fc2ブログ

白鳥城/富山市

白鳥城は富山城を見下ろす西の断崖上にありました。
訪問日は2012年8月7日です。

白鳥城は金沢から富山に向かう途中の道を右に入った先にあります。意外と車の往来が多いので右折するのに苦労しますが・・・この日は反対側からだったので、楽々左折ですw

白鳥城①/城址碑
▲城址碑

それまでの渋滞が嘘のように車が無く、プチ山道をスイスイ走ると城跡に辿り着きます。そして、駐車場からすぐの所に写真の城址碑が。当時の私は「城址碑=本丸」という妙な方程式が出来上がっており・・・登城糸冬了あせる

白鳥城②/登城路
▲登城路

ここで撮った写真がもう1枚だけありました。これは山中に向かう登城路です。何を思って撮ったのか謎ですが・・・

今見ると、何となくですが虎口のようにも見えます。この先に堀切や土塁などがテンコ盛りの城跡がちゃんと残っています。山城の何たるかに目覚める一歩手前、だったのでしょうか?w


◆歴史◆

築城年代はわかっていません

1183年、今井四郎兼平が陣を張りました。

これが史料の初見です。ですが、城の立地・構造から東に備えたお城です。越中(東)から加賀(西)を攻めた木曽義仲軍がココに陣を張るのは不自然かも。・・・事のいきさつがわからないコピペだと、こういう素朴な疑問がわんさか沸いてきますw

1560年頃、神保長職が整備します。

対椎名氏への前線基地として整備します。神保氏が椎名氏への前線基地として築いた富山城をすぐ目の前に見下ろします。万が一の備えと、ココを先に落とされたくないという事だったのでしょうか。しかし、1562年に椎名氏の援軍要請を受けた上杉輝虎により落城。以後は上杉軍が管理する城となりました。

1572年、一向一揆に攻め落とされました。

この頃は椎名氏に続き、神保氏も反上杉の兵を挙げていました。一向一揆とはいいますが、越中全体が反上杉でした。最初に東に備えた城と書きましたが、西からの攻撃にはとても脆いお城でした。西が高い崖地形で、東から見ると断崖絶壁ですが、西から見ればただの平地だったのです。

1581年、佐々成政が越中を平定しました。

越中の一向一揆・国人領主達と上杉軍が戦う中、1578年に上杉謙信が没しました。その頃から織田軍による越中侵攻が本格化し、1581年にはほぼ平定しました。織田軍の佐々成政が富山城に入り、白鳥城もそのまま軍事拠点として使われました。織田軍はこの後、魚津城攻めに入りました。

1585年、豊臣軍が佐々成政討伐の際に陣を張りました。

小牧・長久手の戦いが終結すると、豊臣秀吉は佐々成政を討伐しました。佐々成政は生前の柴田勝家と親しく、豊臣秀吉には反抗して前田利家領に侵攻したからです。白鳥城に本陣を置いたとされますが、実際には大将の織田信雄が陣を張ったようです。この時に白鳥城のちょっと南に安田城が築かれ、前田利家が陣を張りました。

1587年、役目を終えました。

佐々成政は討伐後も越中の東半分が安堵されていました。そのため、越中の西半分を与えられた前田利家は佐々軍を警戒していました。しかし、佐々成政が九州征伐の功で肥後へ移ったため、白鳥城は役目を終えました。

以後は前田利長付の重臣が居城としていましたが・・・1599年に前田利家が没すると、前田利長は金沢に移り不要となりました。この頃に廃城になったものと思われます。


所在地:富山市吉作

富山県の城跡/なぽのホームページを表示

安田城/富山市

安田城は国の史跡に指定され、復元された城跡です。
訪問日は2012年8月7日です。

安田城①/外側から見た所
▲駐車場から見た所

安田城は綺麗に復元され、水堀に囲まれた姿を見ることが出来ます。富山の城跡巡りでは、心の中では一番見たかった所・・・かも。今となっては他に見に行きたい所がいくつか出て来ましたけど。時が経つにつれて、ヒトはどんどん貪欲になるものですねw

安田城②/堀が複雑に絡む
▲堀が複雑に巡る?

復元されるまでは普通に畑だったのでしょうか。昭和40年代に圃場整備が計画され、発掘の結果良い状態で残ってる事がわかったらしいです。地図を見てるとすぐ近くを北陸自動車道が通っていますが・・・一歩間違えればアスファルトの下敷きになるところでしたね。

安田城③/堀の内側から外を見た所
▲堀の内側から見た所

発掘調査の結果と江戸時代に残された古図がバッチリ一致。ここまで綺麗に見つかるのは珍しい!ということで、国の史跡に指定されました。その後、1990年から4年の歳月を掛けてじっくり復元されました。城の復元では白亜の建物建てたがる所が多いですが、そういうのが無いのもイイですね合格

安田城④/本丸内部
▲土塁に囲まれた本丸

ただ、元々の状態を知らないので何とも言えませんが・・・やっぱり木の柵とか木造の東屋とかが無いと寂しい気はします。絵図の解析とかでバッチリこうだ!というのが分かれば、是非復元して欲しいですね。

安田城⑤/説明板
▲説明板

水堀に囲まれた縄張りも素晴らしいですが・・・モニュメント好きのため?の城址碑もバッチリ有ります!敢えて載せませんが、あちこち載ってるかもw

城跡の雰囲気は、埼玉の難波田城と似てるなぁ~なんて思いました。


◆歴史◆

1585年、佐々成政討伐の際に築かれました。

本能寺の変後、羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)と徳川家康は小牧・長久手の戦で鎬を削りました。この時、越中の佐々成政は徳川家康に味方し、加賀の前田利家を攻めました。羽柴秀吉は徳川家康との間で渋々和議を結ぶこととなりましたが・・・佐々成政とはちゃんと決着をつけました。

富山城攻めの拠点として、豊臣秀吉は白鳥城に本陣を構えました。そのすぐ南東の地に前田利家によって安田城が築かれました。最初は陣城だったんですね!

この戦により佐々成政はかなりの領地を召し上げられましたが・・・越中の東半分は残され、西半分が前田利家に与えられました。佐々成政本人は大坂で暮らすことを強要されたので、領国は家臣達が切り盛りしました。これは大名当人が人質になったようなものですね。しかし、前田利家は佐々軍に備えて安田城を維持管理し続けました。

1587年、一度廃城になったものと思われます。

この年、九州征伐で抜群の功を挙げた佐々成政が、肥後一国を与えられ移りました。この時に空いた越中の東半分が前田利家に与えられたため、安田城は不要となりました。

1597年、再び整備されました。

前田利長が増山城から富山城へと居城を移しました。これに伴って家臣も富山城近辺に移りました。安田城には対佐々軍の時と同じ岡嶋一吉が入りました。

1599年、城主・岡嶋一吉が金沢に移りました。

これは前田利家が没して富山の前田利長が家督を継ぎ、金沢に移ったためです。安田城には代官として平野三郎左衛門が派遣されたそうですが・・・まもなく廃城となりました。

1994年、復元されました。

水堀、郭、土塁などが往時の姿に復元されましたヽ(´∀`)ノ


所在地:富山市婦中町安田

富山県の城跡/なぽのホームページを表示

鶴ヶ城/富山市

鶴ヶ城は別名・羽根城とも呼ばれており、説明板があるだけです。
訪問日は2012年8月7日です。

鶴ヶ城/説明板

写真はこれ1枚きりです。何せ、道端にぽつんとあるだけなのでw当時の私がこいつを目指していたとは考えにくく・・・移動中にバイクを停めた時、偶然見つけたものと思われます。

なぜ自分の行動なのに推測なのか?・・・それは、当時持ち歩いていた資料がもう無いからです。富山の後で攻めた飛騨のは見つかったんですけどねあせる


◆歴史◆(頑張った割にテキトーです)

あまりにマイナーなせいか、ググっても説明板のコピペしか見つかりませんでした。しかし!分からないと無駄に燃え上がるのが私の悪い癖。何日も燻った成果を以下に記します。説明板に書いてある年代と出来事を太字で、あとは勝手な想像を細字でこっそりw

1538年、富崎城とともに落城しました。

いきなり落城から始まります。この年代は神保氏と椎名氏が和睦して平和だった、というのが表向きの歴史です。しかし、この説明板ではその期間に落城です。一体何があったのでしょうか?

越中の歴史上、影響力がとても大きいのが越後守護代・長尾氏です。この年代には越後で国人領主による内乱があり、長尾為景は各地を転戦していました。越後の内乱に呼応して、反越後勢力が蜂起したのではないでしょうか?

城主の大間氏は神保氏の家臣でした。神保氏は長尾氏に従うフリをしつつ、乱の旗色を窺っていたのかもしれませんね。

1559年、大間安政が鶴ヶ城を再築しました。

椎名康胤が歴史に登場し、神保長職に対抗し始めた頃です。神保長職は近くの富崎城を再築し、大間氏も鶴ヶ城を再築しました。神保軍は本格的に椎名領に侵攻したのですが・・・

椎名康胤は長尾景虎(のちの上杉謙信)に援軍を要請し、神保氏は降伏しました。しかし、神保氏は椎名領への侵攻の手を緩めず、翌年にも松倉城を包囲しました。このため長尾景虎は神保氏を本気で攻め、1562年に降伏させました。

1566年、上杉軍に攻められ落城しました。

この頃の神保氏は、上杉輝虎(のちの上杉謙信)に降伏して大人しかった筈です。でも、鶴ヶ城は他のお城の歴史を調べても出てこないような年代に落城しています。にわか越中おたくが暇に任せてググッた程度では、殆ど何も分かりませんでしたが・・・

近くのお城でググってみると、水越氏の名前が出て来ました。水越勝重は富山城を築いた神保氏の重臣で、神保長職と同一人物とされた時期もありました。今は完全に別人ということで決着しているそうですが・・・

本人なのか一族なのかは不明ですが、水越氏は一向一揆に加担していたようです。時期と出来事から推測すると、恐らくこの一向一揆に大間氏も参加していたのでしょうね。鶴ヶ城を攻め落としたのは上杉弥五郎だそうで、ググッたら上条政繁のことでした。上杉軍との戦いに敗れた大間安政は、「帰農した」と書かれていました。鶴ヶ城はこの時に廃城になったものと思われます。


所在地:富山市婦中町羽根

富山県の城跡/なぽのホームページを表示

猿倉城/富山市

猿倉城は越中と飛騨を結ぶ国道41号線沿いの猿倉山にありました。
訪問日は2012年8月7日です。

猿倉城①/案内図
▲案内図(拡大)

猿倉山は国道41号を走っていると猿倉スキー場の案内があるので迷わない、と思います。少なくともおいらは迷いませんでした。Google Mapでストリートビュー見てると、「風の城」の案内看板も出ています。これは行った後、そういう物があると知らないとわからないかもあせる

猿倉城②/案内図の所から見上げる
▲駐車場から見上げた所

と言う訳で、城跡近くのかなり高い所まで綺麗な道が整備されています。そのどんつきの駐車場から城跡の方を見上げてみると・・・もうちょっと道伸ばしてよ~、、、なんて心の叫びが。・・・というか、これから山城跡に行くという雰囲気ではありません。

猿倉城③/城址碑
▲城址碑

そんな開けた芝生沿いの階段を登っていると、城址碑がありました。まだまだ登り坂が続いており、山頂ではないのですが・・・ということで、遺構は全く見当たりません。

猿倉城⑤/風の城
▲風の城(展望台)

さらに坂を登っていくと・・・パチンコ屋さん???これは展望台で「風の城」と書いてありました。こんな物無くても眺めはいいのに、と思いながら色々邪推を巡らすのでしたw

猿倉城④/眺め
▲眺め

さて、せっかくなので眺めを堪能。富山平野を一望できます!麓を流れているのは越中随一の大河・神通川です。


◆歴史◆

1571年、塩屋秋貞により築かれました。

塩屋秋貞は元々は飛騨の土豪で、塩商人でした。かなりの財力を持ち、飛騨の有力者である姉小路氏や江馬氏も借金する程だったとか。武田信玄の家臣・山県昌景が飛騨に攻めた際に居城を落とされ、越中寄りに移っています。

そんな中、越中では椎名氏、神保氏らが相次いで上杉氏から離反しました。すると、塩屋秋貞は上杉方として越中に進出してきました。猿倉城を築いたのはそんな頃で、長尾景直が上杉謙信宛の手紙の中に記しています。

塩屋秋貞はとても野心に溢れた人物だったようで・・・猿倉城を足掛かりにして越中を我が物にしようとしていたのかもしれません。

程なく猿倉城を下った神通川東岸に岩木城を築きました。その場所はなんと城生城の対岸・・・岩木城を築いた塩屋秋貞は、そのまま城生城を攻めたのでした。

味方だと思っていた城生城の斎藤信利はビックリしたでしょうね。すぐに上杉軍の援軍がやって来て、塩屋軍を追い払いました。

1578年、塩屋秋貞は織田信長に仕えるようになりました。

この年に上杉謙信が没し、越中の上杉勢は浮き足立ちました。この機を逃さず越中に侵攻したのが織田信長です。飛騨の姉小路頼綱も織田方として越中に侵攻しました。塩屋秋貞は越中が切り取り次第の状況に、見果てぬ野望を抱いたかもしれません。

1583年、塩屋秋貞が討死しました。

塩屋秋貞は「上杉方」の城生城を攻め、援軍として来た上杉軍に討たれています。・・・ということは、本能寺の変で一旦織田軍が越中から退いた頃でしょうか。

城生城の斎藤信利も織田についたり上杉についたりで旗色が定まっていませんでした。塩屋秋貞は斎藤信利が上杉方になるのを待っていたのかもしれませんね。しかし、読みは良かったのですが、織田軍の反撃時期を見誤ったのでしょう。

程無くして佐々成政が越中へ戻り、上杉勢を駆逐しました。猿倉城は飛騨の姉小路頼綱の城となりました。

1585年、金森長近に攻め落とされました。

佐々成政が前田利家領に侵攻したため、豊臣秀吉に討伐されました。姉小路頼綱は佐々成政側についたため討伐の対象となり、金森長近が飛騨を攻めました。猿倉城もこの時に攻め落とされています。

この戦により佐々成政は越中の西半分を失い、前田利家に与えられました。飛騨は金森長近に与えられたため、越中を望む城はこの時に不要になったと思われます。


所在地:富山市舟倉

富山県の城跡/なぽのホームページを表示

新庄城/富山市

新庄城跡は現在、新庄小学校となっています。
訪問日は2012年8月7日です。

新庄城①/新庄小学校
▲新庄小学校

・・・ということで、小学校ですw

新庄城②/説明板
▲説明板

遺構は跡形も無く、説明板が1枚あるだけです。奥の土盛りは・・・違いますよねあせる


◆歴史◆

1520年、越後守護代・長尾為景が陣を張りました。

越中守護・畠山尚順の勢力が衰え、守護代・神保慶宗が台頭しました。そのため畠山尚順が神保慶宗を排除しようと越後の長尾為景に援軍を要請しました。長尾為景は神保慶宗を自害に追い込み、父・長尾能景の仇を討ちました。また、神保慶宗に味方した椎名慶胤も討ち取りました。この戦いで長尾為景が陣を張ったのが新庄城で、史料での初見となります。

その後、越中では色々と戦がありましたが・・・不思議と新庄城は登場しません。長尾為景は陣を張っただけで、本格的な城を築いていなかったと思われます。

1572年、上杉軍による富山城攻めの拠点となりました。

1568年に椎名康胤が上杉氏から離反し、1571年には神保長職も離反しました。そのため、越中は国をあげて丸々反上杉地帯となりました。上杉謙信は河田長親を越中国新川郡を与え、越中の平定を命じました。河田長親は富山城を囲むように今泉城や太田本郷城などの城砦を構築しました。新庄城もこの時に整備されたのではないかと思います。

1576年、上杉軍により神保長城、椎名康胤が滅ぼされました。

神保長城は本拠・増山城を上杉軍に攻め落とされ、その後の消息が不明となりました。また、椎名康胤も一向一揆と共に立て篭もった蓮沼城を攻め落とされ自刃しました。

1578年、上杉謙信が没しました。

上杉謙信が没すると、上杉景勝と上杉景虎が家督争いを始めました(御館の乱)。そのため越中では反上杉勢力が攻勢に転じました。丁度その頃加賀を制圧した織田信長が越中侵攻を開始しました。

1580年、神保長住により攻め落とされました。

神保長住は神保長職の嫡男ですが、反上杉派だったため1567年に追放されました。その後、京に上って織田信長に仕えていました。上杉謙信が没して越中が混乱すると、織田信長から兵を与えられて飛騨から侵攻。各地で旧臣を味方につけた神保長住は、富山城などを攻め落としました。

1582年、一時、土肥政繁が占拠しました。

本能寺の変で織田信長が没すると、今度は織田方が混乱しました。この時に上杉方に復帰した弓庄城主・土肥政繁が一時新庄城を制圧しました。しかし、程なく佐々成政が奪還し、土肥氏の弓庄城も陥落させました。

その後の動静は不明ですが・・・
1587年に越中一国が加賀・前田氏の領地になると役割を終えたものと思われます。


所在地:富山市新庄町1丁目

富山県の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR