鎌田城はダム湖の脇にあるかなり本格的な山城です。
訪問日は2014年3月21日です。

登城口の目印は、このうなぎ屋さんです。決してお金もらってる訳ではありませんけど

てか、私の登城するような時間にはまだ開いてません。宇佐美城を見てからココに着いたのが、朝の6時です。1つ城跡見て、ちょっと走って、この時間って、やっぱりオカシイですか?
上の写真で矢印を入れた所から見えるのが、この風景です。私が撮った写真では、道端の説明板が写っていませんでした。ということで、Googleさんのストビュー貼っておきます。将来風景変わっても、ストビューなら勝手に更新してくれるでしょうし

・・・ストビューだけでもかなり登城記書けてしまいそうな気がしますw
拡大表示やっぱりというか、拝借します。だって、イイ図なんですもの

登城口は南西にあり、登城路はグルっと回り込んでいます。城内へは、図の左上の細い稜線から進入します。

だだっ広い砂利のスペースなので、車も沢山停められます。そんな大所帯で攻めに来る方も居ないでしょうけど。どこから登るんだろう?と思って見回すと、一番奥がこんな感じになっています。城跡まで40分と書かれていますが、私の足では主郭まで25分でした。

登城路はよく整備されており、草木を掻き分けるような所はありません。足元もしっかりしているので、とても登りやすいと思います。図の左上の細い稜線に差し掛かると、小さな堀切がいくつか現れます。

稜線を越えて城内へ入る所は、こんな感じで虎口っぽい感じになっています。いよいよ城内へ侵入だ!とテンション上がります


主郭の手前には「横堀」の案内が出ており、やはりというか、ついつい寄り道します。ここで寄り道しなかったら、いつ寄り道するんだ!寄り道して何が悪いんだ!・・・と、なぜか自分に言い訳しながら、どっぷり横堀を堪能


そして、ついに主郭到着です。戦国時代っぽく堀切や虎口、土塁などが凝っており、主郭もかなりの広さがあります。周りを土塁で囲まれたお椀型の中にいると、なぜか心が癒されます。・・・きっと何かのビョーキなんでしょう


「展望台」の手前には、ガッツリ堀が横たわっています。写真は展望台側から見た所です。

その展望台からの眺めです。南西にあるダム湖がよく見渡せます。この方向が良く見えてもあまり役に立ちませんね・・・現代人ウケする風景でしょうけど。

どちらかと言うと、現役時代はこっち方向の展望が重要だったと思います。伊東市街がバッチリ丸見えです^^
◆歴史◆鎌田俊長により築かれたとされます。あちこちでよく見るのは、鎌田政清の子・鎌田俊長が1189年に築いたというものです。鎌田政清は源義朝の側近で、平家に敗れ東国を目指す途中、尾張で主と共に討たれた人物です。『吾妻鑑』では、鎌田政清の娘が源頼朝に領地を与えられ地頭になったと書かれています。その『吾妻鑑』では、男子が無かったからと書かれていたような気が・・・w
鎌田俊長は藤井俊長の事で、別名が「鎌田新藤次俊長」だったそうです。源頼朝は父・義朝とともに鎌田政清の菩提を弔っています。もしかしたら面識があったのかもしれません。記憶の中の鎌田政清と藤井俊長がオーバーラップし、そんな風に呼んだのでしょうか。今となってはサッパリわかりませんが・・・
どのような人物なのかは、ググってもあまり出て来ませんでした。藤井俊長は文筆で源頼朝に仕え、主に使者として活躍したそうです。1191年には政所の案主となっています。「案主」って何だろうと調べると、記録をする人なんだそうです。・・・バリバリの文官ですね!
当時の習慣では、領地の地名を姓にして名乗ることがよくありました。城を築いたかどうかは?ですが、藤井俊長がこの辺りの地頭だったのかもしれません。
伊東といえば伊東氏ですが・・・源頼朝の頃の伊東氏は、一族で争っている時期でした。伊東祐隆の嫡男・祐家が早世し、後妻の娘に手を出した所からゴタゴタが始まっています。文章で表現してもサッパリなので、宇佐美城の所で使った図を再利用します。

後妻の娘の孫・伊東祐経は幼い頃に京へ送られ、伊東祐親に伊東の地を横領されていました。不正を朝廷に訴えたものの、平家に根回しした伊東祐親によりウヤムヤに。その悔しさから伊東祐親らの暗殺を企み、河津祐泰は実際に殺されました。かの有名な「曾我兄弟の仇討ち」は、河津祐泰の遺児が伊東祐経を殺した事件です。詳細は省きますが、伊東祐経の子が仇討ちの仇討ちで曾我兄弟を殺して幕引きとなります。伊東祐経の系統は後に日向で大名となり、薩摩・大隅の太守・島津氏と争います。
伊東氏の嫡流は日向へさて、伊東氏がなぜ日向へ?と思い調べると、足利尊氏に原因がありました。伊東氏は足利尊氏に味方して活躍し、各地に領地を与えられました。その中に日向もあったのですが、余りにも遠いせいかなかなか任地に赴きませんでした。痺れを切らした足利尊氏が、伊東祐持を強制的に日向へ行かせたのだそうです。足利尊氏にはきっと、島津氏を抑え込む役割を伊東祐持に期待していたのでしょう。伊東祐持は、本貫地である伊東の地を弟の佐土原祐藤に預けたのでした。
その後の伊豆の伊東伊東祐持の子・祐熙の代になると、佐土原祐藤が伊東の地を横領しました。かなり離れていますし、本家は沢山領地を持っていましたからね。遺産の相続としてこれくらいもらってもいいんじゃね?という感じだったのでしょうか。伊東祐熙と子の伊東氏祐は、これを不服として朝廷に訴えましたが・・・丁度南北朝の統合の時期に当たり、朝廷はシッチャカメッチャカの最中でした。当然、地方の争いに首を突っ込む余裕などなく、訴訟は放置。
観応の擾乱で足利尊氏・直義兄弟が争うと、伊東氏と佐土原氏は敵味方に分かれました。結果的に佐土原氏が味方した足利直義が敗れ・・・佐土原氏が勝手に領有していた伊東の地は、室町幕府に召し上げられてしまいました。この時に、伊東氏は本貫地である伊東を一度失いました。
伊東氏が伊東に復帰・・・?鎌田城自体の歴史はサッパリなので、もはや伊東氏と伊東の歴史で熱くなってます。伊東に他にそれらしいお城が見当たらないので、多分ここだとは思いますが

伊東の地を失った伊東氏ですが、一部は駿河にいたようです。南北朝時代は南朝方として、安倍城付近に居たのだとか。安倍城辺りで色々調べた時には、伊東氏の「イ」の字も出て来ませんでしたけど。
この当時は、1336年に駿河守護となった今川氏に対し、南朝方の工藤一族が抵抗。
駿河の支配権を巡って争っていました。その中心となっていたのが狩野貞長で、内牧城や安倍城に立て籠もりました。狩野貞長を支えていたのが中野掃部介や入江駿河守などでしたが・・・
ここに伊東祐茂も居たようですが、ググって出て来るサイトが1つなので半信半疑です。そのサイト様のお話を信じるとして、駿河の手越河原での戦で今川軍が大勝利を納めます。その後の経緯は不明ですが、やがて狩野貞長らは今川範国に従うようになったそうです。今川家に仕えた伊東氏は、やがて伊豆(沼津市西浦の辺り)に領地を与えられました。
1476年、今川義忠が討死すると、今川家庶流の小鹿範満が今川家の実権を握りました。小鹿範満の活動はよくわかっていないようですが・・・現存する文書は、伊東祐遠の忠勤を称える文書2通のみだそうです。その小鹿範満を甥の龍王丸(=今川氏親)支援のため駿河に戻った伊勢新九郎が討ちました。伊東祐遠は、必然的に伊勢新九郎とは敵対関係になったと思われます。
伊勢新九郎は1493年、伊豆へ侵攻して堀越御所の茶々丸を追放しました。この時に工藤一族の宇佐美定興が討死しています。工藤一族は茶々丸を支持しており、伊豆支配に乗り出した伊勢新九郎に抵抗しました。伊東祐遠・伊東祐実も、当初は工藤一族の長・狩野道一に味方したと思われます。
しかし、経緯は不明ながら、狩野道一は1495年に伊東氏を攻めています。そして、狩野道一が降伏した後、伊勢新九郎から伊東七郷のうち本郷村を与えられています。以後、伊東氏は後北条氏の家臣となりました。・・・伊勢新九郎は別名・北条早雲で、後北条氏の祖です。余りに有名ですが、いちおう念のためw宇佐美城を調べた時は、伊東の地でに伊東氏が居たものと思っていましたが・・・
その後の北条家臣・伊東氏伊東祐実は相模の大族・三浦氏討伐に活躍。
伊東祐貞は北条氏綱に縫殿助に任じられました。・・・「縫殿助」って何でしょ?wwwまぁ、きっと何かの役職ですね
伊東祐尚は第二次国府台合戦で活躍しました。
伊東政世は北条氏政から一字与えられました。下総に領地を持っていたようです。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、小田原城の西北の曲輪を守っていたそうです。北西の曲輪って、御前曲輪でしょうか?小峰の三重の大堀切の辺りだとすると、最前線ですね!
子の伊東時吉は徳川幕府に仕え、300石の旗本として存続したそうです。
鎌田城は?戦国時代には朝倉政元が居たようで、現在見られる遺構はこの頃のものだそうです。朝倉政元は越前朝倉氏の一族で、1573年に織田信長に滅ぼされて後北条氏に仕えたようです。伊豆衆として鎌田城を与えられ、1590年に後北条氏が滅ぼされてからは豊臣秀次に仕えました。1595年に豊臣秀次滅亡後は浪人したものの、その後徳川家康に召し出され旗本となりました。
・・・ということは、1590年に廃城でしょうかw
所在地:静岡県伊東市鎌田