2018/12/09
菅原城/群馬県富岡市
菅原城は、まだ登城路が紹介されていない山城です。訪問日は2018年12月9日です。
真冬並みの寒さということで、菅原城跡へ行ってきました♪
前回訪ねたのは2014年11月で、南側から断崖を直登しました。
当時ネットで紹介されていたのがそこだけだったのですが・・・
最近「集落から登れる道がある」とコメントを頂きました。
ヒントはこれだけですが、私、こういうの燃えます

今日は他に予定も無いので、とことん攻めて来ました。
それでわかった攻略コースは、全部で3つありました。
・・・なぜ誰も紹介しないんだょぉ(# ゚Д゚)b
ということで、まずは大本命の北からのルートを紹介します

下の地図で赤い線で示したのが北からのルートです。

城跡を訪ねる際、毎回気になるのが駐車場所だと思います。
名もなき山城に駐車場などあるはずもなく、毎回苦労します。
今回は北側から攻めたので、その登城口の付近をウロウロしました。
それで見つけたのが写真の場所で、下の地図の赤い線の左上端です。
川の左手前の道はすぐに終わっているので、安心して停められます。
複数台の車で訪ねる場合でも、奥に詰めれば3、4台は停められます。

ここが、ストビュー見まくって一番可能性が高いと思った道です。
結果は大正解でした

私はバイクだったのでここは登りませんでした。
車なら、100メートル程登った所に1台停められるスペースがあります。
一見キレイな道に見えますが・・・

カーブを曲がると、こんな感じになります。
上の方まで車で登るのは、あまりオススメ出来ません。

草がだいぶ生えた道を登ると、杉林の中を通ります。
その左側が、こんな風に見えます。
右側も段が落ちて行くのが見えます。
城跡に関係するものなのか、そうでないのかは???です


杉林の中で、道は大きく右へカーブします。
ここで、矢印の所に山中に入っていく道が見えました。

近づくとこんな感じです。
誰も登城路を紹介していないので、正しいのかどうかは???でした。
城キチの直感は、こっちなんだろうな~なんて思いました。
根拠なんてありません。
正解でしたけど(*´▽`*)

山中に続く道は、軽く行ったり来たりの九十九折れでした。
大して標高を稼ぐ訳でもなく、傾斜がキツイ訳でもなし・・・
割とすぐに道が左右に分かれますが、左へ進むのが正解です。
ここも勘が当たりました(*´▽`*)
帰りに右の道も見て来ましたが、すぐに谷に突き当たりました。

左の道を130メートル程進むと、道の右側にこんな細尾根が現れます。
ここから登れそう?だと感じましたが、道はまだ先に続いています。
とりあえず道を進むこととしました。

そのすぐ先で道は右に曲がり、真正面に谷が現れました。
道はココで終わっていました。
ただ訪ねるだけなら、まっすぐ登れない高さと傾斜ではありません。
前回は絶壁をカベチョロのように登ってみせましたので

今回は道を探すのが目的なので、ここはパス。
先ほどの細尾根で標高を稼ぐこととしました。

細尾根を登り切った所がココです。
山上の平坦地に出ましたヾ(*´∀`*)ノ
左前方には、入口を抑えるためと思われる曲輪が見えます。
城の主要部はここから左ですが、右へ進むと堀切が3つありました。
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次は西からのルートです。
下の地図で緑色の線で示したのが西からのルートです。

前回もですが、菅原城跡の西側を越える道がとても気になっていました。
この道は東西に長い山を「ヨッコラショ」と越えて南北に通っています。
そのため、道と稜線の高低差があまりありません。
そう思い城跡から西へ西へと進むと、ちゃんと道に辿り着きました。
ということで、逆巻きで城跡までを紹介します。

ここは峠のようになっていて、そのテッペンに車を停められます。

城跡へは、東側の北端から辿って行けます。

とは言っても「道」がある訳ではありません。
何となく辿って行ける、幅30センチ程の踏み跡があるだけです。
山中に入ったら、この踏み跡を辿ってひたすら高みを目指します。

高みに登り切ったら、こんな感じになります。
幅5メートル程の稜線を、ただひたすら辿って行きます。
最初にガッツリ登るので、ここから城跡まであまり高低差はありません。

高低差は無いのですが、ちょっとだけ笹が茂っている箇所があります。

ちょっとだけ茂っていますが、踏み跡は明瞭なのでちゃんと進めます。
冬じゃないと入って行きたくないと、私は感じますけど


笹の茂った所を通り過ぎると、ちょっとした高みがあります。
こちら側のルートの特徴ですが、こうした高みは脇を通ります。
高みに登ってもいいのですが、何も無くただ下りるだけです。
ぽっこり高みの右脇に、避けて通った踏み跡が続きます。

次の高みは、上の方が草木で覆われています。
なので、ここは言われなくても脇に避けます。
ただ、ここはちょっとわかりにくくなっています。
山城なので、城がどっちなのかわかりやすくてはいけませんけど


高みを右へ避けると、三日月形の細長い平坦地があります。
なんとなくこっちに進みたくなりますが・・・
先端まで来ると、その先には進めません。

この高みにも右脇に踏み跡がありますが、薄くてほぼ見えません。
何となくですが、城跡への道を隠す馬出しのように見えます。

その先に、道を遮るような土の壁が現れます。
注目すべきはその手前ですが・・・

堀切様がいらっしゃいます

前回ここでは堀切様に会ってなかったので、来て良かったデス




次はこんな堀切様

そしてその次はこんな堀切様です。
大きな堀切様だけ紹介しましたが、小さいのもいくつかあります。
堀切様と堀切様の間は高みになっています。
これどうやって登るんだ?という位に険しいですが・・・
脇を通る踏み跡がどこもあります。
その先で、北から登って来た道と合流します。
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次は南からのルートです。
下の地図でオレンジ色の線で示したのが南からのルートです。

南側から城内へ行けるルートの入口が、県道51号沿いのココです。
前回直登した所からは、おおよそ300メートル程西側です。
知っていた訳ではなく、下りて来たらココに辿り着いただけです

ということで、逆巻きで城跡までのルートを紹介します。

白コンクリートの農道をコの字形に進むと、山に向かう道があります。
こちらへ入って行きます。
(こちらから下りて来ましたw)

奥へ進むと、笹薮を薙いだ道があります。
この奥には立派なお墓が2基あります。
「お邪魔します」と、ご挨拶を忘れずに!

お墓の右奥から奥へ進めます。
道ではないのですが、下草も無く、足元も苦になりません。
左の木にある白い物は、群馬県が貼った保安林を示すものです。
ここから山に入って行く人がいるという事ですね!

さらに奥は、谷底を進むようになります。
こんな感じで倒木が積み重なりますが・・・
こんなの、お子様のアスレチックみたいなものです。
と、ある城キチは申しておりました(`・ω・´)v

谷底を奥まで進むと、正面にミニ砂防ダムっぽい石積みがあります。
ここまで来たら、右側の斜面を登ります。

下りてくる時は踏み跡がありましたが・・・
下から見ると、上がって行く踏み跡は見えません。
とりあえず、10メートル程斜面を登ります。

すると、幅30センチ程の横一線の踏み跡が現れます。
この踏み跡を、下から見て右方向へ進みます。

しばらく進むと、踏み跡の幅が広くなります。

踏み跡を辿って進み続けると、腰曲輪に辿り着きます。
ここからは腰曲輪から腰曲輪へ、踏み跡を辿って上がって行きます。

最上部の石灯篭のある所から見た、そのすぐ下の腰曲輪です。
菅原城内で一番大きな曲輪は、南側の斜面にあります。
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最後に、要らぬ苦労ばかりした前回のブログです。
下の地図でグレーの線で示したのが直登ルートです。
菅原城は今まで行った中で一番危険な所かもしれません。
訪問日は2014年11月23日です。
「危険」とか「やめた方がいい」と言われても、行く奴は行くもの。そういうオバカさんが城キチというもので、ここに1匹居ますから

何が危険かというと・・・
①武者返しのような岩場。ここは絶対登らないコト!
②熊。遭遇しませんでしたが、新鮮な糞がありました。熊鈴を忘れずに!
③オオスズメバチ。デカイのを2回見ました。絡まれたらゆっくり後退しましょう。

▲北東側からの遠景
訪問前に色々調べはしましたが、やっぱり現地で迷いました。ここは登城路が無く、険しい山肌を直登するのは知ってましたが・・・それを承知で読んだ数々の登城記、やっぱり文章でルートを説明するのって難しい。なのでうっすらですが、記憶を辿った感じは↓です。


▲城山橋
色々グダグダ書くので、最初に安全と思われるルートを書きます。
このルートは下った時のルートを逆に書いてます。
まずは県道51号沿いにある小さな橋(城山橋)を目指します。
近くに駐車スペースが無いので、少し北東の庚申碑の前がいいと思います。
(地図右上の青●です)

▲城山橋の正面(県道51号の北側)
コンクリートの切れ目の所にちょっとだけ丸太が積んであり、そこから入ります。
藪っぽく見えますが、かすかに残る踏み跡を辿ります。

▲後世に積んだっぽい石垣
あちこちに書かれている「竪堀っぽい」地形があり、20m程登った所に石垣があります。

▲竪堀っぽい地形。道に見えたらあなたも城キチ
ここから見上げると平場があるので、次から次に辿る感じで頂上まで登れます。
ここからは悪戦苦闘記です。
よく登城口として紹介されている庚申塚はかな~り上の方です。
地図だと右上の方にある青い●の所です。

▲よく登城口として紹介されている石碑
そこから「竪堀っぽい所」をまっすぐ登れとよく書かれているのですが・・・
そんなのあちこちにあり過ぎて、どれの事なのかサッパリ判らず。

▲石碑の辺りから見上げるとこんな感じ
おまけに、小さな平場もあちこちあるので「ここ?」と思いながら登りました。
]間伐材のお手入れをしたのか、人が歩いた形跡も多々ありました。

▲まっすぐ登ると横一線に岩盤が立ち塞がります
その結果、行く手を岩場に阻まれて窮地に。
この岩場、とても滑りやすいので強行突破は止めましょう。
下は20m程の急斜面なので、ちょっと滑ったらタダでは済みそうにありません。

▲ここで下を見下ろすといい感じで急斜面w
上にも進めず、かといって下を見ると「どうやって下りるんだ?」という状況。
「進退窮まる」ってこういう事なんだ、と妙に落ち着いてましたけどw
さてどうしよう?と思案。
上にも下にも行けないなら横へということで、左側(南方向)へ横移動しました。
すると、踊り場のような尾根が見えて来たので、とりあえずそこまで移動しました。

▲岩盤を避けて左へ左へと横移動して辿り着いた尾根
この尾根から上に進めるかと思いましたが、ここも上に岩場があり駄目そう。
さてどうしよう?と何度目かのシンキングタイム突入です。
ここまで来て勇気ある決断!とならないのが悪い癖です。
良い子は絶対マネしないで下さいね。
進退窮まると、なぜか見えちゃいけないものが見えてくる私。
じ~っと周りを見渡していたら見えちゃいました。
道っぽいのが10m程下に!

▲尾根から見下ろしたところ。
道に見えます?www
上に登れるなら!と一旦下ると・・・
平坦な道ではなく、竪堀っぽい急な坂でした。
しかし、これが良い結果につながりました。
この窪んだ坂を登ると、ちょっとした平場に出たのです。
すると、更に数m上の方にも平場がありました。
そちらに向かって人が歩いた形跡があります。
やっと城域に!

▲初めて辿り着いた郭
いくつかの小さな人工的な平場を過ぎると、今度はかなり広い平場に出ました。
ここが6郭です。
削平は若干甘いのですが、斜面に築いた一時的な感じではありません。
ここに辿り着くまで相当苦労したので、一気にテンション


▲壁に見えた土塁
この郭からどう上がって行くのか?
辺りを見渡すと、どう見ても一番傾斜のキツイ所に踏み跡が続いていました。
なんでわざわざこんな急な所を登るんだろう、と思いつつ登ると・・・
この急斜面が実は土塁でした!
高さは5m程あります。
6郭側からはただの斜面にしか見えませんでしたが、巨大な土の壁だったんです。

▲土塁の反対側にも郭が!
土塁を隔てて更に広い5郭がありました。
広さは6郭の倍はありそうです。
ただし、登城路はこちら側ではなく、土塁上から真っ直ぐ上に向かっていました。
道を見つければあとは辿るだけということで、ここは素直に上へ歩きました。
5郭の上に3郭があり、その奥に4郭があります。
ただし、登城路は4郭には向かわず、真上に有る2郭へと向かっています。
どうやら皆さん考える事は同じで、ここまで来ると目指すは頂上!ですねw

▲頂上の手前にある祠
2郭の端から更に上がると、それまでと雰囲気が変わります。
それまでの郭は平らで広くて郭っぽいです。
しかし、最上部は細長い尾根を削っただけのような感じになります。
踏み跡を上がって細長い平場の先端に行くと、そこには小さな祠がありました。
Uターンして緩~い坂を登ると、2m程のこんもりした所が見えてきました。
ここが山頂です。
特に何も無く、自己満足に浸れるだけの場所でしたw
◆歴史◆
「菅原城」でググっても歴史らしい歴史を書いたサイトは殆ど皆無。
おし、久しぶりに登城記だけで済む!と思いきや・・・
唯一のキーワード「高田憲頼」でググると、菅原城の事も書かれていました。
菅原城は山内上杉氏の重臣・高田(たかた)氏の城でした。
高田氏は清和源氏で、平安時代末に美濃から移り高田姓を称した高田盛員を祖とします。
高田氏はもうちょっと東にあった高田城を本拠としました。
菅原城は築城年不明です。
戦国時代に高田氏が拠っています。
1547年、高田憲頼が信濃国志賀城で武田軍と戦い討死しました。
信濃攻略を目指す武田晴信が佐久郡制圧のため、志賀城を攻めました。
志賀城主・笠原清繁は高田憲頼と血縁があったため、憲頼は援軍として志賀城に入りました。
また、憲頼は主君・上杉憲政にも援軍を要請しました。
河越夜戦で北条氏康にコテンパンにやられた直後なので、反対も多かったようですが・・・
この上杉憲政の発した3000人の志賀城救援軍は、小田井原で武田軍に壊滅させられました。
頼みの綱を失った志賀城は落城し、高田憲頼も討死しました。
その後、徐々に上野国を北城氏康に侵食され、1550年代に上杉憲政は越後へ逃れました。
高田氏はそのまま領地に残り、北条氏に抵抗を続けたと思われます。
1560年に長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東を攻めた際、高田繁頼も上杉軍に参加しています。
1561年、菅原城が武田軍に攻められました。
この年に西上野の雄・長野業正が没し、武田晴信による上野攻略が始まりました。
菅原城も武田軍に包囲され高田繁頼は抵抗しましたが、降伏して開城しました。
以後、高田氏は武田家臣となりました。
廃城時期も不明です。
高田氏は1582年の武田氏滅亡後は後北条氏の家臣となりました。
さらに、1590年の後北条氏滅亡後、高田直政は信濃塩田村に移り住んだそうです。
そのため、この時に廃城になった可能性が高いと思います。
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