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白旗城/栃木県大田原市

白旗城は、大関氏の居城でした。
訪問日は2022年4月2日です。

白旗城【写真位置】大きな地図を表示
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白旗城は、川沿いの舌状台地上にありました。
構造は曲輪を一直線に並べた連郭式です。
全般的に藪化していますが、遺構は良く残っています。
主郭には愛宕神社があり、参道が整備されています。
南北にある二郭と三郭は、全面の藪です。
二郭の北には、堀切を挟んで加茂神社があります。
こちらから城内に入ることも出来ます。
三郭の南には、堀切を挟んで薬師堂があります。
ただ、三郭内は藪が深いので、一度表から回り込みます。
薬師堂の周りにも堀切や土塁、曲輪などが見られます。
01_2023091218213792d.jpg
表の道の曲がり角にあります。
すぐ脇に観光用の駐車場がありますが・・・
2台分しか無いので多分埋まってます。
まぁ、城跡の前の道を奥まで進めば大丈夫ですが。
それは後程。
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【2】入口 上に戻る

状況的に城跡に入る感じ、で吸い込まれます。
結果はアタリでしたけど(*´▽`*)
案内がある事は、後で知ることとなります。
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【3】主郭と三郭の間の堀切 上に戻る

木を横一文字に埋めた通路が続きます。
って、まぁ、堀切ですね^^
城キチなら一瞬で気付きます。
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【4】主郭の虎口 上に戻る

堀切から主郭への入口です。
堀底から上がるのが何か違う気がしますが・・・
神社が置かれ、このような形になったのか。
お隣の三郭から橋が架けられていたのか。
いづれにしても、虎口自体はあったと思われます。
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【5】三郭 上に戻る

三郭部分に軌跡が無い言い訳と言いますか。
まぁ、こんな感じです。
主郭の虎口を上がった所から撮りました。
要するに、まぁ、見た通りという事で(;'∀')
06_20230912182145c78.jpg
【6】主郭の愛宕神社 上に戻る

一方、主郭は下草がありません。
中央部には愛宕神社が鎮座しています。
・・・周りだけは。
周囲は三郭同様、下草が生い茂っています。
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【7】主郭と二郭の間の堀切 上に戻る

それでも意地で外周を回り二郭側へ。
こちら側も堀切で隔てられています。
端まで行かなかったのですが、東側に通じています。
というのも、外の道からこっちへの入口があります。
ただ、行かなかったのか行けなかったのかが?です。
15から少しでも入って見ればよかったです。
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【8】二郭 上に戻る

二郭内部です。
まぁ、こんな感じです。
何となく意地になって外周歩きました。
ただ、三郭に入らなかったのはこれを見たから。
流石に私も視界ゼロの世界は嫌デス。
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【9】二郭から下る道 上に戻る

二郭内部は藪ですが、北西側に下る道が。
北側の堀切に通じていると思われます。
まだ志半ばと、下りなかったので。
造りから往時のものには見えず。
農作業用に通したのでしょうか。
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【10】二郭北側の土塁 上に戻る

そのまま外周を辿り北端へ。
端には立派な土塁がありました。
緑が濃いとは言え、線は細い!
・・・何て言いながらの強行軍です。
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【11】二郭北側の堀切 上に戻る

土塁上からは、堀切が見えます。
すごく深いです。
もうちょっと視界が開ければいいのですが。
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【12】二郭北側の堀切と賀茂神社 上に戻る

北東側から下り堀切へ。
上から見た通りの堀切があります。
堀切の向こう側には鳥居が。
地図では賀茂神社が描かれています。
13_202309121821568aa.jpg
【13】賀茂神社 上に戻る

上がって見ると「村社雷神社」の板碑が。
まぁ、複数の神社が1ツ所にってよくありますし。
でも見た所、お社っぽいのってコレだけです。
中に小さな祠がいくつもあるの加茂?
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【14】賀茂神社の入口 上に戻る

堀切に通っている道を東に出た所です。
入口に、神社の縁起の説明板があります。
ここには賀茂神社=雷神社と記されています。
祭神は加茂別雷命、五穀豊穣の神様です。
白旗城が築かれる前は、粟野駅と神社だったそうです。
源義頼・義家父子が、奥州へ出陣の際に立ち寄りました。
この時に戦勝祈願に白旗を翻したのが由来だそうです。
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【15】白旗城の標柱 上に戻る

東側の道を南へ戻る途中にありました。
ここから城内に入れそうに見えます。
でも私はなぜか入らず。
写真をよく見ると、奥は藪になっています。
7の堀切の写真も藪でした。
多分そういう理由があって入らなかったのかも。
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【16】直箟温泉神社への入口 上に戻る

最後に、南端の曲輪を見に行きました。
とは言え、すぐ北の三郭は猛烈な藪です。
一応二足歩行なので、簡単に入れる道へ。
だいぶ戻りますが、水路沿いに道があります。
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【17】三郭南側の堀切 上に戻る

道を進むと、堀切を通ります。
ここはどちら側も大自然に埋もれています。
とりあえず素直に真っすぐ進みます。
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【18】南側の城塁 上に戻る

神社があるので城のものかは?ですが。
それでもここも曲輪だったことを覗わせる造りです。
城内とは違い、とても綺麗に整備されています。
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【19】直箟温泉神社 上に戻る

南の曲輪に鎮座する神社です。
神社の名前が書かれた板を撮影しましたが・・・
超達筆というか、独特のフォントで読めず。
Google Mapに書かれている文字を書いてみました。
字の形はハッキリしましたが、それでも読めず。
ググったら「すぐの」という読みでした。
元々は那須与一が扇を射た矢竹の産地にあったそうです。
江戸時代の享保年間にココに遷座したのだとか。
一体何があったのでしょうか?
気になる方は調べてみて下さい(∀`*ゞ)
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【20】神社裏の曲輪 上に戻る

神社は一段低い所にあり、背後が高くなっています。
その上は、平らな曲輪となっています。
奥は堀切沿いの土塁で、手前が横一線に窪んでいます。


◆歴史◆

応永年間(1394-1428)、大関増清により築かれました

大関氏は那須七騎に数えられる一族です。
大関増清は大関氏7代目です。
那須郡松野の館から移り、白旗山に城を築きました。
この頃、那須家は上那須家と下那須家に分裂。
那須資之と沢村資重の兄弟による対立でした。
応永23年にあった上杉禅秀の乱でも両者は対立。
この内紛は約100年続くこととなります。
大関氏も、戦乱により城が必要になったようです。

1542年、大関増次が討死しました

大関氏はその後、八幡館や大関城に移りました。
大関宗増は那須家統一に活躍。
1518年には讒言により大田原資清の追放に成功。
ライバルの居なくなった大関宗増は専横を極めます。
その子・大関増次は、白旗城を改修し居城としました。

しかし、大田原資清が逆襲に転じます。
密かに那須に戻り、鷹狩り中の大関増次を奇襲。
大関宗増は後継ぎを失います。
そのため、大田原資清の子を養嗣子として迎えます。
大関宗増が何故後継ぎに困っていたのか・・・
少し調べると、大関増次は56歳で授かった子のようです。
大関増次が討死したのが25歳ですから、父は71歳?
流石に後継者を育て盛り返すという訳には行かなそうです。
大関家を継いだのが、大田原資清の長男・大関高増です。
大関高増は白旗城を居城としました。
大田原資清は福原氏も次男に継がせました。
那須七騎の内、3つの家を大田原氏父子で占めました。

1576年、居城を黒羽城に移しました

大関高増は、那須七騎の筆頭として活躍。
宇都宮氏や結城氏らとの戦で功を挙げました。
しかし1560年、那須資胤と対立。
大関高増は上那須衆を率いて離反しました。
さらには佐竹義昭と結び、那須資胤と争います。
しかし那須資胤は度重なる戦に勝利。
・・・強ぇっす(*^^*;)
1568年、ようやく和睦します。
佐竹義重が那須領への侵攻を続けましたが・・・
1572年、那須郡の武茂・茂木を割譲し和睦しました。
その後、1576年に大関高増は黒羽城を築き移りました。
黒羽城は、八幡館の南側に築かれた巨大城郭です。
八幡館に居た角田氏は、奥沢館に移り改姓しています。


所在地:栃木県大田原市余瀬 GPS軌跡ダウンロードページ
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岩谷要害/栃木県大田原市

岩谷要害は、曲輪が真っすぐ連なる連郭式です。
訪問日は2022年4月2日です。

岩谷要害【写真位置】大きな地図を表示
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・・・としか言いようがありません。
台地上に真っすぐに曲輪が並んでいます。
綺麗に堀で区画されて(^^)。
ということで、防御力はあまり高くなさそうです。
遺構は綺麗に残っています(*´▽`*)
岩谷要害【1】
【1】岩谷観音前 上に戻る

すぐ手前まで、クルマで上がれます。
私の「綺麗な道専用」バイクでも大丈夫でした^^
しかも、いつでも貸し切りです。
たぶん(*・u<*)
岩谷要害【2】
【2】竪堀 上に戻る

とりあえず上がって来たもののどこから登る?
そんな感じで手前側から見て回りました。
すると、斜面に一直線の溝が。
これ、竪堀ですよね?
でも、ここから登るのはチョット違うと思いスルー
岩谷要害【3】
【3】登り口 上に戻る

斜面をじぃっと見て回り遂に奥へ。
すると、お地蔵様の所に階段があります。
お地蔵さまはすぐそこですが、背後には緩い尾根が。
よく見ると、そこに踏み跡がありました。
ということで、ここからアタック開始です。
岩谷要害【4】
【4】虎口っぽい所 上に戻る

そうたいして登ることも無く上に平坦面に着きました。
すると、人工的な細長い窪みがあります。
少し高い所へ通じる窪みは通路のよう。
もしかしたら、東側の虎口かもです。
岩谷要害【5】
【5】横堀 上に戻る

道を進むと、綺麗に整った場所に着きます。
ココから先は、曲輪が堀に囲まれています。
最初の曲輪がココです。
横方向に切ってるので、堀切と呼びたくなります。
でも、斜面に竪堀が伸びないので横堀ですよね。
岩谷要害【6】
【6】横堀 上に戻る

一方、連なる曲輪に沿っている横堀です。
まごうこと無き横堀です(*^-^*)
コチラは端から端まで真っすぐ伸びています。
岩谷要害【7】
【7】横堀 上に戻る

みんな「横堀」なので紛らわしいですが・・・
曲輪と曲輪を隔てる方の横堀 vol.2です。
全般的に杉林なので下草は少なめです。
でも、曲輪内など陽当たりの良い場所はこんな感じです。
岩谷要害【8】
【8】横堀 上に戻る

曲輪と曲輪を隔てる方の横堀 vol.3です。
某大先生の縄張図で「この辺?」という所にあります。
辿ってみましたが、痕跡レベルの浅さでした。
岩谷要害【9】
【9】横堀 上に戻る

それでも、奥側の縦方向の横堀はこうです。
綺麗にくっきり走っています。
西側は竹林なので、下草はほぼ無し。
とっても見やすいです。
岩谷要害【10】
【10】堀切 上に戻る

さらに西へ進むと、大きな堀があります。
こちらは斜面に竪堀が落ちるので堀切です。
それまでの横堀と違い、地面を掘り下げています。
岩谷要害【11】
【11】麓へ下りて行く道 上に戻る

堀切の端に行くと、下りて行く道があります。
この先には行ってないので、どうなってるかは?です。
私はお地蔵様の脇からよじ登りましたが・・・
こっちからなら、普通に登れたかもしれません。
岩谷要害【12】
【12】土塁 上に戻る

堀切の先も曲輪のようで、端に土塁があります。
そういえば、連なってる方では見かけませんでした。
こちら側は堀切や土塁などがあります。
防御正面ということになるのでしょうか。
岩谷要害【13】
【13】西端 上に戻る

土塁の西側にも平坦面は続きます。
しかし、端がどこなのかがあやふやです。
削平もやや甘くなり、緩やかな傾斜になっています。
もしかしたら、ここら辺はまだ造り掛けかもですが。
こういう造りというのも無きにしも非ず。
どうなんでしょう?


◆歴史◆

那須家臣・角田氏の城でした。

角田氏は、伝承では三浦介の末裔とされます。
源頼朝が鹿狩りに来た際に、当地に土着したと伝わります。
源頼朝が那須で鹿狩りをしたのは1193年3月~4月。
22日もの間、盛大に行われています。
「三浦介」は大族・三浦氏当主なので、当人ではないでしょう。
息子や孫の一人なら「三浦介の子孫」で正解ですが。
この時那須に土着した三浦一族により築かれたとされます。

角田氏は、戦国時代に大関氏に従います。
以後は奥沢館に移り、奥沢姓を名乗りました。
城跡には岩谷観音堂があります。
藩主の大関氏が篤く崇敬していました。
諸兄のサイトでは、長くてもココまでです。

大関氏と角田氏の関係

角田氏ってどんな一族?
そう思って深堀りしたら出て来ました。
主となった大関氏の出自が。
表向きは武蔵七党の丹党の末裔となっています。
しかし、実は常陸の小栗氏出身とする説が濃厚です。
その小栗氏というのが、角田氏の娘の嫁ぎ先でした。

那須頼資は平安時代末から鎌倉時代初期の人物です。
常陸国の小栗頼重に娘を嫁がせています。
その時に侍女として付き添ったのが、角田氏の娘でした。
角田氏の娘は、小栗頼重の一族・小栗七郎に嫁しました。
その子・小栗与一は、小栗庄大関郷に住み・・・
大関姓を名乗るようになりました。

大関氏が築いた黒羽城は、元々は角田氏の本拠地でした。
角田氏はこの時に奥沢館に移り、改姓しています。
だとすれば、大関氏が角田氏を従えたのは必然です。
角田氏の改姓も、大関氏の出自改竄を隠すため?
何だか色々出て来るものですね。


所在地:栃木県大田原市堀之内 GPS軌跡ダウンロードページ
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青木要害/栃木県大田原市

青木要害は、横堀と堀切に囲まれています。
訪問日は2022年4月2日です。

青木要害【写真位置1】大きな地図を表示 写真へジャンプ
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ココに来るには建設会社の敷地を通る、
とか
龍念寺の境内から登る、
・・・と諸兄は案内します。
でも、人と関わりたくない小心者には無理(`^´)
ということで、それ以外のルートを探索しました。
実は道に迷っただけですが(´∀`;)
とは言え、失敗は成功の母とも言いますし。
北側の尾根から辿り着けました。
でも、多分これって一番遠回りなルートです。
青木集会所からも行けそうですし。
(横堀がそっち方向に下っていました)
そうは思いつつも、検証する気はありません。
だって『超』の付く面倒臭がりですから。
参考にならないかもですが、それでも書きます。
青木要害【1】
【1】農機具倉庫 上に戻る

私が迷い辿り着いた所です。
スマホで地図を見るとまぁまぁ近い?
「まぁいいや」で左へ。
青木要害【2】
【2】北側の尾根を北側から 上に戻る

倉庫から尾根に上がる道があります。
道は上がった所で行き止まり。
なので、車はそこの置けばいいです。
とは言っても、農作業用の道。
邪魔にならないよう心掛けましょう。
青木要害【3】
【3】この端を上がります 上に戻る

尾根上は牧草地になっています。
春先なので、まだ草丈はありません。
この牧草地の左端を上がって行きます。
青木要害【4】
【4】道 上に戻る

牧草地の左側は山林です。
でも、そっち側に入ってすぐの所が凹んでます。
堀というには浅過ぎで、道のようみ見えます。
下の方は倒木や低木で覆われていますが・・・
上の方は割とハッキリ見えます。
これは当たり?とワクワクです(*'▽')
青木要害【5】
【5】ピークを左へ 上に戻る

牧草地から登った尾根はだんだん左へ。
そのまま進むとピークに到達します。
ここがT字路のようになっているので左へ。
青木要害の方にも尾根が伸びています。
青木要害【6】
【6】岩場 上に戻る

この尾根には1か所だけ、こんな岩場があります。
遺構も含めて、大きな岩があるのはココだけです。
要害への道を遮るように並んでいます。
人力で運ぶのは無理だと思いますが・・・
天然の城門のようです(*^-^*)
青木要害【7】
【7】堀切 上に戻る

岩場からすぐの所に、浅い堀切があります。
そのまま斜面で竪堀になっています。
間違いありませんね(^_^)b
青木要害【写真位置2】大きな地図を表示

いよいよここから城内です。
青木要害【8】
【8】西側の大堀切 上に戻る

出迎えてくれたのは、いきなりの大堀切です。
もう「うぉぉぉぉ」としか言いようがありません。
尾根をぶった斬っています。
青木要害【9】
【9】下る横堀 上に戻る

堀切を通り、南側を横堀があります。
こちらにも曲輪があるのでそのまま下ります。
横堀というよりも、何となく通路っぽいです。
青木要害【10】
【10】東側の堀切 上に戻る

下り切った所にも堀切があります。
堀切というより切通なのかもですが。
上の曲輪に続く尾根は、結構な傾斜なので。
上に行くのを防ぐというより、通路的な感じです。
この右側(東側)に、横堀に囲まれた曲輪があります。
ココを主郭とする諸兄が殆どです。14:26 2023/09/03
青木要害【11】
【11】東側の横堀 上に戻る

曲輪を囲む横堀です。
曲輪は細長く、土塁や虎口等が見当たらず。
ただ横堀に囲まれただけの細長い平坦地です。
青木要害【12】
【12】東側の横堀 上に戻る

反対側の横堀です。
こちらは一段下にも平坦地が沿ってあります。
この横堀は、先端から下っています。
地図でその先にあるのが集会所です。
もしかしたら、そっちから登って来れるかもです。
青木要害【13】
【13】中央部へ上がる道 上に戻る

横堀で囲まれた曲輪を一周し、戻って来ました。
ここから上がっていく道があります。
上がちょっと窪んでいるのは堀切です。
青木要害【14】
【14】曲輪の間にある堀切 上に戻る

上がった所にある堀切です。
ここも堀切というよりは切通っぽいです。
だって、全然左右の通行を邪魔してませんし。
尾根には、この堀切の上下に曲輪が連なります。
青木要害【15】
【15】北側の横堀 上に戻る

テッペンからは、尾根に沿って横堀が下ります。
・・・曲輪を囲んでないので横堀?竪堀?
斜面に沿っているので竪堀ではないですね。
横堀のような、坂道のような。
この下った先に建物が見えました。
多分、建設会社ですね。
先が見えたので、下り切らずに戻りました。
青木要害【16】
【16】北東側の曲輪 上に戻る

テッペンの堀切から、麓側にある曲輪です。
ここも土塁などはなく、ただ平らにしただけです。
青木要害【17】
【17】西側の曲輪 上に戻る

テッペンの堀切から、上側にある曲輪です。
小さな曲輪が段々に連なっています。
その中で一番大きいのがココです。
とは言っても、大した大きさではありません。
しかも、削平はご覧の通りの甘さです。
青木要害【18】
【18】西側の8の大堀切 上に戻る

上がり切った所で、この堀切に阻まれます。
最初の頃に見た大堀切です。
こうして見ると、なかり力を入れてるような。
それでいて、曲輪の削平は全然です。
横堀も凝ってるのに、アンバランスな感じがします。
青木要害【19】
【19】北西側の横堀 上に戻る

さて、あちこち歩き回り残り僅か。
今度は西側の曲輪の北側の横堀です。
横堀ですが、曲輪に沿って上り坂です。
ホント堀は凝りに凝ってます♪
青木要害【20】
【20】北側の竪堀が合流 上に戻る

横堀に途中で竪堀が合流しています。
何と無くでもなく、虎口っぽいです。
青木要害は、あちこちに堀が通じてそうです。
曲輪は土塁が無く、削平も力が入っていません。
籠って守る感じには見えず。
ココから撃って出るための拠点でしょうか。


◆歴史◆

永禄年間(1558-70)、佐竹軍に攻められました

諸兄のサイトでは
・佐竹義昭に攻められた
・武茂城を経由し白旗城を攻めた
・小滝城が落城すると、青木要害は自落した
・城を守っていたのは青木三河守
等々、だいたいこんな感じで書かれています。
それ以外の事は不明とのこと。
燃・え・ま・す・♪(無駄に)

当時の那須家と佐竹家の関係は・・・
佐竹義昭は結城氏や蘆名氏と争っていました。
この時那須資胤は、佐竹義昭を支援しています。
1560年、陸奥小田倉の戦いで那須軍は敗れました。
この時、那須資胤は自害も覚悟する程大敗しました。
そのため戦後、那須資胤は大関高増らを叱責。
大関高増は反発し、上那須衆を率い離反します。
ここから7年間、両者は対立。
佐竹義昭がどちらに味方したかと言えば・・・
大関高増です。
次男の佐竹義尚を那須家当主にする約束で。
佐竹義昭が攻めたとされる白旗城は、大関高増の居城です。
だから「佐竹義昭が白旗城を攻めた」というのは変デス。
そして、1565年に佐竹義昭が35歳で没しました。

なので「永禄年間」の1560年から5年の間という事に。
そして那須資胤の烏山城は、武茂城の南西です。
青木要害は、武茂城から白旗城を挟んで北にあります。
こちらに佐竹軍が侵攻なら、烏山城から援軍が来そうです。
大関高増が烏山城を攻め、佐竹軍が牽制したのかも。
那須資胤への援軍が来ないように。


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伊王野城/栃木県那須町

伊王野は、那須七騎・伊王野氏の城でした。
訪問日は2022年4月2日です。

伊王野城【写真位置】大きな地図を表示
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「那須七騎」とは、那須家で重きを為した7つの家を指します。
那須氏、一族の蘆野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏。
そして重臣の大関氏・大田原氏らです。
伊王野城跡は公園として整備され、かなり歩きやすくなっています。
駐車場と登城口は南西ですが、大手は裏の小学校側でした。
「伊王野」の読み方は2通りあります。
1つは「いおうの」で、地名はこちらです。
もう1つは「いおの」で、説明板のルビはこちらでした。
なので、私はこちらを採用します。
伊王野城【1】
【1】国道沿いの案内 上に戻る

伊王野城は整備されており、案内が出ています。
これだけでも名持ちの魔物的存在感があります。
登城口は他にもありますが、私はここから攻めました。
駐車場には、立派な説明板があります。
伊王野城【2】
【2】堀切 上に戻る

駐車場から、高みに向かって遊歩道があります。
素直に登り切った所に、小さな堀切があります^^
伊王野城【3】
【3】虎口? 上に戻る

堀切の先には、細尾根が続いています。
本来の通路はこちら側としか思えず。
帰りにこっちから下りてもいいのですが・・・
思い立ったら即行動です!
細尾根を下ると、北側へ緩やかにカーブします。
先端近くまで進むと、明らかに人工的な所があります。
この感じ、虎口でしょうか?
左下には、尾根に沿って細長い平坦地があります。
伊王野城【4】
【4】舗装道の終端 上に戻る

細尾根先端まで見て気が済んだので進撃開始。
最初の堀切の上が、ちょっとした曲輪になっています。
ここが舗装道の終端となっています。
この道は、駐車場前からぐるっと回り込んで来ています。
急ぎの方は、ここに停めて登城もありです。
伊王野城【5】
【5】虎口 上に戻る

舗装道の一段上にも曲輪があります。
だんだん太くなる尾根を段々にしたようです。
いかにも山城の入口っぽい造りです^^
段曲輪の付け根には、さらに厳しい切岸があります。
ぐねっと回り込む虎口があります。
いよいよ、お城本体に突入する実感が沸いてきます。
伊王野城【6】
【6】三の丸 上に戻る

虎口を上がった所が三の丸です。
それまでの細長い曲輪からは想像も付かない広さです。
広い三の丸は、外周を低い土塁で囲まれています。
伊王野城【7】
【7】上がり口 上に戻る

三の丸から先は、右奥のココから上がります。
大きな曲輪からは想像もつかない位に道は細いです。
伊王野城【8】
【8】横堀 上に戻る

細尾根状の通路を上がった所が二の丸です。
案内図では1つの大きな曲輪に見えますが・・・
実際には低い段で数段に区切られています。
二の丸の左脇には、大きな横堀があります。
最初は堀切かと思いましたが、斜めに長く続いています。
伊王野城の壮大さは、ここから実感出来ます。
まずは横堀の先端へ。
伊王野城【9】
【9】土塁から見た三の丸 上に戻る

横堀の先端は土塁がなくなります。
二の丸からは下った所にあり、隠し部屋のような感じです。
先端部には、視界を遮るように土塁が横たわります。
その横向きの土塁の先は、先ほど見た三の丸です。
三の丸の左奥がちょっと奥へ引っ込んだ感じになっています。
その裏がココです。
イザという時は、こちらが隠し通路になったのでしょうか。
伊王野城【10】
【10】二の丸の最上段 上に戻る

二の丸は、数段の曲輪が段々になっています。
最上段に神社があり、脇の土塁上に石宮があります。
二の丸を見渡す土塁は、櫓台のように見えます。
石宮の奥に大きな空間が見えます^^
伊王野城【11】
【11】大堀切 上に戻る

土塁の裏には、セオリー通りに堀切が。
しかも、とても大きいですヾ(*´∀`*)ノ
伊王野城【12】
【12】横堀 上に戻る

大堀切は、右側はそのまま終点となります。
左側は竪堀となって落ち、脇の横堀につながります。
伊王野城【13】
【13】本丸北側の土塁 上に戻る

堀切から落ちる竪堀のはるか下に、帯曲輪なのか道なのか。
あまりに高低差があり、見に行きませんでした。
本丸脇の横堀を進むと、再び竪堀があります。
二の丸との間の堀切奥に、本丸の虎口があります。
私は、往時の通路を辿ることにもこだわっています。
通路には、動線をどうしたいかの意図がありますからね^^
本丸内は時計回りに歩きました。
北側の堀切の上に、分厚い土塁が聳えます。
伊王野城【14】
【14】右側の横堀?犬走り? 上に戻る

本丸を1周して虎口から出て横堀へ。
今度は右側を歩きます。
本丸は、丸々一周堀で囲まれています。
本丸北隣の曲輪の右脇を進みます。
こちら側は土塁がありません。
横堀というよりも犬走なのかもしれません。
伊王野城【15】
【15】北郭先端の堀切 上に戻る

北郭も先端を堀切で分断しています。
こちらの堀切はだいぶ浅くなっています。
伊王野城【16】
【16】北郭の先 上に戻る

北郭の先も城域のようですが・・・
横堀も曲輪も不明瞭になります。
見ようによっては造り掛けのようにも見えます。
造り掛けに見えますが、端には小さな堀切があります。
ここから先は木が伐採され、裸山となっています。


◆歴史◆

1487年頃、伊王野資清により築かれました。

伊王野氏は那須七騎の一家で、那須氏の庶流です。
鎌倉時代初期に那須頼資の子・資長が伊王野氏の祖となります。
伊王野小学校の場所に居館を構えていました。
築城時期の状況は、上那須家と下那須家が和睦した頃でした。
地理的なこともあり、伊王野氏は上那須家に従っていたと考えられます。
その後の那須家当主との争いでも「上那須衆」に含まれます。
両家の橋渡しをした白河結城氏は、佐竹氏と争っていました。
周囲との関係から、佐竹軍に警戒しての築城と思われます。

戦国時代、那須家中はまとまりませんでした

これは那須家で家督争いが続いたせいです。
1560年、家中が再び分裂します。
白河結城氏・蘆名氏の連合軍の侵攻を那須軍が撃破。
しかし、苦戦したことをなじられ大関高増が離反。
以後、7年にわたり那須資胤と争います。
那須資胤と和睦後は、那須家に従いますが・・・
大関高増は千本氏や伊王野氏らを攻め勢力を拡大。
弟の大田原綱清とともに権勢を奮います。
そして1590年、一大事件が起きます。
豊臣秀吉が後北条氏を攻めました。
那須資胤は小田原に参陣せず。
しかし、大関高増らは沼津まで出向きました。
一方、伊王野氏らは普通に小田原に参陣。
しかし、遅かったということで大幅な減封。
1万3千石から740石となります。
関ヶ原の戦では上杉軍に備え伊王野城・大田原城を守備。
この功により、2000石加増されます。

1627年、廃城になりました。

伊王野資友が以前居館のあった正福寺伽藍に移住。
伊王野城は、廃城となりました。
一国一城令が1615年なので、既に「城」ではなかったかも。
その後、1633年に伊王野資友が急死します。
この時は娘婿・伊王野資房に家督を継ぎます。
しかし、同年10月には伊王野資房も病死。
伊王野資友の兄の子・伊王野資直は末期養子が認められず。
伊王野家は無嗣断絶となりました。
子孫は水戸藩士や大田原藩士として続きました。


所在地:栃木県那須郡那須町伊王野 GPS軌跡ダウンロードページ
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金ヶ沢城/栃木県鹿沼市

金ヶ沢城は、龍階城の西にあった山城です。
訪問日は2023年2月26日です。

金ヶ沢城【全体】
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今シーズンは、栃木の山城に入り浸っています。
金ヶ沢城は、連続堀切のある龍階城のすぐ西にあります。
まだ紹介していませんが・・・
ここもなかなかの高さです。
しかも、城跡までの道ナシ!
それなりに苦労したので、紹介します。
金ヶ沢城【1】
【1】駐車した場所 上に戻る

予想した登城ルートは東からの尾根伝い。
その始点近くに車を停めました。
事前に予想した場所には停められず。
しかし、すぐ近くに路肩の広い場所がありました。
金ヶ沢城【2】
【2】入った作業道 上に戻る

そして、地図に描かれている道です。
元々期待してはいませんでしたが。
思っていたよりは形を留めていました。
金ヶ沢城【3】
【3】沢沿いにあるコンクリートの何か 上に戻る

意外と道ある!と思ってましたが・・・
すぐに砂利ゴロゴロの沢になりました。
取り敢えず草が薄いのでそのまま進んでみました。
割とすぐにコンクリートの何かがあります。
帰りに紹介する別ルートの目印になるので覚えておいて下さい♪
金ヶ沢城【4】
【4】行きは沢伝い 上に戻る

道は見当たらず、背丈よりも高い草がボーボー。
不可抗力ということで、沢沿いに進みました。
一応、城跡方向には向かえていたので。
この選択は、まぁまぁ正解でした。
金ヶ沢城【5】
【5】コンクリートの道 上に戻る

それでもどこからともなく道の断片が現れます。
ココも地面はセメントの道です。
実はココも大事なポイントでした。
行きにはわからなかったのですが。
とりあえず城キチの野生の勘で進みました。
金ヶ沢城【6】
【6】登れそうに見えた尾根 上に戻る

ただ、あまりの藪に実は少しだけイライラ。
沢の右の尾根に作業道があり、かなり心惹かれました。
だって、草が薄そうに見えましたので。
でも、左のこの尾根も中々に魅力的です。
イバラ混じりの藪掻きより、ココ登った方が絶対に楽!
という直登が、城キチの最終兵器です。
金ヶ沢城【7】
【7】尾根上に 上に戻る

でも、真っすぐだと角度がキツイので斜めに。
そしてようやっと尾根上に辿り着きました。
下界での藪掻きが嘘のような世界です。
ずっとこんななら千里の道も苦にならないのに!
・・・いや、もっと近いと有難いデス。
金ヶ沢城【8】
【8】振り返った所 上に戻る

登り切った尾根を振り返るとこんなです。
尾根の稜線で杉林がバッサリ。
全国的に、山へ行くとこんな光景を目にします。
注目すべきはその方向。
私が歩いて来た方向に尾根が伸びています。
帰りはこっちから行ける所まで行く!と決心したのでした。
金ヶ沢城【城跡】
別ウィンドウで表示
さて、尾根に登ってからは順調そのもの。
大した苦労話も無いので、一気に城跡を紹介します。
私が取り憑いた尾根に、9、10の二重堀切があります
そこから北側の尾根にも堀切が1つ。
二重堀切から南へ横移動した所にも12の大きいのがあります。
主郭への道は無いので、どこから直登でも変わりません。
ただ、主郭は南側に腰曲輪が付いています。
なので、12から真っすぐ上がるのが正解っぽいです。
主郭は、横堀でほぼ一周囲まれています。
横堀は西側で深くなり、その先にも15の堀切があります。
東側には横堀が無いので、そこから主郭へ。
主郭内部は、目玉焼きのように中央が高くなっています。
金ヶ沢城【9】
【9】二重堀切(下) 上に戻る

GPSでは順調に城跡に接近。
歩きやすい尾根上に出てハズレだったら心が折れます。
昨年末にそんな経験ありましたがw
そんな不安を吹っ飛ばしてくれたのがこの子デス^^
視界の先に見えた凹みヾ(*´∀`*)ノ
金ヶ沢城【10】
【10】二重堀切(上) 上に戻る

城跡から見てどの尾根だったのか。
それが確定したのは、ここが二重堀切だからでした。
ようやく自分の立ち位置をしっかり把握出来ました^^
左へ進むと、奥にも堀切が見えました。
金ヶ沢城【11】
【11】北側の堀切 上に戻る

どういう順番で回れば効率いいか。
自分の立ち位置がわかったので考えられました。
まずは二重堀切から右へ。
斜面を真横に残る踏み跡を辿り1つ北側の尾根へ。
ココに小さな腰曲輪と堀切があります。
本当はここから下にも行ってみたい気持ちはありましたが・・・
既に長い距離歩いていたのでUターンしました。
金ヶ沢城【12】
【12】西側の堀切 上に戻る

次は二重堀切から見えた左側の堀切へ。
こちらには幅の広い道があります。
というか、重機で削られた作業道です。
ここから九十九折れに、麓まで続いています。
この道を通れば楽なのかもしれませんが・・・
多分ロクな事にはならないと、止めておきました。
金ヶ沢城【13】
【13】主郭を囲む横堀 上に戻る

南側の堀切からどう上がろうかと思案。
北、東、南の尾根に、上がる道がありませんでした。
かと言って、ココからも西の尾根に行く道がある訳でもなし。
そうなると、真っすぐ登るしか選択肢がありません。
伐採作業した時のものかもですが、踏み跡が上に続いています。
南側から真っすぐ登ると、平らな場所に出ます。
ちょっとだけ虎口っぽさが残っています。
その奥に、横堀で囲まれた主郭があります。
金ヶ沢城【14】
【14】主郭 上に戻る

この横堀は、東側だけありません。
土橋というより、そのままつながってる感じです。
虎口っぽさが感じられず、本当にそのままつながっています。
壊されてそうなったのか、元々こうなのか。
ちょっとわかりません^^;
内部は、中心がちょっとだけ高く盛り上がっています。
食べ物で例えると、目玉焼きのようです。
金ヶ沢城【15】
【15】西側の堀切 上に戻る

横堀を進むと、西側が深くなっています。
外側の尾根に出て進むと、こちら側にも堀切があります。
金ヶ沢城【16】
【16】帰りは尾根伝い 上に戻る

ひと通り見たので山を下ります。
来る時は完全に手探りでした。
もっと楽に来れるルートを探したい!
そんな探求心から、下りは尾根を真っすぐ下りました。
ということで、ココを真っすぐ進みます。
金ヶ沢城【17】
【17】振り返った所 上に戻る

木のある所まで下りて振り返った所です。
北側の沢沿いに来た時は凄い藪でしたが・・・
伐採された尾根は、めちゃくちゃ歩きやすい!
金ヶ沢城【18】
【18】尾根先端部 上に戻る

そのまま真っすぐ尾根を下ります。
でも、道がある訳ではありません。
尾根先端まで下ると、こんな感じになります。
ココら辺は手入れがされてないのか、杉の幼木が沢山。
杉の藪というのはちょっとレアです。
取り敢えず掻き分けながら真っすぐ進みました。
金ヶ沢城【19】
【19】尾根下のコンクリート道終点 上に戻る

どこをどう進んでいるのか?になりますが・・・
まっすぐ進んでいたら、地面がセメントの道に出ました。
お、ラッキー♪
「上から道発見スキル♪」が発動したようです。
金ヶ沢城【20】
【20】道は藪化しています 上に戻る

地面はセメントですが、ススキや笹で埋もれています。
それでも、人の手が加わった道はありがたい!
「道なのに」と思いながらも掻き分け進みます。
すると、ゴルフ場脇に出ました。
セメント道はそのままコース端を進みます。
一応獣避けの電線で、道とコースが隔てられています。
ギリギリゴルフ場の外側、といった感じです。
しかし、その道を電線が横断しゴルフ場側に。
流石にココからは道を進めず。
かなり下っていたので、渋々北側の沢に下りました。
そうして下りた所が、3の謎のコンクリート施設です。
ということでまとめ。
楽に登れるルートは2→3と進み左側へ。
ゴルフコース沿いに進んでそのままセメント道。
セメント道を辿って藪を進み、19から左前方の尾根、です。


◆歴史◆

久我城の詰め城でした

某大聖典を開いても「金ヶ沢城」が無し。
どこかの別名かと思ったら、久我城の中にありました。
久我城は、常真寺脇にある平城です。
けっこう離れてるかと思いましたが1.4km程でした。
という事は、南から登るのが正解だったかもしれません。
事前にそういうルートも考えてはいましたが・・・
今更もう一度訪ねて検証する気にはなれません^^;
山城は大好きですが、登山はチョット。

城主は久我氏と伝わります

詳細は伝わりませんが、久我氏の城と伝わります。
その久我氏もよくわかりません。
一説には源氏長者の久我氏。
もう一説には佐野氏の一族と伝わります。

源氏長者の久我氏は、久我通光を祖とします。
久我通光は鎌倉時代の人物で、太政大臣も務めました。
この頃の源氏と言えば源頼朝ですが・・・
久我氏が源氏長者となったのは、鎌倉の源氏が滅びた頃でした。
ちなみに「久我」の読みは「こが」です。
久我氏は、室町時代末まで源氏長者の資格を保ちました。
その一族が下野に下って来たのが久我城とする説です。

佐野氏説は、一族の久我盛綱による築城とします。
久我盛綱も鎌倉時代の人物です。
佐野氏は宝治合戦で三浦氏に味方し敗退。
本領を没収され、以後衰退した時期がありました。
久我氏はこの頃に佐野氏から派生したようです。

廃城は1587年と考えられています。
この年代は、佐野氏激動の時期でした。
1585年に佐野宗綱が戦死すると、後継者が絶えました。
そこで家中ではどの家から養子を迎えるかで真っ二つに分裂。
争ったのは後北条派と佐竹派です。
佐竹派は1586年に上洛し、豊臣秀吉から惣無事令を得ます。
しかし、後北条家は1587年に佐竹家派を討伐。
北条氏忠が佐野家を継承しています。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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