小谷城は北近江の覇者・浅井氏が本拠とした山城です。
訪問日は2018年9月22日です。

まずは100名城スタンプを押しに小谷城戦国資料館へ。
前週に金山城へ行けたおかげで、開いてる時間に間に合いました。
当初の予定では、閉館時間に間に合うかどうかギリギリでした。
続日本百名城スタンプ設置場所 | 小谷城戦国歴史資料館 所在地 滋賀県長浜市小谷郡上町136 電話番号 0749-78-2320 開館時間 9時半~17時(入館は16時半まで) 休館日 火曜日(祝日の場合翌日)、12/28~1/4 入館料 大人300円、小中学生150円 |
拡大表示戦国歴史資料館の駐車場にある案内図です。
超巨大馬蹄形の尾根に沿って築かれていたんですね!
一番高い所にあるのが大嶽ですが、出城的な扱いとなっています。
行ってわかりましたが、読みは「おおづく」です


さて、戦国歴史資料館脇にも登城口はありました。
しかし、一縷の望みを賭けて戦国ガイドステーションに来てみました。
ここから舗装道があり、車でかなりの所まで登れるからです。
その入口には、大河ドラマ放映を記念したオブジェがありました。
重そうですw

一縷の望みと書きましたが、敢え無く撃沈

城跡へのバスが運行される日は、一般車両は通行止めとなります。
バスの運行が終わっても通れないのは、前回(2012年)と同じでした。
バスが無い日は、番所跡まで車で登れます


登城口です。
2012年はここに「一般車両通行止め」がありました。
このすぐ右に駐車場があるのですが、そこには停められません。

上の写真の案内図のすぐ左が大手道の入口なのですが・・・
バリケードが置かれ、通れなくなっていました。
そこには入山禁止の警告文が。
入山しただけで窃盗罪とは、かなりキツイですね

人が沢山来る城跡でなければ、即退散する位に怖い内容です。
城跡は私有地にあることが多いので、春と秋は要注意です。

「車がダメなら大手道」計画も潰えたので、しかたなく舗装道へ。
こんな光景が、荒んだ気持ちを慰めてくれますw

登城口から5分
出丸への案内も、どこかしら現代風ですw

登城口から7分
せっかくなので、脇道から出丸に登りました。
この日は小谷城が最後なので、日が暮れるまで時間を気にしません^^

登城口から9分
さて、出丸から舗装道へ戻りテクテク歩いていると・・・
車も通らない道でそりゃないよ


すぐ脇に、ここを通れと言わんばかりに大手道がありました。
ここからは舗装道より嫌いな階段がしばらく続きます。

登城口から15分
大手道を登っていると、途中に間柄峠の案内があります。
1525年、六角高頼が小谷城を攻めた時、越前から援軍が来ました。
ここは援軍の朝倉家臣・真柄備中守が守った所だそうです。
ググってみると六角高頼は1520年頃没、真柄はなぜか間柄に。
「間柄峠」の標記は、地元では昔からなのだそうです。

間柄峠を上から見た所です。
微妙に道がクネッていて、虎口っぽい構造になっています。

登城口から17分
間柄峠から少し登った所に、舗装道のヘアピンカーブがあります。
このカーブの先端が展望台風になっており、望笙峠と書かれていました。

望笙峠からは、虎御前山と琵琶湖がよく見えました。

登城口から24分
大手道に戻ってさらに登ると、今度は金吾丸への脇道があります。
せっかくだからと登りましたが・・・
眺めがいい訳でも、カッチョイイ遺構がある訳でもありません。
完全に自己満足の世界ですw<

登城口から25分
金吾丸から下った所が、舗装道の終点でした。
舗装道の終点という事は・・・

番所跡です

ようやく小谷城に主要部入口に到達しました。
比高200mの普通の山城なら、登り切る位の時間がかかっています。

登城口から29分
番所跡の先には、虎御前山展望所があります。
1573年8月、織田信長はこの山に城を築いて小谷城を攻めました。
城を守っていた将兵達は、どんな思いでこの山を眺めたのでしょう。

登城口から30分
番所から虎御前山展望所を過ぎると、今度は御茶屋という曲輪があります。
名前はのどかなのですが、由来はわかりません。
案外、名前の通りだったのかもしれませんけど


登城口から32分
御茶屋のすぐ上には馬洗池があります。
ここら辺からは、曲輪どうしがほぼ隣接するようになります。

馬洗池の脇には、土塁で囲まれた御馬屋という曲輪があります。
牧草地並みに草が豊かですが、もちろん真ん中にある説明板見て来ました

説明板の脇にあるイラストは、御茶屋のものと全く同じでしたけどw

登城口から34分
馬洗池のすぐ先には、道端に大きな岩があります。
これは首据石と呼ばれ、敵に内通した家臣の首を晒したそうです。
この手前から、赤尾屋敷に通じる脇道があります。
赤尾屋敷は浅井家重臣である赤尾氏が暮らしていた所です。
織田信長に攻められた浅井長政は、この赤尾屋敷で自害しました。
そうと知ってたら立ち寄ったんですけど


登城口から35分
首据石のすぐ後ろにあるのが、黒鉄門跡です。
建物が無くても、厳重な造りだった雰囲気は感じられます。
この門の中が本丸です。

登城口から36分
黒鉄門の前には、桜馬場と呼ばれる広い曲輪があります。
上からは見えませんが2段になっていて、更に奥へと広がっています。

登城口から40分
黒鉄門跡を抜けた所が本丸の大広間です。
ここに御殿などの建物が並んでいたそうです。

登城口から42分
大広間の突き当りに本丸の石垣があります。
小谷城跡で見られる本格的な石垣はここからです。
前回(2012年)は、スズメバチを見てここで引き返しました。
スズメバチの習性を覚えたので、今度は見ただけではビビりません。
今回は見ませんでしたけど。

登城口から44分
本丸の城塁脇を奥へ進むと、谷間的に開けた所があります。
実はこれ、大堀切なんです

言われなければ規模の大きな谷と勘違いしそうです。
ここで山上部と本丸を区切っていたそうです。

登城口から46分
大堀切を過ぎた所に横向きの石垣があり、その裏が通路になっています。
中丸の虎口です。
本丸側は特に虎口が無いので、こちら側の方が防御が固くなっています。

虎口から上がって見た中丸の様子です。
かなり広い曲輪です。
説明板によると、中丸は3段の曲輪で構成されているそうです。

奥の方は、このように段々になっています。

登城口から53分
中丸の奥の狭い曲輪を上がると、土塁が開口した虎口が現れます。
ここは京極丸の虎口です。
京極丸は、浅井氏が主である京極氏を迎えるために築いたそうです。
・・・平たく言うと、監禁して傀儡にしたという事ですw

京極丸の特徴は、虎口から入ってすぐ見えるこの土塁です。
小谷城内にある土塁では一番高いものかもしれません。
周囲は傾斜がキツク、周囲から隔絶しやすい感じがします。
・・・思い込みかもしれませんけど


登城口から60分
京極丸の更に上には、小丸と呼ばれる曲輪があります。
本丸を過ぎても、更に上へと曲輪が並んでいます。
浅井長政の父・久政は、隠居した後はここで暮らしていました。
織田信長に攻められ落城した際にも、ここで自害したそうです。

登城口から62分
小丸の上には、更に山王丸があります。
小丸から山王丸に向かうと、手前にその石垣が見られます。
山の高い所にありますが、かなり大きな石を積んでいます。

山王丸の石垣はよく残っています。
東側(登る時は右手)側面には、このようにまとまった石垣が見られます。
私は左側通行で登ったので、下る帰りに見ました。
現地では「大石垣」の案内が出ています。

登城口から63分
石垣のある斜面を登った所が山王丸です。
ここもそこそこ広い曲輪です。
山王丸は4段の曲輪群から成り、小谷城主要部では最も高い所にあります。

登城口から64分
山王丸最上段の土塁です。
下段から見えなくなるように設置されています。
土塁の真ん中辺りには、石垣も見えます。

山王丸の一番奥から見た所です。
最上段でも、まぁまぁの広さです。
普通の山城の主郭よりはかなり広いですけどw
さっきの土塁はかなりの存在感があります。

登城口から65分
山王丸の一番奥にある虎口です。
虎口は虎口ですが、山道がここにつながっただけです。
特に防御的な感じはしません。
山王丸が小谷城では事実上の詰めの城だったからかもしれません。
私はここまでで登城を終えるつもりでしたが・・・
後から来た方が山王丸で私に追いつき、ここでUターンして帰りました。
・・・なんだか燃えちゃいました

本当は行くつもりはなかったのですが、さらに大嶽を攻める決意をしました。
ここから900メートルですが、二度と来ないなら行くしか無いですよね?

山王丸から見た大嶽(小谷山山頂)です。
1日城跡巡りしたのに、さらに登ろうなんて・・・
正気の沙汰ではありませんw

登城口から69分
山王丸からは急な山道を下ります。
下ったら登り直すのですが、そんな事どうでもよくなってます。
正気を失ってますね?w
下り坂を下り切った所にかなり平坦地があります。
ここが六坊です。

六坊は細長く、かなり広い曲輪です。
その名の通り、政務や軍務に携わった6つの有力寺院を集めた所だそうです。
山王丸の更に奥はさぞ不便だと思いましたが・・・
清水谷からの道がここに通じています。
本丸を通らずに麓から登れるので、もしかしたら登りやすかったのかも。
小谷城が落城した時、羽柴秀吉は清水谷から京極丸に奇襲をかけています。

細長い六坊で大嶽までの距離を稼いだと思いましたが・・・
六坊の奥には、大嶽まで600メートルの案内があります。
ここから500メートル程は、奥に見えるような階段が延々と続きます


登城口から82分
大嶽まであと100メートルの案内を越えると、道がやや平坦になります。
登った後ちょっと下ったので振り返ると、横一線の土盛りでした。
どうやらここが大嶽の外周の土塁のようです。

登城口から83分
土塁を越えて間もなく、大嶽城跡を示す標柱と説明板があります。
長い長い階段を登ってしんどかった思いが吹っ飛ぶ瞬間です


そのすぐ先に、それまでの曲輪と同じようにイラストがありましたが・・・
自然にこうはなりませんよね?
ひどい事をする人がいるもんです

ググってわかる範囲では、2016年12月までは綺麗でした。

登城口から84分
大嶽城内をウロウロしていると、小谷山山頂のプレートがありました。
山頂ですからねぇ、この手のものは大抵あります。
・・・ちょっと機嫌悪いかもw

登城口から88分
元々来る予定ではなかったので、大嶽の構造がわからず。
とりあえず外周の土塁を1周してみました。
土塁は高さ1.5メートル程で、山頂部分を1周しています。
何だか火山の火口みたいです。
現在見られる遺構は、1573年に朝倉軍が構築したものだそうです。
真ん中にある大嶽の標柱を、土塁を背景に撮ってみました。
苦労して登り切ってゴールに辿り着くと、とても気持ちがイイもんです

だからといって、山キチには絶対なりませんけどw
◆歴史◆築城年は定かではないのですが・・・
1525年、六角定頼が攻め込み、浅井亮政は小谷城に篭城しました。
この時既に城があったということですね。
六角定頼は観音寺城を本拠とし、南近江を支配していました。
一方、浅井氏は小谷城を本拠として北近江を支配していました。
浅井氏は元々は京極氏に仕える国人衆でした。
1523年に京極家から京極高清・高吉父子が追放されました。
この時に追放した国人衆のリーダー格が浅見貞則と浅井亮政でした。
しかし、浅見貞則は次第に専横的になり、国人衆達の反発を買いました。
そのため今度は浅見貞則が追放され、浅井亮政がリーダーとなりました。
このゴタゴタを利用し、京極家の傀儡当主に近づいたのが六角定頼でした。
京極氏は元々六角氏庶流なので、六角氏が攻め込む口実となりました。
この時は六角軍を撃退しています。
1534年、浅井亮政が京極高清・高延父子を小谷城に招きました。六角定頼の侵攻を受けており、家中の分裂を避けるためと思われます。
元々はこの父子の不和が家中分裂の原因でした。
しかし、父子が和解したのは、実権を取り戻すことが目的だったようです。
1538年、六角定頼が攻め寄せ、浅井亮政は美濃へ逃れました。お騒がせだった京極高清が、上平寺城で79年の生涯を閉じました。
傀儡とはいえ、主君の死が家中に及ぼす影響は小さい筈がありません。
これを好機と捉えた六角定頼が、再び小谷城へ攻め寄せました。
この陣中には家督争いに敗れた京極高清の次男・京極高吉も居ました。
城を包囲された浅井亮政は美濃に逃れ、六角軍が退いてから城に戻りました。
近江では国人達の連携がよく、本城を落とされても復帰することが多いようです。
1541年、浅井家で家督争いが起きました。
浅井亮政が病に倒れると、浅井家中で家督を巡る争いが起きました。
浅井久政は側室の子でした。
家中で支持を集めたのは、正室の娘の婿・田屋明政でした。
浅井久政はこの時、家督に興味が無いような言動をしていたそうです。
最近見直されつつある浅井久政ですが・・・
暗愚と評されたのには、それなりに理由がありました。
この争いに付け込んだのが京極高延でした。
京極高延は田屋明政に加勢し、当主の座を狙ったのかもしれません。
しかし、ここで浅井久政が驚きの一手を打ちます。
それは・・・何と・・・六角定頼の軍門に降るという禁じ手でした。
これは見事というか、完全に想定外ですね。
父の代に何度も攻め寄せてきた六角定頼の力を逆手に取りました。
これにより家督争いを制した浅井久政が、浅井家の家督を継ぎました。
1560年、野良田の戦いで浅井軍が六角軍に大勝しました。浅井久政の嫡男・新九郎が15歳となり元服を迎えました。
六角義賢は自らの名から一文字与え、「浅井賢政」と名乗らせました。
「浅井賢政」では誰も知りませんが、浅井長政の事です。
六角義賢は重臣・平井定武の娘を浅井賢政に娶らせました。
手中に収めた浅井家の跡継ぎを、六角義賢は手放したくなかったんですね。
当然と言えば当然ですがw
浅井久政の長年の弱腰外交に、浅井家中では不満がくすぶっていました。
浅井賢政が反六角派の同志を集め、独立の動きを見せました。
すると、浅井賢政は観音寺城を脱出し、小谷城に戻りました。
そして名を新九郎に戻し、平井定武の娘を親元に返しました。
六角義賢は激怒し、京極高吉を大将に2万5千の兵力で侵攻。
一方の浅井新九郎が集めた兵力は1万1千で、六角軍の半分以下でした。
しかし、見事な戦いぶりに浅井家一同心酔したそうで・・・
落ち目の六角家を見限り、浅井家に寝返る国人衆が続出しました。
2ヶ月後、国人衆は浅井久政を竹生島に幽閉。
浅井新九郎改め長政を、新たな浅井家当主として迎えました。
1565年、織田信長と同盟を結びました(1568年説あり)きっかけとなったのが、後に将軍となった足利義秋(=義昭)です。
1565年、将軍・足利義輝の暗殺後、足利義秋が六角氏を頼りました。
しかし、六角氏が三好三人衆に通じていることを知ると近江を脱出。
越前の朝倉義景を頼りましたが、上洛する気配がありません。
ちょうどその頃、織田信長が美濃を攻略していました。
美濃攻略には、向こう側の近江を味方にするのは当たり前ですね。
ただ、織田家との同盟には浅井久政や重臣・遠藤直経らが反対しました。
織田信長が浅井家の盟友・朝倉家と仲が悪かったのです。
浅井長政も、まさか織田信長が朝倉家を滅ぼすとは思わなかったでしょう。
この同盟に当たり、絶世の美女と謳われた信長の妹・市が嫁入りしました。
同盟に反対する浅井家中も、これで信長の気合いに負けたのでしょうね。
1567年、織田信長が美濃を制圧
1568年、浅井長政が織田信長とともに足利義昭を奉じて上洛
ここまでは良かったんですけどね・・・
1570年、小谷城下の姉川で、織田信長と戦いました。発端は、織田信長が朝倉義景の金ヶ崎城を攻めたことです。
織田信長は、徳川家康や松永久秀らとともに琵琶湖西岸を北上。
領内を北へ進む織田軍を、なぜ浅井長政が通したのか・・・
それは、表向きの理由が若狭の武田家討伐だったからです。
そのためだったのかもしれませんが・・・
織田軍が盟友・朝倉家の金ヶ崎城を攻め落としました。
織田軍の盟約違反に、浅井長政は黙っていませんでした。
すぐさま朝倉救援軍を編成し、織田軍に襲い掛かりました。
北の朝倉軍と南の浅井軍に挟み撃ちにされ、織田軍は急遽撤退しました。
これが金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いです。
これにより、織田信長と浅井長政の同盟が破棄されました。
京へ逃げ帰った織田信長は、体勢を立て直すとすぐさま報復。
姉川での戦は織田・徳川軍が勝ちましたが、小谷城は攻めませんでした。
それは小谷城が堅城で、無理に攻めても兵力を消耗するからでした。
織田軍は麓にある横山城を攻め落とし、木下藤吉郎を城番にしました。
1573年、小谷城が織田信長に攻められ落城しました。姉川の戦には敗れましたが、小谷城とその支城は健在でした。
そのため、織田軍は小谷城を包囲出来ない状態が続いていました。
この状況を打開したのが、横山城に入った木下藤吉郎でした。
木下藤吉郎は、浅井家に従う国人達を根気強く口説き続けました。
その結果、磯野員昌や宮部継潤などの重臣クラスも寝返りました。
こうして織田方の国人が増え、山本山城の阿閉貞征も寝返りました。
山本山城は小谷城の支城で、琵琶湖東岸を通る街道を押える城です。
この城が手に入った事を知ると、織田信長はその日の内に出陣しました。
織田軍が小谷城を攻めると朝倉軍が援軍に駆けつけますが・・・
山本山城が織田軍に占拠されており、小谷城に近づけませんでした。
朝倉軍が状況を把握して移動しようとした所を織田軍が急襲。
朝倉軍は総崩れとなって撤退しました。
この機を逃さず織田軍は追撃し、朝倉義景を滅ぼしてしましました。
朝倉家を滅ぼした織田軍は小谷城に戻り、城攻めを再開しました。
木下藤吉郎隊が清水谷の急斜面から、京極丸を攻め落としました。
京極丸は本丸より奥まった所なので、籠城側には想定外でした。
これにより城内で浅井父子の連携が絶たれ、小谷城は落城しました。
この活躍により、木下藤吉郎は浅井家旧領の12万石を与えられました。
木下藤吉郎は、この時に羽柴秀吉に改名しています。
1575年、小谷城は廃城となりました。羽柴秀吉は、北国街道と琵琶湖に面した今浜に新たに城を築きました。
この時に地名を「長浜」に改め、小谷城は廃城となりました。
所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部
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