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金ヶ沢城/栃木県鹿沼市

金ヶ沢城は、龍階城の西にあった山城です。
訪問日は2023年2月26日です。

金ヶ沢城【全体】
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今シーズンは、栃木の山城に入り浸っています。
金ヶ沢城は、連続堀切のある龍階城のすぐ西にあります。
まだ紹介していませんが・・・
ここもなかなかの高さです。
しかも、城跡までの道ナシ!
それなりに苦労したので、紹介します。
金ヶ沢城【1】
【1】駐車した場所 上に戻る

予想した登城ルートは東からの尾根伝い。
その始点近くに車を停めました。
事前に予想した場所には停められず。
しかし、すぐ近くに路肩の広い場所がありました。
金ヶ沢城【2】
【2】入った作業道 上に戻る

そして、地図に描かれている道です。
元々期待してはいませんでしたが。
思っていたよりは形を留めていました。
金ヶ沢城【3】
【3】沢沿いにあるコンクリートの何か 上に戻る

意外と道ある!と思ってましたが・・・
すぐに砂利ゴロゴロの沢になりました。
取り敢えず草が薄いのでそのまま進んでみました。
割とすぐにコンクリートの何かがあります。
帰りに紹介する別ルートの目印になるので覚えておいて下さい♪
金ヶ沢城【4】
【4】行きは沢伝い 上に戻る

道は見当たらず、背丈よりも高い草がボーボー。
不可抗力ということで、沢沿いに進みました。
一応、城跡方向には向かえていたので。
この選択は、まぁまぁ正解でした。
金ヶ沢城【5】
【5】コンクリートの道 上に戻る

それでもどこからともなく道の断片が現れます。
ココも地面はセメントの道です。
実はココも大事なポイントでした。
行きにはわからなかったのですが。
とりあえず城キチの野生の勘で進みました。
金ヶ沢城【6】
【6】登れそうに見えた尾根 上に戻る

ただ、あまりの藪に実は少しだけイライラ。
沢の右の尾根に作業道があり、かなり心惹かれました。
だって、草が薄そうに見えましたので。
でも、左のこの尾根も中々に魅力的です。
イバラ混じりの藪掻きより、ココ登った方が絶対に楽!
という直登が、城キチの最終兵器です。
金ヶ沢城【7】
【7】尾根上に 上に戻る

でも、真っすぐだと角度がキツイので斜めに。
そしてようやっと尾根上に辿り着きました。
下界での藪掻きが嘘のような世界です。
ずっとこんななら千里の道も苦にならないのに!
・・・いや、もっと近いと有難いデス。
金ヶ沢城【8】
【8】振り返った所 上に戻る

登り切った尾根を振り返るとこんなです。
尾根の稜線で杉林がバッサリ。
全国的に、山へ行くとこんな光景を目にします。
注目すべきはその方向。
私が歩いて来た方向に尾根が伸びています。
帰りはこっちから行ける所まで行く!と決心したのでした。
金ヶ沢城【城跡】
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さて、尾根に登ってからは順調そのもの。
大した苦労話も無いので、一気に城跡を紹介します。
私が取り憑いた尾根に、9、10の二重堀切があります
そこから北側の尾根にも堀切が1つ。
二重堀切から南へ横移動した所にも12の大きいのがあります。
主郭への道は無いので、どこから直登でも変わりません。
ただ、主郭は南側に腰曲輪が付いています。
なので、12から真っすぐ上がるのが正解っぽいです。
主郭は、横堀でほぼ一周囲まれています。
横堀は西側で深くなり、その先にも15の堀切があります。
東側には横堀が無いので、そこから主郭へ。
主郭内部は、目玉焼きのように中央が高くなっています。
金ヶ沢城【9】
【9】二重堀切(下) 上に戻る

GPSでは順調に城跡に接近。
歩きやすい尾根上に出てハズレだったら心が折れます。
昨年末にそんな経験ありましたがw
そんな不安を吹っ飛ばしてくれたのがこの子デス^^
視界の先に見えた凹みヾ(*´∀`*)ノ
金ヶ沢城【10】
【10】二重堀切(上) 上に戻る

城跡から見てどの尾根だったのか。
それが確定したのは、ここが二重堀切だからでした。
ようやく自分の立ち位置をしっかり把握出来ました^^
左へ進むと、奥にも堀切が見えました。
金ヶ沢城【11】
【11】北側の堀切 上に戻る

どういう順番で回れば効率いいか。
自分の立ち位置がわかったので考えられました。
まずは二重堀切から右へ。
斜面を真横に残る踏み跡を辿り1つ北側の尾根へ。
ココに小さな腰曲輪と堀切があります。
本当はここから下にも行ってみたい気持ちはありましたが・・・
既に長い距離歩いていたのでUターンしました。
金ヶ沢城【12】
【12】西側の堀切 上に戻る

次は二重堀切から見えた左側の堀切へ。
こちらには幅の広い道があります。
というか、重機で削られた作業道です。
ここから九十九折れに、麓まで続いています。
この道を通れば楽なのかもしれませんが・・・
多分ロクな事にはならないと、止めておきました。
金ヶ沢城【13】
【13】主郭を囲む横堀 上に戻る

南側の堀切からどう上がろうかと思案。
北、東、南の尾根に、上がる道がありませんでした。
かと言って、ココからも西の尾根に行く道がある訳でもなし。
そうなると、真っすぐ登るしか選択肢がありません。
伐採作業した時のものかもですが、踏み跡が上に続いています。
南側から真っすぐ登ると、平らな場所に出ます。
ちょっとだけ虎口っぽさが残っています。
その奥に、横堀で囲まれた主郭があります。
金ヶ沢城【14】
【14】主郭 上に戻る

この横堀は、東側だけありません。
土橋というより、そのままつながってる感じです。
虎口っぽさが感じられず、本当にそのままつながっています。
壊されてそうなったのか、元々こうなのか。
ちょっとわかりません^^;
内部は、中心がちょっとだけ高く盛り上がっています。
食べ物で例えると、目玉焼きのようです。
金ヶ沢城【15】
【15】西側の堀切 上に戻る

横堀を進むと、西側が深くなっています。
外側の尾根に出て進むと、こちら側にも堀切があります。
金ヶ沢城【16】
【16】帰りは尾根伝い 上に戻る

ひと通り見たので山を下ります。
来る時は完全に手探りでした。
もっと楽に来れるルートを探したい!
そんな探求心から、下りは尾根を真っすぐ下りました。
ということで、ココを真っすぐ進みます。
金ヶ沢城【17】
【17】振り返った所 上に戻る

木のある所まで下りて振り返った所です。
北側の沢沿いに来た時は凄い藪でしたが・・・
伐採された尾根は、めちゃくちゃ歩きやすい!
金ヶ沢城【18】
【18】尾根先端部 上に戻る

そのまま真っすぐ尾根を下ります。
でも、道がある訳ではありません。
尾根先端まで下ると、こんな感じになります。
ココら辺は手入れがされてないのか、杉の幼木が沢山。
杉の藪というのはちょっとレアです。
取り敢えず掻き分けながら真っすぐ進みました。
金ヶ沢城【19】
【19】尾根下のコンクリート道終点 上に戻る

どこをどう進んでいるのか?になりますが・・・
まっすぐ進んでいたら、地面がセメントの道に出ました。
お、ラッキー♪
「上から道発見スキル♪」が発動したようです。
金ヶ沢城【20】
【20】道は藪化しています 上に戻る

地面はセメントですが、ススキや笹で埋もれています。
それでも、人の手が加わった道はありがたい!
「道なのに」と思いながらも掻き分け進みます。
すると、ゴルフ場脇に出ました。
セメント道はそのままコース端を進みます。
一応獣避けの電線で、道とコースが隔てられています。
ギリギリゴルフ場の外側、といった感じです。
しかし、その道を電線が横断しゴルフ場側に。
流石にココからは道を進めず。
かなり下っていたので、渋々北側の沢に下りました。
そうして下りた所が、3の謎のコンクリート施設です。
ということでまとめ。
楽に登れるルートは2→3と進み左側へ。
ゴルフコース沿いに進んでそのままセメント道。
セメント道を辿って藪を進み、19から左前方の尾根、です。


◆歴史◆

久我城の詰め城でした

某大聖典を開いても「金ヶ沢城」が無し。
どこかの別名かと思ったら、久我城の中にありました。
久我城は、常真寺脇にある平城です。
けっこう離れてるかと思いましたが1.4km程でした。
という事は、南から登るのが正解だったかもしれません。
事前にそういうルートも考えてはいましたが・・・
今更もう一度訪ねて検証する気にはなれません^^;
山城は大好きですが、登山はチョット。

城主は久我氏と伝わります

詳細は伝わりませんが、久我氏の城と伝わります。
その久我氏もよくわかりません。
一説には源氏長者の久我氏。
もう一説には佐野氏の一族と伝わります。

源氏長者の久我氏は、久我通光を祖とします。
久我通光は鎌倉時代の人物で、太政大臣も務めました。
この頃の源氏と言えば源頼朝ですが・・・
久我氏が源氏長者となったのは、鎌倉の源氏が滅びた頃でした。
ちなみに「久我」の読みは「こが」です。
久我氏は、室町時代末まで源氏長者の資格を保ちました。
その一族が下野に下って来たのが久我城とする説です。

佐野氏説は、一族の久我盛綱による築城とします。
久我盛綱も鎌倉時代の人物です。
佐野氏は宝治合戦で三浦氏に味方し敗退。
本領を没収され、以後衰退した時期がありました。
久我氏はこの頃に佐野氏から派生したようです。

廃城は1587年と考えられています。
この年代は、佐野氏激動の時期でした。
1585年に佐野宗綱が戦死すると、後継者が絶えました。
そこで家中ではどの家から養子を迎えるかで真っ二つに分裂。
争ったのは後北条派と佐竹派です。
佐竹派は1586年に上洛し、豊臣秀吉から惣無事令を得ます。
しかし、後北条家は1587年に佐竹家派を討伐。
北条氏忠が佐野家を継承しています。


所在地:栃木県鹿沼市引田 GPS軌跡ダウンロードページ
栃木県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

蕪山城/大分県日田市

蕪山城は、日田八奉行・石松氏の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。

蕪山城【位置】 大きな地図を表示

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蕪山城は、蕪谷川沿いの丘陵上にありました。
日田八奉行・石松氏の城のため、石松城とも呼ばれます。
城域は南北に長く、南麓から尾根に沿って登城します。
主郭は土塁と横堀に囲まれています。
北側はゴルフ場開発に伴って消滅しています。
蕪山城【1】
【1】登城口にある案内 上に戻る

南麓の登城口にある案内です。
ここから城内へ道が通じています。
蕪山城【2】
【2】駐車出来ます 上に戻る

登城口の前は路肩が広く、車を停められます^^
蕪山城【3】
【3】道沿いの土盛り 上に戻る

登城口からは道沿いに土が盛られています。
はじめは右側で、暫く登ると左側になります。
だいぶ登ると、土盛りが段になります。
曲輪のようになっていて、城跡に着いたのかと錯覚します。
知らなければ、勘違いしたまま帰ったかもしれません。
蕪山城【4】
【4】掘られた道 上に戻る

しかし、奥へ進むと山中に通じる道が。
わざわざ掘られた道が続きます。
この道を見て城キチセンサーが反応。
奥に何があるのか確かめねばと進みます。
蕪山城【5】
【5】主郭の虎口 説明板を表示  上に戻る

すると、奥に白い板が見えました。
期待させておいて「山火事注意」だとガッカリですが・・・
ココの城についての説明板でした。
しかも、縄張図付きの超豪華なヤツです♪
事前のリサーチではこの説明板は見つからず。
説明板の日付は令和3年1月でした。
まだ新しいデスヾ(*´∀`*)ノ
蕪山城【6】
【6】横堀 上に戻る

説明板は主郭の虎口にあります。
その目の前には、土橋付の横堀が横たわっています。
まずは右側♪
蕪山城【7】
【7】横堀 上に戻る

そして左側も♪
尾根を横一文字にぶった斬っています。
本当はもっとずっと深かったのかもしれませんが。
蕪山城【8】
【8】土塁 上に戻る

主郭はこんな感じの土塁で囲まれています。
往時はこの上に柵か塀があったのかもですが。
蕪山城【9】
【9】主郭を囲む横堀 上に戻る

主郭は西側の造りが凝っています。
土塁は高く、堀は深くなっています。
蕪山城【10】
【10】虎口 上に戻る

造りが凝っていのは、虎口があるからのようです。
パッと見る細い堀切のように見えますが・・・
西側の虎口を上から見るとこんな感じです。
深い横堀から、真っすぐ主郭に入ってきます。
蕪山城【11】
【11】虎口 上に戻る

内側から見るとこんな感じです。
南側の虎口は、真正面から直角です。
でも、ここのは斜めに真っすぐです。
もしかしたら隠し虎口だったのかも。
寄手を正面の虎口に釘付けにして、ここから奇襲!
・・・なんて、妄想が止まりません^^;iv>
蕪山城【12】
【12】土塁 上に戻る

土塁は続くよ、どこまでも♪
ここは歩きやすいので、足取りも軽いです♪
蕪山城【13】
【13】北東端の土塁 上に戻る

時計回りに外周を辿り北東端へ。
ここには虎口と堀切がある筈ですから♪
上から見ると、土塁が美しいカーブを描いています^^
蕪山城【14】
【14】北東側の堀切 上に戻る

北東端にある堀切です。
堀切、だと思います。
南側の横堀より浅いですが・・・
虎口もちょっと不明瞭だったかもしれません。
蕪山城【15】
【15】曲輪2 上に戻る

帰りに見た主郭南側の平坦地です。
説明板の図で「曲輪2」と書かれている場所です。
実は取り敢えず撮りだったのですが・・・
城跡でも遺構だったり遺構じゃなかったり。
まだまだ私もヒヨッコだという事デスネ!


◆歴史◆

大蔵一族・石松氏の城でした

石松氏は、大蔵氏の一族です。
色々ググってみましたが、それ以外あまり出ず。
詳しいことはよくわからず^^;
ネットで出て来たのは
・石松氏は日田永徳流
・石松姓の起源の1つ
・日田郡老、のち日田八奉行
といった事だけです。

日田永徳は、大蔵姓日田氏が滅びる前の当主です。
日田永徳の子が没し、孫と次男が争って滅びました。
石松氏の祖先は、彼らの兄弟だったのかもしれません。


所在地:大分県日田市西有田 GPS軌跡ダウンロードページ
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大蔵古城/大分県日田市

大蔵古城は、日田氏の城でした。
訪問日は2022年12月30日です。

大蔵古城【写真位置】 大きな地図を表示

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別名は日田城、高城、鷹城など。
長く日田を支配した大蔵氏(日田氏)の城でした。
慈眼山公園の一部ですが、城跡の大部分は山林となっています。
高城から東側に曲輪が連なり、大手は東側だったと思われます。
現状は南西の石段から細尾根を通り、城跡へアクセスします。
大蔵古城【1】
【1】川沿いにある駐車場 上に戻る

西側の花月川沿いに車を停められます。
この川は2012年の九州北部豪雨で氾濫しました。
その対策として河川改修が行われました。
ここもその時に整備されました。
城跡から近いので、安心して停められます。
大蔵古城【2】
【2】永興寺の石段 上に戻る

登城口となる石段です。
斜面を一直線に登ります。
こんな感じなので、往時は無かったでしょう。
とは言え、山城へアクセス出来るのは有難いことです。
大蔵古城【3】
【3】鐘撞堂 上に戻る

石段の上に永興寺があります。
城域内であれば、物見といった感じの場所です。
ここから日田市内を一望出来ます。
大蔵古城【4】
【4】上がる場所 上に戻る

お寺の背後の尾根とは段差があります。
写真では見えませんが、右奥のここに階段があります。
もしかしたら、往時からの隠し通路かもしれません^^
大蔵古城【5】
【5】郡代塩谷の碑 上に戻る

階段を上がってからは細尾根となります。
割と平坦で、普段見て回る山城サイズ位はあります。
予備知識無しで「ここが主郭だよ」と言われたら信じたかもデス。
「郡代塩谷」は、江戸時代後期の日田代官・塩谷正義です。
天領・日田の代官として善政を敷き、こうして石碑が建てられています。
昨年夏休みに訪ねた久美浜(丹後国)の代官も務めた人物でした!
大蔵古城【6】
【6】平坦面 上に戻る

石碑の背後には、ちょっとした平坦面があります。
ここが城の何だったのかがわかりません。
上から見ると平らに見えますが、削平は甘いです。
もしかしたら、お寺の跡なのかもしれません。
大蔵古城【7】
【7】堀切 上に戻る

北側は土塁状に高くなっていて、こんな窪みもあります。
細尾根なので、ここを断ち切っていてもおかしくありません。
すぐ脇にさっきのがあるので、簡単に通れてしまいますが。
大蔵古城【8】
【8】物見台的な場所 上に戻る

左脇の土塁状の中に、ひと際高い場所があります。
西側に飛び出す感じになっており、物見台かもしれません。
今は木々に覆われ、周囲は全く見えませんが。
大蔵古城【9】
【9】段になった平坦地 上に戻る

少し高い場所なので振り返ると、こんな感じです。
さっきの削平が甘い平坦地が段々に連なっています。
城の施設でないなら、完全にお寺の跡ということになります。
それにしてはかなりの規模ですが。
大蔵古城【10】
【10】高城の切岸 上に戻る

再び細尾根を進むと、目の前に高台が現れます。
この高台の上が、大蔵古城の主郭(高城)です。
城キチ的には登れない高さではありませんが・・・
大蔵古城【11】
【11】高城(主郭2)に上がる所 上に戻る

もう少し進むと、普通に上がれる場所があります。
とは言え、これも往時のものではなさそう。
でも、往時のものかもしれません。
虎口的な感じではないので迷います。
上の端に柵ぐらいあったでしょうし・・・
横から防ぎやすい上がり口だったのかも^^;
大蔵古城【12】
【12】高城(主郭2) 上に戻る

ここが主郭2と位置付けられる高城です。
上がった所から、細長く3段になっています。
大蔵古城【13】
【13】高城(主郭2)から見た古城(主郭1) 上に戻る

高城の右下には、かなり広大な平坦地が見えます。
これが古城(主郭1)と呼ばれる曲輪です。
高城とは高低差があり、直接下りられません。
写真ではそんな風には見えませんが^^;
大蔵古城【14】
【14】高城(主郭2) 上に戻る

高城の最上段です。
南北に細長い平坦地です。
南西には低い土塁があり、その外側は断崖となっています。
北端には、一段低く小さな平場があります。
何かを隠すような感じの場所に感じられました。
大蔵古城【15】
【15】古城(主郭1) 上に戻る

高城から見えてしまった古城。
見えてしまったからには寄らずには気が済みません。
直接下りるのはキツそうなので、回り込みました。
高城に上がった辺りは下が犬走りっぽい感じになっています。
そこを上がったり下がったりを繰り返して辿り着きました。
行ってみると、上から見た以上にとても広い場所でした。
大蔵古城【16】
【16】虎口っぽい所 上に戻る

とても広いので、外周をトレース。
藪や倒木で端を歩けない場所も多々ありました。
それでもなるべく端を歩くと、下に道っぽいものが。
東端のココは、上から見ると虎口に見えます。
今思えば下りて見て来れば良かったのですが・・・
黒なぽさんは、こんな時だけ面倒臭がりです。
大蔵古城【17】
【17】虎口っぽい所 上に戻る

南東の下りて来た方は、自然の為すが儘です。
木々が思い思いに茂り、行く手と視界を遮ります。
そんな中、地形に人工的なものを感じる場所が。
ここも虎口だったのかもしれません。
大蔵古城【18】
【18】南東側斜面 上に戻る

高城から古城へは、こんな感じの所を進みました。
写真は整った場所のように見えますが・・・
実際は木々に埋もれ、突然行き止まりに。
そんなこんなで上がったり下がったりの繰り返し。
行きに目印付けなかったので、帰りに迷いました^^;
何となく方向はわかるものの、戻るツテがサッパリわからず。
プチ遭難♪なんて、ちょっとワクワクしちゃいました。

◆歴史◆

大蔵氏(日田氏)の城でした

日田氏は、851年に日田郡司職となった大蔵永弘を祖とします。
とはいえ謎多き人物で、出自は諸説あります。
さらに計算上では200年以上生きたことになり・・・
伝承の人物扱いとなっています。
史料上で実在が確かなのは大蔵永季以降です。
相撲の名手で「相撲節会」では10回出場し無敗でした。
大蔵永季を祀る日田神社は、相撲の神として祀られています。
大蔵系日田氏による日田郡司職は、室町時代まで続きます。

1444年、大蔵系日田氏が滅びます
大蔵古城【関係図】
日田永秀の死後、家督争いが起きました。
その経緯が諸説ありよくわかりません。
【諸説①】
日田永秀死去
→日田永包が家督を継ぐ
→追放されていた日田永好が日田永包を暗殺
→日田永好が逃亡先の美濃で殺害される
【諸説②】
日田永秀死去
→幼主・七郎丸の家督相続に反対した日田永好が成敗される
→日田永好の家臣が七郎丸を暗殺
といった感じで、どっちがどっちを殺したのか?です
とは言え、両名とも世を去り日田氏が断絶。
日田氏の娘を娶っていた大友親満が日田家を継承します。
ここから、日田氏は大友氏系となります。
しかし、大友家からは独立した存在でした。

1548年、大友系日田氏が滅びます

日田永世は後継ぎが生まれず、大友親常を養子に迎えました。
大友親常は大友親繁の子で、日田永世の甥にあたります。
日田親常は子の親有に家督を継がせます。
大友宗家で大友政親・義右父子が争いました。
両者の争いには、宿敵・大内氏も介入しました。
両者死亡により、大友政親の弟・親治が当主となります。
大友親治は、家中の不穏分子を粛清しました。
日田親有はこの時、暗殺されたとも討死したとも伝わります。
断絶した日田家は、大友親明の子・親賢が継ぎました。
こんな感じで、日田氏は完全に大友氏の一族となっています。
次の代の日田親将は、悪政のため日田郡士らと対立します。
そのため1548年、大友義鑑は日田親将を解任し自害させました。

以後、財津氏、坂本氏ら大蔵系日田氏の一族の6名が郡老に任命。
後に2名追加され、日田八奉行により日田郡は統治されます。
日田親将の子・日田親永は、成人後に大友義統に仕え朝鮮で戦死。
日田親永の子は財津氏に育てられ、ともに肥後細川家に仕えました。


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日隈城/大分県日田市

日隈城は、短命だったお城です。
訪問日は2022年12月30日です。

日隈城【位置】
大きな地図を表示

城は川の合流点にある独立丘陵の亀翁山にありました。
日田市の中心部に近く、平時の支配拠点には最適です。
現在は亀山公園になっています。
遺構は曲輪と大手門跡が見られます。

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日隈城【1】
【1】橋から 上に戻る

平地にある平山城。
しかも川沿いなので、全体を見渡すことが出来ます。
南側から見た所がよく紹介されるので、私は北から。
だって、天邪鬼ですから。
日隈城【2】
【2】大手 上に戻る

北側の広い場所です。
ネットで拾った縄張図では、大手と書かれている場所です。
縄張図の土手の外側が、道になっていると思われます。
公園前はかなり広いですが、花壇が置かれ駐車不可。
駐車場は9時~17時利用可能というのが事前情報でした。
当日回る順番の都合で、近くに泊まって歩いて来たのですが・・・
訪ねてみると、12月28日~1月10日は解放と貼ってありました。
知ってたら車で来たのですが^^;
日隈城【3】
【3】せせらぎ水路 上に戻る

麓の公園には、目立つ水場があります。
城跡だから庭園かもしれないと思っていました。
ここは夏に水遊びが出来る場所です。
川から水を引くための水門もあります。
上述の縄張図では、からぼりと書かれています。
埋め戻さず、手を掛けずに利用したのかもしれません。
日隈城【4】
【4】川沿い 上に戻る

土手の外側に溝があります。
縄張図には何も描かれていません。
溝は、奥(南)へ行くほど浅くなっています。
もしかしたら船着場跡?と思い撮りました。
土手が新しいので、その可能性は低そうですが。
城キチのとりあえず撮りです^^;
日隈城【5】
【5】鳥居と道 上に戻る

土手を奥へ進むと鳥居があります。
ここから城山に登る細い道があります。
雰囲気的には搦手道でしょうか。
日隈城【6】
【6】登り切った所 上に戻る

斜面の細道を上がった所が開けていました。
縄張図だと、複雑に土塁が入り組んでいます。
虎口のようですが、面影がありません。
日隈城【7】
【7】神社に上がる石段 上に戻る

そして神社に上がる石段があります。
見た感じ、城の時には無かったような。
縄張図にも道はありませんし。
日隈城【8】
【8】日隈神社 上に戻る

石段の上にある日隈神社です。
一番高い所なので、主郭ですね!
元々は春日神社があったものの遷座。
江戸時代末期にココに戻ってきました。
明治に入り、初代日田県知事・松方正義が神社を創建。
尊王の時代らしく、後醍醐天皇と楠木正成が祀られています。
松方正義は後に総理大臣になっています。
日隈城【9】
【9】帯曲輪 上に戻る

主郭の一段下は、こんな感じの平坦地が囲んでいます。
城の構造的には帯曲輪っぽいですが、通路かもしれません。
というのも、縄張図ではここを通って主郭なので。
やはり軌跡だけだとわかりにくいので、色を付けます♪
日隈城【10】
【10】南に下る道 上に戻る

最初に上がって来た6の所から、南側に下る別の道があります。
これも往時からあった道っぽい感じ。
見に行かねば!
四阿のある所の脇を通っています。
上からバッチリ狙えるので、防御は万全!
日隈城【11】
【11】南側の橋に出るようです 上に戻る

踊り場的な所を経て川に続いています。
左右から敵が来ないなら、水の確保に良さげです^^
船があれば、非常時に脱出も出来そうです。
日隈城【12】
【12】2段目の帯曲輪 上に戻る

四阿のある所に戻ると、北に延びる道があります。
神社からは2つ下の段になります。
城内の道にしては広い気もしますが・・・
建物建てても邪魔になりそうです^^;
日隈城【13】
【13】大手門の上 上に戻る

そのまま真っすぐ進むと、開けた場所に出ました。
セメントの道はそのまま右奥へ続いています。
左に見えるのは大手門跡の枡形です。
ここは大手門を守るための曲輪だったようです。
日隈城【14】
【14】大手門跡 上に戻る

そして、ここで唯一見られるバッチリ遺構です。
幅の広い枡形虎口です。
奥がちょっとアレですが、ほぼ残っています。
城の前は開けていたのに、ココはだいぶ奥まった所です。
主郭に至る道も、行ったり来たりで真っすぐではありません。
こういう所が城跡らしいですネ♪
日隈城【15】
【15】大手門跡の石碑 上に戻る

そして、大手門跡の外側にコレがあります。
金文字カッケーヾ(*´∀`*)ノ
日隈城【16】
【16】大手門跡の外側 上に戻る

大手門跡の外側です。
この道は駐車場の前まで続いています。
縄張図では外側にカラボリがあるので、一応城内です。
描かれている土手は、この道の右側の段差と思われます。
この光景から往時を偲ぶのは、ちょっと難易度高いかもです。


◆歴史◆

1594年、宮城豊盛により築かれました

宮城豊盛は豊臣家臣です。
九州征伐の前年、黒田孝高とともに九州へ出張。
大友宗麟や立花統虎に対し島津軍に備えるよう伝えています。
その後、大友義統が改易。
旧大友領は豊臣家の蔵入地となりました。
宮城豊盛は日田の代官に就任。
この時に日隈城を築きました。

1596年、毛利高政が改修しました。

毛利高政が日田郡・玖珠郡に2万石を与えられました。
また、蔵入地も預けられ、その代官となりました。
毛利高政は角牟礼城も改修し、そちらに入っています。

1600年、黒田軍に攻められました。

関ヶ原の戦で、毛利高政は西軍につきました。
大坂城の警護や田辺城(舞鶴城)攻めなどに加わっています。
一方、九州では黒田孝高が西軍の諸城を攻略。
日田郡には栗山利安を攻めさせました。
城代の毛利隼人佐は説得に応じ無血開城。
そのため、上方に居た毛利高政も東軍に降りました。
戦後、毛利高政は日田郡・玖珠郡の領地を没収されています。

1639年、廃城となりました。

毛利高政は佐伯2万石を与えられて移りました。
日田郡・玖珠郡は天領となり、毛利家が代官となりました。
毛利隼人佐がその代官を務めています。
この時、小川祐忠に日田郡の2万石が与えられました。
日隈城には毛利家の代官が居たため、月隈城を築きました。
しばらくは、日隈城と月隈城が日田に併存します。
1633年に月隈城(永山城)の石川忠総が佐倉7万石に移封。
※月隈城は石川忠総が城主となった1616年に永山城と改称
永山城が中津藩の預かりとなります。
そして1639年、日田が天領となり、日田代官所が設置されました。
この時に日隈城、永山城ともに廃城となりました。


所在地:大分県日田市庄手 GPS軌跡ダウンロードページ
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財津古城/大分県日田市

財津古城は、古い形式の山城です。
訪問日は2022年12月29日です。

財津古城【位置】
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財津古城は、某大聖典では藤山城、財津城と表記されます。
古城というので新城があるかと思いましたが、それは無いようです。
川の合流地付近の尾根先端に、大きな曲輪が連なっています。
堀や土塁、虎口等は明確でなく、古い形式の城跡です。
登り口さえ見つければ、迷わず城跡に辿り着けます。
GPSの軌跡だけではわかりづらいので、平坦面を塗ってみました。
とにかく広い曲輪が段々に連なっています。
財津古城【1】
【1】城跡への入口 上に戻る

城跡への入口です。
住宅街の細い路地にあります。
川沿いの山なのですぐに見つかりますが。
この「登って下さい!」的な石段を登ります。
財津古城【2】
【2】入口にある神社 上に戻る

石段からは神社に登る道が見えます。
城跡は山の上なので、ここで標高を稼ぎます。
財津古城【3】
【3】最初の平坦地 上に戻る

神社から先は、明確な道ではありません。
それでも直感で辿れます。
すぐの所に、最初の平坦地があります。
これが曲輪なのか、そうでないのか。
城キチ的には曲輪かな?と思っています。
財津古城【4】
【4】一番下の段 上に戻る

踏み跡を辿り登ると、再び平坦地に出ます。
今度はさっきとは雰囲気が違います。
辿り着いて平坦地のすぐ奥に段差が見えます。
畑と言われればそうかもしれませんが・・・
一応世間的には城跡と認識されています^^
財津古城【5】
【5】並べられた石 上に戻る

とは言え、石が並んでるとつい撮ってしまいます。
デジカメなので、フィルムの残り気にしなくてもイイですし。
・・・っと、歳バレネタですね^^;
今でも「学生さんですか?」と言われますけどねw
財津古城【6】
【6】曲輪 上に戻る

今いる曲輪の奥に、横一線に広がる段差。
全般的にはこんな光景が広がります。
古い時代の城跡の特徴ですね。
財津古城【7】
【7】細かい段差 上に戻る

ただ、西側の端はよそと少し様子が違います。
細かい段差が尾根のように張り出しています。
奥に行くほど段差が高くなるので、ここから登ります。
財津古城【8】
【8】石垣 上に戻る

石垣といっても、多分畑のです。
端が崩れないようにしたのでしょうか。
城跡でもそういう所はありますが。
でも、それ相応に攻めにくい構造もあったりするものです。
ここでは、そういった類の遺構は見られません。
財津古城【9】
【9】段差に埋もれる石垣 上に戻る

ただ、悲しいかな、本能には逆らえず。
ここの積み方はまさに農家様デス。
それでも、その場ではハッピーな気分なのでイイんです^^;
財津古城【10】
【10】一番奥の段差 上に戻る

西の端を登り、一番高い段を見上げた所です。
登れば登れますが、登りにくいです。
上から邪魔されれば猶更ですよね^^
そんな攻防があったのか無かったのか。
構造が単純な城跡でも、つい想像してしまいます。
財津古城【11】
【11】一番上の曲輪 上に戻る

そして一番上です。
ここも広いです^^
財津古城【12】
【12】土塁? 上に戻る

西側の端です。
何となく端だけ盛り上がって見えます。
これって土塁の痕跡でしょうか。
畑ではこんな風にはなりませんよね?
財津古城【13】
【13】段差 上に戻る

北へ進むと、曲輪がくびれています。
ここから下の曲輪との段差を撮りました。
くびれている所では、足元に石積みが見られます。
積み方は、バッチリ農家さんです。
財津古城【14】
【14】つい反応 上に戻る

そうだとわかっていても、つい撮ってしまいます。
城で携わっていた人が、自分の畑で積んだかもなので。
妄想の世界では何でもアリです。
財津古城【15】
【15】北側の尾根 上に戻る

一番上の段を北へ。
すると段差があり、尾根が奥へ続いています。
確かに等高線は尾根なのですが・・・
こうして見ると、土塁に見えてきます。
土塁だとしたら曲輪は右側?
左もそこそこ平らではありますが。
財津古城【16】
【16】北東先端 上に戻る

一番上の段の北端です。
向こう側も寄ってきて、幅がだんだん狭くなっています。
ということで、北東の先端は尖がっています。


◆歴史◆

築城年代は不明です。
日田八奉行の財津氏の城でした。
財津氏は日田郡司・日田氏の一族です。
日田氏は1490年代に家督争いで滅びました。
そのため大友家出身の養子が継ぎ、日田郡司となります。
財津氏も郡老として、大友系日田氏を支えました。
郡老は後に2氏を加え、日田八奉行と呼ばれるようになります。

1523年、大友義鑑に攻められました

大友義鑑が、堤氏と高瀬氏に財津永満討伐を命じました。
これは讒言を信じたためとされます。
両氏が財津氏を攻めますが、作戦当日は大雨でした。
そのため堤軍が単独行動をとり、財津軍の待ち伏せで惨敗。
財津軍は堤弾正を討ち取りました。
大友義鑑は再度、高瀬越後守に財津氏討伐を命令。
財津軍は敗れ、財津永満は山口へ逃れています。

1534年、財津永満が復帰します

大友義鑑の赦しを受け、財津永満が復帰しました。
日田親将が大友義鑑に逆らった件が関係しそうですが・・・
大友義鑑の弟・菊池義武が反大友になったのもこの年です。
日田郡老達が菊池氏寄りになるのを牽制するためでしょうか。
理由はよくわかりませんが、財津氏が復帰しました。

1593年、大友家改易により領地を失います

朝鮮での失態により、大友義統が改易されました。
これにより、多くの大友家臣が領地を失っています。
財津氏もこれに含まれ、流浪の身となります。
財津永高は肥後細川家に仕え、家名を保っています。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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