2023/06/04
船岡山城/京都市北区
船岡山城は、「西陣」の由来になった陣城です。
訪問日は2022年8月4日です。
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船岡山城は別名、船崗山城、山名城とも呼ばれます。
平安時代には「丘は船岡」と清少納言が記した場所です。
保元の乱では敗軍の将・源為義らがこの地で処刑されました。
応仁の乱では西軍が陣を敷き、西陣の由来となりました。
その後、細川家内紛の戦場にもなっています。
豊臣秀吉が織田信長を弔う天正寺を建てようとするも中断。
江戸時代は、霊地として大切にされました。
明治時代に建勲神社が創建され、現在に至っています。 |
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【1】北西の入口 上に戻る
京都の市街地なので、駐車場は必須です。
北西の入口前にコインパーキングがあるので利用します。
小銭の用意はお忘れなく!
駐車場を出てすぐの所に公園の入口があります。
虎口っぽさは微塵もありません。 |
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【2】北の入口付近 上に戻る
すこ~しだけ虎口っぽいと感じた場所です。
まだ歩き始めたばかりなので、感度は高めです。
市街地のド真ん中なので、あまり遺構には期待せず。
とは言いながら、常にカメラを手に歩きました。 |
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いつも山城ばかり歩くので、図に飢えた狼です。
縄張図ではなくとも、案内図で色々妄想出来ます。
ちょい進行してますね?
こうして見ると、3つの領域に分かれてそうです。
すぐ上の広場と山頂、そして建勲神社です。 |
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【4】切岸 上に戻る
まずは神社へ。
公園の道を東へ進むと見えて来る光景です。
すぐ上ですが、東端まで行かないと上がれません。
こういう切岸とか構造が、城跡らしさを感じさせます^^ |
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神社の真下に、豪華な説明板があります。
古い絵図なので、城のように見えてしまいます。
自覚症状はあるのですが、完全に錯覚です。
神社だけでなく、歴史についても書かれています。
建勲神社の祭神は織田信長です。
また、応仁の乱で西軍が陣を敷いたので「西陣」だそうです。 |
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【6】建勲神社 上に戻る
大きなまとまりの1つ、建勲神社です。
独立丘陵の東側の尾根にあります。
西軍の陣なので、京を東側に望んだようです。
こんな感じで緩い段々になっています。
大軍を擁する陣なら、こんな感じでしょうか。 |
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神社を下りて南側に石碑と説明板があります。
私には南側の真っすぐな参道しか見えませんでしたが・・・
地図では東側にクネった道があります。
城の構造的には虎口だったっぽい感じがします。
そういう肝心な所を見落としてますが^^; |
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【8】曲輪っぽい場所 上に戻る
南側の道を西へ進む山頂方向へ。
頂上付近も平らな段が緩く続きます。
神社はガッツリ造成されていますが・・・
ここいらはどうなんでしょう?
公園にする時に平らにしたのか、元から平らだったのか。
明治時代まではいじらなかったと書かれてますし。
何度もここに陣を置いたなら、曲輪跡なのでしょうか。 |
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【9】山頂 上に戻る
一番高い所には、三角点があります。
後ろの煙突っぽいのじゃなくて、真ん中のがそうです。
流石に円いのは櫓台じゃないですね。
・・・そこまで眼力は衰えていません^^;
木々が無ければ見晴らしが良さそうです。
城跡らしさはあまり感じられません。 |
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【10】堀切っぽい場所 上に戻る
登る所に登ったのはあとは下るだけ。
そう思って通った通路が何だか!
ということでの一応撮りです。
尾根を横切る方向なので、恐らく堀切跡と思われます。
そう紹介している所が無いので、たぶんです。
・・・だんだんトーンが落ちて来ました^^; |
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【11】堀跡っぽい場所 上に戻る
そしてもう1か所。
最初はただの通路かと思いました。
でも、他の通路と様子が少し違います。
なので、これも一応撮りです。
でも、今思えば奥まで見て来ればヨカッタ・・・
何も無い所と思ってたのですが、堀跡はあるようです。
いつも帰って来てから知るんですよね、そういうの。
反省反省(^^ゞ |
◆歴史◆
1467年、山名宗全により築かれました
幕府中枢で権力のあった畠山家と斯波家で家督争いが発生。
この争いに次の将軍の座を巡る争いが絡み、争乱が発生。
京を中心に11年続いたのが応仁の乱でした。
東軍の中心は細川勝元、西軍の中心は山名宗全と大内政弘です。
畠山家と斯波家の家督争いは、興味シンシンですが・・・
一回書き掛けましたが、超長くなるので止めました^^;
船岡山城は1468年、細川勝元に攻められ落城しています。
しかし、西軍は大内軍の圧倒的兵力で東軍を圧倒。
1470年頃には京・山城一帯を制圧しました。
しかし1471年、朝倉孝景が越前守護就任で形勢逆転。
流れは一気に東軍に傾きます。
この頃には派手な戦は減り、小競り合いが続きました。
その後、両軍のトップ山名宗全と細川勝元が相次いで死去。
西軍が徐々に崩れ、1477年に乱は終結しました。
1511年、船岡山合戦の舞台となりました
船岡山合戦は、細川家の家督争いです。
1507年、管領・細川政元が家臣に暗殺されます。
細川政元は修験道にハマり、妻を娶っていませんでした。
そのため、養子3人によるデスマッチが始まります。
3人の養子は
・細川澄之(九条家出身)
・細川澄元(阿波守護の細川家出身)
・細川高国(備中守護の細川家出身)
です。
細川政元を暗殺したのは、廃嫡されていた細川澄之派の家臣でした。
当初は細川澄元・高国が協力し、細川澄之を討ち取りました。
この時に細川澄元が家督を継ぐことに決まりました。
しかし、この機に乗じ追放されていた前将軍・足利義尹が蜂起。
大内義興の大軍を引き連れて上洛し、細川高国を担ぎました。
細川高国もその気になり挙兵。
京を制圧した足利義尹は将軍に返り咲き足利義稙と改名。
細川高国と大内義興を幕府中枢に据えました。
1511年、反撃に転じた足利義澄・細川澄元は一時京を奪還します。
しかし、六角高頼が足利義植方に寝返り、足利義澄は失意の内に病死。
ここで形勢が一気に逆転します。
抵抗を続ける細川澄元軍は、船岡山に陣を張りますが敗戦。
防衛していた主将・細川政賢が討死しています。
敗れた細川澄元は、四国へ撤退します。
両者の戦いは、1531年に細川高国が自害するまで続きました。
豊臣秀吉が寺を建立しようとしました
豊臣秀吉が、ここに織田信長を弔う寺を建てようとしました。
元号を使用した「天正寺」で、正親町天皇に勅許を得ていました。
正親町天皇の在位は1557年11月から1586年12月の間です。
本能寺の変から4年以内の話と言うことになりますネ!
しかし、天正寺建立は中断されます。
その理由は以下の諸説があります。
・寺院建立により織田信雄を懐柔するためだった
・開山の古渓禅師が石田三成と不仲になり流罪となった
・古渓禅師に罪を着せて流罪にして中止にした
などなど。
以後、船岡山は古渓禅師の属した大徳寺所有となります。
1910年、現在地に建勲神社が遷座しました
1869年、織田信長を祀る建勲神社が創建されました。
その場所は、織田信雄の子孫が藩主の天童と江戸にある藩主邸でした。
1875年、建勲神社が別格官幣社に列せられ船岡山への遷移が決定。
1880年、社殿が完成。
1910年、麓から山上に社殿を移建して現在に至る、だそうです。
説明板は、いきなり現在地に出来たみたいに読めますけどネ!
所在地:京都市北区紫野北舟岡町 GPS軌跡ダウンロードページ
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