fc2ブログ

観音寺城/滋賀県近江八幡市

観音寺城は、近江源氏の佐々木氏(後の六角氏)が本拠とした城です。

訪問日は2018年9月23日です。



ここも以前訪ねたことがありますが、100名城スタンプは押さず。

踊らされてなるものかと粋がっていたんですね。

今ではすっかり踊らされていますけどw

今回は続100名城スタンプ集めのついでで立ち寄りました。

スタンプを押すだけなら、安土駅前で良かったのですが・・・

近くまで来ちゃいましたからねラブラブ




【1】観音寺城




今回は前回とは違うルートから登りました。

ナビの言いなりになって来たというのは、ここだけの内緒話です。

観音寺城跡には観音正寺があり、周囲の林道は有料となっています。

林道のゲートで「ここからだと石段450段登るけどいい?」と言われました。

私は特に何も考えず「いいですよラブラブ」なんて答えましたが・・・

この日3つ目の山登りは、結構しんどかったです。




【2】観音寺城




ただ、石段の途中にこんな所があって、ちょっとだけ体力回復しました。

作りが何となく虎口っぽい感じがします、よね?




【3】観音寺城




石段を登り切った所が、観音正寺の入口でした。

仁王様がむき出しでお出迎えする所は珍しいかもしれません。




【4】観音寺城


説明板と図を拡大表示



観音正寺の拝観料徴収口の手前にこの案内図があります。

城跡を見るだけなら、拝観料を払わずにこの脇を通ることも出来ます。




【5】観音寺城




しかし、今回の私は100名城スタンプゲットが至上命題です。

そのため拝観料500円を払い、目の前にある休憩所へGoビックリマーク



日本100名城スタンプ設置場所


【6】観音寺城
 観音正寺休憩所

 林道を通行可能な時間 8時~16時半

 拝観時間 8時~17時(林道の方が早く閉まります)

 お休み 無し(林道は年末年始は通行不可)

 拝観料 大人500円、小中学生300円


他に桑実寺、石寺楽市会館、安土城郭資料館にもあります。
安土城郭資料館は安土駅前にあり、安土城のスタンプも押せます。

正確には「観音寺城のスタンプも押せます」ですねあせる




【7】観音寺城




さて、事前に用意した図をレンタカーに忘れてしばし茫然。

一度来たことはあるので、記憶というより本能に従い進みます。

観音正寺の一番奥まで進むと、左脇にお稲荷様があります。

そこから山道が見えたので、えいやっとひとッ跳び。

うっすらぼんやりした記憶では、前回はお寺の脇から奥へ進みました。




【8】観音寺城




ほんの数分進むと、前方を遮る石垣が見えて来ました。

これは怪しいとわくわくすると・・・




【9】観音寺城




中央に白い説明板のある大きな曲輪に出ました。

いきなりですが、ここが本丸だったとされる場所です。

かなり有名な城跡なのですが、雑木林となっています。




【10】観音寺城




観音正寺から進んで来ると、本丸の右奥に石垣の虎口があります。

本丸は高さ3メートル程の土塁で囲まれていて、虎口周辺だけ石垣です。

石垣が互い違いに組まれているのを見て、キュンキュンしてしまいましたラブラブ

さぁ、色々見るぞとここから外に出ましたが・・・

この外の道は桑実寺に通じる道で、城跡らしいものはありませんでした。




【11】観音寺城




う~ん、こっちはハズレかぁと戻ってきて撮ったさっきの虎口です。

転んでもタダでは起きない性分です(`・ω・´)v




【12】観音寺城




本丸を囲む土塁です。

所々に石垣があります。




【13】観音寺城




本丸から下る石段があります。

これが大手道だったそうです。

小牧山城でもこんな光景見ましたが・・・

時間を頂ければ私、これどかしますよー('ω')ノ

誰かチェーンソー貸して下さい!!

・・・なんて気持ちだけはありますw




【14】観音寺城




城の構造わからんし、本丸見たしでちょっと満腹気味。

そして、かなり下りそうな石段脇に、こんなものが設置されていました。
これは城キチに余計な体力を使わせる罠に違いないと思いましたが・・・

本能が理性に勝りました。




【15】観音寺城




足が勝手に石段を下り、初めに現れたのが平井丸でした。

ここは六角氏の超重臣で、宿老だった平井氏の屋敷があった所です。

平井氏といえば、人質時代の浅井長政に娘を嫁がせた家ですね。

浅井長政が自立すると、すぐに離縁されてしまいましたが・・・




【16】観音寺城




平井丸(平井屋敷)の入口はとっても立派な造りです。

観音寺城で最も整った石垣が見られる場所です。




【17】観音寺城



平井屋敷のすぐ隣には、後藤屋敷の跡があります。
後藤氏も六角氏の宿老でした。



【18】観音寺城




平井屋敷からさらに山道を下ると、広い曲輪が現れます。

ここは池田丸で、外周を石垣で囲まれています。

さすが、総石垣のお城です恋の矢




【19】観音寺城




池田丸の石垣がぽっかり口を開けている部分があります。

虎口のようですが、この奥は鬱蒼とした山林で、道はありませんでした。




【20】観音寺城




池田丸の石垣を堪能したので、いよいよ大石垣へ。

小さな虎口からさらに山道を下ります。




【21】観音寺城




池田丸から山道を下ると、大石垣の案内がこちらを指していました。

大きな岩がゴロゴロしていて、それっぽい雰囲気が漂いますラブラブ

後から知りましたが、これは大石垣のにある女郎岩です。




【22】観音寺城




何だか石がゴロゴロしてるだけの曲輪のようです。

斜面側を見ても土むき出しで、石垣などかけらも無し。

入口にあった大きな岩を大石垣と呼んでいるのだと思いました。



しかし、後日気になってググって衝撃の事実が・・・

大石垣は、この曲輪の足元にあります。

なので、さらに道をちょっと下れば見ることが出来ました。

現地の案内はこの曲輪に入るよう指し示していたのにハートブレイク



これは城跡の構造がわからないまま訪ねたことによる悲劇です。

下から登って来たら自然に見えるものなのかもしれません。

そう思って上の案内図を見ると、曲輪の手前端に印が付いていますハートブレイク

上から下って来ると、見逃す可能性大です。



さらに、歩いたルートを地図に落として、二たびショックw

そのまま下っていれば、お寺まで登り直さず駐車場に戻れていました。

そうと知ってて道を下れば、大石垣を見られたかも。

これから訪ねる方は、私の失敗を乗り越えて楽しんで来て下さい(TT)/~





◆歴史◆

前回のブログをご参照ください。





所在地:滋賀県近江八幡市安土町石寺



滋賀県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

鎌刃城/滋賀県米原市

鎌刃城は国人領主・堀氏の城でした。
昨年4月に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年9月23日です。

前回(2012年)は「とにかく楽に」石垣目当てで訪ねました。
そのため、山上の林道から本丸を見ただけでした。
その後、いろいろ拝見すると、堀切や石垣があるらしく・・・
チョー気にはなっていました。
そして、今回の続日本100名城選出とスタンプ設置。
いろいろと条件は整いましたビックリマーク
スタンプ行脚の旅なので、大体の所は押せる時間に限りがあります。
しかし、ここはいつでも押せるという事で、早朝に訪ねました。
2箇所目をスタンプ押す時間に回り切り、そして3つ目へ!作戦です。

【1】鎌刃城
という事で、今回は麓から登ることにしました。
はじめは下の地図の赤い登城路から攻めます。
駐車場は番場集落にある橋の脇です。
文章での説明は難しいので、下の地図をご参照下さいあせる
登城開始が朝の6時半という事で、まだ誰も来ていません。
普段の城跡巡りでは遅い方ですが・・・
スタンプ押せる時間があるので、この時間が丁度よいという計算です。

【2】鎌刃城
駐車場から南側の道です。
左へ入る道には、さっそく城跡への案内があります。
奥には大きく「鎌刃城跡」と書かれた看板と説明板があります。

【3】鎌刃城
上の写真で、左へ入る道の所にある案内です。
ここからも登城できますが、先にスタンプをゲットするためスルー。
帰りにこちらの道から下りて来ました。
下の地図の青い登城路がこっちのルートです。
後ほど紹介します♪

【4】鎌刃城
2つ上の写真で奥に見えた看板です。
ここでは3キロと書かれていますw

【5】鎌刃城拡大表示

上の写真に写っている説明板です。
城跡まではかなり距離がありますが、すでにこのような物が。
期待で胸がはちきれそうですラブラブ

【6】鎌刃城
スタンプのあるカフェを目指し、道を進みます。
この街並みの左側にそのカフェがあるのですが・・・
事前に見たストビューではよくわからず。
目を凝らしながら、通り過ぎないよう慎重に進みました。

【7】鎌刃城
しかし、そんな心配は無用でした合格
ストビューはちょっと古く、続100名城に選ばれる前のものです。
今はすぐにそれとわかる幟が表に立てられています。
(奥の幟に「鎌刃城」と大きく書かれていますあせる

【8】鎌刃城
目の前に来ても「カフェ」とはわかりませんでしたが・・・
幟のある壁際に、ちゃんとありましたヾ(*´∀`*)ノ

続日本100名城スタンプ設置場所
【9】鎌刃城スタンプ カフェ源右衛門の前
 所在地 滋賀県米原市番場1844
 押せる時間 いつでも可

ここにはスタンプだけでなく、秀逸なパンフレットもあります。
制作協力(のお願い)があり、100円払って来ました。
1万円札入れたい気持ち「だけ」はありましたけどあせる
城跡を散策した時に、このパンフレットがとても役立ちました。

【10】鎌刃城
スタンプをゲットし、今度は城跡へ。
源右衛門さんから少し進んだ所に案内があります。
・・・見えますか?

【11】鎌刃城
カーブミラーの所です。
ここも2.0kmです。
「約」ですからw

【12】鎌刃城
矢印に従って、素直に左を向いて下さい。
こんな光景が見えますが、この細道に入って行きます。
ここから下の地図の赤い線で示した登城路スタートです。

【13】鎌刃城登城開始から3分

その先に、高速道路をくぐるトンネルがあります。
パッと見では通れなさそうですが・・・
獣除けのフェンスなので、開けて通れます。
チェーンの巻き方に性格出るかもしれませんウインク

【14】鎌刃城登城開始から6分

トンネルから先は、次第に山道っぽくなって行きます。
要所要所に案内が出ているので、迷子になる心配はありません。
平坦な道が続き、さぁ山に入るゾという所にこれがあります。
真正面からの登城、久しぶりですwww

【15】鎌刃城登城開始から10分

ちょっと歩いたけど、まだ先だよなぁなんて思っていましたが・・・
登城路が細い尾根をぶった切って向こう側へ。
これって、切通しというより普通に堀切ですよね?
堀切大好きな私は、早くも現れたこの子に興奮ですラブラブ

【16】鎌刃城
せっかく堀切で反対側に回った登城路ですが・・・
すぐに尾根をまたいで元の側に。
そしてそのままゆるゆると登り続けます。
傾斜は緩いのですが、ずっと続くと流石にバテ気味に。

【17】鎌刃城登城開始から18分

一直線の登り坂に飽きた頃、道は鋭角に曲がって更に上へ。
九十九折れでも真っ直でも、登る時ってだいたいこんな角度ですよね?

【18】鎌刃城登城開始から20分

ただ、この小さな変化が大きな変化の始まりです。
鋭角に曲がって間もなく、窪みから尾根上に出ます。
これって虎口ですよね?

【19】鎌刃城
かなり大きな変化に、疲れは吹っ飛んでさらに登ります。

【20】鎌刃城登城開始から27分

反対側に回った尾根に変化が無いか見つつ登り・・・
正面にこの案内が現れます。
いきなりですが、大堀切です恋の矢

【21】鎌刃城登城開始から28分

下から見上げると、尾根の稜線が確かに凹んで見えます。

【22】鎌刃城
案内に従って登ると、かなり大きな堀切です。
元々傾斜がキツクなった所を掘った感じに見えます。

【23】鎌刃城
大堀切の奥まで進むと、今度は大石垣の案内が。
100メートルなら近いと、横移動開始です。

【24】鎌刃城登城開始から30分

100メートルだからすぐだよね?で辿り着いた所です。
足元に案内があり、どうやらここが大石垣のようですが・・・

【25】鎌刃城
石垣にコケが生えて目立たなかっただけのようです。
説明板によると、幅は30メートルに及ぶ規模だそうです。

【26】鎌刃城登城開始から35分

大石垣から大堀切に戻り、順路に従って登ります。
いよいよ鎌刃城の主要部に斬り込みます。
写真は大堀切を登り、北曲輪群に入る直前の城塁です。

【27】鎌刃城登城開始から36分

ようやく辿り着いた北VI曲輪の大櫓跡です。
木で組んだお手製の展望台が「おいでおいで」と声を掛けて来ます。
・・・本当に聞こえた訳ではありませんけどあせる
なぜか意固地になって、その誘惑を振り切りました。

【28】鎌刃城登城開始から36分

大櫓跡から見た主要部方向です。
北曲輪群の端から3つの曲輪は、細長~い曲輪が連なります。

【29】鎌刃城登城開始から37分

北曲輪の東側に、コの字形の石の列がありました。
石は階段状に積まれている所もあり、虎口でした。
虎口の外側には道があると思ったのですが・・・
そのまま急斜面になっていました。
知らずに慌てて飛び出すと、そのまんま落っこちますw

【30】鎌刃城
落っこちないよう端に寄って撮るとこんな感じです。
・・・虎口じゃなかったかもしれませんねあせる

【31】鎌刃城登城開始から41分

北曲輪を登って行くと、だんだん幅が狭く、段差も高くなります。
ここは北Ⅱ郭で、もう1つ上にも同じような曲輪があります。

【32】鎌刃城登城開始から42分

そして、一番上まで登った所が主郭です。
丸くて大きく、低い土塁で囲まれています。
真ん中より北寄りに、いくつか標柱があり、城址碑もあります。

【33】鎌刃城
主郭で一番の見どころは、北の端にある虎口です。
北曲輪にあったものよりも石積みが高いですラブラブ

【34】鎌刃城
ここでも落ちない程度に端に寄って撮ってみました。
こちらは正真正銘、石段のある虎口ですラブラブ
真後ろは2メートル程の段差になっていますけど。
2012年に来た時は、ほぼここしか見ていませんでしたあせる

【35】鎌刃城
さらに奥へ進むと、土塁が横一線にあります。
主郭内部からの高さは1メートル程です。

【38】鎌刃城
土塁の外側にあるものといえば堀切です。
主郭内部からは外側が見えなかったので、ちょっと期待しました。
こんな感じで、ここにはありませんでしたハートブレイク

【36】鎌刃城
主郭の先は南曲輪で、主郭のすぐ隣は三角形の細長い平坦地です。

【37】鎌刃城登城開始から46分

主郭から南I曲輪に下りた所に、林道への道があります。
下の地図にある緑の登城路が林道に通じる道です。
後ほど紹介します♪

【39】鎌刃城
南I曲輪を進むと、うっすらと痕跡的な堀切があります♪

【40】鎌刃城登城開始から47分

そこから西側の下を見ると、かなり長い帯曲輪があります。
図では特に名前が書かれていませんが、この先に西曲輪群があります。

【41】鎌刃城登城開始から48分

うっすら堀切の先にあるのが南Ⅱ曲輪です。
ここも真ん丸な感じで、一番奥に土塁が見えます。

【42】鎌刃城登城開始から49分

土塁は人の背の高さ程あり、手前に説明板と図があります。
今度こそ「土塁の向こう側」を見てみたい!

【43】鎌刃城登城開始から50分

ありました恋の矢恋の矢恋の矢
見事なザックリ堀切様です。

【44】鎌刃城
ここから先は、細尾根に断続的に堀切が続きます。

【45】鎌刃城登城開始から56分

山城らしい堀切を見た所で引き返し、林道までの道を辿りました。
これから下の地図の緑の登城路を紹介します♪
主郭の土塁脇から案内に従い進むと、細尾根の脇にある道に出ます。
この細尾根が、南曲輪から先に伸びていたヤツです。

【46】鎌刃城登城開始から57分

下から見上げると、時々こんな感じで堀切様が見えますラブラブ

【47】鎌刃城登城開始から59分

さらに進むと細尾根までの高さが無くなってきて・・・
道が堀切を通ります。
2012年にもここ通ったハズなんですけどね?
記憶にございませんショボーン

【48】鎌刃城
ここから先は尾根をたどります。

【49】鎌刃城
数十メートル進むと、林道に出ます。
前回はここから主郭まで見て来ました。
この林道は、米原ジャンクション脇から車で来れます。
ここから城跡を見るのが一番時間がかかりませんが・・・
「崩れた」とか「復旧した」という噂がチラホラ。
車だと離合が大変な個所もあるらしいです。
私は前回バイクだったので、あまり気にしていませんでしたあせる

【50】鎌刃城登城開始から1時間3分

林道からの緑の登城路への入口はこんな感じです。

【51】鎌刃城登城開始から1時間25分

緑の登城路から主郭・北曲輪群を通って戻りました。
そして、虎口?とはしゃいだここが、青い登城路との分岐です。
青い登城路の方には「蓮華寺」の案内が出ています。

【52】鎌刃城
分岐してから割とすぐに、細尾根道が超細尾根道になりました。
超細尾根道の麓側には「土橋」の案内がありました。
この道は、人工的に作り出されたものだったんですね!

【53】鎌刃城登城開始から1時間29分

その先は、堀底のように窪んだ道が続きます。
実は、青い登城路はあまりお勧め出来るコースではありません。
1つは、足元にコケが生えている個所がかなりあってとても滑ります。
私も1回、絵に描いたように見事な尻餅をつきました。
だから、コンビニ行くたびにお手拭きくれるんですよねあせるあせるあせる
もう1つは、蜘蛛の巣がたくさんありました。
あまり人が通らないようで、何度も顔面やられました。
目の前で慌てる蜘蛛を見て、眼鏡を投げ捨てそうになりましたあせるあせるあせる

【54】鎌刃城登城開始から1時間39分

足元のコケにおびえつつ、ようやくここまで下りて来ました。

【55】鎌刃城登城開始から1時間41分

獣避けのフェンスを開けて、スタート地点の駐車場が見えました。
ここは熊さんが出ると、あちこちに看板が出ていました。
これから訪ねる方は、熊避けグッズを持参してくださいくま


◆歴史◆

築城年ははっきりしません。

応仁の乱(1468~78年)頃に築かれたと考えられています。
当時は近江守護・六角家中で家督を巡る争いの最中でした。
大雑把に書くと、
・次男が当主と兄を討つ
→その次男が幕府に討伐される
→三男が幕府を後ろ盾に家督を継ぐ
→一門筆頭の京極氏が次男の子を立てる
といった感じです。
この頃の京極氏は、六角家から独立する過渡期だったのでしょうね。

鎌刃城の初見は1472年です

今井秀遠が堀次郎左衛門の鎌刃城を攻めたのが、史料での初見です。
今井秀遠は六角氏方で、堀次郎左衛門は京極氏方でした。
この2年前、京極氏の大黒柱・京極持清が没したためと思われます。
六角氏から近江守護の座を奪い、主導権を握っていたのが京極持清でした。
あまりに京極持清が圧倒的だったため、没後に京極家で家督争いが起きました。
劣勢だった六角氏ですが、家督争いがひと段落して攻勢に出た頃です。

以後の京極氏は、北近江の領主として六角氏から独立します。
鎌刃城はその境目にあるため、たびたび争奪戦が起きました。
近在の国人である今井氏や堀氏も、六角氏と京極氏の間を行き来します。

1523年、浅井氏が北近江の領主となりました。

京極家で家督争いが続き、嫌気が差した国人衆により追放されたためです。
当初は浅見貞則が盟主でしたが、専横が目立ち追放。
その後釜として、浅井亮政が盟主となりました。
その後、京極氏が戻りましたが、当主の座に戻ることは出来ませんでした。

鎌刃城主と見られる堀氏は浅井家に属しました。
一方の今井氏は、浅井家と六角家の間で翻弄されました。
当主が切腹させられたり、人質が殺されたり・・・
勢力境の国人って、本当に気苦労が絶えないですね。

1570年、堀氏が織田信長に寝返りました。

織田信長が朝倉義景を攻めたため、浅井長政との間に亀裂が走りました。
越前に攻め込んだ織田軍の背後に、朝倉氏の援軍として浅井軍が迫りました。
そのため織田信長は京へ逃れましたが、すぐに報復のため近江に攻め込みました。

そこでは小谷城は攻めず、喉もとの横山城を降して木下藤吉郎を置きました。
木下藤吉郎は周辺の国人衆を次から次へと調略。
鎌刃城の堀氏も織田方に寝返りました。

1571年、浅井軍に攻められますが、持ちこたえました。

美濃との境を塞ぐために配置した堀氏が寝返ってしまったのは、浅井氏には大打撃でした。
また、目の前の横山城を拠点に調略を仕掛けまくる木下藤吉郎は目障りでした。
そのため、浅井軍は鎌刃城の攻略を試みました。
鎌刃城を落とせば横山城は袋の鼠状態になるからです。
浅井軍は5千の兵で攻めたそうですが・・・
木下藤吉郎は横山城の守備を竹中半兵衛に任せ、自ら鎌刃城救援に向かいました。
ここで鎌刃城を守り切った事が重要だったと思います。
その後も木下藤吉郎は国人衆への調略を進め、1573年、ついに小谷城を攻め落としました。

1575年、廃城になったと思われます。

浅井氏滅亡後も鎌刃城は機能していたと考えられています。
それは、南近江の六角氏が依然としてゲリラ戦を展開していたからです。
1574年、織田軍が六角氏の鯰江城を攻め落とし、六角義賢が行方知れずとなりました。
これで近江での攻防戦はひと段落しました。

しかし、その直後に堀氏が改易されました。
これは越前での一揆鎮圧の際、堀直房が勝手に一揆軍と和議を結んだからでした。
このため羽柴秀吉は堀直房を改易しました。
堀直房を逃亡しましたが捕まり、一族ともども処刑されました。
以後、鎌刃城が史料に登場しなくなるため、この時に廃城になったと考えられています。


所在地:滋賀県米原市番場 GPSログダウンロードページ
滋賀県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

小谷城/滋賀県長浜市

小谷城は北近江の覇者・浅井氏が本拠とした山城です。
訪問日は2018年9月22日です。

【1】小谷城
まずは100名城スタンプを押しに小谷城戦国資料館へ。
前週に金山城へ行けたおかげで、開いてる時間に間に合いました。
当初の予定では、閉館時間に間に合うかどうかギリギリでした。

続日本百名城スタンプ設置場所
【2】小谷城 小谷城戦国歴史資料館
 所在地 滋賀県長浜市小谷郡上町136
 電話番号 0749-78-2320
 開館時間 9時半~17時(入館は16時半まで)
 休館日 火曜日(祝日の場合翌日)、12/28~1/4
 入館料 大人300円、小中学生150円


【3】小谷城
拡大表示
戦国歴史資料館の駐車場にある案内図です。
超巨大馬蹄形の尾根に沿って築かれていたんですね!
一番高い所にあるのが大嶽ですが、出城的な扱いとなっています。
行ってわかりましたが、読みは「おおづく」ですあせる

【4】小谷城
さて、戦国歴史資料館脇にも登城口はありました。
しかし、一縷の望みを賭けて戦国ガイドステーションに来てみました。
ここから舗装道があり、車でかなりの所まで登れるからです。
その入口には、大河ドラマ放映を記念したオブジェがありました。
重そうですw

【5】小谷城
一縷の望みと書きましたが、敢え無く撃沈えーん
城跡へのバスが運行される日は、一般車両は通行止めとなります。
バスの運行が終わっても通れないのは、前回(2012年)と同じでした。
バスが無い日は、番所跡まで車で登れますあせる

【6】小谷城
登城口です。
2012年はここに「一般車両通行止め」がありました。
このすぐ右に駐車場があるのですが、そこには停められません。

【7】小谷城
上の写真の案内図のすぐ左が大手道の入口なのですが・・・
バリケードが置かれ、通れなくなっていました。
そこには入山禁止の警告文が。
入山しただけで窃盗罪とは、かなりキツイですねガーン
人が沢山来る城跡でなければ、即退散する位に怖い内容です。
城跡は私有地にあることが多いので、春と秋は要注意です。

【8】小谷城
「車がダメなら大手道」計画も潰えたので、しかたなく舗装道へ。
こんな光景が、荒んだ気持ちを慰めてくれますw

【9】小谷城登城口から5分

出丸への案内も、どこかしら現代風ですw

【10】小谷城登城口から7分

せっかくなので、脇道から出丸に登りました。
この日は小谷城が最後なので、日が暮れるまで時間を気にしません^^

【11】小谷城登城口から9分

さて、出丸から舗装道へ戻りテクテク歩いていると・・・
車も通らない道でそりゃないよあせる

【12】小谷城
すぐ脇に、ここを通れと言わんばかりに大手道がありました。
ここからは舗装道より嫌いな階段がしばらく続きます。

【13】小谷城登城口から15分

大手道を登っていると、途中に間柄峠の案内があります。
1525年、六角高頼が小谷城を攻めた時、越前から援軍が来ました。
ここは援軍の朝倉家臣・真柄備中守が守った所だそうです。
ググってみると六角高頼は1520年頃没、真柄はなぜか間柄に。
「間柄峠」の標記は、地元では昔からなのだそうです。

【14】小谷城
間柄峠を上から見た所です。
微妙に道がクネッていて、虎口っぽい構造になっています。

【15】小谷城登城口から17分

間柄峠から少し登った所に、舗装道のヘアピンカーブがあります。
このカーブの先端が展望台風になっており、望笙峠と書かれていました。

【16】小谷城
望笙峠からは、虎御前山と琵琶湖がよく見えました。

【17】小谷城登城口から24分

大手道に戻ってさらに登ると、今度は金吾丸への脇道があります。
せっかくだからと登りましたが・・・
眺めがいい訳でも、カッチョイイ遺構がある訳でもありません。
完全に自己満足の世界ですw<

【18】小谷城登城口から25分

金吾丸から下った所が、舗装道の終点でした。
舗装道の終点という事は・・・

【19】小谷城
番所跡ですラブラブ
ようやく小谷城に主要部入口に到達しました。
比高200mの普通の山城なら、登り切る位の時間がかかっています。

【20】小谷城登城口から29分

番所跡の先には、虎御前山展望所があります。
1573年8月、織田信長はこの山に城を築いて小谷城を攻めました。
城を守っていた将兵達は、どんな思いでこの山を眺めたのでしょう。

【21】小谷城登城口から30分

番所から虎御前山展望所を過ぎると、今度は御茶屋という曲輪があります。
名前はのどかなのですが、由来はわかりません。
案外、名前の通りだったのかもしれませんけどあせる

【22】小谷城登城口から32分

御茶屋のすぐ上には馬洗池があります。
ここら辺からは、曲輪どうしがほぼ隣接するようになります。

【23】小谷城
馬洗池の脇には、土塁で囲まれた御馬屋という曲輪があります。
牧草地並みに草が豊かですが、もちろん真ん中にある説明板見て来ましたクローバー
説明板の脇にあるイラストは、御茶屋のものと全く同じでしたけどw

【24】小谷城登城口から34分

馬洗池のすぐ先には、道端に大きな岩があります。
これは首据石と呼ばれ、敵に内通した家臣の首を晒したそうです。
この手前から、赤尾屋敷に通じる脇道があります。
赤尾屋敷は浅井家重臣である赤尾氏が暮らしていた所です。
織田信長に攻められた浅井長政は、この赤尾屋敷で自害しました。
そうと知ってたら立ち寄ったんですけどあせる

【25】小谷城登城口から35分

首据石のすぐ後ろにあるのが、黒鉄門跡です。
建物が無くても、厳重な造りだった雰囲気は感じられます。
この門の中が本丸です。

【26】小谷城登城口から36分

黒鉄門の前には、桜馬場と呼ばれる広い曲輪があります。
上からは見えませんが2段になっていて、更に奥へと広がっています。

【27】小谷城登城口から40分

黒鉄門跡を抜けた所が本丸の大広間です。
ここに御殿などの建物が並んでいたそうです。

【28】小谷城登城口から42分

大広間の突き当りに本丸の石垣があります。
小谷城跡で見られる本格的な石垣はここからです。
前回(2012年)は、スズメバチを見てここで引き返しました。
スズメバチの習性を覚えたので、今度は見ただけではビビりません。
今回は見ませんでしたけど。

【29】小谷城登城口から44分

本丸の城塁脇を奥へ進むと、谷間的に開けた所があります。
実はこれ、大堀切なんです恋の矢
言われなければ規模の大きな谷と勘違いしそうです。
ここで山上部と本丸を区切っていたそうです。

【30】小谷城登城口から46分

大堀切を過ぎた所に横向きの石垣があり、その裏が通路になっています。
中丸の虎口です。
本丸側は特に虎口が無いので、こちら側の方が防御が固くなっています。

【31】小谷城
虎口から上がって見た中丸の様子です。
かなり広い曲輪です。
説明板によると、中丸は3段の曲輪で構成されているそうです。

【32】小谷城
奥の方は、このように段々になっています。

【33】小谷城登城口から53分

中丸の奥の狭い曲輪を上がると、土塁が開口した虎口が現れます。
ここは京極丸の虎口です。
京極丸は、浅井氏が主である京極氏を迎えるために築いたそうです。
・・・平たく言うと、監禁して傀儡にしたという事ですw

【35】小谷城
京極丸の特徴は、虎口から入ってすぐ見えるこの土塁です。
小谷城内にある土塁では一番高いものかもしれません。
周囲は傾斜がキツク、周囲から隔絶しやすい感じがします。
・・・思い込みかもしれませんけどあせる

【36】小谷城登城口から60分

京極丸の更に上には、小丸と呼ばれる曲輪があります。
本丸を過ぎても、更に上へと曲輪が並んでいます。
浅井長政の父・久政は、隠居した後はここで暮らしていました。
織田信長に攻められ落城した際にも、ここで自害したそうです。

【37】小谷城登城口から62分

小丸の上には、更に山王丸があります。
小丸から山王丸に向かうと、手前にその石垣が見られます。
山の高い所にありますが、かなり大きな石を積んでいます。

【51】小谷城
山王丸の石垣はよく残っています。
東側(登る時は右手)側面には、このようにまとまった石垣が見られます。
私は左側通行で登ったので、下る帰りに見ました。
現地では「大石垣」の案内が出ています。

【38】小谷城登城口から63分

石垣のある斜面を登った所が山王丸です。
ここもそこそこ広い曲輪です。
山王丸は4段の曲輪群から成り、小谷城主要部では最も高い所にあります。

【39】小谷城登城口から64分

山王丸最上段の土塁です。
下段から見えなくなるように設置されています。
土塁の真ん中辺りには、石垣も見えます。

【40】小谷城
山王丸の一番奥から見た所です。
最上段でも、まぁまぁの広さです。
普通の山城の主郭よりはかなり広いですけどw
さっきの土塁はかなりの存在感があります。

【41】小谷城登城口から65分

山王丸の一番奥にある虎口です。
虎口は虎口ですが、山道がここにつながっただけです。
特に防御的な感じはしません。
山王丸が小谷城では事実上の詰めの城だったからかもしれません。
私はここまでで登城を終えるつもりでしたが・・・
後から来た方が山王丸で私に追いつき、ここでUターンして帰りました。
・・・なんだか燃えちゃいましたメラメラ
本当は行くつもりはなかったのですが、さらに大嶽を攻める決意をしました。
ここから900メートルですが、二度と来ないなら行くしか無いですよね?

【42】小谷城
山王丸から見た大嶽(小谷山山頂)です。
1日城跡巡りしたのに、さらに登ろうなんて・・・
正気の沙汰ではありませんw

【43】小谷城登城口から69分

山王丸からは急な山道を下ります。
下ったら登り直すのですが、そんな事どうでもよくなってます。
正気を失ってますね?w
下り坂を下り切った所にかなり平坦地があります。
ここが六坊です。

【44】小谷城
六坊は細長く、かなり広い曲輪です。
その名の通り、政務や軍務に携わった6つの有力寺院を集めた所だそうです。
山王丸の更に奥はさぞ不便だと思いましたが・・・
清水谷からの道がここに通じています。
本丸を通らずに麓から登れるので、もしかしたら登りやすかったのかも。
小谷城が落城した時、羽柴秀吉は清水谷から京極丸に奇襲をかけています。

【45】小谷城
細長い六坊で大嶽までの距離を稼いだと思いましたが・・・
六坊の奥には、大嶽まで600メートルの案内があります。
ここから500メートル程は、奥に見えるような階段が延々と続きますあせる

【46】小谷城登城口から82分

大嶽まであと100メートルの案内を越えると、道がやや平坦になります。
登った後ちょっと下ったので振り返ると、横一線の土盛りでした。
どうやらここが大嶽の外周の土塁のようです。

【47】小谷城登城口から83分

土塁を越えて間もなく、大嶽城跡を示す標柱と説明板があります。
長い長い階段を登ってしんどかった思いが吹っ飛ぶ瞬間ですラブラブ

【48】小谷城
そのすぐ先に、それまでの曲輪と同じようにイラストがありましたが・・・
自然にこうはなりませんよね?
ひどい事をする人がいるもんですプンプン
ググってわかる範囲では、2016年12月までは綺麗でした。

【49】小谷城登城口から84分

大嶽城内をウロウロしていると、小谷山山頂のプレートがありました。
山頂ですからねぇ、この手のものは大抵あります。
・・・ちょっと機嫌悪いかもw

【50】小谷城登城口から88分

元々来る予定ではなかったので、大嶽の構造がわからず。
とりあえず外周の土塁を1周してみました。
土塁は高さ1.5メートル程で、山頂部分を1周しています。
何だか火山の火口みたいです。
現在見られる遺構は、1573年に朝倉軍が構築したものだそうです。

真ん中にある大嶽の標柱を、土塁を背景に撮ってみました。
苦労して登り切ってゴールに辿り着くと、とても気持ちがイイもんですラブラブ
だからといって、山キチには絶対なりませんけどw

◆歴史◆

築城年は定かではないのですが・・・
1525年、六角定頼が攻め込み、浅井亮政は小谷城に篭城しました。
この時既に城があったということですね。

六角定頼は観音寺城を本拠とし、南近江を支配していました。
一方、浅井氏は小谷城を本拠として北近江を支配していました。
浅井氏は元々は京極氏に仕える国人衆でした。
1523年に京極家から京極高清・高吉父子が追放されました。
この時に追放した国人衆のリーダー格が浅見貞則と浅井亮政でした。
しかし、浅見貞則は次第に専横的になり、国人衆達の反発を買いました。
そのため今度は浅見貞則が追放され、浅井亮政がリーダーとなりました。

このゴタゴタを利用し、京極家の傀儡当主に近づいたのが六角定頼でした。
京極氏は元々六角氏庶流なので、六角氏が攻め込む口実となりました。
この時は六角軍を撃退しています。

1534年、浅井亮政が京極高清・高延父子を小谷城に招きました。

六角定頼の侵攻を受けており、家中の分裂を避けるためと思われます。
元々はこの父子の不和が家中分裂の原因でした。
しかし、父子が和解したのは、実権を取り戻すことが目的だったようです。

1538年、六角定頼が攻め寄せ、浅井亮政は美濃へ逃れました。

お騒がせだった京極高清が、上平寺城で79年の生涯を閉じました。
傀儡とはいえ、主君の死が家中に及ぼす影響は小さい筈がありません。
これを好機と捉えた六角定頼が、再び小谷城へ攻め寄せました。
この陣中には家督争いに敗れた京極高清の次男・京極高吉も居ました。
城を包囲された浅井亮政は美濃に逃れ、六角軍が退いてから城に戻りました。
近江では国人達の連携がよく、本城を落とされても復帰することが多いようです。

1541年、浅井家で家督争いが起きました。

浅井家
浅井亮政が病に倒れると、浅井家中で家督を巡る争いが起きました。
浅井久政は側室の子でした。
家中で支持を集めたのは、正室の娘の婿・田屋明政でした。
浅井久政はこの時、家督に興味が無いような言動をしていたそうです。
最近見直されつつある浅井久政ですが・・・
暗愚と評されたのには、それなりに理由がありました。

この争いに付け込んだのが京極高延でした。
京極高延は田屋明政に加勢し、当主の座を狙ったのかもしれません。
しかし、ここで浅井久政が驚きの一手を打ちます。
それは・・・何と・・・六角定頼の軍門に降るという禁じ手でした。

これは見事というか、完全に想定外ですね。
父の代に何度も攻め寄せてきた六角定頼の力を逆手に取りました。
これにより家督争いを制した浅井久政が、浅井家の家督を継ぎました。

1560年、野良田の戦いで浅井軍が六角軍に大勝しました。

浅井久政の嫡男・新九郎が15歳となり元服を迎えました。
六角義賢は自らの名から一文字与え、「浅井賢政」と名乗らせました。
「浅井賢政」では誰も知りませんが、浅井長政の事です。
六角義賢は重臣・平井定武の娘を浅井賢政に娶らせました。
手中に収めた浅井家の跡継ぎを、六角義賢は手放したくなかったんですね。
当然と言えば当然ですがw

浅井久政の長年の弱腰外交に、浅井家中では不満がくすぶっていました。
浅井賢政が反六角派の同志を集め、独立の動きを見せました。
すると、浅井賢政は観音寺城を脱出し、小谷城に戻りました。
そして名を新九郎に戻し、平井定武の娘を親元に返しました。

六角義賢は激怒し、京極高吉を大将に2万5千の兵力で侵攻。
一方の浅井新九郎が集めた兵力は1万1千で、六角軍の半分以下でした。
しかし、見事な戦いぶりに浅井家一同心酔したそうで・・・
落ち目の六角家を見限り、浅井家に寝返る国人衆が続出しました。
2ヶ月後、国人衆は浅井久政を竹生島に幽閉。
浅井新九郎改め長政を、新たな浅井家当主として迎えました。

1565年、織田信長と同盟を結びました(1568年説あり)

きっかけとなったのが、後に将軍となった足利義秋(=義昭)です。
1565年、将軍・足利義輝の暗殺後、足利義秋が六角氏を頼りました。
しかし、六角氏が三好三人衆に通じていることを知ると近江を脱出。
越前の朝倉義景を頼りましたが、上洛する気配がありません。

ちょうどその頃、織田信長が美濃を攻略していました。
美濃攻略には、向こう側の近江を味方にするのは当たり前ですね。
ただ、織田家との同盟には浅井久政や重臣・遠藤直経らが反対しました。
織田信長が浅井家の盟友・朝倉家と仲が悪かったのです。
浅井長政も、まさか織田信長が朝倉家を滅ぼすとは思わなかったでしょう。
この同盟に当たり、絶世の美女と謳われた信長の妹・市が嫁入りしました。
同盟に反対する浅井家中も、これで信長の気合いに負けたのでしょうね。

1567年、織田信長が美濃を制圧
1568年、浅井長政が織田信長とともに足利義昭を奉じて上洛
ここまでは良かったんですけどね・・・

1570年、小谷城下の姉川で、織田信長と戦いました。

発端は、織田信長が朝倉義景の金ヶ崎城を攻めたことです。
織田信長は、徳川家康や松永久秀らとともに琵琶湖西岸を北上。
領内を北へ進む織田軍を、なぜ浅井長政が通したのか・・・
それは、表向きの理由が若狭の武田家討伐だったからです。
そのためだったのかもしれませんが・・・
織田軍が盟友・朝倉家の金ヶ崎城を攻め落としました。

織田軍の盟約違反に、浅井長政は黙っていませんでした。
すぐさま朝倉救援軍を編成し、織田軍に襲い掛かりました。
北の朝倉軍と南の浅井軍に挟み撃ちにされ、織田軍は急遽撤退しました。
これが金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いです。
これにより、織田信長と浅井長政の同盟が破棄されました。

京へ逃げ帰った織田信長は、体勢を立て直すとすぐさま報復。
姉川での戦は織田・徳川軍が勝ちましたが、小谷城は攻めませんでした。
それは小谷城が堅城で、無理に攻めても兵力を消耗するからでした。
織田軍は麓にある横山城を攻め落とし、木下藤吉郎を城番にしました。

1573年、小谷城が織田信長に攻められ落城しました。

姉川の戦には敗れましたが、小谷城とその支城は健在でした。
そのため、織田軍は小谷城を包囲出来ない状態が続いていました。
この状況を打開したのが、横山城に入った木下藤吉郎でした。

木下藤吉郎は、浅井家に従う国人達を根気強く口説き続けました。
その結果、磯野員昌や宮部継潤などの重臣クラスも寝返りました。
こうして織田方の国人が増え、山本山城の阿閉貞征も寝返りました。

山本山城は小谷城の支城で、琵琶湖東岸を通る街道を押える城です。
この城が手に入った事を知ると、織田信長はその日の内に出陣しました。
織田軍が小谷城を攻めると朝倉軍が援軍に駆けつけますが・・・
山本山城が織田軍に占拠されており、小谷城に近づけませんでした。

朝倉軍が状況を把握して移動しようとした所を織田軍が急襲。
朝倉軍は総崩れとなって撤退しました。
この機を逃さず織田軍は追撃し、朝倉義景を滅ぼしてしましました。

朝倉家を滅ぼした織田軍は小谷城に戻り、城攻めを再開しました。
木下藤吉郎隊が清水谷の急斜面から、京極丸を攻め落としました。
京極丸は本丸より奥まった所なので、籠城側には想定外でした。
これにより城内で浅井父子の連携が絶たれ、小谷城は落城しました。

この活躍により、木下藤吉郎は浅井家旧領の12万石を与えられました。
木下藤吉郎は、この時に羽柴秀吉に改名しています。

1575年、小谷城は廃城となりました。

羽柴秀吉は、北国街道と琵琶湖に面した今浜に新たに城を築きました。
この時に地名を「長浜」に改め、小谷城は廃城となりました。


所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部 GPSログダウンロードページ
滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示

大溝城/滋賀県高島市

大溝城は琵琶湖西岸の乙女が池の畔にありました。訪問日は2012年8月5日です。

大溝城/01城跡への入口
▲城跡の入口

大溝城/02三の丸碑
▲三の丸の石碑

大溝城跡へは近江高島駅口交差点手前の陽光の里の脇から入ります。写真の所に「←大溝城跡」の案内があり、足元には三の丸跡の石碑もあります。

大溝城/03説明板
拡大表示

大溝城/06図
▲説明板と図(拡大表示)

途中に絵入りの綺麗な説明板があります。そこには詳しい説明と天守のイラストの他、当時の縄張りが描かれています。訪問した時はなんでこんな曲がりクネッた細い路地を通るんだろうと思っていましたが・・・この図とGoogle Mapを並べて見ると、城の入口から天守までの通路はほぼそのままでした。ということは、跡形もなく市街地になっているようで、実は地形はそのままという事ですね。

大溝城/04城址碑と説明板
▲城址碑

大溝城/05天守台
▲天守台石垣

生い茂る草野原をグルッと回り込み、ようやく石垣に辿り着きました。すると、木陰に城址碑と説明板がありました。この城址碑どっかで見たのとソックリ・・・だけど、気のせいという事に。石垣は大きな石がゴロッゴロッと積まれたような感じ。400年以上もの歳月を経て崩れていないのが不思議な感じがしました。


◆歴史◆

1578年、織田信澄により築かれました。

織田信澄は織田信長の弟・信行の嫡男です。織田信行は謀反の疑いで兄・信長に殺されましたが、信澄は厚遇されました。安土城の築城では丹羽長秀とともに普請奉行を務めた程です。

織田信澄は浅井家の旧臣・磯野員昌の養子になっていました。磯野員昌は浅井家中きっての猛将でしたが、織田信長に城を囲まれ降伏しました。それ以来、越前一向一揆の鎮圧などで活躍し、湖西の高島郡を与えられていました。ところが、1578年に出奔したため、養子である織田信澄にその所領が引き継がれました。

出奔の原因は謎のままですが、養子の信澄に家督を譲るよう強要されたとする説があります。磯野員昌は新庄城を居城としていましたが廃城とされ、代わって大溝城が築かれました。大溝城の縄張りは、織田信澄の義理の父となった明智光秀が行いました。こうやって登場する人物を見てると、いかに信澄が厚遇されていたかがわかりますね!

1582年、織田信澄が自刃しました。

織田軍にあっては遊撃部隊として活躍した織田信澄でしたが・・・突然悲劇が襲います。妻の父・明智光秀が本能寺の変で織田信長に謀反を起こしました。織田信澄はこの時、四国へ出陣する途中で大坂に居ました。そこへ明智軍への加勢を恐れた織田信孝の軍勢が攻めかかり、信澄は自刃して果てました。

織田信澄自刃の後、丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親と短期間で城主が交代しました。
1585年、京極高次が九州征伐の功により城主となりました。
1590年、京極高次が八幡城主となり、大溝城は無城主の城となりました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

廃城後も陣屋が置かれ、1619年に分部光信が大溝藩主となりました。分部氏は明治まで大溝藩主を務めましたが・・・財政は苦しかったようです。


所在地:滋賀県高島市勝野

滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示

小倉城/滋賀県東近江市

小倉城は近江と伊勢北部を結ぶ八風街道を押える要衝にありました。訪問日は2012年8月4日です。

小倉城/01石碑群

小倉城/02城址碑
▲城址碑

地図で見るとポツリと集落があり、その真ん中の道の道を行く感じです。うっすら覚えているのは、その曲がる所にある野菜の倉庫が目印でした。思いのほか迷わず辿り着けたと記憶しています。

県道から集落の真ん中を真っ直ぐ進み、その突き当たりに写真の石碑群があります。石垣はどう見ても近世のものですが、雰囲気的に「あっ、ココだ!」とすぐ分かりました。ここの城址碑も形が個性的で、カッコイイですねヽ(´∀`)ノ

小倉城/03説明板
▲説明板

そのすぐそばには綺麗な説明板があります。真新しい感じがしたのですが、愛東町は2005年に合併して東近江市になりました。・・・ということは、その直前ぐらいに設置されたのでしょうか。ちゃんと屋根までついていて、とても大切にしている様子が伺われます。

ここの城跡も曲輪や堀切、空堀がすぐ近くにあるそうです。1年半前の私は興味がなかったようで、、、勿体無い事をしました 。゜(゚´Д`゚)ノ


◆歴史◆

小倉城は承暦年間(1077~80年の間)に、小倉景実により築かれました。

小倉景実は清和源氏の末裔で、愛知郡小椋庄に城を築き土着しました。景実の孫・小倉実郷は源頼朝に従い、愛知、神崎、蒲生の3郡を安堵されました。蒲生氏とは所領が隣接しており、婚姻関係を結んでいました。応仁の乱の際に小倉氏は蒲生氏と同調し、京極方として東軍に属しました。

1520年頃、小倉氏は庶流が派生して、小倉城は小倉東家の居城となりました。小倉宗家は南の佐久良城、小倉西家は東にある山上城を本拠としました。地図見てると小倉城と山上城の位置関係から、東西が逆っぽい気がします。なぜなのかとっても気になりましたが、答えは見つかりませんでした (((´・ω・`)

この頃になると、庶流は六角氏の被官化しており、宗家と対立するようになりました。そして1560年代に六角氏と浅井氏が争い始めると、小倉家中も分裂して争いました。

1564年、小倉氏が蒲生氏の配下となりました。

小倉氏と蒲生氏は互いに婚姻関係を結ぶ対等な関係でした。この時の小倉宗家の当主は小倉実隆で、蒲生氏から迎えた養子でした。しかし、小倉氏は宗家と庶流で戦うようになり、当主を含め多数の犠牲を出しました。弱体化した小倉氏は、討死した小倉実隆の実家である蒲生氏を頼ったのかもしれません。

1570年、小倉城が六角軍により攻め落とされました。

しかし、宗家と庶流の溝は埋まらなかったようで・・・この年に織田信長は、越前の朝倉氏を攻め、浅井軍に背後を取られて敗走しました。この時に東家の小倉実房は、織田方の兵が八風街道から尾張に抜けるのを助けました。織田信長は当時六角軍と戦っており、六角方からは見過ごせない事態でした。このため、小倉東家は六角軍の討伐を受け、小倉実房は討たれ、小倉城も落城しました。小倉実房の妻・なべと子の小倉甚五郎、小倉松寿は、尾張に落ち延びました。

その後、なべは織田信長の側室となり、子は織田信長の家臣となりました。小倉甚五郎のその後はよくわかりませんが・・・松寿は本能寺の変の際に京におり、変を聞きつけて本能寺へ向かいました。そこで明智軍と戦って討死しました。

小倉宗家は蒲生氏郷に従って命脈を保ちました。しかし、蒲生氏郷の子・秀行が改易された時に出奔し、大坂の陣で討死したそうです。


所在地:滋賀県東近江市小倉町

滋賀県の城跡/なぽのホームページを表示

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR