2018/09/28
美濃金山城/岐阜県可児市
美濃金山城は「かねやまじょう」と読みます♪群馬にも同じ字の100名城がありますが、こちらには美濃が付きます。
昨年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年9月16日です。

1 可児市観光交流館
この日は岡崎→名古屋→小牧山→岩村→苗木城と回りました。
どこもしっかり見て回ったつもりでしたが・・・
予定より早い15時半に回り切りました。
近くならもう1ヶ所行けそう!で立ち寄ったのが金山城でした。
1回目の時のブログを読み返したら、その時も立ち寄った感じでした


2 森乱丸の幟
まずはスタンプのある可児市観光交流館へ。
周りの道が狭かったので「ここ?」て思いましたが・・・
この幟たちを見て「ここだ!」と確信しましたw
「蘭」が「乱」なのはきっと何か意図があるのかも

17時閉館の所に16時半到着で、バッチリゲットです

続日本100名城スタンプ設置場所
![]() | 可児市観光交流館 所在地 :岐阜県可児市兼山674-1https://www.google.com/maps/d/view?mid=1R-nT-uFpY0YH8ZkLxptOylwCByg&ll=35.45818,137.09333&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図) 電話番号:0574-59-2288 開館時間:8時半~17時 休館日 :年末年始(12月28日~1月4日) 入館料 :無料(甲冑着付けは1000円) |

4 蘭丸ふる里の森入口
さて、割と近年訪ねた所なのでそのまま帰ろうかと思いました。
しかし、城跡を目の前にして立ち去れる程人間出来ておらず・・・
来ちゃいました

本当は、城跡の案内図が欲しかっただけです


5 遠景
案内図目当てに来たのは、城跡の真下にある蘭丸ふる里の森です。
地形的に曲輪があったように感じられる場所です。

6 案内図 拡大表示
事前にネットで見つけたヤツは見当たらず・・・
おそらくこいつに替わったんだと思います。
これ1枚しか見当たりませんでしたので。
さぁ登るゾ!と気合を入れていると、話し掛けて来る人がいました。
軽トラから出てきたおじ様曰く
「ここ5時に閉めるから第2駐車場に停めて」
といった感じの事でした。
お言葉に従い、ゲートのすぐ外にある第2駐車場へ移動。
そこから林道を歩いて城跡へ向かいました。

7 大堀切
道が分岐して出丸へ向かう所で、片方の道が切通し状になっていました。
これ、実は大堀切でした。
前回来た時には全く気付かなかった所です。
嗚呼、来て良かった

この堀切の前にも、17時になっても閉じ込められない駐車場があります


8 出丸
まずは出丸から。
かなり改変されていますが、何となく雰囲気は掴めます。
この先端からは、麓の様子がよく見えました。

9 森家の家紋「鶴之丸」
幟には、何やら特徴的な家紋が描かれています。
雰囲気的には、森蘭丸の森家の家紋のようですが・・・
皆様の脳内ではきっと「赤く塗ったら・・・」と思ったに違いありません。
気になったのでググってみたら、デザインの元がこれだったそうです!

10 登城口
登城口は、出丸の駐車場手前にあります。
出丸に入る道は鎖が渡されるだけなので、徒歩で入ることが出来ます。
何となくアレ?と感じたのですが、以前は斎藤正義さんの絵がありました。
歳月とともに、城跡も絶えず変化するんですね!

11 三の丸門跡
歳月とともに変化するのは私自身もでした。
以前は気付かなかった所をいちいちチェックしています。
特に気になるのが門の跡。
何も案内の無い山城で、色々想像しながら歩いてついた癖のようです。
写真は三の丸門の跡です。

12 三の丸
短い山道を上がった所にあるのが三の丸です。

13 角が崩された石垣
この石垣の前には「破城の痕跡」という説明板があります。
こういう石垣は割とよく見かけるのですが・・・
上や角が崩れているのが、意図的に壊されたものだそうです。

14 虎口
三の丸の脇にこの虎口があります。
ここから城内の水源地である「水の手」に行く道があるそうです。
しかし、「この先危険」と書かれ、虎ロープで通せんぼされています。

15 二の丸
三の丸のすぐ上には、二の丸があります。

16 大手門跡
二の丸から上がる道の入口に、石で囲まれた虎口があります。
ここが大手門の跡です。
説明板には「大手桝形」「大手門」「一の門」と書かれています。
城内で一番メインとなる門がここだったんですね!

17 南腰曲輪
大手門を通り、まだ上がある状況でこの曲輪が現れます。
さっきのが二の丸だから・・・何だろう?と思いました。
改めて図を見ると、南腰曲輪でした。
これが二の丸でもいいような気がするのですが・・・
そうすると、二の丸→三の丸、三の丸→四の丸に繰り下がります。
「四の丸」を避けるため、あえて別の呼び方にしたのでしょうか?

18 天守台石垣
本丸に入る所にも、上の方が崩れた石垣があります。
これが天守台の石垣です。
こうやって見ると、確かに櫓台っぽさはあります。

19 本丸
そして本丸です。一番高い所が平らに馴らされています。
・・・当たり前ですが


20 本丸虎口
右奥には、石で囲まれた四角い所があります。
ここには「本丸虎口」の説明板がありました。
四角いスペースを直角に曲がる桝形虎口ですね!

前回(2013年)訪ねた時の写真では、この脇にお堂がありました。
何があったのかは?ですが、今はありません。

21 東腰曲輪
本丸の先端からは、一段下に曲輪が見えました。
これが東腰曲輪です。
前回はお堂の陰で気づきませんでしたが・・・石塁が見えます!

22 石垣
桝形虎口を通って下りてみると、本丸側が石垣になっています。
ここで一番しっかり残っている石垣かもしれません。

23 搦手門跡
東曲輪の端には、搦手門跡の案内がありました。
ここから左近屋敷と呼ばれる曲輪への道があります。
◆歴史◆
1537年、長井規秀(斎藤道三)により築かれました。
斎藤道三ですが、この頃は長井姓を名乗っていました。
斎藤姓になったのは、翌年に守護代・斎藤利良が没してからです。
こうやって見ると、斎藤利良の「病死」が怪しく思えてしまいます。
築城当時は「烏ヶ峰城」と呼ばれていました。
城には長井規秀自身ではなく、養子の斎藤正義を入れました。
養父が斎藤姓を名乗る前の斎藤正義の名前は???です。
斎藤利良が「病死」すると、長井規秀が名跡を継ぎ斎藤利政と改名。
そして、烏ヶ峰城に入っていた養子は、斎藤正義と名乗りました。
ここからは完全に根拠も無いただの推測ですが・・・
守護代が重篤になると、長井規秀が勝手に養子をとったのかもしれません。
この養子(斎藤正義)は関白・近衛稙家の子なので。
斎藤家としても、近衛家からの話であれば断れませんからね!
そして、斎藤利良が没したら自分が養父になり斎藤家の名跡もGet!
・・・という事だったのかも。
持病が進行してる気がしますが、自覚あるからまだ大丈夫ですよね?



1548年、斎藤正義が配下の久々利頼興に暗殺されました。
久々利頼興が斎藤正義を酒宴に招き、主の斎藤正義を暗殺しました。
しかし、斎藤利政(道三)は久々利頼興に対してお咎め無し。
養子を殺されてお咎め無しということは、そういう事なんですね。
この暗殺劇は斎藤利政が仕組んだものという説が有力です。
しかし、頭の中でテツ&トモのアノ名曲が盛んに流れ始めます。
単純に仲が悪かったということでしょうか?
この年に、斎藤家と織田家が和睦しました。
織田信長の父・信秀は、土岐頼芸の導きで度々美濃へ攻め込みました。
土岐頼芸が当初戦っていたのは土岐政頼で、越前朝倉氏が黒幕でました。
兄弟喧嘩がひと段落すると、斎藤利政が野心をむき出しにしました。
そのため土岐頼芸と斎藤利政が戦い始め、織田信秀が土岐頼芸に味方しました。
しかし、土岐頼芸の器量に見切りを付けたのでしょうか・・・
織田信秀は斎藤利政と和睦し、織田信長と濃姫との婚儀が成立しました。
斎藤側の和睦条件は、織田家が土岐頼芸との関係を断つ事と思います。
美濃での争いは大勢が決しており、織田家は痛くも痒くも無いですね。
この和睦は織田側から出たようで、今川義元対策だったようです。
美濃との争いが無くなれば、今川軍への防衛に専念できますからね。
もしかすると、斎藤正義はこの和睦に強硬に反対したのかもしれません。
斎藤正義の領地は、尾張の犬山と隣接しています。
今川軍と挟み撃ちにすれば、一気に織田家を潰せますからね。
・・・いけないいけない、また突っ走ってしまいました

斎藤正義を討った久々利頼興は、時を空けずに烏ヶ峰城を占領。
一族の土岐十郎左衛門を城代としました。
1565年、織田信長家臣・森可成が城主となり、兼山城と改名しました。
織田信長が美濃東部を制圧し、森可成を城主としました。
森可成は、織田信長にとって最古参の側近の1人です。
弟・織田信行との戦いで、柴田勝家や林通勝を相手に奮戦した猛将です。
織田信長の信頼が厚く、子の多くが小姓として仕えています。
本能寺の変では、蘭丸をはじめとして森可成の子が3人討死しています。
1570年、森可成が戦死したため、次男・森長可が城主となりました。
1582年、森長可が信濃・海津城へ移ったため、森蘭丸が城主となりました。
1582年、本能寺の変で森蘭丸が討死。森長可も命からがら信濃から帰還。
1584年、森長可が小牧・長久手の戦いで討死。森忠政が城主となりました。
1600年、廃城となりました。
森忠政が信濃・海津城へ移り、旧森領は石川貞清が引き継ぎました。
石川貞清は金山城を廃城とし、犬山城改修の建築資材としました。
そのため、犬山城の現存天守は金山城からの移築説もありましたが。
しかし、これは修繕時の調査でハッキリし、移築説は否定されています。
尚、石川貞清は関ヶ原の戦で西軍についたため、領地を没収されました。
黄金千枚で助命された後は、京で貸し金業を営んだそうです。
所在地:岐阜県可児市兼山 GPSログダウンロードページ
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駐車場について
左上が出丸駐車場、左下が蘭丸ふる里の森の駐車場です。いずれも8時半から17時まで利用可能で、それ以外は閉鎖されます。右上が大堀切脇、右下が蘭丸ふる里の森第二駐車場です。こちらはいつでも駐車可能です。