福井城跡には福井県庁などがあります。訪問日は2008年3月22日、2018年7月15日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました
▲内堀と石垣
福井城跡は内堀と本丸以外は残っていません。これは駿府城と同じですね。ただ、本丸の石垣はほぼ原形を留めており、かつての威容が偲ばれます。でも・・・立派な石垣にコンクリートのビルって似合いませんね


▲かつての縄張と現在の地図を重ねたもの
(拡大)内堀の外側を回っている時に、説明板を見つけました。そこにはかつての福井城の縄張と現在の地図が重ねて描かれています。これを見ると、かなり規模の大きいお城だったことがわかります。
これ以外にも移築された遺構があるそうです。南西にある
瑞源寺には本丸御殿が移築され残っているそうです。・・・これ書いてる時に知ったので、今度機会があれば見に行きます!

2018年7月16日追記

続日本100名城スタンプを押しに再訪問しました。せっかくなので、前回見ていなかった所を見て来ました。

まずは大手門跡から。前回は本当に外側からちょっと見ただけでしたが・・・ここすら撮っていませんでした

大きな内堀の向こう側に、重厚な門の跡が見えます。

門の内側を見ると、5メートル程の石垣が聳えています。石垣が元通りなら、桝形門ではなかったようです。そうなのかどうなのかもわからない位に改変されていますが


この門から入ってすぐの所に、ちょいメタボ気味の像があります。・・・筋肉質なのかもしれませんが

これは徳川家康の次男・結城秀康の像です。
 | 福井県庁1階総合案内所 開庁時間 8時半~17時15分 お休み 土日祝日、年末年始 ※お休みの日は守衛室で押すことが出来ます |
スタンプは県庁1階の総合案内にあるそうです。お役所なのでカレンダー通りお休みですが・・・お休みの日でも、守衛室でスタンプを押すことが出来ます!インターホンを鳴らすと「スタンプですね!」と。私の後からも、続々と同じ目的の方が訪ねて来ました。守衛室は県庁入口の左側10メートル位の所にあります。

続いて、前回見ていなかった廊下橋を見て来ました。駐車場入口の脇に、このような案内があります。そのまま奥へ進むと・・・

天守台があります。内側からなので、あまり高くありません。・・・反対側を見忘れました


天守台の左を見ると、の建物と天守台に挟まれた櫓門が見えます。これが山里口御門です。今年の3月に復元されたばかりです!前回訪問時には無かったので、これはこれでラッキーです


ここはとても小さな桝形門です。いつもなら桝形らしく撮るのですが・・・これが限界でした


外から見たらこんな感じです。やっぱり意識しなくても、スタンプと同じアングルになります


せっかくなので、反対側からも

櫓門は石垣の上を渡るイメージでしたが、ここのは埋門です。

それと、ちょっと離れた所にも門が復元されています。ここは北に300メートル程離れた所にある舎人門跡です。福井市立郷土歴史博物館の一角に、堀と土塁と門が復元されました。時間の都合で諦め掛けましたが、通り道だったので立ち寄りました。場所は
https://www.google.com/maps/d/view?mid=11X1ymbmFs-iRTPqTtG5-XIu9z1s&ll=36.06874756589316%2C136.2227052147041&z=19" style="color:#ff0000" target="_blank">ココです。
それと、前回「今度機会があれば」と書いた移築御殿ですが・・・今回も時間が足りず、残念無念の断念

まだ見足りないので、今度機会があれば是非見に行きたいと思います。
◆歴史◆1601年、築城が開始されました。関が原の戦いでは、結城秀康は江戸に留まって上杉軍を牽制しました。その功により、一気に50万石以上加増されて越前に移ってきました。徳川家康は息子にふさわしい城となるよう、自ら縄張りを行いました。そして天下普請による築城を開始し、6年の歳月をかけて完成しました。城域は2km四方に及び、本丸には4重5階の天守が聳えていたそうです。結城秀康は1604年には松平姓を名乗ることが許されたそうです。
1624年、3代・松平忠昌により「福居」と地名が改められました。2代・松平忠直は残虐な行いが多々あったため、豊後へ配流されました。その跡を弟で越前高田藩主であった松平忠昌が継ぎました。松平忠昌は「北ノ庄」の「北」が「敗北」につながり不吉だとして「福居」と改めました。時期は明確ではありませんが、後に画数が少ない「福井」になりました。それまでは「北ノ庄」だったので、福井城も厳密には「北ノ庄城」です。しかし、それまでの城を破壊して造り直されたので、あえて区別しています。
1669年、火事で焼失しました。この時の火事で、天守などが焼失しました。はしご車なんて無い時代ですから、高層建築は燃え尽きるのを待つしかなかったんですね。その後城は再建されましたが、天守は幕府の許可が下りず再建されませんでした。そのため、同じく焼失した本丸南隅の巽櫓を二重から三重五階に改め、天守の代用としました。
1869年、版籍奉還により廃城となりました。1870年、外堀の埋立てが始まり、1873年には外堀はほぼ無くなりました。
1877年、旧士族の反乱を恐れた政府により、城内の建築物が破却されました。
1890年、現状維持を条件に、福井城が松平家に払い下げられました。
1923年、福井県庁が福井城内に新築移転されました。
2008年、廊下橋が復元されました。訪ねた頃には完成していたようです・・・
2018年、山里口御門が復元されました。廊下橋から本丸に入る所に、山里口御門が復元されました。
所在地:福井市大手3丁目