2018/01/03
橘木城/鹿児島県霧島市
橘木城は曽於郡城・剣宇郡城とも呼ばれ、大隅の大族・税所氏の本拠地でした。訪問日は2017年12月30日です。

橘木城跡へは、姫木城の大手口のあった辺りの信号から北に入ります。
昔は姫木城とは稜線が続いていて、1つの城と見なされていた時期もあったそうです。
現在ではその間の部分が切り崩され、県道2号が東西をつないでいます。
県道2合から集落への入口に「全面通行止め、通り抜け出来ません」とありました。
それでも「とりあえず」突撃するのがなぽ流ですw
道はココで行き止まりでしたが・・・

そのすぐ脇の道には入れました

ここで曲がって南へ進みます。
私は車を停めて歩きましたが、かなり奥まで普通の車でも行けそうな感じでした。

道は清水城と似たような感じで、堀跡かな?崩したのかな?という地形が続きます。
城キチ的には心臓がドキドキしっ放しで、どこまで遺構なのかが気になる感じです。

かなり進んだ所で、道の右手にこんなのがあります。
シラス台地の城跡ではよく見られる光景ですが・・・
断面には整った形の爪痕が沢山残っていました。
でも、道を通すでもなく重機で削る意味があったのか、無かったのか・・・
悩み始めると夜も眠れなさそうです。
考え事はしない主義なので、そんな事は無いかもしれませんけど


それでも超気になる地形なので、とりあえず突撃です。
すると、その裏から山上へ斜めに登った跡がありました。
ここが「あぁ、行っとけば良かったポイント①」です。
帰宅してから地図にGPSの軌跡を落とすと、大きな丸い等高線の中へと続いています。
どうやら、とても大きな曲輪への入口だったようです


また元の道に戻ると、すぐ真正面に送電線の鉄塔が見えます。
そこが主郭とされる場所です。

そのすぐ手前は断崖状の城塁でブロックされ、右に曲がる虎口状になっています。
ただこの「虎口状」の地形、私の目には重機で造ったもののように見えました。
やはり、さっきの斜めに上がる道が本来の登城路だったようです。

重機虎口?から中に上がると、内部は開けてこんな感じでした。
開けてとはいいますが、斜面でないというだけで、かなり野生と化していました。
建物がありますが、壁や窓は破れたまま荒れ放題となっています。

ただこの平場の外周は、こんな感じの低い土塁で囲まれています。
あまり期待はしていなかったので、思いがけず遺構に出会えて嬉しくなりました。

西側にはこのようにフェンスが張られており、その外側は断崖絶壁となっています。
1993年に一部が崩落しており、その土砂の中から中世の陶磁器や石臼が発見されたそうです。

あぁ見た見たと車へ戻る途中、道の右側にこんな光景が見えました。
緩やかな坂の上が虎口っぽくなっていて、その先に送電線の鉄塔があります。
見に行こうかどうしようか迷った挙句行きませんでしたが・・・
ここが「見に行っとけば良かったポイント②」です。
橘木城は大きく「西の城」と「東の城」に分かれていたそうです。
地図を眺めていると、①が西の城、②が東の城だったような気がしてなりません。
見て来た所が主郭らしいのですが、肝心な所をすっ飛ばしてしまった残念君です

◆歴史◆
隼人の拠点だったようです。
昨日から出だしがずっと同じです

南隣の姫木城とは当時、尾根続きで1つの城と見なされていたようです。
いつから分けて扱われたのかは?ですが・・・
そんな感じなので、前半は姫木城のをそのままコピペしています。
隼人は、大和朝廷が進出する以前からここで暮らしていた人々を指します。
九州南部の住民を指す言葉として、熊襲というのもありますが・・・
両者の違いは、記録に登場するか、伝説に登場するかなのだそうです。
隼人は前者で、『日本書記』の682年の所が初出なのだそうです。
後から来たクセに、上から目線な大和朝廷には抵抗しました。
特に720年に起こした反乱が大規模だったそうですが・・・
この時、姫木城には女性頭領?の桂姫が籠城していたそうです。
大伴旅人率いる朝廷軍に降伏し、以後は従うようになりました。
隼人は当初、朝廷の民とは異なる税制が適用されていたそうです。
しかし、次第に他の民と同じ政策が適用されるようになり・・・
793年に「隼人の調」が廃止され、800年には初の班田収受が行われました。
以後は「公民」として、大和人?扱いされるようになりました。
平安時代に税所氏の城となったようです。
税所氏は大隅の在地豪族で、税の徴収を司っていた職名が名の由来とされます。
出自は、平安時代に皇族が下向したことに始まると伝わっています。
(光孝天皇八代の孫・敦如または宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如)
曽於郡城(橘木城)を本拠とし、姫木城とともに隈部城(清水城)を支城としていました。
大隅では大隅国在庁官人として、絶大な勢力を誇っていました。
島津氏とは戦国時代まで争い続けました。
鎌倉時代になり島津氏が進出してくると、税所氏とは利害が対立する部分が出て来ました。
一度は守護を解任された島津忠久が、家老の本田貞親を大隅守護代に任命しました。
この時、税所氏の支城だった隈部城(清水城)が本田貞親に与えられています。
ここの経緯はサッパリわかりません。
というのも、1186年に守護となったものの、1203年の比企の乱で首謀者と血縁があり連座。
島津忠久は一時、三州の守護職を剥奪されていました。
薩摩守護に復帰したのが1213年の事で、大隅と日向の守護職は北条得宗家のままでした。
この時に島津忠久の家老・本田貞親が大隅の守護代に任命され、清水城に入ったとされます。
あるとすれば、北条得宗家から税所氏に命じたといった事でしょうか。
南北朝時代になると、税所氏は島津氏とは敵対する陣営に参加しました。
島津氏は日向に下向した畠山直顕と対立しましたが、税所氏は畠山陣営に加わりました。
ただし、中には重久氏のように島津家氏に味方する一族もいて一枚岩ではありませんでした。
1483年、税所篤庸が帖佐城の島津忠廉を攻めましたが、返り討ちに遭いました。
税所篤庸は降伏しましたが領地は没収され、領主としての税所氏は没落しました。
この頃の島津家は大荒れの時期でした。
惣領である島津忠昌は1474年に10歳か11歳で家督を継ぎました。
しかし、丁度その頃に桜島の大噴火があり、火山灰により領内は大凶作に見舞われました。
各地で争いが起こりましたが、幼い当主には彼らを抑える力がありませんでした。
そのため、各地に勢力を持つ島津一族が、結構好き勝手に暴れていました。
この頃の状況は「国中騒乱」と呼ばれています。
島津忠廉は豊州家の当主で、瓜生野城(=建昌城)を本拠としていました。
薩州家や伊作家などが守護・島津忠昌張り合う中、中立を保っていました。
近くで豊州家と仲が悪い勢力を調べたら、新納氏が浮上しました。
当時の新納氏は飫肥にいて、櫛間の伊作家と反目していました。
税所氏が単独で豊州家に勝てる訳がないのですが、新納氏への援軍ならわかりません。
そのつもりだったのが、新納氏が動かなかった(動けなかった?)のかもしれません。
1519年、伊集院尾張守が籠城しました。
税所氏が領地を失った後、誰が城主になったのかサッパリわからず。
それまでの動きなら、近くの本田氏だったかもしれませんが・・・
1519年、伊集院為長が新納忠武と組んで、島津忠兼(=勝久)に対して挙兵しました。
島津宗家の当主・島津勝久は、この年に兄の死により15歳で家督を継いだばかりでした。
自分では政策を決められず、利害の対立が交錯した結果なのかもしれません

戦の後、橘木城は本田兼親のものとなりました。
1548年、本田薫親が島津貴久に攻められました。
清水城主の本田薫親が姫木城の本田実親を攻めました。
なんで攻めたのか?ですが、一族内での内輪もめでしょうか?
この争いに島津貴久が介入し、本田薫親を討伐するため伊集院忠朗を派遣しました。
本田薫親は猛将の攻撃に降伏しましたが・・・
その後も勝手に朝廷に官位を要求するなどしたため、年内に日向に追放されました。
清水城や姫木城を調べると、この出来事は必ず書かれているのですが・・・
橘木城については全く触れられていません。
姫木城がすぐ近くなので同じ扱いになったのか、既に廃城となっていたのか。
何も無かったとしたら、本田一族がこの前後を通じて城主だったという事かもしれません。
とにかく、1519年以降についてはサッパリわかりませんでした

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