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橘木城/鹿児島県霧島市

橘木城は曽於郡城・剣宇郡城とも呼ばれ、大隅の大族・税所氏の本拠地でした。
訪問日は2017年12月30日です。

【写1】橘木城

橘木城跡へは、姫木城の大手口のあった辺りの信号から北に入ります。
昔は姫木城とは稜線が続いていて、1つの城と見なされていた時期もあったそうです。
現在ではその間の部分が切り崩され、県道2号が東西をつないでいます。

県道2合から集落への入口に「全面通行止め、通り抜け出来ません」とありました。
それでも「とりあえず」突撃するのがなぽ流ですw
道はココで行き止まりでしたが・・・

【写2】橘木城

そのすぐ脇の道には入れました音譜
ここで曲がって南へ進みます。
私は車を停めて歩きましたが、かなり奥まで普通の車でも行けそうな感じでした。

【写3】橘木城

道は清水城と似たような感じで、堀跡かな?崩したのかな?という地形が続きます。
城キチ的には心臓がドキドキしっ放しで、どこまで遺構なのかが気になる感じです。

【写4】橘木城

かなり進んだ所で、道の右手にこんなのがあります。
シラス台地の城跡ではよく見られる光景ですが・・・
断面には整った形の爪痕が沢山残っていました。
でも、道を通すでもなく重機で削る意味があったのか、無かったのか・・・
悩み始めると夜も眠れなさそうです。
考え事はしない主義なので、そんな事は無いかもしれませんけどあせる

【写5】橘木城

それでも超気になる地形なので、とりあえず突撃です。
すると、その裏から山上へ斜めに登った跡がありました。
ここが「あぁ、行っとけば良かったポイント①」です。
帰宅してから地図にGPSの軌跡を落とすと、大きな丸い等高線の中へと続いています。
どうやら、とても大きな曲輪への入口だったようですあせる

【写6】橘木城

また元の道に戻ると、すぐ真正面に送電線の鉄塔が見えます。
そこが主郭とされる場所です。

【写7】橘木城

そのすぐ手前は断崖状の城塁でブロックされ、右に曲がる虎口状になっています。
ただこの「虎口状」の地形、私の目には重機で造ったもののように見えました。
やはり、さっきの斜めに上がる道が本来の登城路だったようです。

【写8】橘木城

重機虎口?から中に上がると、内部は開けてこんな感じでした。
開けてとはいいますが、斜面でないというだけで、かなり野生と化していました。
建物がありますが、壁や窓は破れたまま荒れ放題となっています。

【写9】橘木城

ただこの平場の外周は、こんな感じの低い土塁で囲まれています。
あまり期待はしていなかったので、思いがけず遺構に出会えて嬉しくなりました。

【写10】橘木城

西側にはこのようにフェンスが張られており、その外側は断崖絶壁となっています。
1993年に一部が崩落しており、その土砂の中から中世の陶磁器や石臼が発見されたそうです。

【写11】橘木城

あぁ見た見たと車へ戻る途中、道の右側にこんな光景が見えました。
緩やかな坂の上が虎口っぽくなっていて、その先に送電線の鉄塔があります。
見に行こうかどうしようか迷った挙句行きませんでしたが・・・
ここが「見に行っとけば良かったポイント②」です。

橘木城は大きく「西の城」と「東の城」に分かれていたそうです。
地図を眺めていると、①が西の城、②が東の城だったような気がしてなりません。
見て来た所が主郭らしいのですが、肝心な所をすっ飛ばしてしまった残念君ですあせる


◆歴史◆

隼人の拠点だったようです。

昨日から出だしがずっと同じですあせる
南隣の姫木城とは当時、尾根続きで1つの城と見なされていたようです。
いつから分けて扱われたのかは?ですが・・・
そんな感じなので、前半は姫木城のをそのままコピペしています。

隼人は、大和朝廷が進出する以前からここで暮らしていた人々を指します。
九州南部の住民を指す言葉として、熊襲というのもありますが・・・
両者の違いは、記録に登場するか、伝説に登場するかなのだそうです。
隼人は前者で、『日本書記』の682年の所が初出なのだそうです。

後から来たクセに、上から目線な大和朝廷には抵抗しました。
特に720年に起こした反乱が大規模だったそうですが・・・
この時、姫木城には女性頭領?の桂姫が籠城していたそうです。
大伴旅人率いる朝廷軍に降伏し、以後は従うようになりました。

隼人は当初、朝廷の民とは異なる税制が適用されていたそうです。
しかし、次第に他の民と同じ政策が適用されるようになり・・・
793年に「隼人の調」が廃止され、800年には初の班田収受が行われました。
以後は「公民」として、大和人?扱いされるようになりました。

平安時代に税所氏の城となったようです。

税所氏は大隅の在地豪族で、税の徴収を司っていた職名が名の由来とされます。
出自は、平安時代に皇族が下向したことに始まると伝わっています。
(光孝天皇八代の孫・敦如または宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如)
曽於郡城(橘木城)を本拠とし、姫木城とともに隈部城(清水城)を支城としていました。
大隅では大隅国在庁官人として、絶大な勢力を誇っていました。

島津氏とは戦国時代まで争い続けました。

鎌倉時代になり島津氏が進出してくると、税所氏とは利害が対立する部分が出て来ました。
一度は守護を解任された島津忠久が、家老の本田貞親を大隅守護代に任命しました。
この時、税所氏の支城だった隈部城(清水城)が本田貞親に与えられています。
ここの経緯はサッパリわかりません。

というのも、1186年に守護となったものの、1203年の比企の乱で首謀者と血縁があり連座。
島津忠久は一時、三州の守護職を剥奪されていました。
薩摩守護に復帰したのが1213年の事で、大隅と日向の守護職は北条得宗家のままでした。
この時に島津忠久の家老・本田貞親が大隅の守護代に任命され、清水城に入ったとされます。
あるとすれば、北条得宗家から税所氏に命じたといった事でしょうか。

南北朝時代になると、税所氏は島津氏とは敵対する陣営に参加しました。
島津氏は日向に下向した畠山直顕と対立しましたが、税所氏は畠山陣営に加わりました。
ただし、中には重久氏のように島津家氏に味方する一族もいて一枚岩ではありませんでした。

1483年、税所篤庸が帖佐城の島津忠廉を攻めましたが、返り討ちに遭いました。
税所篤庸は降伏しましたが領地は没収され、領主としての税所氏は没落しました。

この頃の島津家は大荒れの時期でした。
惣領である島津忠昌は1474年に10歳か11歳で家督を継ぎました。
しかし、丁度その頃に桜島の大噴火があり、火山灰により領内は大凶作に見舞われました。
各地で争いが起こりましたが、幼い当主には彼らを抑える力がありませんでした。
そのため、各地に勢力を持つ島津一族が、結構好き勝手に暴れていました。
この頃の状況は「国中騒乱」と呼ばれています。

島津忠廉は豊州家の当主で、瓜生野城(=建昌城)を本拠としていました。
薩州家や伊作家などが守護・島津忠昌張り合う中、中立を保っていました。

近くで豊州家と仲が悪い勢力を調べたら、新納氏が浮上しました。
当時の新納氏は飫肥にいて、櫛間の伊作家と反目していました。
税所氏が単独で豊州家に勝てる訳がないのですが、新納氏への援軍ならわかりません。
そのつもりだったのが、新納氏が動かなかった(動けなかった?)のかもしれません。

1519年、伊集院尾張守が籠城しました。

税所氏が領地を失った後、誰が城主になったのかサッパリわからず。
それまでの動きなら、近くの本田氏だったかもしれませんが・・・
1519年、伊集院為長が新納忠武と組んで、島津忠兼(=勝久)に対して挙兵しました。
島津宗家の当主・島津勝久は、この年に兄の死により15歳で家督を継いだばかりでした。
自分では政策を決められず、利害の対立が交錯した結果なのかもしれませんあせる
戦の後、橘木城は本田兼親のものとなりました。

1548年、本田薫親が島津貴久に攻められました。

清水城主の本田薫親が姫木城の本田実親を攻めました。
なんで攻めたのか?ですが、一族内での内輪もめでしょうか?
この争いに島津貴久が介入し、本田薫親を討伐するため伊集院忠朗を派遣しました。
本田薫親は猛将の攻撃に降伏しましたが・・・
その後も勝手に朝廷に官位を要求するなどしたため、年内に日向に追放されました。

清水城や姫木城を調べると、この出来事は必ず書かれているのですが・・・
橘木城については全く触れられていません。
姫木城がすぐ近くなので同じ扱いになったのか、既に廃城となっていたのか。
何も無かったとしたら、本田一族がこの前後を通じて城主だったという事かもしれません。
とにかく、1519年以降についてはサッパリわかりませんでしたあせる


所在地:鹿児島県霧島市国分重久 GPSログダウンロードページ

鹿児島県の城跡/なぽのホームページを表示

清水城/鹿児島県霧島市

清水城は大隅国の守護代・本田氏が本拠とした山城です。
薩摩にある「清水城」は「しみず」ですが、大隅のこちらは「きよみず」と読みます。
訪問日は2017年12月30日です。

【写1】清水城

ここが城内への入口です。
県道471号から北への道に入って10メートル位の所です。
すぐ先に駐車スペースがあり、そこに車を停めて歩きました。

【写2】清水城

ここも写真で紹介されてはいたのですが、位置がサッパリわからず。
執念で某大聖典の図でアタリをつけ、Google Mapのストビューで見つけました。
かつては都会の証拠だったストビューも、こんな山中まで見られるようになりました合格

【写3】清水城

さて、道に入って5メートルで、このような光景に遭遇します。
断面がボコボコなので、林道を通した時に削られたものではなさそうですラブラブ

【写4】清水城

上の写真の一番奥まで進むと、道の左側にバリケードがあります。
なんだか燃えて来るオブジェですメラメラ
そっちが城跡への道なのか?と思って近づくと・・・

【写5】清水城

竪堀チックに割れていました。
自然地形ですよね?
つい撮ってしまいますが・・・w
これを掘ってたら、間違って落ちてしまいそうな位に角度が急です。

【写6】清水城

さて、この道を歩いていると、所々に道を通すために切り通したような箇所があります。
そのたびに「ここ堀切かな?」と思い悩むのでした。
切り通された所では、その両側を見たり、断面を見たり。
そんな「ここどうだろう?」的なワクワクが止まらない城跡でした。

しかし、歩きながら「ここ城内だよね?」と思うくらい、構造が見えない感じはしました。
左側には断崖が迫り、右側には高い所が続きます。
高い所は曲輪なのか?と思って見ますが、上がって行けそうな感じが全くしません。

そんな感じでズンズン進むと、大きく右にカーブする所があります。
その左側がちょっと気になったので覗き込むと・・・

【写7】清水城

パックリ割れています。
道が通っていない所なので、アレですよね?
・・・ずっとこんな感じで歩いていましたw

【写8】清水城

その先の道は、急な下り坂に変わります。
あれ?通り過ぎちゃったのかな?と思い不安になりましたが・・・

【写9】清水城

そのまま進むと、道の先に何か見えて来ました!!

【写10】清水城

説明板の脇がザックリしています恋の矢

【写11】清水城

裏側から見た所です。
左右が土塁のような土の壁なので、ここは虎口のようです。

【写12】清水城

道は虎口の手前で左右に分かれ、虎口を過ぎた所でも左右に分かれています。
ここは城キチの直感で、真ん中の道を進みました。
この道は、左側に城塁を見ながら進みます。

【写13】清水城

割とすぐに城塁が開いている所がありました。
その向こう側が見えるという事はここも虎口?と思い、吸い込まれるように入りました。

【写14】清水城

中はこんな感じですが・・・

【写15】清水城

周りは人の背よりもかなり高い土塁で囲まれていますラブラブ
どうやらここが本丸のようです。

【写16】清水城

先ほどの道に戻って進むと、左へカーブした先にも虎口っぽい地形がありました。
写真ではわかりヅライのですが、左右から土の壁が迫って門のような形になっています。
道はそのままどんどん下って行く感じで、こちら側にも登城口がありそうな感じがしました。
某大聖典に載っている図では、こちら側が大手口、私が来た方が搦手口と書かれていました。
このまま進んだら城の南西側に出て、忠将屋形に出るのでは?なんて思いました。
思っただけで、ここでUターンしちゃいましたけどあせる


◆歴史◆

隼人の城だったと伝わります。

隼人は、大和朝廷が進出する以前から南九州に住んでいた人々を指します。
近くにある姫木城や橘木城、隼人城なども同じように隼人の城だったと伝わっています。
『日本書記』では682年から登場し、700年代には朝廷に激しく抵抗しました。
特に720年から翌年にかけての反乱は大規模なものでしたが・・・
大伴旅人による討伐を受けて降伏し、以後は朝廷に従うようになりました。

税所氏の城となりました。

税所氏は大隅の在地豪族で、税の徴収を司っていた職名が名の由来とされています。
系図等で平安時代に皇族が下向したことに始まると伝わっています。
(光孝天皇八代の孫・敦如または宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如)
曽於郡城(橘木城)を本拠とし、姫木城とともにココ隈部城(=清水城)を支城としていました。

鎌倉時代に大隅国守護代・本田氏の城となりました。

税所氏は大隅の在庁官人の大物として勢力を維持していました。
しかし鎌倉時代に入ると、島津忠久が薩摩・大隅・日向の守護となりました。
島津氏ははじめ、薩摩の出水に守護所として木牟礼城を築城。
守護代として本田貞親を派遣し、在地支配の足掛かりとしました。

1203年に比企の乱があり、比企能員と血縁があるとして守護職を剥奪されました。
しかし、島津忠久は1213年に薩摩守護に復帰し、本格的に在地支配を開始しました。
この時に大隅と日向の守護は北条得宗家のままでしたが・・・
大隅の守護代には島津家の筆頭家老・本田貞親が任命され、清水城を与えられました。

島津忠久の復権は、和田義盛の乱で幕府方としての活躍がきっかけでした。
税所氏も幕府方として行動し、一定の戦功は挙げていた筈です。
大隅の大族・税所氏を牽制するための、北条得宗家の命令があったのかと思います。

1447年、本田重恒が島津忠国と戦いました。

清水城の本田重恒が橘木城の税所氏とともに挙兵し、島津忠国の討伐を受けました。
島津忠国は姫木城に入り、攻め寄せた本田軍を返り討ちにしました。
この時に本田信濃守が討死したそうですが・・・
本田重恒と本田信濃守が同一人物なのかどうなのかが?です。
その後も本田氏が清水城主を続けているので、猶更???です。
島津忠国は強引な政治手法が反感を呼び、各地で島津一族や重臣が反乱を起こしていました。
そのため、1459年のクーデターにより隠居させられ、加世田で晩年を過ごしています。

1548年、本田氏が没落しました。

城主の本田薫親が姫木城の本田実親を攻めました。
なんで攻めたのか?ですが、一族内での内輪もめでしょうか?
この争いに島津貴久が介入し、本田薫親を討伐するため伊集院忠朗を派遣しました。
本田薫親は猛将の攻撃に降伏しましたが・・・
その後も勝手に朝廷に官位を要求するなどしたため、年内に日向に追放されました。
清水城にはしばらくの間、島津貴久が入りました。

説明板には、フランシスコ・ザビエルが訪ねて来たと書かれています。
そこで両者は会見し、キリスト教布教の許可を与えた説もあるとのことですが・・・
薩摩の一宇治城の説明板にも同じ事が書かれ、銅像まで建てられています。
清水城での日本初の布教許可説は、かな~り分が悪そうですw

島津忠将が城主となりました。

薩摩を平定した島津貴久は、大隅・日向へと勢力を拡大中でした。
その最前線となった清水城には、弟の島津忠将が入りました。
島津忠将は伊集院忠朗と並んで、島津軍のエース級の武将でした。

その島津忠将は、1561年に肝付軍からの廻城奪還戦で戦死してしまいました。
その後も子の島津以久、孫の島津彰久、曾孫の島津久信が城主となっています。
1596年、島津久信が鹿屋の大姶良城へ移された後は?ですが・・・
説明板では一国一城令で廃城と書かれているので、1615年までは存続したようです。


所在地:鹿児島県霧島市国分清水 GPSログダウンロードページ

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姫木城/鹿児島県霧島市

姫木城は、国分では特に目立つ岩山にあった山城です。

別名は比売之城、比売奴城、比売妓城、熊襲城とも呼ばれ、古くからあったようです。

訪問日は2017年12月30日です。



今回紹介するルートは、ロープで登る箇所が含まれます。

真面目に命の保障が出来ませんので、自信の無い方にはお勧め出来ません



【写1】姫木城



東側から見た遠景です。

長尾城で随分と体力を消耗した後でしたが・・・w

本当にコレに登るんだ!と気合を入れます。



【写2】姫木城



上の写真で特に険しそうなのが、南側1/3です。

左のピークが国司ヶ岳ですが、主郭は右側のピークにありました。



【写3】姫木城



訪問前には登城路は全くわかりませんでした。

ググっていると、姫木城の登城口を探そうという動画もありました。

数百回再生されていましたが・・・見てもサッパリわからずw



ということで、某大聖典の記述と等高線を頼りに3、4箇所に候補を絞りました。

某大聖典の図では、北東に大手、北西に搦手と書かれていました。

等高線だけ見ると、南の神社からも辿って行けそうな感じはしましたが・・・

出来ればちゃんとした道があれば嬉しいな♪という事で、北側からのアタックとしました。



1箇所目は王道の大手口ですが・・・わからずあせる

ゴルフ場の近くから山に入る道を探しましたが、見つかりませんでした。



次は搦手口ですが、こちらの入口候補は2箇所ありました。

まずは×だった大手口から近いココから攻めてみました。

地図で赤い線の一番上に当たるのがココです。

車は通らないとは思いましたが、一応端に寄せて停めました。



【写4】姫木城



この道は、送電線保守のために通された道のようです。
同じ鉄塔に西側からも行けるようですが、車を停められなさそうな感じでした。

なので、ちょっと遠回りではありますが、この道を歩きました。

轍(わだち)はありますが、地面はふかふかで柔らかいです。

普通の車だとおそらくタイヤが嵌まってさぁ大変、になりそうな感じです。



【写5】姫木城



途中、山の方に入って行く感じの道はありました。

しかし、送電線の目印はまっすぐ方向を指していたためスルー。

そして、かなり歩いて道が三又に分かれる所にも送電線の目印があります。

ここでは山上を指していたので、山上への道へ進みました。



【写6】姫木城



道は段々と傾斜を増し、最後は斜面を登ります。

まるで神社の参道のように、真っすぐ足跡が続いていました。



【写7】姫木城



この斜面を登り切ると、向こう側に送電用鉄塔が現れました。



【写8】姫木城



しかし、周りを見渡しても上がって行けそうな道が見当たらず。

ココもハズレか~なんて思いが頭をよぎります。

「上に行けそう」だけで見ると、この細~い所しかありません。
・・・行くベ!



【写9】姫木城



登ってみると、細尾根状の地形がどこまでも続いていました。

途中、真ん中が窪んでそのさらに真ん中がちょっと崩れてる所もありましたけどw



【写10】姫木城



そのまま進むと、細尾根の傾斜が壁のように急になる場所に出ました。

ここは木の根が梯子のように横に伸び、割と登りやすくなっていました。

ココ登ろうって感覚が、我ながらちょっとヤバイですけどあせる



【写11】姫木城



登れる所まで登り詰めると、今度は岩の壁が垂直に行く手を遮っていました。

こりゃアカン・・・!!



【写12】姫木城



よ~く見ると、ロープが1本垂れていました。

まるで、昔話か何かで見た蜘蛛の糸のようですw

これを見た瞬間、このルートは正しい事を確信しました。

デジカメをポケットにしまい、手に持っていたファイルを服のお腹にしまって登りました。



事前の準備をしている時、ここでロープを使うかもしれない事を想定していました。

そのため、置いてくつもりで20メートルの丈夫な登山用ロープを購入していたのですが・・・

家に置き忘れて来た事を、ここでようやく思い出しましたあせる



さて、ロープは長さが足りないためか、3本ありました。
長年誰も使ってないようで、下からロープを引っ張ると倒木に引っ掛かります。
そのまま全体重をかけたら途中で枯木が落ちて、張りが変わって危ない・・・

そう思い、登る前に体重をかけて、ロープが張るまで枯木を落としてから登りました。



登る時は下りる時の事は考えてないものですが・・・

ココについては、下るよりも登る方が怖かったです。

自分でも意外でしたけど。



【写13】姫木城



3本のロープを登り切ると、目の前に虎口っぽいのがありました。

写真が下手でわかりづらいのですが、真ん中が窪んでいます。

嘘だろと思いましたが、往時からここを通っていたようです。



【写14】姫木城



上がってみると、2段の曲輪がありました。

ちゃんと削平されていますラブラブ



【写15】姫木城



その真正面もまた土の壁に阻まれますが・・・



【写16】姫木城



脇が腰曲輪になっており、しばらく前に進めます。



【写17】姫木城



進めなくなったら、上の曲輪へ5メートル程の直登です。



【写18】姫木城



途中でとても見晴らしの良い場所がありました。



【写19】姫木城



足元はこんなんですけどw



【写20】姫木城



そのまま進むと、目の前に段差が現れました。

高さ5メートル程あり、箱型の堀切のようです。

斜めに下りられるよう歩いた跡があったので、素直に従いました。



【写21】姫木城



堀切様なので、横顔を拝見します恋の矢



【写22】姫木城



ロープを3本登った事があまりに強烈だったせいか、この辺りから記憶が曖昧になります。

写真的には土塁の開口部を撮ったと思われます。

あんまり印象に残ってないなんて、不覚もいい所ですあせる



【写23】姫木城



たぶんまた段差を下りた所で見た城塁だと思います。



【写24】姫木城



そこから先を見た所です。

斜め左方向に緩い坂が続いており、、、



【写25】姫木城



その手前には、こんな堀が横切っています。

ここから先は来ないデ~という、作者の心の叫びが聞こえて来そうです。

本当に聞こえちゃったらどうしましょ叫び



【写26】姫木城



本丸の様子もほぼ全く記憶がありません。

記憶、消されちゃったのでしょうか?w

ここが本丸だと思ったのは、ここが北側のピークだったからです。

事前にGoogle Mapに印を付けておき、現地でiPhone様のGPSで見たらソコでした。



【写27】姫木城



これはたぶん、高~い土塁があったんだと思います。

我ながら強烈な城跡だったのに、なぜこんなにも覚えていないのか不思議です。

他の城跡だったら、数年経っても写真を順に見ればかなり鮮明に思い出すのですがあせる



【写28】姫木城



ただ、本丸から更に南へ行こうとして、この深~い堀切を見たのは覚えています。

本丸と国司ヶ岳の間にあるという、有名な金吾岩を見たかったのですが・・・

余りの高さに、ここを下りて先へ進もうという気が起きませんでした。

時間に余裕の無い遠方だと、こういう所が悔しく感じます。





◆歴史◆



隼人の拠点だったようです。



隼人は、大和朝廷が進出する以前からここで暮らしていた人々を指します。

九州南部の住民を指す言葉として、熊襲というのもありますが・・・

両者の違いは、記録に登場するか、伝説に登場するかなのだそうです。

隼人は前者で、『日本書記』の682年の所が初出なのだそうです。



後から来たクセに、上から目線な大和朝廷に隼人は抵抗しました。

特に720年に起こした反乱が大規模だったそうですが・・・

この時、姫木城には女性頭領?の桂姫が籠城していたそうです。

しかし、大伴旅人率いる朝廷軍に降伏し、以後は従うようになりました。



隼人は当初、朝廷の民とは異なる税制が適用されていたそうです。

しかし、次第に他の民と同じ政策が適用されるようになり・・・
793年に「隼人の調」が廃止され、800年には初の班田収受が行われました。

以後は「公民」として、大和人?扱いされるようになりました。



平安時代に税所氏の城となったようです。



税所氏は大隅の在地豪族で、税の徴収を司っていた職名が名の由来とされます。

出自は、平安時代に皇族が下向したことに始まると伝わっています。

(光孝天皇八代の孫・敦如または宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如)

曽於郡城(橘木城)を本拠とし、姫木城とともに隈部城(清水城)を支城としていました。

大隅では大隅国在庁官人として、絶大な勢力を誇っていました。



島津氏とは戦国時代まで争い続けました。



鎌倉時代になり島津氏が進出してくると、税所氏とは利害が対立する部分が出て来ました。

一度は守護を解任された島津忠久が、家老の本田貞親を大隅守護代に任命しました。
この時、税所氏の支城だった隈部城(清水城)が本田貞親に与えられています。
ここの経緯はサッパリわかりません。



というのも、1186年に守護となったものの、1203年の比企の乱で首謀者と血縁があり連座。

島津忠久は一時、三州の守護職を剥奪されていました。

薩摩守護に復帰したのが1213年の事で、大隅と日向の守護職は北条得宗家のままでした。

この時に島津忠久の家老・本田貞親が大隅の守護代に任命され、隈部城に入ったとされます。

あるとすれば、北条得宗家から税所氏に命じたといった事でしょうか。



1377年、本田氏の城となりました。



南北朝時代になると、税所氏は島津家と対抗するためか、南朝に味方しました。
その後、日向に畠山直顕が入ると、ともに島津家と戦いました。

しかし、税所一族も一枚岩ではなかったようで、重久氏や姫木氏が島津家に味方したようです。

1377年に島津軍に攻められ、この時碇山左衛門が太刀で斬り付けた岩が「金吾岩」だそうです。
この戦は島津軍が勝利し、本田氏親に与えられました。



1447年、島津忠国が籠城しました。



清水城の本田重恒が謀反を起こし、島津忠国が姫木城に出陣しました。

本田重恒は姫木城を攻めましたが、返り討ちに遭い討死しています。

本田氏は島津薩州家に味方し、島津奥州家には抵抗を続けています。



1548年、伊集院忠朗の城となりました。



清水城主の本田薫親が、姫木城の本田実親を攻めました。

そのため、島津貴久の討伐を受け、本田薫親は降伏しました。

一度は降伏したものの従わなかったため、同年内に日向へ追放されました。

その後は伊集院忠朗の城となりました。

この頃の島津貴久は、大隅方面の平定をしていました。

そのため、島津軍のエース級の武将が大隅に配置されたのでした。



その後、いつまで伊集院氏の城だったのかが?ですが・・・

伊集院忠朗、伊集院忠倉、伊集院忠棟の3代は、島津家中では筆頭格でした。

主戦場が大隅なので、ずっとそのまま城主だったとしても不思議ではありません。

伊集院忠棟は1587年に豊臣秀吉の九州征伐後、すぐ南の肝付郡を与えられました。

1595年に都城8万石に移っているので、遅くともこの時までには廃城になったと思われます。





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長尾城/鹿児島県霧島市

長尾城は、大隅半島の付け根にある岩壁ムキ出しのゴツイ山城です。
訪問日は2017年12月30日です。

確か書きかけのブログがありましたが・・・
テツはアツイ内に討て!ということで、年末に行って来た所を次々紹介していきます。
こうやって、過去の在庫がドンドン溜まっていくんですよね・・・
でも!城キチはノリですからw

【写1】長尾城

さて、城跡への討ち入りは、国道から分岐してすぐの所から登りました。
「北の沢伝いに登った」という方がおひとりだけいらっしゃいましたが・・・
某大聖典では、城の西側の陣之平という所で激しい戦いがあったと書かれています。
普通、城を巡る攻防戦って、城域の登城口側で行われますよね?
等高線見ても何だかこっちから行けそう!と、根拠不十分な自信に満ち溢れての登城でした。

【写2】長尾城

この道の両側はこんな感じになっています。
一番上の写真で、すぐ近くに送電線の鉄塔が写っていました。
道端のフェンスには電流を流していると、ご丁寧な断り書きもあります。
・・・ということで、電力会社様が送電線をメンテナンスするための道のようです。

【写3】長尾城

ここから先は、メンテンスの車もダメダメという感じです。
実際にここから先は、落ち葉が道に積もっています。
道はここから下り坂ですが・・・

【写4】長尾城

左側に歩いて通れる道があります。

【写5】長尾城

この道も数十メートル進むとこんな感じになりますが・・・

【写6】長尾城

この角にコレがw

【写7】長尾城

矢印の方向へは、ちゃんと進めるようになっています。

【写8】長尾城

ただし、道は次第に不明瞭になっていきます。
ちゃんと戻って来れる自信の無い方は、早めに目印を付けた方が良いです。
・・・と、帰りに道を見失って山中を彷徨った私が申し上げますあせる

【写9】長尾城

やがては道と呼べるものも無くなり、何となく城の方角に向けて歩くようになります。

【写10】長尾城

こうなればヤケのヤンパチだぁ!で、すぐ脇に登ってみました。

【写11】長尾城

すると、綺麗に削平されています。
行きは気付きませんでしたが、どうやら既に曲輪に入っていたようです。
下の地図では、迷った箇所はガッツリ削って載せています。
しかし、西側に出っ張った迷子箇所は、曲輪や堀切が見られたので残しています。
ただ、誰も通った形跡の無く結果オーライで見た所なので、お勧めは出来ません。
城の西側には4つか5つの小さな曲輪が、堀切で区切られまっすぐ並んでいます。
どうやら、これがいわゆる「陣之平」と呼ばれる場所のようです。

【写12】長尾城

削平された空間から城跡方向へ進むと、景気よく下る細尾根に出ました。
選択肢が無いので、嫌ですが下りましたw

【写13】長尾城

その先の一番低い所です。
天然地形の細尾根の一番低い所なので、99%自然地形です。
でも城キチって、そうとわかっていても撮っちゃうんですあせる

【写14】長尾城

まぁでも、すぐ先には誰がどう見ても人工的な堀切様がいらっしゃいましたラブラブ

【写15】長尾城

そのすぐ後ろがコレです。
どう見ても、前を土の壁で隠した虎口です。

【写16】長尾城

この曲輪には、ちゃんと土塁が付けられていました合格

【写17】長尾城

そして、この先には究極の選択を迫る船の舳先のような場所があります。
写真ではわかりませんが真正面は高い岩壁が聳え、右か左のどちらかにしか進めません。
こういうの私得意なんです!

【写18】長尾城

・・・というのは嘘ですw
右へ進むと道は無く、崩落斜面を2回越えた後、こりゃダメだぁ~な風景になります。
木に隠れて写っていませんが、城跡方向は90度の岩の壁がデーンと立ちはだかっています。
それでも進んじゃった私って、やっぱりおバカさんですあせる
「これムリwww」で撤退を決意した私ですが・・・

ほんの40分程ロスってさっきの分岐まで戻り、今度は左へ進みました。
本当に本当に、私ってどうかしています。
でも、入口では道が無いように見えた左側を進むと、道がどんどん斜面を登っています。
途中、岩の虎口が現れた時には、「おっしゃ、逝ける!」とガッツポーズでしたクラッカー
ということで、分岐の所にちょっとだけ爪痕を残して来ましたw

【写19】長尾城

ここの岩の虎口は、よそでは見た事がない工夫が凝らされています。
それは、下からは行き止まりに見えることです。
ここ、先に進めるようには見えませんよね?

【写20】長尾城

しかし登ってみると、岩の窪みの先で曲がり、進めるようになっています。
しかも、下から見た時には左右に「もしかしたら進めるかも?」的な風景があります。
進路を隠し、違う方向に敵をおびき寄せる仕掛けだと思われます。

【写21】長尾城

少なくとも3か所はありました。

【写22】長尾城

そんな仕掛け岩虎口?を抜けた先に・・・

【写23】長尾城

ここ初の案内ですw
色々ツッコミたい気持ちはありますが、とりあえず小躍りです合格

【写24】長尾城

その先も、岩を豪快にくり抜いた堀切の中を進みます。

【写25】長尾城

ここから先は、右側に広い帯曲輪、左側に一段高い曲輪が続きます。

【写26】長尾城

左側に最初に現れた堀切です。

【写27】長尾城

登ってみると、ここには「西城跡」と書かれていました。
某大聖典の載っている曲輪にようやく辿り着けました。

【写28】長尾城

西城と隣の曲輪は、大きな堀切で区切られています。

【写29】長尾城

その次の堀切を登ると、右側の曲輪には物見台のような高まりがありました。

【写30】長尾城

登ってみたのですが、ただ平らになっているだけでした。

【写31】長尾城

この曲輪と次の曲輪との間にも、かなり大きな堀切があります。
この堀切は先で左に曲がっていて、枡形虎口のような形をしています。
この先からも登って来る所があったという事でしょうか・・・

【写32】長尾城

一番奥の曲輪は、内部で三段になっていました。
その1つ1つはそれ程広くもなく、一番高い所の一番奥がこんな感じでした。
高い所ではありますが、かなり狭いので本丸ではなさそうです。
「大手口地」「西城跡」と案内があったので、本丸には絶対あると思ったのですが・・・
ここで、某大聖典に載っていたビョーキのゾウリムシみたいな図を見ました。
そこで本丸をスルーしていたことに気付きました。

【写33】長尾城

さっき登って右側の曲輪に入った堀切ですが・・・
この堀切の左側こそが本丸だったのですw

【写34】長尾城

ここには期待していた「本丸」の案内はありませんでしたが・・・
どの曲輪にも無かった、立派な土塁が付けられていました。
外から見ると「まさかここが?」的な造りでした。
虎口もそうでしたが、寄せ手に一瞬の迷いを生じさせる、かなり凝ったお城のようです。


◆歴史◆

敷根氏のお城でした。

敷根氏は、美濃国守護も務めた土岐氏の一族です。
系図等では、土岐国房が敷根村を与えられ、子の頼房が敷根姓を名乗ったと書かれています。
しかし、いろいろとツッコミ所満載だそうで、本当にそうなの?という内容かもしれません。
それはともかく・・・1184年に領地を与えられ、城を構えたのは事実です。

長尾城のあるここら辺は、勢力境で立ち回りの難しい場所でした。
というのも、島津氏と肝付氏の勢力にまんまと挟まれているからです。
南北朝時代には島津氏と畠山氏が争い、肝付氏も島津氏と組んだり争ったりしています。
時にはすぐ北西の島津家家老・本田氏までもが、島津家と争った時期もあります。

いつどの当主が誰に味方し、どう立ち回ったのかまではわかりませんが・・・
とにかく、混沌とした戦国時代を生き残りました。
ググってわかったのは、島津貴久の代に蒲生氏攻めに参加した事です。

その後、14代当主・敷根頼賀の時には、肝付氏に攻められたこともあるようです。
ということは、ある時期までは肝付氏に従っていたという事かもしれません。
その敷根氏も、1594年の太閤検地の後は垂水に移されました。
敷根氏の領地は石田三成の領地になったため、この時に廃城になったものと思われます。

敷根頼賀の孫・頼元は、文禄の役(1592-93)に出陣し、帰国途中で水死してしまいました。
跡継ぎがいないまま亡くなったため、御家断絶の危機となりましたが・・・
島津一門から養子が入ったため家名は続きました。
幕末には子孫である島津久芳が、荒れ果てた御先祖様のお墓を長尾城下にまとめたそうです。


所在地:鹿児島県霧島市国分敷根 GPSログダウンロードページ

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野間城/鹿児島県南大隅町

野間城はこの辺りでは最も古い城跡なのだそうです。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】野間城

城跡の南西の町営住宅の入口にある説明板です。

【写2】野間城
拡大図

ということで、さっそくパクりますw
建部城というのは野間城の前身で、その後拡張されたのが野間城だそうです。
図には城内へと入って行く道が描かれていますが・・・
左下の道の所には民家があり、そこはチョットと避けました。
左上の所は航空写真で見ると、畑の脇から入る感じがします。
どちらも通っていませんがあせる

【写3】野間城

説明板の前から見た城跡です。
右側の団地が町営住宅で、ここが建部城跡です。

【写4】野間城

私は町営住宅の駐車場脇のココから城内へ突撃しました。

【写5】野間城

入ってすぐは笹ヤブですが、何となく人が通った形跡があります。
ここはすでに本丸です。

【写6】野間城

途中段差があり、この段差に沿って右端へ進み、更に奥へと進みました。

【写7】野間城

本丸の一番奥まで進むと、大きな土橋があります。
ここが二の丸との間にある堀で、幅10メートル、深さ5メートル程です。
城内ではここが一番の見どころですが、写真写りはチョット・・・です。

【写8】野間城

堀底の土橋の真ん中から二の丸を見上げた所です。
どちらかと言うと、本丸よりも二の丸の方が少し高いような気がします。

【写9】野間城

二の丸内部はやや草が薄かったものの・・・
全般的には草が濃く、曲輪の端の草が薄い所を進みました。

【写10】野間城

二の丸から四の丸までは、段差で曲輪が区切られています。
三の丸と四の丸の間に堀が描かれていますが、私には分からず。
段差の下が窪んでいたのかもしれませんが・・・

【写11】野間城

一番奥のある四の丸は、一面クズで覆われていました。
もう年末なのに、まだ青々と茂っています。
でも「真冬だからいっかw」とクズを掻き分けて進みました。
一番奥は急斜面の城塁でした。

【写12】野間城

四の丸は腰の高さまでクズが茂って歩きづらかったので、北側の帯曲輪に下りてみました。
下りる時はクズの中に潜り、3メートル程滑り落ちましたあせる
その甲斐あって、帯曲輪は歩きやすかったです。

【写13】野間城

三の丸へ再び上がり、車へと戻ります。
帯曲輪は反対側の南側にもあります。
5つの曲輪とその周りを囲む帯曲輪を合わせると、そこそこ大きな城跡です。
周りに堀跡が見当たらなかったので、昔は沼沢地に囲まれていたのでしょうか。


◆歴史◆

平安時代末頃に建部氏により築かれたとされます。

建部氏は太宰府の在庁官人で、禰寝院司として赴任しました。
・・・とは書くものの、詳細は不詳です。
禰寝氏は建部氏を祖とし、鎌倉時代から室町時代までは建部姓を本姓としたそうです。
禰寝氏には別の氏族が禰寝院北俣に入って禰寝姓を名乗った藤原姓禰寝氏もいるそうです。
・・・地名を姓にするのが流行った時代とは言え、地元民以外には紛らわしいですあせる

初期は南端の建部城だけだったそうですが、次第に拡張されて北に延びたそうです。
こちらが野間城と呼ばれ、戦国時代には禰寝一族の野間武蔵が居城としていました。

野間武蔵の名前は、ちょっと北の国見城でも出て来ました。
ググっても野間城か国見城に居た事くらいしか出て来ませんでしたが・・・

こちらが野間武蔵の居城で、国見城は預かっていた城代ということでしょうか。
国見城は、禰寝氏が本拠にしたこともある大きな城です。
そして、ここもかなり大きな城です。
そんな城を任されるということは、かなりの実力者だったハズです。
わからないと、勝手に妄想がどんどん膨らんでいきますw


所在地:鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北 GPSログダウンロードページ

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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