fc2ブログ

大沢城/静岡県松崎町

#大沢城は道の駅のすぐ脇にあります。
訪問日は2014年3月21日です。



「道の駅のすぐ脇」と書きましたが、地図に「道の駅」って書いてないんですよねあせるってことで、最近マイブームなGoogle Mapのストビュー貼ります。西から見た所で、正面の電柱の真後ろにある小さな丘が城跡です。左手前はかなり広い駐車場なので、それと知っていればすんなり辿り着けます。

【写1】大沢城

道の駅に停めたら、まず最初にこの神社を探しましょう。この神社の裏が登城口となっています。神社は道の駅に入ったらとにかく奥へ進み、川の手前で右へ進むとあります。建物の陰になっているので、ちょっと見つけづらいかもしれません。

【写2】大沢城

神社の裏側に回り込むと、山中へ上がる階段があります。この階段、一直線に山上へ向かう訳ではないうえ、木々や草に埋もれかけています。

【写3】大沢城

しかも、階段は頂上まで続いておらず、途中の曲輪までしかありません。階段の終点には、ミツバチの巣箱が並んで置いてありました。

【写4】大沢城

ここからは、小規模ながら山城っぽさが楽しめます。草木で覆われた中から、城跡への道を感じながら進みますので♪一歩間違えると遭難しますけどwwwこの写真には道が写っていますが、見えますでしょうか?

【写6】大沢城

まだ登り切らない内に、なぜか土塁が!・・・なんて思ってさっき余湖さんの図を拝見すると、その脇に堀切があせるまぁ、堀切大好きな私が見落とす位、草木に埋もれていたという事でしょう。

【写7】大沢城

短いながら本格的な山道を登り切る手前が、こんな感じになっています。いかにもこれから城内に入る感じの虎口ですね!

【写8】大沢城

山道を登り切ると、平らな場所に出ました。ここが主郭です。放置された山城に登って困るのが、こんな写真しか撮れないこと。いつもながら、草と木しか写っていませんw

【写9】大沢城

それでも、何とか成果を得ようとウロウロ。土塁見付けましたヾ(*´∀`*)ノ


◆歴史◆

歴史不詳です

築城年はおろか、城主さえサッパリわからないお城です。その割に南北を川で挟まれ、小高い独立丘陵にあり、堀や土塁などがしっかりしています。・・・ということで、領主様の居城というより、陣が置かれた陣城だったような気がします。

大沢城は、地理的には伊豆西海岸と下田をつなぐ松崎街道沿いにあります。伊豆で騒乱があったのは、北条早雲が伊豆に侵攻した時と、豊臣秀吉が攻めた時くらい。後者は主に海での戦だったので、前者の頃のお城っぽい感じがします。

前者の頃、伊豆西海岸には高橋氏や富永氏など、早々に北条方となった土豪が居ました。一方、松崎街道の東には、北条早雲に最後まで抵抗した関戸吉信の深根城がありました。

北条早雲が伊豆に侵攻したのは1493年ですが、それから5年掛けてようやく下田に至ります。高橋高種が関戸吉信を押さえ込む間に、北条早雲がじわじわと南下。それまでの間、高橋方の最前線の砦だったのかもしれませんね!

1498年、北条早雲が深根城を攻めた際、この松崎街道を通ったと伝わります。茶々丸の最期には諸説ありますが、深根城の攻防で自害したとする説があります。北条早雲の伊豆攻略完了とともに、松崎城も役割を終えたのかもしれません。


所在地:静岡県加茂郡松崎町大沢

静岡県の城跡/なぽのホームページを表示

丸山城/静岡県伊豆市

丸山城は水軍の城で、出城と本城の2つに分かれています。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】丸山城

まずは出城から紹介します。国道沿いにある登城口がココです。地図ではかなり特徴のあるカーブなので、ココ自体は迷わず辿り着けると思います。ただ、ココからストレートに出城に辿り着ける方は多分少数派だと思います。私は辿り着けない多数派でした。・・・「多数派」って、なんだかいい響きですw

【写2】丸山城

「出城への道はコチラです」と言われると、「多数派」は左の舗装された道へ進むと思います。私もそうでしたあせる舗装された道へ進むと城跡には辿り着かず、そのまま海岸に出てしまいます。出城への道は、中央に見えるフェンスの右側で、土の下る道が正解です。・・・と、出城からココに戻って初めて知りました。

【写3】丸山城

城跡への入口が見付けられないまま海岸に出てしまい、あれ?あれ?で出城方向へ。すると、海岸沿いの道から山中へ入る道がありました。これが海岸側にある登城口です。

【写4】丸山城

ずっと同じような調子の石段が続き、途中で道が分かれます。ここにはちゃんと案内が出ています。私のような方向音痴でも、安心してお城へ辿り着けます。・・・ちょっと遠回りはしましたけどあせる

【写5】丸山城

斜面沿いの細い石段道がグルッと回り込み、主郭へ入ります。主郭はそれまでの道からは想像出来ない位の広さがあります。

【写6】丸山城
拡大表示

主郭の奥にある説明板の図です。もちろん、パクれるものは頂きますw図を見てわかるのは、いかにも水軍のお城だという事。地図で東側に見える堀のようなものは、かつては入江の端でした。こうして見ると、天然の防波堤で囲まれた港の脇にある高台だったんですね!今は「出城」と呼ばれていますが、築城当時はここがメインでした。

【写7】丸山城

次は国道から登る「本城」側を攻めます。山の中へ入って行く階段が目印です。立て札ありますが、丸山城の文字はありませんあせる

【写8】丸山城

登る途中で数か所、こんな感じで石積みが見られます。所々に石垣が残っているなんて書かれており、「もしかしたら」なんてワクワクしちゃいます。これはどうみても近世に畑の土止めに積まれたように見えますが・・・

【写9】丸山城

人が歩く山道をズンズン登ると、突然コンクリートで舗装された立派な農道が現れます。本城の主郭辺りは畑になっており、山の反対側から農道が引かれていました。初めから知ってれば、ちゃんと農道をバイクで登って来たのに・・・山上にあるまとまった広さの平坦地ということは、ココが主郭っぽい感じです。

【写10】丸山城

さらにもうちょっと登った所にコレがあります。屋根付きの休憩所で、綺麗なパンフレット入れがありました。期待して開けてみましたが、残念ながら空っぽ・・・あせるでも、ここにも立派な説明板が!

【写11】丸山城
拡大表示

またしてもパクリます。やはり、ちょっと下の広大な平地が主郭のようです。図ですぐ下に描かれている竪堀には気づきませんでした。何となく段差があるな?という程度に気にはなっていましたが。・・・と、今ここで図を見ながら溜息ついてます。現地でちゃんと図見よーゼwww


◆歴史◆

富永氏のお城でした。

富永氏は伊豆西海岸に勢力のあった土豪です。富永氏の本拠地は高谷城ですが、色々見落としがあるので先にこっちを書きます。「寒い・遠い」と「大堀切・深海魚料理」を天秤にかけながら、再訪を検討しています。「超」の付く寒がりですが、「超」の付く堀切好きでもあり、葛藤している最中ですw

さて、丸山城は天然の港脇にある小山を城とした、典型的な「海賊城」です。今は出城と呼ばれている方が初期のお城ですが、築城年代は不明です。

1491年に富永政直が伊勢新九郎に仕えたとされます。

富永氏の出自は諸説あり、三河富永氏説と近江から来た説とがあります。まぁ、わからないものはわかりませんよね?ずっと昔からここに居た、という可能性もありますし。で、はっきりしているのは1491年に富永政直が伊勢新九郎に仕えた事です。伊勢新九郎はまだ伊豆に攻め込んでいませんが・・・

この年に伊豆であった大事件といえば、堀越公方・足利政知の死と茶々丸のクーデターです。しっかり書くと長くなる自信たっぷりなので、ザックリ書くと・・・
・堀越公方・足利政知が病没
・廃嫡され監禁されていた茶々丸が脱獄し、継母と弟を殺して堀越御所を掌握
といった感じです。

この2年後の1493年には・・・
・京に居た茶々丸の継母の長男・清晃が将軍・足利義遐(のち義澄)となる
・伊勢新九郎は堀越御所を攻め、伊豆侵攻を開始

これ以前に伊豆の武士が伊勢新九郎に従うのはなぜ?かと、ちょっと考えました。伊勢新九郎は、元々は京で将軍近くに仕える奉公衆でした。・京に居た伊勢一族が堀越公方の遺児を将軍にして、伊勢一族の権力を拡大
・その将軍の仇討ちで茶々丸を滅ぼし、伊勢新九郎が伊豆を乗っ取る

こんな連携があれば、伊勢新九郎は伊豆侵攻前に味方を増やしておいた方が楽です。堀越御所では、茶々丸が継母により廃嫡されていました。それまでは嫡男だったのですから、茶々丸の将来に期待した家臣も多々居たでしょう。ところが、継母一派の讒言により状況が一変。背後にそれぞれの派閥争いがあった事は、想像に難くありません。

そして、目論見通りに足利政知の子・義澄が将軍に就くと・・・反茶々丸派を味方につけた伊勢新九郎が、半分の労力で伊豆一国制圧に向けて動き出した。・・・という事でしょうか?

「1491年に富永政直が伊勢新九郎に仕えた」の一言で、ここまで妄想が膨らみますw

後北条家中での富永氏

富永政直は1493年に興国寺城代、1524年に江戸城主となっています。北条早雲の元居城や扇谷上杉氏の重要拠点だったお城です。

子の富永直勝はもっと凄くて、五家老の一人となり青備えを率いました。現代風に言えばアオレンジャーです!青れんじゃー強いですよ、きっと・・・w富永直勝は江戸城の他に葛西城の城代、栗橋城の城主も務めていました。この頃の知行はなんと1383貫でした。こんな感じでバリバリの超重臣でしたが、本貫地の高谷城・丸山城も保ち続けました。

1579年頃、本城を拡張したと思われます。

1578年に上杉謙信が没し、上杉景勝と上杉景虎が家督争いを始めました(御舘の乱)。この時に武田勝頼が上杉景勝に味方したため、後北条氏出身の上杉景虎が敗れました。・・・ということで、武田勝頼と北条氏政が対立するようになりました。武田勝頼は沼津に三枚橋城を築き、相模や伊豆に攻め込む構えを見せました。このため、北条氏政は各地で城を整備しており、丸山城もこの時に改修されたようです。

1590年、廃城となりました。

豊臣秀吉が北条氏討伐の兵を挙げ、全国の大名を率いて攻めて来ました。この時に富永山随が守る丸山城も攻められ、圧倒的な兵力差もあり落城しました。伊豆では他に、下田城の伊豆衆筆頭・清水康英が50日耐え抜いたものの降伏。小田原城も豊臣軍20万に包囲され、ついに降伏しました。

富永氏の当主・富永政家は韮山城を守っていましたが、落城後は浪人となりました。徳川家康から誘われていたものの断り、子の富永直則を仕えさせたそうです。以後は旗本として存続しました。


所在地:静岡県伊豆市八木沢

静岡県の城跡/なぽのホームページを表示

鎌田城/静岡県伊東市

鎌田城はダム湖の脇にあるかなり本格的な山城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写2】鎌田城

登城口の目印は、このうなぎ屋さんです。決してお金もらってる訳ではありませんけどあせるてか、私の登城するような時間にはまだ開いてません。宇佐美城を見てからココに着いたのが、朝の6時です。1つ城跡見て、ちょっと走って、この時間って、やっぱりオカシイですか?



上の写真で矢印を入れた所から見えるのが、この風景です。私が撮った写真では、道端の説明板が写っていませんでした。ということで、Googleさんのストビュー貼っておきます。将来風景変わっても、ストビューなら勝手に更新してくれるでしょうしあせる・・・ストビューだけでもかなり登城記書けてしまいそうな気がしますw

【写1】鎌田城
拡大表示

やっぱりというか、拝借します。だって、イイ図なんですもの恋の矢登城口は南西にあり、登城路はグルっと回り込んでいます。城内へは、図の左上の細い稜線から進入します。

【写4】鎌田城

だだっ広い砂利のスペースなので、車も沢山停められます。そんな大所帯で攻めに来る方も居ないでしょうけど。どこから登るんだろう?と思って見回すと、一番奥がこんな感じになっています。城跡まで40分と書かれていますが、私の足では主郭まで25分でした。

【写5】鎌田城

登城路はよく整備されており、草木を掻き分けるような所はありません。足元もしっかりしているので、とても登りやすいと思います。図の左上の細い稜線に差し掛かると、小さな堀切がいくつか現れます。

【写6】鎌田城

稜線を越えて城内へ入る所は、こんな感じで虎口っぽい感じになっています。いよいよ城内へ侵入だ!とテンション上がりますアップ

【写7】鎌田城

主郭の手前には「横堀」の案内が出ており、やはりというか、ついつい寄り道します。ここで寄り道しなかったら、いつ寄り道するんだ!寄り道して何が悪いんだ!・・・と、なぜか自分に言い訳しながら、どっぷり横堀を堪能ラブラブ

【写8】鎌田城

そして、ついに主郭到着です。戦国時代っぽく堀切や虎口、土塁などが凝っており、主郭もかなりの広さがあります。周りを土塁で囲まれたお椀型の中にいると、なぜか心が癒されます。・・・きっと何かのビョーキなんでしょうあせる

【写9】鎌田城

「展望台」の手前には、ガッツリ堀が横たわっています。写真は展望台側から見た所です。

【写10】鎌田城

その展望台からの眺めです。南西にあるダム湖がよく見渡せます。この方向が良く見えてもあまり役に立ちませんね・・・現代人ウケする風景でしょうけど。

【写11】鎌田城

どちらかと言うと、現役時代はこっち方向の展望が重要だったと思います。伊東市街がバッチリ丸見えです^^


◆歴史◆

鎌田俊長により築かれたとされます。

あちこちでよく見るのは、鎌田政清の子・鎌田俊長が1189年に築いたというものです。鎌田政清は源義朝の側近で、平家に敗れ東国を目指す途中、尾張で主と共に討たれた人物です。『吾妻鑑』では、鎌田政清の娘が源頼朝に領地を与えられ地頭になったと書かれています。その『吾妻鑑』では、男子が無かったからと書かれていたような気が・・・w

鎌田俊長は藤井俊長の事で、別名が「鎌田新藤次俊長」だったそうです。源頼朝は父・義朝とともに鎌田政清の菩提を弔っています。もしかしたら面識があったのかもしれません。記憶の中の鎌田政清と藤井俊長がオーバーラップし、そんな風に呼んだのでしょうか。今となってはサッパリわかりませんが・・・

どのような人物なのかは、ググってもあまり出て来ませんでした。藤井俊長は文筆で源頼朝に仕え、主に使者として活躍したそうです。1191年には政所の案主となっています。「案主」って何だろうと調べると、記録をする人なんだそうです。・・・バリバリの文官ですね!

当時の習慣では、領地の地名を姓にして名乗ることがよくありました。城を築いたかどうかは?ですが、藤井俊長がこの辺りの地頭だったのかもしれません。

伊東といえば伊東氏ですが・・・

源頼朝の頃の伊東氏は、一族で争っている時期でした。伊東祐隆の嫡男・祐家が早世し、後妻の娘に手を出した所からゴタゴタが始まっています。文章で表現してもサッパリなので、宇佐美城の所で使った図を再利用します。

【図】伊東氏と宇佐美氏のつながり

後妻の娘の孫・伊東祐経は幼い頃に京へ送られ、伊東祐親に伊東の地を横領されていました。不正を朝廷に訴えたものの、平家に根回しした伊東祐親によりウヤムヤに。その悔しさから伊東祐親らの暗殺を企み、河津祐泰は実際に殺されました。かの有名な「曾我兄弟の仇討ち」は、河津祐泰の遺児が伊東祐経を殺した事件です。詳細は省きますが、伊東祐経の子が仇討ちの仇討ちで曾我兄弟を殺して幕引きとなります。伊東祐経の系統は後に日向で大名となり、薩摩・大隅の太守・島津氏と争います。

伊東氏の嫡流は日向へ

さて、伊東氏がなぜ日向へ?と思い調べると、足利尊氏に原因がありました。伊東氏は足利尊氏に味方して活躍し、各地に領地を与えられました。その中に日向もあったのですが、余りにも遠いせいかなかなか任地に赴きませんでした。痺れを切らした足利尊氏が、伊東祐持を強制的に日向へ行かせたのだそうです。足利尊氏にはきっと、島津氏を抑え込む役割を伊東祐持に期待していたのでしょう。伊東祐持は、本貫地である伊東の地を弟の佐土原祐藤に預けたのでした。

その後の伊豆の伊東

伊東祐持の子・祐熙の代になると、佐土原祐藤が伊東の地を横領しました。かなり離れていますし、本家は沢山領地を持っていましたからね。遺産の相続としてこれくらいもらってもいいんじゃね?という感じだったのでしょうか。伊東祐熙と子の伊東氏祐は、これを不服として朝廷に訴えましたが・・・丁度南北朝の統合の時期に当たり、朝廷はシッチャカメッチャカの最中でした。当然、地方の争いに首を突っ込む余裕などなく、訴訟は放置。

観応の擾乱で足利尊氏・直義兄弟が争うと、伊東氏と佐土原氏は敵味方に分かれました。結果的に佐土原氏が味方した足利直義が敗れ・・・佐土原氏が勝手に領有していた伊東の地は、室町幕府に召し上げられてしまいました。この時に、伊東氏は本貫地である伊東を一度失いました。

伊東氏が伊東に復帰・・・?

鎌田城自体の歴史はサッパリなので、もはや伊東氏と伊東の歴史で熱くなってます。伊東に他にそれらしいお城が見当たらないので、多分ここだとは思いますがあせる

伊東の地を失った伊東氏ですが、一部は駿河にいたようです。南北朝時代は南朝方として、安倍城付近に居たのだとか。安倍城辺りで色々調べた時には、伊東氏の「イ」の字も出て来ませんでしたけど。

この当時は、1336年に駿河守護となった今川氏に対し、南朝方の工藤一族が抵抗。
駿河の支配権を巡って争っていました。その中心となっていたのが狩野貞長で、内牧城や安倍城に立て籠もりました。狩野貞長を支えていたのが中野掃部介や入江駿河守などでしたが・・・

ここに伊東祐茂も居たようですが、ググって出て来るサイトが1つなので半信半疑です。そのサイト様のお話を信じるとして、駿河の手越河原での戦で今川軍が大勝利を納めます。その後の経緯は不明ですが、やがて狩野貞長らは今川範国に従うようになったそうです。今川家に仕えた伊東氏は、やがて伊豆(沼津市西浦の辺り)に領地を与えられました。

1476年、今川義忠が討死すると、今川家庶流の小鹿範満が今川家の実権を握りました。小鹿範満の活動はよくわかっていないようですが・・・現存する文書は、伊東祐遠の忠勤を称える文書2通のみだそうです。その小鹿範満を甥の龍王丸(=今川氏親)支援のため駿河に戻った伊勢新九郎が討ちました。伊東祐遠は、必然的に伊勢新九郎とは敵対関係になったと思われます。

伊勢新九郎は1493年、伊豆へ侵攻して堀越御所の茶々丸を追放しました。この時に工藤一族の宇佐美定興が討死しています。工藤一族は茶々丸を支持しており、伊豆支配に乗り出した伊勢新九郎に抵抗しました。伊東祐遠・伊東祐実も、当初は工藤一族の長・狩野道一に味方したと思われます。

しかし、経緯は不明ながら、狩野道一は1495年に伊東氏を攻めています。そして、狩野道一が降伏した後、伊勢新九郎から伊東七郷のうち本郷村を与えられています。以後、伊東氏は後北条氏の家臣となりました。・・・伊勢新九郎は別名・北条早雲で、後北条氏の祖です。余りに有名ですが、いちおう念のためw宇佐美城を調べた時は、伊東の地でに伊東氏が居たものと思っていましたが・・・あせる

その後の北条家臣・伊東氏

伊東祐実は相模の大族・三浦氏討伐に活躍。

伊東祐貞は北条氏綱に縫殿助に任じられました。・・・「縫殿助」って何でしょ?wwwまぁ、きっと何かの役職ですね

伊東祐尚は第二次国府台合戦で活躍しました。

伊東政世は北条氏政から一字与えられました。下総に領地を持っていたようです。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、小田原城の西北の曲輪を守っていたそうです。北西の曲輪って、御前曲輪でしょうか?小峰の三重の大堀切の辺りだとすると、最前線ですね!

子の伊東時吉は徳川幕府に仕え、300石の旗本として存続したそうです。

鎌田城は?

戦国時代には朝倉政元が居たようで、現在見られる遺構はこの頃のものだそうです。朝倉政元は越前朝倉氏の一族で、1573年に織田信長に滅ぼされて後北条氏に仕えたようです。伊豆衆として鎌田城を与えられ、1590年に後北条氏が滅ぼされてからは豊臣秀次に仕えました。1595年に豊臣秀次滅亡後は浪人したものの、その後徳川家康に召し出され旗本となりました。

・・・ということは、1590年に廃城でしょうかw


所在地:静岡県伊東市鎌田

静岡県の城跡/なぽのホームページを表示

宇佐美城/静岡県伊東市

宇佐美城は海岸近くの小さな丘に築かれていました。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】宇佐美城

この日最初に訪ねたのが宇佐美城でした。夜明け前に着いてしまい、空が明るくなるのを待って登城しました。城跡近くにはバイクを停める所が無かったので、海沿いの無料駐車場に停めました。空がだんだん明るくなった頃合いに、海側から撮ったのがこの写真です。この時には気づいていませんでしたが、黄色く囲んだ所に城址碑が見えています。

【写2】宇佐美城

上の写真で小さく写っていた城址碑です。先に目に付いたのは、左側の「宇佐美城山駐車場」の看板ですが。なんか石碑あるなと思って見たら「宇佐美祐茂壘趾」と彫られています。

【写3】宇佐美城

駐車場は1つの平面ではなく、3段あったと記憶しています。・・・1年8か月ちょい前の事なので、ちょっとうる覚えですあせるなんとなくですが、高低差をつけた曲輪跡がそのまま駐車場になっているように見えました。その一番奥がここです。なんとなく登って来たのですが、山中に入る道を見つけました。小さな単独丘で山中に入るのですから、通じているのはその頂上だとピンと来ました。

【写4】宇佐美城

定期的に人が通っているようで、道の部分だけ草がありません。

【写5】宇佐美城

一度折れて登り切ると、かなり広い平地に出ました。一番高い所なので、ここが城跡のようです。土塁や堀、虎口といったものは明確には見当たらず、ただの丸い平地になっています。ここはかつて大学の寮があったそうで、その建設の時に破壊されてしまったようです。

【写6】宇佐美城

北側にはアスファルトで舗装された出入口があります。地図にうっすらと描かれている道だと思われます。めんどくさくてこちら側は通らなかったのであせる来る前はこの道から登ると思っていたのですけどねw

【写7】宇佐美城

城跡から見た相模湾です。かつてはもっと見晴らしが良かったと思われます。もしかしたら水軍の基地があったのかもしれませんね。


◆歴史◆

宇佐美氏のお城でした。

宇佐美氏は工藤一族で、伊東氏から派生しました。祖は伊東祐継の三男・宇佐美祐茂で、源平合戦の頃の人物です。どんな関係なのか調べていたらだんだんとややこしくなり・・・文章で読んでもサッパリなので、図にしてみました。

【図】伊東氏と宇佐美氏のつながり
文章で理解しろという方が無理な位にグチャグチャですwww・・・ということで、宇佐美氏の祖・祐茂が小っちゃくなっちゃいましたあせる

伊東氏は伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっています。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となっています。宇佐美祐茂は1180年の石橋山合戦から源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられています。

室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従っていました。上杉憲顕は後に初代関東管領となり、越後・上野・武蔵・安房の守護となります。この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出します。

宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようです。

伊勢新九郎(=北条早雲)は1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出しました。この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承があります。追放された茶々丸は失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従いました。工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っていました。しかし、1495年には伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落しました。この間の宇佐美氏の動向は不明ですが・・・宇佐美城近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代までしか無いそうです。見てないんですけどねあせるそのため、この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われます。

後北条氏時代の宇佐美城

主を失った宇佐美城ですが、その後も城番が置かれていたようです。城跡に大学の寮が築かれるまでは、堀や土塁などが良好に残っていたそうです。それがどんなものだったのかは?ですが・・・そんな説があるのですから、戦国時代っぽかったのかもしれませんあせる


所在地:静岡県伊東市宇佐美

静岡県の城跡/なぽのホームページを表示

狩野城/静岡県伊豆市

##狩野城は狩野川と柿木川の合流点脇にあった山城です。
訪問日は2014年3月21日です。

【写1】狩野城

東を走る国道脇に、こんな立派な看板があります。これなら迷い、、、ませんよね?w

【写2】狩野城

看板の矢印に従って走ると、お城専用の駐車場があります。停める所に苦労しないって、本当に助かります合格この駐車場脇に、説明板と年表があります。年表はかな~り長いですが、直接関係無い事も沢山書かれています。・・・あまり他人事に思えませんがあせるあせるあせる

【写3】狩野城
拡大表示

一番奥にある案内図です。もちろんパクります!駐車場が城跡の北側にあるので、案内図は南北が逆になっています。東に狩野川、北に柿木川がありますが、この図では南側に川が描かれています。お城は東南北を天然の堀に囲まれた要塞だったんですね!

【写4】狩野城

上の図を見ながら「どっちが楽かな?」で右(西側)のルートから登りました。登り切った所がちょっとした広場になっていて、その先にこの堀切があります。

【写5】狩野城

さらにその先には二重堀があります。狩野城は北条早雲に攻められていますが、その時代からあったのでしょうか?駐車場脇にあった長~い年表を見直してみますが、やはり城としてはそこまでのようです。戦国時代後期のような造りに見えますけど・・・

【写6】狩野城

厳重な堀を越えた所にあるのが本郭です。かなり大規模なお城ですが、思わず「えっ?」と言いたくなる位に本郭は狭いです。道側に低い土塁があるだけで、本郭周辺の造りも特に凝った感じではありません。深~い堀切以外は、やっぱり古い感じの造りになっています。

【写7】狩野城

本郭からさらに東へ進むと、また堀切が現れます。本郭自体はそんなに凝っていませんが、両側をガッツリ堀切で断ち切っています。

【写8】狩野城

その先にある中郭です。こちらの方が広くて「メインの曲輪は中郭じゃね?」なんて思いました。本郭は城主様の居場所で、中郭は大勢人が集まる場所だったのでしょうか。何かの小屋があり、その脇には真っ二つに割れた説明板が立て掛けてありました。

【写9】狩野城

小屋の前から見た中郭です。写真がアレで分かりづらいですが本郭の5倍位の広さがあり、高い土塁もあります。

【写10】狩野城

中郭の東側にも、こんな感じのカッチョイイ堀切があります。虎口っぽいのは見られなかったので、やっぱり古い時代の造りのようです。時代を追って見ると、山城がどんな風に発展したのかわかるかもしれませんね。


◆歴史◆

狩野氏の本拠でした。

駐車場脇にあった年表をもとにしてみました。

狩野氏は藤原南家の系統で、藤原為憲を祖とします。
藤原為憲は平安時代の人物で、940年の承平天慶の乱で藤原純友とともに活躍しました。この時の功により従五位下木工助に叙任され、工藤姓を名乗るようになりました。

1050年頃には工藤維景が狩野郷に住み、狩野姓を名乗るようになります。

このほか、工藤氏からは伊東氏や宇佐美氏なども派生しています。狩野城を築いたのは1100年頃で、築城者は工藤維次と考えられています。

1180年、狩野介が自害しました。

平安時代末頃、狩野介の工藤茂光は伊豆国の武士を束ねる棟梁でした。当時、伊豆には平家に敗れて流罪となった源頼朝が居ました。源頼朝は常に平家方の武士が見張っていました・・・が!

1180年、源頼朝は工藤茂光・親光父子を従え挙兵し、石橋山で平家方と合戦となりました。この時に大庭景親・伊東祐親らに敗れ、工藤茂光は自害しました。子の工藤親光も源頼朝に従いましたが、1189年の奥州征伐で戦死しています。・・・が、工藤氏(狩野氏)は続きます。

最後の城主は狩野道一です。

1493年、伊勢新九郎が堀越御所を襲って茶々丸を追放しました。これを機に伊勢新九郎は韮山城へ移り、伊豆支配に乗り出しました。狩野道一は茶々丸に従っており、伊勢新九郎に抵抗しました。工藤一族の結束も伊勢新九郎により切り崩され、狩野道一は劣勢を強いられます。

1496年に伊勢軍により狩野城は包囲されましたが、この時は撃退したようです。しかし、1497年12月にはついに降伏し、狩野城は開城されました。その後の狩野道一の消息は不明ですが、一族は小田原に移されて戦国時代まで続きました。

これ以降、狩野城は歴史には登場しなくなります。


所在地:静岡県伊豆市本柿木

静岡県の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR