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入江野城/栃木県那須烏山市

入江野城も、佐久山氏の城でした。
訪問日は2023年2月4日です。

入江野城【写真位置】
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入江野城は、滅ぼされた佐久山氏により築かれました。
そのせいか、那須一族の城にしては小ぶりです。
というのも、築城は滅ぼされた後だからです。
諸兄の登城記では、尾根先端部から直登で紹介されます。
でも、私は登城ルートにこだわってみました。
食糧を運んだり重い具足を着けてそんな事出来ませんからね。
地形的には回り込む感じだと思い、東隣の尾根へ。
すると、山道がありました^^
ただ、それは途中まで。
そこから先は、いつも通り藪を掻き分けることに。
狙い通り堀切が見つかり、その先に曲輪がありました。
肉眼では遺構がよく見えましたが・・・
どうにも写真だとただの藪にしか見えず。
そんな感じの登城記となりました。
入江野城【1】
【1】入江野観音堂に駐車 上に戻る

車は近くにある入江野観音堂に停められます。
観音様は南北朝時代の作品だと書かれていました。
お堂の脇は、湧き水を汲めるようになっています。
お水をポリタンク一杯に持ち帰る方もいました。
入江野城【2】
【2】ココを曲がる 上に戻る

観音堂から城跡へ。
城跡は写真右側の高い所です。
その麓に数軒の家が並んでいます。
さながら根小屋という感じです。
私が登った山道は、ココを入った所にあります。
入江野城【3】
【3】ココから山道へ 上に戻る

ここから登られた諸兄は皆無。
私も確証があって来た訳ではありません。
最初はこのまま奥まで進んで袋小路に。
で、戻りかけでココが気になり登ってみました。
結果的にはこれが正解でした。
入江野城【4】
【4】山道 上に戻る

入口は「道?」という感じでした。
最初のカーブを曲がると、山道がありました。
ただ、ちょっとだけ藪っぽいです。
この写真の場所は、かなりライトな所です。
それでも、人が全く通らないという感じでなありません。
入江野城【5】
【5】山道 上に戻る

坂が緩くなり始めた所でこんな所が。
これはヒトの手が加わった感じがします。
もしかしたら門があったのかもしれません(*´ω`*)
入江野城【6】
【6】藪の尾根へ 上に戻る

道はそのまま奥に続きます。
しかし、城跡からは遠ざかって行きます。
GPSで位置を確認すると尾根が。
最初は目視で突撃しましたが、違う方向でした。
違和感があったので元の場所にバック。
GPS見ながら、少しだけこんもりした所を進みました。
城跡は尾根の先端ですから!
入江野城【7】
【7】大堀切 上に戻る

尾根の背中を進むと、藪の中に現れました!
走り幅跳びでは越えられない大きな堀切様が。
無駄に思える無駄足が無駄にならずに済みました^^
下りる道を探しましたが、そんなものは無し。
ここを下りて登るのは、直登と大して変わりません(・_・;)
具足で米俵担いでたらチョット無理ですね。
入江野城【8】
【8】堀切 上に戻る

1つ目の堀切を越えてすぐにまた堀切が。
今度は少し小ぶりなものの、やはり跳び越えられず。
人とは違うルートで辿り着いた!
・・・なんて、風変わりな感動を味わいました。
入江野城【9】
【9】横から見た堀切 上に戻る

上からじゃ伝わらないので横顔も。
堀切様が美しいのは、やはり横からです。
※個人の感想です
入江野城【10】
【10】土橋 上に戻る

2つ目の堀切の先は土橋があります。
堀切と違って、わざわざ土を盛った感じがします。
上がったり下がったりの先の細道。
厳重に守りを固めた感じがします。
入江野城【11】
【11】主郭 上に戻る

土橋の先が主郭です。
背後から着いたので、大手ではなかったようです。
でも直登じゃないし。
堀切はノーカウントです。
※個人的な考え方です
入江野城【12】
【12】三郭 上に戻る

城内の構造は、某大御所様の図の通りです。
図が無ければ、どっちに進んだら良いのやら。
それ程までに、城内は笹の藪天国です。
ココがアレなのかと、パチリパチリ撮りました。
でも、時間が経つと、全部ただの藪にしか見えず。
やはり絵は偉大です。
入江野城【13】
【13】東側の尾根へ 上に戻る

主要部の輪郭を辿った後、皆様が登って来る尾根へ。
主郭の東側に、それとなく下りられそうなコレが見えます。
肉眼ではココまでハッキリ見えません。
何となく斜面が緩そうな直線に見えるだけです。
入江野城【14】
【14】尾根は続く 上に戻る

違ってたら登り直すのがメンドイ・・・
なんて、いつものグウタラが顔を覗かせます。
でも、黒なぽはそんなのお構い無しで体を押します。
黒羽城では猛烈な竹藪を歩かされました。
そこまでの竹藪ではないのですが、こんなです。
アレを乗り越えると、これが容易く思えてしまいます。
入江野城【15】
【15】堀切 上に戻る

サイドに細長い平場を従えた尾根が続きます。
そして視界が明るくなって来たら、足元に窪みが。
ここに小さな堀切があります。
こちらからの侵攻も想定しているんですね!
足場が狭いので、小さな堀切でも効果アリです。
入江野城【16】
【16】尾根先端 上に戻る

尾根の最先端です。
それまでほぼ水平だったのが急斜面に。
おそらく、先端部を崩して切岸にしたのでしょう。
下り切った先は、ガッツリ民家の庭です。
途中の祠まででも、下りるのは結構大変でした。


◆歴史◆
1563年、佐久山氏が滅ぼされました

佐久山氏は、那須十氏の1つです。
那須氏初代の次男を祖とする一族です。
戦国時代の佐久山義隆は、勇将として名を馳せました。
那須家中の重鎮・大田原資清の娘を娶っていました。
しかし、義理の父は彼の武勇を内心恐れていたようです。
死に臨み、義父は佐久山義隆を滅ぼすよう遺言します。
大田原資清の没後、那須家では家督争いがありました。
その結果、上那須家は滅亡します。
この騒動を経て、大田原三兄弟が家中を牛耳ります。
年代的には落ち着きを取り戻した頃と思われます。
1563年5月21日、佐久山義隆はうずら狩りに誘われました。
そこで、大田原兄弟の手により謀殺されます。
佐久山氏の本拠・佐久山城は、福原資孝に攻め落とされました。
福原資孝は、大田原三兄弟の次男です。
難を逃れた佐久山泰秀が、この地に城を築きました。
佐久山義隆との続柄はわかりません。
ここで入江姓に改姓します。
佐久山城からは遠く南に離れています。
地理的に、塩谷氏を頼ったのではないかと思います。

1586年、那須資晴に滅ぼされました
年代的には『薄葉ヶ原の戦い』の翌年です。
この戦で、那須資晴は宇都宮・塩谷連合軍を破っています。
以後、那須資晴は宇都宮領へ侵攻し勢力を拡大しています。
入江氏が頼ったと思われる塩谷氏も当時は分裂していました。
嫡流の塩谷義綱が宇都宮方、叔父の塩谷孝信が那須方です。
状況的に、入江氏は塩谷義綱に従っていたかもしれません。
佐久山氏、入江氏は滅ぼされたため、歴史がサッパリわからず。
当時の城主・入江泰清についての何もわかりませんでした。
城はそのまま廃城となっています。


所在地:栃木県那須烏山市三箇 GPS軌跡ダウンロードページ
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佐久山城/栃木県大田原市

佐久山城は、公園になっています。
訪問日は2022年5月4日です。

佐久山城【写真位置】大きな地図を表示
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城跡は御殿山公園になっています。
登城路は北東側から公園内を通ります。
園路に従って進むと、大きな広場があります。
ここが二郭で、奥に稲荷神社があります。
二郭は、両側を細長い曲輪で挟まれています。
西側の曲輪の先端には虎口があり下に通じています。
西側には、すぐ下に広い畑があります。
こっちからだと要害性ゼロだと感じましたが・・・
等高線を見ると、その北側で閉じています。
おそらくこの畑も曲輪だったと思われます。
二郭付け根から南に、もう一段高い所があります。
そこが佐久山城の主郭です。
現状はダリア圓ですが、放置されています。
主郭南側には横堀があります。
東側にも細長い曲輪があり、横堀があります。
これらの横堀は整備されておらず、藪気分を味わえます。
東側はそのまま、高低差無く市営住宅に通じています。
公園化されていますが、城の地形はよく残っています。
佐久山城【1】
【1】佐久山ほほえみセンター 上に戻る

御殿山公園の駐車場です。
佐久山ほほえみセンターありますが。
普段はガラガラのようです。
訪問した日は隣接する小学校に人だかりが。
GW真っ最中なので、おそらく体育祭かと。
ココから登城スタート!
佐久山城【2】
【2】御殿山公園の入口 上に戻る

現代の登城口はココです。
御殿山公園として整備されています。
ココだけ見ると遺構が残ってるか心配に。
公園の案内図は公園そのものです。
佐久山城【3】
【3】奥へ進みます 上に戻る

曲輪のあった尾根に挟まれた谷戸です。
谷戸は尾根に挟まれているため水が豊か。
現状でも菖蒲園になっています。
往時は堀代わりだったかもしれません。
駐車場には土砂災害警戒区域の図がありました。
そこでは二郭先端から北側は急斜面です。
湿地と急斜面で城をガードしたようです。
佐久山城【4】
【4】帯曲輪 上に戻る

公園を奥へ進むと階段があります。
斜面の上に架けられていて梯子のよう。
元々はここから登るのではない様子です。
その階段を登ると、途中に細長い段が。
二郭に沿ってある帯曲輪のようです。
とりあえずこちらから見ることに。
佐久山城【5】
【5】二郭先端の真下 上に戻る

帯曲輪はそのまま二郭先端へ。
見上げるとこんな感じです。
ちゃんと斜面を削って切岸にしてます。
石垣はいかにも現代的ですが。
視線を右に移すと、腰曲輪があります。
こちら側からはそれで行き止まりに見えました。
佐久山城【6】
【6】主郭と二郭の間 上に戻る

帯曲輪を付け根まで戻りました。
ココは二郭と主郭を隔てる堀切があります。
堀切なのですが、こちらと向こう側を繋ぐ道でも。
役割的にはそっちの切通といった感じです。
城内各所に通じる要衝デス。
佐久山城【7】
【7】二郭 上に戻る

上の所から回れやや右した所です。
細長い広大な平地があります。
ココが二郭です。
左側(西側)に高い土塁が聳えます。
佐久山城【8】
【8】稲荷神社 上に戻る

二郭先端には稲荷神社があります。
普段見るのと違って鳥居が朱であありません。
キツネ様のお姿も見当たらず・・・
鳥居の額が無ければそれとわからず。
まぁでも、神様は見た目じゃありませんからね。
たぶん。
佐久山城【9】
【9】二郭先端の下 上に戻る

下を見ると、さっきの帯曲輪の先端が見えます。
行き止まりに見えた腰曲輪に通じてそうな感じです。
佐久山城【10】
【10】二郭西側の曲輪 上に戻る

二郭は西側にも曲輪があります。
こちらはかなり幅が広いです。
私的には三郭と呼びたいくらいに。
右上の二郭とは土塁と切岸で隔てられています。
二郭の土塁は、ココにあった土を上げたものかも。
佐久山城【11】
【11】その西側 上に戻る

すぐ外側には、もう一段低い平坦地があります。
こちら側との高低差はあまり無し。
尾根先端に築き、急斜面と湿地帯で防御してたハズが・・・
こんなに近いと、ココから城内に侵入されそうです。
現地ではそう思いました。
等高線付の地図を見ると、違う考えが浮かびました。
この平坦地の北側が、両側から伸びた尾根で閉じています。
まるで、超巨大枡形のような地形になっているのでした。
佐久山城【12】
【12】虎口 上に戻る

二郭西側の曲輪の先端には土塁があります。
しかも両側から土が迫り、進路を限定。
どう見ても虎口です。
奥まで進むと、下に通じる道がありました。
往時の大手口はココでしょうか。
江戸時代には真下の小学校が陣屋でしたし。
佐久山城【13】
【13】主郭の下 上に戻る

二郭との間から段差を上がると階段が。
ここはちょっとした腰曲輪のようです。
往時は塀で囲んだ虎口だったのかもですが。
見た感じ、階段自体後付けっぽいです。
佐久山城【14】
【14】主郭 上に戻る

手入れがされていない花園でした。
それでも生き残って花を咲かせてるものも。
これから夏になると、みっしりしそうです。
佐久山城【15】
【15】主郭からの眺め 上に戻る

まぁでもまだ春だし。
草丈が低いので視界が利きます。
城内を一望!という感じのアングルです。
二郭はとても良く見えます。
眺めは二郭先端の方が良かったかも。
木を伐ればですが。
佐久山城【16】
【16】主郭の南側 上に戻る

視線を回れ右すると、眼下に横堀が。
ちょっと野生っぽいですが・・・
まだ春だし大丈夫でしょ!
こういう決断だけは無駄に速いです。
佐久山城【17】
【17】主郭南側の横堀 上に戻る

上から見えた横堀を見て来ました。
せっかくですので(*´ω`*)
上から見た程の藪ではありませんでした。
寒いのは嫌いですが、藪が薄いのは助かります。
佐久山城【18】
【18】主郭東側に伸びる横堀 上に戻る

横堀は、主郭の東側にも続いていました。
ちょっと土がこんもりしている脇にです。
このこんもりは尾根のようです。
木々が茂っていたので登りませんでしたが。
上がりませんでしたが、横には進みました。
佐久山城【19】
【19】堀切 上に戻る

横堀で藪を掻き分け進むと現れました。
こちら側の尾根を断ち切る堀切です。
でも、両サイドに横堀がある時点で・・・
機能してませんよね?
ダラダラ続く曲輪を切っただけかもですが。
佐久山城【20】
【20】市営住宅へ続く道 上に戻る

藪の横堀を進み堀切を過ぎると道が。
右側を見ると、住宅が並んでいました。
こっちからだと高低差無しで入れるんですネ・・・
もしかしたらこっちにも曲輪があったのかも。


◆歴史◆

1187年、佐久山泰隆により築かれました

佐久山泰隆は、那須氏初代・那須資隆の次男です。
源平合戦の時は平家方でした。
親と兄弟の上から9人までがそうでした。
でも、十一男の那須与一が屋島の戦で大活躍。
戦後、那須家の家督を継ぎました。
すると、兄たちも赦され各地に分知されました。
平家滅亡が1185年なので、もう少し後かと思いましたが。
1187年は源頼朝が奥州藤原家討伐直前です。
10月に藤原秀衡が没し、きな臭さが増した時期です。

1563年、廃城になりました

当時の城主は佐久山義隆です。
勇将として知られ、大田原資清の娘を娶っていました。
しかし、義父がその武勇を恐れ・・・
娘婿を討つよう遺言を残して世を去りました。
子の大関高増らはその遺言を実行。
うずら狩りに誘い出し、謀殺しました。
城は大田原資清の次男・福原資孝が攻め落としました。
福原資孝は佐久山氏の領地を併呑。
佐久山城を廃城としました。
佐久山義隆の妻は出家し、夫と娘の菩提を弔いました。
続柄不明の佐久山泰秀は難を逃れ、入江野城に移りました。
しかし、そちらも1586年に那須資晴に滅ぼされています。

1702年、福原資倍が陣屋を築きました

福原氏は佐久山城を廃した後、御古屋敷館を築きました。
江戸時代には旗本として存続しています。
1702年、福原資倍が佐久山城跡に陣屋を構築。
佐久山小学校がその陣屋跡です。
以後、城下町の機能を併せ持った宿場となりました。


所在地:栃木県大田原市佐久山 GPS軌跡ダウンロードページ
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大田原城/栃木県大田原市

大田原城は、明治まで続いた大田原氏の居城です。
訪問日は2022年5月4日です。

大田原城【写真位置】大きな地図を表示
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蛇尾川西岸の独立丘陵にあったのが大田原城です。
丸々ひとつの丘を城にしています。
周りは市街地となり、城内も公園になっています。
それでも色々と城らしさが残っています。
とにかく規模の大きな城跡です♪
大田原城【1】
【1】西曲輪 上に戻る

城跡の大きな道沿いに広い駐車場があります。
街中の城跡なので、とてもありがたいです。
というここも、実は城跡です。
城の西側を南北に走る道は堀跡。
その内側の広い駐車場が西曲輪の跡です。
大田原城【2】
【2】北曲輪の入口 図を表示 上に戻る

西曲輪跡の駐車場から上がった所です。
切岸下を道が横切り、正面が入口っぽくなっています。
構造を知らずに見ると、ここから入るように見えます。
しかし、ここを進んだ所にあるのは北曲輪です。
大田原城【3】
【3】北曲輪(上の段) 上に戻る

北曲輪の上の段は公園になってます。
堀底かと思わせるように、外側は土塁が囲んでいます。
私的にはココが二の丸じゃねぇかと思う位です。
大田原城【4】
【4】北曲輪(下の段) 上に戻る

北側にある曲輪の下の段です。
畑になっています。
畑なので入れないのかと諦め掛けていました。
北への橋に通じる通路にだけは入れました。
下の段とはいえ、とても広いです。
大田原城【5】
【5】北側の堀切 上に戻る

北曲輪の北側は東西の道になっています。
上に橋が架かっています。
これはどう見ても堀切です。
しかもとんでもない規模(*´▽`*)
切岸も鋭く登れません。
城の構造には一々意味がありますネ^^
大田原城【6】
【6】東側の横堀 上に戻る

本丸の東側の下です。
急傾斜な切岸の下に細い通路になっています。
左側の下も急傾斜で、川が流れています。
ということは、こっち側はここしか通れません。
それを上から狙い撃ちに出来るという訳デスネ。
大田原城【7】
【7】南側の堀切 上に戻る

本丸南側の堀切です。
ブッツリと断ち切っています。
独立丘陵をぶった斬っています。
これが無ければ普通にまっすぐ繋がっていました。
本丸入口を固めるため、敢えて断ち切ったようです。
大田原城【8】
【8】二の丸 上に戻る

本丸の南側からぐるっと曲がって西側へ。
その通り道にあるのが二の丸です。
サブの曲輪というよりも、大きな枡形の一部のようです。
ここよりも二の丸っぽいのが北にありますが・・・
間違っても政所や居館は無さそうな雰囲気です。
往時から二の丸と呼ばれていたのでしょうか。
大田原城【9】
【9】二の丸の土塁 上に戻る

二ノ丸の外周です。
ほんの少しだけ土が盛られています。
見た感じ、往時はこの3倍は幅がありそうです。
少しだけ残したのは公園化の際でしょうか。
おそらく転落防止のためフェンスでも張ったのかも。
その辺は今も昔も変わらないのかも。
大田原城【10】
【10】稲荷曲輪 上に戻る

南側の出っ張りの上です。
ただの細尾根ではなく、削平された空間があります。
図ではここは稲荷曲輪と書かれています。
西側に下りる山道があります。
三ノ丸から上がってくる道です。
搦手のような位置づけでしょうか。
大田原城【11】
【11】本丸 上に戻る

写真で見ると、ただの広場にしか見えません。
でも、それ位の規模があるという事でもあります。
木々で見えませんが、高い土塁で囲まれています。
平地にしか見えませんが、独立丘陵の上です。
よくもまぁ、こんなデケェ空間をこさえたものです!
大田原城【12】
【12】本丸西側の切岸 上に戻る

本丸を囲む高土塁の外側です。
かなりの急角度です。
下に広い帯曲輪があり、元はその外側に繋がってそうです。
こうして見ると、かなりしっかり削っています。
こんな角度は、壁チョロな私でも登れません。
大田原城【13】
【13】大手門 上に戻る

本丸北側の虎口が大手門です。
枡形と坂のダブルですね!
この傾斜、走って登るのは超キツイです。
しかも、両脇をイイ高さの土塁で囲んでいます。
市街地の真ん中にありながら、守りの固いお城です。
大田原城【14】
【14】大手門脇の土塁 上に戻る

というか、本丸はこんな高さの土塁に囲まれています。
元々の地形が想像出来ませんが、かなり掘ってますね!
掘り返した土木量は相当なものだった筈です。
大田原城【15】
【15】帯曲輪? 説明板 上に戻る

坂下門から二の丸へと続く道です。
右側にはまだ平坦面が続いています。
こう見えて結構幅は広いです。
作事場の続きかもしれません。
左上に見えるちょっとした段が横堀のようです。
ここは敵を留めて上から狙い撃ちにする場所かもしれません。
大田原城【16】
【16】坂下門跡 上に戻る

右がクネっと直角に曲がっています。
そして、外側には土の壁が。
もしかしても何も、どう見ても枡形虎口です。
案の定、足元に「坂下門」の石碑がありました。
周りが市街地化しても、こうして痕跡が見られます。
流石にココを壊して家を建てる人は居ませんでしたか。
大田原城【17】
【17】三日月堀 上に戻る

と呼んではいます。
でも、往時はずっとつながっていました。
周りが埋められ、残ったのが三日月形というだけです。
でも、こうして一部分だけでも残ったのが貴重!
葉っぱが無ければもうちょっとよく見えますが。
訪ねる季節がちょっとだけ遅かったかもです。


◆歴史◆

1545年、大田原資清により築かれました

大田原氏は那須七騎の一家です。
武蔵七党の一つ・丹党阿保氏の後裔とされます。
室町時代初期に大俵康清が下野に下向。
水口館を拠点とし、那須氏に仕官したとされます。
大田原資清はその5代子孫です。
1518年、大関宗増の讒言により失脚。
出家し越前国永平寺に潜んだとされます。
24年後の1542年、大関宗増の嫡男・大関増次を奇襲。
自らの長男・高増を大関宗増の養嗣子とさせました。
さらには福原氏にも次男・資孝を送り込みます。
この頃に大俵資清は姓を「大田原」に改めました。
那須七騎の内、三家を兄弟で占めるようになります。
以後、那須家中で絶大な権力を振るいます。

1590年、孫の大田原晴清が小田原征伐に参陣。
7100石の領地を安堵されました。
1600年、関ヶ原の戦では上杉軍に備える最前線となります。
戦後、功により800石加増。
更に改易された相馬氏の城を守備した功で4500石加増。
1万2400石の大名となります。
大田原氏は移封が無く、明治まで大田原藩主として続きます。

1871年、廃藩置県により廃城となりました

戊辰戦争で、大田原藩は新政府軍に味方しました。
そのため1868年、会津藩の攻撃を受け大田原城が焼失しました。
火薬庫の爆発により落城は免れたと、説明板にあります。
落城はしなかったんですね!
翌年の版籍奉還後、藩主は住居を移しています。
それでも藩庁は大田原城だったようです。
1871年4月、廃藩置県により大田原藩は大田原県となります。
この年に廃城なので、県庁は別の所かと思いましたが・・・
『栃木県史』によれば「本庁那須郡大田原旧郭内ニアリ」です。
県庁なので、お城ではなくなったという事でしょうか。
同年11月、大田原県は宇都宮県に統合されました。
機能を失ったのはこの時かもしれません。


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佐久山舘要害/栃木県大田原市

佐久山舘要害は、高舘城のすぐ奥にありました。
訪問日は2022年5月4日です。

佐久山舘要害【写真位置】大きな地図を表示
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登城口は高舘城の駐車場からすぐの所です。
あまりに近いので「別の城?」という感じです。
構造もよく似ているので、城としては1つだったのかも。
登城口からの尾根は、平らに均されています。
数段低い段差が続き、大きく右に曲がった所が主郭です。
主郭は円形でとても広いです。
主郭の南側は横堀に囲まれています。
北東側にも細長い曲輪があります。
高舘城と似ていますが、ここも横堀があります。
横堀がある分、高舘城より後の年代の城のようです。
とは言え、複雑な土塁や虎口などはありません。
佐久山舘要害【1】
【1】登城口 上に戻る

高舘城の駐車場から林道を奥へ。
すると、道端にお地蔵様があります。
その脇のこんもりした所が登城口です。
実はこれ、尾根の先端です。
これがどんどん高くなってくんです。
そんな風には見えませんよね?
佐久山舘要害【2】
【2】平坦地 上に戻る

でも、少し登っただけでコレだけ広くなります。
そして、不自然なくらい平らです。
おそらく曲輪と思われます。
これはかなり大きな方です。
ここから小さな曲輪が続きます。
佐久山舘要害【3】
【3】尾根 上に戻る

尾根はこんな風に小さな段を繰り返します。
ここはただの段ではなく、少しひねっています。
虎口だったのでしょうか?
佐久山舘要害【4】
【4】段差の下の窪み 上に戻る

上の写真の段差の付け根です。
少し窪んでいます。
自然地形でこれはあり得ません。
段差の手前を掘っています。
やはりここは虎口だったようです。
佐久山舘要害【5】
【5】三郭基部の堀切 上に戻る

尾根は少しずつ高さを増して行きます。
某大御所様の図では、たしか左に三郭が・・・
と思いながら見ていると、下に堀切が見えました。
三郭へと続く尾根をでブッツリ断ち切っています。
佐久山舘要害【6】
【6】主郭 上に戻る

三郭の堀切を過ぎると平坦地は右へカーブ。
なんの変哲も無い光景だったので、二郭の写真が・・・
主郭は少しの段差の上にある、大きな円い曲輪です。
何も知らずに写真だけ見るとただの杉林ですが┐(´д`)┌
佐久山舘要害【7】
【7】主郭の横堀 上に戻る

進行方向突き当りの下には横堀が。
方角的には二郭と主郭の南側です。
主郭の下は草が無く、とてもよく見えます。
佐久山舘要害【8】
【8】主郭の横堀(奥) 上に戻る

横堀があるとどこまでも辿りたくなります。
黒羽城では竹藪を潜って進みましたし。
ココでも下草が濃くなっても進みました。
主郭の南西まで進んだ所で堀は途切れました。
等高線を見ると西側は線が込んでいます。
南側と東側に備えたようです。
佐久山舘要害【9】
【9】三郭基部 上に戻る

横堀をそのまま進み、三郭方向へ。
二郭に沿って道が曲がって行きます。
・・・道、あったんですね(*´∀`*;)
右側の少し高い所が三郭です。
段差はありますが、高くはありません。
佐久山舘要害【10】
【10】三郭基部の堀切 上に戻る

でも、真横から見たらこうなっています。
上から堀切に見えましたが、勘は当たっていました。
といっても、規模は中くらいの小です。
佐久山舘要害【11】
【11】三郭の横堀(基部) 上に戻る

三郭は細長く、その脇が道になっています。
その道端は、よく見ると土塁があります。
ということで、横堀ですね!
佐久山舘要害【12】
【12】三郭の横堀(奥) 上に戻る

三郭は木が伐採されていました。
ここだけです。
畑にでもするのでしょうか。
山では時々伐りっ放しをよく見ます。
無差別に伐っているので、切り拓くためでしょうか。
願わくば重機で荒されませんように。
佐久山舘要害【13】
【13】三郭 上に戻る

ということで、三郭上も伐られています。
よくみると、細かな幹が密生しています。
伐られていなければ、入れなかったかもです。
伐採万歳。
でも、形は崩さないデネ^^


◆歴史◆

不明です

大輪氏の城だったという説があります。
ただそう書かれているだけで詳細は不明。
この辺りに多い姓なので、ご先祖様と思われます。
ググって出て来るのが稲積神社の巴御前絵馬のみ。
奉納されたのは江戸時代でした。
地名が「大輪」なので、大輪姓の武士は居たでしょう。
高舘城のすぐ隣なので、那須氏の配下でしょうか。

ひとつ気になるのは名前です。
「佐久山」という名の城が別にあります。
これは、那須氏庶流・佐久山氏の城でした。
場所は少し離れており、同時には使っていなさそうです。
佐久山氏は那須氏初代・那須資隆の次男・泰隆を祖とします。
高舘城はその那須資隆が築いたとされる城です。
そのすぐそばにあるという事は・・・
城キチの妄想は膨らむばかりなのでした♪


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高舘城/栃木県大田原市

高舘城は、展望台のある山城です。
訪問日は2022年5月4日です。

高舘城【写真位置】大きな地図を表示
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7 8 9 10 動画

城跡まで舗装された林道が通っています。
その突き当りに駐車場があります。
城内は整備され、藪掻きは一切ナシ。
三郭を除いては、ですが。
削平をしただけの、古い形式のお城です。
高舘城【1】
【1】手前の駐車場 上に戻る

お、着いた(*'▽')
ナビアプリではもうちょい先っぽいけど。
まぁでも誤差みたいなもんでしょう!
なんて、ザル坊主は気楽なもんです。
なんだか立派な案内図もあるし♪
高舘城【2】
【2】神社 上に戻る

あ!堀切!なんて喜んでましたが・・・
実際そうだったのかもしれません。
もうちょっとしっかり見ておけば良かったデス。
よく見てないので、何神社なのかも?のままです。
一度バイクを降りたものの、城跡に上がる道が見つからず。
あれ?また早とちりか?とメットを被り直し。
林道を更に先へ進みました。
高舘城【3】
【3】突き当りの駐車場 上に戻る

そして、今度こそ林道の終点です。
駐車場もさっきよりずっと立派。
しかも、木陰に「高舘城跡」とあります。
もう一歩前に出せなかったでしょうか。
ちょうど木陰で目立ちませんし・・・
でも、それ位で城キチは見落としませン!
高舘城【4】
【4】登城口 上に戻る

で、どこから登る?
と、奥へ行くとこの道が。
ちゃんと案内もあります。
0.1KMって、すぐです(*´ω`*)
高舘城【5】
【5】堀切 上に戻る

すぐというのは、普通の人なら。
息を吸うように横道に反れるのが城キチ。
わざわざ整備された道を外れて我が道へ。
だって、何だか人の手が加わった感じが。
上がる道から右には帯曲輪っぽい地形が。
その先の段差の付け根がちょっと窪んでました^^
高舘城【6】
【6】三郭 上に戻る

この細長い平坦地が三郭です。
細い尾根に沿って帯曲輪に囲まれています。
百聞は一見に如かずということで。
ココにもこういう所があるんです。
高舘城【7】
【7】帯曲輪 上に戻る

だと思います。
駐車場の奥から二郭先端まで続いています。
幅がアレなので、車が通れるようにしたかもですが。
高舘城【8】
【8】主郭 上に戻る

東に伸びる三郭の藪を満喫後、道を上へ。
割とすぐに上の平らな場所に辿り着きます。
ここに大きな説明板と石碑が。
誰が何と言おうとも主郭です。
古い形式の山城なので、土塁や虎口などはありません。
高舘城【9】
【9】主郭から見た二郭 上に戻る

草が刈られているので見通しバッチリ。
尾根を少し下った所も平らになっています。
ココが二郭です。
主郭と二郭の間は、ただ緩い傾斜があるだけです。
何処から何処までがどっち?
それは100人いれば100通りの答えが出そうです。
高舘城【10】
【10】二郭にある展望台 上に戻る

主郭から少し下った所が二郭です。
その先端に「さぁここから眺めやがれ」があります。
よく見る展望台は木々に埋もれていますが・・・
ここのはちゃんと展望が利きます(*´ω`*)
【11】空撮動画 上に戻る

空が開けていたので飛びました。
当然デス(`^´)
木が伐採され、城の形がわかりやすそうだったので。
こうして見ると、麓は田んぼが多いです。
那須資隆がここを拠点とした理由の1つだそうです。
他にも馬や矢竹の調達に便利な地だったとか。
見晴らしもいいですし、ちゃんと理由があったんですね!


◆歴史◆

那須資隆により築かれたとされます

那須資隆は、那須氏初代です。
藤原道長の曾孫・藤原資家が下野国に下向。
土着して須藤氏と名乗り、その7代めに当たります。
須藤氏は源義朝に従い平治の乱で3代めと4代めが戦死。
以後平家に従い、源平合戦では源平両軍に分かれました。
那須資隆と9人の子は平家方に。
そのため、源頼朝に命じられた梶原景時に攻められました。

尚、十男と十一男の2人だけ源氏方でした。
家名を残すために二手に分かれたのでしょうが・・・
世間的には平家が圧勝するという見方だったんですね。
十男は源義経の命令に背いたため一時流罪に。
そのため、十一男の那須与一が家督を継ぎます。

河田氏の詰城だった説があります

河田氏(川田氏)は、那須資頼の六男・資成を祖とします。
那須資頼は初代・那須資隆の庶子とする説があります。
宇都宮朝綱からの養子とする説もあり定かではありません。
前者であれば、那須氏の2代から4代は兄弟ということに。
河田氏は、那珂川近くの居館を本拠としました。
高舘城からは北へ800メートルの所です。
川田館(こう表記されます)は痕跡も無いそうですが。
那須六家の1つと紹介されます。
「那須六家って何?」とググりますが・・・
明確に記したサイトが見つからず。
何となくですが、那須資頼の6人の子の家系を指すようです。
河田氏の他は那須氏、伊王野氏、備中那須氏、味岡氏、稲沢氏です。
ググっていると他に「那須七騎」や「那須十家」も出て来ます。
那須七騎は那須氏とその重臣。
那須十家は那須与一の10人の兄を指すようです。
どこにも明確にそうだと書かれた所はありませんが。
河田氏は『那須記』に1520年代まで登場するそうです。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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