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菅原城/群馬県富岡市

菅原城は、まだ登城路が紹介されていない山城です。

訪問日は2018年12月9日です。



真冬並みの寒さということで、菅原城跡へ行ってきました♪

前回訪ねたのは2014年11月で、南側から断崖を直登しました。

当時ネットで紹介されていたのがそこだけだったのですが・・・

最近「集落から登れる道がある」とコメントを頂きました。

ヒントはこれだけですが、私、こういうの燃えますメラメラ



今日は他に予定も無いので、とことん攻めて来ました。

それでわかった攻略コースは、全部で3つありました。

・・・なぜ誰も紹介しないんだょぉ(# ゚Д゚)b



ということで、まずは大本命の北からのルートを紹介しますラブラブ

下の地図で赤い線で示したのが北からのルートです。



【北1】菅原城



城跡を訪ねる際、毎回気になるのが駐車場所だと思います。

名もなき山城に駐車場などあるはずもなく、毎回苦労します。

今回は北側から攻めたので、その登城口の付近をウロウロしました。

それで見つけたのが写真の場所で、下の地図の赤い線の左上端です。

川の左手前の道はすぐに終わっているので、安心して停められます。

複数台の車で訪ねる場合でも、奥に詰めれば3、4台は停められます。



【北2】菅原城



ここが、ストビュー見まくって一番可能性が高いと思った道です。

結果は大正解でした合格

私はバイクだったのでここは登りませんでした。

車なら、100メートル程登った所に1台停められるスペースがあります。

一見キレイな道に見えますが・・・



【北3】菅原城



カーブを曲がると、こんな感じになります。

上の方まで車で登るのは、あまりオススメ出来ません。



【北4】菅原城



草がだいぶ生えた道を登ると、杉林の中を通ります。

その左側が、こんな風に見えます。

右側も段が落ちて行くのが見えます。

城跡に関係するものなのか、そうでないのかは???ですあせる



【北5】菅原城



杉林の中で、道は大きく右へカーブします。

ここで、矢印の所に山中に入っていく道が見えました。



【北6】菅原城



近づくとこんな感じです。

誰も登城路を紹介していないので、正しいのかどうかは???でした。

城キチの直感は、こっちなんだろうな~なんて思いました。

根拠なんてありません。

正解でしたけど(*´▽`*)



【北7】菅原城



山中に続く道は、軽く行ったり来たりの九十九折れでした。

大して標高を稼ぐ訳でもなく、傾斜がキツイ訳でもなし・・・

割とすぐに道が左右に分かれますが、左へ進むのが正解です。

ここも勘が当たりました(*´▽`*)

帰りに右の道も見て来ましたが、すぐに谷に突き当たりました。



【北8】菅原城



左の道を130メートル程進むと、道の右側にこんな細尾根が現れます。

ここから登れそう?だと感じましたが、道はまだ先に続いています。

とりあえず道を進むこととしました。



【北9】菅原城



そのすぐ先で道は右に曲がり、真正面に谷が現れました。

道はココで終わっていました。

ただ訪ねるだけなら、まっすぐ登れない高さと傾斜ではありません。

前回は絶壁をカベチョロのように登ってみせましたのであせる

今回は道を探すのが目的なので、ここはパス。

先ほどの細尾根で標高を稼ぐこととしました。



【北10】菅原城



細尾根を登り切った所がココです。

山上の平坦地に出ましたヾ(*´∀`*)ノ

左前方には、入口を抑えるためと思われる曲輪が見えます。

城の主要部はここから左ですが、右へ進むと堀切が3つありました。



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次は西からのルートです。

下の地図で緑色の線で示したのが西からのルートです。



【西1】菅原城



前回もですが、菅原城跡の西側を越える道がとても気になっていました。

この道は東西に長い山を「ヨッコラショ」と越えて南北に通っています。

そのため、道と稜線の高低差があまりありません。

そう思い城跡から西へ西へと進むと、ちゃんと道に辿り着きました。

ということで、逆巻きで城跡までを紹介します。



【西2】菅原城



ここは峠のようになっていて、そのテッペンに車を停められます。



【西3】菅原城



城跡へは、東側の北端から辿って行けます。



【西4】菅原城



とは言っても「道」がある訳ではありません。

何となく辿って行ける、幅30センチ程の踏み跡があるだけです。

山中に入ったら、この踏み跡を辿ってひたすら高みを目指します。



【西5】菅原城



高みに登り切ったら、こんな感じになります。

幅5メートル程の稜線を、ただひたすら辿って行きます。

最初にガッツリ登るので、ここから城跡まであまり高低差はありません。



【西6】菅原城



高低差は無いのですが、ちょっとだけ笹が茂っている箇所があります。



【西7】菅原城



ちょっとだけ茂っていますが、踏み跡は明瞭なのでちゃんと進めます。

冬じゃないと入って行きたくないと、私は感じますけどあせる



【西8】菅原城



笹の茂った所を通り過ぎると、ちょっとした高みがあります。

こちら側のルートの特徴ですが、こうした高みは脇を通ります。

高みに登ってもいいのですが、何も無くただ下りるだけです。

ぽっこり高みの右脇に、避けて通った踏み跡が続きます。



【西9】菅原城



次の高みは、上の方が草木で覆われています。

なので、ここは言われなくても脇に避けます。

ただ、ここはちょっとわかりにくくなっています。

山城なので、城がどっちなのかわかりやすくてはいけませんけどあせる



【西10】菅原城



高みを右へ避けると、三日月形の細長い平坦地があります。

なんとなくこっちに進みたくなりますが・・・

先端まで来ると、その先には進めません。



【西11】菅原城



この高みにも右脇に踏み跡がありますが、薄くてほぼ見えません。

何となくですが、城跡への道を隠す馬出しのように見えます。



【西12】菅原城



その先に、道を遮るような土の壁が現れます。

注目すべきはその手前ですが・・・



【西13】菅原城



堀切様がいらっしゃいますラブラブ

前回ここでは堀切様に会ってなかったので、来て良かったデス恋の矢恋の矢恋の矢



【西14】菅原城



次はこんな堀切様



【西15】菅原城



そしてその次はこんな堀切様です。

大きな堀切様だけ紹介しましたが、小さいのもいくつかあります。

堀切様と堀切様の間は高みになっています。

これどうやって登るんだ?という位に険しいですが・・・

脇を通る踏み跡がどこもあります。

その先で、北から登って来た道と合流します。



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次は南からのルートです。

下の地図でオレンジ色の線で示したのが南からのルートです。



【南1】菅原城



南側から城内へ行けるルートの入口が、県道51号沿いのココです。

前回直登した所からは、おおよそ300メートル程西側です。

知っていた訳ではなく、下りて来たらココに辿り着いただけですあせる

ということで、逆巻きで城跡までのルートを紹介します。





【南2】菅原城



白コンクリートの農道をコの字形に進むと、山に向かう道があります。

こちらへ入って行きます。

(こちらから下りて来ましたw)



【南3】菅原城



奥へ進むと、笹薮を薙いだ道があります。

この奥には立派なお墓が2基あります。

「お邪魔します」と、ご挨拶を忘れずに!



【南4】菅原城



お墓の右奥から奥へ進めます。

道ではないのですが、下草も無く、足元も苦になりません。

左の木にある白い物は、群馬県が貼った保安林を示すものです。

ここから山に入って行く人がいるという事ですね!



【南5】菅原城



さらに奥は、谷底を進むようになります。

こんな感じで倒木が積み重なりますが・・・

こんなの、お子様のアスレチックみたいなものです。

と、ある城キチは申しておりました(`・ω・´)v



【南6】菅原城



谷底を奥まで進むと、正面にミニ砂防ダムっぽい石積みがあります。

ここまで来たら、右側の斜面を登ります。



【南7】菅原城



下りてくる時は踏み跡がありましたが・・・

下から見ると、上がって行く踏み跡は見えません。

とりあえず、10メートル程斜面を登ります。



【南8】菅原城



すると、幅30センチ程の横一線の踏み跡が現れます。

この踏み跡を、下から見て右方向へ進みます。



【南9】菅原城



しばらく進むと、踏み跡の幅が広くなります。



【南10】菅原城



踏み跡を辿って進み続けると、腰曲輪に辿り着きます。

ここからは腰曲輪から腰曲輪へ、踏み跡を辿って上がって行きます。



【南11】菅原城



最上部の石灯篭のある所から見た、そのすぐ下の腰曲輪です。

菅原城内で一番大きな曲輪は、南側の斜面にあります。



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最後に、要らぬ苦労ばかりした前回のブログです。

下の地図でグレーの線で示したのが直登ルートです。



菅原城は今まで行った中で一番危険な所かもしれません。

訪問日は2014年11月23日です。



危険」とか「やめた方がいい」と言われても、行く奴は行くもの。そういうオバカさんが城キチというもので、ここに1匹居ますからあせる山城シーズンに入りココに来る人も居ると思うので、書こうと思いました。



何が危険かというと・・・

①武者返しのような岩場。ここは絶対登らないコト!

②熊。遭遇しませんでしたが、新鮮な糞がありました。熊鈴を忘れずに!

③オオスズメバチ。デカイのを2回見ました。絡まれたらゆっくり後退しましょう。


菅原城/①北東側からの遠景

▲北東側からの遠景



訪問前に色々調べはしましたが、やっぱり現地で迷いました。ここは登城路が無く、険しい山肌を直登するのは知ってましたが・・・それを承知で読んだ数々の登城記、やっぱり文章でルートを説明するのって難しい。なのでうっすらですが、記憶を辿った感じは↓です。



菅原城/国土地理院の地図



菅原城/②城山橋

▲城山橋



色々グダグダ書くので、最初に安全と思われるルートを書きます。

このルートは下った時のルートを逆に書いてます。



まずは県道51号沿いにある小さな橋(城山橋)を目指します。

近くに駐車スペースが無いので、少し北東の庚申碑の前がいいと思います。

(地図右上の青です)



菅原城/③ここから登る

▲城山橋の正面(県道51号の北側)



コンクリートの切れ目の所にちょっとだけ丸太が積んであり、そこから入ります。

藪っぽく見えますが、かすかに残る踏み跡を辿ります。



菅原城/④ちょっと登った所にある石垣

▲後世に積んだっぽい石垣



あちこちに書かれている「竪堀っぽい」地形があり、20m程登った所に石垣があります。



菅原城/⑤竪堀っぽい地形

▲竪堀っぽい地形。道に見えたらあなたも城キチ



ここから見上げると平場があるので、次から次に辿る感じで頂上まで登れます。





ここからは悪戦苦闘記です。



よく登城口として紹介されている庚申塚はかな~り上の方です。

地図だと右上の方にある青いの所です。



菅原城/⑥庚申の石碑

▲よく登城口として紹介されている石碑



そこから「竪堀っぽい所」をまっすぐ登れとよく書かれているのですが・・・

そんなのあちこちにあり過ぎて、どれの事なのかサッパリ判らず。



菅原城/⑦見上げたところ

▲石碑の辺りから見上げるとこんな感じ



おまけに、小さな平場もあちこちあるので「ここ?」と思いながら登りました。

]間伐材のお手入れをしたのか、人が歩いた形跡も多々ありました。



菅原城/岩盤が行く手を塞ぐ

▲まっすぐ登ると横一線に岩盤が立ち塞がります



その結果、行く手を岩場に阻まれて窮地に。

この岩場、とても滑りやすいので強行突破は止めましょう。

下は20m程の急斜面なので、ちょっと滑ったらタダでは済みそうにありません。



菅原城/⑨見下ろすと急斜面

▲ここで下を見下ろすといい感じで急斜面w



上にも進めず、かといって下を見ると「どうやって下りるんだ?」という状況。

「進退窮まる」ってこういう事なんだ、と妙に落ち着いてましたけどw


さてどうしよう?と思案。

上にも下にも行けないなら横へということで、左側(南方向)へ横移動しました。

すると、踊り場のような尾根が見えて来たので、とりあえずそこまで移動しました。



菅原城/とりあえず尾根へ

▲岩盤を避けて左へ左へと横移動して辿り着いた尾根



この尾根から上に進めるかと思いましたが、ここも上に岩場があり駄目そう。

さてどうしよう?と何度目かのシンキングタイム突入です。

ここまで来て勇気ある決断!とならないのが悪い癖です。

良い子は絶対マネしないで下さいね。



進退窮まると、なぜか見えちゃいけないものが見えてくる私。

じ~っと周りを見渡していたら見えちゃいました。

道っぽいのが10m程下に!



菅原城/⑪見下ろしたら見えた道

▲尾根から見下ろしたところ。

道に見えます?www



上に登れるなら!と一旦下ると・・・

平坦な道ではなく、竪堀っぽい急な坂でした。

しかし、これが良い結果につながりました。

この窪んだ坂を登ると、ちょっとした平場に出たのです。

すると、更に数m上の方にも平場がありました。

そちらに向かって人が歩いた形跡があります。



やっと城域に!



菅原城/⑫初めての郭

▲初めて辿り着いた郭



いくつかの小さな人工的な平場を過ぎると、今度はかなり広い平場に出ました。

ここが6郭です。

削平は若干甘いのですが、斜面に築いた一時的な感じではありません。

ここに辿り着くまで相当苦労したので、一気にテンションアップ上がりました



菅原城/⑬壁に見えた土塁

▲壁に見えた土塁



この郭からどう上がって行くのか?

辺りを見渡すと、どう見ても一番傾斜のキツイ所に踏み跡が続いていました。

なんでわざわざこんな急な所を登るんだろう、と思いつつ登ると・・・

この急斜面が実は土塁でした!

高さは5m程あります。

6郭側からはただの斜面にしか見えませんでしたが、巨大な土の壁だったんです。



菅原城/⑭土塁の反対側にも郭

▲土塁の反対側にも郭が!



土塁を隔てて更に広い5郭がありました。

広さは6郭の倍はありそうです。

ただし、登城路はこちら側ではなく、土塁上から真っ直ぐ上に向かっていました。

道を見つければあとは辿るだけということで、ここは素直に上へ歩きました。



5郭の上に3郭があり、その奥に4郭があります。

ただし、登城路は4郭には向かわず、真上に有る2郭へと向かっています。

どうやら皆さん考える事は同じで、ここまで来ると目指すは頂上!ですねw



菅原城/⑮頂上手前にある祠

▲頂上の手前にある祠



2郭の端から更に上がると、それまでと雰囲気が変わります。

それまでの郭は平らで広くて郭っぽいです。

しかし、最上部は細長い尾根を削っただけのような感じになります。



踏み跡を上がって細長い平場の先端に行くと、そこには小さな祠がありました。

Uターンして緩~い坂を登ると、2m程のこんもりした所が見えてきました。

ここが山頂です。

特に何も無く、自己満足に浸れるだけの場所でしたw





◆歴史◆



「菅原城」でググっても歴史らしい歴史を書いたサイトは殆ど皆無。

おし、久しぶりに登城記だけで済む!と思いきや・・・

唯一のキーワード「高田憲頼」でググると、菅原城の事も書かれていました。

菅原城は山内上杉氏の重臣・高田(たかた)氏の城でした。

高田氏は清和源氏で、平安時代末に美濃から移り高田姓を称した高田盛員を祖とします。

高田氏はもうちょっと東にあった高田城を本拠としました。



菅原城は築城年不明です。

戦国時代に高田氏が拠っています。



1547年、高田憲頼が信濃国志賀城で武田軍と戦い討死しました。



信濃攻略を目指す武田晴信が佐久郡制圧のため、志賀城を攻めました。

志賀城主・笠原清繁は高田憲頼と血縁があったため、憲頼は援軍として志賀城に入りました。

また、憲頼は主君・上杉憲政にも援軍を要請しました。

河越夜戦で北条氏康にコテンパンにやられた直後なので、反対も多かったようですが・・・

この上杉憲政の発した3000人の志賀城救援軍は、小田井原で武田軍に壊滅させられました。

頼みの綱を失った志賀城は落城し、高田憲頼も討死しました。



その後、徐々に上野国を北城氏康に侵食され、1550年代に上杉憲政は越後へ逃れました。

高田氏はそのまま領地に残り、北条氏に抵抗を続けたと思われます。

1560年に長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東を攻めた際、高田繁頼も上杉軍に参加しています。



1561年、菅原城が武田軍に攻められました。



この年に西上野の雄・長野業正が没し、武田晴信による上野攻略が始まりました。

菅原城も武田軍に包囲され高田繁頼は抵抗しましたが、降伏して開城しました。

以後、高田氏は武田家臣となりました。



廃城時期も不明です。



高田氏は1582年の武田氏滅亡後は後北条氏の家臣となりました。

さらに、1590年の後北条氏滅亡後、高田直政は信濃塩田村に移り住んだそうです。

そのため、この時に廃城になった可能性が高いと思います。





所在地:群馬県富岡市妙義町菅原 GPSログダウンロードページ



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※北からのルートは赤色の線、西からのルートは緑色の線、南からのルートはオレンジ色の線で示しています。

岩櫃城/群馬県東吾妻町

岩櫃城も、2017年4月6日に続日本100名城に選出されました。
スタンプをもらいに行ったのは、2018年4月28日です。



平沢登山口にある案内所です。
「〇〇登山口」といっても、ここしか知りませんがあせる
ここに、続日本100名城スタンプがあります。

続日本100名城スタンプ
 設置場所
 平沢登山口案内所
 開いている時間 9時~16時
 お休み 12月~3月
 入場無料

当初はここでスタンプを押すだけの予定でした。
しかし、GW初日なのに思いのほか早く到着。
案内所が開くまで1時間半・・・あせる
という事で、暇つぶしに再び城内を見て来ました音譜




まずは、案内所の脇にある天狗丸。
相変わらずの畑でした。



登城口も、前回来た時と同じです。



中城の手前の登城路です。
ここも変わらず。



中城は、手前の藪がキレイに刈り取られていました。
こうやって見ると、真田本城の緩い段々に似ています。



中城の奥から上に伸びる堀底道です。
ここも大河ドラマの幟が増えたくらいですw



ココにある等高線入りの案内です。
前回見ていなかった「殿邸」を見ることにしました。



ここは中城からの比高も少なく、少しだけ下ります。
その道の途中で、城側に竪堀が3本見えます。
こちらには人があまり来ないと予想したようですw



3本目の竪堀までは道がハッキリしていたのですが・・・
その先は、こんな感じで道が無くなります。
しかし、この藪の先に、殿邸らしき大きな腰曲輪が見えます。
続100名城で、まさかまさかの藪掻き決定ですクローバークローバークローバー



ほんの数メートル藪掻きをすると、その先に削平地がありました。
どうやらここが殿邸のようです。
「殿」と付くだけあって、かなりの広さです。



中城脇まで戻り、堀底道を登ります。
登りきると道は平たんになり、二郭の下を通ります。
これは二郭の下にある堀切で、登城路から見えます。



そして、ようやく主郭下まで辿り着きました。
丁度、途中道を譲っていただいた方々が登っていました。
あちこち寄り道していたので、追い越されていましたあせる
ということで・・・



真正面の横堀の底を進み、突き当りから主郭方向を見上げました。
これが、敵兵目線の岩櫃城なのかもしれませんラブラブ
写真では伝わりませんが、かなり高いですよー!



ズンズン堀底道を上がり・・・



一番奥から見た二郭と主郭の間の堀切です。



ハイ、主郭です♪



前回は主郭でUターンしたので、その奥まで見て来ました。
ここは主郭の南脇にある一段低い腰曲輪です。



南側の縁に沿って進むと、桝形虎口の案内がありました。
かなり痕跡的で、頭の中で補助線引きまくりですあせる



桝形虎口の下には、かなり大きめの横堀が見えます。



腰曲輪に沿って奥へ続いていました。
この横堀に敵兵をおびき寄せ、上からいじめる構造のようです。



腰曲輪の突き当りです。
壁のようですラブラブ



突き当りの左上に、何となくシンボリックな岩が見えました。
堀切のように見えなくもなく、気になりました。



岩の間から下を見てみました。
何となく秘密の抜け道を想像しましたが、無理っぽいですw



突き当りの壁に沿って北に進むと、山頂への道に出ました。
ここはまだ四合目だったんですね!



そのさらに北側に、またあの幟がありました。
足元の案内を見ると、ここからも登って来れるようです。
※心霊写真っぽく見えますが、元写真を拡大したら切り株でしたあせる



道があるということで、ここにも桝形虎口がありましたラブラブ



腰曲輪の北側は、このような土塁が付けられています。



この土塁はそのまま、主郭へとつながっています。



見飽きたかもしれませんが、せっかくなのでw



帰りは中城の北側の堀を通りました。
ここへは二郭下の堀切から行けます。
ただ、ご覧の通りで道としては整備されていません。
まぁ、私にとってはいつも通りなんですけどあせる



ちょっと下りた所から見上げてみました。
登れる気がしませんあせる



半分くらい下った所で、横堀が分岐しています。
堀の交差点、大好物です恋の矢
この横堀は、ちょっと先から竪堀に変わります。



堀はやがて、登城路と合流します。



入口まで戻って来ました。
最後は写真の奥へ進んでみました。



こちらは「沢通り」という登山ルートです。
この道が、主郭北側の桝形虎口に通じています。
入口は何やら堀っぽいですニコニコ



上の写真の奥に見える白い札の所が竪堀です。
上で分岐した横堀が竪堀となってここに到達します。
立札にはこの堀も通路だと書かれていますが・・・
ちょっと登る気の起きない傾斜ですあせる

案内所が開くまでの時間潰しでしたが、普通にしっかり堪能しましたラブラブ
下りてきた所で丁度案内所が開き、続100名城スタンプゲットニコニコ



記念品として、ポケットティッシュとボールペンを頂きましたラブラブ

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町 GPSログダウンロードページ

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以下、2016年1月9日にアップしたブログです。
大河ドラマが始まる前の状態です。
変わったのは、私の方でしたw
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岩櫃城は岩櫃山の中腹にありました。
訪問日は2014年4月12日です。

岩櫃城①岩櫃山遠景
▲岩櫃山遠景

岩櫃城はこの山の東側の中腹にありました。(写真の右側です)こんな凄い山だと、攻め落とそうという気持ちすら萎えます。群馬の吾妻地方にはこんな感じの岩山が沢山あります恋の矢ここいらでは有名な山なので、そこら中に案内が出ています。道に迷う事はないと思います。

岩櫃城②くつろぎの館
▲城郭風建築物

さあ山へという所に、お城をかたどった建物があります。ここが居館跡・・・ではなく、関係ない温泉宿ですwただ、そうだとわかっていても条件反射で撮っちゃうんですよねあせる

岩櫃城③岩櫃山の案内図
▲岩櫃山の案内図

登山口にある案内図です。山全体の図ですが、城跡は山頂ではなく中腹に描かれています。そりゃ、あんな岩だらけ場所だと、篭る方も大変ですからね・・・


▲登城口


城域の入口には、雰囲気を盛り上げてくれるこんなモノがあります。標柱に案内図に石碑、もう至れり尽くせりです。お腹いっぱい、もういいやヽ(´∀`)ノ・・・にはまだ早いですよ!

岩櫃城⑤岩櫃城の案内図
▲城の案内図(拡大)

今度はお城に絞った案内図です。こうやって見ると、登山道の脇にある舌状台地っぽい地形を利用しているのがわかります。山頂の方が要害性は抜群だと思うのですが、まぁ登ってみましょう!

岩櫃城⑥熊注意
▲熊注意です

ちなみに、登城路にはこんなものが。群馬の山城はだいたいこんな感じです。野生のカモシカなんかはほぼ毎回遭遇するくらいに、自然が豊かなんです。モノは書きようですwwwという訳で、山城へ行く時は必ずこの鈴を持ち歩いています。

岩櫃城⑦中の城手前の堀
▲中城の手前にある堀

登城口から5分程で城跡っぽい雰囲気が漂い始めます。図にある中城の手前にある空堀です。まだ城域に入ったばかりなのに、この深さ。お城の規模が伺い知れます。

岩櫃城⑧中の城
▲中城(手前側)

堀に沿って進んで行くと、中城に出ます。・・・とは言え、標柱の後ろはボーボーに茂った藪。おいらでも掻き分けて入ろうと思わない位に密度が濃ゆいです。


岩櫃城⑨中の城
▲中城(奥側)

中城はかなり広い郭で手前半分が藪、奥半分がこんな感じです。果樹園っぽい雰囲気です。

岩櫃城⑩中の城奥の堀
▲中城の奥にある堀

さらに奥へ進み、中城を囲む空堀が主郭への登城路となっています。

岩櫃城⑪土塁
▲土塁

中城を登り切った辺りにある土塁です。階段が付けられた向こう側がくぼんでいるのがわかります。ということで、この土の壁の向こう側には堀があります恋の矢

岩櫃城⑫主郭の城塁
▲主郭の空堀と城塁

ほら!ということで、主郭の城塁が姿を現します。この空堀の手前が2郭、城塁の上が主郭です。

岩櫃城⑬主郭
▲主郭

2郭は「ふぅ~ん」という感じなので、写真はパス。傾斜の急な城塁に付けられた階段を登った所が主郭です。こちらは2郭よりもかなり広く、郭内に起伏もあります。

岩櫃城⑭本丸標柱と説明板
▲標柱と説明板

空堀、土塁に立派な城塁だけでも満足ですが・・・「やったゼ!来ちゃったゼ!」的なモニュメントは最高です合格
登城路が整備されて時間も掛からない割にしっかり遺構が残っており、超オススメです☆

こんなに沢山写真を貼ったのは、かなり久し振りです。遺構バッチリな山城だと、書いてる時も興奮するもんですね恋の矢


◆歴史◆

1405年、斎藤憲行により築かれたとされます。

諸説ありそれ以前からあったとする説もありますが・・・『加沢記』によると、斎藤憲行が越前から来たそうです。こりゃまた随分と遠くから来ましたねあせる

それ以前は吾妻氏系の斎藤氏が吾妻郡一帯を支配していたそうです。何があったのかは???です・・・この頃に吾妻一族を内出城に入れ、有名無実の存在にしたそうです。これ凄く知りたいので、知ってる方居たら教えて下さい!!

斎藤憲行は、6人の子を以下のように吾妻郡各地に配置して、支配体制を固めました。

長男:斎藤憲実:岩櫃城
次男:中山幸憲:中山城
三男:荒牧威実:荒牧館
四男:山田基政:山田城
五男:大野憲基:稲荷城
六男:富沢幸連:岩下城

1438年頃、大野憲基が斎藤一族の実権を握りました。

何があったのかは???なのですが・・・斎藤憲行の五男・大野憲基が斎藤一族を束ねるようになりました。
推測ですが、
(1)兄達が亡くなり、大野憲基が一族の長老になった?
(2)嫡流の斎藤氏に跡継ぎが生まれなかった?
(3)永享の乱により一族が分裂し、大野氏側が勝利した?

などなど。妄想は果てしなく拡がりを見せ、収拾する気配が感じられません。ということで、この辺で一旦ストップしますあせる

大永年間(1521~27年の間)、斎藤憲次が岩櫃城主となりました。

岩下城主の斎藤憲次が、大野憲直の岩櫃城を攻略しました。大野氏がいつから岩櫃城を居城にしていたのかはよくわからず・・・一族を仕切った大野憲基か、勢力を拡大した大野義衡でしょうか。この頃も大野憲直がこの地域一帯を支配し、斎藤憲次はその家臣という立場でした。斎藤憲次は山田基政の嫡孫で、岩下城を居城としていました。斎藤氏、山田氏、富沢氏がぐちゃぐちゃです。もともとは兄弟でしたけどw大野憲直は植栗元吉と対立し、斎藤憲次に植栗討伐を命じました。しかし、斎藤憲次は植栗氏を討伐すると見せ掛け、岩櫃城を急襲したのでした。詳細がわからないので歴オタの推測ですが、大野憲直は嫌われていたのでしょうか?

斎藤憲次の子・憲広は、関東管領・上杉憲実が越後へ逃れると、勢力を拡大しました。ということで、ご近所付き合いしたくない感じの武将だったようです。この頃の斎藤氏は、東の沼田氏、西の鎌原氏と争っていました。鎌原氏との争いが、吾妻郡の雄・斎藤氏の命運を決してしまいます。

1560年、勢力拡大を続ける斎藤憲広に対抗するため、鎌原幸重は武田信玄の配下となりました。同じ頃、斎藤憲広や鎌原氏と直接争っていた羽尾氏は、関東を攻めた長尾景虎に従いました。この頃既に両雄は川中島で何度も戦っており、吾妻郡にも飛び火した格好となりました。

1562年、斎藤憲広が鎌原城を攻略しました。吾妻地方での争いなら、ここで決着がつくのですが・・・居城を奪われた鎌原幸重は、真田幸隆を頼り、真田軍によって鎌原城を奪還しました。真田幸隆の吾妻郡侵攻はここから始まりました。その勢いに乗って羽尾氏の羽根尾城、長野原城を降しています。

真田幸隆がこの頃に吾妻郡へ侵攻したのには、もう1つ大きな理由がありました。それは、1561年に箕輪城主・長野業正が没していた事でした。長野業正は1557年、武田晴信(=信玄)により攻められましたが、巧みな戦術で撃退。そのため、武田晴信は上野国への侵攻に二の足を踏んでいたようです。長野業正の死は隠されていましたが、この頃にはバレてしまったようですね。

1563年、真田幸隆により攻め落とされました。

斎藤憲広が長野原城を奪還し、羽尾氏の旧領回復に出ました。この時、長野原城に入っていた真田幸隆の弟・常田隆永が討たれてしまいました。そのため、武田信玄は真田幸隆に3,000の兵を与えて吾妻郡攻略を命じました。武田軍は吾妻郡の城を次々と降しましたが、岩櫃城の守りは固く、和議を結びました。攻撃も止んで一安心といった所でしょうが・・・

真田幸隆はこれから、斎藤方の調略に取り掛かりました。そして、ある日突然、岩櫃城を再び包囲したのでした。以前は武田軍の攻撃を跳ね返した岩櫃城でしたが、今度はそうは行きませんでした。城内には真田幸隆の息の掛かった内応者がおり、城内に火を放って武田軍を引き入れました。この時に内応したのは海野幸光・輝幸兄弟、斎藤一族の斎藤則実などです。斎藤憲広・憲宗父子は越後へ逃れ、斎藤城虎丸は嵩山城へ立て篭もりました。岩櫃城の城代には、三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫らが置かれました。三枝松土佐守は三枝虎吉(土佐守)のようです。(三枝氏の家紋は「三枝松」なのだそうです)

1565年、真田幸隆が嵩山城を攻め落としました。

頑強に抵抗を続ける斎藤氏は、斎藤憲宗が上杉輝虎の力を借りて嵩山城へ入りました。嵩山城には白井城の白井長尾氏、吾妻郡東部の尻高氏や中山氏も援軍を出しました。この動きに真田幸隆は和議を申し出て、お互いに人質を出し合いました。しかし、この時に斎藤氏の重臣・池田佐渡守を調略しました。内応者を得た真田軍は再び嵩山城を攻め、斎藤憲宗・虎城丸が自害して落城しました。嵩山城を攻め落とした真田幸隆は、武田信玄より吾妻郡代に任命されました。

以後、真田幸隆は徐々に吾妻郡を攻略していきました。
1567年、利根川沿いにある白井城まで侵攻し、この頃に真田幸隆は隠居。
1574年、真田幸隆は62歳で没。
1575年、長篠の戦で真田信綱、次兄・昌輝が討死、真田昌幸が家督を継ぐ。
1580年、真田昌幸が沼田城を攻略。

1581年、海野幸光が誅殺されました。

この年、海野幸光は岩櫃城代、弟の輝幸が沼田城代となりました。しかし、間もなく真田昌幸により謀叛を疑われ、海野兄弟は謀殺されてしまいました。

1582年3月、武田勝頼が滅ぼされました。

織田信長が甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしました。真田昌幸は織田信長の家臣となり、その領地が安堵されました。

1582年6月、本能寺の変で織田信長が自害しました。

甲斐・信濃を攻略したばかりの織田信長が、本能寺の変により自害しました。そのため、武田氏の領地だった甲斐・信濃で反織田の動きが活発になり、空白地となりました。切り取り放題となった両国へは徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが攻め込んで争いました。これが「天正壬午の乱」です。真田昌幸の領地である上田から沼田は、丁度この中に含まれていました。そのため、真田昌幸は権謀術数の限りを尽くし、領土の保全を謀りました。あまりにめまぐるしいので、ここでは割愛しますが・・・徳川、北条、上杉と主を短期間で替え、最終的には羽柴秀吉の家臣となりました。

1600年、真田信之の城となりました。

真田昌幸が関ヶ原の戦で西軍につき敗れたため、東軍についた真田信之が当主となりました。真田信之は父・昌幸の上田領のほか、3万石の加増を受けています。1590年に沼田城主となっており、実際には吾妻郡一帯の支配を任されていたと思われます。真田信之は真田昌幸の嫡男で、当初は信幸を名乗っていました。しかし、父との決別を世に示すため、名を「信之」に改めたと思われます。

1614年、一国一城令により廃城となりました。

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町

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名胡桃城/群馬県みなかみ町

名胡桃城は、2017年4月6日に続日本100名城に選出されました。
訪問日は2018年4月28日です。



信号を城跡側に入った所が駐車場です。
駐車場は般若郭がそのまま使われています。



以前は気付きすらしませんでしたが、手前に堀切様がラブラブ



入口にあるこの建物が、スタンプのある案内所です。
もちろん頂きましたウインク

続日本100名城スタンプ
 設置場所
 名胡桃城址案内所
 開いている時間:9時~16時
 お休み:12月28日~1月3日



案内所から沼田側に20メートル程行った所が城跡の入口です。
もうGWですが、まだ桜が咲いていました。



前回訪ねて以降、大河ドラマがあったりしてかなり整備されていました音譜



拡大表示

上のモニュメントに描かれていた図です。
綺麗です恋の矢



ホント、綺麗になりました合格
ただ綺麗になっただけでなく、堀切脇の土塁も復元されていました。
こうやって木橋まで架けられ、まるで往時にタイムスリップしたようです。
・・・でもないか。
柵や櫓は無いので、歩きやすくなっただけですねあせる



スタンプに描かれているのってどこ?っとちょっと考えましたが・・・
どうやら2郭のようです。
建物の柱跡が地面に示されているのがココだけなので。
そういう目で見ると、奥の木の感じもやっぱりココな感じがします。



2郭と主郭の間の堀切と虎口です。
以前はいったん底に下りて上がるだけでした。
本来の「城跡」はそうなんですけどね。
こんなに立派な木橋だと、敵に攻められた時に落とすのも大変そうあせる



主郭です。
ここだけは雰囲気そのままです。
幟は立ちましたけどw



主郭の奥にもう1つ、笹郭があります。
前回は見ていませんでしたけどあせる
主郭でUターンする人が多いと踏んだせいか、ちょっと雰囲気違います。
でも、皆さん結構こっちまで来てましたwww



笹郭から沼田方面を見た所です。
とてもよく見えます目
往時は沼田城はとても目立ったと思われますが・・・
今はちょっとワカリマセンあせる

所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津

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以下、2013年11月19日にアップしたブログです。
9年前と現在の違いがよくわかりますウインク
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名胡桃城は沼田の北、国道沿いにありました。
訪問日は・・・2009年4月19日です。

名胡桃城①/道沿いにある案内
▲案内

名胡桃城跡は、国道17号のバイパス沿いにあります。沼田から新潟方向へ走ると利根川を渡る大きな橋があり、その先の右カーブを曲がった所です。案内はいくつかあるのですが、急カーブを曲がってすぐなので通り過ぎそうになります。・・・とは言っても交通量は少ないので、すぐにUターンできます^^

名胡桃城②/説明板
▲説明板

駐車場には立派な説明板がありました。こうやって見ると、バイパスが城跡の真ん中を分断しています。こんな事を平気でできる時代があったんですね(´・ω・`)

名胡桃城③/二の丸
▲二の丸跡

二の丸は道から入ってすぐの平坦地です。
その真ん中には写真の碑がポツリ。

名胡桃城④/本丸の曲輪
▲本丸

二の丸と本丸は、断ち切ったのか元々の地形なのか、ザックリ隔絶されています。写真では分かりづらいのですが、城は細長い舌状台地を利用して築かれていました。城跡を回り始めた頃なので、こういった地形に関心が無く・・・。防御の工夫とかに目を向ければ、とても面白い城跡だと思います。

名胡桃城⑤/城址碑
▲城址碑

本丸には幾つもの碑がありました。有名なお城の本丸ですからね!その中で一番好きだったのがこれ。手書きっぽさがイイですねラブラブ


◆歴史◆

1578年、上杉謙信が没すると、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を巡って争いました(御館の乱)。御館って元関東管領・山内上杉憲政に宛がわれた館だったんですね。その上杉憲政はなぜか、仇敵・北条氏康の子で上杉謙信の養子となった上杉景虎に味方します。上杉謙信が「景虎」の名を与えたことからも寵愛ぶりが窺われます。上杉景虎には人を惹きつけるものがあったのでしょうね。

実家・後北条氏を後ろ楯に持つ上杉景虎に対し、上杉景勝は劣勢を強いられていました。そんな上杉景勝のとっておきの策が、武田勝頼との同盟でした。上杉景勝は上杉謙信が苦労して手に入れた北信濃の他、上野国の領地を武田勝頼に差し出しました。領土拡大に意欲的な武田勝頼は、手に入れた拠点から上野国内で後北条氏と争うようになりました。

1579年、真田昌幸が沼田城攻略の足がかりとして名胡桃城を築きました。

沼田領の侵攻は、稀代の策士と称された真田昌幸が任されました。真田昌幸は翌年には城代の1人・金子泰清を調略し、沼田城を無血開城させます。

1582年、真田昌幸は武田→織田→北条→徳川→上杉と主を替えます。

3月に武田勝頼が滅ぼされると上野国は織田信長の支配地となり、滝川一益が派遣されました。真田昌幸は当初、滝川一益の配下となりました。しかし、6月には織田信長が本能寺の変で自害。滝川一益は神流川の戦いで北条氏直に大敗北を喫し、領国・伊勢へ逃げ帰りました。この他、各地で武田旧臣による織田家臣排斥の動きが活発化し、甲斐・信濃・上野が主の居ない空白地帯となりました。この広大な空白地帯を巡って北条氏直、徳川家康と上杉景勝が争いました(天正壬午の乱)。真田昌幸は主を失ったため、後北条氏に仕えるようになりました。

後北条方として信濃攻略の中心となった真田昌幸は、信濃一国を制圧する勢いでした。しかし、そんな中で突如、信濃攻略を巡って争っていた徳川家康に鞍替えしました。すると、北条氏直は形勢不利と見て、徳川家康と和議を結びました。その中で沼田領の扱いで揉めたようですが・・・。最終的に沼田領は後北条方に割譲することで合意に至りました。

苦労して手に入れた沼田領が取り上げられることに真田昌幸は激怒し、上杉景勝に鞍替えしました。こうやって考えると、この時の徳川家康の決断が後北条氏の滅亡につながってるんですねw真田昌幸は徳川・北条両家の不穏な空気を察し、本拠の上田に堅固な城を築きました。

1585年、徳川・北条連合軍が上田城を大軍で攻めますが、真田昌幸が撃退します。この戦の後、真田昌幸は豊臣秀吉に仕えるようになり、次男・真田幸村を人質に出しました。

1588年、豊臣秀吉と後北条氏は一触即発の状態でした。それは、豊臣秀吉の聚楽第行幸への列席を、北条氏政が拒否したからでした。この時、京では後北条氏討伐の噂が立ちましたが、徳川家康の仲介により事なきを得ました。その後、北条氏政の弟・氏規が名代として上洛することで、両家の間の緊張は一時解けました。沼田領の裁定を豊臣秀吉に依頼したのも後北条氏で、北条氏政の8月上洛を担保に、沼田城が引き渡されました。しかし、北条氏政が上洛時期を12月に延期したいと請うと、豊臣秀吉はこれを拒否。この時期に名胡桃城で事件が起きました。

1589年11月、沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を奪いました。

猪俣邦憲は名胡桃城城代・鈴木重則の家臣を寝返らせ、鈴木重則が城外へ出た留守の間に城を乗っ取らせました。鈴木重則は己の不甲斐無さを恥じて、沼田市内にある正覚寺で切腹して果てました。

豊臣秀吉は、これは私闘を禁じた惣無事令に反するとし、全国に後北条氏討伐の号令を発しました。これは後北条氏家中でも寝耳に水だったようで・・・。北条氏政は延期はしていましたが、上洛にはとても前向きだったとされています。事件の首謀者・猪俣邦憲は、事の重大さに恐れおののいて逃亡。名胡桃城は真田昌幸に返して申し開きをしましたが、豊臣秀吉は聞く耳を持ちませんでした。

1590年、豊臣秀吉により全国の大名が動員され、後北条氏が滅ぼされました。戦後、沼田領が真田昌幸に安堵されると、名胡桃城は役目を終えて廃城となりました。


所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津 GPSログダウンロードページ

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奥平城/群馬県高崎市

奥平城は三河に移った奥平氏発祥の地です。
訪問日は2014年11月23日です。

三河の奥平氏のお城について書いた時に、こちらについても調べました。こちらもまだ書いてなかったので、勢いで!ということであせる

【写真】奥平城①

東側から見た奥平城です。目の前を川が流れており、堀代わりになっています。

【写真】奥平城③

いざ!と登ったのがココです。畑ですw特に凸凹もなく真っ平。まぁ、古い時代の城跡ですからね。

【写真】奥平城④

畑の更に奥に何か無いか?と目を光らせてみました。残念ながら、光りませんでしたけど・・・何やら手招きするように、竹藪の一角が開いています。

【写真】奥平城⑤

堀の1つでも拝めれば、と突入。御覧の通りなので、進めなくはなさそうです。もう日が暮れ掛けていたので、これ以上は進みませんでした。


◆歴史◆

奥平氏の城でした。

奥平氏の始まりには赤松氏説と児玉氏説とがあります。赤松氏説では、赤松則景が上野国甘楽郡奥平郷を領地として、名乗ったのが始まりとされます。児玉氏説では、児玉党の氏行が奥平則景の養子になったのが始まりとします。いずれにしても、赤松則景がここを領地とし、奥平氏行が居たことは共通するようです。

家紋

で、よく児玉党説で書かれている家紋が気になったので調べてみました。言葉だけで想像できるのは、一部の超オタだけですからwついでに、祖先が奥平氏の弟とされる小幡氏の家紋も並べてみました。軍配が共通って、こういうことだったんですネ!赤松氏のだけ蚊帳の外って感じがします。

8代目の奥平貞俊が三河へ移りました。

応永年間(1394~1428年の間)に、8代目の奥平貞俊が三河へ移りました。この頃は鎌倉公方が足利満兼→持氏、関東管領は上杉憲定→氏憲(禅秀)→憲基→憲実でした。当時はやんちゃな鎌倉公方を関東管領がなだめるといった感じで、まだ戦はしていません。鎌倉公方がやんちゃをしていた相手は、主に室町幕府の将軍でしたwww関東管領は、肝がいくつあっても足りなかった事でしょうあせる

奥平貞俊がなぜ三河へ移ったのか?サイト様によっては「上杉憲定の圧力が厳しくなった」と書かれています。その通りであれば、上杉禅秀に関東管領職を譲る1411年以前ということになります。

状況を整理すると・・・
・関東管領・上杉憲定は、奥平貞俊を敵視していた?
・鎌倉公方・足利満兼は、将軍・足利義満と仲が悪かった
・関東管領・上杉憲定は、鎌倉公方・足利満兼を将軍から庇っていた

ということは、奥平貞俊は将軍・足利義満寄りだったという事でしょうか?当時の関東には、将軍直属の京都扶持衆という武士が多数居ました。また、奥平貞俊が移った三河には、将軍の直轄地がどこよりも数多くありました。また、以後も当地の残った一族?の小幡氏は、山内上杉氏の被官となっています。

奥平氏の一部は当地に残り、戦国時代に武田信玄に攻め落とされたとされますが・・・近在の大族・小幡氏は三河守系が上杉氏、尾張守系が武田氏に従いました。とすると、城を攻め落とされた奥平氏?は、三河守系の小幡氏に従ったのでしょうか。

籠城できる堅固な城ではなさそうで、北にある馬場城が奥平城の詰め城だったらしいです。ただ、そちらも造りが古いので、それ以降は城として使われなかったかもしれません。


所在地:群馬県高崎市吉井町下奥平

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明徳寺城/群馬県みなかみ町

明徳寺城跡は関越道沿いにあります。
訪問日は2014年4月19日です。

明徳寺城①案内
▲明徳寺城の案内

明徳寺城跡への入口は、高速道路を渡る橋のすぐ脇にあります。Google Mapだと「月夜野温泉」と書かれています。名前変わったのか?と思いましたが、今Google Mapのストリートビュー見ても同じでした。正式名称がそっちなのかもしれませんが、現地では「つきよの館みねの湯」と書かれています。ストビューだとお城の案内にボカシが入っていますが、苦情でもあったのでしょうか?

明徳寺城②入口
▲城域の入口

案内に従って進むと土塁の一部がポッカリ口を開け、その前に説明板があります。この入口は虎口?かと思いましたが、重機でガッツリ削った道のようです。

明徳寺城③竹薮の中の堀
▲脇の竹薮には!

なんだかなぁ~なんて進みましたが、すぐに凄いもの見ちゃいました。それは、左側の竹薮の中に結構な深さの堀が巡っていたのです!入ってみたいと思いましたが・・・人が歩いて進めないような密度で竹がビッシリ。ちゃんと写るかな?と思いましたが、何とか撮れていました。

明徳寺城④郭と土塁
▲郭と土塁

ちょっとだけ気を取り直して重機虎口を進むと、そこには凄い光景が。立派な土塁で囲まれた郭に出たのですヽ(´∀`)ノ果樹園となっているようですが、葉の無い季節なのでバッチリ見えました。土塁で囲まれた光景って、何だか心が安らぎませんか???

明徳寺城⑤土塁から見た堀
▲土塁の外側は堀

これだけ立派な土塁があるのだから、外の様子が気になるのが人情・・・ですよね?登りやすそうな所を見つけて土塁に登ると、案の定、土塁の外は堀が巡っていました。どこまで続いているのだろう?と土塁上を進もうと思いましたが、竹が密集してて前に進めず。その先で絶景が待っている確信も無かったので、そのまま引き返しました。


◆歴史◆

南北朝時代(1336~96年の間)に、沼田氏により築かれました。

築城年は不明ですが、南北朝時代には既に築かれていたようです。「南北朝時代」は室町時代の初期の別名ですが、大丈夫ですよね?www当時は天神山城と呼ばれていたそうです。沼田氏はこの年代のすぐ後で、本拠を荘田城から小沢城に移しています。この頃の関東は・・・荘田城で書いたよりちょっとだけ前の事書きますネ♪

★1349~51年にかけて、全国的に観応の擾乱と呼ばれる戦乱がありました。この時期、上野国でも戦乱がありました。当時、上野国守護は山内上杉憲顕で、高師冬と2人で関東管領を務めていました。しかし、従兄弟の上杉重能が高師直により越前で殺害されたため、高師冬と敵対。上杉憲顕は足利義直に味方したことで足利尊氏の怒りを買い、鎌倉府から追放されました。

★1358年、足利尊氏が没すると、上杉憲顕が復権を果たしました。2代将軍・足利義詮と鎌倉公方・足利基氏は、幼少時に上杉憲顕の補佐を受けていたのです。親の尊氏とは反目しても、子には慕われていたようですね!上杉憲顕は越後守護に返り咲きました。

★1362年、足利義詮・基氏兄弟は、関東管領・畠山重国を突然解任しました。不満を抱いた畠山重国は、領国の伊豆に篭りました。これを謀叛とした足利兄弟は、畠山重国を討伐して滅ぼしました。その後釜に上杉憲顕を据え、関東管領に任命したのです。

★危機感を抱いた越後・上野国の守護代・芳賀禅可が、上杉憲顕を暗殺しようとしました。この動きを察知した鎌倉公方・足利基氏は、上野国に居た芳賀禅可を討伐しました。さらに、これを好機と捉えた足利基氏は、芳賀禅可の主君・宇都宮氏綱を攻めようとしました。宇都宮氏綱は畠山重国と2人で関東管領を務めていたのです。小山義政の仲介により戦は回避されましたが、関東管領と上野国守護の座を剥奪。関東管領は上杉憲顕だけとなり、上野国も上杉憲顕に与えられたのでした。足利基氏と山内上杉憲顕は、これ以上無いくらいにラブラブだったんですねw

沼田氏の事全然書いてない(^▽^;)www
まぁ、この頃の沼田氏はサッパリわからないので、参考までに時代背景を書いてみました。横道に反れると果てしないですあせるあせるあせる

沼田の地は以後・・・
1560年、長尾景虎(上杉謙信)
1578年、北条氏邦
と領主を替えていきました。
詳細は省きますあせる

1580年、真田昌幸に攻略されました。

吾妻郡から進出して来た真田昌幸は、2年前に沼田領の利根川西岸を制圧しました。そして、沼田城を攻略する足掛かりとして、明徳寺城に狙いを定めました。北条家臣で沼田城代の藤田信吉は、兵を入れて警戒していましたが・・・ある日突然夜襲を仕掛け、真田昌幸が明徳寺城を攻略しました。真田昌幸は翌年、沼田城を調略で攻略したのでした。ココが匕首になったからこそ、と思う事にしましょうw

1589年、豊臣秀吉による沼田領の裁定がありました。

沼田の地は1582年に始まった天正壬午の乱で、徳川家康と北条氏政の和睦条件となった地です。当時徳川家康に従っていた真田昌幸は、それまで北条氏政と沼田の地を巡り争っていました。その地を、真田昌幸が仕えていた徳川家康を利用して手に入れようとしたのです。当然真田昌幸は反発し、徳川家康の元を離脱。

・・・長くなりそうw

ということで、豊臣秀吉が利根川西側1/3を真田領、東側2/3を北条領と裁定しました。しかし、後北条氏はこの裁定に従わず、利根川西岸にあった名胡桃城を攻略。そのため、豊臣秀吉が戦を禁じた惣無事令に反したとして、翌年滅ぼされました。後北条氏が滅びた事により、真田昌幸は沼田領を丸ごと手に入れたのでした。


所在地:群馬県利根郡みなかみ町後閑

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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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