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増山城/富山県砺波市

増山城は越中西部に拠った神保氏の城でした。
訪問日は2018年7月14日です。

【写1】増山城

増山城跡の登城口の案内です。
和田川ダムの近くに、駐車場の広い増山陣屋があります。

その数十m先に、この案内が出ています。
この目の前にも3台ほど車を停められます。

【写2】増山城

案内の矢印の方に見える景色です。
橋に見えますが、和田川ダムです。
車では渡れないので、ここから歩きです。

【写3】増山城

ダムの上を渡ると、それっぽい門が見えて来ました。
ここが増山城の登城口です。
門の脇には、これでもかという位に案内図が並んでいます。

【写4】増山城
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その中で一番よく紹介されているのがコレです。
真新しい感じで、周辺も含めて描かれています。
この図の中では、増山城は真ん中の下半分です。
右上には亀山城と孫次山砦という、支城?出城?も描かれています。

【写5】増山城
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せっかくなので、主役の増山城部分を拡大します。
私はネットで拾ったこの図を印刷して訪ねましたが・・・
リアルなイラストは、かえって現地では見づらいと感じました。
絵的にはとても素晴らしいので、自宅では見入ってしまうんですけどねあせる
曲輪を〇で描き、通路なりを線でつなぐシンプルなのがよさげです。
絵心が育ってきたら、ちょっと頑張ってみようと思いますw

【写6】増山城

登城路のスタート地点付近です。
谷沿いに緩い坂道を登って行きます。
この谷、竪堀だったら凄いですw

【写7】増山城

ちょっと登ると、真正面が土の壁で通せんぼされます。
ここは図で②の「F郭」です。
アルファベット表記はちょっと新鮮ですw
出来れば漢字表記欲しかったですね・・・
位置的には「大手番所」なんかだと思います。
勝手に名前まで付けるようになってきたようですあせる

【写9】増山城

上の柵がある所が、図のF郭です。
わりとシンボリックな場所ですが、和名ではありませんw
この柵があることで、リアリティがかなり増していますラブラブ

【写8】増山城

このF郭から通路越しの反対側に、地面がザックリ削られた所があります。
図でいうと、②のF郭のすぐ右にある堀切の続きにある竪堀です。
ちゃんと意識して回り込めば、上から堀切も見れたかもしれませんあせる

【写10】増山城

さらにチョット登ると、真正面に城塁が立ち塞がっています。
この城塁の上が一の丸です。

【写11】増山城

一の丸へは、城塁に張り付くような道を進みます。

【写12】増山城

一の丸内部です。
曲輪の中だけ撮ると「・・・」ってなりますよねあせる
まぁ、こんな感じですw

【写13】増山城

一の丸から二の丸へ向かう虎口です。
内側から見たところです。

【写14】増山城

さっきの虎口を外側から見たところです。
一の丸の城塁が壁になり、どう進むのかがわかりづらくなっています。

【写15】増山城

一の丸側から二の丸側を見たところです。
道が分岐していて、上が二の丸、下が三の丸に通じる道です。
下の道にちょこんと標柱があるので、釣られて見てきました。

【写16】増山城

標柱には「石垣跡」と書かれています。
が、石垣は見当たらず。
草に覆われて見えないのか、「跡」だからそうなのか・・・
わかりませんw

【写17】増山城

上に戻り、二の丸虎口に突撃です!
ちゃんと曲がった虎口です^^

【写18】増山城

虎口から見た二の丸内部です。
こちらは真ん中に説明板があり「・・・」とはなりませんw
先ほどの一の丸よりもかなり広い曲輪です。
曲輪の名前に数字が付く場合、2つのパターンがあります。
一つは重要度が高い方から1、2、3となるパターン。
そしてもう一つは、手前から順に1、2、3となるパターン。
ここは後者のようです。
構造的には、二の丸が一番重要度が高そうな感じがします。

【写19】増山城

二の丸の左奥には、さらに一段高くなった場所があります。
ここが鐘撞堂です。
よそなら「櫓台」なんて呼ばれそうな感じの高台です。

【写20】増山城

登ってみると、簡単な説明板と小さな鐘があります。
特に感慨は無いのですが、つい鳴らしてしまいます♪

【写21】増山城

この鐘撞堂から、すぐ隣にすごい堀切と曲輪が見えます。
曲輪は安室屋敷と書かれていて「旬だなぁ~w」なんて思いましたが・・・
「あぢち屋敷」と読みますw

【写22】増山城

メインの二の丸見たらもういいや、なんて思っていましたが・・・
そこから見えた大きな堀切がどうしても見たくなりました。
二の丸からそっちへ向かったものの、道は無し。
安室屋敷と堀切へは、さっきの分岐から進みます。

【写23】増山城

二の丸の城塁をぐるっと回り込むように進むと・・・
こんな場所に出ます。
これが、先ほど二の丸から見えた大きな堀切ですラブラブ
たぶん、増山城で一番大きな堀切だと思います。

【写24】増山城

堀切にハシゴが掛けられており、そこから登った所が安室屋敷跡です。
広さだけなら、二の丸よりも広いかもしれません。

【写25】増山城

先ほどの堀切の底を更に進んだ所が馬洗い池です。
ただ、歩いている時は「堀が曲がってる」としか感じられません。

【写26】増山城

こうやって見ると「あ、池だ!」とわかります。
池にも草が生えているので、知らずに進むとえらいことになりますガーン

【写27】増山城

この堀底道は左が安室屋敷、右が三の丸に挟まれた所です。
この先に神保夫人入水の井戸や亀山城跡などがありますが・・・
タイムトライアル的なスケジュールのため、ここで散策を終えました。

【写28】増山城
砺波市埋蔵文化財センター

今回の弾丸北陸ツアーもう1つの目的は、スタンプ集めです。
増山城のスタンプは、庄東小学校脇の埋蔵文化財センターにあります。

続日本100名城スタンプ設置場所
【写29】増山城 砺波市埋蔵文化財センターhttps://www.google.com/maps/d/view?mid=1BjW0HLyElq61ajcdhzcrBDm_lZg&ll=36.63598998468544%2C137.01117507825143&z=19" style="color:#009900" target="_blank">(地図)
 開いている時間 9時~17時
 お休み 月曜日、祝日(月曜日の場合翌日)、12月~3月


◆歴史◆

南北朝時代には和田城と呼ばれていました。

『二宮円阿軍忠状』に和田城という名で登場するそうです。
どんな形で誰が城主だったのかが???ですが・・・あせる
南朝方に属した桃井直常に味方した人物が守っていたそうです。
桃井直常は足利氏の一族で、足利直義に属していました。
弟の桃井直信が越中守護となっていた時期もありましたが・・・
その前の守護・斯波義将と支配権を争って対立し、敗れました。

戦国時代は神保氏の城でした。

神保氏は能登・越中の守護・畠山氏家臣で、越中西部の守護代でした。
海に近い放生津城を本拠とし、応仁の乱でも活躍しました。
しかしその後、神保慶宗が一向一揆と結び独立の動きを見せると・・・
主家の畠山氏と、越後の長尾為景の連合軍に攻められ壊滅しました。

神保氏はその後、神保慶宗の遺児・神保長職がじわじわと復興。
はじめは一向一揆にも勝てなかったそうです。
次第に勢力を拡大し、越中東部の椎名氏を押しのける程にまでなりました。
しかし、椎名氏は上杉謙信を後ろ盾に神保氏に対抗。
神保長職は、上杉謙信が攻めて来ると降伏しましたが・・・
上杉軍が越後へ撤退すると、また椎名氏を圧迫しました。
上杉謙信は再び越中に出陣し、この時に増山城も攻められました。
神保長職はまた降伏するのですが、上杉謙信は増山城の堅城ぶりを絶賛したそうです。

一度上杉軍に奪われますが、神保長住が奪還しました。

神保氏はしばらく上杉謙信に従いましたが・・・
一向一揆が盛んになると、彼らと結んで再び反上杉の動きを見せました。
しかし、神保家中は親上杉派と反上杉派に分裂。
一方が勝つと他方が敗れ、そんな事が続いて次第に勢力が衰えました。

1576年、上杉謙信が上洛のため挙兵し、越中に攻め込みました。
上杉謙信の標的は、その先にある織田軍ですが・・・
この時に増山城は攻め落とされ、神保長城が消息不明になっています。
増山城には上杉家臣・吉江宗信が入りました。

その後は父・神保長職と対立して出奔していた神保長住が戻って来ます。
戻ってきたのは、出奔先の織田信長が越中に攻め込んだためでした。
神保長住は上杉軍に滅ぼされていた神保家の旧臣を集め、越中攻略に貢献。
増山城、富山城を上杉軍から奪う活躍を見せました。
しかし、旧臣の小島職鎮の急襲を受けて捕らえられ・・・
織田軍により間もなく救出されましたが、この事件を機に追放されました。

1582年、佐々成政の城となります。

佐々成政は前年から越中に入り、対上杉軍の最前線を指揮していました。
そんな中、神保長住が襲われる事件があり、以後は完全に越中を掌握しました。
佐々成政は増山城に改修を加え、現在見られる形に整備しました。

1585年、前田家の城となりました。

越中を支配していた佐々成政は、1583年にあった賤ヶ岳の戦で柴田方でした。
翌年の小牧長久手の戦では、当初は羽柴秀吉方だったものの、敵方に寝返りました。
そのため羽柴秀吉に討伐され、富山城を包囲され降伏しました。
以後の越中西部は、加賀の前田利家に与えられました。
増山城は、重臣の中川光重らが守将を務めています。
1615年の一国一城令により廃城となりました。


所在地:富山県砺波市増山 GPSログダウンロードページ

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山本城/富山県南砺市

山本城跡は田んぼの中にほんの一部分だけが残されています。
訪問日は2012年8月6日です。

山本城
▲郭の一部分が田んぼの中に残されています

田んぼの中にポツンと残された郭の一部に石碑が建っています。訪問した時にはそのイメージ通りだったので、この1枚しか撮りませんでしたが・・・反対側にも道があって、説明板まであるそうです_| ̄|○


◆歴史◆

平安時代末頃、石黒氏により築かれました。

石黒氏は越中の名門で、石黒荘(礪波郡一帯)を支配していました。源平の戦いでは木曽義仲に味方し、倶利伽羅峠の戦いで大活躍しました。石黒太郎光秀の次男・石黒宗五郎の系統が山本村を治めていたそうです。

1481年、石黒氏が滅びました。

この年、一向一揆と石黒氏が山田川で戦い、石黒氏が滅ぼされました。以後、礪波地方は一向一揆が治めることとなります。尚、石黒氏は木舟城などに庶流が存続し、加賀前田家に仕えた子孫も多数居ます。

1580年頃、佐々成政の持ち城となります。

1570年代後半、織田信長は一向宗が支配していた加賀を制圧しました。一方、越中に影響力のあった上杉謙信が1578年に没し、上杉家中で家督争いが始まりました。そのため、織田信長が越中へ本格的に侵攻するようになりました。その先鋒を務めたのが佐々成政で、1582年には魚津城を陥落させ、越中を制圧しました。

1585年頃、廃城になったと考えられています。

その佐々成政も、織田信長が没した後は羽柴秀吉と争うようになりました。そして1585年、姓を豊臣と改めた秀吉に討伐され、越中の大半を没収されました。その領地は前田利家に与えられたため、軍事拠点としての役割を終えたものと思われます。

昭和40年代の圃場整備で、城跡の大半が消滅しました。

圃場整備までは郭が残っていたそうですが・・・圃場整備の時に、郭の東西が削り落とされたそうです。


所在地:富山県南砺市山本

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城端城/富山県南砺市

城端城は場所が特定されていないそうですが・・・
善徳寺が城跡としてはかなり有力な場所なのだそうです。
訪問日は2012年8月6日です。

城端城/①善徳寺本堂
▲善徳寺本堂

北陸では浄土真宗が盛んに信仰されており、中でも富山の礪波地方はかなり盛んだそうです。それは戦国時代を通じて完全には潰されなかったからでしょうか。加賀は織田信長によりかなり派手に討伐されましたからね。越中でも一向一揆はあったのですが、戦った相手は主に越後の長尾氏(上杉氏)でした。

城端城/②善徳寺太鼓楼
▲善徳寺の太鼓楼

礪波地方の武士も浄土真宗を信仰しており、一向一揆で陣頭に立つことが多かったそうです。その中には城端城主・荒木大膳も居ました。荒木大膳の出自はわからなかったのですが、この辺り一帯を治める大身だったようです。その荒木大膳の城だった頃から、この太鼓楼(櫓)はあったそうです。ただし、1849年に善徳寺が式台門を建立した際に今の位置に移されたそうです。

城端城/③萬福寺山門
▲城端城の移築大手門(地図)

そして城端城のもう1つの遺構が、ちょっと離れた場所にも残っています。北陸道・砺波IC付近にある萬福寺の山門が、大手門を移築したものと伝わります。ただし、わかっているだけで二度倒壊しており、かなり改修が加えられています。二度目の倒壊の時、墨書から城端城の大手門だったことがわかったそうで・・・この倒壊前は茅葺きだったのですが、修復の際に元の瓦葺きにされ今に至っているそうです。


◆歴史◆

城端の荒木氏により築かれたと考えられています。

年代は不明ですが、土豪・荒木氏の城だったと考えられています。

1559年、荒木大膳は城地を善徳寺に寄進しました。

これは善徳寺のホームページに書かれていた年代ですが、1572年説もあるようです。ただし、この後も城端城は軍事拠点としての機能は持ち続けていたようです。荒木大膳は後に加賀の前田利家に仕え、1590年に八王子城で討死したそうです。

斎藤九右衛門が城主となります。

Wikipediaでは斎藤九右衛門と表記されていましたが、「九」が「久」なら斎藤信吉ですね。斎藤信吉だったという前提で・・・

斎藤氏は婦負郡南部を本拠としていました。地理的には城端の東隣に当たります。独立勢力でしたが、天文年間(1533~55年の間)に神保長職により制圧されました。

その後は上杉謙信に従っていましたが、1570年代前半から織田信長に誼を通じました。そして1578年、上杉謙信が没すると、はっきり織田方として行動するようになります。この頃は上杉家中で家督争いがあり、越中での影響力が弱まりました。丁度その頃加賀を制圧した織田信長が、本格的に越中に侵攻し始めました。斎藤信吉が城主となったのは、この頃のことと思われます。

本能寺の変後、佐々成政の城となりました。

1582年、本能寺の変で織田信長が自害すると、斎藤一族は上杉景勝に寝返りました。そのため、越中を支配していた佐々成政に攻められ、斎藤氏は没落しました。斎藤氏を追放した後、佐々成政の家臣・河内才右衛門が城主となりました。

1585年頃廃城になったと考えられています。

織田信長亡き後、羽柴秀吉が主導権を握るようになりました。越中を治めていた佐々成政は秀吉とは仲が悪く・・・柴田勝家が討たれ、徳川家康が懐柔された後、本格的に討伐されました。新川郡を残して領地を没収されたため、城端の地は加賀の前田利家に与えられました。この頃に城としての役割を終えたと考えられています。


所在地:富山県南砺市城端西上

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宗守城/富山県南砺市

宗守城跡には神明社があり、城址碑と説明板、土塁?があります。
訪問日は2012年8月6日です。

宗守城/①県道から見た所
▲県道側から見た所

地図のその場所に来た時は「あれ?ここ?」という感じでした。細い道はあるのですが、なんだか畑っぽく見えたので。

宗守城/②城址碑と説明板
▲城址碑と説明書き

「いや、ココだろ」でズンズン進んで行くと、道端にありました!ちょっと凝った感じの城址碑と、その脇に説明書きが。この説明書き、たぶん字が間違ってるけど・・・ま、小さな事はキニシナイw

宗守城/③神明社
▲神明社

そして、敷地の真ん中には小さな社殿があります。雪国らしく、周りを雪避けで囲まれています。

宗守城/④土塁
▲土塁?

さて、城址碑撮ったし、中の神社も撮ったし次行くべ!と回れ右をしたら...なんだか、端っこが、盛り上がってる!ということでとりあえず撮った感がプンプンする土塁?です。

城として機能した期間が短い上、廃城からかなり年月が経っています。しかも、大して高くもないので、神社造った時に盛ったのかな?とは思いますが。でも、もしかしたら?ということで。


◆歴史◆

永正年間(1504~20年の間)初め、小林則行が築いたとされます。

小林則行は越後守護・上杉房能の家臣です。なぜ上杉家臣がこの時代に越中で城を構えたのかというと・・・越後と越中で明らかに戦があったのが1506年。越後守護代・長尾能景が越中で討死しています。

これは一向一揆の鎮圧が目的だったそうですが・・・当時、越後守護の上杉氏と守護代の長尾氏は対立していました。長尾能景が討死したのも、上杉房能が見殺しにしたという説がある程です。

1480年代頃から礪波周辺は一向一揆により支配されてきました。ここに上杉氏が置いた拠点だとすれば、小林氏はかなりの力があったのでしょうね。

1507年、小林則行が越後に帰り、城は放棄されました。

小林則行が越後に帰ったのは、主君・上杉房能が守護代である長尾為景に討たれたからです。上杉氏と長尾氏は長年対立していました。長尾為景は父・能景の越中での討死について、上杉房能を恨んでいたのでしょう。

この戦いは更なる大事件を引き起こします。弟を殺された兄で関東管領の上杉顕定が、仇討ちのため越後に攻め込みました。一度は戦に勝って越後を制圧したのですが・・・

翌年に長尾為景が勢力を盛り返し、何と関東管領を討ち取ってしまいました。ここから関東の情勢も混沌としてきます。

かなり遅くなりましたが、長尾為景は上杉謙信の父親です。なぜ子が上杉姓を名乗っているのか・・・有名なのでココでは書きませんw

藤井嘉兵衛が上杉謙信に攻められ、廃城となりました。

どこのサイトでも年代は書かれていませんでしたが・・・上杉謙信が盛んに越中を攻めたのは1560年代後半から1570年代前半です。一向宗を大嫌いな謙信と、一向宗を信仰する越中衆。上杉軍が一向一揆の討伐を繰り返す内に離反したのでしょうか。藤井嘉兵衛の出自などは分かりませんが、宗守城の主だったようです。

この時の戦いについては悲話が残っています。藤井嘉兵衛の妻が臨月で、戦に敗れた報せを受けて家臣・畑六郎左衛門の屋敷に避難しました。そこで嘉兵衛の妻は赤子を出産したのですが・・・追手の探索が厳しくなり、嘉兵衛の妻と子は再び宗守城へ移りました。しかし、緊迫した状況で逃げなければならず、母は泣く泣く赤子を城内に埋めたそうです。そうして逃れたのですが、逃げ切れずに母親は村の外れで自害したそうです。

この後、宗守城跡では風雨の強い時などに赤子の泣き声がするようになり・・・哀れんだ村人達が「産子塚」を築いて供養したのだそうです。その塚は・・・見てません(爆)


所在地:富山県南砺市宗守

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日宮城/富山県射水市

日宮城跡には薬勝寺と日宮神社があります。
訪問日は2012年8月6日です。

日宮城①/遠景
▲遠景

この日は福井県、石川県の城跡を巡り、富山県も回れるだけ回るというスケジュール。そのラストが日宮城でした。長い長い夏の陽も傾き、電池もヘロヘロな頃合です。そんな訳で、遠景もオレンジがかった夕陽を浴びています。

日宮城②/鳥居
▲日宮社の鳥居

最初に見たのは日宮神社の方です。こちらは参道入口に鳥居があり、お馬さんの像と石灯籠など結構賑やかです。

日宮城③/説明板
▲鳥居脇にある説明板

その左脇に日宮神社と日宮城の説明板が仲良く並んで設置されています。一応お城についての説明が書かれているのですが・・・まぁ、あるだけいいとしましょうw

日宮城④/城址碑と説明板
▲城址碑

続いて、東にある薬勝寺に参りました。こちらには、階段を登り切った所に城址碑がクラッカーこれ目当てに来たんですwしかし・・・写真でも分かるくらい小さいのです。まぁ、近くに寄ってアップで撮ればどんな石碑も大きく写りますけどwww

日宮城⑥/城址碑
ほらラブラブ

日宮城⑤/社殿
▲薬勝寺の本堂

ついでに撮ったお寺です。写真見ながら「これ神社じゃないよな~」なんて思ってたのは、ココだけの秘密です。


◆歴史◆

日宮城の築城年代は不明です。
神保氏が本拠としていたお城です。

1562年、神保長職が上杉輝虎に降伏しました。

1559年より椎名氏を攻めた神保氏は、椎名氏の援軍である上杉軍に攻められていました。1560年に富山城を攻め落とされた時から、神保長職は要害堅固な増山城に篭っていました。上杉輝虎に降伏した神保長職は従来の所領を安堵され、増山城を新たな本拠としました。

1572年、一向一揆に攻め落とされました。

城主・神保覚広は新庄城主・鰺坂長実に援軍を要請しました。上杉謙信は鰺坂長実の他にも援軍を差し向けたのですが・・・呉服山での戦いで一揆軍が援軍に勝利したため、日宮城は和議を請い開城しました。神保覚広らの守将達は能登国石動山の天平寺へ移りました。以後、日宮城が城として使われた記録が無いそうで、この時に廃城になったと思われます。


所在地:富山県射水市下条

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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