2015/05/15
横山城/長野市
横山城は善光寺のすぐ隣にありました。訪問日は2013年8月1日です。

▲城山公園の案内図 拡大表示
横山城跡は城山公園となっています。その駐車場脇にあった公園の案内図をパクりました。図を見る限りではお城っぽさが感じられません。善光寺のすぐ隣ですからね。ガッツリ造成されたのでしょう。

▲何となくな地形
それでもフラっと歩いていると、何となく城跡っぽい地形がありました。これはきっと櫓台に違いない!・・・と勝手に妄想を巡らせます。見えない物が勝手に見えてって、これじゃまるで危ない人です


▲健御名方富命彦神別神社
「たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ」と読むのだそうです。もちろん読めませんでした(-_-)vこの神社の辺りが主郭だったと考えられています。この社殿の裏に土塁が残っているそうなんですが・・・見てません


▲空堀
そして、神社の前の道です。条件反射で撮ったのですが、これは空堀の跡なんだそうです。当たりでしたヽ(´ー`)ノ☆この堀を見ると、かなり規模の大きなお城だったと想像できます。

▲善光寺
この空堀から西を見ると、大きなお寺が見えました。目測で距離は100m位。せっかくだからと見てきました。早朝でガラガラだったので。城に引かれて善光寺って事ですね


▲道端の土盛り
城山公園を通り抜けて北の方を見て来ました。その道端にはこんな土盛りが。こちらも条件反射で撮っています。土塁じゃないですよねw周囲は公園としてガッツリほじくり返されていますので。

▲堀切橋
ずっと北に進むと、その名も「堀切橋」があります。・・・ということは、この橋の下が「堀切」と呼ばれているということですね!もはや本能の赴くがままですw

▲堀切?w
堀切橋の上から撮りました。これが堀切だとすれば、超巨大なお城です。この地形を堀切として利用したんでしょうね。平地にありながら、特定の方向には要害地形を備えていたんですね!
◆歴史◆
南北朝時代に築かれたと考えられています。
1351年、足利直義方の禰津氏、井上氏が足利尊氏方の小笠原氏、高梨氏と戦いました。足利義直が北から南へ移動する道を切り開くための戦いで、善光寺も戦場となりました。この時は足利尊氏方の城で、攻防戦では城方が勝利しています。
室町時代初期は幕府・守護と国人衆の対立の場となりました。
1369年、守護・上杉朝房と国人衆が戦った際に落城したようです。守護の信濃入国を阻止しようと、村上氏ら国人衆は守護方の上遠野左近蔵人を攻めていました。そのため、関東管領兼信濃守護の上杉朝房が信濃に出兵しました。この時に善光寺別当の栗田氏は国人側として戦い、善光寺が焼失しています。
1387年、守護・斯波義種と対立した村上氏や高梨氏ら国人衆が平柴の守護所を攻めました。斯波義種は信濃国人の押領について究明しようとしたとされます。この時に横山城も戦場となり、守護代・二宮氏泰が篭城しています。
1403年、室町幕府の代官・細川慈忠が入城しました。守護が相次いで国人衆と戦っては敗れたため、ついに信濃は幕府直轄領となりました。その代官として細川慈忠が派遣されました。細川慈忠は国人衆たちの押領の状況を明らかにしようとしたため、度々対立しました。1415年頃までには騒乱が収束に向かい、信濃統治が安定し始めました。
川中島の戦いでは長尾景虎(上杉謙信)が本陣としました。
1555年、第二次川中島合戦では長尾景虎が横山城に本陣を置きました。武田晴信は犀川対岸の大堀館に本陣を置きました。戦いは200日間に及び、最終的には今川義元の仲介により和議を結びました。この戦いの後、武田晴信は善光寺の本尊を甲府に移し、甲府善光寺を建立しました。善光寺別当の栗田寛安も甲斐に移っています。
1561年、第四次川中島合戦で上杉政虎(謙信)が横山城に入りました。川中島合戦の中で最も激しかった戦いの後、上杉軍は横山城に入りました。この時は武田、上杉ともに勝利宣言する程、お互いに消耗しました。上杉軍は妻女山から川中島を抜け、横山城に集合する作戦だったようです。
これ以降、横山城の様子がわかりません。
1564年の第五次川中島合戦で上杉軍は善光寺に本陣を置いたとされます。もしかしたら、これも横山城を指しているかもしれませんが。
想像ですが・・・
この頃には川中島は武田晴信が掌握していました。武田軍の拠点は海津城であり、上杉軍が横山城を利用するのを防ごうとすると思います。そのため、上杉軍が撤退した後に破却したのではないかと思います。
第五次川中島合戦の後、上杉軍は飯山城に改修を加えています。一方の武田軍は、1568年に長沼城を大改修しています。両者の戦いの最前線が北上したものと思われます。
所在地:長野市長野(城山公園)
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