や伊東氏を調べた中で、河津氏の名前がありました。河津氏は平安末期、工藤氏や伊東氏と親兄弟の間柄でした。

しっかり書くとややこしくなるのですが・・・工藤祐隆の子には、嫡男の系統と、後妻の娘の子の系統とがありました。嫡男は早世したため後妻の娘の子が工藤氏の嫡流となり、伊東の地を継ぎました。一方、嫡男の子は庶流となり、河津の地を継ぎました。

両系統は平安時代末期に争い、後妻系統の工藤祐経が、嫡男系統の暗殺を企てました。この暗殺事件では、たぶん大本命だった伊東祐親ではなく、その嫡男・河津祐泰が死にました。泥沼の争いは源平の争いでも敵味方に分かれ、後妻系統が源氏方につき勝利しました。しかし、1193年、富士の巻狩りで河津祐泰の遺児・曾我兄弟が工藤祐経を殺害。源頼朝は許しましたが、工藤祐経の子が許さず、曾我兄弟は殺されました。河津氏の血統は、ここで絶えます。

・・・消化不良なくらいザックリです(´・ω・`)

その後、伊東の地は嫡男流の伊東祐清の子・伊東祐光に与えられました。伊東祐清は源平の戦いでは平家方でしたが、かつて源頼朝の命を助けた事がありました。詳しくは省きますが・・・ググって下さいネw

その後、伊東氏は足利尊氏に従って活躍し、日向を与えられます。しかし、なかなか任地へ赴かない伊東氏を、足利尊氏は無理やり日向へ行かせました。伊東氏は一族に伊東荘を預けたのですが、やっぱり横領されて争いになります。この争いは足利尊氏・義直の兄弟喧嘩に便乗しましたが・・・

最終的には伊東氏側が勝利し、伊東荘は・・・室町幕府に没収されましたw陰山氏が伊東荘の一部である河津に入ったのは、その後の事です。なんだか順番が逆になってしまいましたあせる


所在地:静岡県賀茂郡河津町笹原

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高谷城/静岡県伊豆市

高谷城は伊豆西海岸沿いの山の上にありました。
訪問日は2014年3月21日(初回)と今日(2016年12月18日)の2回です。

事前に色々調べてはいたものの、噂通り入口がわかりづらかったです。海岸と山の間の狭い平地に住宅が密集し、山に入る道は案内も無い細道です。そんなこんなで高谷城跡らしき一帯をウロウロして来たのが初回です。

まずは三郭群へ

【写1】高谷城

この辺りは道が狭く、城跡の近くにバイクですら停められそうな所がなかなか・・・ということで、ちょっと進んで海の近くにある弁財天の脇に停めさせてもらいました。実は、この上が三郭群だったりします。

※初回は気付きませんでしたが、信号を渡った所にある公園の奥にも駐車できます。

【写2】高谷城

三郭群へは「旅館なかはらや」の看板のある細道に入ります。ここは人がよく通るのか、コンクリートで綺麗に整備されています。写真は旅館の真下から山上方向を見上げた所です。道と土の壁とが「ここからお城に入るんだ!」という雰囲気です!

【写102】高谷城

上の写真の左カーブから、道はすぐに右に曲がります。ここには下と右への案内が出ていますが、左の城跡については何も無し・・・初回はそのまま道なりに右へ進み、???でUターンしてしまいました。

【写103】高谷城

今回はちゃんと、何も案内の出ていない左側へ進みました。すると、ほんの10m程前に土の壁が現れ、その手前が堀切となっています。草木に埋もれてしまい、真冬なのにあまりしっかり見えず(T_T)まぁでも、初回見落とした堀切様を拝めて、まずはひと安心です。

※写真は奥から振り返って撮っています。

【写3】高谷城

初回はそのまま坂を登り切り、峠っぽい所の右側に曲輪跡っぽい畑を見付けました。きっと何かあったに違いないとは思いますが、お城にこじつけちゃう病が発動しています。こちらの道は二郭群の西側の下を通っており、そのまま西側の麓へと下りて行きます。私はここから「この上かぁ」と見上げるだけで、こちらのルートはUターンしました。


続いて一郭群へ

初回は麓から登りました。

【写5】高谷城

今度は一郭群を見るために一旦下り、カーブミラーの所から細道を左へ入ります。最初の突き当りを左に進むと、そこに立派な諏訪神社があります。地形を見てると、ココに領主様のお屋敷があってもよさそうな感じです。

【写6】高谷城

この神社の手前から右へ、山中へ入って行く道があります。やっぱり最初はセメントで固められた道ですが・・・

【写7】高谷城

そのうちに岩がゴツゴツした険しい道に変わります。

【写8】高谷城

途中こんな感じの所があり「ここに門があったのかも?」と、妄想を掻き立てられます。

【写9】高谷城

山道を登り切った所は平坦になっており、曲輪っぽい所もあります。曲輪だった、と思いますあせる

【写10】高谷城

さらに進むと切り開かれた平坦地があり、その先に・・・車道がwこっちから来れば、住宅街の細道をどこだどこだと迷わずに済んだのに!・・・なんて思いましたが、誰もこっちからの登城記は書いていません。しかも、Google Mapでも、まだここの道は描かれていません。航空写真には写ってるんですけどね・・・農道でしょうか?ということで、航空写真をなぞって地図に青い線を入れてみました。

山道を登り切った所で平坦地を見たことで、主郭まで攻略した気になっていた私ですが・・・ここは大きな堀切が3つあるのだとか。大好きな大堀切が3つもあるのに、1つも見つけられなかったのは悔しいデス(T_T)


ということでリベンジです!

「堀切・深海魚料理」が「寒い・遠い」に勝っちゃいました!途中の御殿場が超寒くて、帰りたくなったのは内緒ですw



初回に山上で見た道を地図で追っかけ、そこから登れば楽に行ける・・・?ということで、ここがその道の入口です。特に私道ということでもなく、普通に公道なので走ってokぽいです!

※下の地図で青いラインを入れたのが、今回登った車道です。こちらからの登城記は、おそらくコレが初だと思います^^

【写104】高谷城

この道を道なりにズンズン登って行くと、こんな場所に辿り着きます。途中、一部白セメント道はありますが路面は良好で、オンロードバイクでしっかり登れました。ここが初回の最後に見た空き地で、反対の道側から見た所です。

【写105】高谷城

空き地にバイクを停めて、いざ城へ!パッと見どこから入るんだ?と思いますが・・・前回反対側から見ていますからね、それっぽい所をすぐ見付けました。空き地真正面から見て右奥に、ちょっとだけ草が掻き分けられた感じの所があります。知らなければ、まさかここから奥へ進めるなんて思いません。

【写106】高谷城

入ってみるとやはり道になっており、すぐに二手に分かれました。ここを右へ入って行きます。

【写107】高谷城

すると、初回は見る事の無かった城跡っぽい光景が!後付けですが、ここが一郭群の中心部です。

【写108】高谷城

この城壁の手前に上がる道が付いており、辿ってみると細い平地が奥へと続いています。常に左側が高くなっており、どうやら一郭を囲む帯郭のようです。

【写109】高谷城

多少草深い所がありつつも、草は枯れ虫が眠る藪など、城キチの敵ではありません!ということで、帯郭を奥まで進み切ると、山道に出ました。これは最初にみた城塁脇の道を、ほんの15m程進んだ所です。・・・だから「城キチ」=「藪好き?」って誤解されちゃうんですよね?w

【写110】高谷城

一郭のすぐ奥はほんのちょっとくびれています。写真はカメラの不調で全くピントが合わなくなり、沢山撮った中たった1枚のまともな奴です。行きにここを通った時は堀切とは気付きませんでした。参考に持参した図ではもう1つ堀切あるハズ!の場所がココでした。堀切にも色々あるんですね!

【写111】高谷城

そこからちょっと進むと、今度は見事な大堀切が姿を現しました恋の矢これを見ずに「高谷城行ったよ!」なんて、口が裂けても言えません。寒さに負けずに来た甲斐がありましたヾ(*´∀`*)ノ

この堀切の先が二郭群です。稜線に沿って帯郭が並んでおり、人工的に加工された痕跡がバッチリ残っています。しかし、先ほど書いた通りカメラの不調でことごとくピンボケ・・・まぁ、それでも「もう1回リベンジ!」と言う程でもありませんけどあせるとりあえず、主な堀切だけでも押さえられたので、そこそこ満足して撤退しました。

【写112】高谷城

「寒い・遠い」に勝ったもう1つが、駿河湾で獲れた深海魚の料理です。駿河湾で漁をしているのは、伊豆西海岸だけではないはずですが・・・おおっぴらに深海魚料理を宣伝してるのって、伊豆西海岸の戸田辺りだけですよね?7年前に知ってから、一度は食べてみたいと思いつつ機会がありませんでした。そんなこんなでググってお店をチェックし、いざ現地へ!

実際に食べに入ったのは、全く別のお店でした。戸田には看板に「深海魚料理」を掲げたお店がチラホラ有りますのであせる食べた感想は・・・人によってさまざまですよね?11月~5月が深海魚シーズンなので、是非訪ねてみて下さいwww





◆歴史◆



富永氏の本拠地でした。



富永氏については、丸山城に書いた通りです。
内容は一緒なのでそのままコピペでもいいのですが・・・
訪城記だけでもかなり長くなっちゃったので、リンクだけにしておきます。



丸山城との違いは、1590年に豊臣秀吉が攻めて来た時に高谷城は放棄された事です。
富永本軍は北条氏の命令により、韮山城を守っていました。
丸山城と比べると、かなり手が加えられた本格的なお城なのですが・・・



高谷城が富永氏本家、丸山城は分家のお城だったのかもしれません。
主家の滅亡とともに富永氏も没落したため、この時に廃城になったと思われます。





所在地:静岡県伊豆市土肥


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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