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国見城/鹿児島県南大隅町

国見城は断崖絶壁の台地上にありました。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】国見城

国見城は周囲を断崖に囲まれた東西に長い台地上に築かれていました。
遠くからでもとても目立つ台地で、どうやって登るんだろう?という感じでした。
ちゃんと車で登るヘアピンカーブの道があります。

台地の上は普通の農村風景で、真ん中を真っすぐ通る道の両脇に畑や民家が並んでいます。
言われなければ城跡とは気付かない感じで、全くそんな雰囲気はありませんでした。
とりあえず車を停めようと、皆様が紹介されている公民館を探しました。
ここには国見城についての説明板があります。

【写2】国見城

あとは堀だ!と車を降り、東へ向かって歩きます。
その途中、道端に何かを示す標柱がありました。
そこには城門之跡、番所跡、湧水跡と書かれていました。
随分とまとめましたねw

【写3】国見城

ちょっと引いて見ると道が一段低くなっており、確かに門を置くには丁度よさそうです。

【写4】国見城

そして、上の写真でも少~し見えていますが、すぐ先が堀跡です。

【写5】国見城

私の場合、標柱よりも先にこっちに目が行きましたけどw
幅15メートル、深さは10メートル程の、かなり大きな堀です。
草がまばらなので底を歩けそうですが、深すぎて下りて行けず・・・

ここが内堀なら、外堀もあるはずだと更に先へ歩きました。
100メートル程歩きましたが、それらしいものは見つからず。
Googleのストリートビューで更に先まで見ましたが、やはり何も見つかりませんでした。

こちら側が搦手口なら、反対側が大手口。
きっと何かあるのでは?と思ったのがついさっき。
せめて「うわ~!」と思った遠景ぐらいは撮っておきたかったですあせる


◆歴史◆

禰寝氏七代・禰寝清成により築かれたとされます。

禰寝清成は南北朝時代の人物で、築城は正平(1346~70年の間)のはじめ頃とされます。
国見城を築いた禰寝清成は、富田城から国見城へ居城を移しました。

この年代の禰寝氏は北朝方として行動し、畠山直顕に従って楡井頼仲と争っていました。
1351年に楡井頼仲により大姶良城を奪われ、1353年には国見城も攻められました。
この時は禰寝軍が楡井軍を撃退し、城を守り切っています。
しかし、しばらくすると富田城に戻り、国見城には一族で家臣の野間武蔵に守らせました。

1574年、肝付兼亮に攻められました。

禰寝氏は1530年頃から肝付氏に従っていました。
しかし、島津家との争いで次第に劣勢になると、1573年、禰寝重長が島津家に寝返りました。
翌年、肝付兼亮と伊地知重興に国見城を攻められたものの持ち堪えています。
その後、桜島のすぐ東にある肝付方の牛根城が島津軍に攻められ開城し、伊地知重興も降伏。
肝付兼亮は頼りにしていた両翼を失い、島津義久に降伏したのでした。

文禄年間(1592~96年の間)、禰寝重張が薩摩国吉利へ移されました。

禰寝重張は、富田城から国見城へ居城を移そうと計画していたそうです。
しかし、島津家の命令により、薩摩国日置郡吉利へ移されました。
説明板は1592年と明記していますが、時期は太閤検地後の大異動の時(1595年)かもしれません。

その後の国見城というか、禰寝氏の領地がどうなったのかがよくわかりません。
島津家の直轄地になったらしいので、どこかに地頭仮屋が置かれたハズなのですが・・・

「外城」でググったら、大根占と小根占が出て来ました。
大根占麓が大根占小学校辺り(錦江町)、小根占麓が神山小学校辺り(南大隅町)でした。
どちらも国見城からは離れており、禰寝氏が去った時に廃城になったようです。


所在地:鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北

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大姶良城/鹿児島県鹿屋市

大姶良城は島津元久の生まれたお城です。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】大姶良城

大姶良城は城内と南城内(内城)の2つの曲輪群から成り、内城がメインです。

まずは内城の南東からの遠景です。
左下に停まっているのが私のレンタカーで、説明板はココにあります。
急峻な城跡を沢山見て来ましたが、斜面が出っ張ってるのは見たことがありません。
何だかクジラのように見えます。

なぜこちらから遠景を撮ったかというと、城域がこちらにあると思っていたからです。
事前に図を参考に出来たのが某大聖典だけで、その図が東西に長く描かれていたためです。
しかし、いくら東へ歩き回ってもサッパリそれらしき気配が掴めず、この山しか見ていません。
これを書くに当たり、某大聖典の図の東を上にしたら、航空写真とイメージが合いましたあせる
誰か私の代わりにリベンジして下さいw

【写2】大姶良城

説明板のある所は車が4、5台停められるようになっています。

【写3】大姶良城

説明板の後ろには、大きな堀がポッカリ口を開けています。
でもこの堀、草の密度が濃すぎて、藪搔き上等の私でさえ中に入れませんでした。

【写4】大姶良城

これで終わりかよ?とキョロキョロすると、見えちゃいました。
あり得ない角度ではありますが、人が登った形跡のある斜面。
収穫ゼロはあんまりなので、ダメ元で登ってみました。

【写5】大姶良城

登り切った所に、石塔2基と小さな祠がありました。
この登り切る直前の所が難所で、とても危険なのでこれから訪ねる方は気を付けて下さい。
実はよじ登った急斜面のすぐ脇は絶壁となっており、掴まるロープなどはありません。
しかも地面が柔らかく、とても滑りやすいです。
バランスを崩して勢いがつこうものなら、止まることも出来ずに崖から落ちます。
怖いのは登る時よりも下る時で、特にこの石塔脇から斜面に出る所が一番注意が必要です。
私も勢いが付き過ぎ、危うく落ちそうになりました。
ロープを持っていれば、勝手に置いてきたくなる程です。

【写6】大姶良城

さて、登り切った所は、それまでの急斜面が嘘じゃないかと思える位に平らです。
細い竹がビッシリ密生しておりコースは限定されますが、それでも奥へ進めました。
一番奥まで進めば大きな堀にぶつかるハズでしたが・・・
竹の壁に阻まれ堀を確認出来ずに突撃終了です。

【写7】大姶良城

せっかくなので、奥に進んだ時とは違う隙間を進むと、端に土塁がありましたヾ(*´∀`*)ノ
曲輪に上がって得られた収穫は、これだけと言えばこれだけです。

【写8】大姶良城

さて、某大聖典の図が現状のどこかもわからず彷徨いましたが、偶然の収穫が1つありました。
それが城の南側にある八幡神社です。
この神社は、島津氏久が大姶良城で生まれた島津元久の成長を願って建立したものです。
・・・神社に興味がある訳ではなく、通りすがりに撮ったので、写真はこれだけですがあせる


◆歴史◆

平安時代末に禰寝義明により築かれたと考えられています。

禰寝義明は、禰寝北俣院の荘園領主として下向した冨山義光の子です。
禰寝氏は周辺に一族を配置し、大隅半島南部を支配しました。

1351年、大姶良城の争奪戦が始まりました。

南北朝時代、禰寝清成は北朝の畠山直顕に従って肝付兼重と戦っていました。
南朝方の肝付氏は、先代当主の弟・肝付兼成が大姶良城と横山城を攻め落としました。
しかし、勝ち戦の帰り道、肝付兼成は禰寝一族の志々目氏に襲われ、討たれてしまいます。
志々目氏らはガラ空きになった大姶良城を取り戻したのですが・・・

この好機に攻め込んで来たのが、志布志を本拠とする楡井頼仲です。
戦で疲弊した大姶良城を難なく攻め落とし、自らの城に加えました。
両者の争いはしばらく続き、楡井頼仲が禰寝氏の本拠・国見城を包囲したこともありました。
しかし、1357年末に楡井頼仲が畠山直顕・禰寝清増の連合軍に敗れ、志布志で自害しました。

すると、九州で南朝方の中心だった肥後の菊池武光が遠征し、畠山直顕は大敗しました。
そこへ島津氏久がトドメを刺すと、畠山直顕は豊後へと落ち延びました。
こうして大姶良城は島津氏久のものとなりました。
島津氏久はしばらく大姶良城に在城し、その間に嫡男・島津元久が生まれています。

1379年頃、禰寝久清が奪い返した、かもしれません。

島津氏久が大姶良を去った後、禰寝氏が大姶良を取り戻しています。
時期はよくわかりませんが、禰寝久清は九州探題の今川了俊に従っていました。
禰寝久清は今川了俊から再三出兵を求められていましたが、返事を濁していました。
しかし、1379年になると出陣し、西俣と大姶良を攻めています。
状況的にはこの時に大姶良城を取り戻したと思われます。

1530年、肝付兼興が攻め落としました。

この頃の肝付兼興は、島津宗家の島津勝久と対立していました。
一方の禰寝清年は島津宗家寄りで、島津豊州家や新納家と繋がりがあったようです。
肝付兼興は一族の北原氏の串良を島津豊州家から奪還し、更に大姶良城にも攻めて来ました。
大姶良城は肝付軍により攻め落とされましたが、横尾峠で禰寝軍が撃退しました。
しかし、肝付兼興の子・兼続の代に肝付氏は更に勢いを増し、禰寝氏は従うようになりました。

1577年、島津家の城になりました。

肝付氏は肝付兼続・良兼の代までは島津家と互角に渡り合っていました。
しかし、肝付良兼が没すると家中が分裂し、1574年に肝付兼亮が島津義久に降伏しました。
その後、肝付兼亮が重臣達から追放され、他家を継いでいた弟の肝付兼護が呼び戻されました。
その肝付兼護は伊東氏への内通を疑われ、本拠の高山城以外の領地を没収されました。
大姶良城は外城となり、城内の麓に地頭仮屋が置かれました。

1592年、大姶良地頭の伊集院三河守が梅北一揆に参加しました。

事情はよくわかりませんが・・・
梅北一揆は梅北国兼ら島津家臣が、朝鮮出兵に向かう途中の肥後で起こした反豊臣の挙兵です。
船で名護屋城へ向かっていた梅北国兼は、手薄になっていた肥後の佐敷城を乗っ取りました。
この謀反はわずか3日で鎮圧され、一揆方は妻子も含めて処刑されました。

その後、大姶良では伊集院三河守によるとされる祟りがあったそうですが・・・
具体的に何があったのかはわからず。
その祟りを鎮めようと、伊集院三河守を祭神とする参河神社が建てられました。
参河神社があったのは城内(地図左側の赤線の内側)で、参河城という曲輪のあった所です。
現在はシラス採取で参道が崩され、社殿は岩戸神社に移されているそうです。

・・・神社を紹介している訳ではありませんよあせる


所在地:鹿児島県鹿屋市大姶良町城内 GPSログダウンロードページ

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年貫城/鹿児島県鹿屋市

年貫城跡には立派な堀が残っています。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】年貫城

ここも城跡に神社があります。
珍しい名前の由来は、瓊々杵尊という神様が旅の途中、ここで年を越したからだそうです。
どんな旅だったのか、ちょっとだけ気になりますw

【写2】年貫城

境内に上がる道は、ちょっと虎口っぽさを感じさせます。

【写3】年貫城

神社の社殿です。
一番上の写真でチラっと見えてましたがあせる
よそじゃ見掛けない感じがイイですね。

【写4】年貫城

何か城らしい遺構は無いかと見回すと、社殿の右側から下りる道が。

【写5】年貫城

その下には、表の様子からは想像も出来ない立派な堀がありました。

【写6】年貫城

幅は10メートル、深さは5メートル程。
そこそこイイ規模の薬研堀です。

【写7】年貫城

こちらの道は、隣の曲輪の民家へと続きます。


◆歴史◆

不詳あせるあせるあせる

戦国時代に佐々木氏により築かれた、なんてチラホラ書かれています。
その佐々木氏、誰の家臣だったかググっても一向に出ずあせる
西・北・東の三方向を川で囲まれており、禰寝氏が肝付氏に備えた感じに見えます。
歴史・城主ともに不詳なので、戦で置かれた陣跡の可能性もありますね。


所在地:鹿児島県鹿屋市南町年貫(年貫神社)

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末次城/鹿児島県鹿屋市

末次城跡には宮比神社があります。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】末次城

城跡にある神社の鳥居です。
真っ赤なのでとても目立ちます^^

【写2】末次城

宮比神社の社殿です。
すぐ隣にある縁起には、所在地として「末次城内」と書かれています。
また、かつては笈掛大明神と呼ばれており、肝付兼続の名も登場します。
・・・訪ねてみたくなりましたか?

【写3】末次城

周りを見てみると、土塁らしき土盛りがあります。
神社では社殿の周りをよく盛るので、城の遺構かどうかは?ですが・・・

【写4】末次城

神社の脇の道まで堀跡っぽく見えてきました!
地図で見ると、ここら一帯が沼沢地に浮かぶ島(微高地)だったように見えます。
山城のように堀切で曲輪を区切ったなんて事はないかもしれませんが・・・


◆歴史◆

楡井頼仲により築かれたと伝わります。

楡井頼仲は信濃出身の源氏で、南北朝時代に日向(志布志)にやって来ました。
南朝方として活動し、主に畠山直顕と戦っていました。
この辺りでは禰寝氏が北朝方であり、やはり楡井氏が兵を率いて戦っていたようです。
おそらくその前線基地として築かれたものと思われます。

南北朝時代に島津氏久が攻め落としました。

『薩摩藩内古城由緒』に、島津氏久が大姶良城に続き末次城も攻め落としたと書かれています。
そして、家臣の山田忠経に末次城を与えています。

この頃の大隅の状況は複雑過ぎてよくわかりませんが・・・
北朝方が畠山直顕、禰寝清成
南朝方が楡井頼仲、肝付兼重
どっちつかずが島津氏久、といった所でしょうか。

大姶良城とも絡むので、そこら辺りを整理すると・・・
・1351年、肝付兼成が禰寝氏の大姶良城・横山城を落とす。
・戦に勝った肝付兼成が西俣へ移動中、禰寝一族の志々目氏に討たれた。
・楡井頼仲が禰寝氏を攻め、大姶良城を奪う。
・楡井氏と禰寝氏の間で大姶良城の争奪戦が繰り返される。
・1357年、楡井頼仲が畠山直顕に敗れ自害すると、島津氏久が攻めて来て大姶良城に入る。
といった流れになります。

肝付氏が奪われた城を楡井氏が奪い、その後を島津氏がさらに奪うという複雑さ。
この三氏は当時、いずれも南朝方で味方のハズでした。
元々肝付氏の城だったのに、なぜ取り返さないんだろうと不思議に思っていましたが・・・

肝付氏では当主・肝付兼重が1349年に没した後、肝付秋兼が継いでいました。
上に登場する肝付兼成は肝付兼重の弟で、彼が大姶良で活動していた事は出て来ます。
しかし、肝付秋兼やその次の代の肝付兼氏はググっても出て来ません。
彼らは畠山直顕や島津氏久に従ったらしく、どうやら積極的には動かなかったようですね。

1544年、肝付兼続が笈掛大明神に息災延命を祈願しました。

いつ頃からかは不明ですが、末次城は肝付氏の城になっていたようです。
神社の縁起には、1544年に肝付兼続が息災延命を祈願した棟札があると書かれています。
城として使われていたのか、既に廃城になり神社になっていたのかは?ですあせる


所在地:鹿児島県鹿屋市吾平町下名(宮比神社)

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検見崎城/鹿児島県肝付町

検見崎城は肝付氏の祖から派生した庶流・検見崎氏のお城でした。
訪問日は2016年12月30日です。



検見崎城跡へは県道73号線から住宅街へ入ります。
その入口に小さく案内が出ています。
写真を撮り忘れたので、Googleさんのストビューを貼りますあせる

【写1】検見崎城

県道から入った道を真っすぐ進むと、大きく右にカーブします。
そのカーブミラーの脇に、城跡への入口があります。

【写2】検見崎城

上の黄色く〇印を付けた所に、これがあります^^

【写3】検見崎城

この中には、検見崎氏のものと思われる石塔が数基あります。

【写4】検見崎城

また、端にはこのように低い土塁が付いています。
・・・これで終わりじゃありませんよ!

【写5】検見崎城

土塁があるということは・・・でその向こう側を覗き込むと、かなり立派な堀が見えました。
この堀をしっかり見たい!ということで、城跡の外側を回り込んで入口を探します。

【写6】検見崎城

入口のあるカーブも、何となく堀跡のように見えますが・・・
道端にこのように堀の断面が見えているので、恐らく後世に通されたものでしょう。
この坂道を下まで下ります。

【写7】検見崎城

すると、城跡の外周に沿うように道があるので、こっちへ入ります。

【写8】検見崎城

すぐに城跡側へ入れる所があります。

【写9】検見崎城

ここから竹藪の窪んだ所へ進むと、そこが堀底でしたヾ(*´∀`*)ノ
幅10メートル、深さは5、6メートル程の立派な堀です。


◆歴史◆

肝付氏庶流の検見崎氏の城でした。

検見崎氏は、初代・肝付兼俊の三男・兼友を祖とします。
兼友は領地から名をとり、検見崎姓を名乗るようになりました。
築城年代は不明ですが、鎌倉時代に築かれたと伝わります。


所在地:鹿児島県肝属郡肝付町後田

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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