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横山城/長野市

横山城は善光寺のすぐ隣にありました。
訪問日は2013年8月1日です。

横山城/①城山公園の案内図
▲城山公園の案内図 拡大表示

横山城跡は城山公園となっています。その駐車場脇にあった公園の案内図をパクりました。図を見る限りではお城っぽさが感じられません。善光寺のすぐ隣ですからね。ガッツリ造成されたのでしょう。

横山城/②城っぽい地形
▲何となくな地形

それでもフラっと歩いていると、何となく城跡っぽい地形がありました。これはきっと櫓台に違いない!・・・と勝手に妄想を巡らせます。見えない物が勝手に見えてって、これじゃまるで危ない人ですあせる

横山城/③主郭にある神社
▲健御名方富命彦神別神社

「たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ」と読むのだそうです。もちろん読めませんでした(-_-)vこの神社の辺りが主郭だったと考えられています。この社殿の裏に土塁が残っているそうなんですが・・・見てませんあせる

横山城/④堀切
▲空堀

そして、神社の前の道です。条件反射で撮ったのですが、これは空堀の跡なんだそうです。当たりでしたヽ(´ー`)ノ☆この堀を見ると、かなり規模の大きなお城だったと想像できます。

横山城/⑤善光寺
▲善光寺

この空堀から西を見ると、大きなお寺が見えました。目測で距離は100m位。せっかくだからと見てきました。早朝でガラガラだったので。城に引かれて善光寺って事ですねあせる写真だとわかりませんが、かなり巨大です^^

横山城/⑥土塁?
▲道端の土盛り

城山公園を通り抜けて北の方を見て来ました。その道端にはこんな土盛りが。こちらも条件反射で撮っています。土塁じゃないですよねw周囲は公園としてガッツリほじくり返されていますので。

横山城/⑦堀切橋
▲堀切橋

ずっと北に進むと、その名も「堀切橋」があります。・・・ということは、この橋の下が「堀切」と呼ばれているということですね!もはや本能の赴くがままですw

横山城/⑧堀切?
▲堀切?w

堀切橋の上から撮りました。これが堀切だとすれば、超巨大なお城です。この地形を堀切として利用したんでしょうね。平地にありながら、特定の方向には要害地形を備えていたんですね!


◆歴史◆

南北朝時代に築かれたと考えられています。

1351年、足利直義方の禰津氏、井上氏が足利尊氏方の小笠原氏、高梨氏と戦いました。足利義直が北から南へ移動する道を切り開くための戦いで、善光寺も戦場となりました。この時は足利尊氏方の城で、攻防戦では城方が勝利しています。

室町時代初期は幕府・守護と国人衆の対立の場となりました。

1369年、守護・上杉朝房と国人衆が戦った際に落城したようです。守護の信濃入国を阻止しようと、村上氏ら国人衆は守護方の上遠野左近蔵人を攻めていました。そのため、関東管領兼信濃守護の上杉朝房が信濃に出兵しました。この時に善光寺別当の栗田氏は国人側として戦い、善光寺が焼失しています。

1387年、守護・斯波義種と対立した村上氏や高梨氏ら国人衆が平柴の守護所を攻めました。斯波義種は信濃国人の押領について究明しようとしたとされます。この時に横山城も戦場となり、守護代・二宮氏泰が篭城しています。

1403年、室町幕府の代官・細川慈忠が入城しました。守護が相次いで国人衆と戦っては敗れたため、ついに信濃は幕府直轄領となりました。その代官として細川慈忠が派遣されました。細川慈忠は国人衆たちの押領の状況を明らかにしようとしたため、度々対立しました。1415年頃までには騒乱が収束に向かい、信濃統治が安定し始めました。

川中島の戦いでは長尾景虎(上杉謙信)が本陣としました。

1555年、第二次川中島合戦では長尾景虎が横山城に本陣を置きました。武田晴信は犀川対岸の大堀館に本陣を置きました。戦いは200日間に及び、最終的には今川義元の仲介により和議を結びました。この戦いの後、武田晴信は善光寺の本尊を甲府に移し、甲府善光寺を建立しました。善光寺別当の栗田寛安も甲斐に移っています。

1561年、第四次川中島合戦で上杉政虎(謙信)が横山城に入りました。川中島合戦の中で最も激しかった戦いの後、上杉軍は横山城に入りました。この時は武田、上杉ともに勝利宣言する程、お互いに消耗しました。上杉軍は妻女山から川中島を抜け、横山城に集合する作戦だったようです。

これ以降、横山城の様子がわかりません。

1564年の第五次川中島合戦で上杉軍は善光寺に本陣を置いたとされます。もしかしたら、これも横山城を指しているかもしれませんが。

想像ですが・・・
この頃には川中島は武田晴信が掌握していました。武田軍の拠点は海津城であり、上杉軍が横山城を利用するのを防ごうとすると思います。そのため、上杉軍が撤退した後に破却したのではないかと思います。

第五次川中島合戦の後、上杉軍は飯山城に改修を加えています。一方の武田軍は、1568年に長沼城を大改修しています。両者の戦いの最前線が北上したものと思われます。


所在地:長野市長野(城山公園)

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横田城/長野市

横田城は住宅街の真ん中に埋もれています。
訪問日は2013年7月31日です。

横田城/①土塁
▲道から見える土塁

篠ノ井の住宅街をウロウロしながらゆっくり走り辿り着きました。地図で見た通り住宅街のド真ん中で、案内も無いので探すのに苦労しました。あえて目印を挙げるとすれば、土塁の上に生えている木でしょうか。住宅街の中では目立つと思います。

横田城/②標柱
▲標柱

上の写真で写っている青い建物の脇に標柱があります。とりあえず最低限の目標はクリアヽ(´∀`)ノ・・・といった感じです。あとは怪しまれない程度に遺構を探るのみです。

横田城/③土塁
▲土塁

真っ先に駆け寄るのは土塁です。道の表からも見えてますからね!かなり低くなっているようですが、それでも人の背ぐらいなら反対側が見えません。

横田城/④説明板
▲説明板

土塁に階段がつけられているので登ると、そこに説明板がありました。城跡の痕跡がここだけですからね。設置できる物はみんなここに集まるのが自然です。

横田城/⑤反対側から見た稲荷社
▲反対側から見た稲荷社

土塁をエイ!っと乗り越えて反対側から見た所です。土塁上の建物は祠だったんですね。神様をお祀りする社が無ければ、この土塁もきっと跡形も無く消えていたことでしょう。昔の人に感謝感謝です合格


◆歴史◆

横田城は川中島南部の篠ノ井に位置します。ですが、歴史にはあまり登場しません。もしかするとですが・・・平時の城では無く、戦の時にだけ使われた陣城だったかもしれません。要害に拠る山城が主流の時代にあって、篠ノ井だと平城になりますからね。勝手な推測ですけどあせる

1181年、木曽義仲と城助職の戦いの舞台となりました。

信濃では前年から平家方の笠岡氏と源氏方の村山氏・栗田氏らが抗争を続けていました。この争いに決着をつけようと、平家方で越後の実力者・城資永に出兵させました。城資永は越後・会津四郡・出羽南部の兵1万を率いて出陣しようとしましたが・・・出陣の前日に卒中により急死してしまいました。そのため、信濃の源氏勢力討伐軍は、弟の城助職が率いました。

・・・長くなりそうなので端折りますあせる
城軍は川中島に到着すると、横田城に布陣しました。

源氏方は木曽義仲が木曽・上野・佐久の兵3千を集め、川中島に出陣しました。この戦いは「横田河原の戦」と呼ばれ、木曽軍が奇襲により大勝利を収めました。木曽義仲はこの勢いに乗って越後を制圧し、その後の北陸制覇の基盤を築きました。

・・・間がかなり空きます

1400年、大塔合戦の舞台となりました。

前年、小笠原長秀が信濃守護に任命されました。鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を通し、信濃は特に混乱した地域でした。それは信濃は北条氏が直接支配していた地域であり、北条残党が多いことに起因します。小笠原氏は幕府寄り(北朝方)であり、宮方(南朝方)の多い信濃では当然反発が起きました。善光寺で北信濃の国人達と面会した小笠原長秀ですが、高圧的な態度に憤慨する国人が続出。ついに守護打倒の兵を挙げました。

・・・やっぱり長くなりますねあせる
小笠原長秀は横田城に陣取りましたが、兵力の差で国人衆に圧倒されました。小笠原方は身内の大井氏ですら傍観する有様でした。戦いは国人衆が圧勝し、敗れた小笠原長秀は命からがら都へ逃れて守護を罷免されました。

1561年、第四次川中島合戦の後、原大隅守が城主となりました。

武田信玄と上杉謙信は大きなもので5回、川中島で戦ったとされます。その中で最も激しい戦闘となったのが4回目の1561年でした。この戦では「川中島の戦い」と聞いて誰もが連想する戦いがありました。上杉謙信の振り下ろす刀を武田信玄が軍配で受けるシーンです。

実際に武田信玄に斬り掛かったのは、上杉家臣の荒川伊豆守という武士でした。『上杉家御年譜』によると、荒川伊豆守の三太刀を信玄が軍配で何とかかわしたそうです。主君・武田信玄の危機を救ったのが原大隅守でした。原大隅守は槍で荒川伊豆守の馬の膝を打ち、馬が走り去ったため難を逃れました。この時の功により、原大隅守は横田城周辺の300貫を与えられたそうです。

その後、横田城がどうなったのかわからず・・・

原大隅守は武田家滅亡後は徳川家康に仕え、1584年に没しました。この原大隅守のお墓が、近所のお寺にあるそうです。横田城は1584年までは原大隅守が城主だったのでしょうか?

1582年の天正壬午の乱により、川中島は上杉景勝が支配する地域となりました。深志城の小笠原貞慶と争った境界は、もっと南の麻績辺りです。だとすると、小笠原貞慶の黒幕である徳川家康の家臣が単独で居られる場所ではありません。

一次資料も持ち合わせていない素人の勝手な想像ですが・・・武田家滅亡後、原大隅守は帰農したのでしょうか?それならばこの地に留まることが出来たでしょう。またはよそで没した後、平和になった江戸時代に子孫がこの地に葬ったのでしょうか。知ってる方居たらヘルプですm(_ _ )m


所在地:長野市篠ノ井会

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福島正則館/長野県高山村

福島正則の屋敷跡は高井寺になっています。
訪問日は2013年7月31日です。

福島正則館/①県道からの入口
▲県道からの入口はココ

福島正則の屋敷跡は県道からちょっとだけ入った所にあります。角に標柱はあるのですが、電柱と火の用心の方が目立ってしまってますあせる

福島正則館/②石垣で囲まれています
▲石垣で囲まれています

屋敷跡は石垣で囲まれていますが・・・なんかちょっと違う感じ。後で調べたら、この石垣は江戸時代にお寺が土塁と堀を崩して築いたものだそうです。江戸時代に組まれているのですが、やっぱりお城のものとは感じが違いますよね。

福島正則館/③お寺の入口
▲お寺の入口

虎口・・・なんて思ってましたが、普通に門ですwその右脇にある白い板は、お寺の縁起ではなく福島正則館の説明板です。土塁の一部が残っているんですね!・・・その場でちゃんと読めばよかった。ということで、「お寺の」石垣だけ眺めて満足しちゃったのでしたあせる

福島正則館/④荼毘の地
▲荼毘の地

ここに来る途中で道端に「福島正則荼毘の地」の案内があったので見てきました。高井寺の北の田んぼの中にポツリとあります。お墓だと勝手に勘違いしていたのですが、「荼毘」というのは「火葬」の事です。幕府の検死役が確認に来る前に火葬してしまったため、福島家は再び改易されてしまいました。


◆歴史◆

1619年、福島正則が改易されました。

台風で広島城の石垣が破損したため修理したのですが・・・城の改修がまだ許可されていなかったため、武家諸法度違反とされ改易されました。安芸45万石は没収され、信濃高井野2万石、越後魚沼2万5千石の合わせて4万5千石となりました。福島正則は家督を嫡男・福島忠勝に譲り、隠居しました。

1620年、福島忠勝が没しました。

改易の翌年、家督を継いでいた福島忠勝が没しました。福島正則は悲しみの余り、越後魚沼の2万5千石を幕府に返上しました。

1624年、福島正則が没しました。

屈辱に堪えられなかった正則が発作的に切腹したという説があります。幕府の検死役が到着する前に火葬したのはそのためだというのです。この事が原因で、福島家は再び改易されてしまいました。その後は三男・福島正利が3112石の旗本として存続しました。


所在地:長野県上高井郡高山村高井八幡添

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高梨氏館/長野県中野市

高梨氏館跡はガッチリと堀に囲まれています。
訪問日は2013年7月31日です。

高梨氏館/①石碑
▲石碑

高梨氏の館跡は、南側の道路に面した所に駐車場があります。そのすぐ脇にこの石碑があります。この石碑には「高梨小館城址」と彫られています。高梨氏館は別名が高梨城、高梨小館、中野小館、中野御館、中野城など、沢山あります。

高梨氏館/②堀
▲堀

館の外周をぐるっと堀が囲んでいます。かなり浅くなっているようですが、ちゃんと1周囲んでいます。訪問した時に撮った写真は9割方が堀でした。さすがに堀ばかり載せるのも何なので、とりあえず入口の所のだけにしておきます。

高梨氏館/③西側虎口
▲虎口

この入口を内側から見た所です。こちらにも石碑があり「高梨氏館跡」と彫られています。虎口の内外で違う名前で彫るなんて、どこかとどこかが対立しているのでしょうか?そんな事を想像しながら訪城するのも楽しいもんです♪

高梨氏館/④内部
▲内側

内側は広場となっており、建物の礎石跡などがあります。特にこれといった物が目に付かなかったのですが・・・庭園跡があったようで、かなり貴重なのだそうです。興味が無い所はとことん見えていませんあせる

高梨氏館/⑤土塁の説明板
▲土塁の説明板

ここは土塁についての説明板があります。土塁の役割について書かれた物はよく見ますが、土塁の構造について書かれた物は珍しいです。この説明板によると、土塁は3段階を経て現在の形になったそうです。どうせなら、そのすぐ脇にある堀の移り変わりも一緒に書いてくれると嬉しいのですがw


◆歴史◆

1513年頃、高梨政盛により築かれたと考えられています。

高梨氏は元々は檬原(くぬぎはら)荘(=小布施町辺り)を本拠としていました。越後の守護代である長尾氏と婚姻関係を結ぶことで、勢力を拡大しました。越後では守護・上杉房能と守護代・長尾為景が対立していました。高梨政盛は長尾為景とともに1509年に守護・上杉房能を討ちました。この翌年には弟を討たれた関東管領・上杉顕定が越後に攻め込みましたが・・・一時優勢であったものの、最終的には長尾軍に敗れ、上杉顕定は自害してしまいました。

北信濃では越後の情勢に合わせ、上杉方と長尾方に分かれて争っていました。高梨氏が勢力を拡大したのも、上杉方の国人を駆逐した結果だと思います。ただ、中野氏の動向はわかりませんが、中野氏と関係の深い市河氏は長尾方でした。高梨政盛が中野氏を倒した理由はよくわかりません。

同年、高梨政盛が没すると、中野氏残党が挙兵し、家臣の一部が謀叛を起こしました。家督を継いだ高梨澄頼が乱を鎮圧しましたが、以後も不安定な状況が続きました。

1559年、武田軍の高坂昌信により攻め落とされ、高梨政頼は飯山城へ退いた。

武田軍は善光寺平からジワジワと北上し続けていました。突然武田軍に襲われたため支えきれず、高梨政頼は飯山城まで後退しました。自力で領地を保つことが出来なくなり、この頃に長尾家臣となったようです。

1582年、天正壬午の乱により、高梨氏が中野に復帰しました。

武田勝頼が織田信長に滅ぼされた直後、今度は織田信長が謀叛により斃れました。まだ支配して日が浅い甲斐・信濃で武田旧臣が蜂起したため、織田家臣が逃亡しました。こうして出来た広大な空白地を巡り、上杉景勝、徳川家康、北条氏直らが争いました。この結果、善光寺平以北を上杉景勝が勝ち取ったため、高梨頼親が中野に復帰しました。

1598年、廃城となりました。

上杉景勝が越後から会津へ移され、高梨頼親はこれに従いました。そのため、高梨氏の館は廃城となりました。・・・何だか表現が不自然ですあせる

2007年、国の史跡に指定されました。


所在地:長野県中野市小館

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壁田城/長野県中野市

壁田(へきだ)城は千曲川東岸の河岸段丘上にありました。
訪問日は2013年7月31日です。

壁田城/①堀切
▲歩き始めてすぐの堀切

地図を見ていると、壁田城へまっすぐ向かう道があります。その車道の終点からさらに歩く道があり、その先に壁田城があります。歩き始めて1分の所にこの堀切があります。城跡があるからということで、道を造るのをやめたのでしょうか?

壁田城/②堀切
▲主郭手前の堀切

最初の堀切から1分も経たない内に、また次の堀切があります。車道は城のすぐ手前まであったんですね。道がシュッシュッと曲がる様が何とも言えません恋の矢

壁田城/③主郭の城塁
▲主郭の城塁

この堀切から上がった所が郭になっており、段の上に神社の社殿が見えます。社殿を後ろから見ているので、こちらは搦手口だったのでしょうか。雑草に覆われてサビ切ったブランコが哀愁を誘います。

壁田城/④神社
▲主郭にある神社

主郭に上がって正面から神社を見ました。お賽銭箱もガラガラの鈴もありません。ちょっと変わってますよね?

壁田城/⑤南側から見た主郭
▲南側から見た主郭

神社正面には鳥居があります。当たり前ですねwこの先にも郭や堀切があるかもしれませんが・・・真夏で雑草が茂っており、先に進む勇気がありませんでしたあせる


◆歴史◆

高梨氏家臣・山田氏の城でした。

築城年代は不明ですが、かなり古くからあったようです。地理的には善光寺平と飯山城の間にあり、武田信玄と上杉謙信が争った所です。

1559年、武田軍により高梨氏の本拠・小舘が陥落しました。高梨政頼は長尾景虎(上杉謙信)を頼り、北の飯山城まで退きました。

1566年、武田信玄が山田飛騨守・山田左衛門尉に所領を安堵する書状を送っています。この頃までの山田氏は上杉方だったという事ですね。

1569年、武田信玄と上杉謙信は、将軍・足利義昭の仲介により和睦します。これにより、境目の城としての役割を終えたと思われます。廃城時期はわかりませんでした。


所在地:長野県中野市壁田

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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