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新城城/愛知県新城市

新城城跡は小学校になっています。
訪問日は2014年8月6日です。

新城城①

小学校ということで、お子様達が居たらちょっと気まずいかな?と思いながらの訪城でした。夏休みだからたぶん居ないとは思っていたのですが・・・だいたい現実は希望とは反対側に振れるもんですね。まぁ、でも、こんな立派な門があれば、そりゃ観光客は見に来るでしょ!・・・と勝手に理論武装して撮りました。かなりチキンですwww

しかし、この門とても立派です。現存門なのだろうかと気になりました。書いている時は「興味を持つ側」ですが、アップすると「見られる側」になります。なので、調べてみました。結果は・・・復元門でしたクラッカー

ちなみに、小学校の中に土塁や堀などが残っているそうです。こんな肝心な情報を、訪ねる前にはなぜか知らなかったんですがあせる


◆歴史◆

1575年、奥平貞昌により築かれたとされます。

奥平氏は奥三河の国人です。徳川・今川・武田の大勢力に挟まれ、その去就は家の運命を左右する一大事でした。1571年に武田信玄が攻めて来た時、徳川→武田に寝返りましたが・・・1573年に攻めて来た武田軍が退却した後、再び徳川に帰参しました。徳川家康は織田信長のアドバイスを受け、長女・亀姫を奥平貞昌に嫁がせています。この事が露見すると、武田勝頼は奥平氏の人質3名を処刑。新城が築かれたのは、武田軍の来襲に備えてのものでした。1575年、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて攻めて来ました。

奥平貞昌は長篠城に籠城。徳川家康と織田信長が救援軍を出し、武田軍と激突しました。武田軍は数多くの重臣を失い、壊滅的な敗北を喫しました。歴史的大勝利に貢献したとして、奥平貞昌は織田信長に称賛されました。ここで織田信長から「信」の偏諱を与えられ、奥平信昌に改名しました。・・・この「信」の字は、武田晴信から与えられていたなんて噂もありますけどw

1590年、池田照政の支配地となりました。

奥平信昌が徳川家康に従って関東へ移り、三河は池田照政(=輝政)の支配地となりました。新城には池田照政の家臣・片桐半右衛門が赴任しました。池田照政は菅沼氏や奥平氏の城館を破却し、新たに代官所を建てました。

1600年に天領、1606年以後は新城藩の拠点となりました。

はじめは水野氏が入りましたが・・・1648年、菅沼定盈の孫・菅沼定実が藩主となりました。実は丹波亀山藩で長兄・菅沼定昭が跡継ぎ無く没し、無嗣改易されていました。しかし、祖父・菅沼定盈の功が評価され、定昭の弟・定実に新城藩が与えられたのでした。新城藩の菅沼氏は、そのまま交代寄合として明治まで続きました。


所在地:愛知県新城市新城(新城小学校)

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野田城/愛知県新城市

野田城は、武田信玄が銃撃された噂のあるお城です。
訪問日は2014年8月6日です。

野田城①

現在の野田城は1本の道がすぐ脇を通っており、簡単に辿り着くことが出来ます。端に説明板が設置されており、ちょっと(かなり)鈍い私でも大丈夫でした^^

野田城②
拡大表示

その説明板に載っていた図です。川に挟まれた舌状台地に堀切を入れた感じですね。北(図の左側)に備えているのがよくわかります。じゃぁ南(図の右側)から攻めればすぐでは?なんて思いますが・・・現地でそんな目で見ればよかったのですが、地図ではどうやら断崖になってるっぽいです。たぶん、ですけどあせる

野田城③

わーい着いたヾ(*´∀`*)ノとばかりに図をろくすっぽ見ずに進むと、すぐに堀切が見えました。図の左から右に進んでいるので、1本見落としているのですがあせるこれは3郭と2郭の間にある堀切です。

野田城④

さらに進むと、小さな神社が見えてきました。というよりも、城キチ的には「大きな堀の向こうに」ですがw堀を渡る土橋は細く、しかもまっすぐではありません。こういう細かい所にも工夫が凝らされているんですね!

野田城⑤

2郭と主郭の間にある堀切です。上から撮った写真だと大したことないように見えてしまいますが・・・結構深いですラブラブ最近、自分は堀が好きなんだって自覚してきました^^

野田城⑥

そしてそして、ちゃんとコレもあります!やはり、よそでは見ないオリジナリティ溢れる城址碑ってイイですね恋の矢恋の矢恋の矢尚、周りにはためく「笛の盆」の幟たち、気になりますよね?ちょっとググってみましたが・・・どうやら新城の町おこし活動のようです。由来はやっぱりアノ噂でしょうか。


◆歴史◆

1509年より菅沼定則が築きました。

1505年に富永氏からの要請により養子となったのですが・・・富永氏の方が菅沼氏よりも家格は上でしたが、菅沼姓を名乗ることを条件だったそうで。当然富永氏側で反対意見が沢山出て、菅沼定則はなかなか富永氏の元に入れませんでした。そして、ようやく翌年になって館に入ることが出来ました。しかし、富永氏の館は立地が悪く、たびたび洪水にも悩まされるような場所でした。そのため、新たに城を築くことになりました。こうして築かれたのが野田城です。築城には8年の歳月を要し、1517年に完成しました。

1556年、城主・菅沼定村が討死しました。

奥平貞勝や田峯城の菅沼本家が、今川義元を裏切り織田信長方に寝返りました。そのため、今川義元は討伐軍を差し向けたのですが・・・この討伐軍に参戦した菅沼定村が、なぜか後続の無いまま突出。そのまま戦となり、菅沼定村の部隊が全滅しました。

1561年、今川軍に占拠されました。

跡を継いだ菅沼定盈は、今川義元の討死後に独立した松平家康に従いました。東三河では西郷清員が中心となって菅沼氏や設楽氏を誘いました。そのため今川氏真により攻められ、野田城は落城。城主・菅沼定盈は、血縁のあった西郷清員のもとへ逃れました。野田城には、牧野成定の重臣・稲垣氏俊が城代として入りました。

1562年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。

年が明けると、奥三河で今川軍と松平軍の攻防が一進一退を繰り返します。情勢は次第に松平方が優勢となり、6月には菅沼定盈が野田城を夜襲により奪還しました。この戦いで、野田城を守っていた稲垣氏俊が討死しています。一連の攻防により野田城は激しく傷んだため、菅沼定盈は大野田城を仮の居城としました。

1571年、武田軍に攻められました。

年明け早々に、武田軍の秋山信友が菅沼定盈の大野田城を攻めました。この時、城主・菅沼定盈は西郷清員、設楽貞通らと力を合わせて撃退しています。しかし、西郷氏の当主・西郷義勝がこの戦で討死しています。秋山信友はその後、各地の菅沼一族を個別に寝返らせて5月に再び攻めて来ました。この時は武田軍を防ぎ切れず、大野田城は大破・落城しました。武田軍撤退後、菅沼定盈は守りの固い野田城を再び本拠にしました。

1573年、武田信玄に攻め落とされました。

武田信玄が上洛のため、3万の大軍で野田城を攻めました。菅沼定盈は1ヶ月に渡り抵抗しましたが・・・武田軍は甲斐から金山掘を呼び寄せ、穴をあけて水源を絶ちました。そのため、菅沼定盈は城兵の助命を条件に開城し、捕虜となりました。

上洛のため挙兵したはずの武田軍でしたが・・・進軍を止めて野田城で足踏みし続けました。さらに1ヶ月後の3月に入ると甲斐へ撤退し始めました。城主・菅沼定盈はこの時、両軍の人質交換で戻されました。

この帰途に、武田信玄が世を去っています。武田氏側の記録では、病死だったとされています。しかし、『菅沼家譜』では武田信玄が銃撃されたような記述があります。ただ、ストレート表現ではなく、「夜銃声がして武田軍が騒がしくなった」だそうです。そこに尾ひれが付いて・・・

美しい笛の音に誘い出された武田信玄が、銃で撃たれて死んだ

なんて伝説が生まれたのだとか。

1574年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。

武田軍が撤退した後、徳川家康は長篠城を奪還。菅沼定盈も、自らの本拠である野田城を奪い返しました。その翌年、武田勝頼が攻め込んで来ましたが・・・徳川家康と織田信長の連合軍が、武田軍に大勝しています。

1590年、廃城となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、菅沼定盈も上野国阿保1万石へ移りました。三河に入った池田照政は、新城に片桐半右衛門を代官として置きました。野田城はこの時に廃城となり、破却されています。


所在地:愛知県新城市豊島

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本宮長山城/愛知県豊川市

本宮長山城の跡には、真っ赤な神社があります。
訪問日は2014年8月7日です。

本宮長山城①

小学校脇の細道の奥に、真っ赤な神社があります。草の緑に映えてとても綺麗です恋の矢

この真っ赤な社の裏に堀が残っているそうです。知ってか知らずか、たぶん知らなかったと思うのですが・・・真っ赤な神社だけ撮って、この日の城めぐりを終えたのでしたあせる


◆歴史◆

不詳w

ってことで、戦の時に陣を敷いた陣城かもしれませんね。川上方向に堀があり、更に堀のような川が城跡を囲むようにあります。徳川家康が武田信玄に備えて築いたものでしょうか???1573年、武田信玄がすぐ北の野田城にしばらく留まっていましたからね。


所在地:愛知県豊川市上長山町

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勝山城/愛知県豊川市

勝山城は谷戸形式のお城だったようです。
訪問日は2014年8月7日です。

勝山城①

遺構は井戸のみとのことでしたが、井戸に興味が沸かず・・・城址碑だけ見て来ました。城址碑はこんな感じで、道が交わる所にあります。左側のスペースは集会所です。木陰に涼んでる感じが微笑ましいです(*'▽')

勝山城②

城址碑です。刻まれている詩は、柴屋軒宗長が立ち寄った際に詠んだものだそうです。柴屋軒宗長は駿河の連歌師で、「急がば回り」はこの人物の歌に由来します。連歌界の巨匠で細川高国、大内義興とも交流があり、今川氏親の外交顧問だったそうです。駿河と京をたびたび行き来しており、そのたびに近在の西郷氏を訪ねていたそうです。その宗長が1522年、熊谷越後守の館で詠んだ歌がこの城址碑に刻まれています。西郷氏とは、ご近所同士としての交流がちゃんとあったようですね!


◆歴史◆

宇利熊谷氏の館であったと思われます。

宇利熊谷氏は、足利尊氏に従って功のあった熊谷直鎮を祖とします。熊谷直鎮は三河国八名郡を与えられ、この辺り一帯を支配しました。宇利城から勝山城までかなり距離があり、他にあまり城がありません。熊谷氏はかなり広い範囲を領有していたと思われます。

史料に現れるのは、1522年の『宗長手記』ただ1回きりです。そこに記されているのは、熊谷越中守の勝山の館で一日連歌を詠んだ、といった内容です。

1530年、宇利熊谷氏が滅びました。

三河統一を目指す松平清康が、この辺り一帯に攻め込んで来ました。宇利城の熊谷実長は抵抗したため、城を攻め落とされました。熊谷実長の消息は不明ですが、子や一族は三河各地へ落ち延びました。西三河で後に頭角を現す高力氏は、宇利熊谷氏の出なのだそうです。尚、ご近所の西郷氏は松平清康に従うことで家名を保っています。


所在地:愛知県豊川市三上町

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牧野城/愛知県豊川市

牧野城はビニールハウス街?の中にあります。
訪問日は2014年8月7日です。

牧野城①

辿り着いた時の写真です。周りをビニールハウスに囲まれた中に、こんもりと藪が聳えています。

牧野城②

その一角だけ壊されずに残された部分があります。土塁はかなり高く、残された部分の長軸は60m程でしょうか。

牧野城③

その「緑地」の入口っぽい所に説明板があります。

牧野城④
拡大表示

その説明板に載っている図です。赤線で囲まれた部分が残存している箇所です。・・・この図が描かれるまでは、更に道沿いに土塁が残っていた模様。残念ですねあせる

牧野城⑤

この土塁の一番高い所には、ちゃんと城址碑があります。草むら搔き分けて登った甲斐がありました(*'▽')


◆歴史◆

牧野氏のお城でした。

牧野氏の出自はよくわかっていません。城主・牧野古白直系の家系では、讃岐国から来た田口氏の子孫だと伝わっています。田口氏が讃岐から三河へ来たのは、応永年間(1394~1428年の間)とされます。将軍・足利義持が田口成富を、直轄地である三河国牧野の地頭としたためです。田口成富は、地名をとって牧野姓を名乗るようになったということです。

城主としてハッキリしているのは、牧野成時(古白)です。牧野古白は牧野成富の子で、一色時家に仕えていました。

1477年、一色時家が家臣の波多野全慶により討たれました。1493年、その波多野全慶を、今度は牧野古白が討ちました。それぞれ「なぜ?」なのかは???ですが・・・牧野古白は一色時家の支配地域をそのまま継承し、東三河屈指の有力者となりました。牧野城には嫡男・牧野能成、瀬木城には次男・牧野成勝が入りました。

1505年、廃城になったと思われます。

牧野古白は、渥美郡に今橋城(のちの吉田城)を築いて移りました。以後、牧野城が歴史に登場しないことから、この頃に廃城になったと思われます。

今橋城の築城は、三河へ勢力を拡大しようとする今川氏親の命令によるものでした。しかし、場所がマズかったようで・・・これが渥美郡で勢力を拡大してきた戸田宗光を刺激し、泥沼の争奪戦が始まりました。翌年、戸田宗光と戦った牧野古白は、戦に敗れて戦死してしまいました。以後、今橋城(=吉田城)を巡る戦は、1547年に戸田氏が今川義元に滅ぼされるまで続きました。


所在地:愛知県豊川市牧野町

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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