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藤島城/福井市

藤島城跡は西超勝寺となっています。訪問日は2012年8月6日です。

藤島城/01西超勝寺山門
▲西超勝寺山門と城址碑

地図を見たら簡単そうに思えましたが・・・西超勝寺をめざして右往左往。意外と道が分かりづらかったと記憶しています。最終的には大きなお寺の裏側に辿り着いて、山門をみて「あぁ!」だったかと。

よそさまのサイトでは、境内に土塁の痕跡の写真が掲載されています。ほんの1年半前ではありますが、私はまだ城キチとして半覚醒状態・・・城址碑だけ撮って満足し、次へ行ってしまいました (((´・ω・`)


◆歴史◆

築城年や築城者は不明です。

1338年、藤島の戦いで新田義貞が討死しました。

藤島の戦いは、北朝方の足利高経(斯波高経)と南朝方の新田義貞の戦いです。その頃の越前の形勢は南朝方がやや優勢でした。

前年に金ケ崎城を足利高経に攻め落とされ、新田義貞は嫡男を討たれていました。新田義貞は杣山城で軍勢を立て直して金ケ崎城を奪還し、越前各所で勝利しました。府中を追われた足利高経が次に拠点としたのが足羽七城の1つである小黒丸城でした。

閏7月2日、新田軍は藤島城を総攻撃していました。しかし、落城の報告が来ないため、新田義貞は50騎程で様子を見に行きました。
そこへ、小黒丸城から藤島城への援軍300と遭遇戦となりました。義貞ら50騎は弓を持っていなかったのに対して、敵兵は雨のように弓矢を浴びせました。しかも、田んぼで足をとられた義貞は、格好の的となって討たれてしまいました。これが藤島の戦いです。

その後、越前の南朝方は新田義貞の弟・脇屋義助が指揮をとりました。しかし劣勢は覆らず、3年後の1341年に越前から撤退しました。

藤島城は足羽七城の1つで、これらの城はお互いに攻守で連携するようになっていました。足羽七城は小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城です。

その後、城跡には超勝寺が建立されました。Wikipediaでは応永年間(1394~1428年の間)に綽如により創建されたと書かれています。しかし、そのままリンクをポチってみると、綽如は1393年に没していますwww綽如の子・巧如が弟・屯円を超勝寺に配して拠点としたので、年代は合ってそうです。

その後、1602年に本願寺が東西に分裂した際、藤島城跡の超勝寺は西に付きました。そのため、お寺の名前も西超勝寺となりました。


所在地:福井市藤島町(西超勝寺)

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福井城/福井市

福井城跡には福井県庁などがあります。訪問日は2008年3月22日、2018年7月15日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました

福井城/01内堀と石垣
▲内堀と石垣

福井城跡は内堀と本丸以外は残っていません。これは駿府城と同じですね。ただ、本丸の石垣はほぼ原形を留めており、かつての威容が偲ばれます。でも・・・立派な石垣にコンクリートのビルって似合いませんねあせる

福井城/02図
▲かつての縄張と現在の地図を重ねたもの(拡大)

内堀の外側を回っている時に、説明板を見つけました。そこにはかつての福井城の縄張と現在の地図が重ねて描かれています。これを見ると、かなり規模の大きいお城だったことがわかります。

これ以外にも移築された遺構があるそうです。南西にある瑞源寺には本丸御殿が移築され残っているそうです。・・・これ書いてる時に知ったので、今度機会があれば見に行きます!

クローバー2018年7月16日追記クローバー

続日本100名城スタンプを押しに再訪問しました。せっかくなので、前回見ていなかった所を見て来ました。



まずは大手門跡から。前回は本当に外側からちょっと見ただけでしたが・・・ここすら撮っていませんでしたあせる
大きな内堀の向こう側に、重厚な門の跡が見えます。



門の内側を見ると、5メートル程の石垣が聳えています。石垣が元通りなら、桝形門ではなかったようです。そうなのかどうなのかもわからない位に改変されていますがあせる



この門から入ってすぐの所に、ちょいメタボ気味の像があります。・・・筋肉質なのかもしれませんがあせるこれは徳川家康の次男・結城秀康の像です。

 福井県庁1階総合案内所
 開庁時間 8時半~17時15分
 お休み 土日祝日、年末年始
 ※お休みの日は守衛室で押すことが出来ます

スタンプは県庁1階の総合案内にあるそうです。お役所なのでカレンダー通りお休みですが・・・お休みの日でも、守衛室でスタンプを押すことが出来ます!インターホンを鳴らすと「スタンプですね!」と。私の後からも、続々と同じ目的の方が訪ねて来ました。守衛室は県庁入口の左側10メートル位の所にあります。



続いて、前回見ていなかった廊下橋を見て来ました。駐車場入口の脇に、このような案内があります。そのまま奥へ進むと・・・



天守台があります。内側からなので、あまり高くありません。・・・反対側を見忘れましたあせる



天守台の左を見ると、の建物と天守台に挟まれた櫓門が見えます。これが山里口御門です。今年の3月に復元されたばかりです!前回訪問時には無かったので、これはこれでラッキーです恋の矢



ここはとても小さな桝形門です。いつもなら桝形らしく撮るのですが・・・これが限界でしたあせる



外から見たらこんな感じです。やっぱり意識しなくても、スタンプと同じアングルになりますラブラブ



せっかくなので、反対側からもラブラブ櫓門は石垣の上を渡るイメージでしたが、ここのは埋門です。



それと、ちょっと離れた所にも門が復元されています。ここは北に300メートル程離れた所にある舎人門跡です。福井市立郷土歴史博物館の一角に、堀と土塁と門が復元されました。時間の都合で諦め掛けましたが、通り道だったので立ち寄りました。場所はhttps://www.google.com/maps/d/view?mid=11X1ymbmFs-iRTPqTtG5-XIu9z1s&ll=36.06874756589316%2C136.2227052147041&z=19" style="color:#ff0000" target="_blank">ココです。

それと、前回「今度機会があれば」と書いた移築御殿ですが・・・今回も時間が足りず、残念無念の断念ショボーンまだ見足りないので、今度機会があれば是非見に行きたいと思います。


◆歴史◆

1601年、築城が開始されました。

関が原の戦いでは、結城秀康は江戸に留まって上杉軍を牽制しました。その功により、一気に50万石以上加増されて越前に移ってきました。徳川家康は息子にふさわしい城となるよう、自ら縄張りを行いました。そして天下普請による築城を開始し、6年の歳月をかけて完成しました。城域は2km四方に及び、本丸には4重5階の天守が聳えていたそうです。結城秀康は1604年には松平姓を名乗ることが許されたそうです。

1624年、3代・松平忠昌により「福居」と地名が改められました。

2代・松平忠直は残虐な行いが多々あったため、豊後へ配流されました。その跡を弟で越前高田藩主であった松平忠昌が継ぎました。松平忠昌は「北ノ庄」の「北」が「敗北」につながり不吉だとして「福居」と改めました。時期は明確ではありませんが、後に画数が少ない「福井」になりました。それまでは「北ノ庄」だったので、福井城も厳密には「北ノ庄城」です。しかし、それまでの城を破壊して造り直されたので、あえて区別しています。

1669年、火事で焼失しました。

この時の火事で、天守などが焼失しました。はしご車なんて無い時代ですから、高層建築は燃え尽きるのを待つしかなかったんですね。その後城は再建されましたが、天守は幕府の許可が下りず再建されませんでした。そのため、同じく焼失した本丸南隅の巽櫓を二重から三重五階に改め、天守の代用としました。

1869年、版籍奉還により廃城となりました。

1870年、外堀の埋立てが始まり、1873年には外堀はほぼ無くなりました。
1877年、旧士族の反乱を恐れた政府により、城内の建築物が破却されました。
1890年、現状維持を条件に、福井城が松平家に払い下げられました。
1923年、福井県庁が福井城内に新築移転されました。

2008年、廊下橋が復元されました。

訪ねた頃には完成していたようです・・・あせる

2018年、山里口御門が復元されました。

廊下橋から本丸に入る所に、山里口御門が復元されました。


所在地:福井市大手3丁目

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疋壇城/福井県敦賀市

疋壇城は越前の南端にあり、近江との国境を守るために築かれました。訪問日は2012年8月5日です。

疋壇城/01入口
▲入口

疋壇城は琵琶湖東岸を通る国道8号と琵琶湖西岸を通る国道161号の分岐近くにあります。今でも交通の要衝なんですね!国道161号から1本脇道に入ると、落ち着いた感じの集落があります。その中にポッカリ空いた一角があり、ここが登城口となっています。斜面を一気に真っ直ぐ登る階段は、この先に神社でもありそうな感じです。

疋壇城/02ゲートボール場
▲ゲートボール場

この階段を登ると開けた場所に出ます。きっと疋壇城の曲輪だったのでしょうが、今はゲートボール場となっています。ここにはかつて小学校があったそうで、平坦な広場は運動場に使われていたのでしょう。
この小学校建設の際に疋壇城の遺構はかなり破壊されたそうです。

疋壇城/03説明板と城址碑
▲説明板と城址碑

ゲートボール場の奥にちらっと見えた白い板。ニワカとは言え、城キチの私が見逃す筈がありません。ツカツカと近づき、バッチリ写真を撮りました。そして、ニワカでも予想できる展開としては、この奥に何かあるに違いありません。ということで突撃です。

疋壇城/05本丸は畑
▲本丸は畑になっています

説明板から奥に進むとそこは・・・畑でした。手前にちょっとだけ石組がありますが、石垣の名残でしょうか?精神的に偏ると、何でも都合の良い方にフィルターが掛かってしまいますwで、ここは簡易ではありますがフェンスで囲まれていたので、先に進むのを遠慮しました。後で知ったのですが、この中にあちこちで紹介されている立派な石垣があるそうです。

疋壇城/04本丸脇の堀
▲本丸脇の堀

城跡らしきものを見られず無念、、、ということで、木々に覆われた堀らしき所を撮影。地形的にもきっと堀に違いない、と言い聞かせて、やっぱり堀ですよね?・・・ということで、次の城跡へ向かいました。


◆歴史◆

文明年間(1469~87年の間)に疋壇久保により築かれました。

この頃は世に有名な応仁の乱の最中です。越前守護・斯波氏は、斯波義廉と斯波義敏が家督争いに明け暮れていました。これを利用してのし上がったのが、越前朝倉氏7代目・朝倉孝景でした。

朝倉孝景は当初、斯波義廉の西軍につき、斯波義敏の東軍と戦っていました。近江の大族・京極持清が東軍であり、朝倉孝景は1467年に京で2度戦っていました。疋壇城は近江との境を固めるため、この頃に築かれたと思います。その後、朝倉孝景は東軍に転じ、越前国内の甲斐氏や二宮氏らライバルを潰しました。そして1471年、ついに越前守護の座を手に入れました。

1570年、織田信長に攻められ落城・破却されました。

織田信長は若狭を攻める口実で出兵し、若狭東部の国吉城に逗留しました。その後、進路を東へと転じ、敦賀の天筒山城と金ケ崎城を攻めました。その時に疋壇城も攻められ落城し、織田軍により破却されました。

しかし、織田軍の朝倉攻めを知った北近江の浅井長政が、織田軍を攻める構えを見せました。南北からの挟み撃ちを恐れた織田軍は、慌てて京へ引き返しました。これが金ケ崎の退き口と呼ばれる退却戦です。敦賀を取り戻した朝倉軍は、栂野景仍らに城を修築させ守らせました。

1573年、再び落城し、廃城となりました。

横山城の木下藤吉郎を拠点に北近江の国人衆を切り崩し、織田軍が小谷城へ攻め寄せました。朝倉義景はすぐさま援軍に駆けつけましたが、要所は織田軍に押えられていました。そこで軍勢を立て直そうと移動した所を織田軍に急襲され、朝倉軍はボロ負けしました。

その退却戦で朝倉軍が疋壇城にも篭ったそうですが、攻め落とされて一乗谷まで退きました。織田軍は追撃の手を緩めず一気に一乗谷を攻め落とし、朝倉氏を滅ぼしました。3年前に織田軍が破却しているので、その後は拠点として使われず廃城になったと思われます。


所在地:福井県敦賀市疋田

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後瀬山城/福井県小浜市

後瀬山城は小浜を一望する山上にありました。訪問日は2012年8月5日です。

後瀬山城/01登城口
▲登城口

後瀬山城への登城口は、国道27号のトンネル脇にあります。何となく公民館のような所があり、その反対側に鳥居があります。この鳥居をくぐって階段を登っていきます。

後瀬山城/02実測縄張図
▲登城口にある実測縄張図(拡大)

登城口から見える所に立派な説明板があります。そこには実測の縄張図がヽ(´∀`)ノ立体的で、何だか山1つ征服した気分になります。これを見てると、竪堀がかなりありますね!・・・今はそう思うのですが、当時は (((´・ω・`)

後瀬山城/03主郭手前の石段
▲主郭手前の石段

登城路は、はじめは線路の枕木でできた階段が続き、その内普通の山道になります。途中何箇所か曲輪跡の広場があり、主郭手前には石段があります。・・・ということで、途中かなりはしょっていきなり主郭付近の写真ですあせる

後瀬山城/04武田氏城址碑

後瀬山城/05主郭跡にある神社
▲主郭の石垣

主郭はかなり広く、随所に石垣が残されています。石垣を見に近寄ったら、小さな「武田氏城址」の碑がありました。当時の私は石垣が無ければ登ることも無かったと思います。


◆歴史◆

1522年、武田元光により築かれました。

武田元光は1519年に家督を継ぎ、領国支配強化のため若狭に下向しました。・・・ということで、それまで若狭守護の武田氏は京に居ました。武田元光は幕府管領・細川氏の内紛に関与し、細川高国派として細川晴元派と戦いました。1539年に子の武田信豊に家督を譲って、麓の居館で隠居しました。

1568年、朝倉義景が武田元明を一乗谷へ連れ去りました。

この頃の若狭では、東西で逸見昌経と粟屋勝久が乱を起こしていました。朝倉義景は1563年から武田義統の要請を受けて援軍を送っていました。武田義統が没してまだ幼い武田元明が家督を継いだことで、若狭の乗っ取りを図ったのです。朝倉義景は武田義統の弟・武田信方に若狭統治を命じました。

1573年、丹羽長秀が城主となりました。

織田信長が越前の朝倉義景を滅ぼしました。朝倉義景の後ろ盾で若狭を治めていた武田信方が逃げたため、丹羽長秀が領主となりました。丹羽長秀は後瀬山城を石垣と天守を備えた城に大改修しました。

1585年、丹羽長重が城主となりました。

丹羽長秀は柴田勝家が滅亡後、越前と加賀2郡を与えられて123万石の大身となりました。しかし、持病の胃癌により、2年後には壮絶な最期を遂げました。丹羽氏の家督は、丹羽長重が継ぎました。この時から豊臣秀吉による丹羽氏の勢力削減が開始されました。この時は佐々成政討伐で丹羽軍中に佐々側に内応した者が居た、と難癖をつけられました。これにより越前と加賀2郡が召し上げられ、若狭一国16万石にまで削減されました。

1587年、浅野長政が城主となりました。

丹羽長重は豊臣秀吉から難癖をつけられて、どんどん勢力を削られました。この時は九州征伐の際に狼藉を働いた者が居たとされ、加賀小松4万石へ移されました。

浅野長政は豊臣秀吉の身内で、行政手腕に長け、太閤検地を実施しました。また、九州征伐でも抜群の手柄を立てたため、若狭一国を与えられました。

1593年、木下勝俊が城主となりました。

浅野長政が朝鮮での活躍により、甲斐甲府21万石へ移りました。木下勝俊は豊臣秀吉の正室・ねねの兄の子で、小早川秀秋の兄です。軍人としてよりも、歌人としての才能に長けていました。その作風は松尾芭蕉にも影響を与えたとされています。

1601年、京極高次が城主となりました。

木下勝俊が関が原の戦いで勝手に伏見城を退去したため、領地を召し上げられました。代わって大津城で西軍を釘付けにして東軍の勝利に貢献した京極高次が城主となりました。京極高次は小浜城の築城を開始しましたが、小浜城が完成するまで40年かかっています。それまで若狭の領主は、後瀬山城を居城としました。

1634年、酒井忠勝が城主となりました。

京極忠高が出雲松江に移り、酒井忠勝が若狭小浜藩主となりました。小浜城の工事はまだ続いており、この時に完成していたのは天守台と石垣まででした。酒井忠勝は小浜城の縄張りを変更しつつ、築城を継続しました。酒井忠勝は徳川家康の再従兄弟(はとこ)で、後北条氏討伐後に3千石を与えられました。その後、トントン拍子に出世して、小浜12万3千石を領する大老にまで上り詰めました。

1641年、廃城となりました。

小浜城がある程度完成したため、藩主が小浜城に入りました。そのため後瀬山城は役割を終えて廃城となりました。しかし、城の縄張りや石垣等はそのまま残されていました。酒井忠勝は有事の際の詰めの城に後瀬山城を使おうとしていたからだとされています。・・・ということで、後瀬山城の保存状態はとても良いです。


所在地:福井県小浜市伏原

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東郷槇山城/福井市

東郷槇山城は一乗谷の西を押える場所にありました。訪問日は2012年8月6日です。

東郷槇山城/00遠景
▲遠景

東郷槇山城は一乗谷の西にあって、その入口を押える位置にありました。高さも高過ぎず、麓を行く軍勢を程よく牽制できそうな感じです。

東郷槇山城/02案内図(北が上)
(拡大)

東郷槇山城/02配置図
▲案内図

城跡のある山頂までクルマでも登れる道があります。駐車場だったと思いますが、案内図がありました。多分設置してあった場所によると思うのですが・・・北を上にしてみました。文字が逆さまだったり横向きなのは、首を傾げて対応して下さいΣ(゚Д゚;

東郷槇山城/04千畳敷
▲千畳敷

城跡で一番の広場が千畳敷です。その端には立派な土塁があります。気にしないと普通の山にある公園ですけどね・・・

これ書こうと案内図を見てたら、堀切とか土塁とか色々遺構がありそうな感じです。嗚呼、当時の私は興味を示さなかったんかな・・・


◆歴史◆

応永年間(1394~1428年の間)に東郷正景により築かれました。

東郷正景は越前朝倉氏の3代め当主・朝倉氏景の次男です。朝倉氏は1366年の貞治の変で斯波氏と戦って以来、斯波氏の重臣からは外されていました。朝倉氏は元々は斯波氏の家臣でなく、幕府から派遣されていましたからね。

サイトによっては朝倉正景が東郷荘の地頭になったのが1388年と書かれています。また、1401年に熊野権現を勧請したのが、一乗谷の初出とされます。東郷槇山城が築かれたのは、これらの動きと関係あるかもしれません。

1573年、朝倉義景が織田信長に滅ぼされました。

織田信長が浅井長政を攻めた際、朝倉軍が援軍として小谷城へ向かいました。そこで敗れて一乗谷に逃れると、その勢いのまま織田軍に追撃され、朝倉氏は滅亡しました。越前は前波吉継、次いで富田長繁が領主となりますが、一向一揆に敗れました。織田信長は10万の軍勢で一向一揆を平定すると、柴田勝家を新たに越前領主としました。この頃の東郷についてはわかりませんでしたあせる

1583年、柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされました。

賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉は、柴田勝家が篭る北ノ庄城を一気に攻め落としました。戦後、越前は丹羽長秀に与えられましたが、この頃についてもわかりませんでしたあせる

1585年、丹羽長秀が没すると、長谷川秀一が城主となりました。

丹羽長秀は羽柴秀吉に従ってはいましたが、家臣ではありませんでした。大きな戦があるごとに同調していたので、仲は良かったのでしょうが。しかし、丹羽長秀が没すると、秀吉は丹羽氏123万石の解体を図りました。丹羽氏の家督を継いだ丹羽長重は若狭一国16万石に大減封。越前は3分割され、その内の東郷15万石が長谷川秀一に与えられました。

長谷川秀一は織田信長の直臣で、本能寺の変後は羽柴秀吉を支持していました。東郷を与えられたのは、紀州征伐で数々の戦功を挙げたからのようです。

1594年、長谷川秀一が朝鮮の戦地で病没しました。

長谷川秀一が朝鮮の戦地で病没しました。長谷川秀一には跡継ぎがありませんでしたが、父が領地を支配していたと推測されます。その後、丹羽長秀の次男・長正が城主となりました。丹羽長正については事跡があまりはっきりしませんあせる

1601年、廃城となりました。

丹羽長正が関が原の戦いで西軍に味方したため、改易となりました。その後の丹羽長正は豊臣秀頼に仕えました。しかし、1614年の大坂の陣が始まる前に大坂城を抜け、越前で暮らしたそうです。没年は1620年説と1630年説があり、はっきりしていません。越前には結城秀康が入りましたが、東郷城は廃城となりました。


所在地:福井市小路町

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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