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師戸城/千葉県印西市

師戸城は、印旛沼を挟んで臼井城の対岸にありました。
訪問日は2022年2月5日です。

【位置】師戸城
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師戸城も公園となっています。
臼井城の支城とされ、印旛沼を挟んだ対岸にあります。
城内へは北西から北東へ回り込み、上がった所に駐車場があります。
独立丘陵を丸ごと使い、北から東に大きな横堀があります。
この横堀の内側を、さらに2本の大きな堀切で分断。
先端部を堀でさらに東西に分割し、一番奥が本丸とされます。
全体的に公園化されていますが、遺構の残り具合は良好です。

【1】師戸城
拡大表示
1.印旛沼公園案内図

公園なので案内図があります。
バッチリ公園の案内図ですが、堀もしっかり描かれています。
城キチ的にも嬉しいクオリティです。
これを縄張図代わりにするなら・・・
左端が四郭相当の道場台、真ん中が三之丸、右端が本丸+二之丸です。

【3】師戸城
3.ちびっこ広場(道場台)

まずは駐車場脇の道場台から。
芝生広場は名前のまんま、ちびっこ広場は町の公園といった感じです。
こういう需要があったんでしょうね。
お子様だけで遊びに来る感じの場所ではありませんがw

【4】師戸城
4. 道場台の土塁

いじられ感満載ですが、片隅には城跡らしさが残っています。

【5】師戸城
5.カラボリと三之丸開口部

三郭を囲むカラボリです。
虎口と土橋そのものです。
縄張図には描かれていませんが・・・
その理屈で行くと、二之丸への入口もありません。
たまたま見つけた古い航空写真ではここは開口していません。
公園化の際にそれっぽく造られたんですね。

【6】師戸城
6.説明板 説明板全体を拡大表示 図を拡大表示

土橋手前に写っている説明板です。
歴史と縄張図がセットになっている完璧なヤツですラブラブ

【8】師戸城
8.カラボリ

三之丸を囲んでいるのが、カラボリと呼ばれる横堀です。
北西の台地端に始まり、北東端で折れて南東側に続いています。

【9】師戸城
9.カラボリと三之丸の切岸

とても大きな堀で、一番深い所で高低差約10メートルあります。
ここが一番高低差のある場所なのですが・・・
写真だとその迫力が伝わりませんねあせる
お子様が群れでよじ登ってる所を撮れば良かったです。

【10】師戸城
10.カラボリ跡と三之丸の切岸

東側は埋められかなり浅くなっていますが、痕跡は残っています。

【11】師戸城
11.中堀

二之丸・本丸と三之丸を隔てているのが中堀です。
カラボリとつながっており、ここもかなり深いです。
城の真ん中にありますが、先を見通せないよう折れています。
真ん中に橋が架けられています。

【12】師戸城
12.三之丸

案内図では自由広場と書かれている三之丸です。
イラストも実際もバッチリ野球場です。
野球場だけでは収まり切れず、西には梅園もあります。

【13】師戸城
13.上から見た中堀

三之丸を一周し、橋の上から中堀を見ました。
大きな堀は、下から見ても上から見ても絶景です。
街灯が丸々収まる深さです。
曲がっている様子も一望出来ます。

【14】師戸城
14.本丸

三之丸から橋を渡って入るのが本丸です。
全面芝生の公園です

【15】師戸城
15.土塁

しっかりした土塁が中堀沿いにあります。
公園化の際、これを崩して堀を埋められず良かったです。

【16】師戸城
16.小堀

先端部の平地は、真ん中に堀跡があります。
左側が二之丸、少し高い右側が本丸です。
埋められていますが、少し凹み土塁もあります。

【17】師戸城
17.展望台

二郭南端には、ブロックを円形に並べた展望台があります。
展望台とはいえ、段差は無し。
何故なら、切岸沿いで視界を遮る物が無いからです。
普通なら対岸の臼井城を撮るのでしょうが・・・
ウッカリさんの私はスッカリ忘れていました(๑´ڡ`๑)

【18】師戸城
18.縄張図 図を拡大表示

展望台の真ん中に、御影石に掘られた縄張図があります。
普通は電防台から見えるのが何か、案内がありそうなもんですが。
見えるものが限られているからでしょうか?

【19】師戸城
三之丸虎口

最後に東側の虎口を見て来ました。
縄張図には、三之丸の東側に虎口が描かれています。
しかし、公園となった現在、ココから出入り出来ません。
土塁に切れ目の痕跡が見えますが・・
撮るの忘れちゃいました_| ̄|〇

【19】師戸城
19.虎口

城外への虎口は、こんな形で残っています。
何となくですが、往時の形ではなさそうな感じです。
土塁は無く、代わりに竹藪が道を隠していますクローバー


◆歴史◆

鎌倉時代末にはあったようです。

師戸城は、臼井城の支城でした。
『臼井家抜書』では、鎌倉時代末に師戸四郎が居城としたと記されています。
師戸氏は臼井氏の一族と考えられています。
その後の師戸城の攻防はわかりませんが・・・
対岸に位置した臼井城とセットで推移したと思われます。
臼井城は戦国時代、千葉家筆頭家老の原氏の城となりました。

1590年、廃城となりました。

豊臣秀吉により、後北条家が滅ぼされました。
千葉家、原家ともに後北条家に属したため、攻撃対象となりました。
誰の軍勢が攻めたのかが?ですが・・・
臼井城と同じく徳川軍ではないかと推測します。
千葉家・原家が改易されると、師戸城は廃城となりました。


所在地:千葉県印西市師戸 GPSログダウンロードページ

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臼井城/千葉県佐倉市

臼井城は、上杉謙信を退けたことで有名なお城です。
訪問日は2022年2月5日です。

【位置】臼井城
別ウィンドウで表示

ここは上杉謙信が攻め落とせなかったお城でした。
現状は公園となっており、昔訪ねた時にはそれが何故なのか?でした。
色々見落としもあるようなので、それを確かめて来ました。

【1】臼井城
1.駐車場(堀切)

まずは駐車場です。
住宅街の真ん中にあり、周囲の道は細いです。
しかもかなりの交通量!
それでもご安心下さい。
公園になってるだけあり、ちゃんとあります!
駐車場は南側の真ん中です。

【2】臼井城
2.堀切

駐車場の奥です。
もうこれ見ただけで城跡感が漂います。
一見虎口のように見えますが・・・
実はココは大堀切で、奥は土橋です。
正体を知ると、かなり改変されているようで残念になります。

【3】臼井城
3.公園

ということで、とても広い公園になっています。
昔来た時の印象は、この写真の通りでした。
何故上杉謙信は攻め落とせなかったのか・・・?
かなり時間が経ったので、自分の目で確かめたくなりました。

【4】臼井城
4.案内図 2009年に撮影した綺麗な図を表示

ザックリです。
見習いたいです。

【5】臼井城
5.南口

とりあえず一周しようと、時計回りに外周を歩きます。
南西の南口ですが、要害性ゼロ。
ここは城の虎口ではなさそうです。
・・・とはいえ、チラッと見えてます^^

【6】臼井城
6.説明板 説明板を表示 図を表示

その前に、ここに城跡オブジェが揃ってます。
まずは説明板です。
かなり曇ってはいますが、縄張図付きです^^

【7】臼井城
7.城址碑

そして、立派な城址碑もあります。

【8】臼井城
8.堀

そして、チラッと見えていたアイツです。
ここでも地位は相当低いようで、原形を留めていますクローバー
上から見ただけでも、相当な規模だとわかります。
上杉謙信を退けたのはこれでしょうか^^

【9】臼井城
9.南西の切岸

どこかに載ってた図では、反対側にも堀が描かれています。
それで見に行くと、道の外側は急斜面でした。
てっきり平地が続いているかと思っていました。
こうして見ると、要害性がかなり隠れています。

【10】臼井城
10.太田図書の墓 説明板を表示

堀底に下りてみたくて、堀沿いに歩きました。
すると、南口を出て間もなく太田図書の墓がありました。
太田図書は太田道灌の弟で、ここで討死しました。
お墓があるので守備側かと思いきや、攻撃側でした。

【11】臼井城
11.堀に下りる道

じっとりした目付きで堀を見ながら歩いていたら見えました。
堀底に下りる道が、北側にあります。

【12】臼井城
12.堀底

上から見た通りで、かなり大きいです^^
北から南西にかけ、台地と城を分断しています。
堀底も行ける所まで行きました。
大きな堀は、台地端に開口していました。

【13】臼井城
13.公園側から見た堀

再び公園に戻り、南口から時計回りに。
今度は内側から堀を見下ろします。
とはいえ、内側からはあまりよく見えません。
ここが一番よく見える場所でした。

【14】臼井城
14.土橋の説明板 説明板を表示 図を表示

さらに端を進むと、浅い堀沿いになります。
ここは、駐車場から上がって来た所にある土橋です。
日差しの関係で、しましまになってしまいました。

【15】臼井城
15.土橋

往時からあった感じです。
ここで二郭(西側)と主郭(東側)が繋がっています。

【16】臼井城
16.土橋から見た堀切

上から見ると、それっぽく見えます^^

【17】臼井城
17.堀

駐車場の堀切から、土橋を挟んだ反対側の堀跡です。
埋められているのが、幅の広さからわかります。
ちゃんとした深さで駐車場まで続くと、かなりの規模に。
昔の私が要害性を感じなかったのは、堀を全く見てなかったからでしたあせる

【18】臼井城
18.堀切

浅くなった堀の奥は、堀切になっています。

【19】臼井城
19.堀の端から見た北側の堀

その奥で堀切は終わっていますが・・・
その先には、もっとずっと深い堀があります。
これは、先ほど歩いてきた北側の堀です。

【20】臼井城
20.腰曲輪

堀端の反対側は、腰曲輪となっています。
大手門から一段低くなっています。

【21】臼井城
21.大手門跡

堀底を戻って土橋の先が大手門跡です。
広くて土塁も残っています。

【22】臼井城
22.大手門の土塁

土塁はシャープさを欠いていますが・・・
端の櫓台っぽさが残っています。

【23】臼井城
23.大手門の反対側の土塁

反対側も^^

【24】臼井城
24.大手門前の右脇にある曲輪

大手門の左外には、土塁で囲まれた曲輪があります。

【25】臼井城
25.大手門脇から堀切

その端を歩くと、深い堀が見えます。
何度も登場している、北側の堀です。

【26】臼井城
26.大手門前の虎口

大手門の右側は、切岸を掘った虎口になっています。
大手門は、土塁で囲まれた枡形だったようです。

【27】臼井城
27.大手門下の腰曲輪

虎口の先には、一段低い曲輪があります。
先ほどの一段低い曲輪とはつながっていません。

【28】臼井城
28.北東側に下りる道

曲輪の先は、細道が下っています。
断崖に沿っていて、進路が限定されます。
しかもこの傾斜なので、大軍で突撃は不可です。

【29】臼井城
29.主郭北東部

大手門から再び城内へ戻り時計回り。
東側が主郭です。
ここも公園となっていて、ただの広場です。

【30】臼井城
30.主郭南東側の切岸

上はただの公園ですが、南東はこんなです。
13年ぶりに訪ね、ここの要害性を確認出来ました^^


◆歴史◆

臼井氏により築かれたと考えられています。

臼井氏は1114年、当地に来た平常康を祖とします。
平安時代なので、築城はもっと後の時代と思われます。
居館がどこだったのかは?ですが。
臼井氏は戦国時代まで臼井城を拠点とします。

1478年、太田図書に攻められました。

長尾景春の乱で、千葉孝胤は古河公方に従わず。
そのため連合軍の討伐対象となりました。
当時の居城を追われた千葉孝胤は臼井城に籠城。
この籠城戦は7か月にも及びました。
包囲が緩んだ際に籠城方が城外へ突出。
城主・臼井持胤と寄手の大将・太田図書が討死しました。
この激戦により臼井城は陥落。
千葉孝胤は逃れ、一時消息不詳となります。

臼井景胤が小弓公方の配下となります。

臼井景胤は、臼井持胤の子で千葉孝胤の孫です。
臼井持胤は千葉孝胤の子で、後継ぎの無い臼井氏を継いでいました。
臼井景胤は伯父の千葉勝胤とは不仲だったようで・・・
小弓公方に味方し、下総での中核的戦力と位置づけられました。
しかし、1538年の第一次国府台合戦には出陣していません。
この頃までには千葉家に抑えられていたと考えられています。

1557年、原氏の城となります。

臼井景胤が没し、子の臼井久胤が継ぎました。
ただし幼少のため、外祖父の原胤貞が後見となります。
原胤貞は善政を敷き、家臣・領民の支持を得ました。
臼井久胤は傀儡となります。

1561年、里見軍に奪われました。

長尾景虎が関東に出陣し、関東管領と上杉家を継ぎました。
これに呼応して里見義堯も北上し、生実城と臼井城を奪いました。
城を攻めたのは、この年に大多喜正木家を継いだ正木信茂です。
正木信茂は当時二十歳ですが、見事に父の勇名も継ぎました。
臼井久胤は千葉家ではなく、結城晴朝を頼りました。

1564年、原貞胤が奪還しました。

第二次国府台合戦で、後北条・千葉連合軍が里見軍に勝利。
勇将・正木信茂は討死し、千葉軍は里見家に奪われた領地を奪還。
原貞胤も本拠の生実城と臼井城を奪還しました。
臼井久胤は奪還後も戻って来ず、名実共に原氏の城となります。

1566年、上杉謙信を撃退しました。

この頃の上杉謙信は、毎年のように関東に出陣していました。
この時は離反を繰り返す佐野氏や小田氏を攻めに来ました。
そのまま南下し、千葉家重臣・高城氏を攻めて船橋一帯を占領。
海運を掌握し、さらに侵攻するための拠点としました。
そして千葉家筆頭の重臣・原胤貞の生実城・臼井城も攻めました。
圧倒的戦力差で、主郭を残すのみという所まで追い詰めますが・・・
軍師・白井浄三と赤鬼の異名を持つ北条家臣・松田康郷が活躍。
大激戦の末、上杉軍を撃退しました。
この敗戦が、関東諸将の上杉家離れを加速することとなりました。

1574年、原胤栄が本拠としました。

原貞胤の子・原胤栄が、本拠を生実城から臼井城に移しました。
原胤栄は千葉家筆頭の家老でしたが・・・
1557年に千葉親胤が殺害されてからは、その地位が揺らぎ始めます。
千葉親胤の後を継いだのは、分家の海上胤富でした。
千葉胤富は、従来から近くで従っていた原親幹を重用しました。
1585年、千葉邦胤殺害後、北条氏照の弟が千葉家当主となりました。
この養子・千葉直重を迎えたのは、原胤栄の主導によるものです。
これにより原胤栄も後北条家直臣・臼井衆筆頭となります。

1590年、徳川家の城となります。

豊臣秀吉の小田原征伐により、後北条家が滅ぼされました。
本土寺の過去帳によると、1589年に原胤栄が没しています。
小田原城が包囲されていたため、急遽一族の原邦房が城代となります。
その後、臼井城は徳川軍に攻められ落城します。
関東が徳川家康領になると、酒井家次が城主となります。

1604年、廃城となりました。

酒井家次が上野国高崎へ移封しました。
臼井は幕府天領となったため、臼井城は廃城となりました。


所在地:千葉県佐倉市臼井 GPSログダウンロードページ

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本佐倉城/千葉県酒々井町

本佐倉城は、下総千葉家の本拠地でした。
訪問日は2022年2月5日です。

【位置】本佐倉城
別ウィンドウで表示

本佐倉城は、続日本100名城に選ばれました。
選ばれる前の2014年はまだ草ボーボークローバーでしたが・・・
今ではすっかりシュッとして歩きやすくなってます。
ということで、2時間半掛け歩き尽くしました^^
いつもの感覚で写真を選ぶと70枚を超えてしまい・・・
削りに削りましたが、それでも長くなってしまいましたあせる

【1】本佐倉城
1.東山馬場(駐車場)

駐車場になった東山馬場です。
流石は続日本100名城。
訪ねる人が不便しないよう整備されています。
手前にはプレハブ小屋も建ち、某スタンプが押せます合格
ちょっとやり過ぎな気もしますが・・・

【2014】本佐倉城
1.東山馬場(2014年)

続日本100名城に選ばれる前の東山馬場です。
地面や木の刈り方が今とは違います。
構造体が見やすくなったのは歓迎すべき事ですが。

【2】本佐倉城
2.東山馬場の奥

東山馬場からの進路は奥へ!一択です。
奥へ進むと、左前方には緩やかな段曲輪が続きます。
そこにある千葉家家紋の入った板、2014年もありました^^
もうちょっと草に埋もれる感じでしたがクローバー

【3】本佐倉城
3.東山虎口

東山馬場から奥へ進み、真正面には大きな虎口があります。
とはいえ向こう側が見えないので、自然と視線は段曲輪に向きます。
こちら側は後程紹介します^^

【4】本佐倉城
4.IV郭虎口 説明板を表示

さて、緩やかな段曲輪の左端が、掘り込んだ通路になっています。
ひと際大きなこの段差の上がIV郭、そしてここがその虎口です。
段差の上のIV郭からも、さらに緩やかな段曲輪が連なります。

【5】本佐倉城
5.大堀切 説明板を表示

通路左側の切岸に沿って進むと、大きな堀切があります。
左側が城山(主郭)、右側が奥ノ山(二郭)です。

【6】本佐倉城
6.城山虎口 説明板を表示

主郭はいつもは最後に見るのですが・・・
駐車場がすぐ脇にあるので、どうしても最初に来てしまいます。
大堀切から左へ入る道を進み、ぐねっと回り込んで上がります。
その虎口を上から見ると、こんな感じですラブラブ

【7】本佐倉城
7.城山(主郭)

いきなりですが、主郭です。
広いですヾ(*´∀`*)ノ
天気良くて無風なら飛びたくなりますが・・・
範囲が広過ぎて、たぶんカメラに収まりません。
法律の範囲内ではw

【8】本佐倉城
8.帯曲輪

城山の東側に、帯曲輪が見えます。
帯曲輪は南西から南を通り北東まで続いています。
入って来た虎口の南側の虎口から行けます。
ただ、歩くと下から「すみませ~ん」と声が。
あんまり歩いて欲しくなさそうです。

【9】本佐倉城
9.奥ノ山(二郭)登り口

続いて、城山と対面している奥ノ山です。
大堀切で分断されています。
表からも登れますが、裏にも登り口があります。

【10】本佐倉城
10.奥ノ山虎口

上がって来た方の虎口は、取って付けた感があります。
反対側のこちらは、IV郭虎口からまっすぐ上がった所です。
城内のド真ん中だけあり、それなりに厳重です。

【11】本佐倉城
11.奥ノ山

虎口側から見た奥ノ山です
やっぱり広いですヾ(*´∀`*)ノ
城山といい奥ノ山といい、綺麗に平らです。
削って出た土の行方が気になります。

【12】本佐倉城
12.倉跡(三郭)

奥ノ山と虎口を挟んで対面するのが倉跡です。
三郭に相当します。
IV郭から辿ると、中央を上がるのが正解っぽいです。

【13】本佐倉城
13.奥ノ山と倉跡の間の堀切

奥ノ山と倉跡の間から、下りる道があります。
元々は竪堀なのか、堀切なのか。
歩けない角度ではありません。

【14】本佐倉城
14.妙見神社 説明板を表示

下りた所に妙見神社があります。
千葉一族の城跡にはほぼ必ずあります。
元々は倉跡辺りにあったそうです。

【15】本佐倉城
15.説明板と図 図を拡大表示

さらに下った登り口に、立派な説明板があります。
左側のは、私が飛んで撮りたかった感じのものです。
なぜか単体でこの板を撮りませんでしたが・・・
右側の案内図は、やけに範囲が広いです。
それは、向かい側の向根古谷と根小屋も描いているからです。

【16】本佐倉城
16.向根古谷(左)と根小屋(右)

田んぼを挟んで見える高台が、向根古谷と根小屋です。
字がビミョーに違います。
土塁や虎口などが残っているそうで・・・
完全攻略となるとあちら側も見なければデス。

【17】本佐倉城
17.IV郭

さて、本体ですらまだ道半ば!
ということで、あちら側には行かず戻りました。
倉跡からIV郭にかけては、低い段々が続きます。
IV郭だけは、呼び名でなくギリシア文字です。
倉跡とIV郭の境目が?でしたが・・・
用途が違ったんでしょうね。
虎口のすぐ上で、段差もひと際高いので。

【18】本佐倉城
18.IV郭北側の土塁

IV郭北側には、分厚い土塁があります。
東山虎口の土塁を見下ろす高い場所にあります。
東山側と同じく、土塁の上に曲輪がある感じです。

【19】本佐倉城
19.東山虎口(大手門)

続いて、東山虎口です。
本佐倉城の大手門と位置付けられる虎口です。
とは言え、背後の東山馬場側はスカスカなのですが・・・
北側に備えた構造ということであれば納得です。
南側には名前の付いた虎口がありませんので。

【20】本佐倉城
20.東山虎口(外から)

虎口なので、恒例により内外から撮ります。
時間帯が悪く、どう構えても太陽が入ってしまいましたあせる

【21】本佐倉城
21.東山へ続く土塁

東山虎口を構成する土塁です。
2014年に訪ねた時は、この先がどうなってるか見ませんでした。
この土塁は、結構長く続いています。

【22】本佐倉城
22.土塁の上

土塁自体がとても大きく、東山馬場と城外を隔てています。
やっぱり土塁と呼ぶのが妥当なのでしょう。
その土塁先端部は、外側に土塁の付いた曲輪があります。

【23】本佐倉城
23.土塁外側の横堀

土塁の外側には横堀があります。
土塁に帯曲輪が付いた感じです。
規模のデカイ城は違いますねぇラブラブ

【24】本佐倉城
24.東山

虎口から続く土塁の下は、平らな土地が広がります。
段差があり、明らかに人の手が入っています。

【25】本佐倉城
25.東山虎口から見た東光寺ビョウ

城の北側には、このような感じで一段高い平坦地が続きます。
東山虎口から西側は東光寺ビョウと呼ばれています。
段差は2段あり、周りの湿地帯よりも高くなっています。

【26】本佐倉城
26.南奥虎口 説明板を表示

東光寺ビョウから一段高い所に上がる道が見えました。
ここを上がった所が南奥虎口です。
虎口と呼ばれていますが、曲輪の入口ではありません。
そのまま堀となり、反対側に抜けます。

【27】本佐倉城
27.倉跡とセッテイ山の間の空堀 説明板を表示

南奥虎口から奥へ進むと、大きな空堀があります。
この堀で城の台地が真っ二つに分断されています。
ここでも堀の地位はとても低いようで・・・
手付かずの竹藪となっていました。
堀は、反対側まで曲折しながら続いています。

【28】本佐倉城
28.セッテイ山の腰曲輪

空堀から上がると、ちょっとした平坦地に出ます。
周りを低い土塁に囲まれています。
ここがセッテイ山だと思っていましたが・・・
下の段の腰曲輪のようです。
奥に上がる道が見えます。

【29】本佐倉城
29.セッテイ山は立入禁止でした

ここは立入禁止でした。
「通路上に倒木多数」とありますが・・・
よく整備されている城跡にありがちな文言です。
私はヘーキなのですがあせる
歩きやすい城跡あるあるの諸刃の剣ですね。

【30】本佐倉城
30.セッテイ山北側の横堀

セッテイ山本体は立入禁止ですが、横堀は自由です^^
こんな所でも私は平気で歩けますクローバー
何となく横堀っぽい雰囲気を感じ進むと、しっかり土塁がありました。
一番奥まで進むと、端は西側の空堀を見下ろすように切れています。
ちょっと下りるのが躊躇われる程の高さがありました。
後でこっちの堀も見に行かねば!

【31】本佐倉城
31.北西から見た東光寺ビョウ

北西端から見た東光寺ビョウです。
目前まで湿地が迫り、少し高い平坦地が広がっています。
この段差の端に柵が並ぶ光景が目に浮かびます^^

【32】本佐倉城
32.セッテイ山北西の虎口

東光寺ビョウとセッテイ山の西側にも大きな堀があります。
そこが道になっていますが、その入口が虎口になっています。
東山虎口や南奥虎口のような名前はありませんが。
道は分かれ、登って行くとセッテイ山北側の空堀に出ます。
登らなければ、南北につながる道があります。

【33】本佐倉城
33.セッテイ山西側の空堀

道はちゃんと歩けるよう整備されていますが・・・
すぐに左脇に堀が分岐しています。
入口はクローバークローバークローバーでカムフラージュされています。
少し進むと手付かずの竹藪で、足元は倒れた竹で埋まっています。
まぁ、これより酷い所歩いて来たので平気ですが。
慣れってオソロシイです。


◆歴史◆

1480年頃、千葉孝胤により築かれました。

ここに至るまでの千葉家のゴタゴタは複雑ですが・・・
書き始めると、ただでさえ長いこのブログがさらに長くなりますあせる
でも、ザックリでも書かないと状況が理解出来ないので少しだけ。

・1455年、享徳の乱が始まり千葉家は古河公方派と幕府派に分裂
・1455年、古河公方派の馬加康胤が勝利し千葉宗家が没落
・1456年、幕府が東常縁を討伐に向かわせ馬加康胤が討死
・古河公方が東常縁に敵対的行動をとる
・1469年、美濃の本拠地を斎藤妙椿に奪われ東常縁が撤退
・千葉家庶流の岩橋輔胤が国人衆に支持される
・1471年頃、岩橋輔胤の子・孝胤が千葉家当主を自称
・1476年、長尾景春の乱で古河公方に逆らい討伐され一時没落
・宗家の千葉自胤が当主となるも下総を掌握出来ず
・1486年、太田道灌暗殺を機に後ろ盾を失った千葉自胤が衰退
・古河公方の支持を得た千葉孝胤の勢力が安定
といった感じです。

1502年、古河公方に攻められます

理由は不明ですが、千葉勝胤が古河公方・足利政氏と不仲になります。
足利政氏は篠塚陣を拠点に、本佐倉城を攻めました。
しかし1504年、山内上杉家と扇谷上杉家の対立が激化。
両上杉家に古河公方、今川家、後北条家を巻き込む大戦となります。
この状況に古河公方は千葉家と和睦。
千葉勝胤は、古河公方とともに山内上杉軍に味方しています。

千葉家は次第に後北条家に吸収されます

1510年代になると、古河公方・足利政氏は嫡男・足利高基と対立。
さらに次男・足利義明が真里谷氏に担がれ、千葉家の小弓城を奪います。
千葉昌胤は小弓公方に対抗するため、後北条家に接近。
後北条家が小弓公方と和睦すると、一時的に従いました。
しかし、1538年の第一次国府台合戦では後北条方として戦います。
そして小弓公方が討死すると、小弓城を奪還しました。
1546年の河越夜戦では、関東諸侯では唯一後北条軍に味方しています。
直後に千葉利胤が没し、まだ幼い千葉親胤が当主となりました。
そのため、重臣の原胤清・胤貞の発言力が強まります。
成長した千葉親胤は不満を持ち、反後北条の足利晴氏と手を組みますが・・・
北条氏康に捕らえられ、殺害されます。
以後、後北条家と連携して里見家と争いますが・・・
1585年、千葉邦胤が家臣に殺されると、北条氏直の弟が当主となります。

1590年、廃城となりました。

豊臣秀吉により後北条家が滅ぼされ、千葉家も改易されました。
千葉直重は赦免後蜂須賀家に仕え、子孫は伊勢姓を名乗りました。
千葉邦胤の子・重胤は各地を流浪。
一時領地を与えられますが返納し、再び浪人となっています。
城は一時的に佐倉藩の藩庁が置かれたこともありましたが・・・
1615年、佐倉城の完成と一国一城令により役目を終えました。


続日本100名城スタンプ設置場所
【スタンプ】本佐倉城
 国史跡本佐倉城跡案内所(駐車場)
 押せる時間 いつでも可(開館は9時~16時半)
 休館日 月曜日(祝日の場合その翌日)、
     年末年始(12月28日~1月4日)
 無料



所在地:千葉県印旛郡酒々井町本佐倉 GPSログダウンロードページ

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椎津城/千葉県市原市

椎津城は、真里谷信隆が本拠としたお城です。
訪問日は2022年1月8日です。

【位置】椎津城
別ウィンドウで表示

椎津城は戦国時代、真里谷信隆が本拠としたお城です。
しかし現在は住宅街に飲み込まれ、主郭が辛うじて残っています。
城域は、椎津川に囲まれた一帯だったと推測されます。
5の道は一方通行ですが、ここだけ路肩が広くなっています。
5~6は堀切の名残が残っており、5は堀端らしい地形になっています。
南へ2本目の道も堀切跡とされ、東側にその名残がありそうです。
西側から見てわからずスルーしてしまいましたが・・・
6~7~8では、腰曲輪が見られます。
主郭部には明確な区切りは無いものの、3つに区画されていたようです。
僅かながらに土塁や虎口などを見ることが出来ます。

【1】椎津城
1 椎津川越しの遠景

城跡は、姉ケ崎駅から徒歩10分程南にあります。
手前を流れるのは、堀代わりになりそうな椎津川です。
この川は城の東・北・西を囲むよう蛇行しています。
今では住宅街となった城跡ですが、雰囲気を感じます。
当日は雪が残っていたため、電車で城跡めぐりをしました。
バイクではここを通り過ぎてしまい、撮影出来なかったと思われます。

【2】椎津城
2 切岸

城跡へ向かう道は、本当にただの住宅街です。
「ここが城跡だった」と信じてくれない人の方が多そうです。
それでも、城キチの目には往時の姿が目に浮かびます。
幻影ではないと思いたいです。

【3】椎津城
3 入口の入口

城跡への案内はありますが、少ないです。
川を渡ってすぐの矢印から、道なりに歩いたつもりです。
そうこうする内にだんだん不安になりますが・・・
これ以上進んだら行き過ぎる?と思うのがココです。
切岸状にぽっかり口を開けた道・・・
山中の景色に脳内変換すると、「!」となります。
クルマはここに停めておけます。

【4】椎津城
4 入口

実はスルーしてしまいましたが・・・
上の入口の入口の所で鋭角に右を見たのがココです。
私はそこまで首を振らなかったので直進しましたが(汗)
城跡らしさはありませんが、幟が目印になります。
・・・巻き付いてほぼ読めませんけどあせる

【5】椎津城
5 堀跡

さて、入口をスルーしてしまった私。
なぜなら、この光景のインパクトが大きかったからです。
「住宅街になり何も無い」という先入観が邪魔をしました。
なんだ、ちゃんと堀の名残があるじゃないか!という感じです。

【6】椎津城
6 腰曲輪

堀跡を抜けると、城山の脇に平坦地があります。
どうみても改変されまくったであろう平坦地です、
往時からこの地形なら、間違いなく腰曲輪です。

【7】椎津城
7 北側の腰曲輪

城跡はこっちだ!と、上の平坦地の奥へ進みました。
すると、段々になった腰曲輪が連なっています。
どうみても畑なので、改変されまくってるでしょうけど。

【8】椎津城
8 裏側の入口 図を表示

裏側にも、城跡に上がれる場所があります。
目の前に図がありますが、なぜか立入禁止と書かれています。
まぁ、表が解放されているし危険な感じもなし。
こちらから上がりました。

【9】椎津城
9 虎口

上がった所は、土塁に挟まれた虎口でした。
「何も無い」という先入観は、ココで打ち消されました。

【10】椎津城
10 主郭

まぁ、内部はこんな感じですが。
いつもの賑やかさはありません。
私はこっちの方が好きですがw

【11】椎津城
11 なるべく広く 説明板を表示

幟のある入口側から、なるべく広く撮りました。
内部は低い土塁で隔てられています。
写っていませんが、右側にも少し段差のある部分があります。

【12】椎津城
12 標柱

城跡を示すモニュメント、欲しかったです。
土塁上に立つ超美文字の標柱ゲットです^^

【13】椎津城
13 別の角度から

段差のある所から見た主郭です。
広さはそれ程でもないですが、綺麗に削平されています。

【14】椎津城
14 北西隅の土盛り

外周の土塁は途切れ途切れです。
所々にこんな感じの土塁があります。
ここは櫓台でもあったのでしょうか。

【15】椎津城
15 虎口

そして、幟のある入口につながる虎口です。
舗装されていますが、面影はバッチリ残っています。

【16】椎津城
16 入口

虎口から下りてきて撮った入口の案内です。
「房総の戦国史」とありますが、その通りです。
ここは上総の雄・真里谷氏の本拠地でしたから。
地形的には川に囲まれた一帯が城だった感じです。
住宅街に変貌しましたが、こうして一部分だけ残っています。


◆歴史◆

築城時期は諸説あります

・千葉一族・椎名胤仲が1325年頃に所領としていた
・建武2年(1335年)三浦高継が椎津を所領としていた
・応仁年間(1467-69年)に三浦定勝が築城?
・明応年間(1492-1501年)上総武田氏が北方の備えとして築城?
などです

1519年、古河公方に攻められました

この2年前、真里谷恕鑑が小弓公方を擁立。
古河公方、千葉氏らへの対決姿勢を鮮明にしました。
小弓公方は真里谷軍・里見軍を率いて、古河公方勢を撃退。
翌年には、敵方へ侵攻する積極姿勢を見せています。

1534年、小弓公方に攻められました

真里谷恕鑑の後継者は真里谷信隆と決まっていました。
しかし、小弓公方が真里谷信応を推し横槍を入れます。
これにより、真里谷家中が真っ二つに割れました。
真里谷信隆は5月に真里谷城を脱出し、椎津城に籠りました。
これは、後ろ盾となった後北条軍の支援を得るためです。
半年後に椎津城は陥落し、真里谷信隆は峰上城へ移りました。
そこも小弓公方に攻め落とされ、子の真里谷信政が守る造海城へ移ります。
今度は造海城が里見義堯に攻められ、和歌百首を条件に開城。
真里谷信隆は、後北条家を頼り武蔵国金沢へ逃れました。

1538年、真里谷信隆が復帰します

第一次国府台合戦で小弓公方と後北条軍が激突しました。
しかし、小弓公方が戦死し、真里谷信応は後ろ盾を失いました。
後北条軍の支援を得た真里谷信隆は、上総に戻り真里谷信応を圧倒。
敗れた真里谷信応は、里美義堯を頼り安房へ逃れました。
上総に復帰した真里谷信隆は、椎津城を本拠としました。

1552年、真里谷家が没落しました

1551年に真里谷信隆が没すると、里美義堯が動きます。
北条氏康が真里谷信政や土岐頼定に接近したためです。
しかし、土岐頼定は後北条家に付かず里見義堯に通報。
里見義堯は先手を打って、真里谷信政を攻めました。
正木時茂率いる里見軍により椎津城は落城し、真里谷信政は自害しました。
この時、里見家で匿われていた真里谷信応が誅殺された説もありますが・・・
里見義堯は真里谷信応の子・真里谷信高を真里谷家当主とします。
真里谷家は以後、里見家の傀儡となります。
真里谷信高は真里谷城に入り、椎津城は里見家臣が城代となります。
戦国時代の城主・椎津小太郎は、里見家臣だったとされます。

1564年頃から後北条家と里見家で争奪戦を繰り返します

1564年、里見軍が再び国府台で後北条軍と激突。
第二次国府台合戦と呼ばれるこの戦で、里見軍が大敗を喫しました。
すると、里見家に従っていた土岐家や大多喜正木家らが離脱。
真里谷家も一時、里見家を離れて後北条家に従うようになります。
里見家は本拠・久留里城も陥落し、一時上総の大半を失います。
椎津城は、後北条家臣・白幡六郎が城主となります。

1567年、後北条軍が再び里見軍と直接対決します。
場所はかなり南の三船台で、里見義弘の居城・佐貫城のすぐ北です。
後北条軍が三船台に砦を築いていることを察知し、里見軍が攻撃。
これに対し、後北条軍は北条氏政・氏照兄弟の本隊が出撃しました。
戦いは里見軍が勝利し、後北条軍本隊の敗北という歴史的事件となりました。
これにより、真里谷家、庁南武田家、勝浦正木家などが里見家に帰順。
里見家は勢力を盛り返し、一気に上総の領地を回復しました。
その後里見軍は、下総の千葉家領に攻撃を仕掛けています。
この時に拠点としたのが、後北条軍から奪還した椎津城でした。

1576年、後北条軍が上総へ侵攻。
土気と東金の酒井氏が再び降ります。
この時、椎津城は後北条軍の指揮下に入っていました。
以後、廃城となるまで後北条家臣・白幡六郎が城主を務めます。

1590年、廃城となりました。

豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、浅野長政が房総半島に侵攻。
後北条家に属する各勢力の城を攻めました。
この時に椎津城にも攻め寄せ落城。
白幡六郎は脱出するも、3km程離れた白塚という所で討死。
城は戦後、廃城となりました。


所在地:千葉県市原市椎津 GPSログダウンロードページ

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庁南城/千葉県長南町

庁南城は、庁南武田家の本拠地でした。
訪問日は2022年1月29日です。

【位置】庁南城
別ウィンドウで表示

庁南城は、細尾根を高土塁に見立てた構造になっています。
主要部は13~16辺りで、そこから東へ段を連ねます。
7がその開口部で、南北の高い尾根で挟まれています。
一見すると無防備に見えますが・・・
細尾根の端は削られ垂直で、攻め口は開口部しかありません。
主要部手前の17に堀切があり、そこから下る道があります。
その下の18に立つと、この城の攻めにくさを実感できると思います。
4~5~20~18~17に道はありますが・・・
麓からだと笹薮に隠れ、道は見えません。
尚、歩いたコースではないのですが、7の南と16の東の谷戸も曲輪です。
1~3の長久寺が城主の居館跡とされています。

【1】庁南城
1 長久寺

まずは西側の長久寺です。
手前に広い駐車場があります合格
主要部の真下にあり、城主様の居館があったと伝わる場所です。
そういう目で見ると、やたらと段差が目に付きます^^

【2】庁南城
2 長久寺背後の尾根

お寺の背後は、北西から東にかけて細尾根に囲まれています。
この細尾根を伝って行けば、主要部に直接行ける!
・・・と、等高線を見ながら思っていました。
そんなルートを開拓しようと鼻息荒く挑みましたが・・・
お寺を囲む細尾根は、こんな風に端が削られ垂直になっています。
現在は少し崩れた箇所があり、行こうと思えば行けなくもなし。
でも、ここは本来の通り道ではないと判断しました。
この尾根の主要部側は、細い竹がビッシリ密生しています。
知らずに登っていたらクローバークローバークローバークローバークローバーで立ち往生するところでした。

【3】庁南城
3 堀切

それでも西側には、こんな堀切があります。
掘り方が薬研堀なので、往時からのものと思われます。
この尾根先端(写真の右方向)に、神明稲荷社があります。

【4】庁南城
4 北の八坂神社

庁南城を訪ねた人は「何もない」「わかんなかった」と言います。
他の城跡と構造がかなり異なっているのは確かです。
訪問前は、削り残しの細尾根が屏風代わりになっているイメージでした。
そんなんでどうやって守るんだろう?と考え込みましたが・・・!
ということで、まずは北側の細尾根沿いに進んでみました。
長久寺から道に出て少し東に行くと、この神社があります。
長久寺の東隣にある谷戸の端がココです。

【5】庁南城
5 北側真下から見た太鼓森

長久寺との間にも細尾根があり、ここも曲輪だったかもしれません。
外に開けている場所なので、曲輪というより根古屋だったかも。
ココから見ると、カックンと大きな段差があるのがわかります。
麓の木と上の木の高さが、ハッキリと違っていますよね?
国土地理院の地図にはここから上がる道が描かれているのですが・・・
道はおろか、踏み跡のかけらも見えず。
正面の藪は、真冬であっても人が歩けるようには見えません。
ただ、先に結論を書くとここに道があります。
後で紹介します♪

【6】庁南城
6 細尾根の断面

城を囲む細尾根は、どこから見ても登れそうにありません。
そんな細尾根の断面を見ることが出来る場所があります。
それがここで、福祉施設の入口となっています。
このザックリが意図的なものか、そうでないのか・・・
削られたのは残念ですが、断面が見えるのはちょっと嬉しいかも。
見た感じ、細尾根の両裾が削られているのがわかります。

【7】庁南城
7 案内

細尾根先端が終わると、谷戸内に入る道があります。
その入口にこの案内があります。
ここまで城域とすると、長辺が500メートル以上あることに。
谷戸の開口部が広いと守りが不安なのですが・・・
周りが田んぼなので、湿地だったのかもしれません。
もしそうだとすると、大軍で押し寄せるのは無理っぽいです^^

【8】庁南城
8 城ノ内

谷戸の開口部からは、段になった広い平坦地が連なります。
一番下のココは、城ノ内と呼ばれる場所です。
・・・名前通りの場所なんですよね、きっと^^
畑になり整地されていますが、こんな雰囲気だったのでしょう。

【9】庁南城
9 細尾根側面

外から見た細尾根は、とても登れる感じではありませんでした。
それは内側から見ても同じです。
両側から削られてるので、基部からでないと進めなさそうです。
細尾根上から敵を狙い撃ちしたのかもしれませんネ!

【10】庁南城
10 堀切と土橋

城ノ内→中城と段になった平坦地を奥へ進みます。
段差が「城跡だなぁ」と感動したのですが・・・
写真を見ると、ただの畑にしか見えずあせる
ということで、次に絵になるのが一気に奥のココです。

【11】庁南城
11 説明板

上総武田家の本拠!ということで、やっぱりあります。
文字もそれなりにあるのですが・・・
要約すると「構造がよくわからん」という感じです。
それでも、ひと際高い太鼓森が主要部だというのは確かなようです。

【12】庁南城
12 堀切断面

真正面から見ると土橋しか見えませんが、横を見るとザックリしてますラブラブ
ココで敵を食い止めるゾ!という決意が見えます。

【13】庁南城
13 妙見社

土橋からは、細尾根状の地形がぐるっと左へ回り込みます。
その上のひと際広い平坦地にある神社が妙見社です。
妙見様と言えば千葉氏が信仰しているイメージですが・・・
まぁ、往時は無くて、後から誰かが祀ったんでしょうあせる

【14】庁南城
14 奥へ続く踏み跡

細尾根で区切った城の上にある、細尾根の上の平坦地。
そんな妙見社にも、さらに奥があります。
妙見社を正面から見て右側の土塁に、歩いた跡が見えます。
きっと何かあるにチガイナシ!

【15】庁南城
15 虎口

そう思い土塁上を進むと、こんな虎口がありました。
・・・きっと往時よりも守りが固くなってますクローバー

【16】庁南城
16 土塁のある櫓台

虎口の奥にも、ちょっと広い空間がありました。
ここは、南側にだけ人の背丈程の土塁があります。
なぜこちら側だけなのかが?ですが・・・
端から見下ろすと、どの方向も断崖に囲まれています。
間違いなく、ここが一番奥ですね!

【17】庁南城
17 太鼓森入口の堀切

さて、ザックリとではありますが、城らしさを実感出来て大満足。
最後に、下からは見つけられなかった隠し通路を探します。
その入口がココです。
見たまんま素直に真っすぐ右斜め前へ進むと、断崖の上で行き止まり。
やっぱりココは通れない?と不安になります。

【18】庁南城
18 庁南城の切岸

しかし、諦めて戻りかけた所で、ジグザグに下りた跡を発見。
堀切から左へ進んだ所から危なげ無く下りられました。
下りた所から見えたのが、この光景です。
構造がわかりにくい庁南城ですが、守りの要はこの高い切岸です。
周囲の細尾根も含め、こんな感じの切岸にほぼ一周囲まれています。
こんなのが東西南北500メートル以上の規模であるなんて・・・
わかりづらいのは、スケールがデカ過ぎたからだと思い知りました。

【19】庁南城
19 下りた所

さて、隠し通路は下りて来ても隠し通路です。
素直に進むと、ちょっとした段の上のここに至ります。
ココから帰ろうと思うと、どうしても正面の民家の庭を通ります。
見ず知らずのオッサンが庭先を通ったら、きっと通報される・・・
やっぱり八坂神社に出る道は無いのか?と諦め掛けました。

【20】庁南城
20 隠し通路

そう思い堀切を登り直そうと思っていたら・・・!
はじめは目もくれなかった密集藪に、人一人通れる程の空間を発見。
偶然の物かと思ったら、曲がりながら奥へと続いています。
真っすぐなら道に見えたのですが、曲げて隠しているようです。
そのまま進んだら、八坂神社のある谷戸に出ました。
出口から振り返っても、通路があるようには全く見えずクローバー
地理院の地図に描かれていた道は、どうやら一方通行のようです^^


◆歴史◆

1456年頃、武田信長により築かれました

武田信長は甲斐出身で、古河公方に仕え上総に来ました。
ここまでの経過だけでも波乱万丈過ぎるので割愛します。
上杉氏勢力を駆逐した武田信長は、上総国守護代となります。
そして、その拠点として築いたのが真里谷城と庁南城です。
自らは庁南城に、長男・武田信高が真里谷城に入りました。
1477年頃に武田信長、武田信高が相次いで没します。
庁南城は武田信高の長男・武田道信、真里谷城は武田信興が継ぎました。
両家は独自に活動しますが、協力関係にありました。

庁南城の武田家は、土気の酒井氏、小弓の原氏と争いました。
特に原氏とは、境を流れる村田川の流路変化で度々争っています。
見かねた真里谷家は、古河公方の子・足利義明を迎えました。
足利義明は出家していましたが、この時に還俗します。
新たな旗頭を迎えた上総武田氏は、里見氏と酒井氏も味方に加えました。
そして原氏から小弓城を奪い、新たな御所としました。

1537年、第一次国府台合戦

小弓公方を迎えた真里谷家が、房総半島の旗頭的存在となります。
突如沸いた大勢力は、隣接する大勢力・後北条家とぶつかります。
初の直接対決となったのが国府台合戦ですが・・・
武勇に絶対の自信を持ち先陣を切った小弓公方が討死します。
「俺に矢は当たらん」などと言ったとか言わなかったとか。
これにより上総・安房の勢力を結んでいた存在が無くなります。
さらに、直後に真里谷家で内紛が勃発。
庁南武田家は真里谷信応を支持しますが敗れます。
後北条家を後ろ盾とした真里谷信隆が復帰します。

1564年、第二次国府台合戦

上総へ勢力を拡大した里見義堯が、国府台で再び後北条軍と戦いました。
第二次国府台合戦は2年連続で2度戦ったと考えられています。
この戦でも後北条軍が圧勝。
庁南武田家は里見家を見限り、後北条家に従うようになります。
しかしその後、里見義堯が上総の失地を徐々に回復。
1567年には三船山合戦で里見軍が後北条軍本隊に圧勝。
庁南武田家は、再び里見家に従うようになりました。

武田信玄の子を養子に迎えます

庁南武田家の跡継ぎが早世したため、後継者問題が勃発。
そのため、武田晴信の子を養子に迎えました。
この時に上総に来たのは、西保三郎(三男)と考えられています。
もしそうであれば武田義信の実弟、武田勝頼の異母兄ということに!
これを裏付ける史料は『上総武田氏系図』だけらしいですが・・・
その後、武田信栄→武田豊信と名乗るようになります。
1581年、里見義頼は後北条家に対抗するため武田家と同盟を結びました。
この時に両家を仲介したのが、この武田豊信です。

1587年、万喜城を攻めました

後北条家が豊臣秀吉と敵対姿勢を鮮明にしました。
そのため、各地の配下に兵を出すよう命じています。
この時、喜城の土岐氏は300騎の兵を出しました。
争っていた武田信豊は、手薄になった万喜城を攻めました。
しかし、これに備えていた土岐軍により撃退されています。

1590年、廃城となりました

小田原征伐の際、武田豊信は様子見に徹しました。
そのため、豊臣秀吉に命じられた徳川軍に攻められます。
庁南城は落城し、武田豊信は自刃したとも、信濃に逃れたともされます。
嫡子の武田氏信は上総月出に退去し、庁南城は破却されました。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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