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妻木城/岐阜県土岐市

妻木城へはゴルフ場脇の道を通って行きます。
訪問日は2013年8月2日です。

妻木城/②登城口
▲登城口にある案内板

妻木城/①案内図
拡大表示

名岐国際ゴルフ倶楽部の手前にY字路があり、妻木城の案内が出ています。ゴルフ場の東端沿いのその道を走り続け、突き当たりの広場の所が登城口です。ここにクルマを停め、北側の山中に続く道を歩きます。

妻木城/③巨石が転がっている
▲巨石が転がっています

登城路脇にはこんな感じで巨石が転がっています。大き過ぎるので石垣のものではなさそうですが・・・石垣の材料には困らなさそうですネ!

妻木城/④堀切
▲堀切

場所は忘れちゃいましたが、堀切に遭遇!
テンション↑↑↑です!

妻木城/⑤伝太鼓櫓
▲伝太鼓櫓跡

さらに、今度は石垣登場!撮った場所はメモっていませんが、上の方に小さく「伝太鼓櫓」の札が写っています。ということは、上の堀切もその近所ですね(我ながらテキトーですあせる

妻木城/⑥主郭
▲本丸

そして、いきなりですが本丸です。書きながらあれれ???と思いました。一番最後に載せている説明板の縄張図見てて不思議に思っていました。けど、登城口にあった案内図を見てわかりました。どうやら伝太鼓櫓からまっすぐ右へ進み、近道の蔵跡から登ったようです。

私の思考回路を考えればそうに違いありませんが・・・後から写真を見ていると、時々こんな感じに戸惑います。ただ、現場だとどうしても楽な方へサラッと流れて行っちゃうんですよねあせる

妻木城/⑦枡形
▲枡形の石垣

本丸から下ると、足元に真っ直ぐ並んだ石の列がありました。そのまま進むと枡形虎口になっており、その石垣でした。

妻木城/⑧枡形の石垣
▲二の丸から見た枡形虎口

二の丸まで下りて振り返ると!!!立派な石垣がありました。かなりアドレナリンが沢山出たようで・・・妻木城で撮った写真の半分くらいはココの写真でした。

妻木城/⑨二の丸にある説明板
▲二の丸にある説明板

二の丸の入口(三の丸側)には等高線の入った縄張図付きの説明板があります。普段ならこっちの図をトップに持って来るのですが、上の件もありボツとなりました。この後に撮った写真が無いので、どうやら三の丸を見ずに元来た道を下ったようです。立派な遺構を見てテンションが上がり、お腹一杯になってしまったようですね┐(´∀`)┌

これ書いてる時に調べたのですが、北側の山麓に石垣の立派な陣屋跡があるそうです。江戸時代初期の様式を残す貴重な遺構だそうで・・・皆様は是非そちらも見学してクダサイ。


◆歴史◆

南北朝時代の1339年頃、土岐頼重により築かれたと考えられています。

土岐頼重は土岐氏の初代美濃守護・土岐頼貞の孫です。頼重は可児郡の明智城を居城として明智姓を名乗りました。その後、明智氏から派生した庶流の妻木氏の城となりました。はじめに妻木姓を名乗ったのは妻木弘定だそうですが・・・いつの時代の人物なのかわかりませんでした。

1582年、本能寺の変で、当主・妻木広忠が自刃しました。

妻木広忠は明智光秀に従っていたため、山崎の戦いで敗れた際に自刃しました。明智光秀の正妻は妻木広忠の娘だったそうで・・・かなり初期の庶流とはいえ、本家とは繋がりがあったんですね!広忠の後を妻木頼忠が継ぎました。

その後、森長可が信濃から金山に戻ると、土岐郡や恵那郡に侵攻して来ました。そのため遠山氏とともに抵抗しましたが、和議を結んで森長可に従うようになりました。しばらくは人質を差し出し、金山城下に住むことを強要されました。その間は森家臣・林為忠が城代となりました。

1584年、妻木頼忠が城主に復帰しました。

小牧・長久手の戦いで森長可が討死したため、その弟・森忠政が跡を継ぎました。その頃になると森家中での信任を得たようで、妻木城へ戻ることを許されています。1600年に森忠政は信濃・川中島へ移りましたが、妻木氏は美濃に残りました。

その直後に起きた関ヶ原の戦いで、妻木頼忠は東軍につきました。この時、豊臣秀吉により先祖代々の地を追われていた遠山氏や小里氏を味方につけています。そして、新たに領主となっていた岩村城主・田丸直昌と戦いました。この戦いで彼らの元居城であった明知城や小里城を奪回する活躍を見せました。その功により、妻木領7500石を安堵されています。戦後、妻木氏は山城の妻木城ではなく、山麓の館で政務を執るようになりました。

1658年、妻木氏が断絶しました。

妻木頼忠の孫・妻木頼次が跡継ぎ無く没したため、妻木領7000石は幕府に接収されました。この時に北の山麓にあった陣屋は廃されています。生前、弟の妻木幸広に500石が分知されており、妻木家を再興して妻木の地を領しました。


所在地:岐阜県土岐市妻木町上郷

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和知城/岐阜県八百津町

和知城跡は稲葉城公園として整備されています。
訪問日は2013年7月28日です。

和知城/①公園入口
▲公園の入口

立派な駐車場に車を停めると、正面に白塗りの塀と建物が見えます。お城をモチーフにしているのがわかります。でも、ちょっと安易なような感じがします。

和知城/②本丸跡
▲本丸跡

城内に入って最初に目に飛び込んで来たのが、展望台と滑り台でした。入口からして何となく感じてはいましたが・・・やっちゃった感で充満している本丸跡でした。

和知城/④堀切
▲堀切

遠めにちょっと残念な本丸が見えたのですが、その手前にはとても深い溝があります。これはどうやら堀切のようです。後で見た縄張図によると、本丸と二の丸を隔てる堀切が描かれていました。ただ、パッと見はどう見ても重機で掘ったようにしか見えません。真相を知らないので何とも言えませんが、どうなんでしょうか?

和知城/③土塁
▲変わり果てた土塁

気が進まないなりに本丸まで進みましたが、奥まで見に行く気にならず。振り返ると、今度は野外ステージみたいな土台が見えました。近寄ってみると説明板があり、そこに描かれている縄張図からすると土塁のようです。半分ありませんが・・・残っていたのか、土を盛り直したのか、定かではありません。

和知城/⑤縄張図
拡大表示

縄張図を見ていると、現場には無いものが沢山描かれています。どこがどうなっているのかちょっと考え込みましたが・・・三の丸が駐車場で、本丸と二の丸は完全にまっ平らにされていますね。大手門辺りの複雑な堀も埋め立てられ、民家が建っています。却って何もありません、やっちゃいました!と説明板と城址碑だけある方が潔い気がしました。


◆歴史◆

1590年、稲葉方通により築かれました。

稲葉方通は稲葉一鉄の4男です。和知城へ来る前は西美濃の西保城主でした。和知城へ移されたのは、遠藤慶隆に備えるためだそうです。

遠藤慶隆はもともとは郡上八幡城2万7千石の城主でした。1565年に美濃が織田信長に制圧された時、いち早く織田方に鞍替えしました。1582年の本能寺の変の後、岐阜城主・織田信孝に従って羽柴方と戦いました。立花山の戦いで森長可らの軍勢に包囲され、織田信孝降伏の知らせを受けて降伏しました。以後は小牧・長久手の戦いや紀州征伐、九州征伐など、秀吉の配下として戦っていました。1588年、遠藤慶隆は突然減封を言い渡され、郡上八幡城を召し上げられました。理由は5年前に秀吉と敵対した立花山の戦いだったそうです。寝耳に水ですよね・・・遠藤慶隆は大人しく城を新城主・稲葉貞通に引き渡しました。

しかし、減封を言い渡されたものの、なかなか新しい領地を与えられませんでした。困窮した遠藤慶隆は、関の町人・加取善左衛門に家を借りて暮らしていました。太閤検地に来た小野木縫殿助らにその事を伝えると、1590年にやっと領地を与えられました。

・・・脱線長かったですが、遠藤慶隆はかなり気概のある武将なので警戒したんでしょうね。脱線ついでに、関ヶ原の戦いで遠藤慶隆は西軍・稲葉貞通の郡上八幡城を攻め落としました。この働きにより、郡上八幡城に返り咲きました。

1617年、尾張藩に組み込まれました。

稲葉方通は尾張藩・徳川義直に仕え、金山に所領を移されました。1676年、5代目の稲葉屋通が嗣子無く没し、和知稲葉家は断絶しました。


所在地:岐阜県加茂郡八百津町野上

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金山城/岐阜県可児市【1回目】

金山城は予定外でしたが寄り道しました。
訪問日は2013年7月28日です。
※続日本100名城スタンプについては2回目のブログをご参照下さい。

金山城/①登城口
▲登城口

山城ということで、当初は行く予定ではありませんでした。真夏の城廻りでしたから。でも、時間に余裕がある!というか、城跡という文字の引力に負けただけです。金山城の案内は、近くの道を通ると嫌でも目に入るので。でも、このクソ暑いのに山登りなんてなぁ・・・とつぶやきながら、足は既に登城路を登っていました。やっぱり病は相当進んでいるようですあせる

金山城/②三の丸
▲三の丸

いつも画像ファイルのタイムスタンプで登城時間を書いてます。それにしても、登城口から三の丸まで1分以内って何かの間違いですよね?と言いつつ、あながちあり得なくもないと思ってます。横着者なので、いつもどこが一番楽なんだ?そんな事ばかり考えています。この日もそんな感じで登れる所まで登っていましたので。さて、さっそく石が点在する様子に少し興奮し始めましたが・・・

金山城/③大手門跡
▲大手門跡

三の丸を過ぎると、更にガッツリと石垣が組まれた場所に出ました。ここが大手門の跡で、説明板によると枡形だったんだそうです。画像ファイルをパラパラと見て書いてますw塩銀写真と違って、デジカメだと気軽に撮りまくれるのが嬉しいですラブラブ・・・いつの時代の原始人だ?と言われそうですがあせる

金山城/④本丸
▲本丸

さて、またしても程無く本丸に到着です。登城口から5分・・・やっぱり何かの間違いですよね?本丸には神社があり、その左右を城址碑と説明板で挟んでいます。しかし、この神社の名前、某お茶の名前と読み違えますよね?そんな事ないですか。そうですかあせるやっぱり一度お医者サマに診てもらった方がいいですよね。よく言われます。

金山城/⑤城址碑
▲城址碑ラブラブ

さて、その城址碑とやらがコチラです!石垣も堀跡もいらないけど、コイツだけは欲しい!って方もいらっしゃるかと。そうでもないですか?おいらは全部欲しいですw遺構バッチリな上に城址碑まであると、テンションぶっ飛びますヽ(´∀`)ノ

金山城/⑥天守台
▲天守台の石垣

さらに!さらに!天守台の石垣まで残っています。予定外の山城でしたが、大して時間も掛からなかった上に色々見れて大満足でした合格


◆歴史◆

1537年、長井規秀(斎藤道三)により築かれました。

後の斎藤道三ですが、この頃はまだ斎藤姓を名乗っていませんでした。斎藤姓を名乗るようになったのは、この翌年に守護代・斎藤利良が没してからです。しかし、こうやって見ると、斎藤利良の「病死」が怪しく思えてしまいます。

築城当時は「烏ヶ峰城」と呼ばれていました。城には長井規秀自身ではなく、養子の斎藤正義を入れました。養父が斎藤姓を名乗る前、正義が何と名乗っていたのかは?です。

守護代・斎藤利良が「病死」すると、長井規秀はその名跡を継いで斎藤利政と改名しました。そして、烏ヶ峰城に入ったこの養子は斎藤正義を名乗りました。

ここからは完全に根拠も無いただの推測ですが・・・守護代の病が重くなって、長井規秀が勝手に斎藤家に養子をとったのかもしれません。この養子(斎藤正義)は関白・近衛稙家の子なので。斎藤家としても、近衛家から持ち掛けられた話ということにすれば断れませんからね!で、斎藤利良が没したら自分が養父になって斎藤家の名跡もGet!という事だったのかも。

病がどんどん進んでる気がしますが、自覚あるからまだ大丈夫ですよね?

1548年、斎藤正義が配下の久々利頼興に謀殺されました。

久々利頼興が斎藤正義を酒宴に招き、主である正義を謀殺しました。養父である斎藤利政(道三)は・・・特に久々利頼興を罰することもありませんでした。自分の養子を殺されてお咎め無しということは、そういう事なんですね。

この暗殺劇は斎藤利政が仕組んだものという説が有力です。しかし、テツ&トモが頭の中でアノ曲を盛んに歌い始めます。単純に仲が悪かったということでしょうか?

この年にあった大きな出来事と言えば、斎藤家と織田家の和睦です。織田信長の父・信秀は、土岐頼芸に味方してよく美濃に攻め込んでいました。土岐頼芸がはじめ戦っていたのは兄の土岐政頼で、こちらには越前朝倉氏が味方していました。兄弟喧嘩がひと段落すると、頼芸を担いでいた斎藤利政が野心をむき出しにしました。そのため土岐頼芸と斎藤利政が戦い始め、腐れ縁で織田信秀は土岐頼芸に味方していました。しかし、土岐頼芸の領主としての器量に見切りを付けたのでしょうか。織田信秀は斎藤利政と和睦し、織田信長と濃姫との婚儀が成立しました。

斎藤側の出した和睦の条件は、織田家が土岐頼芸の味方をやめることだったと思います。美濃での土岐方と斎藤方の争いは大勢が決しており、織田方としては痛くも痒くも無いですね。この和睦は織田側から言い出したもののようで、東の今川義元対策だったようです。美濃との争いが無くなれば、今川軍からの防衛に専念できますからね。

もしかすると、斎藤正義はこの和睦に強硬に反対したのかもしれません。斎藤正義の領地は、尾張の犬山と隣接しています。今川軍と挟み撃ちにすれば、今まで散々苦しめられてきた織田家を潰せますからね。・・・いけないいけない、また突っ走ってしまいましたあせる

斎藤正義を討った久々利頼興は、時を空けずに烏ヶ峰城を占領。一族の土岐十郎左衛門を城代としました。

1565年、織田信長の家臣・森可成が城主となり、兼山城と改名しました。

織田信長が美濃東部を制圧し、森可成を城主としました。森可成は織田信長にとっては最古参の家臣の1人です。弟・織田信行との戦いで、柴田勝家や林通勝を相手に奮戦した猛将です。信長の信頼が厚く、森可成の子の多くが信長の小姓として仕えています。余談ですが、本能寺の変では蘭丸をはじめ、可成の子が3人も討死しています。

1570年、森可成が戦死し、次男・森長可が城主となりました。
1582年、森長可が信濃・海津城へ移り、森蘭丸が城主となりました。
1582年、本能寺の変で森蘭丸が討死。森長可が信濃から戻りました。
1584年、森長可が小牧・長久手の戦いで討死。森忠政が城主となりました。

1600年、廃城となりました。

森忠政が信濃・海津城へ移り、森氏の旧領は犬山城の石川貞清が引き継ぎました。石川貞清は金山城を廃城とし、犬山城改修の建築資材として利用しました。そのため、犬山城の現存天守も金山城から移築されたのでは?という説もありましたが・・・1961年の犬山城天守修繕の時の調査により、移築されていないことがハッキリしました。

尚、石川貞清は直後に起きた関ヶ原の戦いでは西軍についたため、所領を没収されました。黄金千枚で助命された後は、京で貸し金業を営んだそうです。


所在地:岐阜県可児市兼山

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御嵩城(権現山城)/岐阜県御嵩町

御嵩城と呼ばれるお城は2つあります。
次は本陣山城の東隣にある権現山城です。
訪問日は2013年8月2日です。

御嵩城(権現山城)/①案内図
拡大表示(北が上です)

権現山城と呼ばれる方の「御嵩城」は、本陣山城と比べるとグンと城跡っぽい雰囲気です。案内図がとても公園っぽいのですが。写真をちゃんと見たら、案内図の上に「金峰ふれあいの森」と書かれていました。城跡っぽくないのですが、何となく雰囲気は・・・掴めませんねあせる

御嵩城(権現山城)/②登城路
▲登城路(北口)

城跡へは案内図の右上にある「北入口」から登りました。遊歩道っぽくなっていますが、本陣山城みたく車道じゃないのでよしとします。山城にしてはかなり綺麗で歩きやすい登城路です。

御嵩城(権現山城)/③郭
▲郭らしい地形

斜面を登って折り返すと、平らな所に辿り着きます。平らな所はいくつもあって、きっと郭の跡なんでしょうね。そう思いながら見ていると、土塁や空堀っぽいものが見えてきます。・・・半分は不治の病のせいだと思いますけど。

御嵩城(権現山城)/④本丸
▲ある郭の様子

でも、この写真の郭の端には、土盛りっぽいのが見えますよね!多分城キチさんなら、これは「土塁だ」と言ってくれると思います。ほんの少しだけでも味方になってくれる人がいると嬉しいですが・・・

御嵩城(権現山城)/⑤城跡っぽい地形
▲振り返ると城跡らしい地形

上の郭からUターンすると、今度は窪んだ地形に土橋が渡されているように見えました。もう、スイッチ入ると色んなものが見えてきちゃいます。それはおいら一人に限った事ではないと思いますラブラブ

御嵩城(権現山城)/⑥堀切
▲堀切

でも!これはダレがどう見ても堀切ですよね?こればかりは譲れません。堀切という事にしておきます ヽ(`д´;)/

御嵩城(権現山城)/⑦金峰神社
▲金峰神社

神社が鎮座している所が本丸です。金峰神社って縁起良さそうな名前です。でもお祈りしてくるの忘れました。テンションちょっち上がってて、平常心では無かったのだと思います。酔っぱとは違うので、クルマはちゃんと運転出来るレベルですが。

御嵩城(権現山城)/⑧神社の参道
▲神社の参道

さて、テッペンまで登ったらあとは帰るだけ。ふと脇を見たら、麓まで一直線に降る石段がありました。神社って全国的に斜面一直線の所が殆どなんですね。


◆歴史◆

築城年代不明、小栗氏が居城としていました。

御嵩城の歴史はサッパリわからず。その末期だけが何とか分かる感じでした。あまりにわからないので1日中メラメラでした。陽が暮れちゃったのでギブアップです。

天文年間(1532~54年の間)に小栗信濃守が本陣山城を築き移りました。

戦国時代、小栗信濃守が居城としていました。天文年間の美濃は、土岐頼純・頼芸の家督争いと、斎藤道三の国盗りの時期です。小栗信濃守はより堅固な城砦が必要となり、本陣山城を築き居城を移しました。その時期もあまりはっきりしませんが、その後の権現山城の扱いも不明です。すぐ近くで敵に占拠されても厄介なので、守備兵力は残したと思われます。

・・・ということで、廃城の時期についてもサッパリわかりませんでした┐(´∀`)┌チョットだけムキになって調べました。金峰神社を調べれば何か出てくるかな?と思いまして。

本丸跡にある神社の創建された年は不明ですが、1649年に再建されています。当時の神社は「蔵王権現」と呼ばれていましたが、明治元年に「金峰神社」に改称しています。う~ん、やっぱりわかりませんあせる


所在地:岐阜県可児郡御嵩町御嵩

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御嵩城(本陣山城)/岐阜県御嵩町

御嵩城と呼ばれるお城は2つあります。
最初は本陣山城に行って来ました。
訪問日は2013年8月2日です。

御嵩城(本陣山城)/③登城口
▲登城口?

地図で見るとすぐ近くまで道があり、そこから1本真っ直ぐ道があるのが見えます。その場所に辿り着いて見えたのが、上の写真の光景です。真っ直ぐ頂上に向かう道は、神社の参道かUFO基地を連想させます。後者は見た事がないので、勝手な妄想です。

御嵩城(本陣山城)/①説明板と城址標柱
▲説明板と城址標柱

その登り口の脇に説明板と標柱があります。場所は間違っていませんでした。本当にこの上が城跡なんですね・・・

御嵩城(本陣山城)/②現地案内図
拡大表示

説明板にも書かれていましたが、城域の大半は開発により潰されてしまいました。それでも二の丸と本丸だけは辛うじて残っているようです。それを信じないと、あの坂道を登ってみようという気にはなりません。

御嵩城(本陣山城)/④二の丸
▲二の丸

登って最初に辿り着く広場が二の丸です。階段を登り切った所には「御嵩城址」と書かれたゲートがありました。あまりのアスレチックっぽさにしばし呆然としましたがw二の丸も平らにならされているな~ぐらいで、遺構らしい感じはしません。藤棚が更に公園っぽさに拍車を掛けている感じがしました。

御嵩城(本陣山城)/⑤本丸
▲本丸

二の丸からまたちょっと登った所が本丸のようです。上の案内図どおりなら、ですが。頂上にある細長い平地だから、たぶんそうなんでしょうね。そこにはデーンと立派なコンクリートのオブジェクトが。確かに眺めの良い場所ですが、だからって城跡潰さないで。゜(゚´Д`゚)゜。

御嵩城(本陣山城)/⑥物見
▲展望台から見た北側にある物見

でも、煙と何とやらは高い所が好きという俗説は当たっているようで・・・登るのは嫌いですが、高い所は大好きです。そのクセ高所恐怖症という複雑な合成物がおいらという人型です。そこから北を見ると、足元に物見が見えます。

御嵩城(本陣山城)/⑦展望台から見た城内
▲展望台から見た城の南側

展望台の反対側に回ると、南側を見渡せます。そこに見えるのは、ガッツリ掘り返されてならされたグラウンドのような空き地。・・・きっとこれからまた何かを造りそうな雰囲気がプンプンします。


◆歴史◆

天文年間(1532~54年の間)、小栗信濃守により築かれました。

それまでは東隣にある権現山城を居城としていました。より堅固な城が必要になったらしいのですが、時期があまりハッキリしません。天文年間の美濃は、ザックリ言えば土岐兄弟による家督争いと斎藤道三の国盗りの時期です。

1552年、落城しました。

土岐市に勢力を持っていた高山伊賀守光俊が没しました。高山氏には跡継ぎが無いため、勢力拡大を目論んだ小栗信濃守が高山領の押領を図りました。高山氏の素性はわかりませんでしたが、土岐を本拠とする遠山氏の勢力圏だったようです。

小栗軍を恵那明智城主・遠山与助が迎え撃ち、遠山氏は武田信玄にも援軍を求めました。序盤は勝利した小栗軍ですが押し返され、御嵩城(本陣山城)まで攻められました。この戦いは小栗信濃守が自刃することで決着したようです。

空城となった高山城は、この戦いの功として小笠原氏の家臣・平井光行に与えられました。経緯はよくわからないのですが、小栗氏は御嵩城主として存続したようです。武田氏か遠山氏の軍門に降ったということでしょうか。

1565年、小栗氏は織田信長に降り、森可成の配下となりました。

東美濃を制圧した織田信長は、鳥峰城に森可成を配置しました。森可成は織田信長軍団では最古参の猛将です。もはや当主の名前すら?ですが、小栗氏は早い時期から織田軍に従ったそうです。

1599年、廃城となりました。

金山城主・森忠政(可成の子)が信濃・海津城へ移ったため廃城となりました。その時の御嵩城主ってダレだったんでしょうね?この時に廃城なら、森忠政の家臣だったと思いますが。

わからない事だらけだったのでムキになって調べていましたが、日が暮れたので降参ですあせる


所在地:岐阜県可児郡御嵩町城町

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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