2017/09/04
国見城/鹿児島県南大隅町
国見城は断崖絶壁の台地上にありました。訪問日は2016年12月30日です。

国見城は周囲を断崖に囲まれた東西に長い台地上に築かれていました。
遠くからでもとても目立つ台地で、どうやって登るんだろう?という感じでした。
ちゃんと車で登るヘアピンカーブの道があります。
台地の上は普通の農村風景で、真ん中を真っすぐ通る道の両脇に畑や民家が並んでいます。
言われなければ城跡とは気付かない感じで、全くそんな雰囲気はありませんでした。
とりあえず車を停めようと、皆様が紹介されている公民館を探しました。
ここには国見城についての説明板があります。

あとは堀だ!と車を降り、東へ向かって歩きます。
その途中、道端に何かを示す標柱がありました。
そこには城門之跡、番所跡、湧水跡と書かれていました。
随分とまとめましたねw

ちょっと引いて見ると道が一段低くなっており、確かに門を置くには丁度よさそうです。

そして、上の写真でも少~し見えていますが、すぐ先が堀跡です。

私の場合、標柱よりも先にこっちに目が行きましたけどw
幅15メートル、深さは10メートル程の、かなり大きな堀です。
草がまばらなので底を歩けそうですが、深すぎて下りて行けず・・・
ここが内堀なら、外堀もあるはずだと更に先へ歩きました。
100メートル程歩きましたが、それらしいものは見つからず。
Googleのストリートビューで更に先まで見ましたが、やはり何も見つかりませんでした。
こちら側が搦手口なら、反対側が大手口。
きっと何かあるのでは?と思ったのがついさっき。
せめて「うわ~!」と思った遠景ぐらいは撮っておきたかったです

◆歴史◆
禰寝氏七代・禰寝清成により築かれたとされます。
禰寝清成は南北朝時代の人物で、築城は正平(1346~70年の間)のはじめ頃とされます。
国見城を築いた禰寝清成は、富田城から国見城へ居城を移しました。
この年代の禰寝氏は北朝方として行動し、畠山直顕に従って楡井頼仲と争っていました。
1351年に楡井頼仲により大姶良城を奪われ、1353年には国見城も攻められました。
この時は禰寝軍が楡井軍を撃退し、城を守り切っています。
しかし、しばらくすると富田城に戻り、国見城には一族で家臣の野間武蔵に守らせました。
1574年、肝付兼亮に攻められました。
禰寝氏は1530年頃から肝付氏に従っていました。
しかし、島津家との争いで次第に劣勢になると、1573年、禰寝重長が島津家に寝返りました。
翌年、肝付兼亮と伊地知重興に国見城を攻められたものの持ち堪えています。
その後、桜島のすぐ東にある肝付方の牛根城が島津軍に攻められ開城し、伊地知重興も降伏。
肝付兼亮は頼りにしていた両翼を失い、島津義久に降伏したのでした。
文禄年間(1592~96年の間)、禰寝重張が薩摩国吉利へ移されました。
禰寝重張は、富田城から国見城へ居城を移そうと計画していたそうです。
しかし、島津家の命令により、薩摩国日置郡吉利へ移されました。
説明板は1592年と明記していますが、時期は太閤検地後の大異動の時(1595年)かもしれません。
その後の国見城というか、禰寝氏の領地がどうなったのかがよくわかりません。
島津家の直轄地になったらしいので、どこかに地頭仮屋が置かれたハズなのですが・・・
「外城」でググったら、大根占と小根占が出て来ました。
大根占麓が大根占小学校辺り(錦江町)、小根占麓が神山小学校辺り(南大隅町)でした。
どちらも国見城からは離れており、禰寝氏が去った時に廃城になったようです。
所在地:鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北
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