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砥石城/長野県上田市

砥石城は、若き武田信玄が当たって砕けた有名な山城です。
訪問日は2018年4月29日です。

砥石城【1】

夏休みに長野県内を回ったっきり、超山城なため行ってなかった所です。
こんな感じの所がまだまだ全国に沢山あると思います。
続日本100名城のスタンプ狩りという名目が出来て、ようやく訪ねました。
・・・あれからもうすぐ2年ですが、書くのを忘れていましたあせる
超有名所という事で、登城路は真夏に登れそうな位に整備されています。

砥石城【2】
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駐車場には、ザックリ(=頭に入りやすい)案内図があります。
「砥石城」は実は、複数の山城をまとめた総称です。
超有名なお城なのに、訪ねるまでそんな事も知りませんでしたあせる
櫓門から米山城、砥石城、本城、枡形城をまとめて見られます
私がココから登ったのには、ちゃんと理由があったのです(`・ω・´)
・・・後付けですが

砥石城【3】
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駐車場には、もう1枚同じような案内図があります。
内容は一緒ですが、もうちょっと詳しいです。
ココを極めようとしたら、1日では足りません。

砥石城【4】

さて、さっそくですが登城開始です。
駐車場からサクッと上がった所に、こんな門がありますラブラブ
長野では、こういう雰囲気の門をよく見たような気がします。

砥石城【5】

砥石城というと「超険しい山城」というイメージがありました。
だからこそ、真夏の訪問は避けたのですが・・・
実際に歩いてみると、こんな感じの所が多いです。
見た目は楽そうに見えますが、私は真っすぐな山道が苦手です。
苦しい状況で先が見えるのは、ある意味精神的に堪えます。

砥石城【6】

登城口から7分程で、左側に山の頂上が見えてきました。
これが、案内図で登城路の左に描かれていた米山城です。
あの頂上に立ち寄るのか・・・と、いちいちダメージを受けましたw

砥石城【7】

さらに3分進んだ所で道が分岐します。
まずは「砥石城」を構成するお城の1つ、米山城へ向かいます。

砥石城【8】

分岐した先でも、大まかには真っすぐな山道が続きました。
途中でゆるやかコースと険しいコースに分かれ、私は前者から進みました。
山城は大好きですが、苦しい山登りは大キライ。
出来うる限り、ラクして登りたいですからね。
ただ、ゆるやかコースでも、所々にこんな感じの所があります。
色々と妄想を掻き立てられるようになると、城キチは息を吹き返します^^

砥石城【9】

分岐から5分程で、平らに開けた所に出ます。
ここが米山城です。
1つの山城ですが、堀や土塁、虎口は見当たりませんでした。
いきなり平らな芝生に石碑が現れ、少しばかり拍子抜けしました。

砥石城【10】

石碑には「村上義清公之碑」と彫られています。
村上義清が依った「砥石城」がココだったという事でしょうか。

砥石城【11】
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米山城の東屋脇に、砥石城との位置関係を示す図があります。
こうして見ると、独立した城でなく、砥石城の出城だった事がわかります。

砥石城【12】

さぁ、先へ進もうと振り返ると、段々になっている事に気づきました。
「何も無かった」なんて書きましたが、上から見たらそうでもありません。
緩やかではありますが、曲輪が段差で区画されていた様子が見えました^^

砥石城【13】

米山城へはゆるやかコースで登って来ました。
なので、元の登城路へ戻る下りは、険しい方を歩きました。
ずっとこんな感じで、その名の通り険しい山道でした。
事前に抱いていた砥石城の登城路は、こんなイメージでした。

砥石城【14】

先ほどの分岐に戻り、次の砥石城を目指します。
すると、ここからは丸太階段地獄が待っていました。
階段山道はよく整備されているように見えますが、これも私は苦手です。
階段では、強制的に膝を上げざるを得ませんからね・・・

砥石城【15】

階段地獄を登ること約5分で、それっぽい岩が現れました(*´▽`*)
いかにも門っぽいこの構え、やっと2つ目の城跡に着いた(*´▽`*)
・・・と思いました。

砥石城【16】

門・・・もどきの先には、こんな光景が待っていました。
それまでよりも、輪を掛けて傾斜のキツイ階段が待っていましたあせる

砥石城【17】

分岐から階段地獄を登ること約10分で、またしても思わせブリな光景です。
階段道の先に、平坦面があるように思わせるこの光景。
確かに平坦面がありそうですが、と、ちょっと懐疑的になっていました。

砥石城【18】

疑心暗鬼に囚われ、期待せずに登った所が2つ目の砥石城でした。
ここが、山城群の総称となった所です。
その割に、単発の砥石城はこれだけです。

砥石城【19】

眺めはとても良いですけどラブラブラブラブラブラブ

砥石城【20】

さらに奥へ進もうとすると、案内がちょっと変。
色んなモノが無理な体勢でひしめいています。
まぁでもこっちか、で進むと・・・

砥石城【21】

目の前が大きく窪んでいますラブラブ

砥石城【38】

本城側から砥石城を振り返って見た所です。
こちら側は、2条の大きな堀切で絶たれています。
切岸は鋭く、本城側からの侵攻を防ぐ向きに見えます。
・・・村上さんの仕業でしょうか?

砥石城【23】

堀切を過ぎてすぐに、段々の曲輪が見えて来ました。
手前に文字の書かれた板が見えますが、これは大手口のものです。
砥石城の堀切からたった3分で、本城の入口に着きました。

砥石城【24】

米山城も砥石城も見張り台のような感じでした。
しかし、本城はここから段になった曲輪が続きます。

砥石城【25】

階段のように連なる曲輪が続きますが、まだまだ上に段が見えます。

砥石城【26】

えー、まだ続くの?と思っていると、白い標示板が2つある段が現れました。
もしかして?!と、ちょっとだけ元気が湧いてきました。

砥石城【27】

左側の白い標示は、石垣のものでした。
言われなくてもわかるレベルの石垣が、ちょこちょこと残っていますラブラブ
ここは他よりも守りが厳重だったようです。
そして、もう1つの標示には「本城跡」と書かれています。

砥石城【28】

さすが「本城」だけあって、かなりの広さです。
「本城」は真田氏時代の主郭とされます。
村上氏時代のココがどうだったのか、かなり気になります。

砥石城【29】

奥へ進むと、再び段差があります。

砥石城【30】

ここでも奥側に堀切があります。
しかもこの向きは、こっち側に来て欲しくない感じです。

砥石城【31】

先から振り返るとこんな感じです。
ココで足止めするゾ(`・ω・´)という雰囲気が伝わります。

砥石城【32】

ただし、奥の枡形城の方が標高は高く、再び登り坂が続きます。

砥石城【33】

まっすぐ登ること3分で、ちょっと切り立った所が現れます。
まだまだ続くんだろなぁなんて、期待し過ぎない自分が現れます。
今までどんだけヌカヨロコビして来たんだか、という位ひねくれてますw

砥石城【34】

上がってみたら、白い標示と説明板のある曲輪がありました。
ここが砥石城の一番奥にある枡形城です。
名前の由来は、先ほどひねくれた所が枡形になっている事だそうです。

砥石城【35】

先端部は小さな堀切で区切られています。
そこに何やら案内が。

砥石城【36】

そこには、ここから何が見えるのか描かれています。
その中心に描かれているのが、真田氏本城です。
ココからだと、真田氏の本拠が丸見えだったんですね!

砥石城【37】

せっかくなので、その眺めです。
真ん中の芝生っぽい小高い丘が、真田氏本城でしょうか。
真田氏がココを死守したかった理由がよくわかる眺めです。


◆歴史◆

築城年代は不明です。

歴史に登場するのは1541年です。
1541年5月、海野平の戦で滋野一族が敗れました。
戦った相手は武田・村上・諏訪連合軍です。
これだけの相手と戦っただけでも凄いです。
敗れた海野棟綱・真田幸綱は、縁者を頼って上野国へ逃れました。
その後、村上義清が砥石城を整備しています。
という事で、それ以前からあったという事です。
村上義清は重要拠点に位置付け、重臣を城代に据えました。

1550年8月、武田軍を撃退しました。

武田信虎が追放され、武田晴信は村上義清と敵対しました。
その武田晴信は、2年前に村上義清に大敗していました。
その直後に小笠原氏から松本平を奪って勢力を拡大。
満を持して村上義清にリベンジを挑みました。
この時に武田軍が攻めたのが砥石城でした。
しかし、砥石崩れと呼ばれる大敗を喫し、多くの主力を失いました。
普通ならここで大崩れして滅亡へ向かうのですが・・・

1551年5月、真田幸隆が陥落させました。

上野国へ逃れていた真田幸隆が、砥石城を「乗取」ました。
真田幸隆の動向は不明ですが、この頃から武田家に仕えています。
史料に「乗取」と書かれている事から、調略で内部崩壊させたようです。
真田幸隆は、この時の活躍により武田晴信から旧領を与えられました。
武田晴信は真田幸隆に砥石城の改修を命じます。
そして2年後の1553年、ついに村上義清を越後へと追いやりました。
以後の真田氏は、北東の上野国吾妻郡へと版図を拡げて行きます。

1600年、真田信之に攻められました。

1582年の武田家滅亡後、真田昌幸は権謀術数を駆使し生き残りました。
その結果、どちらかというと徳川家康寄りな姿勢で落ち着きました。
しかし、天下分け目となった関ヶ原の戦で、反徳川の姿勢を露わにします。
この時、本多忠勝の娘を娶っていた嫡男・真田信幸が徳川方となります。
そのため、真田家は親子で戦うことになりました。
この時に、真田信幸は真田信之と名を改めました。
真田昌幸は、築いたばかりの上田城に籠り徳川秀忠に頑強に抵抗します。
徳川秀忠は時間を浪費する中、真田信之に砥石城攻めを命じます。
砥石城を守っていた弟の真田信繁は、抵抗せず城を明け渡しています。
しかし、真田昌幸は上田城で抵抗する姿勢を崩さず。
徳川家康が徳川秀忠に「早く来い!」と催促したのが一週間後でした。

関ヶ原での本戦の後、真田昌幸は高野山へ流罪となりました。
上田は真田信之が継ぎましたが、上田城は破却されました。
砥石城がどうなったのかは、以後の歴史に登場せず不明です。
遅くともその15年後の一国一城令までには廃城になったと思われます。


所在地:長野県上田市上野 GPSログダウンロードページ

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飯山城/長野県飯山市

長かった長野シリーズもようやくトリです!トリなのですが、要再訪ですあせる
訪問日は2008年8月17日です。

飯山城/①
▲図 拡大表示

本丸の葵神社前にあった説明板の案内図をパクリました。この図によると、飯山城は周囲を水堀で囲まれた平山城だったようです。地図を見比べると、お城を囲んでいる道が堀跡のようです。ちなみに、現在の説明板はこの図ではなく、古図にグレードアップしているようです。

飯山城/②神社
▲葵神社

本丸にある葵神社です。社殿の前に案内図付きの説明板が見えます。よそのサイト様を拝見すると、ここが本丸ですあせる・・・城キチになりたての頃だったので、もうどこが何やらサッパリだったんですね・・・石垣の枡形虎口が左隅にちょこっとだけ写ってますが、完全にスルーしちゃってますダウンダウンダウン

飯山城/④三の丸
▲三の丸

本丸から二の丸をスルーして三の丸です。何となく城内をふらふら歩いていて、当時ここが一番高いと感じていました。これ書こうとあちこちのサイト様にお邪魔したら、見てない石垣の写真がゴロゴロと・・・それらを拝見し、枡形虎口や二の丸の石垣にすら気付いてなかったことがわかりましたT_T・・・こりゃリベンジせないかんですあせる

飯山城/③駐車場にある石垣
▲石垣

本丸→→三の丸と歩き、下った所が西の丸、その外側の駒場が駐車場となっています。その駒場からお城側にこの立派な石垣があります。当時一番感動したのがこの石垣だったのですが・・・どのサイト様にも登場しないという事は、後世のものなのでしょうかT_T今写真を見ても往時のもののように見えるのですが・・・どうなんでしょう?

飯山城/⑤復元門
▲模擬城門

再び表に出て城門をじっくり見ました。綺麗に保存されている門だなぁなどと感心していましたが・・・門の説明板の文面をつい先程読んで納得しました。その説明板によると、どこかの門が移築されていたが解体され、その廃材を使ったとのこと。要するに材料だけは本物で、姿かたちは何となくそれっぽく組み立てたという事です。・・・こういうのは現地で読まないとwww


◆歴史◆

泉氏の城でした。

築城時期は不明です。泉氏は鎌倉時代から飯山周辺の常盤牧を領有していた国人です。戦国時代に高梨氏が寓居しているため、何らかの関わりがあったと思われます。

高梨氏は越後で守護・上杉氏と守護代・長尾氏が対立した頃、長尾氏を支援していました。高梨氏周辺の市河氏や島津氏などは、守護の上杉氏を支援していました。飯山は越後に近いため、深く関わっていたのは間違いないのですが・・・

1510年に長尾為景は高梨政盛の援軍とともに関東管領・上杉顕定と戦って破っています。高梨軍は飯山を通る筈なので、高梨氏と同じく長尾氏を支援していたかもしれません。泉氏が高梨氏の家臣として組み込まれたのは1542年頃と考えられています、

1559年、高梨政頼が移って来ました。

武田軍に本拠地・中野の小館を攻め落とされた高梨政頼が飯山城へ移って来ました。城主は泉弥七郎(=尾崎重歳)です。高梨政頼が援軍が来なければ武田軍に降ると強気に出たため、長尾軍が援軍に来ました。

1561年、高梨政頼が春日山城に移りました。

高梨政頼は長尾景虎の小田原城攻めには帯同せず、飯山城で武田軍に備えていました。長尾景虎は鎌倉で上杉政虎に改名し、そのまま川中島へ向かい第四次川中島合戦となりました。上杉家臣の桃井義孝、加地春綱らが援軍として飯山城に駐留しました。この時に泉八家(泉一族の8氏)の内、岩井満長だけが春日山城へ移りました。

1563年、一時的に武田軍に乗っ取られました。

上杉輝虎が関東へ出陣している隙を衝き、一時武田軍に占領されました。翌月には上杉軍が奪回し、泉七家が常に城を守るよう厳命されます。岩井満長はこの頃から上杉輝虎の直臣となりました。

1564年、上杉輝虎により改修されました。

第五次川中島合戦の後、上杉輝虎がじきじきに指揮をとり改修されました。城主は引き続き泉弥七郎が務め、泉七家の他に、上杉直属軍も配置されました。以後、飯山城は武田軍との最前線となりました。

1568年、武田軍に攻められましたが撃退しました。

4月に越後の本庄繁長が武田信玄に内応し、謀叛を起こしました。武田軍は7月に飯山城を攻めましたが、攻め落とすことは出来ず撤退しました。翌年になると武田信玄は三国同盟を破棄し、上杉輝虎と和睦しました(甲越和与)。

1578年、上杉謙信が没し、越後は内乱状態となりました(御館の乱)

上杉謙信が急死し、養子の上杉景勝・景虎が家督を巡って争いました。この時、飯山城の泉七家では大滝氏だけが景勝方で、ほぼ景虎方となりました。そのため、景勝方の小森澤政秀の攻撃を受けています。

1579年、武田勝頼の城となりました。

御館の乱の最中に上杉景勝が武田勝頼と同盟を結びました。(甲越同盟)この同盟の条件として、飯山城は武田勝頼に割譲されました。武田勝頼は当初、上杉景虎の援軍として一門の武田信豊に出陣させていました。飯山城の泉七家が無事でいられたのは、この武田軍の動きによるのではないかと思います。

1582年3月、武田勝頼が滅ぼされました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされ、飯山城は森長可の支配下となりました。尾崎重元は越後に逃れ、織田軍に下った武田旧臣の市川信房が城代となりました。

1582年6月、岩井信能が城主となりました。

本能寺の変により森長可が美濃へ逃げ帰り、上杉景勝が北信濃一帯を制圧しました。この時、岩井信能が飯山城城代・市川信房に開城させています。岩井信能は泉一族の庶流ですが、嫡流の尾崎重元と立場が逆転しました。(尾崎重元は岩井信能の配下となっています)

1598年、上杉景勝が会津へ移されました。

泉八家も上杉景勝に従って会津へ移りました。豊臣家臣の関一政が城主となりましたが、翌年美濃へ移りました。以後、短期間で城主の交代が相次ぎます。

1717年、本多氏の城となり、明治維新まで続きました。

本多利久が飯山藩主となり、本多助芳と改名しました。以後、明治維新まで本多氏が飯山藩主を務めました。

1868年、幕府軍と明治政府軍の戦いの場となりました。

鳥羽・伏見の戦いの敗残兵を集めた衝鋒隊が越後で体勢を整え、飯山へ侵攻しました。ここで明治政府方の飯山藩・松代藩・川中島駐留の尾張藩と戦いになりました。衝鋒隊は撃退しましたが、戦いで飯山城の西半分が焼失したようです。

1871年、廃藩置県により飯山藩は廃藩となりました。

この時に廃城になったとみられ、翌年から城の解体が始まりました。建築物の一部は移築され、現存しているものもあります。城内の説明板に記載されているものは以下の通りです。

・南大手門(2層目焼失):信雙寺(長野市)
・不明門:妙専寺(飯山市)
・裏門と伝わる門:長野市の民家
・どこか不明だが飯山城の門:中野市の民家

城内にあるそれっぽい門は、これらとは別の「飯山城のものと思われる」移築門でした。その移築門が1993年に解体されたため、廃材を譲り受けて組み立てられました。大きさや姿かたちは南中門と同じにしたそうです。


所在地:長野県飯山市飯山

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大峰城/長野市

大峰城には模擬天守が聳え建っています。
訪問日は2007年7月7日です。

大峰城/①図
▲図 拡大表示

なんとなくドライブで立ち寄ったのが大峰城です。大峰城は山城ですが、山頂まで綺麗な舗装道が通っています。ただ、通行出来る時間帯が限られていたような、いなかったような・・・8年も前の事なので、もう覚えていません。

当時はまだ城キチの芽が出始めた頃です。堀や土塁に反応するのはまだあと数年の歳月を要しました。・・・ということで、そっちは残念ながら全く見ていませんあせる

大峰城/②模擬天守
▲模擬天守

この模擬天守は、麓の長野市街からも見えます。ということで、川中島合戦で争奪戦が繰り広げられたお城です。この模擬天守が建てられたのは昭和37年です。鉄筋コンクリートの天守が全国各地で建てられた時期です。長野県ならば松本城という立派な天守のあるお城があるのですが・・・そこは県庁所在地としての意地があったのかもしれませんw

大峰城/③眺め
▲眺め

山城恒例のいい眺め♪の筈でしたが・・・当日は空気がガスっぽく霞んでいました。でも、市街地はバッチリ見えますよね?あれから新幹線が開通したりしてるので、風景変わってると思いますがあせる


◆歴史◆

戦国時代に築かれました。

ハッキリとした築城年は不明です。築城したのは長尾景虎方の葛山城主・落合備中守の家臣・大峰蔵人とされます。川中島を見下ろす葛山城や旭山城と同様、川中島合戦の際には争奪戦が繰り広げられた筈です。ただ、大峰城単体の様子がサッパリわからないので、葛山城の経緯を代わりに書きますm(_ _ )m

1555年、長尾景虎が葛山城を改修しました(第二次川中島合戦)

武田方に寝返った善光寺別当・栗田寛安が、川中島を見下ろす旭山城を改修したためです。これに対抗するため、長尾景虎が落合氏の葛山城を改修しました。大峰城もこの時に築かれたのでしょうか?

1557年、武田軍に攻められ葛山城が落城しました(第三次川中島合戦)

武田軍の真田幸隆の調略により、葛山城の落合一族の一部が武田軍に内応しました。そのため葛山城は落城し、落合備中守は討死しました。これを受けて、長尾景虎は2年前の和議の条件として破却した旭山城を修復しています。

1561年、第四次川中島合戦で、旭山城が武田軍に攻め落とされました。

旭山城の城兵の活躍ににより、上杉軍の一部は辛くも撤退出来たとされます。ただ、その後武田軍に攻められ、旭山城は陥落しました。川中島を見下ろす山城群は、武田軍により制圧されたことになります。

1564年、第五次川中島合戦

上杉輝虎(謙信)は善光寺、武田信玄は善光寺平南部の塩崎城に本陣を置きました。この戦いは武田軍が飛騨へ攻め込む動きをけん制するのが目的でした。そのため、2ヶ月に渡って睨み合いを続けた後、大きな戦いもなく両軍とも退却しました。

1569年、武田信玄が上杉輝虎と和議を結びました。

武田信玄は三国同盟を解消し、将軍・足利義昭の仲介を得て和議を結びました(甲越和与)。上杉輝虎が武田信玄に塩を送ったのもこの頃からです。以後、武田軍の矛先は南へ向かいました。・・・ということで、この時に川中島を見下ろす山城群は役割を終えたと思われます。

1962年、大峰城跡に模擬天守が建てられました。

鉄筋コンクリート造の模擬天守が建てられ、展望台として利用されました。昭和30年代には全国各地でコンクリート天守が流行りました。このコンクリート天守は、1981年からは「チョウと自然の博物館」となりました。

2007年12月、「チョウと自然の博物館」が閉館しました。

利用客が殆ど居ないことから閉館されました。その後も建物は取り壊されていない様子で、長野市のサイトでも何も触れられていません。2014年10月撮影のGoogle Mapのストリートビューでは、大峰城への道が工事中でした。(道を舗装し直している様子です)・・・ということは、近々何か動きがあるかもしれませんね。


所在地:長野市長野

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荒砥城/長野県千曲市

荒砥城は中世城郭の様子が復元されています。
訪問日はちょっと昔の2007年7月7日です。

荒砥城/①図
▲図 拡大表示

荒砥城への道は綺麗に舗装されており、バイクでも安心して登れます。訪問当時はクルマでしたけどwその駐車場に案内図の板があります。始めに書きますが、ここは有料です。

荒砥城/②入口
▲案内所の門

図に描かれている「案内所」です。冠木門と小屋があるだけで、簡単には通してくれなさそうな雰囲気を醸しだしています。・・・くれぐれも強行突破はなさらないで下さいネw

荒砥城/③城門
▲城門

さらにウネウネ登ると、先ほどよりも堅牢そうな城門が現れます。これが二郭のだったか主郭のだったか忘却の彼方ですが・・・あせるこんな門が2つもあると、突破するのは容易ではありませんね!

荒砥城/④建物
▲兵舎

・・・と書いたものの、兵舎はこれです。大人数は入れませんよねあせる主郭にも兵舎はありますが、篭れるのはせいぜい数十人といった所。荒砥城は本格的な防衛拠点というより、物見台か狼煙台といった性格だったのでしょうか。

荒砥城/⑤虎口
▲主郭の虎口

それでも、この虎口は見事なものです。規模は小さいながら、簡単には攻め落とさせまいとする決意が感じられます。

蛇足ながら、信濃の山城ではこんな感じの石垣が多いように思います。2013年の夏休みに長野をグルッと巡りましたが、夏ということで山城訪問を断念しています。行って見たい!と思った山城は、こんな感じの石垣がある所ばかりでした。

荒砥城/⑥再 主郭からの眺め
▲主郭からの眺め

主郭から千曲川方向を見た眺めです。両岸を山に挟まれた千曲川流域が一望のもとに見渡せます。見張り台としては最高の場所ですね!


◆歴史◆

1524年、村上氏一族の山田国政により築かれました。

村上氏一族の山田国政により、葛尾城の支城として築かれました。葛尾城は千曲川を挟んだ対岸にあります。この頃の村上氏は北の高梨氏、南東の海野氏と争って勢力を拡大している時期です。この時の当主は、まだ家督を継いだばかりの村上義清です。

1550年、武田軍に砥石城を攻められましたが撃退しました。俗に言う「砥石崩れ」です。この時の砥石城城代が山田国政でした。

1551年、砥石城が真田幸綱(幸隆)により乗っ取られました。城を守っていた矢沢頼綱が真田幸綱の弟でしたからねwww

1553年、武田軍に攻められ落城しました。

武田軍に攻められ落城し、山田国政は討死しました。その後、村上氏本拠の葛尾城も落城し、村上義清は越後へ逃れました。長尾景虎が村上領回復のため出兵し、葛尾城を一時的に取り戻しましたが・・・長尾軍撤退後、すぐに武田軍により奪い返されました。荒砥城には村上義清を裏切った屋代政国に与えられました。

その後、武田家滅亡、天正壬午の乱と信濃は荒れますが、屋代氏が城主であり続けました。

屋代政国の没年は定かではありませんが、甥の屋代秀正が家督を継ぎました。天正壬午の乱を経て、この辺りまで上杉景勝の支配地域となっていました。屋代秀正は海津城の副将として厚遇されていました。しかし、城主・山浦国清(村上義清の子)とは仲が悪かったとされています。

信濃府中の深志城は小笠原貞慶が支配し、上杉景勝と境界を争っていました。その係争地が荒砥城のすぐ西にある麻績でした。

1584年、廃城となりました。

1584年4月、室賀満俊とともに突然徳川家康方に寝返り、荒砥城に立て篭もりました。上杉方の山浦国清に攻められて落城し、屋代秀正は徳川家康のもとへ逃れました。主を失った荒砥城は、この時に廃城になったとみられます。

ところで、室賀満俊は屋代秀正とは実の兄弟でしょうか?屋代政国の弟が室賀満正で、屋代秀正は室賀満正の四男でした。屋代政国の子は皆討死したため、甥っ子を養子に迎えて家督を継がせていました。わかっている続柄と名前から何となくそんな感じがしただけですがあせる

1995年、城山史跡公園として整備されました。

5年も掛けて復元(開発?)したんだそうです。「城 = 白亜の天守」って短絡的発想に走らず、ちゃんと木造で整備されています。
こういう城跡は大好きです恋の矢ただ、当時が今整備されている通りなのかどうかはサッパリ分からず。たぶん残っていた遺構をもとに「復元」されたのかとは思いますが。


所在地:長野県千曲市上山田

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福平城/長野市

福平(ふくだいら)城は蕎麦で有名な戸隠にあったお城です。
訪問日は2013年8月1日です。

福平城/①再
▲ココを右折します

戸隠は山奥で、全般に道が細いです。集落の中で特に案内も無く道が分岐しまくるので、ココに辿り着くのも大変でしたあせるココまで来れば城跡はもうスグです。

福平城/②お城の案内
▲案内

この案内、ここにしか無いんですw

福平城/③神社
▲神社

道を登り切った所に神社があります。鳥居が冠木門に見えてしまう辺り、そろそろ目までヤラレ始めたようです・・・説明板があるので、場所は合っていたんだと安心しました合格

福平城/④主郭
▲主郭からの眺め

鳥居の所で回れ右して見えた風景です。こうやって見ると主郭の下に2段の郭があったんだなぁと想像出来ます。そして、ここからは戸隠の集落が一望出来ました。カメラアングルもう少し上げた方が良かったですねあせる

福平城/⑤説明板
▲社殿脇にある説明板

社殿の脇には古びた手書きの説明板が立て掛けてありました。もしかすると、以前は鳥居脇にこれがあったのかもしれませんね。新しい物を設置したからといって捨てないのはグッド!ですね^^

この社殿の裏の山中に、空堀や土塁が巡らされているそうです。無知とは悲しいもので、当時そこまで調べてなかったので見逃していますT_T


◆歴史◆

今井兼平の城だったという伝承があります。

今井兼平(1154~84)は木曽義仲四天王の一人で、文武両道の武将でした。この伝承の根拠は付近の今井という地名と、周辺に今井姓の方が多く住んでるからだそうです。伝承で「今井兼平の城」と言われている所は各地にあり、人気の程が窺えます。

戦国時代は溝口氏の城だったとされます。

戦国時代は溝口氏の城だったとされ、別名・溝口城とも呼ばれます。ただ、城主の溝口氏については何もわからずあせるすぐ南東にある円光寺が領主の屋敷跡とみられますが、こちらも主がよくわかっていません。

戦国時代に武田信玄と上杉謙信が川中島で戦っており、戸隠も戦火に見舞われたそうで・・・そのため戸隠一帯は荒廃し、復興されたのは江戸時代に入ってからだそうです。


所在地:長野市戸隠栃原

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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