2023/10/27
入江野城/栃木県那須烏山市
入江野城も、佐久山氏の城でした。
訪問日は2023年2月4日です。
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入江野城は、滅ぼされた佐久山氏により築かれました。
そのせいか、那須一族の城にしては小ぶりです。
というのも、築城は滅ぼされた後だからです。
諸兄の登城記では、尾根先端部から直登で紹介されます。
でも、私は登城ルートにこだわってみました。
食糧を運んだり重い具足を着けてそんな事出来ませんからね。
地形的には回り込む感じだと思い、東隣の尾根へ。
すると、山道がありました^^
ただ、それは途中まで。
そこから先は、いつも通り藪を掻き分けることに。
狙い通り堀切が見つかり、その先に曲輪がありました。
肉眼では遺構がよく見えましたが・・・
どうにも写真だとただの藪にしか見えず。
そんな感じの登城記となりました。 |
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【1】入江野観音堂に駐車 上に戻る
車は近くにある入江野観音堂に停められます。
観音様は南北朝時代の作品だと書かれていました。
お堂の脇は、湧き水を汲めるようになっています。
お水をポリタンク一杯に持ち帰る方もいました。 |
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【2】ココを曲がる 上に戻る
観音堂から城跡へ。
城跡は写真右側の高い所です。
その麓に数軒の家が並んでいます。
さながら根小屋という感じです。
私が登った山道は、ココを入った所にあります。 |
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【3】ココから山道へ 上に戻る
ここから登られた諸兄は皆無。
私も確証があって来た訳ではありません。
最初はこのまま奥まで進んで袋小路に。
で、戻りかけでココが気になり登ってみました。
結果的にはこれが正解でした。 |
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【4】山道 上に戻る
入口は「道?」という感じでした。
最初のカーブを曲がると、山道がありました。
ただ、ちょっとだけ藪っぽいです。
この写真の場所は、かなりライトな所です。
それでも、人が全く通らないという感じでなありません。 |
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【5】山道 上に戻る
坂が緩くなり始めた所でこんな所が。
これはヒトの手が加わった感じがします。
もしかしたら門があったのかもしれません(*´ω`*) |
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【6】藪の尾根へ 上に戻る
道はそのまま奥に続きます。
しかし、城跡からは遠ざかって行きます。
GPSで位置を確認すると尾根が。
最初は目視で突撃しましたが、違う方向でした。
違和感があったので元の場所にバック。
GPS見ながら、少しだけこんもりした所を進みました。
城跡は尾根の先端ですから! |
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【7】大堀切 上に戻る
尾根の背中を進むと、藪の中に現れました!
走り幅跳びでは越えられない大きな堀切様が。
無駄に思える無駄足が無駄にならずに済みました^^
下りる道を探しましたが、そんなものは無し。
ここを下りて登るのは、直登と大して変わりません(・_・;)
具足で米俵担いでたらチョット無理ですね。 |
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【8】堀切 上に戻る
1つ目の堀切を越えてすぐにまた堀切が。
今度は少し小ぶりなものの、やはり跳び越えられず。
人とは違うルートで辿り着いた!
・・・なんて、風変わりな感動を味わいました。 |
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【9】横から見た堀切 上に戻る
上からじゃ伝わらないので横顔も。
堀切様が美しいのは、やはり横からです。
※個人の感想です |
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【10】土橋 上に戻る
2つ目の堀切の先は土橋があります。
堀切と違って、わざわざ土を盛った感じがします。
上がったり下がったりの先の細道。
厳重に守りを固めた感じがします。 |
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【11】主郭 上に戻る
土橋の先が主郭です。
背後から着いたので、大手ではなかったようです。
でも直登じゃないし。
堀切はノーカウントです。
※個人的な考え方です |
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【12】三郭 上に戻る
城内の構造は、某大御所様の図の通りです。
図が無ければ、どっちに進んだら良いのやら。
それ程までに、城内は笹の藪天国です。
ココがアレなのかと、パチリパチリ撮りました。
でも、時間が経つと、全部ただの藪にしか見えず。
やはり絵は偉大です。 |
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【13】東側の尾根へ 上に戻る
主要部の輪郭を辿った後、皆様が登って来る尾根へ。
主郭の東側に、それとなく下りられそうなコレが見えます。
肉眼ではココまでハッキリ見えません。
何となく斜面が緩そうな直線に見えるだけです。 |
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【14】尾根は続く 上に戻る
違ってたら登り直すのがメンドイ・・・
なんて、いつものグウタラが顔を覗かせます。
でも、黒なぽはそんなのお構い無しで体を押します。
黒羽城では猛烈な竹藪を歩かされました。
そこまでの竹藪ではないのですが、こんなです。
アレを乗り越えると、これが容易く思えてしまいます。 |
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【15】堀切 上に戻る
サイドに細長い平場を従えた尾根が続きます。
そして視界が明るくなって来たら、足元に窪みが。
ここに小さな堀切があります。
こちらからの侵攻も想定しているんですね!
足場が狭いので、小さな堀切でも効果アリです。 |
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【16】尾根先端 上に戻る
尾根の最先端です。
それまでほぼ水平だったのが急斜面に。
おそらく、先端部を崩して切岸にしたのでしょう。
下り切った先は、ガッツリ民家の庭です。
途中の祠まででも、下りるのは結構大変でした。 |
◆歴史◆
1563年、佐久山氏が滅ぼされました
佐久山氏は、那須十氏の1つです。
那須氏初代の次男を祖とする一族です。
戦国時代の佐久山義隆は、勇将として名を馳せました。
那須家中の重鎮・大田原資清の娘を娶っていました。
しかし、義理の父は彼の武勇を内心恐れていたようです。
死に臨み、義父は佐久山義隆を滅ぼすよう遺言します。
大田原資清の没後、那須家では家督争いがありました。
その結果、上那須家は滅亡します。
この騒動を経て、大田原三兄弟が家中を牛耳ります。
年代的には落ち着きを取り戻した頃と思われます。
1563年5月21日、佐久山義隆はうずら狩りに誘われました。
そこで、大田原兄弟の手により謀殺されます。
佐久山氏の本拠・佐久山城は、福原資孝に攻め落とされました。
福原資孝は、大田原三兄弟の次男です。
難を逃れた佐久山泰秀が、この地に城を築きました。
佐久山義隆との続柄はわかりません。
ここで入江姓に改姓します。
佐久山城からは遠く南に離れています。
地理的に、塩谷氏を頼ったのではないかと思います。
1586年、那須資晴に滅ぼされました
年代的には『薄葉ヶ原の戦い』の翌年です。
この戦で、那須資晴は宇都宮・塩谷連合軍を破っています。
以後、那須資晴は宇都宮領へ侵攻し勢力を拡大しています。
入江氏が頼ったと思われる塩谷氏も当時は分裂していました。
嫡流の塩谷義綱が宇都宮方、叔父の塩谷孝信が那須方です。
状況的に、入江氏は塩谷義綱に従っていたかもしれません。
佐久山氏、入江氏は滅ぼされたため、歴史がサッパリわからず。
当時の城主・入江泰清についての何もわかりませんでした。
城はそのまま廃城となっています。
所在地:栃木県那須烏山市三箇 GPS軌跡ダウンロードページ
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