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玄蕃尾城/福井県敦賀市・滋賀県長浜市

玄蕃尾城は、賤ヶ岳の戦で柴田勝家が本陣を構えた所です。
訪問日は2018年7月15日です。

【写1】玄蕃尾城
駐車場

玄蕃尾城への道はいくつかあるようですが・・・
私は敦賀側から訪ねました。
県道140号を西から走り、トンネル手前に城跡の案内が出ています。
ここから脇道へ入り、車1台がやっとの道の突き当りがココです。

【写2】玄蕃尾城
スタンプ台

突き当りのトイレとスタンプ台は、今年の春設置されたようです。
スタンプ設置場所が無人の所でよく見かけるタイプのスタンプ台です。
中には訪問者が記念に日付と名前を書くノートがあり・・・
私もサラっと書いてきました鉛筆

続日本100名城スタンプ設置場所
【写3】玄蕃尾城 林道の突き当り
 押せる時間 いつでも可
 お休み 無し
 入場料 無料
もちろん、ゲットしましたラブラブ

【写4】玄蕃尾城

さぁ、登ります♪

【写5】玄蕃尾城

途中、こんな道があります。
ゼッタイ堀切だ!なんてはしゃぎましたが・・・

【写6】玄蕃尾城
久々坂峠

あと500mあるそうでw
この地名、どっかで聞き覚えあると思ってググると・・・
浅井長政への義理で出陣したものの、それだけで退却した朝倉軍。
そんな朝倉軍が、越前へ退却する途中のココで織田軍の追撃を受けました。
朝倉軍は一門を含む多くの将兵を失い、滅亡のきっかけとなった場所です。

【写7】玄蕃尾城
城跡へ通じる分岐

そんな峠から山上の城跡へ通じる道が、ここから分岐します。
越前の主となった柴田勝家が、なぜここに本陣を構えたのか。
何となく理解できた気がしますラブラブ

【写8】玄蕃尾城

分岐から派生した山道を登り切ると、こんな地形が400m程続きます。
おおよそ平坦な地形なので、ちょいちょい堀切入れてもよさげですが・・・
何も無くずっと続くのも「あれ?おかしいな?」と思わせもします。

【写9】玄蕃尾城

しかし、大きく右にカーブする所に、こんな大きな凹みがあります。
自然の地形なのか、敵兵の進路を限定するため掘ったのか・・・
どちらなのでしょうか?

【写10】玄蕃尾城

ここのカーブの外側に、ちょこんと説明板があります。

【写11】玄蕃尾城
拡大表示

せっかくなので、パクリますラブラブ
スタンプ台にあるパンフにも、同じ図が載っています。

【写12】玄蕃尾城

説明板からすぐの所から、本格的に城域に入ります。
その始まりがここ、南虎口です。
いきなり現れた土の迷路。
ここに来て良かった!と思った瞬間でした。

【写13】玄蕃尾城

南虎口から数十mは、真っすぐな土塁に挟まれた直線道となっています。
そこから見える奥の城内は、土の造形テンコ盛りワールド全開です恋の矢

【写14】玄蕃尾城

南側の虎口郭の虎口です。
名前がすでに何言ってるのかわかりませんが・・・
虎口になっている曲輪の虎口、ということです。
もう、それだけでワクワクする名前です。
でも名前なんかどうでも良くて、堀と土塁の造形美に溢れていますラブラブ

【写15】玄蕃尾城

虎口郭の内部です。
土橋の内側を土塁で囲んだ、枡形のような空間です。
土塁で城内が見えないようにしてありますが・・・
これとは別に、馬出郭もあったりしますラブラブ

【写16】玄蕃尾城

その馬出郭と腰郭の間の空堀です。
馬出郭は、主郭と虎口郭の間にあります。
その名の通り手前側の土塁がとても高く、城内を隠しています。

【写17】玄蕃尾城

主郭の虎口です。
両脇を大きな空堀で挟まれた土橋が通っています。
急造とはいえ、とてもしっかりした造りです恋の矢

【写18】玄蕃尾城

主郭の内側から見た虎口です。
正面の白い標柱は、馬出郭を示すものです。
虎口の真正面に馬出郭があり、外から主郭をしっかり隠しています。

【写19】玄蕃尾城

主郭内部です。
しっかりした土塁に囲まれた、とても広い空間です。
ここで柴田勝家が「おのれ、サルめ!」とか言ってたのでしょうか。

【写20】玄蕃尾城

主郭北側の虎口です。
主郭は南北に虎口構え、その外側に虎口郭がありました。
戦の間の最高機密空間らしく、とても緊張感があります。

【写21】玄蕃尾城

主郭北側の馬出郭です。
こちらも、主郭の虎口を分厚い土塁で隠しています。

【写22】玄蕃尾城

馬出郭の脇から奥へ進んだ所が、北側の虎口郭です。
虎口郭という名前ですが、主郭よりも広いです。
ただ、城域の北端にあり、倉庫や兵の待機場所だったそうです。
敵の羽柴軍は、南側に陣取っていますからね!

【写23】玄蕃尾城

ただ、虎口郭もガッチリ守りを固めた曲輪です。
こんな感じで、高低差5mほどの堀で囲んでいます。

【写24】玄蕃尾城

虎口郭の北端にある搦手虎口です。
土塁の切れ目から、木々の深く茂る山中にポッカリ口が開いています。
万が一の事態に備えた出入口でしょうか。
外側には、道らしい道は見当たりませんでした。

【写25】玄蕃尾城

搦手虎口を外側から見た所です。
確かに土塁が欠け、出入りしやすいようにはなっていますが・・・
本当はもっと高低差が無かったのかもしれません。
秘密の出入口であれば、ここが出入口と悟られてはいけないはずです。
・・・なんて、素人考えですけどあせる

ここは戦国時代後期に築かれ、無傷のまま放棄され現在に至ります。
そのため、当時の状態が原形のまま残されたとても貴重な遺構です。
以前は夏だったこともあり「山城だから」と来ませんでしたが・・・
とてもよく整備されており、真夏でも堪能出来る素晴らしい城跡です。


所在地:福井県敦賀市刀根・滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬
GPSログダウンロードページ

福井県の城跡滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示

一乗谷城/福井市

一乗谷城は、言わずと知れた朝倉氏の本拠地です。
訪問日は2018年7月15日です。

【写1】一乗谷城
復原街並み入口(南口)

今年4月に続日本100名城のスタンプが始まりました。
集め始めるとハートに火がついてしまいますよねメラメラ
それまで押してなかった100名城と合わせて集め始めました。
プラス、ここの山城部分は未攻略。
山城なので、本当は春先がいいと思っていましたが・・・
来ちゃいましたラブラブ
この日は降水確率0%で、最高気温は体温より高い予報。
良い子の皆様はマネしないことをお勧めしますあせるあせるあせる

日本100名城スタンプ設置場所
【写2】一乗谷城 復原街並みの南北の出入口
 開場時間 9時~17時(入場は16時半まで)
 休場日 年末年始
 入場料 210円、中学生以下無料

さて、大本命のスタンプゲットです。
これだけで次へ行ってもいいのですが・・・
予定より1時間早く着いたので、復原街並みを見て来ました。

【写3】一乗谷城
復原街並み

ゴーストタウンw
・・・そりゃ誰も住んでいませんからあせる
お昼前でしたが、既にうっすら汗をかく陽気。
日本家屋って涼しいんだよね?と入ってみると・・・
涼しかったです雪の結晶
今は真夏なので、冬の事は考えたくありませんけどw

【写4】一乗谷城
朝倉氏居館跡と一乗城山

さて、北口から街並みを出て、山城の方に向かいました。
道から見ると、唐門のある館跡越しに城山が見えます。

【写5】一乗谷城
唐門

せっかく来たし、時間も余ってるしで、とりあえず見に来ました。
さすがに連休とあって、最大の見所である唐門の前には人が絶えません。
この時はおじいちゃんと女の子が、橋の上で鯉に餌をあげていました。
その微笑ましい光景を前に、カメラを構えて固まる観光客達・・・
このフレームの右側には、そんな光景がありましたw

皆さまご存知だとは思いますが・・・
この唐門は朝倉氏時代のものではなく、後世建てられたものです。
有力な説は、豊臣秀吉が朝倉義景を弔うため寄進したものだそうです。

【写6】一乗谷城
朝倉氏居館跡

唐門の内側です。
水堀と土塁に囲まれた広大な敷地に、建物の跡が示されています。

【写7】一乗谷城
朝倉氏居館跡の南側の土塁

この居館を囲む土塁の中で、一番高い所が南西の隅櫓跡です。
ここから山側を見ると、奥に土塁の向こうにある堀が見えます。
こうして見ると、居館部分ですらかなりの規模であったのがわかります。

【写8】一乗谷城
朝倉孝景(7代目)のお墓

居館の土塁の外側から上に向かう道があります。
一乗谷城の案内図では、居館のすぐ上から登るルートが描かれています。
その登城口を目指して上へと進みました。
すると、道はT字路の行き止まりとなり、その向かいにお堂があります。
これは「孝景公墓所」と書かれていましたが・・・
現地であちこちに案内の出ている「英林塚」です。
ここにはそうは書かれていないので、どこだろう?と探しましたけどあせる

「朝倉孝景」でググると7代目と10代目の2人がヒットします。
ここに祀られているのは7代目の方の朝倉孝景です。
朝倉孝景は・・・長くなりそうなのでザックリ書きます。
肖像画が北条早雲に何となくソックリです。
そういえば同じ年代ですねラブラブ
・・・あっw
朝倉孝景は、朝倉氏で初めて越前守護になった人物です。
応仁の乱の頃の人物で、斯波氏に仕える越前守護代でした。
しかし、足利義政と細川勝元から守護就任の密約を持ち掛けられます。
そして、主家・斯波氏の西軍を裏切り、東軍に寝返りました。
これが勢力バランスを大きく崩し、応仁の乱が終結に向かったそうです。
乱終結後に密約通り越前の守護となりますが・・・
斯波義廉や甲斐敏光など、旧主家勢力との争いが続きます。

【写9】一乗谷城
蛇谷コースの入口

英林塚のすぐ近くに、バリケードで閉ざされた道があります。
ここが蛇谷コースと呼ばれる登城路の入口です。
こっちから登って別のルートから下りる腹づもりでしたが・・・
これではここから登る訳にはいきませんショボーン
気持ちを切り替えて、下る予定だった馬出コースから登ることにしました。

【写10】一乗谷城
八幡神社【登城開始】

蛇谷コースの入口から横移動すること約1km。
こちらからは山上へ登ることが出来ます。
復原街並みから遠いので、近くまで車で移動することをお勧めします。
私はそんな事は知らなったので、炎天下を歩きましたあせる

【写11】一乗谷城

登山口にある案内です。
赤●が登城路の端っこに付いてます。
当たり前ですがあせる
この図ではピンと来ませんが、ここから想像を絶する登山が始まります。

【写12】一乗谷城
登り始めの道

神社脇から登る道は、車も通れる綺麗な道です。
さすが超有名どころラブラブ
この時はまだ知りませんでした。

【写13】一乗谷城
【登城口から4分】

馬出しの脇から山上に登る道が分岐します。
ここから山道らしい道に変わります。
一直線の道が上に伸びています。

【写14】一乗谷城

さっきまでとは違い、足元は石ころ交じりの悪路になります。
おまけに沢とは言わないまでも水が流れています。
靴は登山向けの底がしっかりしたものがいいです。

【写15】一乗谷城
【登城口から10分】

ちょっと登って息が切れた頃に、石垣が道を塞いでいます。
まぁ、城キチなので、パッと見ただけでわかりましたけどw
・・・というのは嘘です。
こうやって写真撮ってますからあせる

この時点でかなり息が切れており、喉がカラカラでした。
砂防ダムの裏には小さな沢があり、生まれて初めて川の水を飲みました。
喉を潤したことで息を吹き返し、さらに先へ進む気力が沸きました。
こんな事他人に勧めていいものかと思いますが・・・
丸1日以上経った今でも、特に異常はありませんあせる

【写16】一乗谷城

砂防ダムのすぐ裏に、あと1kmと小見放城の標示がありました。
登城口が1.5kmだったので、3分の1進んだことになります。
小見放城の説明には、大きな堀切や土塁があると書かれていました。
せっかくここまで来たのだから見ようと思いましたが・・・

【写17】一乗谷城

周りはこんな感じで、どこが何やらサッパリわからず。
やっぱり、来る季節を間違えたようですあせる

【写18】一乗谷城

小見放城の案内の所からは、堀底のような登城路が続きます。
はじめは堀底道みたいラブラブなんてはしゃいでましたが・・・
傾斜がきつく、思った以上に体力を消耗します。

【写19】一乗谷城
【登城口から18分】

息を切らしながら、ようやくたどり着いた「山城まで0.8km」
登城口から城跡まで半分のちょっと手前です。

【写20】一乗谷城
拡大表示

図では、半分よりもちょっと進んだように見えます。

【写21】一乗谷城

1km、0.8kmと続いたので、0.2kmごとにあるのかと思いましたが・・・
0.6kmの案内はまだかと進みますが、なかなか次が現れず。
まだまだこんな道が続きます。
時間を気にしながらも、ほぼ10メートルおきに休憩しました。

【写22】一乗谷城
【登城口から55分】

そんな感じでようやく表れた「次」です。
あと200メートルです。
「あと●メートル」を出すなら、等間隔に置いて欲しいですね・・・
次が現れないと、マジで何度も心が折れそうになりましたあせる

【写23】一乗谷城

このすぐ近くに、山上遺構の説明板がありました。
それまで見なかった、山上遺構の図まで付いています恋の矢恋の矢
恋の矢



【写24】一乗谷城

拡大表示



せっかくなので、大きく載せます。

目指すゴールはあと少し!

ここで気力・体力ともに完全復活しました。



【写26】一乗谷城

案内のある平場です。
それまでの急な登り坂から一転して、落ち着いた平場となっています。
おそらく、ここに門があったのではないかと思います。

【写25】一乗谷城

ただ、ここで道が分岐していて、どっちに進むか悩みました。
というのも、登れなかった蛇谷コース方向の案内もあったからです。
道を間違えたら、せっかく登って来たのに下りてしまう・・・
そんなことを考えたら、余計に変な方向には進めないと感じてしまいます。
唯一の手掛かりはこれ。
結果オッケーでしたが、この一乗城山方向の道へ進んで下さい。

【写27】一乗谷城

一乗城山方向に進む道はこんな感じです。
それまでと比べてちょっと草が多くなっています。

【写28】一乗谷城
【登城口から1時間8分】

ちゃんと城跡に向かっているのだろうか?と不安でいっぱいでしたが・・・
不動清水にたどり着き、進んでいる道が正しいと確信出来ました。
その名の通り湧き水があったので、ここでもたっぷり水分補給をしました。

【写29】一乗谷城
【登城口から1時間12分】

不動清水からちょっと登ると、左側にかなり広い曲輪が現れました。
やっと着いたのかな?と思い、さらに進むと・・・

【写30】一乗谷城
【登城口から1時間13分】

最後の坂を登った先に「千畳敷」と書かれた案内がありました。
それまでの山道からは想像もつかない広さ。
思わず声が出ちゃいました。
何と言ったかは、行ってみればおのずと答えが出ますw

【写31】一乗谷城

千畳敷の入口の右脇に、隣の曲輪を隔てる土塁があります。
この土塁がなければ、千畳敷は二千畳敷になりそうな広さです。
この奥にも、虎口のある曲輪があります。
宿直(とのい)というその曲輪からは、遠く日本海まで見渡せました。

【写32】一乗谷城

一の丸へは、千畳敷の奥から道が続いています。
遠目にはちょっと道が見えづらいのですが・・・
登って来た道をまっすぐ進む感じです。

【写33】一乗谷城

千畳敷からの道を登ると、こんな所に出ます。
この上が一の丸で、これはその入口の虎口か?なんて思いました。

【写34】一乗谷城
【登城口から1時間23分】

さっきのは虎口ではなく、稜線を越える道でした。
人が歩くうちに、道の部分だけ凹んだようです。
その先で道が分岐しており、案内がありました。
一の丸へは、鋭角に進むようです。

【写35】一乗谷城

説明板には、このすぐ後ろに堀切があると書かれていました。
これがその堀切です。
一乗谷城で堀切が見れるとは、まったく想像していませんでした。

【写36】一乗谷城

案内の所から見える一の丸への道です。
千畳敷から登って来たのが右側の道です。
ここはストレートに登らせないための仕掛けだったようです。

【写37】一乗谷城
【登城口から1時間27分】

ちょっと進むと、一の丸の案内が現れました。
案内のある所は曲輪っぽくなかったのですが・・・
下の説明文を読むと、背後にある高い所が曲輪なのだそうです。
上がる道が見当たらなかったので、案内と一緒に撮りました。

【写38】一乗谷城

一の丸から二の丸への道です。
一の丸から続く稜線が、道の左側に続きます。

【写39】一乗谷城
【登城口から1時間28分】

一の丸と二の丸の間は、2つの堀切で分断されています。
1つ目の堀切がこれです。
堀切様大好き恋の矢な私は大はしゃぎです。

【写40】一乗谷城

2つ目の堀切様です。
さっきのよりも更に大きいですラブラブ

【写41】一乗谷城
【登城口から1時間31分】

その先に二の丸の標示がありました。
ここも一の丸同様、後ろの高いところが曲輪だと書かれています。

【写42】一乗谷城

でも、ここは案内標示の後ろに、上がった跡が見えました。
ちょっとだけ迷いましたが・・・

【写43】一乗谷城

小さななぽ会議の結果、1対99の大差で「登る」と議決。
二の丸内部は、予想した通りですがこんな感じです。
奥側に1メートル弱の土塁がある、10メートル四方くらいの曲輪でした。

【写44】一乗谷城

二の丸からさらに三ノ丸へと攻め込みました。
ここまで来たら、見れる所まで見ようという意気込みです。
二の丸と三の丸の間にも、立派な堀切があります。

【写45】一乗谷城

こんな感じです爆  笑

【写46】一乗谷城
【登城口から1時間36分】

息絶え絶えになりながら登って来ましたが、ようやく三の丸到着です!
案内には「山城はここまで」と書かれています。
来る所まで来ました!

【写47】一乗谷城

説明板を読むと、三の丸は堀切で南北に分断されていると書かれていました。
北曲輪はこんな感じで、曲輪というよりも稜線にある道という感じです。

【写48】一乗谷城

道を進んでいると、地面がボッコリ凹んでいるのがはっきり見えました。
三ノ丸北曲輪と南曲輪の間にある堀切です。

【写49】一乗谷城
【登城口から1時間38分】

堀切様は、横顔がとてもお美しいです恋の矢

【写50】一乗谷城

堀切を登って見えた、三ノ丸南曲輪の様子です。
奥に土塁が見えます。
北曲輪とはちがい、横幅のある曲輪らしい造りです。

【写51】一乗谷城
【登城口から1時間40分】

一乗城山の標示と三ノ丸の説明板です。
山の標示の所には、473mと書かれていました。
帰ってから見たGPSログの最大標高が472mなので、ほぼピッタリです。
GPSログの最小標高が47mなので、高低差は425mです。
真夏に登る高さじゃありませんあせるあせるあせる

【写52】一乗谷城

さて、三の丸の一番奥まで来たので、その先は無いはずですが・・・
一番奥から堀切らしき地形が見えちゃいました。
山上遺構の図では、三の丸周辺に沢山の畝状竪堀群もあります。
ここまで来て見に行かないという選択肢はありません!
・・・というのが、某議会満場一致の議決です。

【写53】一乗谷城
【登城口から1時間43分】

さっきの堀切の脇に、横移動できる道がありました。
竪堀を探しつつ奥へ進むと、かなり大きな堀切がありました。
ただ、あまりに大きくて、写真だとこんな風にしか写りません。
この時は、あまりの疲労でパノラマを忘れる始末。
竪堀群も見つけられないまま、山を下りました。

登る時は息絶え絶えで、ちょっと登っては休みを繰り返していました。
下りは楽だろうなんて思っていましたが・・・
堀底道のような登城路は、下る時にも体力を奪いました。
下りでは普段使わない筋肉ばかり使うので、登る時と同じ位ハードでした。
山城で下りがキツイと感じたのは初めてです。
気温が体温以上になる予報だったので、熱中症かな?と思いましたが・・・
下ってからの平坦な道では平気だったので、体力の消耗だったようです。

【写54】一乗谷城
【登城開始から2時間25分、登城口まで往復2時間半】

登り同様、下りもちょっと下っては休みを繰り返しました。
もちろん、給水ポイントではガブ飲みですあせる
綺麗な水に恵まれた城跡で良かったです。

登る時には見ていなかった馬出しです。
下からは見えなかったのですが、上からは広い曲輪が見えました。
端に石積みの塀がありますが、遺構でしょうか?
そんな訳ないと思いつつ、ついつい撮っちゃうのが城キチですw


◆歴史(山上部中心)◆

15世紀に築かれたと考えられています。

一乗谷の館自体がいつ頃築かれたのかわかっていませんが・・・
当初から朝倉氏が本拠地としていたと考えられています。
朝倉氏は応仁の乱(1467~77年)の後、下克上で越前守護となりました。

朝倉氏が織田信長に滅ぼされたのは、1573年の事です。
よくこんな山城を攻略したなぁなんて感心していましたが・・・
朝倉義景は一乗谷城を放棄し、大野へ逃れていました。
そのため、ここが攻められた事は一度も無かったそうです。

朝倉氏滅亡後の一乗谷城

朝倉氏攻めで活躍した朝倉旧臣の桂田長俊に越前が与えられました。
桂田長俊は名を前波吉継と改め、一乗谷に館を築きました。
しかし、他の朝倉旧臣の反発に遭い、富田長繁らに討ち取られました。
次に越前を与えられた柴田勝家は、北ノ庄に新たに城を築きました。
これをもって、一乗谷城は廃城となりました。





所在地:福井市城戸ノ内町 GPSログダウンロードページ


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龍門寺城/福井県越前市

龍門寺城跡には、その名の通り龍門寺があります。訪問日は2012年8月5日です。

龍門寺城/01 山門
▲山門と説明板

龍門寺は越前市の市街地の真ん中にあります。なので、周囲の道はとても細いです。方向音痴の私にはちと辛かった記憶が。・・・地図見てもそんな風に感じられないんですけどねあせる周りにお寺が沢山あるので、ここかな???といった感じでした。

龍門寺城/02 城址碑
▲城址碑

上の写真にも小さく写ってはいるのですが、一応城址碑があります。高さはヒザくらいの高さだった気が。こんなんでも、あるだけでとても気分が盛り上がります合格


◆歴史◆

1299年、悦巌崇禅が龍門寺を開創しました。

曹洞宗のお寺です。
曹洞宗といえば、総本山は永平寺。
けっこう近所ですw

1573年、織田信長が朝倉義景攻めの際に陣を構えました。

織田信長が北近江の浅井長政を攻めた時、朝倉義景は援軍を出しました。しかし、小谷城に近づくことが出来ず、移動を始めた所で織田軍の奇襲に遭いました。そのまま越前まで退却しましたが、その追撃の際に織田信長が龍門寺に陣を構えました。

朝倉氏滅亡後、越前は朝倉旧臣の前波吉継が支配しました。前波吉継はこの時に桂田長俊と改名しています。府中にも朝倉旧臣の富田長繁が入り、龍門寺城を居城としました。

1574年、富田長繁が越前の領主となりました。

富田長繁は桂田長俊とは不仲だったようで・・・一向一揆の力を利用して桂田長繁を滅ぼしてしまいました。富田長繁は織田信長の元へ赴いて事の顛末を報告。以後、富田長繁が越前の領主となりました。

しかし、富田長繁は桂田長俊を攻めた勢いで、朝倉旧臣・魚住景固まで滅ぼしました。魚住氏とは対立関係ではなかったため、他の朝倉旧臣が富田長繁に近づかなくなりました。

富田長繁は越前支配のため、弟を岐阜に人質に出した噂が広まりました。これにより、一向一揆勢が富田長繁の野心のために利用されたことを悟り憤慨。加賀一向一揆から七里頼周を迎えて、富田長繁に対して挙兵しました。

富田長繁は武勇に優れており、少数の兵で奇跡的な勝利を繰り返しました。しかし・・・無理の上に無理の上に更に無理を重ねていたのでしょう。一向一揆の拠点を攻めている最中、我慢できなくなった部下に鉄砲で撃たれ戦死しました。

1575年、不破光治が城主となりました。

一向一揆を鎮圧した織田信長は、猛将・柴田勝家を越前の領主としました。その与力兼目付として、府中には前田利家、佐々成政、不破光治が置かれました。彼らは府中三人衆と呼ばれ、府中10万石を3人で統治しました。この中で不破光治が龍門寺城を居城としました。

1583年、柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされました。

不破光治の子・直光は柴田勝家に味方しましたが、戦後は前田利家に仕えました。前田利家は加賀2郡を与えられて尾山城(後の金沢城)へ移りました。不破直光は前田利家に仕えていたため、おそらく一緒に移ったものと思われます。

柴田勝家の後、越前の領主となったのは丹羽長秀です。府中にも誰か城主が入ったと思いますが・・・わかりませんあせる龍門寺城は府中城の近所なので、両方が城として使われることは無かったと思います。

1588年、木村重茲により龍門寺が再興されました。

1585年に越前の領主・丹羽長秀が胃癌のため没しました。あまりの激痛に自ら腹を切り裂いたと伝わる、壮絶な最期でした。

これを好機とばかりに、豊臣秀吉は丹羽家の無力化を図りました。それまで123万石だった所領を、若狭一国の16万石にまで減らしたのです。越前府中にはその若狭から木村重茲が移されました。その木村重茲が龍門寺を再興し、現在に至っています。


所在地:福井県越前市本町

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吉崎御坊/福井県あわら市

吉崎御坊は・・・お城じゃないですあせる訪問日は2012年8月6日です。

吉崎御坊/01 門
▲門

越前といえば一向一揆。一向一揆といえば浄土真宗。越前の浄土真宗といえば吉崎御坊。ニワカちゃんの短絡発想ですw

ということで、吉崎御坊を訪ねました。地図見てるとやはりという感じの要害地形です。2本の川で囲まれた丘を利用していますからね!ただ、そんな目的で築かれたものでない事は、後で歴史を調べてわかりました。

吉崎御坊は今でも真宗の聖地として扱われていますが、大雑把には観光地です。もちろんお寺もありますが。教科書にも載っててあまりに有名だからでしょうね。入口の門にも「なんとなく」威厳があると感じます。

吉崎御坊/02 石碑
▲蓮如上人御旧跡の碑

この門の左下には、記念碑的なものがあります。観光客が雛壇状に並んで記念写真を撮りそうな場所です。駐車場はバスが沢山停められる感じなので、きっと陽が登るとごった返すのでしょう。訪問当日は朝9時でしたが、まだまだ人は少なかったです。

吉崎御坊/03 御坊跡への登り口
▲御坊跡地への登り口

多分、さっきの門の所を登ってすぐだったと思うのですが・・・真正面に望楼型の建物が!城キチならずともウケそうな建物があります。こういうのを見ると血が騒ぎますヽ(´∀`)ノ

吉崎御坊/06 御坊跡
▲御坊跡地

この建物の脇に細長い坂道があり、登り切った所にかなり広い場所があります。ここが吉崎御坊の跡地です。それにしてもかなり広い!蓮如上人はここに大勢の人をあつめて法を説かれたのでしょうね。

吉崎御坊/04 石碑

吉崎御坊/05 蓮如上人像
▲吉崎御坊跡の碑と蓮如上人像

もちろん、ここに記念碑的なものがあります。だって・・・公園ですからwいくら有名な史跡でも、何にも無い所には人は集まりませんからね。でも、こういうのは単純に大好きですラブラブ

吉崎御坊/07 法宝物館
▲法宝物館

御坊跡地を見て駐車場に戻る途中、あの望楼型の建物をじっくり見ました。登る時と別の角度で撮ると・・・やっぱお城っぽい!石垣の上に物見のついた木造建築って、やっぱりお城っぽく見えてしまいます。城キチ的には普通の症状だと思います(´・ω・`)


◆歴史◆

1471年、蓮如上人により築かれました。

蓮如上人は本願寺派の8世です。当時の本願寺はジリ貧で、青蓮院の末寺の1つとなっていました。青蓮院の本寺であった延暦寺は、力を背景に教義にまで口出しする始末。

1457年に本願寺派を継いだ蓮如上人は反発し、延暦寺への上納をやめました。すると、延暦寺は本願寺を「仏敵」とし、1465年には大谷本願寺を討ち壊しました。蓮如上人は近江西岸を転々としますが、行く先々で延暦寺の嫌がらせに遭いました。

そのため北陸に活動の拠点を移し、吉崎の地に落ち着きました。ココは興福寺大乗院・経覚の所領でしたが、行く宛の無い蓮如上人に譲ったのでした。経覚の母は本願寺出身で、蓮如上人も経覚に師事したことがあったそうです。

ちょうどその頃、武士の社会では応仁の乱の最中でした。越前には守護代・朝倉孝景が京から下向しました。朝倉孝景は越前国内にある寺社の荘園を横領することで勢力を拡大しました。経覚が蓮如上人を吉崎へ赴かせたのは、朝倉氏による横領を防ぐためと考えられています。

1474年、加賀守護・富樫氏の内紛に巻き込まれました。

吉崎御坊の周りには、門徒や商人が集まって寺内町が出来ました。蓮如上人は浄土真宗の中興の祖と言われるだけあって、門徒が多かったんですね。

一方、武士の社会では天下を二分する応仁の乱の真っ最中でした。富樫政親は西軍に味方していましたが、東軍の山名宗全が富樫幸千代を篭絡しました。
家督と加賀守護の座を約束して、富樫政親の弟・幸千代に挙兵させたのでした。幸千代は家中の勢力では勝ち目が無いと見たのか、高田派の門徒を兵力に加えました。これにより富樫政親は加賀を追われ、家督と守護の座を奪われました。

一発逆転を狙う富樫政親は、急速に門徒を増やしていた本願寺派に目をつけました。本願寺派の門徒が急激に増えれば、当然、急激に門徒を減らす宗派があります。おそらくそれが同じ浄土真宗の高田派だったのでしょう。高田派は本願寺派に対して執拗に迫害を加えていたそうです。本願寺派の協力を得た富樫政親は、幸千代の追放に成功し、家督と守護の座を奪還しました。

・・・何となく城キチっぽいブログになってきましたあせる

1475年、蓮如上人が吉崎を退去しました。

富樫政親は家督と守護の座を取り戻しました。しかし、そのために手を組んだ本願寺派の門徒に脅威を覚えました。蓮如上人が民衆から圧倒的な支持を得ている現実を目の当たりにしたのでしょう。

富樫政親は真宗門徒の弾圧を始めました。具体的に何をしたかはわかりませんでしたが、対立したのは確かです。この時、下間蓮崇が一揆を扇動して、富樫政親に対する敵対姿勢を露わにしました。

これは蓮如上人の本意ではなかったそうですが・・・一揆を扇動した下間蓮崇は、蓮如上人から破門されています。蓮如上人は吉崎に留まることができなくなり、若狭国・小浜へ移りました。この時に加賀の門徒の多くが越中に逃れたそうです。

1481年、越中で石黒光義が一向一揆により討たれました。

移った先でもやはり本願寺派門徒の団結力は危険視されたようで・・・砺波郡を支配していた石黒光義が、本願寺派門徒の弾圧を始めました。これに反発した門徒が一向一揆を起こし、石黒光義を返り討ちにしました。

1488年、加賀一向一揆が富樫政親を自刃に追い込みました。

越中の一向一揆は加賀にも飛び火し、かつて弾圧を加えた富樫政親を自刃に追い込みました。室町幕府は事態を重く見て一向一揆の討伐を検討したそうですが・・・将軍・足利義尚の死と細川政元の反対により放置されました。これにより、加賀は100年近く一向一揆が支配することとなりました。

1506年、吉崎御坊が廃坊となりました。

「廃坊」なんて言葉があったんですねw越中・加賀で次々と武家を倒した一向一揆は、越前にも波及しました。この頃の一向一揆は武士と同じで、勢力拡大を図って周辺国に攻め込みました。対する越前守護の朝倉氏は、朝倉宗滴を大将として迎え撃ち一向一揆を撃退。この勢いに乗って吉崎御坊を攻め落とし、破壊しました。

1746年、本願寺派が吉崎御坊跡の麓に西別院を建立。
1747年、大谷派も吉崎御坊跡の麓に東別院を建立。

蓮如上人ゆかりの地に西が建てるなら、ということでしょうか。ここで西が意地を張って東を排除したらとんでもない事になったでしょう。現在でも吉崎御坊跡地は東西の本願寺が共有しているそうです。


所在地:福井県あわら市吉崎

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府中城/福井県越前市

府中城跡は現在、越前市役所となっています。訪問日は2012年8月5日です。

府中城/01越前市役所
▲越前市役所

さすがにここは道に迷いませんでした。市役所に城址碑があるということで庁舎をパチリ。現在のお城ですね!・・・ちと古臭いですがw

府中城/02城址碑
▲城址碑

この市役所の真正面に城址碑があります。今も昔も地域の中心地なんですね!

府中城/03説明板
▲説明板(主に前田利家について)

市役所前の道沿いには、主に前田利家についての説明板がありました。大河ドラマって地方に及ぼす影響がとても大きいようで・・・放送中にこうした記念碑的な物があちこちに出来て盛り上がります。放送が終わってもそのまま残りますが、城キチ的には大歓迎ですヽ(´∀`)ノ

新善光寺城/02山門
▲移築門(正覚寺=新善光寺城跡)

府中城跡には遺構や面影は全くありませんが、近所に府中城の門が移築されています。新善光寺城跡にある正覚寺の山門が、かつての府中城の門でした。こうやって残った門は、いつまでも大切に残して欲しいものです合格


◆歴史◆

1472年、朝倉孝景が府中奉行所を設けました。

朝倉孝景は、応仁の乱を通じて1471年に越前守護となりました。しかし、同じ守護代であった甲斐氏らとの争いは続いていました。1472年、朝倉孝景は府中守護所の甲斐敏光を破り、新たに奉行所を設けました。これが府中城の前身となります。

甲斐敏光はその後も朝倉孝景と越前の支配権を巡って1481年まで争います。1483年、越前は朝倉氏、遠江は甲斐氏、尾張は織田氏が守護代となることで落ち着きました。

1575年、前田利家が築城しました。

1573年、織田信長が朝倉義景を滅ぼしましたが、越前は不安定な状態が続きました。1575年、織田信長は10万の軍勢で一向一揆を鎮圧し、柴田勝家を領主としました。この時に府中には前田利家、佐々成政、不破光治の三人が置かれました。彼らは府中三人衆と呼ばれ、府中10万石を3人で統治しました。後に所領が線引きされ、前田利家が府中奉行所跡に城を築きました。前田利家が初めて城主となったのが府中城でした。

1581年、前田利長が城主となりました。

前田利家は織田信長から能登一国を与えられて移りました。府中城は前田利家の嫡男・前田利長が引き継ぎました。

1583年、柴田勝家が滅ぼされました。

前田利家は柴田勝家方として羽柴秀吉と戦いました。しかし、賤ヶ岳の戦いでは突然戦線離脱し、そのまま府中城へ帰ってしまいました。どちらにも味方できない前田利家がとった苦渋の策だと思われます。これが決定打となって柴田軍は崩壊し、羽柴秀吉が勝利しました。前田利家は加賀2郡を加増され、佐久間盛政の居城だった尾山城へ移りました。

1585年、木村重茲が城主となりました。

佐々成政攻めで功があったとして、前田利長に越中3郡が与えられました。このため前田利長は越中へ移りました。

木村重茲は木村定重の子で、豊臣秀吉に仕えていました。毛利攻めや賤ヶ岳の戦いでの活躍が認められ、府中12万石が与えられました。

木村重茲が1592年の文禄の役での功により、山城国淀城へ移りました。

木村重茲が淀へ移った時期は文禄の役の直後と思われます。その後、1595年に豊臣秀次事件が起きると連座され、木村重茲は切腹させられました。この頃の府中は誰が城主だったのかわかりませんでしたあせる

1599年、堀尾吉晴が城主となりました。

豊臣秀吉の死後、堀尾吉晴は徳川家康に接近しました。老齢のため隠居して家督を堀尾忠氏に譲ると、隠居料として府中5万石が与えられました。

1601年、本多富正が城主となりました。

堀尾吉晴は東軍に味方して出雲へ移りました。代わって結城秀康が越前の領主になりました。その付家老として本多富正が府中3万9千石の城主となりました。府中の本多氏は明治時代まで続きました。

1872年、廃藩置県により廃城となりました。

廃城後、城跡には小学校が建てられました。1956年、小学校が移転して武生市役所が建てられ、現在に至ります。


所在地:福井県越前市府中1丁目

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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