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船岡山城/京都市北区

船岡山城は、「西陣」の由来になった陣城です。
訪問日は2022年8月4日です。

船岡山城【写真位置】 大きな地図を表示

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船岡山城は別名、船崗山城、山名城とも呼ばれます。
平安時代には「丘は船岡」と清少納言が記した場所です。
保元の乱では敗軍の将・源為義らがこの地で処刑されました。
応仁の乱では西軍が陣を敷き、西陣の由来となりました。
その後、細川家内紛の戦場にもなっています。
豊臣秀吉が織田信長を弔う天正寺を建てようとするも中断。
江戸時代は、霊地として大切にされました。
明治時代に建勲神社が創建され、現在に至っています。
船岡山城【1】
【1】北西の入口 上に戻る

京都の市街地なので、駐車場は必須です。
北西の入口前にコインパーキングがあるので利用します。
小銭の用意はお忘れなく!
駐車場を出てすぐの所に公園の入口があります。
虎口っぽさは微塵もありません。
船岡山城【2】
【2】北の入口付近 上に戻る

すこ~しだけ虎口っぽいと感じた場所です。
まだ歩き始めたばかりなので、感度は高めです。
市街地のド真ん中なので、あまり遺構には期待せず。
とは言いながら、常にカメラを手に歩きました。
船岡山城【3】
【3】北東の入口付近にある案内図 拡大表示 上に戻る

いつも山城ばかり歩くので、図に飢えた狼です。
縄張図ではなくとも、案内図で色々妄想出来ます。
ちょい進行してますね?
こうして見ると、3つの領域に分かれてそうです。
すぐ上の広場と山頂、そして建勲神社です。
船岡山城【4】
【4】切岸 上に戻る

まずは神社へ。
公園の道を東へ進むと見えて来る光景です。
すぐ上ですが、東端まで行かないと上がれません。
こういう切岸とか構造が、城跡らしさを感じさせます^^
船岡山城【5】
【5】建勲神社の説明板 拡大表示 上に戻る

神社の真下に、豪華な説明板があります。
古い絵図なので、城のように見えてしまいます。
自覚症状はあるのですが、完全に錯覚です。
神社だけでなく、歴史についても書かれています。
建勲神社の祭神は織田信長です。
また、応仁の乱で西軍が陣を敷いたので「西陣」だそうです。
船岡山城【6】
【6】建勲神社 上に戻る

大きなまとまりの1つ、建勲神社です。
独立丘陵の東側の尾根にあります。
西軍の陣なので、京を東側に望んだようです。
こんな感じで緩い段々になっています。
大軍を擁する陣なら、こんな感じでしょうか。
船岡山城【7】
【7】船岡山の石碑と説明板 上に戻る

神社を下りて南側に石碑と説明板があります。
私には南側の真っすぐな参道しか見えませんでしたが・・・
地図では東側にクネった道があります。
城の構造的には虎口だったっぽい感じがします。
そういう肝心な所を見落としてますが^^;
船岡山城【8】
【8】曲輪っぽい場所 上に戻る

南側の道を西へ進む山頂方向へ。
頂上付近も平らな段が緩く続きます。
神社はガッツリ造成されていますが・・・
ここいらはどうなんでしょう?
公園にする時に平らにしたのか、元から平らだったのか。
明治時代まではいじらなかったと書かれてますし。
何度もここに陣を置いたなら、曲輪跡なのでしょうか。
船岡山城【9】
【9】山頂 上に戻る

一番高い所には、三角点があります。
後ろの煙突っぽいのじゃなくて、真ん中のがそうです。
流石に円いのは櫓台じゃないですね。
・・・そこまで眼力は衰えていません^^;
木々が無ければ見晴らしが良さそうです。
城跡らしさはあまり感じられません。
船岡山城【10】
【10】堀切っぽい場所 上に戻る

登る所に登ったのはあとは下るだけ。
そう思って通った通路が何だか!
ということでの一応撮りです。
尾根を横切る方向なので、恐らく堀切跡と思われます。
そう紹介している所が無いので、たぶんです。
・・・だんだんトーンが落ちて来ました^^;
船岡山城【11】
【11】堀跡っぽい場所 上に戻る

そしてもう1か所。
最初はただの通路かと思いました。
でも、他の通路と様子が少し違います。
なので、これも一応撮りです。
でも、今思えば奥まで見て来ればヨカッタ・・・
何も無い所と思ってたのですが、堀跡はあるようです。
いつも帰って来てから知るんですよね、そういうの。
反省反省(^^ゞ


◆歴史◆

1467年、山名宗全により築かれました

幕府中枢で権力のあった畠山家と斯波家で家督争いが発生。
この争いに次の将軍の座を巡る争いが絡み、争乱が発生。
京を中心に11年続いたのが応仁の乱でした。
船岡山城【応仁の乱】
東軍の中心は細川勝元、西軍の中心は山名宗全と大内政弘です。
畠山家と斯波家の家督争いは、興味シンシンですが・・・
一回書き掛けましたが、超長くなるので止めました^^;
船岡山城は1468年、細川勝元に攻められ落城しています。
しかし、西軍は大内軍の圧倒的兵力で東軍を圧倒。
1470年頃には京・山城一帯を制圧しました。
しかし1471年、朝倉孝景が越前守護就任で形勢逆転。
流れは一気に東軍に傾きます。
この頃には派手な戦は減り、小競り合いが続きました。
その後、両軍のトップ山名宗全と細川勝元が相次いで死去。
西軍が徐々に崩れ、1477年に乱は終結しました。

1511年、船岡山合戦の舞台となりました

船岡山合戦は、細川家の家督争いです。
1507年、管領・細川政元が家臣に暗殺されます。
細川政元は修験道にハマり、妻を娶っていませんでした。
そのため、養子3人によるデスマッチが始まります。
3人の養子は
・細川澄之(九条家出身)
・細川澄元(阿波守護の細川家出身)
・細川高国(備中守護の細川家出身)
です。
細川政元を暗殺したのは、廃嫡されていた細川澄之派の家臣でした。
当初は細川澄元・高国が協力し、細川澄之を討ち取りました。
この時に細川澄元が家督を継ぐことに決まりました。
しかし、この機に乗じ追放されていた前将軍・足利義尹が蜂起。
大内義興の大軍を引き連れて上洛し、細川高国を担ぎました。
細川高国もその気になり挙兵。
京を制圧した足利義尹は将軍に返り咲き足利義稙と改名。
細川高国と大内義興を幕府中枢に据えました。
1511年、反撃に転じた足利義澄・細川澄元は一時京を奪還します。
しかし、六角高頼が足利義植方に寝返り、足利義澄は失意の内に病死。
ここで形勢が一気に逆転します。
抵抗を続ける細川澄元軍は、船岡山に陣を張りますが敗戦。
防衛していた主将・細川政賢が討死しています。
敗れた細川澄元は、四国へ撤退します。
両者の戦いは、1531年に細川高国が自害するまで続きました。

豊臣秀吉が寺を建立しようとしました

豊臣秀吉が、ここに織田信長を弔う寺を建てようとしました。
元号を使用した「天正寺」で、正親町天皇に勅許を得ていました。
正親町天皇の在位は1557年11月から1586年12月の間です。
本能寺の変から4年以内の話と言うことになりますネ!
しかし、天正寺建立は中断されます。
その理由は以下の諸説があります。
・寺院建立により織田信雄を懐柔するためだった
・開山の古渓禅師が石田三成と不仲になり流罪となった
・古渓禅師に罪を着せて流罪にして中止にした
などなど。
以後、船岡山は古渓禅師の属した大徳寺所有となります。

1910年、現在地に建勲神社が遷座しました

1869年、織田信長を祀る建勲神社が創建されました。
その場所は、織田信雄の子孫が藩主の天童と江戸にある藩主邸でした。
1875年、建勲神社が別格官幣社に列せられ船岡山への遷移が決定。
1880年、社殿が完成。
1910年、麓から山上に社殿を移建して現在に至る、だそうです。
説明板は、いきなり現在地に出来たみたいに読めますけどネ!


所在地:京都市北区紫野北舟岡町 GPS軌跡ダウンロードページ
京都府の城跡/なぽの城跡巡りを表示

北白川城/京都市左京区

北白川城は、京の都を押さえる要衝でした。
訪問日は2022年8月4日です。

北白川城【写真位置】 大きな地図を表示

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別名は勝軍山城、勝軍地蔵山城、瓜生山城など。
某大聖典(日本城郭大系)では、勝軍山城として紹介されています。
でも、私は北白川城で書きます。
現地での表記を採用するのが私流なので。
この城は、京都の街を西に見下ろす瓜生山にありました。
木々で視界はゼロでしたが。
京が戦場となった頃に使われていた陣城です。
北白川城【1】
【1】駐車場 上に戻る

狸山地蔵尊の駐車場に停められます。
街が混むのを避けるため、夜明けに訪ねました。
銀閣寺から登る如意ヶ岳城はまだ行けていません。
車停められそうなのが9時半以降なので。
インバウンド回復前に行っとけば良かったデス。
でも、ここは多分心配要らないと思います。
北白川城【2】
【2】狸谷山不動院 上に戻る

狸谷山って変わった名前ですよね?
由来は咜怒鬼不動明王です。
平安京の鬼門守護としてこの地に祀られたそうです。
狸がいっぱい出るからではありませんでした。
狸谷山不動院がどんなお寺なのか知りませんでした。
ググったら清水の舞台そっくりな写真が出て来ます。
知ってたら見に行ったのですが(汗)
北白川城【3】
【3】登山口 上に戻る

境内を奥へ進むと登山口があります。
この先はお寺じゃないってそういう意味だったんですね。
狸谷山不動院の舞台は、石段を250段登った先にあります。
こんな感じで階段があると、間違えて登る人がいるんですね。
それにしても眺めが無いとか60歳以上はヤメておけとか。
それでも登るのは特殊な嗜好の持ち主ぐらいですけど。
北白川城【4】
【4】ハイキングコース 上に戻る

登山道はあるのですが、逸れました。
普通に山道登ってるつもりだったんですけどね。
いつものスキルを発揮してしまいました。
でも、ここから先は大丈夫。
ハイキングコースは堀底道みたいな感じなので。
北白川城【5】
【5】山頂 上に戻る

何て言う間に開けた場所に着きました。
雰囲気的にも山頂です。
もうちょっとガッツリ登山かと思ってました。
それが案外アッサリ15分で到着。
もっと「登山」したかったという訳ではないですが^^
あんまり体力使わずに済んでホッとしてます。
北白川城【6】
【6】虎口 上に戻る

とりあえず端から端を見て回ることに。
ハイキングコースからちょっと外れた所です。
たぶんこれ虎口ですね!
北白川城【7】
【7】虎口 上に戻る

南側にもしっかりした虎口が!
ああ、こっちにも道あるんやね
・・・ぐらいに思ってスルーしちゃいました。
地図見ると道無し。
下りて見て来ればよかったデス。
どこかに長~い横堀があるらしいので(+_+)
なんて思いながら某大聖典のページをめくると・・・
勝軍山城の図が載っていました。
その図では、ココから東側の長い堀へと破線が。
来る前にちゃんと見とけばヨカッタ!
と、毎年喚いてる気がします┐(´д`)┌
北白川城【8】
【8】説明板 上に戻る

色々書かれている説明板です。
お城の事も書かれています。
まさか3分の2が山の出来方ですw
別名の由来となったお地蔵様は移転。
その理由が余りにも山奥だからとか。
・・・そうでもないケドなぁ。
北白川城【9】
【9】元・勝軍山地蔵堂 上に戻る

ということで、抜け殻のお堂です。
それにしてはかなり立派です。
北白川城【10】
【10】虎口 上に戻る

北側にも道があり、こんな感じです。
掘られてクネって、まさに虎口という感じ。
本当はこっちから上がって来る筈でした。
北白川城【11】
【11】土塁 上に戻る

端には壁のような土塁があります。
お堂があるので削り残しかもですが。
京の反対側にだけあります。
細川晴元が造ったのでしょうか。
歴史的には京を攻める側が拠った城ですが・・・
構造的には逆向きになっている気がします。
北白川城【12】
【12】曲輪 上に戻る

山上の平坦面は、奥へと続きます。
人工的な感じはしますが、ちょっとビミョー。
でも、自然地形ではないとは感じます。
籠って守るタイプの城ではなかったからかもです。
北白川城【13】
【13】曲輪 上に戻る

先端部は西から南へ続きます。
その最先端がココです。
付け根部分とそう変わりありませんネ(^^;)


◆歴史◆

1520年、細川高国により築かれました

細川高国は、室町幕府で管領を務めた人物です。
当時は細川家で内紛があり、細川澄元と争っていました。
2人の養父・細川政元は、廻国修行したがるも家臣に止められます。
当時の細川吉兆家当主は「半将軍」と呼ばれていました。
そりゃぁ家臣は必死に止めますよねw
修験道にド嵌りしていたため妻を娶らず。
「次」を狙う面々から養子を送り込まれました。
そんな最中の1507年に暗殺され・・・
幕府の最高権力を巡り、養子達で争ったのでした。
1520年は、細川高国が勝利した年です。
始めは細川澄元が勝利し、細川高国は坂本へ逃れました。
しかし、六角・朝倉・土岐家の支援を得て京へ侵攻。
北白川城は、この時に築かれました。
一時は京を占拠した細川澄元に援軍は無し。
単独で戦い敗れ、阿波へ撤退。
そのまま病死したのでした。
しかし、細川高国側だった将軍・足利義稙は細川澄元に内通。
細川澄元の子・晴元も健在で、火種を残すこととなりました。

1527年、六角家臣・内藤彦七が城主となりました

桂川原の戦で敗れた細川高国が、近江国坂本へ落ち延びました。
この戦は、細川晴元による周到な調略により始まりました。
事の発端は、細川高国が香西元盛を自害させた事です。
なぜ自害させたかというと、讒言を信じたからです。
これにより、香西元盛の兄弟である波多野元清・柳本賢治が離反。
細川高国は両名の城を討伐軍で包囲します。
しかし、討伐軍の面々は波多野氏兄弟に同調。
さらに、細川晴元が出陣しました。
細川高国に味方したのは若狭の武田元光のみ。
六角定頼は細川高国方でしたが、北白川に留まりました。
両陣営は桂川を挟んで対陣。
細川晴元方が細川高国陣営後方に奇襲を掛け勝利しました。
六角軍が日和見だったのは、細川晴元との間に縁談があったためです。
一応は坂本の細川高国を支えており、どちらにも転がれる状況でした。
北白川城に駐留したという事は、京に睨みを効かせるという事。
六角定頼は、幕政への影響力を強めたのでした。

1531年、細川晴元の城となります

劣勢となった細川高国は、各地へ援軍を要請。
しかし、色よい返事はありませんでした。
そんな中、備前守護代・浦上村宗が援軍の要請に応じました。
浦上村宗は隣国・播磨へと勢力を拡大していました。
この播磨統一に、細川高国を利用しようと考えたようです。
浦上村宗は摂津にある細川晴元方の池田城を攻略。
さらに京へ向かうと、京を守っていた木沢長政が謎の撤退。
そこへ北白川城の細川高国の軍勢が京に攻め入り制圧。
4年ぶりに京を奪回しました。
細川晴元は反撃に転じ、三好元長が阿波から摂津に上陸。
一進一退となります。
ここに、播磨守護・赤松政祐が細川高国の援軍として駆け付けます。
これには細川高国と浦上村宗が自ら出迎えたと伝わります。
しかしその2日後、赤松軍が友軍を急襲。
細川高国方は総崩れとなります。
赤松政祐は、父を殺した浦上村宗への仇討ち狙いでした。
細川晴元方はこの機に乗じ、細川高国を捕縛。
細川高国は、尼崎大物の広徳寺で自害させられました。
浦上村宗も赤松軍に全滅させられ、討ち取られています。
この戦は大物崩れと呼ばれています。

1547年、足利義晴が自焼しました

1546年末、足利義晴が嫡男・菊童丸を元服させました。
通例では管領が烏帽子親を務めますが、六角定頼が務めました。
そのため代々烏帽子親を務めた細川吉兆家の面子は丸潰れ。
足利義晴は細川晴元と袂を分かちます。
その足掛かりとして、北白川城を自ら改修。
その様子を記した史料が残っているそうです。
足利義晴は元服した足利義輝に将軍職を譲ります。
自らは北白川城に籠り、細川高国の子・氏綱らを支援します。
しかし、細川氏綱は細川晴元方の三好長慶に敗れます。
敗色濃厚となった足利義晴は、北白川城を自焼し坂本へ撤退します。
その後、細川晴元と三好長慶が対立。
京の情勢は更に混沌とするのでありました。

1561年、松永久秀に攻め落とされました

三好長慶が主君である細川晴元を幽閉しました。
これに六角承禎(義賢)は激怒し、畠山高政とともに挙兵しました。
六角承禎は神楽岡に、永原重澄を将軍地蔵山城(ココ)に展開。
三好長慶は松永久秀に将軍地蔵山城を攻めさせます。
白川口では三好軍と細川晴之が一進一退。
松永軍は将軍山城を攻め、永原重澄を討ち取ります。
勢いを得た松永軍は六角本隊を攻めますが敗退します。
その後、摂津で畠山高政が三好軍の総大将・三好実休を討ち取ります。
三好実休は三好長慶の実弟です。
三好軍は猛反撃に転じ、畠山軍を撃破。
松永久秀は大和で反三好勢力を撃退します。
六角承禎は三好長慶と和睦し近江へ退きました。

1569年、三好三人衆の攻撃を受けました

1565年、三好氏は将軍・足利義輝を殺害。
次の将軍として、阿波で匿っていた足利義栄を推しました。
一方、足利義輝の弟・義昭が還俗し、将軍となるべく活動を開始。
全国の大名に支援を求める中、織田信長が手を挙げました。
そのため三好氏は畿内を制圧し、足利義栄を将軍としました。
1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。
抵抗する三好三人衆の勢力を各地で掃討します。
その最中、足利義栄が病死。
京に入った足利義昭が将軍となりました。
織田信長が美濃へ帰ると、三好三人衆が逆襲を開始。
京に攻め上がり、足利義昭の籠る本圀寺を襲撃します。
この時、勝軍地蔵山城(北白川城)も攻撃を受けました。
三好三人衆は、細川藤孝や三好義継らにより撃退されます。
織田信長は堅固な城が必要と判断し、二条御所を改修します。

織田信長の畿内支配確立により廃城となりました

1570年、織田信長は21か国の大名に対し触状を送りました。
これに応じた各地の大名から、足利義昭に従いました。
しかし、織田軍が若狭から越前へ侵攻すると浅井長政が離反。
また、三好三人衆が堺に上陸し、京を目指しました。
この時に石山本願寺も離反し、三好三人衆に味方します。
浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺を味方に付け、東山に進軍。
明智光秀が勝軍地蔵山城に入り、牽制しました。
織田信長は足利義昭の仲介により三好三人衆と講和。
その後、浅井・朝倉両軍とも同様に講和を結びました。
東西からの挟撃の危機を脱した織田信長は美濃に帰国します。
1573年になると、足利義昭と織田信長が決裂。
足利義昭は各地の大名に織田信長討伐を命じます。
一度は講和を結ぶものの、足利義昭は翌年に破棄。
槇島城に移り挙兵しました。
織田軍に敗れた足利義昭は、京を追放されます。
その後、織田信長は包囲網を敷く大名を撃破。
畿内を制圧しました。
この頃に役割を終え、北白川城は廃城になったと考えられています。


所在地:京都市左京区一乗寺松原町 GPS軌跡ダウンロードページ
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亀山城/京都府亀岡市

亀山城は、京都の西側を抑える要衝でした。
訪問日は2022年8月3日です。

亀山城【写真位置】 大きな地図を表示

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「京都平城痕跡の旅」第三弾は亀山城です。
亀山城は、堀を三重に巡らせる堅固な城でした。
現在、主要部は大本教の本部となっています。
しかし、見学を申し込めば誰でも見学出来ます。
勧誘されるような事は無いので心配ご無用です。
むしろ、歴史の話を熱く語って下さいます^^
拝観(見学)は9時半から16時まで。
受付は15時半までです。
拝観料は高校生以上が300円、中学生以下は無料です。
周囲は市街地となりましたが、意外に多くの遺構が残っています。
外堀や惣構の堀は水路になり、一部土塁も見られます。
本丸から遠く離れた場所にも、色々と説明板があります。
亀山城【1】
【1】大本教の神教殿 上に戻る

城跡を見学するためには、申し込みが必要です。
駐車場から見て左側の建物にカウンターがあります。
そこで申し込み、見学料300円を支払います。
すると、見学者であることを示すシールが渡されます。
目立つ所に貼れば、立入禁止場所以外を見学出来ます。
この建物はその隣にある建物です。
御殿風で雰囲気がとても合っていると思います^^
亀山城【2】
上の写真で、石段の右側に写っている案内図です。
平山城だった地形がとてもよくわかります。
私が見学して来たのは主に本丸周辺です。
城は北は南郷池まで、南側に堀を連ねます。
そんな構造の一端を垣間見るような図です。
亀山城【3】
【3】内堀 上に戻る

駐車場から本丸へ向かう途中に内堀があります。
駐車場や神教殿などは二の丸でした。
東側は埋められていますが、西側はある程度残っています。
幅が広く、本丸が厳重に守られていたことがわかります。
亀山城【5】
【4】本丸と二の丸の間の堀跡 上に戻る

内堀の向こう側にも低い通路があります。
ここも堀跡で、往時は内堀と繋がっていました。
この左側が本丸、右側が二の丸です。
西の丸があるので、右側は東の丸だと思っていました。
縄張図には、二の丸が2箇所に描かれています。
二の丸は堀で隔てられ分断されています。
なぜ東側も二の丸なのか、理由はわかりません^^;
亀山城【4】
【5】本丸の石垣 上に戻る

石垣の手前にあるのは石垣の刻印についての説明板です。
石垣に刻印があるのは、天下普請だった証です。
亀山城には数回の改修の歴史があります。
亀山城【6】
【6】石垣の刻印 上に戻る

説明板付近に、刻印のある石が見られます。
確かに刻印があるのですが、1つに石に2つ?
もしかしたら、妨害工作の跡でしょうか。
そうだとしたら、ズルですねw
亀山城【7】
【7】一ノ門 上に戻る

堀跡から本丸へはココを通ります。
ということは、通路があったんですね。
堀が埋められてるのでわかりづらいですが。
門は新しい感じですが、場の雰囲気にピッタリ。
昔はここから先が立入禁止だったのでしょうか。
亀山城【8】
【8】本丸の高石垣 上に戻る

ここが亀山城の一番の見所です。
とは言え、殆どが大本教により積み直されたものです。
しかも2度目は政府により徹底的に破壊された後です。
ここまで復元するのは、並大抵の情熱ではありません。
角の石を見ると、下と上で確かに積み方が違います。
しかし、これはそういう目でみたからです。
積み直しとしてはかなり成功していると思います。
そう思うと、300円の見学料がとても安く感じられます。
亀山城【9】
【9】本丸石垣の石段 上に戻る

石垣を上がる石段です。
上は聖地ということで立入禁止です。
石段はとても綺麗に積まれています。
何も知らなければやっちゃった?と思います。
でも、石垣再建の話を知るとそうは思えず。
本物を見た人物による復元ですからね。
亀山城【10】
【10】本丸石垣 上に戻る

とてもよく出来た石垣なので、つい魅入られます。
こうして見ても、見事な野面積みです。
明智時代の石垣の再現でしょうか。
亀山城【11】
【11】本丸石垣 上に戻る

せっかくなので堪能します。
石垣に生えた草木がいい雰囲気出してます。
変に手入れし過ぎないのがイイのかも。
亀山城【12】
【12】内堀 上に戻る

奥の方の内堀です。
木々に覆われているのもまたリアル!
・・・なんて思ってしまいます。
完全再現とはいかないまでも、遺構が多く残っています。
駐車場も利用出来ますし、訪ねる価値は大いにあります。
亀山城【13】
【13】南郷池(外堀) 上に戻る

さて、ここから先は変態の所業です。
まずは北側の外堀である南郷池。
ここはまだ皆さん見に来ます。
池と名が付く程に幅の広い水堀です。
亀山城【14】
【14】保津門跡 上に戻る

南郷池沿いに歩こうとする角に立て札が。
ここが保津門の跡だと示しています。
ということは、道は土橋だったのでしょうか。
亀山城【15】
【15】南郷池脇にある案内板 上に戻る

南郷池沿いに歩いていると、これがあります。
諸兄のサイトでは見かけません^^
天守のイラストは古写真を参考にしたようです。
亀山城には、こんな感じの天守がありました。
左側は天守周りの縄張図です。
こちらもかなりの情熱入ってマス!
亀山城【16】
【16】南郷池の西端 上に戻る

南郷池の西端です。
南郷池に沿って歩けるのはココまでです。
奥まで続いていますが、入れません。
立入禁止ではなさそうですが・・・
一応まだヒトの目は気になるようです^^;
亀山城【17】
【17】外堀跡 上に戻る

少し進んだ所に水路があります。
ここも外堀の跡です。
南郷池以外の外堀は、こんな感じで残っています。
亀山城【18】
【18】御作事跡 上に戻る

外堀の痕跡を辿ろうと歩き回りました。
しかし、予定外の収穫がありました。
まずはココです。
立て札には御作事跡と書かれています。
城の造営修理を担っていた部署があったようです。
外堀沿いの一角にありました。
亀山城【19】
【19】外堀跡 上に戻る

道は堀沿いでない所が殆どです。
なので、水路を跨ぐ道を辿りました。
こうして見ると、水路の両側で高さが違います。
普通の水路と違うのはこういった所でしょうか。
亀山城【20】
【20】外堀跡 上に戻る

私は痕跡を辿れればいいと思っていました。
でも、こんな風に立て札のある場所もあります。
立てたっきりのようですが・・・
ちゃんと見てる人は見てますヨ^^
極少数ですがヾ(*´∀`*)ノ
亀山城【21】
【21】形原神社 上に戻る

次に外堀跡を跨ぐのがココです。
・・・のつもりだった神社です。
ココには立て札が3つありました。
それが御勘定所大手門御館のものです。
「形原」という名前、勘のイイ方なら気付きますよね?
徳川家の親戚筋に当たる形原松平家の「形原」です。
御館は江戸時代の城主様のものだったようです。
亀山城【22】
【22】外堀跡と勘違いした所 上に戻る

ここからさらに外側の惣構を見に行きました。
外堀とはここで一旦お別れのつもりで撮りました。
確かにこの道を東に進めば外堀跡ですが・・・
さっきの神社で既に外堀とはお別れしてました^^;
亀山城【23】
惣構で一番の見所はココ!
ということで訪ねた京町天満社です。
ココに立派な説明板があります。
この説明板には、城内にも無かった縄張図まで描かれてます。
図マニアな方は必見ですね!
亀山城【24】
【24】惣構の土塁 上に戻る

そして、肝心の惣構の遺構です。
この手のモノを見るのは小田原古城以来だと思います。
惣構まで見に来ることがあまり無いので。
思っていたよりも高さがありました。
亀山城【25】
【25】惣構の堀跡 上に戻る

惣構の堀跡も水路になっています。
なので、街中の至る所でこんな風に見ることが出来ます。
亀山城【26】
しばらく惣構が続きます。
地図を見ていたら水路が続いていたので。
そうして辿ると、こうやってご褒美が出て来ます^^
亀山城【27】
【27】御土居(惣構の土塁) 上に戻る

説明板があるのは、実物があるから。
ということで拝見します。
ちょっと崩れてる気もしますが・・・
時代の流れということで
亀山城【28】
【28】惣構の堀跡 上に戻る

土塁は途切れますが、水路は続きます。
すぐ東側に、堀跡の水路があります。
水路自体は暗渠になり、その上が道になっています。
こういう堀跡もあるんですね!
亀山城【29】
更に東の公園でも土塁が見られます。
奥の横一線に高い所が土塁です。
ここにもまさかの説明板があります。
主要部から遠く離れているのに(*^▽^*)
亀山城【30】
【30】遠見遮断 上に戻る

堀跡だけでなく、街角にも立て札が。
何だろうと思ったのですが読み取れず。
20同様、文字はかすれ板が割れてしまっています。
それでも断片的に読み取れる文字でググりました。
どうやらこれは「遠見遮断」の説明板のようです。
「遠見遮断」とは、城下町の曲がりくねった道の事です。
読んで字の如く、城内を見通せないようにする仕組みです。
城下町はこういう造りだと知ってはいましたが・・・
名前があるとは知りませんでした。
勉強になります。
亀山城【31】
【31】桜の馬場跡 上に戻る

惣構とお別れして、再び外堀跡へ。
地図上でもそれとわかるのが、ココです。
外堀跡周辺が公園になっています。
その西端に、桜の馬場の説明板があります。
確かに真っすぐです。
ここら辺が馬廻り関係者の居住区だったそうです。
亀山城【32】
【32】外堀跡 上に戻る

外堀跡が古世親水公園になっています。
確かにお子様たちが水辺で遊んでいます。
私も子供の頃はよく水辺で遊びました。
結局河童さんには遭えず終いでしたが。
ここにはそういった類は出なさそうです。
亀山城【33】
ここにも説明板があります。
あまり紹介されていませんが、沢山ありました。
本格的に探せば、倍以上はありそうに思います。
さて、説明板によると湧水地らしいです。
外堀の水源はココのようです。
亀山城【34】
【34】水車跡 上に戻る

最後に偶然見つけた水車跡です。
外堀が北上し、惣構と合流する場所です。
道の向こうに立て札があり、渡って見に行き知りました。
立て札を読むと、確かに段丘の地形です。
ここで外堀が落ち、惣構に合流したと書かれています。
ここからは移築建築物です。
他の城に比べてかなり多いです。
亀山城【35】
【35】移築門(文覚寺山門)(地図) 上に戻る

まずは文覚寺山門です。
亀山城から保津川を渡った先の北東にあります。
お寺の雰囲気ととても合っています。
亀山城【36】
【36】移築御殿(第五区会議所)(地図) 上に戻る

文覚寺の近くに、移築御殿もあります。
こちらは中に入れなかったので、外から撮っています。
現存する御殿はとても少ないので超貴重です^^
亀山城【37】
【37】移築門(延福寺山門)(地図) 上に戻る

続いて西に少し離れた所にある移築門です。
延福寺の山門は、道沿いにあります。
目の前に駐車場があり、すぐに撮れます。
白漆喰の櫓門が、ちょっと武骨な感じがします^^
亀山城【38】
【38】移築門(桂林寺山門)(地図) 上に戻る

狭い道を登った所に桂林寺があります。
ですが、入口に山門が見当たらず。
山門は、車で登って来るのとは反対側にあります。
なので、場所的には一番奥ということになります。
今とは登り口が逆だったんですね。
亀山城【39】
【39】移築門(千代川小学校正門)(地図) 上に戻る

最後は、小学校の正門になっている長屋門です。
川沿いにあり、道は車が沢山走っています。
小学校なので中に入る訳にも行かず・・・
電柱も多く、撮影に苦労しました。
でもこうして見る限りでは、とても大切にされているようです。


◆歴史◆

1578年、明智光秀により築かれました

明智光秀は、1575年から丹波攻略を開始。
この時、大半の丹波国人衆は明智軍に味方しました。
態度が曖昧だった赤井直正を攻めると波多野秀治が離反。
明智光秀は本願寺攻めや雑賀攻めの合間に丹波侵攻も続行。
当時は余部城を拠点としていました。
しかし、拠点として不安定だとし亀山城の築城にとりかかります。
波多野秀治の八上城を包囲中に完成。
新たに丹波攻略の拠点としました。

1582年、羽柴秀吉の城となります

明智光秀は6月1日に亀山城より出陣。
翌6月2日に本能寺の変を起こしました。
しかし山崎の戦で敗れ、羽柴秀吉の城となります。
羽柴秀吉は養嗣子の羽柴秀勝を城主としました。
羽柴秀勝は織田信長の四男ですが18歳で病死。
以後、豊臣秀勝、豊臣秀俊ら身内出身の養子を城主とします。
豊臣秀俊は豊臣秀頼の誕生後、小早川隆景の養子となります。
豊臣秀次事件に連座・改易後は、前田玄以が城主となりました。
前田玄以は関ヶ原の戦では中立を貫き、亀山を安堵されます。

1602年、天領となります

前田玄以の没後、子の前田茂勝は八上へ移されました。
関ヶ原の戦で西軍に属し、舞鶴城攻めに参加していました。
しかし、細川藤孝に降伏を勧め助けた事が評価されました。
そのため、石高は同じ5万石での移封となりました。
その後の亀山は天領となっています。

1609年、天下普請されました

岡部の黒鬼・岡部長盛が城主となりました。
岡部長盛は徳川家の譜代大名です。
徳川家康は、天下普請による亀山城の改修を命じます。
当時は全国各地で天下普請が行われていました。
これは豊臣秀頼が健在だったからです。
縄張は藤堂高虎が務め、西国大名を中心に改修。
翌年には五重の天守を備えた城が完成しました。
1632年、江戸幕府は亀山城天守の破却を決定。
命じられた堀尾忠晴が、誤って伊勢の亀山城天守を破却。
・・・なんて事件がありました。
亀山城は亀山藩の藩庁として、明治まで存続します。
明治初期の写真には、立派な天守が写っています。

1919年、出口氏が購入します

1869年、亀山藩は亀岡藩に改称されます。
伊勢・丹波の亀山問題は、ずっとくすぶっていたようです。
1877年、政府により廃城が決定。
1889年、払い下げられ転売されます。
しかし、城跡は整備されず荒れ果てたようです。
1919年、亀岡出身の出口王仁三郎氏が城跡を購入。
自らの宗教団体・大本教の拠点とすべく整備しました。
このとき、石垣を積み直しています。

1935年、政府により爆破されました

第二次大本事件により、大本教は政府の攻撃を受けました。
これは、政府が大本教によるクーデターを危惧したからです。
教義の中で日本政府の滅亡を予言。
さらに、軍部の一部と交流があったためとされます。
1921年にも第一次大本事件で弾劾を受けました。
この時にも当時本部のあった綾部の神殿が破壊されています。
治安維持法違反と不敬罪により、教団幹部が逮捕されます。
そして裁判が始まる前にも関わらず、大本教の神殿を爆破。
さらに、めぼしい石はわざわざ日本海へ沈めています。
政府は大本教を地上から消し去るつもりだったようです。
教団施設をことごとく破壊し、安価で処分しました。
1942年、治安維持法については無罪が確定。
不敬罪の裁判は、終戦により消滅しました。
戦後、亀山城址は大本教に返還されました。
出口王仁三郎氏は、再び亀山城址を復興。
現在も大本教の本部として存続しています。


所在地:京都府亀岡市荒塚町内丸 GPS軌跡ダウンロードページ
京都府の城跡/なぽの城跡巡りを表示

宍人城:居館部/京都府南丹市

宍人城は、園部藩庁候補になったお城です。
訪問日は2022年8月3日です。

宍人城【写真位置】 大きな地図を表示

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宍人城は小畠館、小出館と詰城から構成されます。
今回訪ねたのは、居館部である小畠館と小出館です。
リサーチ不足で、詰城部分が抜けていました。
不覚です。
今年の夏休みにでも立ち寄ろうかと思います。
さて、居館部の小畠館と小出館は少し離れています。
元々の城主様は小畠氏でした。
小出氏は園部に来て、陣屋が出来るまでの仮住まいです。
とは言え、元々はここも陣屋の候補地でした。
小出氏と小畠氏でどのようなやりとりがあったのかは?です。
しかし、小畠氏は後に小出氏の園部城の一角を与えられます。
両者の関係は、とても良好だったものと思われます。
宍人城【1】
【1】登城口にある公民館 上に戻る

登城口は宍人区公民館の奥。
その入口に白い板があり、すぐにわかります。
でも、ココは道の狭い住宅街。
いつもなら公民館脇に停めさせてもらいます。
でも、駐車スペースは奥側に1台分のみ。
空いていても躊躇われます。
宍人城【2】
【2】登城口 上に戻る

登城口に立派な説明板が2枚あります。
2枚とも新しく、2020年に設置されたようです。
縄張図も載っており、探索にとても役立ちます^^
そしてここに超重要な情報が。
「駐車場200→左」とあります。
「→」は「右」だべ?なんて言わないで下さいネ。
「→」に進んだ「左」側ですから。
宍人城【3】
【3】見学者用駐車場 上に戻る

ここがその駐車場です。
見学者が多いのでしょうか。
かなり広いです。
地理院の地図では建物が描かれています。
家が無くなり空いた区画を駐車場にしたようです。
砂利が新しいので最近整備されたのでしょうか。
宍人城【4】
【4】北ノ出丸の切岸 上に戻る

登城口から道を進むと、左側が高くなって来ます。
ここが北ノ出丸です。
道は真っすぐですが、こちら側に入る道があります。
案内が無い場所ですが、ついついそちらに入ってしまいます。
宍人城【5】
【5】北ノ出丸の切岸 上に戻る

他の曲輪にも通じますが、全般的に外周はこんな感じです。
堀や切岸で区画されますが、そんなに高くありません。
宍人城【6】
【6】北ノ出丸と北ノ丸の間にある堀切 上に戻る

ただ一箇所を除いては。
それが北ノ出丸と北ノ丸の間にある堀切です。
これが一番手前にある堀なので、かなりヾ(*´∀`*)ノでした。
こういう堀がそこかしこにあるのかと思いまして。
宍人城【7】
【7】土橋 上に戻る

北ノ出丸と本丸の間も堀で隔てられています。
先程よりは浅いですが。
この両曲輪をつないでいるのがこの土橋です。
堀の端にあるので、ダムっぽく見えます。
一般的に土橋って堀の真ん中にありますが・・・
こういうのもアリなんですね!
宍人城【8】
【8】櫓台 上に戻る

本丸の外周を時計回りに歩き南端へ。
ココの土塁が少し高くなっています。
上には櫓台の標示が立っていました。
まぁそうですよね^^
こちら側は切岸も高く、城域でも最南端です。
物見台を置くならココですよね!
宍人城【9】
【9】本丸南と二ノ丸南の間の堀 上に戻る

南端から西へ外周を辿ると、やがて堀が現れます。
これが本丸と二ノ丸を隔てている堀です。
字面ではとても大きな堀に見えてしまいます。
ココは元々平らな地形だったようです。
居館ですし、広過ぎても使い勝手が悪いですよね?
一族で隣り合って館を築いていたのかもしれません。
宍人城【10】
【10】本丸北側の虎口 上に戻る

全般的には起伏に乏しい造形です。
それでも堀による区画はハッキリ見て取れます。
そんな中で目立つのは、本丸の虎口です。
そういえばここまで虎口見かけなかったような。
道がそのまま土塁越えちゃってますからね^^;
登城口から続く道は、曲輪の間を通ってここに通じます。
写真が下手でまっすぐに見えますが、ちょっと曲がってます。
確かカギ形だったような気がします。
宍人城【11】
【11】本丸北と二ノ丸北の間の堀 上に戻る

堀は相変わらず浅いのですが、二重です^^
だんだん記憶が怪しくなってきましたが^^;
図では堀は1本、本丸側から土塁→犬走り→堀です。
ということは、手前が土塁で堀に見えるのは犬走り?
トリックアートに見えて来ました。
堀が浅いとこうも記憶があやふやになるものか・・・
宍人城【12】
【12】本丸北端 上に戻る

登城路とは違うルートで城内をウロウロ。
ということで、本当はここからあちこち回るのでしょう。
登城路は低い所にあるので、曲輪が高く見えます。
宍人城【13】
【13】二の丸南の土塁 上に戻る

今度は二の丸の外周をなぞるためUターン。
再び外周を時計回りに進みます。
西側には堀に沿って土塁があります。
綺麗に残っていますね^^
宍人城【14】
【14】二の丸南の堀 上に戻る

土塁の外側にある堀です。
浅いのですが、形はしっかりわかります。
一直線でない所が、戦国時代らしさを感じます。
とはいえ防御拠点のような堅牢さは感じませんが。
どちらかというと、工夫を重ねた忍者屋敷のような。
宍人城【15】
【15】小出館の切岸 上に戻る

続いて、北側にある小出館です。
ここは小出親吉が園部に入封した際の仮住まいです。
位置的には、小畠館よりも高い所にあります。
元々はこちらが小畠館だった?
なんて、ちょっとひねくれてますでしょうか。
宍人城【16】
【16】小出館の虎口 上に戻る

こちらの虎口は、しっかりクッキリ曲がってます。
構造は戦国時代らしさを感じさせます。
宍人城【17】
【17】小出館内部 上に戻る

図では小畠館より狭いですが、それでもこの広さ。
流石は3万石近い石高の大名です。
宍人城【18】
【18】小出館の櫓台周りの堀 上に戻る

とは言え、基本的な構造はよく似ています。
堀が浅いのは、やはり居館だからでしょうか。
それとも時代でしょうか。
大坂の陣が終わった後ですからね。
宍人城【19】
【19】小出館の横堀 上に戻る

堀は浅いですが、埋まった感じはありません。
時折こうしてしっかり見えると、嬉しくて撮りまくります^^
宍人城【20】
【20】小出館の櫓台 上に戻る

居館ではありますが、しっかり櫓台があります。
しかも2か所に。
周りよりも高いですし、広さもあります。
もしかしたら、ここに天守代わりの櫓などあったりして?
一時的とは言え、大名藩主様の居館ですからね。
幕府から陣屋を城と認められませんでしたし。
少しくらい城らしさを感じさせるモノが欲しくなるのでは。


◆歴史◆

小畠氏の城でした

小畠氏は、出羽の清原氏の血を引くと伝わる一族です。
後三年の役の後、清原武衡の子が丹波に移ったとされます。
安倍氏といい、滅んだ名族あるあるです。
ただし、色んな家系図でその辺が一致しているのだとか。
丹波に移った清原氏は、小畠と姓を改めます。
そして、北野天満宮の荘官として船井荘に土着しました。
戦国時代にはその北天満宮の社領を押領。
国人領主として力を蓄えます。
小畠永明は明智光秀に従い、織田軍の丹波攻略にに協力。
明智姓を与えられ病状を気遣われるなど、大切に扱われたようです。
1579年、小畠永明は八上城攻めで戦死。
明智光秀はその子・伊勢千代丸の家督を保証しました。
本能寺の変後、羽柴秀吉に起請文を出し小畠氏は存続しました。
起請文を出したのは、兄の子・小畠正明や一族の小畠永好らです。

小畠正明が築いたとされます

現地の説明板では、小畠正明が築いたと書かれています。
小畠正明は明智光秀に協力した小畠永明の甥に当たります。
小畠伊勢千代は歴史に登場せず、小畠正明が継いだようです。
とはいえ、ググってみても事績がヒットせず。
次に登場するのは、小出氏が園部に入封する1619年です。
それまでの40年程の歴史は、ブラックボックスのようです。

1619年、小出館が築かれました

小出吉親が園部に入封し、園部藩が立藩されました。
それまでがどうだったのかが???ですが・・・
2万8千石の藩主となった小出吉親は、小畠氏の館に逗留しました。
京都所司代・板倉勝重の紹介だったとされます。
宍人城は、園部藩陣屋の候補地でした。
ココが園部の政治の中心地だったからだと思われます。
最終的に小麦山とその麓に陣屋が築かれることになりました。
陣屋が完成するまでの2年間、小出吉親はココで過ごしています。
小畠氏との関係が良好だったものと思われます。
小畠氏は園部藩に出仕し、園部城蓮池の東側を与えられます。


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園部城/京都府南丹市

園部城は、日本で最後に出来た城とされます。
訪問日は2022年8月3日です。

園部城【写真位置】 大きい地図を表示

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「最後に出来た城」というと、今までいくつか記憶にあります。
覚えてる範囲ですが、松前城、五稜郭、旭城、福江城など。
なぜか全国各地にいくつもあります。

この中で一番最後なのが旭城(福岡)です。
旭城は、元々は小倉藩の支藩である新田藩の藩庁でした。
小倉藩は1866年、第二次長州征討の際に小倉城を自焼。
香春を経て1870年に新田藩の藩庁に拠点を移しました。
この時に豊津藩と名を改め、藩庁の改修に着手。
しかし、1871年の廃藩置県により未完成のまま廃藩となりました。
「旭城」と呼ばれていますが、正式名称は「豊津陣屋」です。

次に新しいのが、1869年の園部城です。
江戸幕府が滅び、明治時代になってからの完成です。
そのため、園部城も「最後に出来た城」と呼ばれています。

1866年に完成したのが五稜郭(北海道)です。
1854年、日米和親条約により箱館港が開港。
アメリカは中国航路と捕鯨の寄港地として箱館を選びました。
しかし開港は幕府の本意ではなく、危機感を抱きます。
そのため、海防拠点として箱館に奉行所が築かれました。
構造や目的はお城なのですが、あくまで行政拠点の奉行所です。
箱館には各国の領事館もあり、刺激したくなかったのかもしれません。

その次が1863年の福江城(長崎)です。
こちらも海防のため、石田陣屋を改修しています。
幕府が命じたものの費用はもらえず、築城に14年掛かりました。

1854年に完成した松前城も、日本最後の城と呼ばれます。
上に挙げた「城」には、天守がありませんでした。
しかし、松前城には天守がありました。
それ以外は構造的には城なものの、決定打に欠けます。
名前が「城」で最後に完成したということなら、園部城が最後です。
天守があれば松前城、天守無しなら、園部城でしょうか。
旭城も御三階櫓を建てる予定はあったそうですが・・・
建てる前に廃止されています。
「城」の定義によってそれそれといった所なんだと思います。
園部城【1】
【1】城址碑 上に戻る

園部城といえば、門と櫓だけ?
ネット上で見るのはこれしか残ってないという印象。
でも、ちゃんと調べると色々残ってます!
という感じで痕跡巡りをしてきました。
京都では田辺城に続く、痕跡巡り第2弾です。
園部城【2】
【2】現存櫓門 上に戻る

園部城で紹介される定番その1はこの櫓門。
現役で高校の正門を務める現存の櫓門です。
私の母校も城跡でしたが、ココもそうです。
そういう意味では、郷土への理解を深める場所なのかも。
私の母校はそんな雰囲気ゼロでしたけど^^;
それでも毎朝この門をくぐるのは羨ましいのデス。
園部城【3】
【3】南丹市国際交流会館(城郭風建築物) 上に戻る

でも、一番目立つのはこの建物。
駐車場から見えるのがコレなので。
2008年に撮影したものですが、今もそのままです。
歳を感じさせないというのは、とても凄いコトなのです。
今回はスルーしちゃいましたケド^^;
園部城【4】
【4】中堀跡と現存巽櫓 上に戻る

園部城名物・巽櫓です。
櫓門から入ればもっといいアングルで撮れるのでしょうけど。
でも、部外者なので遠慮して、外から撮りまくります。
一応城跡としては格好のターゲットなので^^
手前にはテニスコートがあります。
部活動中だと、ここでカメラを構えるのに勇気が要ります。
でも、タイミングよく誰も居ませんでした。
このテニスコートが、園部城の中堀跡です。
園部城【5】
【5】現存巽櫓 上に戻る

でも、やっぱりいいアングルで撮りたい!
ということで、校内に入らない所までは迫ります。
警備員さんが居るのは昨今の情勢故でしょうか。
それでも構わず撮っちゃいます。
ひと昔前までは、関係無い人が居ると撮らない主義でした。
松下村塾前で数十分粘ったのは、今では笑い話です。
今は「邪魔なテメー晒したる」ぐらいな勢いで撮ってます。
・・・モザイク入れた方が良かったでしょうか。
別に悪い事してる訳ではないんですけどね^^;
園部城【6】
【6】南門跡 上に戻る

櫓門と巽櫓を撮ったら終わり。
14年前の私はそうでした。
でも、今は違います。
何も無さそうな遺構を撮って回ります。
病状が進行したという見方もありますが・・・
温かい目で見守って頂けたらと思いマス。
ココは南へ伸びる道にある南門跡です。
一見するとただの道ですが、ちょっとだけ枡形っぽさが残ります。
よくぞ残ってくれましたヾ(*´∀`*)ノ
基本的にはこんな感じの痕跡探しとなります。
園部城【7】
【7】切岸 上に戻る

園部城というと平城のイメージがあります。
でも、実はそんな事はありませんでした。
東側の外堀跡を見に行く途中、こんな光景が目に付きます。
平城だと思いきや、意外と地形的段差もあったりします。
全般的には東が低く、西が高いという感じ。
外堀沿いは、こういう光景が続きます。
園部城【8】
【8】東側の外堀跡 上に戻る

南北に長い園部城は、外堀に囲まれていました。
その東側の外堀跡がコレです。
城域の端に道があり、一段低い所が田んぼになっています。
航空写真で見ると、見事に南北に細長くなっています。
道は犬走だったのでしょうか。
ということで、あまり見向きもされていない城の痕跡です。
園部城【9】
【9】不明門跡 上に戻る

そして、そんな東側にも城門が1つありました。
それが不明門です。
地図で見ても、東側から真っすぐ城内に入るのはこの道1本だけ。
城の痕跡探しをする上でも、貴重な目印となります。
園部城【10】
【10】切岸 上に戻る

東側の外堀跡を北に向かって辿りました。
ココは北東側の外堀脇です。
やはり、切岸でかなりの高低差があります。
これを城の痕跡として見ればヾ(*´∀`*)ノなのです^^
園部城【11】
【11】釘貫門跡 上に戻る

今度は中央に戻ります。
駐車場前の道の、市役所前の交差点が釘貫門跡です。
流石にココら辺はガッツリ潰され、痕跡も見当たりません。
ただ、どこの城跡でもよくあるのですが・・・
道はそのまま使われてたりします。
再構築する場合、区画はそのまま使われる傾向があります。
園部城【12】
【12】大手門跡 上に戻る

釘貫門跡の交差点から西側が大手門跡です。
ここも言われなければわかりません。
・・・言われてもわかりませんが^^;
事前に探し当てた資料でココが大手門跡だと知りました。
そういう目で見たのですが、やっぱり?でした。
園部城【13】
【13】石垣 上に戻る

大手門跡から脇道を北に進んだ所がココです。
地形的には切岸が続き、外堀跡です。
裁判所の入口は、この切岸を貫いています。
ここに石垣がありますが、城の遺構ではない感じです。
だって、ココに虎口ありませんでしたから。
入口の石垣は、裁判所を建てた時のものと思います。
園部城【14】
【14】小麦山櫓跡 上に戻る

続いて、北西部にある小麦山です。
山頂には天守代わりの櫓があったとされます。
その櫓跡がココです。
フェンスで入れないので、隙間から内部を撮りました。
櫓台っぽいものも無く、ちょっとガッカリではありました。
ただ、地形的には最後の砦たり得ると感じました。
周囲を外堀で囲み、山の出入口は北側のみ。
一朝コトある時には、容易に要塞に加工しやすい感じです。
園部城【15】
【15】堀跡 上に戻る

小麦山の外周に沿って堀跡が続きます。
それは内側にもあり、市役所の裏がこんな感じです。
城内ですが、意外と深い堀だったようです。
園部城【16】
【16】内堀跡 上に戻る

建物群の中央部は、中庭のようになっています。
その目印がコレでしょうか。
南丹市園部女性の館の入口です。
橋のようになっており、周りが低いことがわかります。
この低い所が内堀の跡です。
園部城【17】
【17】内堀跡 上に戻る

中庭っぽい所では、南北に地面が窪んでいます。
ここが内堀の跡です。
本当はビッシリ建物を建てたかった筈。
埋められた後に沈下したのでしょうか。
堀の形に窪んでいます。
園部城【18】
【18】切岸 上に戻る

内堀見たし、さぁ次へ。
そう思いながら駐車場へ向かいました。
でも何だか地形が・・・!
ということで撮った1枚です。
堀跡っぽかったのですが、ここに堀は無し。
本丸内で段差があったようです。
園部城【19】
【19】移築櫓 (地図) 上に戻る

園部城の櫓が移築され現存しています。
場所はかなり離れた、亀岡市との中間地点。
安楽寺にある太鼓堂が、園部城の太鼓櫓でした。
住宅街にあるお寺ですが、すぐにそれとわかります。
本物の櫓、カッコイイです^^


◆歴史◆

1619年、小出吉親により陣屋が築かれました

小出吉親が3万石で園部に入封。
当時宍人城に滞在したため、拠点とするかと思われました。
しかし、城主が健在のため新たに城を築くことにしました。
2年かけて居館や外郭線などを小麦山周辺に構築。
園部藩の藩庁としましたが、幕府から城と称する許可は下りず。
一国一城令が出された後でしたからね。
構造的には城そのものですが、陣屋として出発しました。
江戸時代を通じ、藩主・小出氏の拠点として存続します。

1869年、城になりました

幕末になると、京都の治安が悪くなりました。
そのため藩主・小出英尚は、幕府に改修の許可を申請しました。
1867年10月に内諾を得たものの、大政奉還のため保留。
1868年1月、明治政府からようやく許可が下りました。
この時に櫓門や巽櫓、三層櫓、堀などを新たに造成。
翌年完成し、園部「城」となりました。

1871年、廃城となりました

廃藩置県により、7月に園部県となりました。
園部城はそのまま県庁として利用されました。
しかし、翌月になり京都府に編入。
園部城は廃され、跡地は民間に払い下げられました。


所在地:京都府南丹市園部町小桜町 GPS軌跡ダウンロードページ
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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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