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金ヶ沢城/栃木県鹿沼市

金ヶ沢城は、龍階城の西にあった山城です。
訪問日は2023年2月26日です。

金ヶ沢城【全体】
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今シーズンは、栃木の山城に入り浸っています。
金ヶ沢城は、連続堀切のある龍階城のすぐ西にあります。
まだ紹介していませんが・・・
ここもなかなかの高さです。
しかも、城跡までの道ナシ!
それなりに苦労したので、紹介します。
金ヶ沢城【1】
【1】駐車した場所 上に戻る

予想した登城ルートは東からの尾根伝い。
その始点近くに車を停めました。
事前に予想した場所には停められず。
しかし、すぐ近くに路肩の広い場所がありました。
金ヶ沢城【2】
【2】入った作業道 上に戻る

そして、地図に描かれている道です。
元々期待してはいませんでしたが。
思っていたよりは形を留めていました。
金ヶ沢城【3】
【3】沢沿いにあるコンクリートの何か 上に戻る

意外と道ある!と思ってましたが・・・
すぐに砂利ゴロゴロの沢になりました。
取り敢えず草が薄いのでそのまま進んでみました。
割とすぐにコンクリートの何かがあります。
帰りに紹介する別ルートの目印になるので覚えておいて下さい♪
金ヶ沢城【4】
【4】行きは沢伝い 上に戻る

道は見当たらず、背丈よりも高い草がボーボー。
不可抗力ということで、沢沿いに進みました。
一応、城跡方向には向かえていたので。
この選択は、まぁまぁ正解でした。
金ヶ沢城【5】
【5】コンクリートの道 上に戻る

それでもどこからともなく道の断片が現れます。
ココも地面はセメントの道です。
実はココも大事なポイントでした。
行きにはわからなかったのですが。
とりあえず城キチの野生の勘で進みました。
金ヶ沢城【6】
【6】登れそうに見えた尾根 上に戻る

ただ、あまりの藪に実は少しだけイライラ。
沢の右の尾根に作業道があり、かなり心惹かれました。
だって、草が薄そうに見えましたので。
でも、左のこの尾根も中々に魅力的です。
イバラ混じりの藪掻きより、ココ登った方が絶対に楽!
という直登が、城キチの最終兵器です。
金ヶ沢城【7】
【7】尾根上に 上に戻る

でも、真っすぐだと角度がキツイので斜めに。
そしてようやっと尾根上に辿り着きました。
下界での藪掻きが嘘のような世界です。
ずっとこんななら千里の道も苦にならないのに!
・・・いや、もっと近いと有難いデス。
金ヶ沢城【8】
【8】振り返った所 上に戻る

登り切った尾根を振り返るとこんなです。
尾根の稜線で杉林がバッサリ。
全国的に、山へ行くとこんな光景を目にします。
注目すべきはその方向。
私が歩いて来た方向に尾根が伸びています。
帰りはこっちから行ける所まで行く!と決心したのでした。
金ヶ沢城【城跡】
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さて、尾根に登ってからは順調そのもの。
大した苦労話も無いので、一気に城跡を紹介します。
私が取り憑いた尾根に、9、10の二重堀切があります
そこから北側の尾根にも堀切が1つ。
二重堀切から南へ横移動した所にも12の大きいのがあります。
主郭への道は無いので、どこから直登でも変わりません。
ただ、主郭は南側に腰曲輪が付いています。
なので、12から真っすぐ上がるのが正解っぽいです。
主郭は、横堀でほぼ一周囲まれています。
横堀は西側で深くなり、その先にも15の堀切があります。
東側には横堀が無いので、そこから主郭へ。
主郭内部は、目玉焼きのように中央が高くなっています。
金ヶ沢城【9】
【9】二重堀切(下) 上に戻る

GPSでは順調に城跡に接近。
歩きやすい尾根上に出てハズレだったら心が折れます。
昨年末にそんな経験ありましたがw
そんな不安を吹っ飛ばしてくれたのがこの子デス^^
視界の先に見えた凹みヾ(*´∀`*)ノ
金ヶ沢城【10】
【10】二重堀切(上) 上に戻る

城跡から見てどの尾根だったのか。
それが確定したのは、ここが二重堀切だからでした。
ようやく自分の立ち位置をしっかり把握出来ました^^
左へ進むと、奥にも堀切が見えました。
金ヶ沢城【11】
【11】北側の堀切 上に戻る

どういう順番で回れば効率いいか。
自分の立ち位置がわかったので考えられました。
まずは二重堀切から右へ。
斜面を真横に残る踏み跡を辿り1つ北側の尾根へ。
ココに小さな腰曲輪と堀切があります。
本当はここから下にも行ってみたい気持ちはありましたが・・・
既に長い距離歩いていたのでUターンしました。
金ヶ沢城【12】
【12】西側の堀切 上に戻る

次は二重堀切から見えた左側の堀切へ。
こちらには幅の広い道があります。
というか、重機で削られた作業道です。
ここから九十九折れに、麓まで続いています。
この道を通れば楽なのかもしれませんが・・・
多分ロクな事にはならないと、止めておきました。
金ヶ沢城【13】
【13】主郭を囲む横堀 上に戻る

南側の堀切からどう上がろうかと思案。
北、東、南の尾根に、上がる道がありませんでした。
かと言って、ココからも西の尾根に行く道がある訳でもなし。
そうなると、真っすぐ登るしか選択肢がありません。
伐採作業した時のものかもですが、踏み跡が上に続いています。
南側から真っすぐ登ると、平らな場所に出ます。
ちょっとだけ虎口っぽさが残っています。
その奥に、横堀で囲まれた主郭があります。
金ヶ沢城【14】
【14】主郭 上に戻る

この横堀は、東側だけありません。
土橋というより、そのままつながってる感じです。
虎口っぽさが感じられず、本当にそのままつながっています。
壊されてそうなったのか、元々こうなのか。
ちょっとわかりません^^;
内部は、中心がちょっとだけ高く盛り上がっています。
食べ物で例えると、目玉焼きのようです。
金ヶ沢城【15】
【15】西側の堀切 上に戻る

横堀を進むと、西側が深くなっています。
外側の尾根に出て進むと、こちら側にも堀切があります。
金ヶ沢城【16】
【16】帰りは尾根伝い 上に戻る

ひと通り見たので山を下ります。
来る時は完全に手探りでした。
もっと楽に来れるルートを探したい!
そんな探求心から、下りは尾根を真っすぐ下りました。
ということで、ココを真っすぐ進みます。
金ヶ沢城【17】
【17】振り返った所 上に戻る

木のある所まで下りて振り返った所です。
北側の沢沿いに来た時は凄い藪でしたが・・・
伐採された尾根は、めちゃくちゃ歩きやすい!
金ヶ沢城【18】
【18】尾根先端部 上に戻る

そのまま真っすぐ尾根を下ります。
でも、道がある訳ではありません。
尾根先端まで下ると、こんな感じになります。
ココら辺は手入れがされてないのか、杉の幼木が沢山。
杉の藪というのはちょっとレアです。
取り敢えず掻き分けながら真っすぐ進みました。
金ヶ沢城【19】
【19】尾根下のコンクリート道終点 上に戻る

どこをどう進んでいるのか?になりますが・・・
まっすぐ進んでいたら、地面がセメントの道に出ました。
お、ラッキー♪
「上から道発見スキル♪」が発動したようです。
金ヶ沢城【20】
【20】道は藪化しています 上に戻る

地面はセメントですが、ススキや笹で埋もれています。
それでも、人の手が加わった道はありがたい!
「道なのに」と思いながらも掻き分け進みます。
すると、ゴルフ場脇に出ました。
セメント道はそのままコース端を進みます。
一応獣避けの電線で、道とコースが隔てられています。
ギリギリゴルフ場の外側、といった感じです。
しかし、その道を電線が横断しゴルフ場側に。
流石にココからは道を進めず。
かなり下っていたので、渋々北側の沢に下りました。
そうして下りた所が、3の謎のコンクリート施設です。
ということでまとめ。
楽に登れるルートは2→3と進み左側へ。
ゴルフコース沿いに進んでそのままセメント道。
セメント道を辿って藪を進み、19から左前方の尾根、です。


◆歴史◆

久我城の詰め城でした

某大聖典を開いても「金ヶ沢城」が無し。
どこかの別名かと思ったら、久我城の中にありました。
久我城は、常真寺脇にある平城です。
けっこう離れてるかと思いましたが1.4km程でした。
という事は、南から登るのが正解だったかもしれません。
事前にそういうルートも考えてはいましたが・・・
今更もう一度訪ねて検証する気にはなれません^^;
山城は大好きですが、登山はチョット。

城主は久我氏と伝わります

詳細は伝わりませんが、久我氏の城と伝わります。
その久我氏もよくわかりません。
一説には源氏長者の久我氏。
もう一説には佐野氏の一族と伝わります。

源氏長者の久我氏は、久我通光を祖とします。
久我通光は鎌倉時代の人物で、太政大臣も務めました。
この頃の源氏と言えば源頼朝ですが・・・
久我氏が源氏長者となったのは、鎌倉の源氏が滅びた頃でした。
ちなみに「久我」の読みは「こが」です。
久我氏は、室町時代末まで源氏長者の資格を保ちました。
その一族が下野に下って来たのが久我城とする説です。

佐野氏説は、一族の久我盛綱による築城とします。
久我盛綱も鎌倉時代の人物です。
佐野氏は宝治合戦で三浦氏に味方し敗退。
本領を没収され、以後衰退した時期がありました。
久我氏はこの頃に佐野氏から派生したようです。

廃城は1587年と考えられています。
この年代は、佐野氏激動の時期でした。
1585年に佐野宗綱が戦死すると、後継者が絶えました。
そこで家中ではどの家から養子を迎えるかで真っ二つに分裂。
争ったのは後北条派と佐竹派です。
佐竹派は1586年に上洛し、豊臣秀吉から惣無事令を得ます。
しかし、後北条家は1587年に佐竹家派を討伐。
北条氏忠が佐野家を継承しています。


所在地:栃木県鹿沼市引田 GPS軌跡ダウンロードページ
栃木県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

芦野城/栃木県那須町

芦野城は、蘆野氏が戦国時代から明治時代まで拠った城です。
訪問日は2022年5月4日です。

【位置・再】芦野城
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芦野城は、那須歴史探訪館脇の小山にありました。
駐車場があり草も刈られているので、とても歩きやすいです。
一部例外的な場所もありますけど。
現存する建築物もあるなど、良い状態で残っています。

【1】芦野城
1.駐車場(馬場跡)

那須歴史探訪館の前を通り過ぎ奥へ進んだ所が駐車場です。
城の麓にあるこの長い平坦地が馬場の跡です。

【2】芦野城
2.登城路

駐車場の前から、急斜面を上がる道があります。

【3】芦野城
3.裏門跡

奥から手前方向に折り返し上がった所が裏門跡です。
だいぶ改変されていますが、面影はバッチリ残っています。

【4】芦野城
4.二の丸 説明板を表示説明板の上の図を表示説明板の下の図を表示

裏門から入った広い場所が二の丸です。
江戸時代には陣屋があった場所です。
蘆野氏は、明治初頭までここを拠点としました。

【5】芦野城
5.土塁

二の丸の外縁部には、しっかりした土塁があります。
幅も広く、堂々とした造りです。

【6】芦野城
6.表門跡

外縁の奥にも虎口があります。
ここが表門の跡です。
どちらの門も、ヘアピンで折り返す形になっています。
急坂を走って登れる猛者でも、ここでスピードが殺されます。

【7】芦野城
7.西側の腰曲輪

図には描かれていませんが、南側斜面には段々があります。
完全攻略となるとここも歩き回らねば!ですが・・・
見られれば十分!と、今日は無欲ですw

【8】芦野城
8.土塁

二の丸南東奥では、真っすぐな土塁が外からの視界を遮ります。

【9】芦野城
9.虎口?

土塁付け根には道があり下に通じています。
城内を隠しており、馬出の役割だったようです。

【10】芦野城
10.下から見た虎口?

土塁と堀切の間に轍があります。
道があるならここは虎口?ということで外へ。
外から見ると、城キチ的には虎口にしか見えず。
でも図には無いです。

【11】芦野城
11.南東2番目の曲輪にあるコウヤマキ

城跡といえば、時々やたら古い木があります。
ここのコウヤマキは、天然記念物に指定されています。
天然記念物というとトキぐらいしか思い浮かびませんが。
そう思うと、とても貴重な木のようです。
ググってみると、コウヤマキは良い材木になるそうです。

【12】芦野城
12.一番東にある堀切

私はどちらかというと、両脇の堀切に目が行きました。
まずはコウヤマキ右側の堀切から。
城域の端にあるせいか、全く手入れされていません。
私を誰だと思ってんだ?ナメんな!

【13】芦野城
13.一番東にある堀切

・・・とイキってみましたが、これは無理ですクローバー

【14】芦野城
14.東から2番目の堀切

今度はコウヤマキ左側の堀切です。
コウヤマキのお陰か、ここまでは綺麗に整備されています。
おまけかもですが、こちらの堀切には階段があります。
虎口っぽく見えますが、これは後世の改変でしょうか?

【15】芦野城
15.東から2番目の堀切

コウヤマキへ行くなら手前だけで十分。
ですが、ちゃんと突き当りまで草が刈られています。
城キチ的にはとてもありがたいです^^

【16】芦野城
16.曲輪の裏側

せっかくなので、裏も見て来ました。
犬走的な狭い道が、切岸に沿ってあるようです。
ただ、草木に埋もれてとても歩きにくそうです。

【17】芦野城
17.本丸南東の曲輪

堀切から何となく上がった、本丸の隣の曲輪です。
狭い曲輪で、虎口を守る役割がありそうな感じです。

【18】芦野城
18.本丸南東側の堀切

本丸脇の堀切です。
深さはヒトの背丈程です。

【19】芦野城
19.本丸の虎口

本丸と二の丸をつなぐ虎口です。
堀切が踊り場になっています。
ここでも道を鋭角に曲げていますね!

【20】芦野城
20.本丸

そして本丸です。
二の丸寄りに四阿、真ん中にアンテナがあります。
細長く、ゾウリムシのような形をしています。

【21】芦野城
21.本丸の北にある曲輪

本丸の北端からは、堀切越しに一段低い曲輪が見えます。

【22】芦野城
22.城塁中程を北に続く道

本丸からいったん二の丸に下り、裏門から先へ。
急斜面の城塁中程に通路があります。
お城用語では犬走というのでしょうか。
帯曲輪、ではありませんね。

【23】芦野城
23.堀切

ずっと歩いていると、本丸北端の堀切が見えます。
ここから上がれますが、それは後程。

【24】芦野城
24.腰曲輪

やや不明瞭になる通路の先が少し気になりました。
そのまま真っすぐ進むと、腰曲輪がありました。

【25】芦野城
25.藪の中に続いていました

腰曲輪も手入れされていますが、奥は藪です。
しかし地面を見ると、平坦面は奥へと続いています。
城キチとしては、見に行かねば!

【26】芦野城
26.裏の道?

藪の中でも、腰曲輪から通路がありました。
腰曲輪先端から回り込んだ所が、竪堀状になっています。
どうやらここにも通路があったように見えます。

【27】芦野城
27.先端から見た段曲輪

藪から戻り、堀切から本丸の先にある曲輪へ。
そこから先端下を見てみました。
先ほどの曲輪の下にも腰曲輪がありそうです。

【28】芦野城
28.那須歴史探訪館前の登城口

帰りは、行きとは別の通路から下りました。
通路は、那須歴史探訪館の前に出ました。

【29】芦野城
29.那須歴史探訪館前の登城口にある石碑

入口の木陰には、立派な石碑があります。

【30】芦野城
30.那須歴史探訪館前の登城口 説明板を表示

さらには、文章たっぷりな説明板もあります。

【31】芦野城
31.移築門(陣屋裏門) 地図

芦野陣屋時代の建物が、少し離れた所に現存しています。
これはなかなかに貴重です。
場所は、城跡から少し南に下った県道沿いです。
表に目立った目印はありません。
現状は民家の門になっています。

【32】芦野城
32.石碑

門の前には立派な石碑が。

【33】芦野城
33.標柱と説明板 説明板を表示

石碑だけでなく、標柱と説明板もあります。
しかし、民家なのでウロウロするのは気が引けます。
いつもなら内側からも撮るのですが、今回はナシです。

◆歴史◆

天文年間(1532-55)に築かれたとする説が有力です

芦野城は、那須七騎の一家である蘆野氏の城でした。
築城したのは蘆野資興とされ、太田道灌に師事した人物です。
文武両道で「戦に出れば負け知らず」と伝わっています。

当時も那須家中では内紛がありました。
那須高資が、父と祖父を相手に争っていました。
古河公方で親子喧嘩がありましたが、それに連動しています。
争いの結末は、那須高資が家臣に殺されて異母弟が跡を継いでいます。

子の蘆野資豊は、那須高資に従い宇都宮軍と対峙。
1549年の五月女坂での戦では、宇都宮尚綱を討ち取る大勝利に貢献。
古河公方・足利義氏から直接救援依頼が来るなど、武名を馳せました。

孫の蘆野資泰は佐竹義昭と同盟を結び、白河氏を攻めています。
その恩賞として、佐竹家から領地も与えられています。
しかし、那須資胤にも従っており、かなり独立性が高かったようです。
1560年には大関高増に同調して那須資胤から離反。
行動を共にし、那須資胤と戦いました。
那須資胤は戦上手だったようで、何度も上那須衆を撃退。
1568年に和睦し、蘆野資泰は大関高増らとともに那須家に帰参。
宇都宮軍との戦では、先陣を任されるなど活躍しました。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐には蘆野盛泰が参陣。
会津遠征では茶亭を設けてもてなし、腰刀を与えられています。
その後、関ヶ原の戦では東軍に属して加増を受けています。

江戸時代は陣屋となりました。

蘆野氏は大坂の陣でも功を挙げ、3016石の交代寄合となります。
「陣屋」イコール「藩庁」というイメージでしたが・・・
交代寄合の居城も「陣屋」と呼んだようです。
1516年の一国一城令で「城」は廃されたので、呼び換えたのでしょう。
蘆野氏は江戸時代を通じて一度も移封を受けず。
戊辰戦争では新政府方として後方支援を務めました。
明治時代になると領地が大幅に削られたようで・・・
芦野陣屋はおそらく、この時点で廃されたと思われます。

理由は?ですが、養子の当主・芦野資愛は離縁し実家へ帰りました。
そのため、先代・芦野資貞が再び当主を務めています。
その後、関係が不明ですが卯三吉、伊知松と続き断絶しました。


所在地:栃木県那須郡那須町芦野 GPSログダウンロードページ

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館山城/栃木県那須町

館山城は、蘆野氏が戦国時代に居城としていた所です。
訪問日は2022年4月2日です。

【1】館山城

館山城は、ご覧の通りの岩山です。
私、こういう城跡大好きです。
どうやって登るんだろう?って思いますよね。

【2】館山城

手前には堀の役割を果たしたであろう川。
もうこれ、堀と高石垣を備えた天然の要塞です。
お城の条件をここまで満たしている地形は珍しいです。

【3】館山城

断崖絶壁の岩山は、右前方にも聳えています。
こちらも館山城を構成しているそうです。

【4】館山城

いつものが一番上に無いということで、お察しかもしれません。
某大御所様は、橋の正面の竹藪から直登されています。
ああ、そうやって入るんだと思っていました。
しかし、真正面に割と新しめなコイツが鎮座しています。
あやふやな表現なら無視して突っ込む私ですが・・・
明記されている所には入りません。
入って自慢した所で炎上するのが関の山なので。



でも、私にはお金で買った翼があります。
こんな時こそ出番です♪
ブンブン飛ばしまくって、楽しいひと時を過ごしました。
楽しいは楽しいのですが、悲しいかな腕が追い付かず。
沢山撮ったんですけどね・・・

【6】館山城

動画がお粗末過ぎるので、画面キャプチャーで凌ぎます。
こんな筈ではなかった・・・_│ ̄│○
まずは正面から。
手前の川、帯曲輪、そして上段の岩山を一望です。
さすがは金の翼ですw

【7】館山城

城側から見るとこんなです。
もっと低く攻めれば良かった・・・
帰宅後は、後出しジャンケン出しまくりです。

【8】館山城

奥の端も、垂直な断崖です。
手前は鉄壁の防御を誇っています。
岩肌ザックリのお城って、だいたいこうですよね!

【9】館山城

今度は右側へ回り込み、2つの岩山の間を撮りました。
先人の書では、この間の傾斜が緩く登れるとありました。
ここを攻める敵は、両側からの矢の雨を覚悟する必要がありそうです。


◆歴史◆

蘆野氏の城でした。

蘆野氏は、那須七騎に数えられる那須一族です。
氏族としては、鎌倉時代から記録が残っているそうです。
室町時代初期の那須資忠の四男・蘆野資方が養子に入りました。
蘆野資方は、1355年に兄・那須資藤とともに戦死しています。

蘆野氏ははじめ、北東にある湿地帯の微高地に館を築きました。
蘆野館と呼ばれるその場所は、耕地整理でほぼ消滅しています。
地形的に、あまり防御には向いていなかった場所とされています。

応永年間(1394-1428)に築かれました

この年代は、那須家が上那須家・下那須家に分裂し争っていました。
詳細は省きますが、兄が上那須家、弟が下那須家です。
地理的には北側が上那須家、南側が下那須家です。
この頃の蘆野氏については詳細不詳です。
当時、蘆野氏がどちらに味方したのかが?ですが・・・
上那須衆に含まれるため、上那須家に味方したと思われます。
それまでの蘆野館とは異なり、ガチガチの防御重視です。

天文年間(1532-55)に廃城となりました

芦野城を築き移ったため、廃城となりました。
当時の城主は蘆野資興で、太田道灌に師事しています。
文武両道で「戦に出れば負け知らず」と伝わっています。

当時も那須家中では内紛がありました。
那須高資が、父と祖父を相手に争っていました。
古河公方で親子喧嘩がありましたが、それに連動しています。
争いの結末は、那須高資が家臣に殺されて異母弟が跡を継いでいます。

表面的には家督争いですが・・・
裏では重臣どうしの主導権争いも絡んでいます。
争ったのは大関宗増と大田原資清です。
大田原資清は、1518年に大関宗増の讒言により追放されました。
その行先が越前だったそうで、随分遠くまで行ったものです。
しかし、1542年に復帰し大関宗増の嫡男を奇襲で討ち取ります。
勝利した大田原資清は、自分の長男に大関家を継がせました。
また、那須七騎の福原家にも次男を送り込んで乗っ取りました。
大田原資清は、那須家を継いだ那須資胤の外祖父でもあります。
ここから大田原・大関・福原の三兄弟が、那須家中を牛耳ります。

蘆野氏は、大田原氏と共に「上那須衆」と呼ばれています。
移った先の芦野城は、館山城より規模が大きいです。
勝ち馬に乗ったのかもしれませんネ。


所在地:栃木県那須郡那須町芦野

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二岐ヶ峰城/栃木県那須町

二岐ヶ峰城は、伊王野家臣・三野沢氏の城でした。
訪問日は2022年4月2日です。

【位置】二岐ヶ峰城
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二岐ヶ峰城は、陸奥との国境近くにありました。
唐突に栃木ですが(苦w
そろそろ関東も〆ねばと、本気を出し始めた所です。
これから、手薄だった栃木・茨城を中心に城跡巡りをします。

【1】二岐ヶ峰城
1.西側の道

城跡へは桜公園からアクセスするのが良いとされますが・・・
その桜公園は行政のものではなく、地元住民が作ったものだそうです。
観光目的ではなさそうで、案内や駐車場の類はありません。
地図や航空写真から、何となく「ココから行ける?」と思った道です。
結果はギリギリ○でした^^

【2】二岐ヶ峰城
2.道の奥

それっぽい道を奥へ進むと、それっぽい場所に出ました。
木はたぶん桜、だと思います。
とりあえず、山中へと続く道を辿ります。

【3】二岐ヶ峰城
3.奥にある谷

道はこの谷の手前で消失。
パッと見た所、道が見当たりませんでした。
行きは、ですがあせる
何となく登れそうな角度と高さなので、ここを登ってみました。
ここに生えてる蔓状の木が絡まって大変でしたけどクローバー

【4】二岐ヶ峰城
4.奥にある広場的な場所

そして、こちらが帰りに見つけた「楽に歩ける」コースです。
先程の谷より左前方に、こんな風に開けた場所があります。
行きはココを見つけられませんでした。

【5】二岐ヶ峰城
5.重機による道

開けた場所の奥に、重機が通った道があります。
ここを登ると、北側の尾根に登れます。
こっちの方が、より人間らしく城跡に行けます。

【6】二岐ヶ峰城
6.尾根

そうとは知る由もなかった行きは、とにかく手探りです。
何しろ城の位置がわからない(*´∀`*;)
とりあえず、谷の上から右へ進んでみました。
何となくピークっぽくて「こっちが城だったらいいなぁ~」で。

【7】二岐ヶ峰城
7.祠

手付かずの自然のままの尾根の先に、綺麗に開けた場所がありました。
そこには小さな祠が。
明らかに人工的な平らな場所ですが、それだけです。
土塁も堀も切岸も無い、ただの平らな場所です。
物見としてならアリですが、ハズレでした。

【8】二岐ヶ峰城
8.道

ただ、下にはすごくきれいに手入れされた道が。
どこまで行けるか、いったん下りてみました。

【9】二岐ヶ峰城
9.南側の入口

道を辿って下りて来ると、表の道に出ました。
こちらからも、祠を通って城跡に行くことが出来ます。

【10】二岐ヶ峰城
10.祠の反対側

祠を経由して登り直し、今度は反対側へ。
谷の上から見た「左側」です。
城跡はこっちでした。

【11】二岐ヶ峰城
11.帯曲輪

何しろ正確な城跡の位置を把握せずに突撃。
なので、これでハズレだったら諦めようと思ってました。
でも、高みを目指して登ったらありました。
人工的な段差(*´▽`*)

【12】二岐ヶ峰城
12.切岸

現れ始めると、次々と現れます。
段差が一番大きくハッキリしていたのがココです。
手前は少し広めな腰曲輪な感じです。

【13】二岐ヶ峰城
13.二郭

大きな段差の上に、かなり広い平坦地がありました。
たぶん、ここが2番目に重要な曲輪だったと思われます。
先へ進むと、まだ上がありました。

【14】二岐ヶ峰城
14.主郭

二郭から緩やかな傾斜を登った所が、山頂の主郭です。
「景色が同じ」「何が違うんだ」なんて言わないで下さいネ。

【15】二岐ヶ峰城
15.北東側の腰曲輪

主郭から、北側に尾根が下っています。
下りられそうだと思ったら、幅の広い曲輪が見えました。
この時は腰曲輪の形をトレースしようと思っていました。
でも、等高線的になだらかに続く北側も見たくなりました。
戻ってからでいいや!と思いましたが・・・

【16】二岐ヶ峰城
16.北側の尾根

何だか左下が開けていて下りられそうな感じに見えます。
そう魔が差すと、白なぽが背中を押します。
白いのも黒いのも、前置きなく背中を押す癖があり困っています。

【17】二岐ヶ峰城
17.下る道

尾根を下る内に、まともっぽい道が現れました。
これが、5の写真の道を上から見た所です。
ここを下ると5→4を通り、最初に入った道に出ます。


◆歴史◆

伊王野家臣・三野沢氏の城と伝わります。

伊王野氏は「那須七騎」と呼ばれる那須一族です。
那須七騎は、那須一族とその重臣から構成されています。
下野国の北半分に割拠し、白河氏、佐竹氏、宇都宮氏らと争いました。
ただ、各家の独自性が強く、離合集散を繰り返しました。
地理的に奥州へ続く街道を守る位置に、この城はありました。

城主の三野沢氏については、出自が2説あります。

1つは新田氏説です。
『簑沢村二岐ヶ峰城之古記』にそのことが記されているそうです。
それによると、南北朝時代に移り住んだ新田一族が築いたとされます。
南北朝時代の新田氏といえば、南朝方武家の頂点です。
新田一族と言っても一枚岩ではなかったかもしれませんが・・・
仮に南朝方だったとすると、北の白河氏の勢力だったかもしれません。
那須氏は北朝方だったので。
ここら辺の細かい事は?ですが、代々子孫が拠点としたそうです。

もう1つは芳賀氏説です。
こちらの方が具体的で、芳賀高俊の次男・重広を祖とします。
那須頼資に従った芳賀重広は、大田原に領地を与えられます。
その子・重行が簑沢郷を与えられ、子孫が暮らしたとされます。

どちらもココを拠点にしたようですが・・・
私の勘では、1→2のような気がします。


所在地:栃木県那須郡那須町簑沢 GPSログダウンロードページ

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喜連川城/栃木県さくら市

喜連川城は荒川と内川に挟まれた丘にありました。
訪問日は2011年10月29日です。

喜連川城/遠景
▲遠景

喜連川城跡は2011年3月11日の東日本大震災で大ダメージを受けました。全長700mにも及ぶ亀裂が見つかり、それ以降立入禁止となっています。その半年後、台風15号により幅70mにわたって土砂崩れが発生。民家を巻き込んでおり、公園自体の存廃も議論の争点となったそうです。訪問したのがこの台風の直後ということもあり、ブルーシートが目立ちます。

喜連川城/さくら市喜連川庁舎
▲さくら市喜連川庁舎

城跡の麓にはさくら市喜連川庁舎があります。ここは江戸時代の喜連川藩庁の跡地だそうですが・・・遺構はありません。

喜連川城/摸擬櫓門
▲摸擬櫓門

この庁舎の敷地内には、摸擬櫓門があります。いくらなんでも・・・城跡にはありがちな光景ですねw

喜連川城/お丸山公園
▲お丸山公園

城跡はお丸山公園となっていますが立入禁止。そりゃぁ土砂崩れがあったばかりですからね。さくら市のホームページを見ると現在復旧工事中だとか。「今年度末までは立入できません」とありました。・・・来年度からは入れるということでしょうか?!

喜連川城/移築門
▲喜連川陣屋移築門

最後に、喜連川陣屋の門が移築され現存しているというので見に行きました。夕暮れ時で陽が傾いており、陽が暮れる前に辿り着きたいと気ばかり急きましたが・・・場所がわかりにくかったです( >Д<;)せっかく見つけたので、下のGoogle Mapに印をつけておきました。

※一般民家ですので、そっと見学しましょう。


◆歴史◆

喜連川城は1186年、塩谷惟広により築かれました。塩谷氏は源義家の3男・頼純を祖とする源氏一門です。惟広は源平合戦での戦功により、塩谷荘に三千町の領地を得ました。

本家の塩谷氏は惟広の兄・惟頼が継いでいました。しかし、惟頼の子・正義、朝義ともに嗣子が無く、宇都宮業綱の子を養子に迎えました。源姓塩谷氏は朝義の代までで、以後は宇都宮氏(本姓藤原)にちなみ藤姓塩谷氏となります。

庶流である喜連川塩谷氏はもちろん源姓ですが・・・1213年の和田合戦で、惟広の子・塩谷惟守が和田方につき没落。鎌倉幕府での地位を失いました。

4代め・塩谷惟縄には嗣子が無く、本家の藤姓塩谷氏から養子を迎えました。これにより源姓塩谷氏は終わりを告げました。塩谷氏は宇都宮一族でしたが、地理的に那須氏に近く、両家の間を行き来しました。

1423年、塩谷教綱が主君・宇都宮持綱を狩猟に誘って謀殺するという事件が起きました。以後、宇都宮氏と塩谷氏が争うようになります。1458年、今度は塩谷教綱が宇都宮明綱により謀殺されました。両家のいざこざを収めるため、1478年に宇都宮正綱の4男・孝綱が塩谷氏の養子となりました。

1500年頃、塩谷本家は宇都宮方、喜連川塩谷氏は那須氏方として身内で争っていました。
1523年、両家は和睦し、1558年までには孝綱の子・孝信が喜連川塩谷氏の養子となりました。
これにより両塩谷家の間の争いが止むかのように思われましたが・・・

1564年、孝信はわずか10騎ほどで兄・塩谷義孝を討ち取り、川崎城を制圧しました。義孝の子・弥六郎は家臣の宇都野城に落ち延びました。孝信の妻が那須氏の重臣・大関氏の娘であり、塩谷氏と那須氏が対立していたことによります。だからって、実の兄を殺すなんて・・・

その2年後、弥六郎は宇都宮氏、佐竹氏の協力を得て川崎城を奪還。塩谷孝信は喜連川城へ逃れました。以後、塩谷本家と喜連川塩谷家は完全に敵対関係となります。しかし、両家は同じ時にそろって同じ運命を辿ります。それが1590年の豊臣秀吉による小田原征伐です。

本家の塩谷義綱(弥六郎)は、重臣・岡本讃岐守を代理として小田原に参陣させました。その理由は定かではありませんが・・・これが原因で、塩谷本家は改易され、領地は岡本氏のものとなりました。

喜連川塩谷氏はというと・・・塩谷惟久は小田原には参陣せず、かといって後北条氏にもつきませんでした。豊臣秀吉が勝利し、宇都宮城に来ると聞くと・・・ビビッて逃げちゃいましたw困った妻の嶋子は秀吉の元へ単身乗り込み、申し開きをしたのです。すごい度胸ですねw

嶋子を気に入った秀吉は、嶋子を側室に迎えて化粧料として喜連川3500石を与えました。嶋子はなぜこんなに度胸があったのか。そして、なぜ秀吉は嶋子を気に入ったのか。・・・それは、嶋子が小弓公方・足利義明の孫だったからでした。

後に、喜連川の地は嶋子の弟・足利国朝に与えられました。秀吉はこの時、古河公方・足利氏が絶えるのを惜しみ、家督を継いでいた娘と縁組させました。この娘には正式な名前が無いため、足利氏娘と呼ばれています。名前だけだと朝娘。みたいですねw

小弓公方は古河公方の弟で、兄弟げんかの末独立していました。それが、80年の歳月を経て1つの家に戻ったのです。とはいえ、その家臣同士は仲が悪かったそうですが・・・

国朝は朝鮮出兵のため名護屋へ向かう途中、21歳の若さで没しました。そのため、国朝の弟・頼氏が再婚し、頼氏は喜連川氏を名乗るようになりました。喜連川氏は喜連川藩を起こし、喜連川城の麓に陣屋を築きました。

喜連川藩は色々と特権があったようで・・・無位無官の代わり、参勤交代が免除されたり、御所を称することを許されたり・・・徳川幕府とは明確な主従関係が無いなど、かなり異色の存在だったそうです。

その喜連川氏は明治まで続き、明治以降は足利に復姓したそうです。


所在地:栃木県さくら市喜連川

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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