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小牧山城/愛知県小牧市

小牧山城は、織田信長が初めて築いたお城です。

昨年4月に続日本100名城に選出されました。

訪問日は2018年9月16日です。



【1】小牧山城



ここも11年ぶりに訪ねました。

前回は天守目当てでしたが、木々に覆われ上手く撮れず。

そのリベンジとスタンプ目当てでした。

前日が雨だったため、バイクではなくレンタカーで移動。

車は城跡の北東にある「北駐車場」に停めました。

そこから城内への入口がココです。



【案内図】小牧山城

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上の写真の中に写っている案内図です。

せっかくなのでイタダキますw



【2】小牧山城



さて、入口から入ってすぐに異変に気付きました。

外側って、城キチの目には土塁にしか見えません。

こんな情報、無かったゾ!

うれしい誤算に喜びつつ、横堀で囲まれているんだと思いました。



【3】小牧山城

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しかし、その思い込みもすぐに打ち破られました。

入口から入ってすぐの所に、目立つ説明板がありました。

そこには「帯曲輪」と書かれていました。

山城の外周を帯曲輪で囲むなんて、スケール大きいです!



【4】小牧山城



土塁で囲まれているなら、どこかにあるはず!

そう思って探したのが虎口でした。

案内図をよく見たらありました。

搦手口の虎口です。

外周の土塁を食い違いにしたものでした。



【5】小牧山城



そこから山上へ向かう遊歩道を登りました。

当初の思惑は、半周回って大手道から登るつもりでしたが・・・

予定は変更されるためにあるんですグッド!



【6】小牧山城



ここでもやはりスタスタ歩き、何人も追い越しました。

やっぱり山城ばかり行ってると、自然と脚力ついちゃうんですね。

生まれついてのせっかちな性分も加わり、近道に食いつきます。



【7】小牧山城

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すると、遊歩道脇に虎口の説明板がありました。

曲輪でもないのになんで?と思いましたが・・・

さっきの帯曲輪の事もあるので、織田信長をナメてはいけませんw



【8】小牧山城



説明板のすぐ脇には、こんな感じで虎口クンが構えていました。

ちょっと反対側でも見るか!と入って行くと・・・



【9】小牧山城



結構長く続いていましたあせる

若鶏の城キチ的には、虎口というより堀底道といった感じです。

どこまで続くのか気になったので、ズンズン進みました。



【10】小牧山城



数十メートル進むと、下っていた道が登り道に変わりました。

ただ、道の真ん中に倒木が積まれていて進めず。

このまま進んでもキリが無さそうな感じがしたので、戻ることにしました。

人知れない未開拓の城跡なら、そのまま突き進むんですけどねw



【11】小牧山城



また落ち葉の積もる堀底道を登ろうとした時、目の前にこれが見えました。

やっぱり歩きやすい方がいいや!

ということで、若鶏はそちらへ。

若鶏といっても、ひよこから羽毛が生え変わったばかりですけどw



【12】小牧山城



私が移った道は大手道の上の方で、さっきの道に合流。

そのまま登り、木々の間から天守が見えて来ました。

ゴールはもう目の前!



【13】小牧山城



しかし、目の前にはゴールを阻む誘惑がちらほら。

道端には「石垣の裏込石」がたくさん積まれていました。

表に貼ってある紙には「調査が終わったら戻します」と書かれていますが・・・

その日付が既に5年前でしたあせる



【15】小牧山城

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1つ目の誘惑を乗り越え、いざゴールへ!

と思ったら、今度は石垣についての説明板がありました。

そして私を脇道へと誘い・・・



【16】小牧山城



こんな光景が現れましたヾ(*´∀`*)ノ

織田信長の城ですが、石垣はあまり多くありません。

黒い小人様、お誘いありがとうございましたラブラブ



【17】小牧山城



数々の困難と試練を乗り越えて、ようやく天守にたどり着きました。

前回は木々が邪魔でほぼ真下から撮りましたが、今回はバッチリです爆  笑

そして、お目当てのスタンプをゲット!!



続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】小牧山城 天守チケット売場

 開館時間 9時~16時半(入館は16時15分まで)

 休館日 第3木曜日(祝日の場合翌日)、12/29~1/3

 入館料 大人100円、小中学生30円


スタンプ薄いなぁ~と思い、10秒押し続けてもこれが精いっぱい。噂通りのインクの無さでした。



【19】小牧山城



スタンプ回りはこんな様子。

そりゃ、インク無くなるよって感じです。

設置されてまだ半年経ってないのに・・・

目の前にチケット売りの人もいるのに、残念です。



【20】小牧山城



さて、登ったら今度は下りです。

せっかくなので、さっきとは反対側から下ります。

でも、「近道」の引力には逆らえませんあせる



【21】小牧山城



結果オーライですが、近道を通って正解でした。

斜面をまっすぐ下るので、途中の帯曲輪がよくわかりました。

本丸から数えること、3段の帯曲輪を見ることが出来ました。



【22】小牧山城



下りきった所がココです。

たぶん、遊園地というのはココの事かもしれません。

一応、遊具らしき物はありますので。



【23】小牧山城



そこから大手道を見に行ったのですが・・・

見上げてみたらこんな感じ。

いつも歩いている山道のようになっていました。



【24】小牧山城



見下ろしたらこんな感じ。

こちらも倒木で道が塞がれています。



【25】小牧山城



じゃぁしょうがないと回り道したら、こんなん見えましたラブラブ

復元したてのような、真新しい土塁と堀です。

古い案内図では、市役所の庁舎が描かれている場所です。

市役所の庁舎は、昨年道の反対側に移転。

その跡地にこれが復元されたようです。

この真ん前に説明板がありましたが、特にこいつには触れられず?でした。



【27】小牧山城



駐車場の反対側に下りて来たので、どちらから戻るかちょっと思案。

選択肢は①右回り②左回り③縦断の3つですが・・・

③は論外なので、遺構が見られそうな②を選択。

市役所前から東側を回ることとしました。



【28】小牧山城

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すると、城跡の南東部でこの説明板を見つけました。

小牧山城は、小牧・長久手の戦で徳川家康が本陣を置いていました。

その時に構築された土塁についての説明板です。

どうやら、さっきの市役所跡地の土塁も徳川家康が築いたもののようです。



【29】小牧山城



東側にも帯曲輪がありますが、その中の1つに織田信長居館跡です。

そうとは知らずに通った若鶏城キチ、強運の持ち主のようです。

帯曲輪とはいいますが、超巨大畝状堀のように曲輪が連なっています。

こんな構造、他の城では見たことがありません。



【30】小牧山城



東側の虎口です。こちらはちょっと破壊されているようで、入口が広くなっています。





◆歴史◆



1563年、織田信長により築かれました。



織田信長は、前年から犬山城の織田信清と戦っていました。

その際に築いた小牧山城が、織田信長が築いた最初のお城です。

犬山城まで至近距離にあり、織田信清の勢力圏を分断する位置でした。

織田信清は織田信長の従兄弟で、織田信秀の弟・織田信康の子です。

岩倉城の織田信賢を攻めた時は、織田信長の味方でした。

しかし、その勝利後に領地の配分を巡って揉めたそうです。



1564年、犬山城の織田信清を降しました。



小牧山城が出来ると、織田信清は西からの援軍が途絶えました。

さらに小牧山城から約5kmと近く、いつでも包囲される危険がありました。

そのため、小口城の中島豊後守と黒田城の和田新助が降伏しました。

家老2人が降伏してしまい、織田信清も観念したのか降伏しました。

織田信清は甲斐へ移って武田家の客将となり、犬山鉄斎と名乗りました。

中島豊後守と和田新助はともに織田信長に仕え、犬山衆と呼ばれました。



1567年、織田信長が稲葉山城を攻略しました。



織田信長は、父の代から続いてきた美濃攻略を達成しました。

以後は美濃に本拠を移し、地名を井口から岐阜に改めました。

岐阜城(稲葉山城から改名)を居城とし、小牧山城は廃城となりました。



1584年、小牧・長久手の戦で、徳川家康が本陣を置きました。



羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が対立し、尾張が戦場となりました。

この時、織田信長の側近だった池田恒興の去就が注目されました。

池田恒興は羽柴秀吉方につき、犬山城を攻め落としました。

小牧山城は濃尾平野では珍しい山城であり、展望が利く要地でした。

徳川家康が小牧山を占領すると、羽柴秀吉が悔しがったとされます。

ただし、あくまでも陣であり、城としての復活はありませんでした。



1967年、模擬天守が建てられました。



名古屋の実業家・平松茂氏が私財を投じて建設しました。

当時は全国各地で鉄筋コンクリート製のお城が建てられた時期です。

ただし勝手に建てた訳ではなく、当時の小牧市長の許可を得ています。

完成すると小牧市に寄贈され、歴史館として現在も続いています。





所在地:愛知県小牧市堀の内



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古宮城/愛知県新城市

古宮城は作手にあった武田軍の三河侵攻の拠点でした。
訪問日は2018年9月15日です。

【3】古宮城

愛知県には2014年の夏休みに本格的に侵攻しましたが・・・
古宮城の存在には気づかず、近くの亀山城だけ見ていました。
亀山城は亀山城でとても素晴らしい城跡でした。
昨年4月に「こんな凄い城跡あったんだ」と軽くショック。
スタンプ設置に合わせて訪ねて来ました。
駐車場は、白鳥神社の鳥居を通り過ぎた所にあります。
本当はバイクで行く予定でしたが、悪天候のためレンタカーです。

【4】古宮城

城跡の南側には白鳥神社があります。
ただ、城の名前が地名でないので、元々は神社の山だったかもしれません。

【5】古宮城

山に入る道から見上げると、既に土の造形が見えてテンション上がります恋の矢

【6】古宮城

神社から登り、最初にたどり着いた平坦地です。
左側が大きな竪堀、右側に主郭の虎口があります。
虎口の陰に主郭と二の曲輪を隔てる大きな堀切があります。
パッと見では気づきませんが、実はこれ、土橋でしたあせる

【7】古宮城

主郭の虎口です。
土塁で小さな空間を作り出し、桝形虎口となっていますラブラブ

【8】古宮城

枡形虎口から見た主郭内部です。
いきなりですが、真正面の土塁が郭を左右に隔てています。
古宮城の特徴ですが、主郭と二の曲輪は中央が土塁で隔てられています。
そうとは知らずに見ると、どっちへ進めばよいのか迷います。

【9】古宮城

とりあえず、主郭の外周を反時計回りに進みました。
周囲は急斜面で、眼下には数多くの腰曲輪が見えました。

【10】古宮城

北側まで来ると、眼前に大きな竪堀(北)が現れました。
古宮城一番の見どころですラブラブ
主郭と二の曲輪を隔てる堀が、そのまま麓まで続いています。
その脇に寄り添うように、登り土塁が続いています。

【11】古宮城

主郭と二の曲輪を隔てる堀切です。
資料館で頂いたパンフには「一城別郭式」と書かれていました。
そこまで大げさに分断されてはいませんけど・・・w

【12】古宮城

主郭に続いて、二の曲輪も外周を歩きました。
二の曲輪内部も主郭同様、真ん中を土塁で隔てられています。

【13】古宮城

二の曲輪から見下ろすと、すぐ下に横堀が付けられています。
その下にも、複雑に横堀が巡らされています。
こちらが街道に面しており、敵から攻撃を受ける側となっています。
馬場さんが平山城を造ると、こんな感じになるんですねラブラブ

【14】古宮城

ということで、二の曲輪のすぐ下にある横堀です。

【15】古宮城

横堀は大竪堀にぶつかり、そのまま麓につながっています。
こちら側の登り土塁は、途中までしかありません。
この左側に、無数の横堀が巡らされて不規則な迷路を形成しています。

【16】古宮城

うまく表現できませんが、こんな感じで横堀が段になっています。

【17】古宮城

大竪堀に沿って下り、主郭側を見て来ました。
こちら側には目立った横堀は無く、無数の腰曲輪があります。
写真は一番下の段で、所々に段差があって曲輪を形成しています。
この感じ、愛知の小牧山城と似ています。

【18】古宮城

最下段の曲輪の外周は、こんな感じで土塁で囲まれています。

【19】古宮城

主郭側から二の曲輪側を見ようと戻りました。
下から見上げる大竪堀は、結構迫力ありますニコニコ

【20】古宮城

横堀は不規則で、突然行き止まりになったりします。
下から2番目の横堀も、上には行かずにブツっと終わります。
駐車場に戻ろうと横移動を試みたのですが・・・
何度もそんな事を繰り返し、結局二の曲輪まで登り直すこととなりました。

【21】古宮城

最初に登った時に気づかなかった、南側の大竪堀です。
1つの小山を2つの竪堀で分断しており、スケールが半端ないです恋の矢恋の矢恋の矢

【22】古宮城

神社左脇の下から見上げた大竪堀(南)です。

【23】古宮城

神社の前には説明板があり、その脇にこれもあります。
ちゃんと城跡にあるのが、とても親切に感じます。

【1】古宮城

ということで、スタンプ設置場所の作手歴史民俗資料館です。
到着したのが15時10分で、閉館時間を過ぎていました。
館内は消灯され薄暗いものの、ドアが半分開いていました。
ダメ元で突撃すると、快くスタンプを押させてくれました。

案内にあったコンビニですが、注意すべきは24時間営業ではありません。
まぁ、真夜中に訪ねる方が居るとも思えませんが・・・w
このコンビニに立ち寄ってみたら、ちゃんとスタンプありました。
資料館が休館の時だけでなく、いつでも押せます^^

続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】古宮城 新城市歴史民俗資料館https://www.google.com/maps/d/view?mid=1ztL9La3wDBHuJCIKGqG6m-paVPg&ll=34.97716,137.42361&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
 開館時間 10時~15時
 休館日 火曜日(祝日の場合翌平日)、12/29~1/3 
 入館料 無料
 ヤマザキショップつくで店https://www.google.com/maps/d/view?mid=1ztL9La3wDBHuJCIKGqG6m-paVPg&ll=34.97878,137.4242&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
 営業時間 7時~20時半
 休業日 年中無休


【24】古宮城
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作手歴史資料館で頂いたパンフレット裏面に載っている縄張図です。
タダで頂いたものなのでいいとは思いますがあせる
城内を散策した時に、これがあると無いとでは大違いです。
ありがとうございましたラブラブ


◆歴史◆

1571年または1572年に武田信玄により築かれました。

武田信玄は、1568年に今川氏真との同盟を破棄して侵攻を開始。
それに伴い、徳川家康に従っていた奥三河の国人衆を調略しました。
元々は徳川家康が今川領に侵攻していたので競合することに。
そんな中、武田軍の三河への侵攻拠点として古宮城が築かれました。
縄張は築城の名手・馬場信春により行われました。

1573年に一度落城しました。

武田信玄が没すると、作手の領主・奥平貞能が徳川家に寝返りました。
奥平貞能は古宮城から約1km南の亀山城を本拠としていました。
この調略は領地倍増と徳川家康の娘を嫁がせるなど、破格の条件でした。
これが大きな一手となり、後の武田家滅亡のきっかけとなります。
古宮城の武田軍が亀山城を攻めましたが、援軍の徳川軍により古宮城が陥落。
のちに武田軍が古宮城を取り戻すなど、緊迫した状況となりました。
奥平貞能は、徳川軍が武田軍から奪った長篠城へ移りました。

1575年、廃城となりました。

武田軍が長篠城を攻めましたが、織田・徳川連合軍に敗れ壊滅。
武田軍は奥三河での勢力を維持出来なくなり、古宮城は放棄されました。


所在地:愛知県新城市作手清岳

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亀山城/愛知県新城市

亀山城は奥平氏の本拠地でした。
訪問日は2014年8月6日です。

亀山城①
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本丸にある図です。こうして図を見ただけでワクワクしてきますラブラブ土塁がそれぞれの郭にちゃんと残っており、ほぼ原形を留めていると思われます。郭の配置などを見ると、右側の二の丸方面が大手口に見えますが・・・実際の大手は左上です。お城の左側が「シロヤシキ」という小字になっており、城主様の館があったと思われます。

亀山城②

・・・などとは考えず、なんとなく現地に向かって「どこから入るんだろう?」とウロウロ。事前に準備した地図では、ただお城の位置にマークしただけで、登城路は?状態でした。今は事前にちゃんと調べてから訪ねるんですけどねあせるということで、辿りついたのは北側(図では右側)の二の丸の下です。雰囲気で察しろw的な駐車場があり、そこから城内に入りました。

亀山城③

城内への入口には、ちゃんと案内がありました。しかし・・・すぐ脇には別のお城の名前が恋の矢もう、惑わせないでよw

亀山城④

城内に入ると、すぐに立派な城塁が現れました。これは二の丸のものです。

亀山城⑤

一応道に従って進むと、やがて虎口が見えました。高い土塁に囲まれているようです。

亀山城⑦

ということで、虎口の内側から撮りました。やっぱり土塁ですラブラブ

亀山城⑧

そして二の丸の内側の様子です。草ボーボーですが、背が低い草ばかりなので、放置されている訳ではなさそうです。

亀山城⑨

回れ右をすると、今度は本丸の虎口です。なんだかあっさり辿り着いた感じがしました。山城のように手の込んだお城ではないんですね。

亀山城⑩

本丸内部の様子です。右端には亀山城の看板が立っています。・・・鈍感なので気づきませんでしたがあせるさらにどうしちゃったんだろう?というのが、城址碑を見落としていますw夕暮れ時で余程焦っていたのでしょうか・・・?本人がこんな調子なので、真相は闇の中ですハートブレイク

亀山城⑪

それでも、周りを囲んでいる土塁はちゃんと見えていたようです。何も見えてないんじゃ、危なっかしくて外出歩けませんけどねあせる

亀山城⑫

本丸西側の虎口から外を見た所です。急な坂に腰郭があり、守りが厳重な感じがします。やはり、大手口はこちらですね。

亀山城⑬

虎口から外へ出る途中にあった堀と土塁です。やっぱりこういうの大好きですラブラブ一日走り回って見応えのあるお城に出会うと、いい日だったと思えて来ます^^

亀山城⑭

・・・ということで、そのまま下ってココに出ました。またしても裏登城をやってしまいましたあせる


◆歴史◆

1424年、奥平貞俊により築かれました。

奥平貞俊は上野国甘楽郡奥平から三河へ移って来ました。はじめは川尻城を居城としていましたが、手狭になったため、亀山城を築きました。この時期に、関東から移って来た人がかなり居たんですね!一色城の一色時家は永享の乱で敗れたのが原因でしたが、奥平貞俊はどうだったんでしょうか?

群馬の奥平城
▲群馬県高崎市吉井町の奥平城跡(地図)

この頃の関東は、鎌倉公方と関東管領の対立は無く、将軍と鎌倉公方でやり合っていました。関東には将軍直属の京都扶持衆と呼ばれる武士が居り、反鎌倉公方的な活動をしていました。近い所では、1422年に京都扶持衆・小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に討伐されています。

奥平氏の居た甘楽郡一帯は、白旗一揆と呼ばれる武士団がありました。白旗一揆は将軍・鎌倉公方の両者とは距離を置き、状況に応じて立場を変えていました。将軍直轄地の多い三河へ移ったということは・・・将軍に味方するか、鎌倉公方に味方するかで意見が割れ、居場所が無くなったのでしょうか?

1573年、奥平貞昌が長篠城へ移りました。

奥平氏は境目の国衆として、周囲の大勢力に翻弄され続けていました。今川氏親→松平清康→今川義元→徳川家康→武田信玄→徳川家康といった感じです。

1571年に武田信玄に寝返った際には、人質を出しています。その後、1573年に武田軍が三河へ侵攻し、菅沼氏の野田城を攻めました。上洛を目指していた筈の武田軍が、2ヶ月も野田城に留まった後、甲斐へ退却。その直後、奥平貞能は武田信玄の死が確実だとして、徳川家康のもとに帰参しました。徳川家康から相談を受けた織田信長は、婚姻と所領倍増で奥平氏を懐柔することをアドバイス。これを受け、徳川家康は長女・亀姫を、奥平貞能の嫡男・貞昌に嫁がせました。この時期に奥平氏が長篠城へ移っており、長篠菅沼氏の領地が奥平氏に与えられたようです。長篠菅沼氏も徳川→武田に鞍替えしていましたが、うまく時流に乗れなかったんですね。

奥平氏の寝返りに激怒した武田勝頼は、奥平氏の人質3名を処刑。さらには、2年後の1575年に長篠城へ1万5千の大軍で攻めて来ました。これが長篠の戦となり、武田軍は壊滅。奥平氏はこの戦を機に出世街道に乗り、最終的には10万石の大名となりました。ということで、奥平氏の本拠地は長篠城に移ったようです。戦後、奥平貞昌は織田信長から「信」の字を与えられて奥平信昌と改名し、家督を継ぎました。

1590年、奥平信昌が関東へ移りました。

徳川家康の関東移封に従い、上野国甘楽郡宮崎3万石へ移りました。奥平氏発祥の地へ里帰りしたんですね!三河には池田照政(=輝政)が入りましたが、奥平氏の城は使わなかったそうです。

1602年、松平忠明が亀山城に入りました。

奥平信昌の4男・松平忠明が亀山城に入り、作手藩1万7千石を立藩しました。松平忠明は徳川家康の長女・亀姫の子で、徳川家康の養子となり松平姓を名乗りました。1610年には伊勢国亀山5万石へ移り、大阪の陣後の大阪復興で大活躍した人物です。道頓堀の名付け親だそうで、その後も活躍して播磨姫路藩18万石まで出世しました。


所在地:愛知県新城市作手清岳

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石橋城/愛知県新城市

石橋城は慈昌院というお寺になっています。
訪問日は2014年8月6日です。

石橋城①

慈昌院を駐車場から見た所です。地形がもうラブラブラブラブラブラブその上に連なる瓦葺の屋根がまた、いい雰囲気醸し出しています^^

石橋城②

こんどは山門を。ここが本来の虎口だったかどうかは?ですが・・・坂虎口の奥に門がある感じがして、この雰囲気大好きです恋の矢城跡にお寺があると、あっさり妄想モード全開になりますドキドキ左側にあるのがお寺の石碑、右側には石橋城址の木製の標柱があります。

石橋城③

境内から見たお寺の建物です。武家屋敷っぽくて・・・って、さっきからモードが切れずあせる手前のがもっと高ければ物見櫓っぽく見えるのにって、ここはお寺だと完全に忘れてますw

石橋城④

境内にある説明板に載っている図です。単郭ですね!その周りを土塁と堀で囲まれている様子が描かれています。冷静に落ち着いてちゃんと見れば、誰でもわかりますよね?

石橋城⑤

境内を囲む土塁です。そこそこの高さがあります。ここにある墓石は城主様達を弔ったものだと思います。

あれ?外側の堀は?って思いますよね?私も思います。「土塁の外は堀」って、城キチなら誰でも知ってる方程式ですが・・・すっかり頭が熱くなって、見ていませんでした(涙)


◆歴史◆

石橋奥平氏の屋敷でした。

石橋奥平氏は、奥平氏2代目当主・奥平貞久の次男・久勝を祖とします。奥平宗家の本拠である亀山城の目と鼻の先に石橋に屋敷を構え、石橋奥平氏と呼ばれました。

1537年、城主一族が討ち果たされました。

石橋奥平氏2代目の奥平繁昌が、謀反を企てたとして討たれました。謀反の理由は???ですが・・・宗家当主の奥平貞勝は、一族で和田貞雄の次男・土佐定雄に討伐を命じました。城内に突入した土佐定雄の軍勢は、城内に居た42名を殺害。1つの穴に全員埋めたそうです。

奥平繁昌の子・太郎次郎は難を逃れ、鳳来寺に匿われていました。それを知った奥平貞勝は、黒屋重広に太郎次郎殺害を命じました。黒屋重広は自らの子らを囮とし、仇討ち話を持ち掛けて太郎次郎を誘い出しました。こうして石橋奥平氏は完全に絶えました。

当時の周囲の状況は、1529年の宇利城攻めの時に従った松平家がグダグダでした。1535年に松平清康が守山崩れで没した後、その大叔父・松平信定が専横しました。跡継ぎの竹千代(=松平広忠)が、まだ10歳になるかどうかでしたから・・・松平信定は岡崎城を乗っ取り、松平家当主に名乗りを上げました。竹千代の存在が邪魔な松平信定は、その命を狙うようになります。東条吉良氏の計らいで、竹千代は吉良氏の所領があった伊勢に逃れています。竹千代が元服して三河に戻ったのは、1540年のことです。

松平広忠が三河に戻ると今川義元が加勢。状況が不利なことを悟った松平信定は、松平広忠に従いました。その後、岡崎城のすぐ西にある安祥城を、織田信秀が攻めました。この小豆坂の戦いでは、奥平貞勝は織田軍に加勢したそうです。

・・・ここいら辺りにヒントがあるのでしょうか?松平信定も織田信秀に近く、婚姻関係にありました。三河に勢力を拡大したい今川義元は、幼い松平広忠の方が都合が良かった筈です。織田・今川の両勢力から誘いがあり、家中で意見が真っ二つに割れたとしたら・・・なんて、妄想は尽きませんメラメラ

城跡に慈昌院が建立されました

徳岩明和尚が奥平貞勝に許しを得て、城跡にお寺を建てました。これが慈昌院の始まりです。年代はわからずあせる奥平貞勝が当主の時代なので、1537年から1573年までの間と思われます。この地で悲惨な最期を遂げた42名を弔うのが目的だったそうです。


所在地:愛知県新城市作手清岳

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文殊山城/愛知県新城市

文殊山城は、奥平氏の本拠・作手の西にあった山城です。
訪問日は2014年8月6日です。

文殊山城①

文殊山城への道は、市役所の支所脇からのものが地図に載っています。だからこそ、真夏でも「楽に行けそう♪」で訪ねました。でも、道は途中から未舗装に。ひとくちに「未舗装」と書いても色々ですが・・・ここの「未舗装」は、バイクが最も苦手とする「砂利コロコロ道」です。まだ行ける!とタカを括って、ものの見事にすっ転びました(´;ω;`)

文殊山城②

さすがにもう無理かと諦め、その場にバイクを停めてそこから歩きました。・・・Uターンじゃない所が鉄砲玉ですwその嗅覚というか勘は当たり、10分もしない内に模擬櫓が見えてきました。歩いてでも進んで正解でしたヾ(*´∀`*)ノ

文殊山城③

城内の様子です。単郭で真ん中に物見櫓があります。往時がこうだったとは思えませんが、こういう雰囲気は大好きデス^^

文殊山城④
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説明板に載っている図です。やはり単郭で、堀と土塁で囲まれたシンプルな造りです。見張り台、烽火台といった所だったようですね。

文殊山城⑤

こういうのが大好きなので、ついつい撮っちゃいます。お城=白亜でない所がイイですね!遺構を傷つけない程度にこんな感じのモノが増えたらいいな、なんて思います。

文殊山城⑥

外周の一部には、こんな感じの低い土塁が残っていますラブラブ


◆歴史◆

元亀年間(1570~72年の間)、奥平氏によって築かれました

麓にあった亀山城を本拠とした奥平氏は、今川・徳川・武田の大勢力に翻弄されました。今川義元が討死した後も、しばらくは今川方として行動しました。その後、松平家康(徳川家康)に従いましたが、1568年頃から武田信玄が今川領を狙います。武田信玄は奥三河の奥平氏や菅沼氏などを調略し、三河へ進出。1571年頃には、奥平貞能も武田信玄に従うようになりました。

現地説明板によると、文殊山城はこの時に和睦の条件として築いたと書かれています。武田軍といえば、烽火ネットワークで有名ですよね。その烽火ネットワークをさらに南へ伸ばしたということでしょうか。もしくは、武田軍が奥平氏の動きを監視する役割もあったかもしれません。

奥平氏はココ文殊山城を、一夜にして築いたと伝わります。なかなか城を築かない奥平氏に対し、武田信玄が強く迫ったためとありました。武田信玄は南の徳川軍、そして奥平氏の両方を監視しようとしていたのかもしれませんね。

その後の歴史に、文殊山城は登場しません。武田信玄に強く言われて渋々築いたものの、1573年に奥平氏は再び徳川方に帰参しました。そして奥平氏は長篠城へ移ったため、ココは完全に存在意義を失っています。


所在地:愛知県新城市作手清岳

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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