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美濃金山城/岐阜県可児市

美濃金山城は「かねやまじょう」と読みます♪

群馬にも同じ字の100名城がありますが、こちらには美濃が付きます。

昨年4月に続日本100名城に選出されました。

訪問日は2018年9月16日です。



【1】金山城
1 可児市観光交流館

この日は岡崎→名古屋→小牧山→岩村→苗木城と回りました。
どこもしっかり見て回ったつもりでしたが・・・
予定より早い15時半に回り切りました。
近くならもう1ヶ所行けそう!で立ち寄ったのが金山城でした。
1回目の時のブログを読み返したら、その時も立ち寄った感じでしたあせる

【2】金山城
2 森丸の幟

まずはスタンプのある可児市観光交流館へ。
周りの道が狭かったので「ここ?」て思いましたが・・・
この幟たちを見て「ここだ!」と確信しましたw
「蘭」が「乱」なのはきっと何か意図があるのかもあせる
17時閉館の所に16時半到着で、バッチリゲットですラブラブ

続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】金山城 可児市観光交流館
 所在地 :岐阜県可児市兼山674-1https://www.google.com/maps/d/view?mid=1R-nT-uFpY0YH8ZkLxptOylwCByg&ll=35.45818,137.09333&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
 電話番号:0574-59-2288
 開館時間:8時半~17時
 休館日 :年末年始(12月28日~1月4日)
 入館料 :無料(甲冑着付けは1000円)


【4】金山城
4 蘭丸ふる里の森入口

さて、割と近年訪ねた所なのでそのまま帰ろうかと思いました。
しかし、城跡を目の前にして立ち去れる程人間出来ておらず・・・
来ちゃいましたラブラブ
本当は、城跡の案内図が欲しかっただけですあせる

【5】金山城
5 遠景

案内図目当てに来たのは、城跡の真下にある蘭丸ふる里の森です。
地形的に曲輪があったように感じられる場所です。

【6】金山城
6 案内図 拡大表示

事前にネットで見つけたヤツは見当たらず・・・
おそらくこいつに替わったんだと思います。
これ1枚しか見当たりませんでしたので。
さぁ登るゾ!と気合を入れていると、話し掛けて来る人がいました。
軽トラから出てきたおじ様曰く
「ここ5時に閉めるから第2駐車場に停めて」
といった感じの事でした。
お言葉に従い、ゲートのすぐ外にある第2駐車場へ移動。
そこから林道を歩いて城跡へ向かいました。

【7】金山城
7 大堀切

道が分岐して出丸へ向かう所で、片方の道が切通し状になっていました。
これ、実は大堀切でした。
前回来た時には全く気付かなかった所です。
嗚呼、来て良かったラブラブ
この堀切の前にも、17時になっても閉じ込められない駐車場がありますあせる

【8】金山城
8 出丸

まずは出丸から。
かなり改変されていますが、何となく雰囲気は掴めます。
この先端からは、麓の様子がよく見えました。

【9】金山城
9 森家の家紋「鶴之丸」

幟には、何やら特徴的な家紋が描かれています。
雰囲気的には、森蘭丸の森家の家紋のようですが・・・
皆様の脳内ではきっと「赤く塗ったら・・・」と思ったに違いありません。
気になったのでググってみたら、デザインの元がこれだったそうです!

【10】金山城
10 登城口

登城口は、出丸の駐車場手前にあります。
出丸に入る道は鎖が渡されるだけなので、徒歩で入ることが出来ます。
何となくアレ?と感じたのですが、以前は斎藤正義さんの絵がありました。
歳月とともに、城跡も絶えず変化するんですね!

【11】金山城
11 三の丸門跡

歳月とともに変化するのは私自身もでした。
以前は気付かなかった所をいちいちチェックしています。
特に気になるのが門の跡。
何も案内の無い山城で、色々想像しながら歩いてついた癖のようです。
写真は三の丸門の跡です。

【12】金山城
12 三の丸

短い山道を上がった所にあるのが三の丸です。

【13】金山城
13 角が崩された石垣

この石垣の前には「破城の痕跡」という説明板があります。
こういう石垣は割とよく見かけるのですが・・・
上や角が崩れているのが、意図的に壊されたものだそうです。

【14】金山城
14 虎口

三の丸の脇にこの虎口があります。
ここから城内の水源地である「水の手」に行く道があるそうです。
しかし、「この先危険」と書かれ、虎ロープで通せんぼされています。

【15】金山城
15 二の丸

三の丸のすぐ上には、二の丸があります。

【16】金山城
16 大手門跡

二の丸から上がる道の入口に、石で囲まれた虎口があります。
ここが大手門の跡です。
説明板には「大手桝形」「大手門」「一の門」と書かれています。
城内で一番メインとなる門がここだったんですね!

【17】金山城
17 南腰曲輪

大手門を通り、まだ上がある状況でこの曲輪が現れます。
さっきのが二の丸だから・・・何だろう?と思いました。
改めて図を見ると、南腰曲輪でした。
これが二の丸でもいいような気がするのですが・・・
そうすると、二の丸→三の丸、三の丸→四の丸に繰り下がります。
「四の丸」を避けるため、あえて別の呼び方にしたのでしょうか?

【18】金山城
18 天守台石垣

本丸に入る所にも、上の方が崩れた石垣があります。
これが天守台の石垣です。
こうやって見ると、確かに櫓台っぽさはあります。

【19】金山城
19 本丸

そして本丸です。一番高い所が平らに馴らされています。
・・・当たり前ですがあせる

【20】金山城

20 本丸虎口



右奥には、石で囲まれた四角い所があります。

ここには「本丸虎口」の説明板がありました。

四角いスペースを直角に曲がる桝形虎口ですね!







前回(2013年)訪ねた時の写真では、この脇にお堂がありました。

何があったのかは?ですが、今はありません。



【21】金山城

21 東腰曲輪



本丸の先端からは、一段下に曲輪が見えました。

これが東腰曲輪です。

前回はお堂の陰で気づきませんでしたが・・・石塁が見えます!



【22】金山城

22 石垣


桝形虎口を通って下りてみると、本丸側が石垣になっています。

ここで一番しっかり残っている石垣かもしれません。



【23】金山城
23 搦手門跡

東曲輪の端には、搦手門跡の案内がありました。
ここから左近屋敷と呼ばれる曲輪への道があります。


◆歴史◆

1537年、長井規秀(斎藤道三)により築かれました。

斎藤道三ですが、この頃は長井姓を名乗っていました。
斎藤姓になったのは、翌年に守護代・斎藤利良が没してからです。
こうやって見ると、斎藤利良の「病死」が怪しく思えてしまいます。

築城当時は「烏ヶ峰城」と呼ばれていました。
城には長井規秀自身ではなく、養子の斎藤正義を入れました。
養父が斎藤姓を名乗る前の斎藤正義の名前は???です。

斎藤利良が「病死」すると、長井規秀が名跡を継ぎ斎藤利政と改名。
そして、烏ヶ峰城に入っていた養子は、斎藤正義と名乗りました。

ここからは完全に根拠も無いただの推測ですが・・・
守護代が重篤になると、長井規秀が勝手に養子をとったのかもしれません。
この養子(斎藤正義)は関白・近衛稙家の子なので。
斎藤家としても、近衛家からの話であれば断れませんからね!
そして、斎藤利良が没したら自分が養父になり斎藤家の名跡もGet!
・・・という事だったのかも。
持病が進行してる気がしますが、自覚あるからまだ大丈夫ですよね?あせるあせるあせる

1548年、斎藤正義が配下の久々利頼興に暗殺されました。

久々利頼興が斎藤正義を酒宴に招き、主の斎藤正義を暗殺しました。
しかし、斎藤利政(道三)は久々利頼興に対してお咎め無し。
養子を殺されてお咎め無しということは、そういう事なんですね。
この暗殺劇は斎藤利政が仕組んだものという説が有力です。
しかし、頭の中でテツ&トモのアノ名曲が盛んに流れ始めます。
単純に仲が悪かったということでしょうか?

この年に、斎藤家と織田家が和睦しました。
織田信長の父・信秀は、土岐頼芸の導きで度々美濃へ攻め込みました。
土岐頼芸が当初戦っていたのは土岐政頼で、越前朝倉氏が黒幕でました。
兄弟喧嘩がひと段落すると、斎藤利政が野心をむき出しにしました。
そのため土岐頼芸と斎藤利政が戦い始め、織田信秀が土岐頼芸に味方しました。
しかし、土岐頼芸の器量に見切りを付けたのでしょうか・・・
織田信秀は斎藤利政と和睦し、織田信長と濃姫との婚儀が成立しました。

斎藤側の和睦条件は、織田家が土岐頼芸との関係を断つ事と思います。
美濃での争いは大勢が決しており、織田家は痛くも痒くも無いですね。
この和睦は織田側から出たようで、今川義元対策だったようです。
美濃との争いが無くなれば、今川軍への防衛に専念できますからね。

もしかすると、斎藤正義はこの和睦に強硬に反対したのかもしれません。
斎藤正義の領地は、尾張の犬山と隣接しています。
今川軍と挟み撃ちにすれば、一気に織田家を潰せますからね。
・・・いけないいけない、また突っ走ってしまいましたあせる

斎藤正義を討った久々利頼興は、時を空けずに烏ヶ峰城を占領。
一族の土岐十郎左衛門を城代としました。

1565年、織田信長家臣・森可成が城主となり、兼山城と改名しました。

織田信長が美濃東部を制圧し、森可成を城主としました。
森可成は、織田信長にとって最古参の側近の1人です。
弟・織田信行との戦いで、柴田勝家や林通勝を相手に奮戦した猛将です。
織田信長の信頼が厚く、子の多くが小姓として仕えています。
本能寺の変では、蘭丸をはじめとして森可成の子が3人討死しています。

1570年、森可成が戦死したため、次男・森長可が城主となりました。
1582年、森長可が信濃・海津城へ移ったため、森蘭丸が城主となりました。
1582年、本能寺の変で森蘭丸が討死。森長可も命からがら信濃から帰還。
1584年、森長可が小牧・長久手の戦いで討死。森忠政が城主となりました。

1600年、廃城となりました。

森忠政が信濃・海津城へ移り、旧森領は石川貞清が引き継ぎました。
石川貞清は金山城を廃城とし、犬山城改修の建築資材としました。
そのため、犬山城の現存天守は金山城からの移築説もありましたが。
しかし、これは修繕時の調査でハッキリし、移築説は否定されています。

尚、石川貞清は関ヶ原の戦で西軍についたため、領地を没収されました。
黄金千枚で助命された後は、京で貸し金業を営んだそうです。


所在地:岐阜県可児市兼山 GPSログダウンロードページ

岐阜県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

駐車場について
左上が出丸駐車場、左下が蘭丸ふる里の森の駐車場です。いずれも8時半から17時まで利用可能で、それ以外は閉鎖されます。右上が大堀切脇、右下が蘭丸ふる里の森第二駐車場です。こちらはいつでも駐車可能です。

苗木城/岐阜県中津川市

長かった岐阜シリーズのトリは苗木城です。
訪問日は2013年7月28日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました

苗木城/①石垣

苗木城/②石垣

苗木城/③石垣
▲石垣

苗木城にはチョー立派な石垣があります。当日は日没までに予定箇所を回り切れなさそうになし。なので、他を全部飛ばしてココに来ました。城跡に辿り着いたのは17時半過ぎです。来て見ると、期待通りに見事な石垣が出迎えてくれました合格


苗木城/④城址碑
▲城址碑

道を進むとちょっとした広場があり、そこに城址碑がありました。横長のそれは、ここに並んで記念写真を撮れ的な配置に見えます。ということは、ここからの眺めが一番絵になるという事ですね!


苗木城/⑤大矢倉
▲大矢倉の石垣

さらに真っ直ぐ進むと、左前方に石垣の山がありました。ここは大矢倉の跡だそうで、天守台のように内側が凹んでいました。奈良の高取城にもこんな感じの石垣あったな~なんて思い出しました。


苗木城/⑥本丸の入口
▲本丸の入口

大矢倉の石垣から回れ右(回れ左でもok)をすると、急峻な山に石垣が積まれています。歩きやすそうな歩道を辿って行くと、そこかしこに門の跡がありました。急斜面をぐるぐる遠回りに登る一本道を塞ぐ数々の門・・・まるでリアル十二宮ヽ(´∀`)ノ・・・歳バレますね


苗木城/⑦天守跡にある展望台
▲天守跡にある展望台

そんなこんなで登って行くと、テッペンの大きな岩の上に木で組んだ展望台があります。高所恐怖症で見上げただけでも背筋がゾクゾクしましたが・・・それでも上へ上へとふらふら登ってしまう習性には逆らえませんでした。


苗木城/⑧眺め
▲眺め

下から見上げると怖かったのですが、上がってしまえばコッチのもんです。板が敷かれていて、ちゃんと下が見えないようになっていますから!それにしても、すごい所に建てたものです。周りに風を遮るものも無いし、雷なんかもココめがけて落ちて来そうです。それだけに周囲の眺めはスバラシイヽ(´∀`)ノここで見張っていれば、どこから敵が来てもすぐにバレますね!



◆歴史◆

元弘年間(1331~34年の間)に遠山景長が高森山に砦を築きました。

鎌倉時代末に、遠山氏により砦が築かれました。本城は植苗木の広恵寺城で、苗木城の北北西にありました。そこは飛騨への南北の街道と坂下への東西の街道が交わる要衝でした。

1526年、遠山昌利が植苗木から高森山に館を移しました。

その頃は東美濃を支配していた小笠原氏が内紛状態でした。その機に乗じて遠山氏が徐々に版図を拡大していた時期でもあります。しかし、相手は信濃守護の大族・小笠原氏です。奥まった所にある広恵寺城よりもこちらの方が都合が良かったのでしょうね。

1532年、遠山直廉が苗木城を築きました。

遠山直廉は岩村城主・遠山景友の子で、手賀野の館を拠点としていました。遠山昌利に跡継ぎ無かったため、本家からの養子として迎えられたのだそうです。砦から本格的な城に改修出来たということは、支配が確立したということでしょうね。

1570年頃、飯羽間遠山氏の遠山友勝が城主となります。

遠山直廉は武田軍の飛騨攻略に参加しましたが、この時負った矢傷が原因で没しました。直廉には跡継ぎが無かったため、飯羽間城主だった遠山友勝が跡を継ぎました。この頃までは織田・武田両家は友好関係にあり、遠山氏は両家に属していました。しかし、1572年から武田軍が美濃へ侵攻し始めると、織田方として武田軍と戦っています。

1583年、河尻秀長が城代となりました。

本能寺の変後、東美濃では森長可が周囲の勢力と戦いました。遠山氏も例外ではありませんでした。これは羽柴秀吉が遠山氏に対し、森長可に従うよう命じたのを拒否したためだそうです。遠山氏は徳川家康とも親交があったようで、命令を拒否したのもそのためかもしれません。苗木城を攻め落とされた後、城主・遠山友政は徳川家康を頼って落ち延びました。

1600年、遠山友政が苗木城主に復帰しました。

関ヶ原の戦いで西軍に属した岩村城の田丸直昌を、妻木氏や小里氏とともに攻めました。この戦いで遠山氏は明知城と苗木城、小里氏は小里城をそれぞれ奪還することに成功しました。戦後、これらの功が認められ、遠山氏と小里氏は旧領へ復帰しました。

以後、1871年(明治4年)に廃城となるまで、苗木遠山氏12代の居城となりました。

スタンプ設置場所
苗木城スタンプ 遠山苗木資料館
 開館時間 9時半~17時半(入館は17時まで)
 休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)
     12月27日~1月5日
 入館料 320円、中学生以下無料

所在地:岐阜県中津川市苗木
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鷹撃谷城/岐阜県恵那市

鷹撃谷城跡は住宅地となっていて、遺構は判然としません。
訪問日は2013年8月2日です。

鷹撃谷城/①城跡とされる辺り
▲城跡とされる辺り

鷹撃谷城は「たかちがや」と読みます。書いてる時にも一回間違えましたあせるとてもカッコイイ名前ですね。

遺構がサッパリわからないらしいので、当初は来る予定ではありませんでした。すぐ近くの大井城を見るならついでに!という事で見に来ました。みんなが見つけられなかった遺構を見つけてやろう!なんて野心もありましたが。。。

鷹撃谷城/②堀跡?
▲堀跡???

早朝の住宅街をカメラ片手にウロウロ歩き回る私・・・毎度の事ながら、よく通報されないものです。各ブロック入念に見て回りましたが、やはり遺構らしきものは見当たらず。唯一もしかしたら?というのが、畑にあった一直線の窪みです。遺構である可能性は限りなくゼロに近いとは思いますけどw


◆歴史◆

藤井宗恒により築かれました。

築城年は不明ですが、遠山氏の家臣・藤井宗恒により築かれ、弟の宗守が城主となりました。大井城の修築とセットらしいので、1533年頃と思われます。この頃の岩村遠山氏は、信濃小笠原氏の内紛に付け込んで支配地域を拡大しています。

1574年、廃城となりました。

武田勝頼が東美濃へ侵攻し、明知城を攻略しました。この時に大井城とともに攻め落とされ、そのまま廃城となりました。


所在地:岐阜県恵那市大井町野畑城の欠

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大井城/岐阜県恵那市

大井城跡は現在小学校となっています。
訪問日は2013年8月2日です。

大井城/①大井小学校
▲大井小学校

訪問前、大井城跡には小学校があって遺構が無い、というのでパスしようと思っていました。しかし、じっと地図を眺めていると、何となく地形に面影があるような・・・で来ました。沢山の城跡を巡る中で、行く・行かないの基準はかなりアバウトです。

大井城/②堀跡っぽいところ
▲小学校の北側

地図を眺めていて見ようと思ったのは、小学校の北側です。何となく急斜面になっている脇を川が流れている・・・きっと堀跡に違いないと思ったからです。そして、その現場が上の写真です。堀跡っぽく見えますよね?


◆歴史◆

1435年、原秀行により築かれました。

原秀行は土岐氏庶流で、土岐氏の初代美濃守護・土岐頼貞の兄・定親の玄孫です。この頃は信濃で小笠原政康と村上頼清が争っていました。この戦いに将軍・足利義教と関東公方・足利持氏も絡み、かなり大掛かりな戦となりました。そのため、美濃守護・土岐持益は、信濃に近い東美濃に原秀行を配置して備えたのでした。この戦いは将軍側が勝利して鎌倉を制圧し、暫く関東公方が不在の時期が続きました。

1473年、小笠原氏の城となりました。

応仁の乱では美濃守護・土岐岐成頼が西軍として京で戦い、斎藤妙椿が美濃国内で戦いました。この年に東軍の大将・山名宗全が没すると、斎藤妙椿は好機とばかりに京へ進撃しました。この動きを牽制するため、東軍方の信濃守護・小笠原家長が東美濃へ出兵しました。東美濃を制圧した小笠原氏は、大井城を東美濃支配の拠点としました。

1533年、岩村遠山氏の城となりました。

信濃守護・小笠原氏は、守護職を巡って府中家・松尾家と鈴岡家が争う内紛状態でした。そのため東美濃が手薄となり、岩村城を本拠とする遠山氏の支配地域となりました。ただし、この頃の遠山氏はよくわからないようで・・・時期的には遠山景前が当主と思われますが、誰もそうは書いていません。荒れ果てていた大井城は、遠山氏の家臣・藤井宗恒・宗守兄弟により整備されました。

1574年、廃城となりました。

武田勝頼が東美濃へ侵攻し、明知城を攻略しました。この時に大井城も攻め落とされ、そのまま廃城となりました。


所在地:岐阜県恵那市大井町内城

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飯羽間城/岐阜県恵那市

飯羽間城にはたくさんの説明板があります。
訪問日は2013年8月2日です。

飯羽間城/①霧
▲霧

はじめの予定ではこの前日に帰宅するはずでしたが・・・初日に動かなくなって修理に出したバイク修理が1日延長(レンタカー借りました)。せっかく1日延びたので、時間切れだったり迷ったりした所を急遽追加しました。その1発目がここ飯羽間城です。

夜明け前に到着しましたが、なかなか明るくならず。濃い霧の中にうっすら周囲が見えて来たので、城攻めを開始しました。ちなみに写真の小山は、間違えて登りそうになった所です。Google Mapの航空写真で見たら、本物のすぐ左下にありましたあせる

飯羽間城/②案内
▲案内

それでも迷わなかったのは、こいつのお陰です。間違えた山の登り口を捜していたら、こいつが別の方向を指していました。

飯羽間城/③登城口
▲登城口

こいつはいくつかあったように記憶しています。その矢印に従って辿り着いた登城口です。何もなければスルーしそうな所です。案内の他に、何やら文字がビッシリ書かれた白い板が!近づいて見ると・・・

飯羽間城/④説明書き
▲説明書き①

飯羽間城について書かれていました!ここが登城口だと確信できたのはこいつのお陰でした。しかし、手書きなんて気合入ってる!

飯羽間城/⑤説明書き2
▲説明書き②

ちょっと登ると、再び説明書きが現れました。しかもまた手書き。頑張ってる方がいらっしゃるんですね!

飯羽間城/⑥説明書き3
▲説明書き③

でも、流石に三枚目になるとちょっち怖くなってきます。
しかも字ちっさいし・・・

飯羽間城/⑦大手道
▲大手口

更に進んでまた?と思いながら見てみると、ここが本丸への大手道だという案内でした。確かに雰囲気あるのですが・・・本来の登城ルートで歩きたい気がしたのですが・・・藪っぽかったので、そのまま綺麗な道を進みました。

飯羽間城/⑧説明書き4
▲説明書き④

まだまだ出てくる手書きの説明板。そんなに詳しくてどうする?という位に攻めてきます。しかも、内容ダブってないんですよね。中身覚えてませんけどあせる綺麗に1枚分にまとめたら名文になりそうですけどw

飯羽間城/⑨説明書き5
▲説明書き⑤

もはや呪文にしか見えなくなってきました

飯羽間城/⑩郭らしき形状
▲本丸

そんな呪文に殺られそうになった頃、正面に人工的な地形が現れました。ようやく本丸到着です。・・・とは言っても霧でよく見えませんでした。

飯羽間城/⑪慰霊碑
▲慰霊碑

お!城址碑!と思って近づいてみると・・・「飯羽間城諸将士三界萬霊塔」と彫られていました。ここで起きた悲劇を後世に伝えようということでしょうか。すぐ後ろには、倒れかけた板塔婆が。面白がって夜中に来ない方がよさげな雰囲気です。

飯羽間城/⑫本丸の様子
▲本丸の様子

さて、城内の様子を見ましょうか!と言っても、浅学な私には削平された本丸の郭ぐらいしかわからず。堀や土塁の類はきっとどこかに・・・

飯羽間城/⑬説明書き6
▲説明書き⑥

やっぱり本丸にもありました。本丸に無くてどうする?位の意気込みを感じます。ちゃんとよんだら飯羽間博士になれそうです(・∀・)

飯羽間城/⑭山の上に城の名前が
▲皆さん最初に載せてるのはこの写真

本丸攻略した!城址碑っぽいのもあった!説明書き沢山あった!でお腹一杯になったので下山して次の城跡へ。既に心ココに在らずといった感じでした。ふと脇見した山の上に何やら白い看板が。「飯羽間城址」と書かれていました。コレを撮らずにどうする?という感じの1枚です。

飯羽間城/⑮城址碑
▲その真下に城址碑

よく目を凝らすと、その真下に石碑がありました。近づいて見るとバッチリな城址碑ですヽ(´∀`)ノ本丸じゃなくて麓にあったんですね。

飯羽間城/⑯にぎやかな交差点
▲この交差点を目指しましょう

すっかり逆回りになっていますが、皆様が最初に辿り着くのはこの交差点です。私は真っ暗&濃霧で、着いた時には見えませんでしたがあせるここに辿り着くと「よし、行くゼ」と感じさせてくれる雰囲気がありますね^^


◆歴史◆

飯羽間城は岩村城を本拠とした遠山氏のお城です。鎌倉時代はじめ頃、幕府創立の功績により重臣・加藤景廉に遠山荘が与えられました。この人は全国に沢山の領地を持っており、長男の景朝が遠山荘に配置されました。そのまま土着して遠山姓を名乗るようになったのでしょう。

遠山氏は東美濃に一大勢力を築き上げ、遠山十八子城を支配していました。その中の1つが飯羽間城で、岩村城に最も近く、重要な支城だったと考えられます。

1574年、落城し廃城となりました。

いきなりですがあせる
この頃の東美濃は織田信長と武田勝頼が争っていました。この2年前に岩村城を手に入れた武田勝頼が、3万の軍勢で再び攻めて来ました。織田信長も3万の軍勢を出して応戦しましたが、山県昌景に退路を脅かされやむなく退きました。武田軍は遠山十八子城を次々と攻め落とし、最後に残ったのが飯羽間城でした。

この時の城主は遠山友信ですが、城内に突入した武田軍により土蔵で捕まったそうです。なぜ城主が土蔵で?武田側の資料では捕まえたことになっていますが・・・織田側の資料では遠山友信が寝返ったことにされています。

篭城していた350人の兵士は皆殺しにされたので、真相を伝える者が無かったのでしょうか。状況的には周りの城が全て落城し、織田の援軍も期待出来ませんでした。そうなると、降伏するか、城を枕に討死するかの二者択一ですね。そんな時に城主が土蔵に居たということは、監禁されていたのでしょうか。隠れるにしても、こんな小さなお城ではすぐに見つかりますからね。

遠山友信はそのまま甲斐へ連れ去られましたが、後日織田軍により処刑されたとされています。


所在地:岐阜県恵那市岩村町飯羽間

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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