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志岐城/熊本県苓北町

志岐城は、天草五氏・志岐氏の本拠地でした。
訪問日は2023年12月31日です。

志岐城【写真位置】大きな地図を表示
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クルマで主郭まで行ける!とチェックしてた城跡です。
実は、今回訪問予定はありませんでした。
なぜ訪ねたかと言うと、雨が降ったからです。
年末年始に本降りの雨というのが19年ぶりだとか。
思い返せば、年末年始っていつも晴れでした。
雨の日に山城巡りはちょっと・・・
でも、1日ホテルに缶詰めは・・・
ということで、時間潰しがてら「雨でも」な城跡へ。
そんな訳なので、下調べほぼゼロで急遽訪ねました。
登城口は、北側麓の消防署脇。
建て替え中なのか、建物はありませんでした。
でも、ちゃんと案内ありました(*^▽^*)
舗装道をクルマで登り駐車場へ。
そのすぐ脇が主郭なのでした。
いくら車で来れるからって、これで終わり?
そう思いウロウロしてみました。
どうせ時間は有り余ってたので。
すると、南側の曲輪の縁が妙に暗い!
そう思い木立の中を覗き込むと、横一線に堀が!
でも、下りる場所を見つけられずに車道へ。
実は車道手前に下りやすい場所がありました。
それは2回目に下りた時に下で見つけたのですが・・・
何せ下調べ無しで来たのでそうとは知らず。
車道沿いの曲輪から、無理やり下りたのでした。
下にはかなり長い帯曲輪があります。
行きませんでしたが、北西にずっと続くようです。
主郭側へ戻ると、手前に段差があります。
段差は2つあり、いずれも石垣でした。
先程の芝生の曲輪下に一段の平坦地。
その南側に、長い堀切があります。
あぁ、来て良かった(*´ω`*)
雨も思った程降らず、しっかり山城探検したのでした。
志岐城【ザックリ図】
志岐城【1】
【1】登城口 上に戻る

地図を見てもよくわかりませんが・・・
先人曰く、消防署の脇から登れるらしい!
その消防署は解体され見当たらず。
でも、その辺りに行くと案内がありました。
ここからクルマで登ります。
志岐城【2】
【2】駐車場(二郭) 上に戻る

全面アスファルト舗装で頂上へ。
行き着いたのが突き当りの駐車場です。
いつも通りの貸切!
着いた時は、ですが。
志岐城【3】
【3】二郭 上に戻る

駐車場から細長い平坦地が二郭です。
芝生になっていて四阿があります。
眺めが良く富岡城も見える、らしいです。
そういうの興味無くて見ませんでしたが(^^;
志岐城【4】
【4】主郭下の説明板 上に戻る

駐車場脇に雑木林のこんもりが。
その階段脇に説明板があります。
普段行く所には無いので嬉しくなります。
流石は整備された城跡!
志岐城【5】
【5】主郭 上に戻る

階段を上がると神社があります。
その名も「志岐麟泉社」です。
城主様の名前そのまんまです。
本人が見たら照れるでしょうか?
エッヘンと得意気になったらシカトするかも(´∀`*)
志岐城【6】
【6】神社の屋根 上に戻る

そして、城キチなら思わず目が行くアレがあります。
城跡にある神社ならこうでなくては!
城主様を祭神としてるなら、これ位アリです。
志岐城【7】
【7】主郭南端の土壇 上に戻る

社殿の裏も忘れずに見ます。
土盛りが見えたので。
神社があるのでその時のかもですが。
一応「土塁かな?」とチェックは欠かしません。
何せ予習無しで突撃したので。
らしいものは一切見逃さないつもりで来ています。
志岐城【8】
【8】主郭東側の通路 上に戻る

いかにも「こっちも見ろ」的な通路が。
もちろん逝きますとも!
通路っぽく見えますが通路でしょうか。
帯曲輪、という程でもないような。
志岐城【9】
【9】主郭南側の曲輪 上に戻る

駐車場から主郭を挟んだ反対側にも曲輪があります。
でも、ココの名前が全然わからず。
志岐城には主郭、二郭、出丸、馬場があるそうです。
そう書いてあるサイト様でも、どこが何とは一切触れず。
ハッキリわかるのは主郭と二郭、出丸だけです。
主郭には神社、二郭は駐車場、出丸は登って来る途中。
消去法で行くとココは馬場?
馬場のイメージとはちょっと違います。
主郭を二郭が一周囲んでいる、ということでしょうか。
志岐城【10】
【10】西側の帯曲輪 上に戻る

駐車場手前の道の下には帯曲輪があります。
本当は主郭南側の曲輪から下りたかったのですが。
下りる場所がわからず、ズルズル進んでしまいました。
結局、西側の道端から強引に下りました。
もっと下りやすい所が後で見つかりましたが・・・
それは、ザックリ図に書き込んでおきました。
下りた所も道のように細長い平坦地が続いています。
まさかココって帯曲輪?
形状的にはそうですが、いきなり実物を見ると信じられず。
でもあちこちのサイト様を拝見すると帯曲輪でした。
その先端が出丸で、水道施設があるそうです。
志岐城【11】
【11】帯曲輪の段差 上に戻る

そうとは知らず、城側へと戻りました。
城の南側に近づくと、背丈程の段差があります。
この段差が石垣で出来ていました。
こういうのが2段あります。
志岐城【12】
【12】南側の切岸 上に戻る

下から見た主郭南側の曲輪の下です。
固有名詞がわからないと、表現が難しいデス。
3メートル程の切岸で、垂直に掘られています。
下は平坦なので曲輪なのかと思いました。
とは言え、ここも馬場ではないでしょうね。
志岐城【13】
【13】石垣の跡? 上に戻る

この切岸の一番下は、石が横一線に並んでいます。
でも、並べたというより、石垣の一番下の段に見えます。
元々は一面石垣だったものが、崩されたかのような。
島原・天草一揆の後、九州各地で破城が行われました。
これは一揆で廃城跡が利用されるのを防ぐ措置です。
有名ドコロでは名護屋城とか原城など。
崩された石垣が見所となっています。
もしかしたらココもそうなのかもしれません。
志岐城【14】
【14】堀切 上に戻る

切岸から10メートル程先に、大きな溝があります。
この溝は、尾根を垂直に分断しています。
こういうのを城キチ用語で「堀切」といいます。
一般的にはもうちょっと細い尾根をザクっとですが。
熊本では緩い尾根を長く掘ってる所がチョクチョクあります。
志岐城【15】
【15】堀切の東端 上に戻る

せっかくなので、端から端までなぞってみました。
私の大好物は堀切なので(*´▽`*)
志岐城【16】
【16】南側から 上に戻る

堀切の向こう側から城側を見た所です。
溝の部分だけが堀切かと思っていましたが・・・
切岸の下の平坦地も含めて堀切のように見えます。
掘らなければここ全部まっすぐ繋がりますからね。
そういう目で見ると、実はかなり大規模な堀切でした。
【動画】 上に戻る

と、ここまで長々と綴りましたが・・・
動画にすると4分弱でまとまりました。
画が流れるので脱線出来ませんからね。
時間が無い方はコチラをご覧頂いた方が早いかもです(・_・;)


◆歴史◆

天草五氏・志岐氏の城でした

志岐氏は菊池氏の一族です。
1205年、藤原光弘が天草郡内六ケ浦の地頭となりました。
この頃から志岐姓を名乗るようになったと考えられます。
藤原姓ですが、菊池氏の本姓も藤原です。
そこら辺をすっ飛ばすと?になります。

志岐氏は自らの領地を北条得宗家に寄進。
その代官として現地で勢力を拡大しました。
そのため、以前から居た天草氏と激しく争います。
苓北町各地に「麟泉」と付いた名の施設があります。
これは、戦国時代の当主。志岐麟泉に由来します。
志岐麟泉は、天草で初めてキリスト教の布教を認めました。
しかし、これは交易による利益目当てだったようで・・・
良港の無い志岐領に、南蛮船はあまり来ませんでした。
益無しと見た志岐麟泉は、キリスト教を迫害しています。
天草で一番熱心なキリシタンは天草氏でした。
後に多くのキリシタンが島原・天草一揆に加わりました。
ちなみに、天草四郎は天草氏ではありません。
本名は益田時貞です。

1589年、小西・加藤連合軍に降りました

天草の諸氏は、周辺大名の動向に左右されました。
南北朝時代には、北朝方の一色氏と南朝方の菊池氏。
菊池氏衰退後は大友氏、相良氏が肥後を支配します。
その後、島津氏、龍造寺氏らも加わり・・・
天草五氏は、生き残りを賭け右往左往します。
島津氏が勢力を拡大すると、志岐氏も配下となります。
豊臣秀吉が島津氏を討伐後は、降って本領を安堵。
南肥後の主となった小西行長の与力となります。
しかし、ここでトラブル発生。
小西行長の宇土城改修に天草諸氏が従わず。
小西行長は天草諸氏を攻撃しました。
天草諸氏は協力し合って小西軍を撃退しましたが・・・
小西行長は加藤清正に援軍を要請。
小西・加藤連合軍により、天草諸氏は討伐されました。
志岐氏は縁者の島津氏や有馬氏を頼って離散しています。


所在地: 熊本県天草郡苓北町志岐 GPS軌跡ダウンロードページ
熊本県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

原田城/熊本県人吉市

原田城は、登城路がありません。
訪問日は2023年12月30日です。

原田城【写真位置】大きな地図を表示
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原田城への登城路は消失しています。
かつては公園だったらしい原田城跡。
国土地理院の地図には東西に道が描かれています。
しかし、いずれも「道」の体を成していません。
はじめに訪ねたのは東側。
クルマが走れそうな道が描かれているので。
しかし、現地で見えたのはただの斜面。
道らしき痕跡すら見えませんでした。
次に訪ねたのは西側。
社の脇にそれっぽい所があり突入しました。
しかし、すぐにそれっぽさは無くなります。
東にズレてるから?と思い西に寄りましたが・・・
見えた光景は「ただの谷」です。
元来た所の方が歩きやすいと、元の位置に戻りました。
写真3の辺りからは、何となく道の痕跡が。
そのまま登り、西城の堀切に行き当たりました。
西城は単郭で、樹脂製の遊具が残っています。
西城からは、堀切に架かる橋を渡り稜線へ。
道は無いものの、下草は無く歩きやすいです。
途中に土塁が横一線にあり、その東側が堀切でした。
かと言って、土塁があるのは西側。
そちら側が曲輪かと言えば、そうは見えません。
そのすぐ東側が、複雑な形状になっています。
虎口っぽい所もあり、南側に平坦面が続きます。
東城は、東側に一段低い段があります。
それ以外はノッペリ平坦な曲輪があるだけです。
下りは西城北側の堀切を東へ。
地図に描かれている道を探す感じでした。
確かに地面は掘られた感じがありますが・・・
地表は草木が覆い尽くしていました。
そんな超藪状態を潜り抜け地上に到達。
下りた先は、コンクリートの小さな水路でした。
道が消失したのは、熊本地震のせいでしょうか?
原田城【ザックリ図】最近、ザックリ図だけで良いように思えてきました(´▽`;)
原田城【1】
【1】大黒天 上に戻る

今回スタート地点とした赤い鳥居の神社です。
国土地理院の地図では道が描かれています。
その道を探したものの見つからず。
ウロウロしてココに辿り着きました。
左脇が何となく山道っぽい?
ということで、ここから登りました。
原田城【2】
【2】途中にある石垣 上に戻る

途中、こんな石垣がありました。
畑にするような場所でもなし。
積み方も野面積みだし城郭遺構?
それにしては少し離れ過ぎな気も。
城キチなので、一応撮りました。
原田城【3】
【3】道の跡? 上に戻る

西側の道?は、これでも良い方です。
麓からは、斜面に沿って踏み跡を辿りました。
踏み跡と言っても、心の眼で見る感じのです。
GPSでは、国土地理院の地図の道よりだいぶ東。
途中そっちを見に行ったものの、歩けそうになし。
ということで、元のマシな所を辿りました。
原田城【4】
【4】西城北側の堀切 上に戻る

ただの山を真っすぐ登りました。
そして稜線近くまで来て、右側がこんな感じに。
これはどう見ても堀底道!
山登りにうんざりした城キチは息を吹き返しました。
原田城【5】
【5】西城北端の木橋 上に戻る

堀底道はかなり続きます。
途中、如何にもな木橋が。
ここが西城の入口です。
木橋から南へGo!
原田城【6】
【6】西城 上に戻る

かつては公園だったらしい原田城跡。
その名残が西城にはありました。
・・・これだけですが(・_・;)
何しにココへ遊びに来たのか。
公園だった頃の様子が知りたくなりました。
原田城【7】
【7】西城北側の道っぽい所 上に戻る

続いて東城へ。
堀切を東に進んでも行けそうですが・・・
木橋から稜線に向かってうっすら道が。
・・・これが道に見えるという私の眼。
お医者様に診てもらった方がいいでしょうか。
やはりというか、明確なものは無し。
とりあえず一番の高みに沿って東へGo!
原田城【8】
【8】稜線を横切る土塁 上に戻る

すると、途中で横一線に土の高まりが。
向こう側は一旦低くなってるように見えます。
これって、もしかして、、、?
曲輪でもないし、ここにある?
原田城【9】
【9】稜線を分断する堀切 上に戻る

そう思ったものの、確かに土塁と堀切でした。
稜線上を分断しています。
西城と東城の間で。
両城の外側ではなくその真ん中。
どういう意図なのか気になります。
土塁の位置からすると西側が防ぎたい側。
それとも、東城への付城だったのでしょうか。
原田城【10】
【10】東城北端 上に戻る

そろそろ東城?という辺りで地形が複雑に。
明らかに人の手が加わった造形です。
とは言え、整った感じではないですが。
パっと見、どこからどう進むのか?という感じです。
原田城【11】
【11】東城虎口? 上に戻る

でも、1か所だけこうなってました。
素直に見れば虎口なのでしょう。
でも、公園になってたし・・・
そういう過去があると、わからなくなります。
原田城【12】
【12】東城の付け根 上に戻る

複雑な地形から先はこんな感じです。
尾根の先に向かって平坦面が続きます。
ここから見ただけでも、西城よりかなり広いです。
原田城【13】
【13】東城東側の腰曲輪 上に戻る

東城の東側には、一段低い段が続きます。
原田城【14】
【14】東城 上に戻る

東城です。
西城に比べるとかなり広いです。
しかし、曲輪は1つだけ。
端に段はありましたがそれだけです。
原田城【15】
【15】西城北側の堀切 上に戻る

帰りは東側から。
麓で見つからなかった「道」を探しに。
地理院の地図では西城の東側です。
現地では、西城北側の堀切を辿ります。
その東端は、土盛りが迫り虎口っぽい感じ。
原田城【16】
【16】虎口? 上に戻る

反対側から見た所です。
ここだけ狭めているので虎口でしょうか。
外側の土盛りは、よく見れば石垣です。
積み方が野面積みですね!
公園化した時のものではなさそうです(^o^)
原田城【17】
【17】東側の道跡 上に戻る

と言っても「道」らしさはそこまで。
すぐにこんな感じになります。
辛うじて地面は少し窪んでいます。
でも、地表はとても歩ける状態ではありません。
場所によっては、文字通り藪に「潜り」ます。
原田城【18】
【18】東側の道跡 上に戻る

藪でない所でも、倒木がかなりあります。
重力で色々集まりやすい谷間ですからね。
東西ともに道は消失、ということです。
原田城【19】
【19】東側の道跡の下端 上に戻る

上から道の跡をなぞってココに出ました。
「道」を探しても見つからなかった訳です。
地図に描かれた「道」がコレだとは思いませんからね。
廃道マニアか藪マニアにしか勧められないコースです。
歩けるだけ、西側の方がまだマシです。


◆歴史◆

1340年、攻め落とされたようです

築城年代や城主等は不明。
原田の地頭だった豊永氏や馬場園氏と考えられています。
散々ググって出て来たのは1340年の1件のみ。
『相良祐長軍忠状』です。
軍忠状とは、戦の功を証明する文書です。
ややこしいのはこの文書の名前。
前に書かれた名前が、申請者なのか、承認者なのか。
色々ググってると、両方出て来ます。
・・・まぁ、関わってる事に変わりは無いですが(;'∀')
内容は、少弐頼尚の兵が立て籠もり、焼き払ったというもの。
少弐頼尚は北朝方では九州のトップ。
ご本人様がこんな小城に立て籠った訳ではありません。

当時、相良家は北朝方と南朝方に分裂。
約100年にわたって争い続けました。
鍋城で上相良氏が南朝方、下相良氏が北朝方と書きました。
でも、実はそんなスッキリしたものではありませんでした。
と言うのも、相良祐長は下相良氏だからです。
あれれ?と思い、少し調べた結果が↓です。
原田城【ザ~1340】
当時の相良家惣領は多良木の上相良氏でした。
下相良氏は、相良家中で最有力な分家でした。
その両家が南朝方・北朝方に分かれ争いました。
そこに、下相良家中の不和も絡みます。
球磨郡一帯では南朝方が優勢でした。
そんな中、北朝に味方する相良長氏は貴重な戦力。
当然、少弐頼尚としては必死に繋ぎ止めようとします。
そのエサとなったのが、人吉北部の領地です。
相良氏初代が没収されたトコロです。
少弐頼尚は相良長氏に与えたのですが・・・
相良長氏は、孫の相良定頼に譲っています。
もうここに、父と子の断絶が見て取れます。
相良祐長は、少弐頼尚方の原田城を攻めました。
その背景は、たぶんこんな感じだったものと思われます。


所在地:熊本県人吉市下原田町西門 GPS軌跡ダウンロードページ
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大畑城/熊本県人吉市

大畑城は「おこば」と読みます。
訪問日は2023年12月30日です。

大畑城【写真位置】大きな地図を表示
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大畑城は「おこば」と読みます。
クイズに出たら、たぶん城キチしか答えられません。
城キチでも無理かもですが(*´艸`*)
某大御所様は民家脇から山に入る道があると宣います。
でも、民家周りをウロウロしてもわからず。
あんまりウロウロするのも何かと少し離れてみました。
クルマを停めるのに丁度良さげな路肩が東側に。
その北側が谷間(写真2)になっていました。
「もしや、こっちからも逝ける?」で突撃。
谷は5m程の絶壁で行き止まり。
でも、左脇から何とか登りました。
そして城跡方向の西へ進むと、すぐに鞍部。
折角登ったのに、すぐに下りて来たのでした。
そこから、南東側に伸びる道。
帰りに辿らねばと通ったのが写真3~5です。
そこからは、城の北側を巡る横堀状の通路を西へ。
進むほどに左側の切岸は低くなります。
そして、写真8の辺りで人の背丈程に。
すぐの高さなので直で登りました。
もう少し先まで進めば素直に道があったかも。
尾根から城跡方向の東へ進むと平坦地。
その先に細い通路状の虎口があります。
その上にある広い平坦地が主郭です。
一部に土塁っぽいものが見られます。
東側の鞍部は、上から見ると大きな堀切に見えます。
大畑城【ザックリ図】
大畑城【1】
【1】広い路肩に駐車 上に戻る

「南の民家脇から山に入る道がある」
その一文を頼りに南側の民家付近をウロウロ。
しかし、敷地への侵入度が高そうに感じ・・・
結局「民家脇から」を断念。
とりあえず流れ着いたのが、すぐ東側の右カーブ。
この付近から城跡へのルートを模索しました。
大畑城【2】
【2】そこから見た山側 上に戻る

何とかならんか・・・?
そう思い竹藪の中を覗くと、こんなでした。
おい、これって、ココから逝ける?
そう感じさせる光景です。
これはもう行くしかない!
そう思いここを真っすぐ進みました。
結論から言えば行けます。
この先に垂直な岩の壁が立ちはだかりますが。
突き当りの左脇から尾根上に登れました。
でも、帰りにもっとイイルートを発見。
大畑城【3】
【3】下って来た道 上に戻る

帰りに撮ったのでこのアングルです。
先程の谷には入らず、手前を左です。
草に埋もれて行きには見つけられず。
でも、上から辿ると道がありました。
この角度がヒントになればと思います。
現地には目印を付けておきました。
大畑城【4】
【4】鞍部から下る道 上に戻る

これも帰りに撮ったものです。
鞍部から南東へ下る道です。
草が無ければこんなにハッキリ見えます。
真冬でも枯れない草って・・・
大畑城【5】
【5】鞍部 上に戻る

ということで、帰りに見つけた鞍部からの道。
それはココから下るのでした。
しかし、行きは東の尾根から鞍部へ↓
無駄な登り下りをしたのでした。
大畑城【6】
【6】鞍部 上に戻る

これは行きに撮りました。
鞍部からどう進もうかと思っていた時です。
北西側へ、切岸に沿う道のように見えました。
城跡側は鋭い切岸なので直登は無理。
とことん回り込む作戦に出ました。
大畑城【7】
【7】横堀 上に戻る

城の北側はずっとこんな感じが続きます。
山城に慣れた方なら、確信が持てる感じですね!
ココまで来れば、人の手が加わった所を辿るのみ。
このまま西へと進みます。
大畑城【8】
【8】登った所 上に戻る

西へ進むので、城跡は左側。
はじめは10m近かった切岸も、段々低くなって来ます。
そして、ついに尾根が目の高さまで。
しかも、歩いた跡があるかのような感じ。
ココまで来ればそのまま登ります。
そして、城跡へターンするよう尾根を東へ。
大畑城【9】
【9】腰曲輪 上に戻る

ほんの少し進んだだけで、平坦地が現れます。
民家脇での絶望から一転。
勝利のガッツポーズですヾ(*´∀`*)
あとは外周に沿って進むのみ。
大畑城【10】
【10】下から見た虎口 上に戻る

下の段も結構広かったですが、窪んだ道が現れます。
更に上へと続く道。
これが噂の南西側の虎口です(*^▽^*)
主郭への出入口らしきものはココだけです。
大畑城【11】
【11】土塁 上に戻る

主郭内では一部に土塁があります。
北側なので、下に横堀があります
寄せ手を回り込ませる防御機構だったようです。
大畑城【12】
【12】主郭 上に戻る

主郭はだいたいこんな感じ。
いつもの雑木林の写真になりました。
大畑城【13】
【13】上から見た鞍部 上に戻る

主郭東端から下を見た所です。
手前が深く、奥が少し高い感じ。
上から見れば、普通に堀切ですね!
繋がっていれば、もっと楽に登れています。
だからこそ、断ち切ったのでしょう。
大畑城【14】
【14】主郭 上に戻る

12の反対側から見た主郭です。
特に変わった所はありません。
軌跡の空白が多いと、ソコがどうだったか気になります。
ということで、空白を埋める写真だと思って下さい(´∀`;)
大畑城【15】
【15】上から見た西側の横堀 上に戻る

主郭を時計回りに一周。
西端から下を見ても、東側同様堀が見えました。
上がって来た時には気付きませんでしたが。
これは、下る時に見ねば!
大畑城【16】
【16】井戸跡 上に戻る

そう思い来た道を下ったつもりでしたが・・・
来る時には見なかった光景が。
石積みで囲まれた大きな窪みがあります。
炭焼き窯の跡かと思いましたが井戸跡のようです。
某大聖典には、昔は石を投げたら水の音がしたとあります。
どんだけ昔話なんだという位に埋まっています。
思い出せば、某大聖典って半世紀前の本でしたね。
大畑城【17】
【17】南西側の横堀 上に戻る

上から見て行かねばと思った、南西側の横堀です。
ルート的には北側からの横堀と繋がる感じ。
素直に進んだら、この先で急斜面に行き当たります。
これも寄せ手を惑わすための工夫でしょうか。


◆歴史◆

相良氏の重要拠点の1つでした

築城年代は不明です。
色々ググって出て来た城主様は佐牟田氏です。
佐牟田氏は相良氏の庶流とされます。

1557年、上村三兄弟の乱で鎮圧されます

相良義陽が家督を継いだのは12歳の時でした。
この時、叔父の上村頼孝らが乱を起こしました。
相良義陽は先手を打ち彼らを鎮圧。
この時に上村城、岡本城とともに攻められたようです。
城の名前は出て来たものの、内容は?です。
この時の物として「相良頼房感状」があります。
「相良頼房」は後の相良義陽です。
上村三兄弟の援軍として島津軍が侵攻。
大畑口で佐牟田兵部少輔が撃退したという内容です。

1559年、佐牟田頼秀が戦死

この時の城主は佐牟田頼秀でした。
獺野原の戦の前哨戦・奥野一度橋で戦死しています。
これは、湯前城方が兵糧を運び込む際の攻防戦です。
佐牟田頼秀は犬童頼安方として参戦していました。
戦後、相良頼房(後の義陽)から感状が贈られています。
感状には「佐牟田三良左衛門尉頼秀」とあります。

感状を贈られたのはその子・佐牟田長堅です。
当時はまだ14歳で、仙千代という名でした。
佐牟田長堅は狩りの際にも論語や六韜三略を携帯。
薩摩を手に入れる方法を日夜考えていたそうです。
噂を聞いた島津義弘が、佐牟田長堅を引き抜こうとします。
佐牟田長堅はその使者に島津義弘の首を要求。
気に入った島津義弘は、佐牟田長堅を屋敷に招きました。
そして、島津義弘は太刀を授けました。
佐牟田長堅は、秘蔵の火打石を返礼としています。
相良領の対島津軍最前線にはこのような人物が居ました。
1579年、佐牟田長堅は薩摩の深田へ狩りに出かけました。
この時、島津家のスナイパーに狙撃され落命しています。

1615年、廃城になりました

佐牟田長堅以降の城主はわからず。
謀叛などではないので、佐牟田氏かもしれません。
「大畑城とともに一国一城令で廃城」
・・・と、あちこちで見かけます。
まぁ、そういう事なのでしょう。
以後は、外城の大畑麓が置かれました。
この辺の仕組みは島津家とよく似ています。
大畑には半士半農の郷士が暮らしました。


所在地:熊本県人吉市大畑町 GPS軌跡ダウンロードページ
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上村城/熊本県あさぎり町

上村城は麓城とも呼ばれ、紅葉の名所です。
訪問日は2023年12月30日です。

上村城【写真位置】大きな地図を表示
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上村城へは、谷水薬師を目印にして行きます。
案内に従い脇道へ入り、川の反対側に駐車場があります。
駐車場から案内のある方へ進み、右脇へ。
紙つぶて仁王、谷水薬師堂を経て城跡に着きます。
城は高城・中城・下城に分かれています。
文面から、山城部分が高城・中城、麓が下城なのでしょう。
比高50mの山城部分と、水堀に囲まれた平城から成ります。
構造的には山口城や近江八幡城に似ています。
当時としては先進的な造りだったようです。
ただ、山城部分で高城・中城がどちらなのかがわからず。
本文中では「北側」「南側」とボカシています。
某大聖典や『熊本県の中世城跡』でも具体的な記述ナシ。
ググっても3つに分かれている事しか書かれていません。
私が決めて良ければ決めちゃいますが(*´∀`)
「北側」は土塁に囲まれ2段になっています。
上の段にはさらに分厚い土塁が南東側にあります。
西側に細い犬走があり、その先に堀切があります。
『熊本県の中世城跡』によると、その先の尾根に段が続くそうです。
「南側」は中央を南北に土塁で隔てられています。
その西側は、さらに3段になっています。
南端に土塁があり、段になった各段に連なります。
その先に二重堀切があります。
南側の尾根から城を分断しています。
南東側の尾根斜面には畝状竪堀群があります。
道も城内も整備されていますが・・・
完全攻略はやはり冬場が良さそうです。
上村城【ザックリ図】
上村城【1】
【1】駐車場出入口 上に戻る

麓城には駐車場があります。
紅葉の名所という観光地なので。
城としても歴史的に重要な所でもあります。
出入口には大きな案内図が。
その中に麓城も描かれています。
ちょっと探しますけどネ。
上村城【2】
【2】上村氏墓地 上に戻る

駐車場脇には上村氏の墓地があります。
城主様達がここで静かに眠っています。
上村城【3】
【3】案内 上に戻る

観光地なので、案内がちゃんとあります。
普段とはココが違います!
既に道がタイル張りですし。
ざらざらセメントなので、雨でも滑りません。
我が家最寄り駅の前はツルッツルなタイルです。
既にココで負けています。
上村城【4】
【4】谷水薬師の仁王門 上に戻る

薬師様の仁王門です。
ここに紙つぶて仁王像があります。
・・・見てませんが(*^^*;)
手前に川が流れ、石橋の向こう側にあります。
これってまんま城門跡?
そうとしか思えない造りです。
上村城【5】
【5】案内 上に戻る

石段を上がり、薬師堂の右脇にも案内があります。
日本七大薬師の一つと書かれています。
でもググってみると・・・
上村城【6】
【6】土塁と北側の切岸 上に戻る

薬師堂から5分程で城跡に着きます。
入口はこんな感じで、門のようになっています。
手前左側にも平坦面があります。
道は少し離れた所から徐々に近づく感じ。
平坦面の前に柵を立て、弓矢や鉄砲でお出迎え?
そんな構造に見えました。
上村城【7】
【7】北側の西側(南から) 上に戻る

説明板をじっと見た後、まずは北側へ。
外側には土塁がしっかり巡っています。
上村城【8】
【8】北側の東側(北から) 上に戻る

2段になっている上の段です。
南側にはさらに分厚い土塁があります。
これが城跡に着いた時に見た右側の切岸です。
土塁で高く見せていたんですね!
上村城【9】
【9】北側から見た南側 上に戻る

その一番高い所から反対側を見た所です。
中央を真っすぐ土塁で隔てています。
こうして見ると、まるで馬出しのようです。
普通ならもっと左側の端なのでしょうけど。
なぜ真ん中なのかが気になります。
上村城【10】
【10】北側の西側 上に戻る

北側の西側はこんな感じになっています。
これって奥へ進めってこと?
山城ばかり歩いてるとピンと来ちゃいます。
この奥にゼッタイ何かあると。
上村城【11】
【11】北側の堀切 上に戻る

その「何か」です。
通路にするためのリスク対策でしょう。
奥から振り返っているので、左側が北側の曲輪です。
上村城【12】
【12】二重堀切 上に戻る

続いて南端の二重堀切です。
北端から間を一気にすっ飛ばして南端です。
だから昔訪ねた所って書けないんですよね・・・
GPS持ってなかったので、どこで撮ったかわからず。
写真が続くとすぐ近くとしか思えませんからね。
科学の進歩に拍手です。
間を飛ばしちゃったので補足します。
南側は南北に長い段曲輪があります。
その南端に段を跨ぐ土の壁があります。
山城で土塁があったらその裏を見よ!
・・・なんて誰か言いました?的名言が閃きます。
そのココロノコトバのまま進むと、大きな堀切が。
しかも、中央に土塁を挟んだ二重堀切です。
ここはその頂なので、二重なのが少し不明瞭です。
上村城【13】
【13】堀切(手前側) 上に戻る

二重堀切は、手前側の方が深いです。
せっかくなので、当然歩きます♪
もう1本も下がって上がってしました。
軌跡にもちゃんと描けています(^o^)
上村城【14】
【14】竪堀 上に戻る

二重堀切の頂から先は、大きい方はそのまま竪堀に。
小さいほうは頂の手前までです。
頂からは方向を少し変えて竪堀があります。
上村城【15】
【15】畝状竪堀 上に戻る

頂から見ると、数本並んで見えました。
畝状竪堀ですね!
竪堀が苦手な私にもちゃんと見えました。
それだけ規模が大きいということなのでしょう。
上村城【16】
【16】段になった曲輪 上に戻る

北端から南端にすっ飛ばした間の段です。
これはこれで見応えがあります。
生えている木はモミジです。
秋には真っ赤に色づくそうで。
新緑でも映えそうに見えます。
堀切脇には、この段に沿って土塁があります。
上村城【17】
【17】城跡手前にも堀切 上に戻る

イイもん見ちゃった♪の帰り道。
来た道をそのまま下りるハズでした。
でも、何となく感じた「何かある感」。
それは、城跡手前のカーブの外側に。
そちら側が尾根っぽく見えました。
もしかしたら、で入ってみたらありました。
2014年には気付かなかった堀切です。


◆歴史◆

上村氏の城でした

上村氏は、相良氏初期の分家です。
鎌倉時代の相良長頼の四男・頼村を祖とします。
当初から上村を領地としていたようです。
しかし、史料上では10代上村高頼までほぼ登場せず。
上村周辺は三池氏や永里氏の領地と記されています。
観応の擾乱では、相良氏が「球磨郡一揆」に参加。
ということは、多良木以外は他の氏族が居たことに。
名義上は領主だった上村氏も、実効支配はまだのようです。
谷水薬師前にある上村氏墓地は1499年以降のものです。
上村氏が城を築いたか城主になったのもその頃と思われます。
年代的には、上村直頼が相良為続の子を養子に迎えた頃です。
この頃から上村氏は相良家中で目立ち始めます。上村城【相良氏と上村氏】▲ザックリ上村氏

1526年、相良義滋に味方します

相良長定が乱を起こし、相良長祗を追放。
さらに、相良長唯(義滋)・長隆兄弟が相良長定を追放。
さらにさらに、相良長唯と相良長隆が争います。
もうしっちゃかめっちゃかです。
父親が当主とは言え、相良長唯は庶子でした。
当主に推されたとは言え、有力な後ろ盾が居ませんでした。
そこで白羽の矢を立てたのが上村頼興でした。
協力を要請した当初、上村頼興は首を縦に振りませんでした。
そこで相良長唯は、上村頼興の子を後継者にすると約束。
上村頼興を味方に付け、相良長唯は相良長隆を撃破。
さらに、相良長定に味方した犬童一族を討伐。
こうして上村頼興は一気に筆頭の家臣となります。

1557年、犬童頼安が城主となります

1555年、相良晴広が、実父・上村頼興より先に没します。
相良氏の家督は12歳の相良頼房(義陽)が継ぎました。
この時はまだお爺ちゃんが健在で補佐しました。
しかし、そのお爺ちゃんも1557年に没します。
この家督相続に不満を持つ者が居ました。
上村頼興は家督争いを防ごうと色々手を打っていました。
自分亡き後を心配し、人望のあった実弟・上村長種を殺害。
同じ日に男児の孫が生まれると、早々に後継ぎを決定。
内紛が多い相良家を安定させようと苦心していました。
しかし、その死後に子ども達がやらかします。
幼い甥(相良義陽)より、成年した自分が当主に相応しい!
そう言って上村頼孝が叛旗を翻します。
しかし、相良義陽が先手を打ち上村頼堅を攻撃。
上村頼堅は逃亡先の福善寺で殺されます。
次いで上村城の上村頼孝を攻めます。
上村頼孝は久木野城に籠りますが、日向国飯野へ逃れます。
稲留長蔵も8月に岡本城を落され、同じく飯野へ逃れました。

乱後、相良義陽は犬童伝心(後の頼安)を城主にします。
犬童氏は1526年に相良長定に味方し、一族の殆どが処刑。
犬童頼安は幼いということで助命されています。
しかし、1545年には相良治頼の乱に加担。
乱の鎮圧後は各地を放浪していました。
帰参についての経緯は不明です。
しかし、この登用はアタリでした。
1559年、獺野原の戦で湯前城を攻略。
その後、水俣城主を兼任しました。
そこでも侵攻する島津軍をよく防ぎました。
敵将・新納忠元との連歌の応酬は語り草となっています。
相良義陽の没後、深水長智とともに幼主を支えました。
上村城の廃城時期は不明です。


所在地:熊本県球磨郡あさぎり町上西 GPS軌跡ダウンロードページ
熊本県の城跡/なぽの城跡巡りを表示

久米城/熊本県多良木町

久米城は、久米熊野座神社の裏山にありました。
訪問日は2023年12月30日です。

久米城【写真位置】大きな地図を表示
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城跡へは麓の久米熊野座神社から登れます。
登城路は社殿を正面から見て右側にあります。
歩き始めてすぐに道が分岐します。
お勧めは左側です。
正面は緩く、左は九十九折れですが。
最後まで迷わず歩けるのは左側です。
ココでは右側にも行けるようになっています。
上述2本と違い整備されていませんが。
そちらへ入ると、すぐに土塁のある横堀になります。
横堀から右側に下ると三重堀切が。
そのまま藪を進み続けると、大きな横堀に着きます。
分岐に戻り道を登ると、主郭に着きます。
主郭は細長い楕円形をしています。
東側には道で潰された堀切が両側に見えます。
主郭の南側の緩い尾根にも小さな段曲輪があります。
久米城【ザックリ図】▲ザックリ図
久米城【1】
【1】久米熊野座神社 上に戻る

麓にある神社です。
城跡にある和風建築って、超カッコイイ!
毛筆調の文字の大きな幟が雰囲気を盛り上げます。
この色もイイですが、白地に黒でもイイかも。
背後のテッペンが平らになっています。
この平坦面は城の曲輪です。
久米城【2】
【2】登城口 上に戻る

社殿の右側には、案内があります。
城跡はこっち!という直接的なものではないですが。
「眺めが良さげ」というのは城キチ的にピンッ!と来ます。
それにしても、語呂合わせのオ○ジ丸出しの案内・・・
こっちがこうだと、本家本元は「○野の古道」では?
まぁどうでも良い話ですが┐(´∀`)┌
久米城【3】
【3】分岐 上に戻る

さて、ココが運命の分かれ道です。
という程大袈裟なものではありませんが。
ちゃんとした道は正面と左です。
左はすぐに九十九折れでちょっとキツそう。
正面は遠回りでも緩くて楽っぽい?
・・・という印象を持ちます。
もちろん、私はそう思い正面へ進みました。
でも、こちらの道は主郭手前で道が消えます。
あとは何となく高い方へ!で進む感じです。
城キチ的な運命というと、右側は外せません。
コチラには三重堀切や大きな横堀があるので。
まぁ、それなりの試練はあるのですが。
詳しくは後程(∀`*ゞ)
久米城【4】
【4】道が消失 上に戻る

さて、楽だと思って進んだ正面の道。
整備されてるから♪と足取りは軽かったです。
でも、ハッキリした道はここで途絶えます。
みんなが通った的な踏み跡も見当たらず。
まぁ、来る人数が絶対的に少ないでしょうから。
でも、左側がゴールだと薄々誰でも気付きます。
あとは歩きやすそうな所を選んで進むだけです。
久米城【5】
【5】主郭 上に戻る

こちら側には特に虎口の形跡はナシ。
それでも、ココが主郭だとわかります。
普段行きつけの城跡と比べると天国のようです。
久米城【6】
【6】主郭から見た神社 上に戻る

上から見た神社です。
やはり城跡には日本家屋が超似合う!
位置的には城の入口は押さえています。
城主様の日頃のお住まいだったのでしょう。
久米城【7】
【7】堀切 上に戻る

主郭は土塁が無いただの平坦面です。
奥は未舗装の道がそのまま続いています。
なので、どこまでが主郭なのかと思いました。
でも、道の両側に大きくえぐれた深い溝が。
道で潰された堀切のようです。
久米城【8】
【8】主郭南側の段曲輪 上に戻る

上から見て何かありそうだと感じたのは南側です。
こちら側は緩い尾根が続いています。
下りて見ると1m弱の段差が続いています。
下から見上げると、カックンカックンしています。
久米城【9】
【9】下の方にある段 上に戻る

どこまで続いているのかと更に下へ。
いつもはキリが無いと切り上げるのですが。
ここが一番下という訳ではなさそうですが。
それでも何となくココまでっぽい所です。
それまでの段と違い、尾根を包むような形です。
久米城【10】
【10】主郭北西の虎口 上に戻る

来る時は、最後は自然地形を登りました。
でも、すぐ近くにアカラサマな道があります。
真っすぐでないクネった道は虎口ですね!
ちゃんとブラインド的に土まで盛っています。
帰りはコチラから下りました。
久米城【11】
【11】3の分岐から 上に戻る

あとは三重堀切を拝まねば!
そちらへは3の分岐から右側へ入ります。
明らかに歩いた人数が少なげな感じです。
用が無ければ好き好んで入りませんからね。
でも、こんな横堀がすぐに現れます。
久米城【12】
【12】横堀? 上に戻る

先人曰く、この先に最大の見所である横堀があるとか。
それを見て行かなければ城キチが廃る♪
なんて根性論ブチ上げるのは少数派でしょうか。
こんなになっても足元は横堀ぽさがあります。
ココはもう某大御所様を信じて突進あるのみ。
久米城【13】
【13】奥にある曲輪 上に戻る

藪を数十m進むと、雑木林に入ります。
木が増えると足元が見やすくなります。
すると、小さな段が連なっているのが見えました。
下草が無いので、かなり先まで見通せます。
久米城【14】
【14】横堀 上に戻る

先程の小さな段から下に、横一線の影が。
ココまで来ると道など一切ナシ。
歩きやすい所をテキトーに辿ります。
そして辿り着きました。
一番の見所という横堀に(*´▽`*)
久米城【15】
【15】横堀 上に戻る

保存状態は満点です。
人の手が全く入っていないので。
久米城【16】
【16】横堀 上に戻る

しかも、木々に包まれているので下草ナシ。
一番の見所だけあって、見栄えもバッチリです。
ちゃんと端から端まで堪能しました。
さっきの藪だったらどうしようかと思ってました。
久米城【17】
【17】三重堀切① 上に戻る

横堀を堪能した後、元来た分岐まで戻ります。
違うルートなど無いので、藪を掻き分けて。
分岐近くから、さらに右へと踏み跡が分岐します。
雑木林なので、歩いた跡が残りやすいんですね!
踏み跡のその先に、まずはこの小さな段が。
これも三重の1つ?かと思い撮っておきました。
結果的に当たりだったようです。
久米城【18】
【18】三重堀切② 上に戻る

2つめはすぐ下にあります。
こちらは大きめでハッキリしています。
これ位しっかりしてると、城キチとしては嬉しいです^^
久米城【19】
【19】三重堀切③ 上に戻る

一番下のはチョット下ったような。
記憶的にはそうですが、軌跡はすぐ下。
私の記憶力って鶏といい勝負なのかもです。


◆歴史◆

築城年代は不明です

『求麻外史』に相良頼宗が久米村を領したとあります。
相良頼宗は上相良氏の祖・相良頼氏の子です。
ということで、上相良氏に属する城でした。
史料上の初見は1448年です。
2月に多良木頼観・頼仙兄弟が相良堯頼を奇襲。
相良堯頼は夜陰に紛れ薩摩国牛屎院に逃れます。
その後、相良一門の永留長続が多良木兄弟を討伐。
人吉城から多良木兄弟を追い出すことに成功します。
人吉を奪還した永留長続は、相良堯頼に帰還を要請。
しかし断られ、3月に相良堯頼が没しました。
相良堯頼は16歳で没し、後継者はナシ。
そのため、5月に永留長続が相良家当主となります。
多良木兄弟は尚も反抗を続けました。
8月に挙兵したものの、相良長続により討ち取られます。
多良木兄弟が久米砦の源島某を救援に向かった時の事でした。

1559年、獺野原の戦で落城しています

獺野原の戦は丸目頼美と東長兄が争った内乱です。
詳細は割愛しますが、丸目頼美は東直政を頼りました。
東直政は、相良義陽の母に仲裁を依頼された人物です。
東直政は東長兄に湯前城を攻め落とされ討死しています。
久米城もこの時に落城しています。
東加賀が城主だったとするお兄様もおられますが・・・
東加賀は、この戦の後の城主ではないかと私は思います。
というのも、東加賀は1566年に久米治頼神社を建てています。
これは相良義陽が相良治頼の慰霊を目的に建てたものです。
同じ目的の神社を8社建てており、その中の1社です。
おそらく、当時の久米の地頭が東加賀だったからでしょう。
戦後の湯前城は東能登が城主になっています。
名前からして、親子兄弟っぽさがプンプンします。

球磨郡では東姓の人物が多数登場します。
しかし、彼らの素性がいまいちよくわからず。
東長兄は人吉奉行の1人としかわかりません。
手掛かりかもしれないのが、先程の久米治頼神社です。
創建者として「東加賀藤原頼秀」の名が伝わっています。
久米はかつて久米氏が支配したとされます。
麓の久米熊野座神社は藤原氏が何度も修復しています。
藤原氏は久米氏の子孫とされますが・・・
東氏と繋がりがあるのかもしれません。


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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

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