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豊川城/愛知県豊川市

豊川城は光明寺に城址碑があるだけです。
訪問日は2014年8月7日です。

豊川城①

光明寺の山門です。たぶん、かつては塀で囲まれていた、と思います。そうでなければ、「なぜここに門?」ってなっちゃいますし。・・・もともとかもしれませんけどw

豊川城②

この門の右手に、愛知縣が建てた城址碑がありますヽ(´∀`)ノ愛知縣、いい仕事します合格ちょっと気になるのは、この石碑の向き。お寺そのものが城跡なら、お城をバックにする角度で設置されると思うのですが・・・気のせいでしょうか?

豊川城③

門の左手には、お寺の説明板があります。設置したのは教育委員会。ただ、この説明の中にお城の事が一切書かれていません。
気・に・な・る(゚∠゚)


◆歴史◆

詳しい事はサッパリ。
光明寺の説明板では、天文年間(1532~55年)に開創されたと書かれています。なので「お寺=城跡」ではなく、豊川城はお寺に隣接していたかもしれません。

『三河国二葉松』には次のように記載されています。

豊川村古屋敷
頼朝卿幼年之時代大江入道定厳住居後
小笠原少目水野佐渡守同八十郎領三千石

全部漢字ですあせる
崩して読むと

源頼朝が幼年の時代に大江入道定厳が住んでいた。のちに小笠原少目、水野佐渡守、水野八十郎が3000石を領する、でしょうか。それぞれの人物をググるもサッパリヒットせず…

それでも、この中で一番ヒットしたのが小笠原少目です。それでも出てきたのは豊川神社絡み。年代は書かれていませんが、小笠原少目が豊川に住み、以後地元の名族になったというもの。以後「社殿の造営宝物の寄進に力をそそぎ代々当社を崇敬した」そうです。

この辺りの小笠原氏といえば、三河国幡豆郡や遠江の高天神城の小笠原氏が近い感じです。彼らは1500年代初め、家庭内不和を理由に府中から松尾へ移った小笠原一族です。松尾小笠原氏は1505年に三河へ出兵しており、以後幡豆郡で小笠原氏の名が登場します。高天神城の小笠原氏は、三河国幡豆郡から更に遠江へ移った一族です。

豊川神社の由緒では、1645年に小笠原忠知が青銅製六角形釣燈籠を奉納しています。小笠原忠知は吉田藩主で、府中小笠原氏の子孫です。推測が正しければ小笠原少目とルーツが同じです。同族が崇敬する神社ということで、奉納したのかもしれませんね。

1638年、陣屋が取り壊されました。

小笠原氏の次に名前が挙がっているのが、水野佐渡守と水野八十郎です。彼らもサッパリヒットせず・・・豊川神社の由緒では、1630年に水野佐渡守が刀一口を献納しています。水野佐渡守は1635年に没し、子の代に領地を没収されたとあちこちで書かれています。兄の水野勝成でググると、弟・忠重としてそんな一事がひっそりと書かれているだけです。何があったのかはサッパリですあせる


所在地:愛知県豊川市西豊町(光明寺)

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瀬木城/愛知県豊川市

瀬木城は神明社となっており、堀と土塁の一部が残っています。
訪問日は2014年8月7日です。

瀬木城①

城跡はかなり宅地化されていますが、一部が神明社として残っています。その入口に案内があります。場に不相応な位に立派なのですがw

瀬木城②

案内の矢印に従ってみると、すぐ目の前に説明板があります。という事は、ここはもう城内なんですね!

瀬木城③
拡大表示

その説明板に載っている図です。航空写真と見比べると、南と北、南東の虎口っぽい所に道があるようです。ただ、周りを囲む堀の痕跡は見えず。左側に描かれている立派な川?は、その痕跡すら見当たりません。

瀬木城④

じゃぁ、城跡にある神明社を拝んで次行くかぁ!と思った矢先。茂みの隙間から、こんな光景が見えました。どうやら堀跡のようです。雨水が溜まったのか、水が溜まっていました。

瀬木城⑤

さらにちょっと進むと、神明社が見えて来ます。ここが図に描かれている南側の虎口でしょうか。

瀬木城⑥

鳥居の脇には大きな土の塊が。土塁の一部のようです。厚さといい高さといい、かつてはかなり重厚だった感じがします。


◆歴史◆

1493年、牧野古白により築かれました。

牧野古白は一色時家に仕えていました。その一色時家は1477年、家臣の波多野全慶により討たれています。牧野古白は、この波多野全慶に従っていたと思われます。それから16年後、今度は牧野古白が波多野全慶を討ちました。この戦に先立って築かれたのが、この瀬木城なのだそうです。位置的には、牧野城と一色城のちょうど真ん中辺りにあります。

一般的には、旧主の仇を討ったと書かれることが多いのですが・・・16年も経ってから仇討ちをするでしょうか?

京で起こった明応の政変で、将軍が交代しています。東では駿河今川家に居た伊勢盛時(後の北条早雲)が、堀越公方・茶々丸を討っています。ここら辺は既に今川氏の勢力が及んでおり、今川氏親は新将軍派でした。波多野全慶が自らの正当性を証明するため、前将軍に近付き過ぎたのかもしれませんネ。

1505年、廃城になったと思われます。

一色城城主・牧野古白が、今川氏親に命じられて今橋城を築きました。そしてその城主になり、牧野古白の次男・牧野成勝が一色城の城主となりました。瀬木城は既に役割を終えており、この時に廃城になったものと思われます。


所在地:愛知県豊川市瀬木町

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一色城/愛知県豊川市

一色城は関東から来た一色時家のお城でした。
訪問日は2014年8月7日です。

一色城①

一色城は牛久保城のすぐ近くにありました。という表現は間違いですネ・・・牛久保城は、一色城の脇に新たな城として築かれました。・・・表現は正しいけど、主語が逆ですなwwwまぁ、とにかくお隣さんレベルでご近所です。ただ、地図を眺めていると、その間に今川義元のお墓があったりします。通りすがりに寄ってみようとは思いましたが、気が付かなかったようですあせる

一色城②

会社の敷地内ではありますが、駐車場だからいいか?ということで。木の標柱が立てられており、そこには「一色城保障外壁の跡」と記されています。一色城の遺構はおそらくこれだけ。牛久保城ですらほぼ消滅なので、よくぞ残してくれた!という感じがします。


◆歴史◆

1439年、一色時家が築きました。

一色時家は、鎌倉公方・足利持氏に仕えた一色持家と同一人物とされます。永享の乱では叔父・一色直兼とともに兵を率い、関東管領・上杉憲実を攻めました。この乱に敗れた足利持氏と一色直兼は永安寺に幽閉され、幕府方の討伐軍に囲まれ自害。一色時家は関東から出奔し、同族・一色義貫が守護を務める三河へ逃れました。1440年にその一色義貫が粛清されましたが、足利持氏残党を匿ったためとされます。しかし、一色時家は特に攻められたりはしていないようです。

1477年、一色時家が家臣・波多野全慶に討たれました。

一色時家は応仁の乱では、本家に同調して西軍方として行動しました。知多郡や渥美郡の同族とともに、東軍方の三河守護・細川成之と戦っています。しかし、細川成之の家臣・東条国氏を自害に追い込んだ事が、後に災いとなります。細川成之は、この事件を契機に幕府への出仕を停止。幕府は事態を重く見て、一色義直に三河奪還を諦めることを命じました。一色義直は三河放棄を書面で約束したため、細川氏と一色氏の三河を巡る争いは終わりました。

しかし、ここで一色時家に仕えていた波多野全慶が下剋上を起こしました。波多野全慶は兵を起こして灰野塚で戦い、一色時家を敗死させました。もともとが幕府に追われる身だったので、特にお咎めは無いと踏んだのでしょうか?それとも、幕府から一色義直にそのような命令があったのでしょうか?丹波守護代の波多野氏は、出自不明ながらこの頃から歴史に登場し始めます。一色時家を討った波多野全慶が、そのまま一色城の城主となりました。

1493年、牧野古白が城主となりました。

牧野古白は法名で、実名は牧野成時です。一色時家旧臣で、そのまま波多野全慶に仕えました。仇討ちにしては時間が経ち過ぎている気がしますが・・・灰野塚で波多野全慶を討ち、一色城に入りました。ここでもすんなり城主が交代しています。やはり、京での明応の政変(将軍交代のクーデター)が影響しているのでしょうか?

1505年、牧野成勝が城主となりました。

牧野古白は今川氏親の命により今橋城を築き、その城主となりました。一色城は瀬木城主・牧野成勝が新たな城主となりました。牧野成勝の代に城の名を「牛窪城」に改めたとされます。

1529年、廃城となりました。

吉田城主・牧野信成の命により、牧野成勝が牛窪城(一色城)近くに新たな城を築きました。この年、松平清康が攻めて来ましたが、城の完成はその後のようです。旧牛窪城と新牛久保城は一時併用されていたようですが、やがて旧の方が廃城となりました。


所在地:愛知県豊川市牛久保町

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牛久保城/愛知県豊川市

牛久保城は東三河の雄・牧野氏のお城です。
訪問日は2014年8月7日です。

牛久保城①

牛久保城は現在の牛久保駅一帯にありました。ということで、その辺りの風景です。ご覧の通りで、遺構は期待できずハートブレイク城址碑だけでも、と思って訪ねました。目的のブツは、牛久保駅の真東にあります。

牛久保城②

踏切の手前から、城址碑のある場所を見た所です。ちょっとした公園のようになっています。赤い柱のような物体の脇に、説明板が見えています。

牛久保城③

その説明板に載っている古図です。かつては二重の堀に囲まれていたんですね!ココは堀跡が道にはならず、綺麗に真っ平にしてしまったようです。航空写真を見ても、全く面影がわかりませんあせる

牛久保城④

それでも!ちょっとした削り残しっぽい所に立派な石碑がヽ(´∀`)ノ・・・と思って近づいたら「忠魂碑」でしたw城址碑はそのちょっと手前の右にコッソリ写ってるヤツです。

牛久保城⑤

これが牛久保城の城址碑です。
愛知縣バンザイ合格


◆歴史◆

1529年、牧野成勝が築きました。

牛久保城は一色城の近くに築かれた新しい城です。一色城は牛久保城の古図の中に描かれるくらい近くにありました。築城したのは牧野成勝で、一色城主でした。この年、松平清康が吉田城を攻略して三河統一を成し遂げています。この時に攻められていないことから、その後に築かれたものと思われます。その後まもなく、一色城は廃城とされています。

1556年、牧野成定が城主となりました。

牧野貞成が織田信長に内通し、西尾城に籠城しました。今川義元は松平好景と松平康定に西尾城を攻めさせ、牧野貞成は牛久保城へ退却。その後、城主の身分を剥奪され、蟄居の身となりました。後任の牛久保城主には、牧野一族の牧野成定が任命されました。

1561年、松平元康から夜襲を受けました。

今川義元が桶狭間で討死した後、松平元康は今川家から独立しました。その時に最初に攻めたのが牛久保城とされています。

当時の牛久保城は、城主が今川氏真の命令で西尾城を守っていました。また、残り半分の兵力は野田城守備を命じられており、牛久保城自体はとても手薄でした。松平元康はその上、牛久保城の有力家臣数名も調略した上で夜襲を掛けたのですが・・・城に居た真木兵庫助が奮戦し、留守居役の稲垣重宗が戻って辛うじて落城しませんでした。今川氏真は、この夜襲があるまで松平元康が独立することに気づかなかったそうです。この戦いで真木越中守が討死し、今川氏真はその遺児2名に感状を直接渡したそうです。松平元康は今川家から決別する意味で、松平家康と改名しました。

1566年、牧野康成が城主となりました。

牧野氏は今川方として抵抗を続けましたが、吉田城の小原鎮実が撤退し孤立無援となりました。この頃になると城主・牧野成定は病が重くなり、宿老・稲垣重宗に内政・軍事を委任。稲垣重宗は和睦を献策し、牧野成定は受け入れました。牧野成定は岡崎へ出向き松平家康と謁見し、降伏が受け入れられました。まもなく牧野成定が病没したため、嫡男の牧野康成が家督と遺領を相続しました。

この時ちょっと揉めましたが・・・
ちょっとだけ書きますw

牧野康成は人質として、今川氏真の元に居ました。家督を継いで城主になったものの、その身柄は駿河にありました。そのため、牧野保成の子(成元または成真)と相続を巡って争いとなりました。なんで相続争いになるんだろうと考えてみたのですが、牧野成定が牧野保成の弟だったのかも。牧野成定の出自は???ですが、その跡目を主張するのはその兄の家系と思われるからです。この裁定は徳川家康と今川氏真がバックにつき、最終的に牧野康成が勝利しました。

1590年、池田照政(=輝政)の城となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、牧野康成が上野国大胡2万石へ移りました。牛久保城は三河の主となった池田照政の家臣・荒尾成久が城主となりました。

1600年、天領となり代官所が置かれました。

池田輝政が播磨国姫路へ移り、牛久保は天領となりました。城の一部に代官所が置かれたそうですが、1700年に廃止となりました。


所在地:愛知県豊川市牛久保町

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伊奈城/愛知県豊川市

伊奈城は城址公園として整備されています。
訪問日は2014年8月5日です。

伊奈城①

伊奈城址公園は周りがこんな感じなので、場所はとてもわかりやすいです。訪ねたのが日没前後だったので、写真は全般的に暗い感じです。塩銀フィルムだったら完全に諦める所ですが、デジカメって偉大です(/・ω・)/遠くから見たのがこんな感じ。かつては沼沢地に囲まれた微高地だったんですね。

伊奈城②

周囲はわざとらしい石垣で囲まれています。あちこち見てると、こういう所もわかるようになってきます。ただ、河原の丸石を積んだ石垣のお城も実在するので、もしかしたらというのはありますけど。十中八九は公園を整備する際に積んだものと思います。それでも、安易に白亜の建物を建てなかった辺り、とても好感が持てますラブラブ

伊奈城③

遺構としては、公園の半分を囲む土塁があります。高さは3m程でしょうか。変に手を加えていないのがグッド!です。

伊奈城④

そして、その土塁上に立派な城址碑がありますヽ(´∀`)ノ年月を経て加わった重厚さというか、何というか。やっぱり城跡にはコレが必要ですね恋の矢


◆歴史◆

伊奈本多家の城でした。

築城年は不詳ですが、享徳年間(1452~55年の間)に本多定忠にが築いたとされます。本多氏は元は豊後国本多に居ましたが、足利尊氏に従って功があり、尾張に移りました。さらに三河へ移り、本多定助の長男が平八郎家、次男が彦八郎家の祖となっています。伊奈本多氏は彦八郎家の血筋です。ちょうどこの年代に、すぐ北の森城に常陸から佐竹政義が移って来ています。この辺り一帯を治めていた土豪が、何らかの理由でこの地を去ったという事でしょうか。年代的には、松平信光が長沢を攻略した直後です。本多平八郎家は既に松平家に従っていました。松平信光の家臣として敵対勢力を破り、ココに落ち着いたものと思われます。

1529年、葵紋が松平家の家紋となりました。

三ツ葉葵紋の起源には諸説ありますが、その1つが本多氏の紋だったというものです。城主・本多正忠は、松平清康による吉田城攻めに参加。色々ググって読むと、どうやら寝返って松平方についた感じです。ハッキリとそう書かれたものはないのですが、地理的に牧野氏に従っていた可能性が大です。本多正忠は先陣を切って吉田城の東門を突破し、勝利に貢献しました。この戦の後、本多正忠が伊奈城へ松平清康を招いて酒宴を催しました。この時、城内にあった水葵の葉に料理を載せていたそうです。上機嫌の松平清康が松平家の家紋にしたいと、三ツ葉葵紋を譲り受けたそうです。
本多氏は以後は立ち葵紋を使うようになりました。

伊奈本多家は今川義元→徳川家康に仕えました。

その後、しばらくの動静が?ですが・・・周囲の状況から松平清康の没後、他の東三河の勢力同様に今川義元に従いました。この時代の城主は本多忠俊です。今川義元が討死すると、本多忠俊は早い段階から松平家康に従いました。三河一向一揆の際は、東の今川軍に備えて領内の小坂井に砦を築き備えています。松平家康が一揆を平定後に再び攻勢に出ると、吉田城の今川家臣・小原鎮実を数度に渡り説得。その甲斐あって小原鎮実は吉田城を退去し、松平家康の三河統一につながりました。本多忠俊はこの直後に没し、本多忠次が家督を継ぎました。

徳川家康に従って関東へ移り、廃城となりました。

本多忠次には子が無かったようで、1580年に酒井忠次の次男を養子に迎えました。1589年に本多忠次は養子の本多康俊に家督を譲り隠居。翌年、徳川家康が関東移封に従い、下総国小篠5000石へ移り伊奈城は廃城となりました。その後、本多康俊は1600年に三河国西尾2万石、1615年には近江国膳所3万石へと出世しました。子の本多俊次は膳所→西尾→亀山→膳所の順に移封。伊奈本多家は、膳所7万石の藩主として明治まで続きました。


所在地:愛知県豊川市伊奈町

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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